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第03話 散弾は曲がり角を知らない

ー/ー



 今回の目的は、処置棟から逃走した中度同期異常患者を、生きているうちに確保することだった。

 拾った違法薬と同じ系統の痕が、その患者のタグにも出ている。

 つまり、ただの暴走じゃない。

 追いつければ、`S-08` へ伸びる線をもう一本掴める。

 逃がせば、狭い保守路で何人か死ぬ。

 だから零とノアは、第七処置棟の地下保守区画を走っていた。

「結局寝れなかったな」

 零が言う。

 足元は湿った金属格子。両脇には配管。天井は低く、白かった病院の上階と違って、ここは最初から人間を通す場所に見えない。

 腰にはPX4。
 背には1301 Tactical Mod.2。

 狭い場所ほど、どちらを先に使うかで生き残り方が変わる。
 今のところは拳銃で足りる。
 そう思いたいだけかもしれないが、少なくとも最初の数秒はそうだった。

「あなた、寝る気あった?」

 半歩後ろの上、配管を渡した点検用キャットウォークからノアが返す。

 今日はBRX1ではない。肩にかけているのはPMX、手には小型端末。保守路の狭さに合わせた近距離支援の装備だ。

「あった」

「嘘」

「半分」

「便利な言葉」

 零は鼻で笑った。

 警報灯が赤く点滅している。

 さっきまで朱璃の解剖準備室で、湾岸ルートと旧小児研究棟の話をしていたはずだった。そこへ処置棟の地下から警報が上がった。更新前の患者が処置列から外れ、そのまま保守路へ消えたらしい。

 しかも逃げた患者のタグにも、焼けた痕があった。

 `QBX-NULL`

 朱璃は「あら、当たりが増えた」と心底嬉しそうだった。

 あの顔を見た時点で、ろくでもないことだけは確定している。

「前方三十メートル」

 ノアが端末を閉じる。

「動いてる。患者ひとり、巻き込まれ二」

「二?」

「保守員。逃げきれてない」

「最悪だな」

「いつも通り」

 曲がり角の先から、何かがぶつかる音がした。

 鉄。
 肉。
 配管へ身体を叩きつける嫌な音。

 零は腰のPX4へ触れたまま、一歩だけ速度を落とす。

 視界に青白い線が走る。

 三秒先。

 喉。
 右肘。
 足元の工具箱。
 壁面バルブ。

 四本。

 もう一本。

 ここまでは追える。

「見えた?」

 ノアが聞く。

「見えた。嫌な方」

「いつも通り」

 曲がる。

 そこでようやく、患者が見えた。

 作業服姿の男だったものが、格子床の上で警備員の死体へまたがっていた。

 胸から腹にかけて服が裂け、内側から何か別の筋肉が押し広げたみたいに脈打っている。右肩は不自然に腫れ上がり、骨が皮膚の下で向きを間違えたまま浮いていた。顎は片側だけ裂けて耳の下まで開き、歯列と歯茎が半分むき出しになっている。

 左目は零を見ていた。
 右目は、その少し先を見ていた。

 その手前で、処置棟の警備員がひとり、格子床へ仰向けに倒れている。

 黒い防刃ベストの胸元は裂け、喉は何かに食いちぎられたみたいに開いていた。制圧盾は少し先で潰れ、スタンロッドだけが排水溝へ半分落ちている。

 さらに壁際には保守員が二人いた。

 ひとりは足を押さえ、ひとりは配管の根元で動けずにいる。どちらも、今この瞬間にこちらが来なければ次はない顔だ。

 零は短く息を吐いた。

「……最初の一人は間に合わねえ。伏せろ!」

 化け物が振り向く。

 その動きと同時に、未来線が増える。

 喉。
 膝。
 保守員の肩。
 配管の継ぎ目。

 五本。

 六本目が滲む前に、零は撃った。

 PX4が火を吹く。

 一発目は右膝。
 二発目は喉。
 三発目は左の眼窩。

 肉が裂け、血と黒ずんだ液が飛ぶ。

 だが止まらない。

 膝を撃ち抜かれても倒れず、喉を潰されても鳴くだけで、眼窩へ入った弾も頭蓋の奥まで届いた手応えがない。

「……効きが浅い」

「貫通はしてる」

 ノアが即座に言う。

「でも停止しない」

 化け物が踏み込む。

 速い、というより抜ける。

 蹴った、の次にはもう半歩近い。
 肩が先に来て、腰が遅れる。
 噛みつきの結果だけが先に届いて、首の振りがあとから追いつく。

 違法同期薬(先走り)の入口。
 数秒先の反応だけを雑に前借りした、壊れ方だった。

「うわ」

 零が本気で嫌そうに言う。

「その動き方、ほんと気持ち悪いな」

「賛成」

 零は四発目を足元の工具箱へ、五発目を配管継ぎ目の少し上へ入れる。

 工具箱が跳ね、継ぎ目が鳴る。

 そのせいで化け物の突進線が半歩だけずれる。

「走れ!」

 保守員のひとりがようやく這って逃げる。

 もうひとりは立てない。

「ノア!」

「左肩」

 ノアのPMXが乾いた音を立てる。

 化け物の左肩口へ弾が入る。
 肩の肉が大きく裂ける。

 だが、その裂け目の奥で見えたのは骨ではなかった。

 骨の周りへ巻きつく、灰色がかった硬い繊維の束だ。

「うわ」

 零がもう一度言う。

「最悪の中でも上の方だな」

「いつもより素直」

「今は褒めるな」

 零はPX4をさらに二発。

 六発目は右肘。
 七発目は顎の継ぎ目。

 腕がぶれる。
 顎が半分砕ける。

 それでも化け物は止まらない。

 撃たれたあとに、次の一歩だけが遅れて来る。
 倒れたはずなのに、噛みつく結果だけが先に残る。

 しかもこの保守路は狭すぎた。

 ハンドガンで穴を増やしているだけでは、巻き込まれた保守員ごと詰む。

「だめだ」

 零が言う。

「拳銃じゃ足りねえ。壊す」

「賛成」

 零は一歩引き、背中のスリングを引いた。

 ベレッタ1301 Tactical Mod.2。

 黒い機関部が腹の前へ滑ってくる。

 ノアがそれを見て、ほんの少しだけ眉を上げた。

「雑になった」

「骨ごと折るだけだ」

「だいたい同じ」

 零は答えず、ショットガンの銃口を曲がり角の縁へ向ける。

 化け物がこちらへ飛び込む。

 その右脚の付け根へ一発。

 轟音。

 散弾が肉と硬質化した繊維をまとめて裂き、膝下がありえない方向へ折れ曲がる。

 それでも上半身だけで前へ来る。

「しつこいな!」

 二発目。

 今度は右肩。

 膨れ上がっていた肩塊が弾け、腕が配管へ叩きつけられる。

 保守路全体が揺れた。

 零は反動が戻り切る前に、銃を腹の前で斜めに返す。

 左手がサイドシェルキャリアから散弾を四本まとめて引き抜く。

 二本、二本。

 指の間で揃えたまま、ローディングポートへ一息に押し込む。

 乾いた装填音が四つ、間を置かず続いた。

 クアッドリロード。

 ノアが保守路の上から見下ろして、小さく言う。

「見せたがり」

「見せてない。間に合わせてる」

「今のは半分見せてた」

「うるせえ」

 化け物が配管を蹴って跳ねる。

 まだ生きている。

 右腕は半分ちぎれ、右脚は使いものにならないはずなのに、それでも残った部位だけで前へ出る。
 裂けた胸の奥が、呼吸とも違う脈動で明滅していた。

「嫌いだな、この壊れ方」

 零が吐く。

「人間が残りすぎてる」

「朱璃みたいなこと言うな」

「最悪だ」

 化け物が保守員へ向き直る。

 零の視界に、今度はもっと短い線が走った。

 一秒半。

 保守員の首。
 その後ろの非常照明。
 化け物の胸の裂け目。

 そこだけが、不自然に未来線を引いている。

 ここだ。

 零は走る。

 格子床を蹴り、工具箱を踏み、配管の縁へ片足をかける。

 狭い通路の中で、身体を横へ滑らせるように入る。

 ノアの声が落ちる。

「右、半歩」

 零は従う。

 化け物の掴みが空を切る。
 噛みつきの結果が零の頬の横を抜け、首の振りはそのあとに来た。

 すれ違いざま、1301の銃床で顎を殴る。

 仰け反った胸の裂け目へ、ほとんど押し当てる距離で一発。

 轟音。

 裂け目の奥で脈打っていたものが、まとめて吹き飛ぶ。

 化け物の身体がその場で止まった。

 遅れて、膝から落ちる。

 今度こそ動かない。

 保守路に残ったのは、散弾の反響と、焦げた血の匂いと、震えた保守員の呼吸だけだった。

「……終わったか」

 零が息を吐く。

 ノアはキャットウォークから軽く飛び降り、着地と同時に患者のタグを拾い上げた。

「まだ」

「何がまだだ」

「保守員ひとり、失神。ひとり、足に裂傷。あとあなた」

「私?」

 ノアが顎で零の左腕を示す。

 見ると、配管の縁で擦ったらしい切り傷が一本走っていた。

「浅い」

「でも血は出てる」

「お前たまに母親みたいなこと言うよな」

「褒めてないなら訂正して」

「じゃあ保護者」

「もっと嫌」

 零は笑いながら、保守員のそばへしゃがみ込んだ。

「立てるか」

「……っ、はい」

 若い保守員だった。

 顔色は悪いが、意識はある。

 もうひとりは壁へもたれたまま、まだ息を整えている。

 零はそちらへも視線をやる。

「二人とも生きてるな」

「今のところは」

「その言い方やめろ」

「便利だから」

 ノアは患者のタグ裏を見ている。

 その指が止まった。

「あった」

 零も立ち上がり、横から覗き込む。

 焼けた認証部の裏。
 焦げた基板の縁に、細い刻印。

 `QBX-NULL`

 その下に別コード。

 今度は `Y-09` ではない。

 `S-08`

「増えたな」

「うん」

「嫌な方向に」

「いつも通り」

 ノアはタグを小型端末へ載せる。

 照合ログが走る。

 正規履歴は切れている。
 維持薬不足。
 違法投与。
 搬送待ちのまま失踪。

 その末尾にだけ、また古い照会痕が残っていた。

 `TRANSFER QUERY / S-08`

「Yだけじゃないのか」

「たぶん、追ってるのは一人じゃない」

「それとも」

 零がタグを睨む。

「一人を探るために、他もまとめて掘ってる」

 ノアは少しだけ黙った。

「そっち」

「断定早いな」

「嫌な予感はたいてい当たる」

「この街でそれ言うの、だいぶ悲観的」

「あなたが楽観的な時は、だいたい外れる」

「反論できねえ」

 保守員のひとりが、震えた声で言う。

「あの人、さっきまで普通だったんです」

 零はそちらを見る。

「急に?」

「更新室から戻ってきて、急に変になって……薬を、薬をもう一本打ったら、余計に」

 零とノアの視線が合う。

 更新室。
 維持薬。
 違法投与。
 そして `QBX-NULL` 。

 線はもう完全に、表の病院の中を通っている。

「零」

「なんだ」

「これ、第七処置棟の中でもう一回起きる」

「起きてほしくない予言だな」

「でも当たりそう」

「知ってる」

 その時、保守路の奥の非常スピーカーがぶつりと鳴った。

 ノイズ。
 短いハウリング。

 そして一瞬だけ、誰かの笑い声みたいなものが混じる。

 高くも低くもない。
 性別の分からない、楽しそうな声。

 零の眉が寄る。

「今の」

「聞こえた」

「設備不良?」

「この街でそれ言うの、だいぶ楽観的」

 ノアが言う。

 零は小さく息を吐いた。

「便利に使うな、その台詞」

「使いやすいから」

 保守路の赤い警報灯が、また一度だけ明滅する。

 短い。
 だが妙に気持ち悪い点滅だった。

 誰かが向こう側から、見て、測って、笑っている。
 そんな感じがする。

 零はショットガンの機関部を軽く叩く。

 まだ熱い。
 さっきの轟音の余韻が、手のひらに残っている。

「第七処置棟へ戻る」

「賛成」

「朱璃、喜ぶだろうな」

「確実に」

「最悪」

「それもいつも通り」

 零は保守員の肩を貸し、ノアはもうひとりの腕を引く。

 二人で一人ずつ抱えて、狭い保守路を戻り始める。

 地味な軽度異常から始まったはずの今夜は、もう十分に面倒な形へ育っていた。

 `QBX-NULL`
 `Y-09`
 `S-08`

 番号だけが増える。

 だがその増え方は、たぶん偶然じゃない。

 そして偶然じゃない時、この街はたいてい、もっと大きな嫌なものを腹の中に抱えている。



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 今回の目的は、処置棟から逃走した中度同期異常患者を、生きているうちに確保することだった。
 拾った違法薬と同じ系統の痕が、その患者のタグにも出ている。
 つまり、ただの暴走じゃない。
 追いつければ、`S-08` へ伸びる線をもう一本掴める。
 逃がせば、狭い保守路で何人か死ぬ。
 だから零とノアは、第七処置棟の地下保守区画を走っていた。
「結局寝れなかったな」
 零が言う。
 足元は湿った金属格子。両脇には配管。天井は低く、白かった病院の上階と違って、ここは最初から人間を通す場所に見えない。
 腰にはPX4。
 背には1301 Tactical Mod.2。
 狭い場所ほど、どちらを先に使うかで生き残り方が変わる。
 今のところは拳銃で足りる。
 そう思いたいだけかもしれないが、少なくとも最初の数秒はそうだった。
「あなた、寝る気あった?」
 半歩後ろの上、配管を渡した点検用キャットウォークからノアが返す。
 今日はBRX1ではない。肩にかけているのはPMX、手には小型端末。保守路の狭さに合わせた近距離支援の装備だ。
「あった」
「嘘」
「半分」
「便利な言葉」
 零は鼻で笑った。
 警報灯が赤く点滅している。
 さっきまで朱璃の解剖準備室で、湾岸ルートと旧小児研究棟の話をしていたはずだった。そこへ処置棟の地下から警報が上がった。更新前の患者が処置列から外れ、そのまま保守路へ消えたらしい。
 しかも逃げた患者のタグにも、焼けた痕があった。
 `QBX-NULL`
 朱璃は「あら、当たりが増えた」と心底嬉しそうだった。
 あの顔を見た時点で、ろくでもないことだけは確定している。
「前方三十メートル」
 ノアが端末を閉じる。
「動いてる。患者ひとり、巻き込まれ二」
「二?」
「保守員。逃げきれてない」
「最悪だな」
「いつも通り」
 曲がり角の先から、何かがぶつかる音がした。
 鉄。
 肉。
 配管へ身体を叩きつける嫌な音。
 零は腰のPX4へ触れたまま、一歩だけ速度を落とす。
 視界に青白い線が走る。
 三秒先。
 喉。
 右肘。
 足元の工具箱。
 壁面バルブ。
 四本。
 もう一本。
 ここまでは追える。
「見えた?」
 ノアが聞く。
「見えた。嫌な方」
「いつも通り」
 曲がる。
 そこでようやく、患者が見えた。
 作業服姿の男だったものが、格子床の上で警備員の死体へまたがっていた。
 胸から腹にかけて服が裂け、内側から何か別の筋肉が押し広げたみたいに脈打っている。右肩は不自然に腫れ上がり、骨が皮膚の下で向きを間違えたまま浮いていた。顎は片側だけ裂けて耳の下まで開き、歯列と歯茎が半分むき出しになっている。
 左目は零を見ていた。
 右目は、その少し先を見ていた。
 その手前で、処置棟の警備員がひとり、格子床へ仰向けに倒れている。
 黒い防刃ベストの胸元は裂け、喉は何かに食いちぎられたみたいに開いていた。制圧盾は少し先で潰れ、スタンロッドだけが排水溝へ半分落ちている。
 さらに壁際には保守員が二人いた。
 ひとりは足を押さえ、ひとりは配管の根元で動けずにいる。どちらも、今この瞬間にこちらが来なければ次はない顔だ。
 零は短く息を吐いた。
「……最初の一人は間に合わねえ。伏せろ!」
 化け物が振り向く。
 その動きと同時に、未来線が増える。
 喉。
 膝。
 保守員の肩。
 配管の継ぎ目。
 五本。
 六本目が滲む前に、零は撃った。
 PX4が火を吹く。
 一発目は右膝。
 二発目は喉。
 三発目は左の眼窩。
 肉が裂け、血と黒ずんだ液が飛ぶ。
 だが止まらない。
 膝を撃ち抜かれても倒れず、喉を潰されても鳴くだけで、眼窩へ入った弾も頭蓋の奥まで届いた手応えがない。
「……効きが浅い」
「貫通はしてる」
 ノアが即座に言う。
「でも停止しない」
 化け物が踏み込む。
 速い、というより抜ける。
 蹴った、の次にはもう半歩近い。
 肩が先に来て、腰が遅れる。
 噛みつきの結果だけが先に届いて、首の振りがあとから追いつく。
 違法同期薬《先走り》の入口。
 数秒先の反応だけを雑に前借りした、壊れ方だった。
「うわ」
 零が本気で嫌そうに言う。
「その動き方、ほんと気持ち悪いな」
「賛成」
 零は四発目を足元の工具箱へ、五発目を配管継ぎ目の少し上へ入れる。
 工具箱が跳ね、継ぎ目が鳴る。
 そのせいで化け物の突進線が半歩だけずれる。
「走れ!」
 保守員のひとりがようやく這って逃げる。
 もうひとりは立てない。
「ノア!」
「左肩」
 ノアのPMXが乾いた音を立てる。
 化け物の左肩口へ弾が入る。
 肩の肉が大きく裂ける。
 だが、その裂け目の奥で見えたのは骨ではなかった。
 骨の周りへ巻きつく、灰色がかった硬い繊維の束だ。
「うわ」
 零がもう一度言う。
「最悪の中でも上の方だな」
「いつもより素直」
「今は褒めるな」
 零はPX4をさらに二発。
 六発目は右肘。
 七発目は顎の継ぎ目。
 腕がぶれる。
 顎が半分砕ける。
 それでも化け物は止まらない。
 撃たれたあとに、次の一歩だけが遅れて来る。
 倒れたはずなのに、噛みつく結果だけが先に残る。
 しかもこの保守路は狭すぎた。
 ハンドガンで穴を増やしているだけでは、巻き込まれた保守員ごと詰む。
「だめだ」
 零が言う。
「拳銃じゃ足りねえ。壊す」
「賛成」
 零は一歩引き、背中のスリングを引いた。
 ベレッタ1301 Tactical Mod.2。
 黒い機関部が腹の前へ滑ってくる。
 ノアがそれを見て、ほんの少しだけ眉を上げた。
「雑になった」
「骨ごと折るだけだ」
「だいたい同じ」
 零は答えず、ショットガンの銃口を曲がり角の縁へ向ける。
 化け物がこちらへ飛び込む。
 その右脚の付け根へ一発。
 轟音。
 散弾が肉と硬質化した繊維をまとめて裂き、膝下がありえない方向へ折れ曲がる。
 それでも上半身だけで前へ来る。
「しつこいな!」
 二発目。
 今度は右肩。
 膨れ上がっていた肩塊が弾け、腕が配管へ叩きつけられる。
 保守路全体が揺れた。
 零は反動が戻り切る前に、銃を腹の前で斜めに返す。
 左手がサイドシェルキャリアから散弾を四本まとめて引き抜く。
 二本、二本。
 指の間で揃えたまま、ローディングポートへ一息に押し込む。
 乾いた装填音が四つ、間を置かず続いた。
 クアッドリロード。
 ノアが保守路の上から見下ろして、小さく言う。
「見せたがり」
「見せてない。間に合わせてる」
「今のは半分見せてた」
「うるせえ」
 化け物が配管を蹴って跳ねる。
 まだ生きている。
 右腕は半分ちぎれ、右脚は使いものにならないはずなのに、それでも残った部位だけで前へ出る。
 裂けた胸の奥が、呼吸とも違う脈動で明滅していた。
「嫌いだな、この壊れ方」
 零が吐く。
「人間が残りすぎてる」
「朱璃みたいなこと言うな」
「最悪だ」
 化け物が保守員へ向き直る。
 零の視界に、今度はもっと短い線が走った。
 一秒半。
 保守員の首。
 その後ろの非常照明。
 化け物の胸の裂け目。
 そこだけが、不自然に未来線を引いている。
 ここだ。
 零は走る。
 格子床を蹴り、工具箱を踏み、配管の縁へ片足をかける。
 狭い通路の中で、身体を横へ滑らせるように入る。
 ノアの声が落ちる。
「右、半歩」
 零は従う。
 化け物の掴みが空を切る。
 噛みつきの結果が零の頬の横を抜け、首の振りはそのあとに来た。
 すれ違いざま、1301の銃床で顎を殴る。
 仰け反った胸の裂け目へ、ほとんど押し当てる距離で一発。
 轟音。
 裂け目の奥で脈打っていたものが、まとめて吹き飛ぶ。
 化け物の身体がその場で止まった。
 遅れて、膝から落ちる。
 今度こそ動かない。
 保守路に残ったのは、散弾の反響と、焦げた血の匂いと、震えた保守員の呼吸だけだった。
「……終わったか」
 零が息を吐く。
 ノアはキャットウォークから軽く飛び降り、着地と同時に患者のタグを拾い上げた。
「まだ」
「何がまだだ」
「保守員ひとり、失神。ひとり、足に裂傷。あとあなた」
「私?」
 ノアが顎で零の左腕を示す。
 見ると、配管の縁で擦ったらしい切り傷が一本走っていた。
「浅い」
「でも血は出てる」
「お前たまに母親みたいなこと言うよな」
「褒めてないなら訂正して」
「じゃあ保護者」
「もっと嫌」
 零は笑いながら、保守員のそばへしゃがみ込んだ。
「立てるか」
「……っ、はい」
 若い保守員だった。
 顔色は悪いが、意識はある。
 もうひとりは壁へもたれたまま、まだ息を整えている。
 零はそちらへも視線をやる。
「二人とも生きてるな」
「今のところは」
「その言い方やめろ」
「便利だから」
 ノアは患者のタグ裏を見ている。
 その指が止まった。
「あった」
 零も立ち上がり、横から覗き込む。
 焼けた認証部の裏。
 焦げた基板の縁に、細い刻印。
 `QBX-NULL`
 その下に別コード。
 今度は `Y-09` ではない。
 `S-08`
「増えたな」
「うん」
「嫌な方向に」
「いつも通り」
 ノアはタグを小型端末へ載せる。
 照合ログが走る。
 正規履歴は切れている。
 維持薬不足。
 違法投与。
 搬送待ちのまま失踪。
 その末尾にだけ、また古い照会痕が残っていた。
 `TRANSFER QUERY / S-08`
「Yだけじゃないのか」
「たぶん、追ってるのは一人じゃない」
「それとも」
 零がタグを睨む。
「一人を探るために、他もまとめて掘ってる」
 ノアは少しだけ黙った。
「そっち」
「断定早いな」
「嫌な予感はたいてい当たる」
「この街でそれ言うの、だいぶ悲観的」
「あなたが楽観的な時は、だいたい外れる」
「反論できねえ」
 保守員のひとりが、震えた声で言う。
「あの人、さっきまで普通だったんです」
 零はそちらを見る。
「急に?」
「更新室から戻ってきて、急に変になって……薬を、薬をもう一本打ったら、余計に」
 零とノアの視線が合う。
 更新室。
 維持薬。
 違法投与。
 そして `QBX-NULL` 。
 線はもう完全に、表の病院の中を通っている。
「零」
「なんだ」
「これ、第七処置棟の中でもう一回起きる」
「起きてほしくない予言だな」
「でも当たりそう」
「知ってる」
 その時、保守路の奥の非常スピーカーがぶつりと鳴った。
 ノイズ。
 短いハウリング。
 そして一瞬だけ、誰かの笑い声みたいなものが混じる。
 高くも低くもない。
 性別の分からない、楽しそうな声。
 零の眉が寄る。
「今の」
「聞こえた」
「設備不良?」
「この街でそれ言うの、だいぶ楽観的」
 ノアが言う。
 零は小さく息を吐いた。
「便利に使うな、その台詞」
「使いやすいから」
 保守路の赤い警報灯が、また一度だけ明滅する。
 短い。
 だが妙に気持ち悪い点滅だった。
 誰かが向こう側から、見て、測って、笑っている。
 そんな感じがする。
 零はショットガンの機関部を軽く叩く。
 まだ熱い。
 さっきの轟音の余韻が、手のひらに残っている。
「第七処置棟へ戻る」
「賛成」
「朱璃、喜ぶだろうな」
「確実に」
「最悪」
「それもいつも通り」
 零は保守員の肩を貸し、ノアはもうひとりの腕を引く。
 二人で一人ずつ抱えて、狭い保守路を戻り始める。
 地味な軽度異常から始まったはずの今夜は、もう十分に面倒な形へ育っていた。
 `QBX-NULL`
 `Y-09`
 `S-08`
 番号だけが増える。
 だがその増え方は、たぶん偶然じゃない。
 そして偶然じゃない時、この街はたいてい、もっと大きな嫌なものを腹の中に抱えている。