第7話
ー/ー 卒業式の朝は、よく晴れた。
海からの風は穏やかで、空気の中に春の匂いが混じっていた。志保は早めに学校に着いて、体育館を最終確認した。
昨日並べた椅子は、そのままだった。演台の白い布は、風もないのに少しだけ揺れていた。
陽向は濃紺のスーツを着てきた。少し袖が余っていたが、背筋が伸びていて、いつもよりずっと大人びて見えた。
お母さんと、祖父母と、叔母夫婦が来ていた。賑やかという感じではなく、でも確かな温もりがあった。小さな体育館の保護者席が、久しぶりに人の熱で温まった。
式が始まる前、陽向が志保のそばに来た。
「先生、緊張してます」
「どのくらい」
「すごく」
志保は笑った。
「わたしも少しね」
「え、先生も?」
「うん。でも大丈夫。陽向くんのことを、みんな応援してるから」
陽向はこくんと頷いて、自分の席に戻った。その背中を見ながら、志保は深く息を吸った。今日で最後だ、と思った。あの背中を先生として見るのは、今日で最後だ。
式は、静かに進んだ。
桑原の式辞は短かった。この学校の歴史と、地域への感謝と、陽向への言葉が、抑えた声で語られた。
「この学校の最後の卒業生として、あなたはこれから長い旅に出ます」という一文で、桑原の声がわずかに揺れた。来賓の挨拶もあった。外から差し込む春の光が、体育館の床を明るく染めていた。
卒業証書授与の時間になった。
陽向が立ち上がり、演台に向かって歩いた。ゆっくりと、しかし迷いのない足取りで。練習したとおりに足を止め、志保と向き合った。
「宮本陽向」
志保が名前を呼ぶと、陽向は真っ直ぐに顔を上げた。
「はい」
その声は、思いのほかよく通った。体育館の隅まで届くような、澄んだ声だった。
証書を手渡しながら、志保はこらえようとして、こらえきれなかった。目の端が熱くなった。こんなことは初めてだった。
九年間で何十人もの子どもたちに証書を渡してきたのに、こんなふうに泣きそうになったのは初めてだった。
壁のセンサーが、今この瞬間も記録しているのだろう、と、ふと思った。
志保の感情も、陽向の緊張も、後ろで静かに泣いているお母さんの喜びも。形にならないまま、この壁の中に積み重なっていく。
陽向は受け取った証書を両手で抱え、一度深くお辞儀をした。それから、顔を上げて、志保を見た。
その目が、少しだけ赤かった。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
おすすめ作品を読み込み中です…
作者の他の作品
この作者の他作品はありません。
この作品と似た作品
似た傾向の作品は見つかりませんでした。
この作品を読んだ人が読んでいる作品
読者の傾向からおすすめできる作品がありませんでした。
おすすめ作品は現在準備中です。
おすすめ作品の取得に失敗しました。時間をおいて再度お試しください。