番外編:来るなと言ったのに 後編
ー/ー言い方は同じだった。温度のない声だった。でも今度は少し違った。怒っていた、のではなく。呆れていた、のでもなく。
ただ、そういうことだ、と言っていた。
世界にはそういう場所があり、そういうものがいて、知らないまま踏み込んだ人間がどうなるかを、少女はずっと見てきた。と、語った。これは驚きでも怒りでもない。ただの、事実だった。
「……ごめんなさい」
陽菜が言った。
少女は答えなかった。もう陽菜を見ていなかった。また拝所の奥を見ていた。
男が電話を終えて戻ってきた。「水、持ってるか」と陽菜に聞いた。
持っていなかった。男がリュックからペットボトルを出した。「飲め」と言った。
陽菜は飲もうか一瞬躊躇したが、受け取って飲んだ。
水が喉を通った瞬間、少しだけ自分に戻れた気がした。
少女が男に向かって古い言葉で何かを言った。陽菜には意味が分からなかった。男が短く答えた。また、言葉が少なかった。でも二人の間では全部伝わっているようだった。
陽菜はその二人の会話の中に入れなかった。
入れる場所ではなかった。
自分は今、全然違う世界の端っこに迷い込んでいる、と陽菜は思った。この二人が毎日生きている世界の、入り口の手前に、たまたま落ちてしまった。それだけのことだった。
少女が一度だけ振り返って、陽菜を見た。
何かを言いかけて、やめた。
代わりに短く言うと、そばにあったススキの葉を軽くリボンの様に結ぶや、陽菜に持たせた。
「これはサングヮーっていうお守り。これがあればちゃんと帰れる。鳥居を出たら、すぐ帰れ。振り返らんよ」
それだけだった。
鳥居を出た。振り返らなかった。
葉で出来たサングヮーにはどんな力があるか陽菜には分からなかったが、握っていた手は一段と温かい気がして安心できた。
振り返ったら何かが変わる気がした。何がどう変わるのかは分からなかった。でも振り返らなかった。
アパートまでの道を陽菜は一人で歩いていた。男が送ると言ったが断った。一人になりたかった。
夜の住宅地は静かだった。街灯が足元を照らしていた。コンビニの明かりが見えた。人がいた。車が通った。いつもと同じ夜だった。
でも同じではなかった。
肩に触れた感触がまだ残っていた。指の形が、まだそこにある気がした。五本、長すぎる指の形が。
あの瞬間、自分の名前を忘れた。
ここがどこか分からなくなった。
自分が誰なのか分からなくなった。
あのまま、どうなっていたのか。あと五秒遅かったら、とあの少女は言った。戻ってこられなかった、と言った。それはどういう意味なのか。体が、なのか。それとも。
考えるのをやめた。
考えてはいけない気がした。
アパートに着いた。鍵を開けて、中に入った。電気をつけた。いつもの部屋だった。教科書が積まれていて、ペットボトルが転がっていて、洗っていない食器がシンクにあった。
陽菜はシャワーを浴びた。肩を、何度も洗った。
翌朝、大学への道を歩いていた。
いつも通る道の途中に、小さな拝所があった。石垣の向こうに古い香炉が見える、住宅地に溶け込んだ小さな聖域だった。毎日その前を通っていた。一度も止まったことはなかった。
今日は足が止まった。
なぜ止まったのか分からなかった。
陽菜は香炉を見た。古い石でできた香炉だった。誰かが供えたのか、枯れかけた花が一束置いてあった。
陽菜は小さく言った。
「……お邪魔します」
誰かに聞かれたら恥ずかしかった。
でも言わずにはいられなかった。そうしないといけない気がした。
なぜそう思うのか、説明できなかった。昨夜のことを誰かに話したとしても、信じてもらえないだろう。陽菜自身も、昨夜のことを本当に信じているのかどうか、まだよく分からなかった。
でも言った。
それだけは、した。
* * *
一週間後、学食で男と偶然会った。
向こうが先に気づいた。軽く目礼した。陽菜も目礼した。
男がトレーを持って陽菜の隣のテーブルに座った。自然に、でも意図的に、陽菜の隣を選んだような気がした。
しばらく黙って食べた。
陽菜は何を聞けばいいか分からなかった。聞きたいことは山ほどあった。あの少女は何者なのか。あの場所に何がいたのか。あの二人はどういう関係なのか。なぜあの夜、あの拝所に来たのか。
でも聞けなかった。
答えてもらえない気がしたし、答えてもらえたとしても、自分がその答えを受け取れる気がしなかった。
代わりに、一つだけ聞いた。
「あの夜、助けてくれてありがとうございました」
男が少し間を置いた。
「俺は何もしてない。助けたのはナビだから」
ナビ、という名前だということを陽菜はその時初めて知った。
「ナビさんに、よろしく伝えてください」
「伝える」男が言った。「でも、たぶん喜ばないと思う」
「分かってます」
陽菜は笑った。男も少し笑った。
それだけだった。
それ以上は聞かなかった。
聞かなくていいことが、この世界にはある。
見えないものが、この世界にはある。
陽菜はそれを知った。知ったからといって何かが変わるわけではなかった。明日も普通に大学に行って、普通に授業を受けて、普通に生きていく。
ただ、拝所の前を通る時だけは言う。
「お邪魔します」と。
なぜかは、もう説明しなくていいと思っていた。
ただ、そういうことだ、と言っていた。
世界にはそういう場所があり、そういうものがいて、知らないまま踏み込んだ人間がどうなるかを、少女はずっと見てきた。と、語った。これは驚きでも怒りでもない。ただの、事実だった。
「……ごめんなさい」
陽菜が言った。
少女は答えなかった。もう陽菜を見ていなかった。また拝所の奥を見ていた。
男が電話を終えて戻ってきた。「水、持ってるか」と陽菜に聞いた。
持っていなかった。男がリュックからペットボトルを出した。「飲め」と言った。
陽菜は飲もうか一瞬躊躇したが、受け取って飲んだ。
水が喉を通った瞬間、少しだけ自分に戻れた気がした。
少女が男に向かって古い言葉で何かを言った。陽菜には意味が分からなかった。男が短く答えた。また、言葉が少なかった。でも二人の間では全部伝わっているようだった。
陽菜はその二人の会話の中に入れなかった。
入れる場所ではなかった。
自分は今、全然違う世界の端っこに迷い込んでいる、と陽菜は思った。この二人が毎日生きている世界の、入り口の手前に、たまたま落ちてしまった。それだけのことだった。
少女が一度だけ振り返って、陽菜を見た。
何かを言いかけて、やめた。
代わりに短く言うと、そばにあったススキの葉を軽くリボンの様に結ぶや、陽菜に持たせた。
「これはサングヮーっていうお守り。これがあればちゃんと帰れる。鳥居を出たら、すぐ帰れ。振り返らんよ」
それだけだった。
鳥居を出た。振り返らなかった。
葉で出来たサングヮーにはどんな力があるか陽菜には分からなかったが、握っていた手は一段と温かい気がして安心できた。
振り返ったら何かが変わる気がした。何がどう変わるのかは分からなかった。でも振り返らなかった。
アパートまでの道を陽菜は一人で歩いていた。男が送ると言ったが断った。一人になりたかった。
夜の住宅地は静かだった。街灯が足元を照らしていた。コンビニの明かりが見えた。人がいた。車が通った。いつもと同じ夜だった。
でも同じではなかった。
肩に触れた感触がまだ残っていた。指の形が、まだそこにある気がした。五本、長すぎる指の形が。
あの瞬間、自分の名前を忘れた。
ここがどこか分からなくなった。
自分が誰なのか分からなくなった。
あのまま、どうなっていたのか。あと五秒遅かったら、とあの少女は言った。戻ってこられなかった、と言った。それはどういう意味なのか。体が、なのか。それとも。
考えるのをやめた。
考えてはいけない気がした。
アパートに着いた。鍵を開けて、中に入った。電気をつけた。いつもの部屋だった。教科書が積まれていて、ペットボトルが転がっていて、洗っていない食器がシンクにあった。
陽菜はシャワーを浴びた。肩を、何度も洗った。
翌朝、大学への道を歩いていた。
いつも通る道の途中に、小さな拝所があった。石垣の向こうに古い香炉が見える、住宅地に溶け込んだ小さな聖域だった。毎日その前を通っていた。一度も止まったことはなかった。
今日は足が止まった。
なぜ止まったのか分からなかった。
陽菜は香炉を見た。古い石でできた香炉だった。誰かが供えたのか、枯れかけた花が一束置いてあった。
陽菜は小さく言った。
「……お邪魔します」
誰かに聞かれたら恥ずかしかった。
でも言わずにはいられなかった。そうしないといけない気がした。
なぜそう思うのか、説明できなかった。昨夜のことを誰かに話したとしても、信じてもらえないだろう。陽菜自身も、昨夜のことを本当に信じているのかどうか、まだよく分からなかった。
でも言った。
それだけは、した。
* * *
一週間後、学食で男と偶然会った。
向こうが先に気づいた。軽く目礼した。陽菜も目礼した。
男がトレーを持って陽菜の隣のテーブルに座った。自然に、でも意図的に、陽菜の隣を選んだような気がした。
しばらく黙って食べた。
陽菜は何を聞けばいいか分からなかった。聞きたいことは山ほどあった。あの少女は何者なのか。あの場所に何がいたのか。あの二人はどういう関係なのか。なぜあの夜、あの拝所に来たのか。
でも聞けなかった。
答えてもらえない気がしたし、答えてもらえたとしても、自分がその答えを受け取れる気がしなかった。
代わりに、一つだけ聞いた。
「あの夜、助けてくれてありがとうございました」
男が少し間を置いた。
「俺は何もしてない。助けたのはナビだから」
ナビ、という名前だということを陽菜はその時初めて知った。
「ナビさんに、よろしく伝えてください」
「伝える」男が言った。「でも、たぶん喜ばないと思う」
「分かってます」
陽菜は笑った。男も少し笑った。
それだけだった。
それ以上は聞かなかった。
聞かなくていいことが、この世界にはある。
見えないものが、この世界にはある。
陽菜はそれを知った。知ったからといって何かが変わるわけではなかった。明日も普通に大学に行って、普通に授業を受けて、普通に生きていく。
ただ、拝所の前を通る時だけは言う。
「お邪魔します」と。
なぜかは、もう説明しなくていいと思っていた。
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