番外編:来るなと言ったのに 前編

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入るなという場所がある。

 松田陽菜(まつだ ひな)がその拝所に足を踏み入れたのは、深夜の二時を少し回った頃だった。

 本当は友人と来るはずだった。「沖縄の心霊スポット巡り」と銘打ったグループコミュニティに十二人が既読をつけ、実際に集まったのは三人で、その三人も那覇の居酒屋で飲み始めた途端に来る気をなくした。陽菜一人が残った。
 来てしまったのは意地だった。
 地元出身の友人が「あそこは夜に行くな」と言っていた。理由を聞いたら「なんかそういう場所だから」という答えが返ってきた。陽菜はそれを笑った。そういう言い伝えはどこにでもある。怖い話が好きな人が作り上げた、ただの噂だ。

 鳥居の前に立った時、ポケットにあった通信機種で写真を撮ろうとした。
カメラが起動しなかった。
画面が真っ暗なまま、フリーズしていた。再起動しても同じだった。電池残量は七十八パーセントあったのに。
気のせいだと陽菜は思ったがどうしてこんな時にと少し苛立った。機種が古い所為だ。

 初っ端から納得がいかないまま鳥居をくぐぐる。
 石畳が続く。両側に木が密集していた。夜の拝所は思ったより暗く、通信機種のライトだけは動いたがカメラは動かなかった。

 最初に気づいたのは音だった。
 虫の声が、消えていた。 沖縄の夜は虫がうるさい。那覇の住宅地でさえ、窓を開ければ虫の声が聞こえる。それが、鳥居をくぐった途端に消えた。完全に、一切、何も聞こえなくなった。

 次に気づいたのは温度だった。
 八月の真夜中なのに、冷えていた。肌が粟立つような冷えではなかった。もっと静かな冷えだった。空気そのものが温度を失っていくような、じわじわとした冷えだった。

 それでも陽菜は歩いた。
 拝所の中心に香炉があった。古い石造りの香炉だった。その前に、誰かが立っていた。

 人だと思った。
 夜中に拝所で祈っている人がいるのだろう、と思った。深夜に参拝する習慣が沖縄にはあると聞いたことがあった。だから最初の三秒は、そう思っていた。
 四秒目に、おかしいと気づいた。
 その人影は、香炉を向いていなかった。
 こちらを向いていた。
 陽菜がどこから入ってきたかを知っていたかのように、最初から、こちらを向いていた。

 顔が見えなかった。暗かったからではなかった。スマホのライトを向けても、顔のあるべき場所が、ただ暗かった。光が、届かなかった。
 陽菜は一歩下がった。
 それが動いた。
 人の動き方ではなかった。足が地面についていなかった。関節が逆についているような、重力の方向が違うような、なめらかすぎる動き方で、真っ直ぐこちらに向かってきた。真っ直ぐ、一切の迷いなく、陽菜だけを目指して。

 叫ぼうとした。
 喉が動かなかった。
 走ろうとした。
 足が、地面に縫いつけられたように動かなかった。

 それが手を伸ばした。

 指の形をしていた。五本、あった。でも長すぎた。人の指ではなかった。それが陽菜の肩に、触れた。

 その瞬間、陽菜は自分の名前を忘れた。
 名前だけではなかった。ここがどこか分からなくなった。今が何時か分からなくなった。自分が誰なのか、なぜここにいるのか、何のために生まれたのか、何も分からなくなった。頭の中が、音もなく、静かに、空になっていった。
 何かが、陽菜の中に入ろうとしていた。
 押し広げるように、こじ開けるように、陽菜という人間の中に入ろうとしていた。

炎が来た。

 白い煙が一瞬で刃になり、それを薙いだ。
 断末魔のような音がした。人の声ではなかった。でも確かに何かが終わる音だった。切り裂かれる音でも、砕ける音でもなかった。存在が、消える音だった。
 陽菜の肩から、何かが引き剥がされた。
 引き剥がされた、という感覚だけがあった。痛みではなかった。痛みより根本的な何かが、抜けた感触だった。

 視界が戻り最初に見えたのは、煙だった。
 白い煙が空中に漂っていた。線香の煙だった。でも普通の煙ではなかった。形があった。刃の輪郭を保ったまま、ゆっくりと霧散していく途中だった。 
 その煙の向こうに、少女が立っていた。
 小柄だった。現代の服を着て黒髪をなびかせていた。年齢は陽菜より幼い様に見えた。

 でも目が違った。真っ黒な目だった。何かをはっきりと見ている目で、陽菜ではなく、陽菜の背後を見ていた。まだそこに何かがいるかのように、一切の油断なく、見ていた。

 少女が振り返った。 陽菜を見た。一秒、沈黙があった。

「……馬鹿じゃないの」

 温度のない声だった。
 怒りではなかった。心配でも、憐れみでも、安堵でもなかった。ただ、事実を告げる声だった。感情を排した声ではなく、最初から感情を持ち込む必要がないと判断した声だった。

「ここが夜に来ていい場所だと思ってたわけ?」

 疑問形だったが、答えを求めていなかった。
 陽菜は何も言えなかった。名前を思い出していた。自分の名前が、松田陽菜だということを思い出していた。でもそれ以外のことが、まだうまく戻ってこなかった。

「あと五秒遅かったら、あんたはもう戻ってこられなかった。助からんってことさ」

 それだけ言って、少女は陽菜から視線を外した。また背後を見た。まだ何かを警戒していた。
 少し離れた場所に、もう一人いた。
 男だった。陽菜より少し年上に見える、大学生くらいの男だった。リュックを背負って、陽菜を見ていた。目が合った。

「大丈夫か」

 声が静かだった。落ち着いていた。少女とは違う、柔らかい声だった。でも陽菜には分かった。この人も、全然大丈夫だとは思っていない。状況を把握していて、次に何をすべきかを考えている目だった。

「足、動くか」

 膝が震えていたが試しに動かしてみたら、動いた。男が近づいてきて、陽菜の腕を支えてくれた。
 少女がまだ拝所の奥を見ていた。ヒラウコーを手に持っていた。平たく束になった沖縄の線香、三本がひとつになったそれを、まだ手放さずにいた。

「……逃げた」

 少女が言った。

「でも完全には終わってない。ここの気が乱れてるから、また来る可能性がある。今夜中に清めないといけない」
「できるか」男が聞いた。
「今の状態じゃ無理」少女が言った。「霊力が足りない。追い払っただけ。祓えてない」

 男が少女を見た。少女が男を見た。言葉がなかった。
 でも何かが伝わった。陽菜には見えない、聞こえない何かが、二人の間で完結した。二人はずっと前からこういうことをやっていて、言葉がなくても次に何をすべきか分かっている、そういう顔だった。

「知り合いに連絡する」男が答えるや少女が頷いた。
 男が通信機種を出し、どこかに電話をかけ始めた。陽菜には関係ない電話だった。
 少女が陽菜を見た。

「怖い物知らずで来るからこうなるさ」


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入るなという場所がある。
 松田陽菜(まつだ ひな)がその拝所に足を踏み入れたのは、深夜の二時を少し回った頃だった。
 本当は友人と来るはずだった。「沖縄の心霊スポット巡り」と銘打ったグループコミュニティに十二人が既読をつけ、実際に集まったのは三人で、その三人も那覇の居酒屋で飲み始めた途端に来る気をなくした。陽菜一人が残った。
 来てしまったのは意地だった。
 地元出身の友人が「あそこは夜に行くな」と言っていた。理由を聞いたら「なんかそういう場所だから」という答えが返ってきた。陽菜はそれを笑った。そういう言い伝えはどこにでもある。怖い話が好きな人が作り上げた、ただの噂だ。
 鳥居の前に立った時、ポケットにあった通信機種で写真を撮ろうとした。
カメラが起動しなかった。
画面が真っ暗なまま、フリーズしていた。再起動しても同じだった。電池残量は七十八パーセントあったのに。
気のせいだと陽菜は思ったがどうしてこんな時にと少し苛立った。機種が古い所為だ。
 初っ端から納得がいかないまま鳥居をくぐぐる。
 石畳が続く。両側に木が密集していた。夜の拝所は思ったより暗く、通信機種のライトだけは動いたがカメラは動かなかった。
 最初に気づいたのは音だった。
 虫の声が、消えていた。 沖縄の夜は虫がうるさい。那覇の住宅地でさえ、窓を開ければ虫の声が聞こえる。それが、鳥居をくぐった途端に消えた。完全に、一切、何も聞こえなくなった。
 次に気づいたのは温度だった。
 八月の真夜中なのに、冷えていた。肌が粟立つような冷えではなかった。もっと静かな冷えだった。空気そのものが温度を失っていくような、じわじわとした冷えだった。
 それでも陽菜は歩いた。
 拝所の中心に香炉があった。古い石造りの香炉だった。その前に、誰かが立っていた。
 人だと思った。
 夜中に拝所で祈っている人がいるのだろう、と思った。深夜に参拝する習慣が沖縄にはあると聞いたことがあった。だから最初の三秒は、そう思っていた。
 四秒目に、おかしいと気づいた。
 その人影は、香炉を向いていなかった。
 こちらを向いていた。
 陽菜がどこから入ってきたかを知っていたかのように、最初から、こちらを向いていた。
 顔が見えなかった。暗かったからではなかった。スマホのライトを向けても、顔のあるべき場所が、ただ暗かった。光が、届かなかった。
 陽菜は一歩下がった。
 それが動いた。
 人の動き方ではなかった。足が地面についていなかった。関節が逆についているような、重力の方向が違うような、なめらかすぎる動き方で、真っ直ぐこちらに向かってきた。真っ直ぐ、一切の迷いなく、陽菜だけを目指して。
 叫ぼうとした。
 喉が動かなかった。
 走ろうとした。
 足が、地面に縫いつけられたように動かなかった。
 それが手を伸ばした。
 指の形をしていた。五本、あった。でも長すぎた。人の指ではなかった。それが陽菜の肩に、触れた。
 その瞬間、陽菜は自分の名前を忘れた。
 名前だけではなかった。ここがどこか分からなくなった。今が何時か分からなくなった。自分が誰なのか、なぜここにいるのか、何のために生まれたのか、何も分からなくなった。頭の中が、音もなく、静かに、空になっていった。
 何かが、陽菜の中に入ろうとしていた。
 押し広げるように、こじ開けるように、陽菜という人間の中に入ろうとしていた。
炎が来た。
 白い煙が一瞬で刃になり、それを薙いだ。
 断末魔のような音がした。人の声ではなかった。でも確かに何かが終わる音だった。切り裂かれる音でも、砕ける音でもなかった。存在が、消える音だった。
 陽菜の肩から、何かが引き剥がされた。
 引き剥がされた、という感覚だけがあった。痛みではなかった。痛みより根本的な何かが、抜けた感触だった。
 視界が戻り最初に見えたのは、煙だった。
 白い煙が空中に漂っていた。線香の煙だった。でも普通の煙ではなかった。形があった。刃の輪郭を保ったまま、ゆっくりと霧散していく途中だった。 
 その煙の向こうに、少女が立っていた。
 小柄だった。現代の服を着て黒髪をなびかせていた。年齢は陽菜より幼い様に見えた。
 でも目が違った。真っ黒な目だった。何かをはっきりと見ている目で、陽菜ではなく、陽菜の背後を見ていた。まだそこに何かがいるかのように、一切の油断なく、見ていた。
 少女が振り返った。 陽菜を見た。一秒、沈黙があった。
「……馬鹿じゃないの」
 温度のない声だった。
 怒りではなかった。心配でも、憐れみでも、安堵でもなかった。ただ、事実を告げる声だった。感情を排した声ではなく、最初から感情を持ち込む必要がないと判断した声だった。
「ここが夜に来ていい場所だと思ってたわけ?」
 疑問形だったが、答えを求めていなかった。
 陽菜は何も言えなかった。名前を思い出していた。自分の名前が、松田陽菜だということを思い出していた。でもそれ以外のことが、まだうまく戻ってこなかった。
「あと五秒遅かったら、あんたはもう戻ってこられなかった。助からんってことさ」
 それだけ言って、少女は陽菜から視線を外した。また背後を見た。まだ何かを警戒していた。
 少し離れた場所に、もう一人いた。
 男だった。陽菜より少し年上に見える、大学生くらいの男だった。リュックを背負って、陽菜を見ていた。目が合った。
「大丈夫か」
 声が静かだった。落ち着いていた。少女とは違う、柔らかい声だった。でも陽菜には分かった。この人も、全然大丈夫だとは思っていない。状況を把握していて、次に何をすべきかを考えている目だった。
「足、動くか」
 膝が震えていたが試しに動かしてみたら、動いた。男が近づいてきて、陽菜の腕を支えてくれた。
 少女がまだ拝所の奥を見ていた。ヒラウコーを手に持っていた。平たく束になった沖縄の線香、三本がひとつになったそれを、まだ手放さずにいた。
「……逃げた」
 少女が言った。
「でも完全には終わってない。ここの気が乱れてるから、また来る可能性がある。今夜中に清めないといけない」
「できるか」男が聞いた。
「今の状態じゃ無理」少女が言った。「霊力が足りない。追い払っただけ。祓えてない」
 男が少女を見た。少女が男を見た。言葉がなかった。
 でも何かが伝わった。陽菜には見えない、聞こえない何かが、二人の間で完結した。二人はずっと前からこういうことをやっていて、言葉がなくても次に何をすべきか分かっている、そういう顔だった。
「知り合いに連絡する」男が答えるや少女が頷いた。
 男が通信機種を出し、どこかに電話をかけ始めた。陽菜には関係ない電話だった。
 少女が陽菜を見た。
「怖い物知らずで来るからこうなるさ」