第14話 屍石
ー/ー 身に纏っていた靄が晴れた魔物はよろめきながらもきょろきょろと辺りを見回す。先程まで毛を逆立てて殺気を漲らせ、唸り声を上げていたとは思えないほどの大人しさに一行の何人かは戸惑いながらも武器を下ろす。
無力化がされたわけではないが、明らかに気配が変わった。言葉にしなくても誰もが理解できるほどの変貌ぶり。逆立っていた毛はへたり、それによって膨らんでいたように見えていた尾も今は垂れ下がり、それどころか後ろ足の間にくるりと入り込みそうな勢いで丸まっている。
「な、なんだってんだ……?」
呆気に取られているガルドが警戒態勢を解いて頭をぼり、と掻く。
「辺境伯、あの魔物は一体何が……」
「……分からない。が、イヴリン様はなにか原因にお心当たりがあるようだ」
頬に負った裂傷から流れる血を手の甲で拭うヴィンセントは魔物の様子に注視する。いつまた凶暴化するとも知れない魔物を前にして完全に警戒を解くことはできないし、そんな事をしてはいざという時にイヴリンの盾にすらなれない。
「お前達、警戒を解くな。気を抜きすぎだ」
「は、はっ!」
ヴィンセントの矢のような叱責に兵士の全員が武器を構え直す。
鎧の金属のこすれ合う音や物々しい空気を察知したのか、辺りを見回していた魔物がびくりと体を丸め、きゅう、と弱々しい声を上げる。
「ご、ご主人様……!」
コリンがイヴリンの元へ駆け寄り、右腕のローブの袖をまくる。肘から先に何本もの裂傷が走り、未だに指先に血が伝ってぽたぽたとイヴリンの足元に滴り落ちていた。
「ち、治療をしないと……」
「大丈夫。この程度ならすぐ治せるよ」
怪我をしていない左手でコリンの頭を優しく撫でたイヴリンは、ゆっくりと魔物に向き直り、じっと魔物を観察した。
所在なく怯えている。それが率直な感想だった。今自分がどこにいるのかわからずに、必死に周囲の情報を集めている。丸まって後ろ足の間に潜り込んでいる尾、垂れ下がった耳、必要以上に低く下げられている頭。
どこからどう見ても、こちらが上だとわかっている仕草。
「イヴリン様、あの魔物は……在りようを歪められていると仰っていましたが……それに、額に魔石とは……」
「……ただの魔石ではないようです」
「……と、言いますと?」
「──屍石を魔石に転用しています。まともな倫理観のある魔女の仕業ではないでしょう」
イヴリンの言葉にその場の全員の表情が凍りつく。
屍石。発生原理は未だに詳しく解明されていないものの、マナの伝導率の高い鉱石や宝石に魔素と呼ばれる穢れたマナが蓄積されて変質したものだと言われている。
魔物の縄張りや戦場跡地などの多くの血が流れたり、死の匂いの色濃い場所に発生し、徐々にその大きさを成長させていく。まるで呼吸をするかのように溜め込んだ魔素を吐き出し、そして周囲のマナを吸い上げる。魔素は周囲の環境を悪化させ、魔物を凶暴化させることもあるという報告もなされている危険なもの。
この屍石は人の手ではどうしようもないために、魔女や強い浄化の力を持つ魔法使いによる浄化作業が必須となっている。
「か、屍石を魔石になど……可能なのですか?」
「……私も初めて見ます。屍石を魔石に、など考えたことがありません。そして、そのような魔石を体内に撃ち込まれているせいで、あの子は自我を失っていました。……おそらくは、あのように大人しい子なのでしょう」
イヴリンの言葉にヴィンセントは再び魔物に視線を向ける。
体格からは想像できないほど気の弱い魔物。不安と恐怖から体を小さくしてうろうろとしている仔犬。
ヴィンセントの目にはそう映った。
「ってことはこいつはもう大丈夫なのか?」
ガルドがイヴリンとヴィンセントに歩み寄る。その数歩後ろをボウガンを構えた冒険者が警戒心を顕にした表情でついてきていた。
「いえ、いつまた屍石の影響で自我を失うか分かりません。それに、あのような魔石を生み出した魔女の魔力の影響をいつまた受けるかも分かりませんので」
「てことは、討伐か」
こくり、とイヴリンが頷く。その頷きに答えるようにガルドが背後の冒険者に視線を向けると、冒険者も心得たと言わんばかりに頷いてボウガンを構えて狙いを定める。
引き金にかけられた指が引かれるその瞬間。
突如として、再び魔物の周囲に黒い靄が立ち込めた。
「──っ!」
その靄に焦りを見せた冒険者が引き金を引く。矢は確かに魔物に突き刺さり、魔物が悲鳴を上げた。急所を外していたようで、痛みに暴れている魔物を見て再び全員が臨戦態勢に入る。
だが、魔物の行動は一行の予想だにしないものだった。
どしん、と鈍い音を立てて巨木に頭を打ち付ける。そのあまりの勢いに巨木が揺れた。頭だけではなく、首や胴も自ら打ち付け、もがき苦しむように巨木の幹を掻きむしる。威嚇から来る唸り声ではなく、苦しみにもがく叫び声があまりにも悲痛で顔をしかめる者までいた。
それと同時に、その場の全員が理解した。
周囲の木々に刻まれていた不揃いな爪痕の原因。それがどのようにつけられていたか。
今まさにそれを実演している。
あの爪痕は縄張りの誇示ではなく、苦しみの証。
「あ……あぁ……」
イヴリンのローブの袖をぎゅっと握りしめてコリンは小さく震える。
魔物の様子が異常だから、不安なのではない。
魔物の苦しみ方が異常だから、怖いのではない。
──やだよ、やだよ!
──いたいよ、くるしいよ。
──たすけて、たすけて……!
コリンの耳に、確かに届く助けを求める声。
それはかつて、自分も発していた言葉とまるで同じ。
その言葉を耳にしておいて、死なせてしまうなんてできなくて。
ふらり、とコリンが魔物に歩み寄る。
「コリン……?」
「コリン君!危険だ!」
「おいおちび!」
コリンの行動を諌めるような三者の声が響く。けれどコリンには足を止める選択肢がなかった。
あの子は、ぼくと同じ。
巨木に体をぶつけて苦しむ魔物に歩み寄り、そろりと腕を伸ばす。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ……」
コリンの声に振り返った魔物の目に、ぎらぎらと狂気が滲んでいる。
あ。と思った瞬間には、コリンの眼前に魔物の爪が迫っていた。
ご主人様に直してもらった顔、また傷つけちゃうな。心配させちゃうな。
でも、ごめんない、ご主人様。この子、ぼくと同じなんです。助けたいんです。
そんな事を考えながら爪を受け入れようとしていたコリンの背後から駆け寄ってくる足音。コリンの顔に爪がめり込もうとしたその瞬間に、コリンは背後からの足音に襟首を強く引かれる。
後ろに倒れ込むコリンの視界に飛び込んできたのは。
コリンを庇って魔物の爪に襲われるイヴリンの姿だった。
無力化がされたわけではないが、明らかに気配が変わった。言葉にしなくても誰もが理解できるほどの変貌ぶり。逆立っていた毛はへたり、それによって膨らんでいたように見えていた尾も今は垂れ下がり、それどころか後ろ足の間にくるりと入り込みそうな勢いで丸まっている。
「な、なんだってんだ……?」
呆気に取られているガルドが警戒態勢を解いて頭をぼり、と掻く。
「辺境伯、あの魔物は一体何が……」
「……分からない。が、イヴリン様はなにか原因にお心当たりがあるようだ」
頬に負った裂傷から流れる血を手の甲で拭うヴィンセントは魔物の様子に注視する。いつまた凶暴化するとも知れない魔物を前にして完全に警戒を解くことはできないし、そんな事をしてはいざという時にイヴリンの盾にすらなれない。
「お前達、警戒を解くな。気を抜きすぎだ」
「は、はっ!」
ヴィンセントの矢のような叱責に兵士の全員が武器を構え直す。
鎧の金属のこすれ合う音や物々しい空気を察知したのか、辺りを見回していた魔物がびくりと体を丸め、きゅう、と弱々しい声を上げる。
「ご、ご主人様……!」
コリンがイヴリンの元へ駆け寄り、右腕のローブの袖をまくる。肘から先に何本もの裂傷が走り、未だに指先に血が伝ってぽたぽたとイヴリンの足元に滴り落ちていた。
「ち、治療をしないと……」
「大丈夫。この程度ならすぐ治せるよ」
怪我をしていない左手でコリンの頭を優しく撫でたイヴリンは、ゆっくりと魔物に向き直り、じっと魔物を観察した。
所在なく怯えている。それが率直な感想だった。今自分がどこにいるのかわからずに、必死に周囲の情報を集めている。丸まって後ろ足の間に潜り込んでいる尾、垂れ下がった耳、必要以上に低く下げられている頭。
どこからどう見ても、こちらが上だとわかっている仕草。
「イヴリン様、あの魔物は……在りようを歪められていると仰っていましたが……それに、額に魔石とは……」
「……ただの魔石ではないようです」
「……と、言いますと?」
「──屍石を魔石に転用しています。まともな倫理観のある魔女の仕業ではないでしょう」
イヴリンの言葉にその場の全員の表情が凍りつく。
屍石。発生原理は未だに詳しく解明されていないものの、マナの伝導率の高い鉱石や宝石に魔素と呼ばれる穢れたマナが蓄積されて変質したものだと言われている。
魔物の縄張りや戦場跡地などの多くの血が流れたり、死の匂いの色濃い場所に発生し、徐々にその大きさを成長させていく。まるで呼吸をするかのように溜め込んだ魔素を吐き出し、そして周囲のマナを吸い上げる。魔素は周囲の環境を悪化させ、魔物を凶暴化させることもあるという報告もなされている危険なもの。
この屍石は人の手ではどうしようもないために、魔女や強い浄化の力を持つ魔法使いによる浄化作業が必須となっている。
「か、屍石を魔石になど……可能なのですか?」
「……私も初めて見ます。屍石を魔石に、など考えたことがありません。そして、そのような魔石を体内に撃ち込まれているせいで、あの子は自我を失っていました。……おそらくは、あのように大人しい子なのでしょう」
イヴリンの言葉にヴィンセントは再び魔物に視線を向ける。
体格からは想像できないほど気の弱い魔物。不安と恐怖から体を小さくしてうろうろとしている仔犬。
ヴィンセントの目にはそう映った。
「ってことはこいつはもう大丈夫なのか?」
ガルドがイヴリンとヴィンセントに歩み寄る。その数歩後ろをボウガンを構えた冒険者が警戒心を顕にした表情でついてきていた。
「いえ、いつまた屍石の影響で自我を失うか分かりません。それに、あのような魔石を生み出した魔女の魔力の影響をいつまた受けるかも分かりませんので」
「てことは、討伐か」
こくり、とイヴリンが頷く。その頷きに答えるようにガルドが背後の冒険者に視線を向けると、冒険者も心得たと言わんばかりに頷いてボウガンを構えて狙いを定める。
引き金にかけられた指が引かれるその瞬間。
突如として、再び魔物の周囲に黒い靄が立ち込めた。
「──っ!」
その靄に焦りを見せた冒険者が引き金を引く。矢は確かに魔物に突き刺さり、魔物が悲鳴を上げた。急所を外していたようで、痛みに暴れている魔物を見て再び全員が臨戦態勢に入る。
だが、魔物の行動は一行の予想だにしないものだった。
どしん、と鈍い音を立てて巨木に頭を打ち付ける。そのあまりの勢いに巨木が揺れた。頭だけではなく、首や胴も自ら打ち付け、もがき苦しむように巨木の幹を掻きむしる。威嚇から来る唸り声ではなく、苦しみにもがく叫び声があまりにも悲痛で顔をしかめる者までいた。
それと同時に、その場の全員が理解した。
周囲の木々に刻まれていた不揃いな爪痕の原因。それがどのようにつけられていたか。
今まさにそれを実演している。
あの爪痕は縄張りの誇示ではなく、苦しみの証。
「あ……あぁ……」
イヴリンのローブの袖をぎゅっと握りしめてコリンは小さく震える。
魔物の様子が異常だから、不安なのではない。
魔物の苦しみ方が異常だから、怖いのではない。
──やだよ、やだよ!
──いたいよ、くるしいよ。
──たすけて、たすけて……!
コリンの耳に、確かに届く助けを求める声。
それはかつて、自分も発していた言葉とまるで同じ。
その言葉を耳にしておいて、死なせてしまうなんてできなくて。
ふらり、とコリンが魔物に歩み寄る。
「コリン……?」
「コリン君!危険だ!」
「おいおちび!」
コリンの行動を諌めるような三者の声が響く。けれどコリンには足を止める選択肢がなかった。
あの子は、ぼくと同じ。
巨木に体をぶつけて苦しむ魔物に歩み寄り、そろりと腕を伸ばす。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ……」
コリンの声に振り返った魔物の目に、ぎらぎらと狂気が滲んでいる。
あ。と思った瞬間には、コリンの眼前に魔物の爪が迫っていた。
ご主人様に直してもらった顔、また傷つけちゃうな。心配させちゃうな。
でも、ごめんない、ご主人様。この子、ぼくと同じなんです。助けたいんです。
そんな事を考えながら爪を受け入れようとしていたコリンの背後から駆け寄ってくる足音。コリンの顔に爪がめり込もうとしたその瞬間に、コリンは背後からの足音に襟首を強く引かれる。
後ろに倒れ込むコリンの視界に飛び込んできたのは。
コリンを庇って魔物の爪に襲われるイヴリンの姿だった。
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