191. 天国への階段

ー/ー



 シャトルはゆっくりと高度を下げていった。

 レスター三世は、窓に顔を押し付けるようにして、眼下に広がる光景を凝視する。六十年の人生で培ってきた、あらゆる常識が音を立てて崩れ落ちていくのを感じながら。

 真ん丸い湖が、朝日を受けて輝いていた。それはまるで大地に穿たれた巨大な青い瞳のようだった。

 エメラルドとサファイアを溶かし合わせたような、この世のものとは思えない澄んだ青。その表面には朝日の光が細かく砕け散り、無数の星が瞬いているかのような錯覚を覚える。

 その湖の中、(ほとり)のそばに――。

(なんだ、あれは?!)

 レスター三世は、心臓が一瞬止まったかと思った。

 蝋燭(ろうそく)のような、純白の巨塔が(そび)え立っているのだ。そんな構造物いまだかつて見たこともない。

 細く、優美に、どこまでも天を目指すように。まるで大地から生えた一本の白い剣が、雲を貫いて神々の領域に届こうとしているかのようだ。その表面は朝日を受けてキラッと輝きを放った。

 そして湖畔には、小さなタワー群が林立している。

 いや、小さいと思ったのは、あの白い巨塔と比較しての錯覚に過ぎなかった。

 目を凝らしてよく見れば、一つ一つがレスター三世の王宮よりも遥かに高い。五階建ての王宮が、子供の積み木に見えるほどの高さだ。それが十や二十ではない。数え切れないほど建ち並び、まるで銀色の森のようになっているのだ。

 そのタワーの間には連絡通路が張り巡らされ、人々が行きかっているのが見える。そう、地上ではなく高層を人々は歩いているのだ。

 ――これが、街だというのか。

 レスター三世の知る街とは、まるで違っていた。

 彼の知る「街」とは、丸い城壁に囲まれた、低層の建築群のことだった。石畳の道と、木造の家々。煙突から立ち上る煙と、市場で交わされる威勢のいい声。大地の上で人々の営みが織りなす場所。

 しかし目の前に広がるこの光景は――。

 大地の匂いがしない。

 まるで、神々の住まう天界そのものだった。

 レスター三世は、不意に涙が滲んでいることに気づいた。悲しいのでも、嬉しいのでもない。ただ、あまりにも圧倒的な光景を前にして、人間の感情では処理しきれない何かが溢れ出してきたのだ。

 六十年生きてきて、こんな経験は初めてだった。


       ◇


 シャトルは、ぐんぐんと降りていく。

 湖面が近づき、タワー群が大きくなっていく。近づけば近づくほど、そのスケールの異常さが際立っていった。

 やがて白い巨塔のそば、水上に設けられた、平らなスペースが見えてきた。

 離着陸場(ヘリポート)と呼ばれる場所だと、後で知ることになる。

 逆噴射のエンジンが轟音を響かせた。

 機体が震え、ゆっくりと降下していく。窓の外を流れる景色が緩やかになり――。

 ガタン。

 軽い衝撃と共に、シャトルは着陸した。

 着いた――。

 しかしその瞬間、レスター三世には『本当に降りてよいのか?』という疑問に(さいな)まれる。

 降りたらもうこの現実に付き合わねばならない。何とかシャトルに乗る前に戻る方法があるのではないか? と、心が叫んでいる。

 しかし、現実は変わらない。降機を渋ったとして何が変わるだろうか?

「ようこそ、我が大アルカナ王国へ」

 ミーシャが満面の笑みを浮かべ、ドアを開いた。

 その声は相変わらず穏やかで、まるで友人を自宅に招くような気軽さがあった。しかしレスター三世には分かっていた。この女性は、自分たちが今どれほどの衝撃を受けているか、すべて承知の上でこの笑顔を浮かべているのだと。

(『いけず』め……)

 レスター三世はギリッと奥歯を鳴らした。

 外の空気が、ふわりと流れ込んでくる。

 清涼で、どこか甘い香りがした。

 花の香りだ。しかし、王宮の庭園で嗅いだどの花の香りとも異なる、天上の花園を思わせるかぐわしさだった。

 見れば湖畔には花壇が連なっており、色とりどりの花が咲き誇っている。赤、青、黄、紫……。見たこともない色の花々が、まるで虹を砕いて散りばめたかのように咲き乱れていた。

 レスター三世は、深く息を吸い込んだ。

 この空気を、この香りを、肺の奥まで取り込み――なんとか一歩踏み出す勇気をもらいたかった。


       ◇


 よろよろとタラップを降り、傍らの白い巨塔を見上げてみる――。

「はぁっ!?」

 言葉を、失った。

 それは神が大地に突き立てた剣だった。

 上空からは優美な蝋燭(ろうそく)のように見えていたが、地上から見上げればそれは全く印象が異なっている。

 遥か彼方、雲を突き抜けるほどの高さまで、まっすぐに天を目指して(そび)えている。その白い表面は朝日を受けて輝き、眩しいほどだった。

 レスター三世は、首が痛くなるほど見上げ続ける。

 しかし、頂上が見えない。ただ、青空の中に溶けていくように、白い輪郭がぼやけて良く見えない。まるで天国への階段が、人間の目には見えない高みまで続いているかのように。



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 シャトルはゆっくりと高度を下げていった。
 レスター三世は、窓に顔を押し付けるようにして、眼下に広がる光景を凝視する。六十年の人生で培ってきた、あらゆる常識が音を立てて崩れ落ちていくのを感じながら。
 真ん丸い湖が、朝日を受けて輝いていた。それはまるで大地に穿たれた巨大な青い瞳のようだった。
 エメラルドとサファイアを溶かし合わせたような、この世のものとは思えない澄んだ青。その表面には朝日の光が細かく砕け散り、無数の星が瞬いているかのような錯覚を覚える。
 その湖の中、|畔《ほとり》のそばに――。
(なんだ、あれは?!)
 レスター三世は、心臓が一瞬止まったかと思った。
 |蝋燭《ろうそく》のような、純白の巨塔が|聳《そび》え立っているのだ。そんな構造物いまだかつて見たこともない。
 細く、優美に、どこまでも天を目指すように。まるで大地から生えた一本の白い剣が、雲を貫いて神々の領域に届こうとしているかのようだ。その表面は朝日を受けてキラッと輝きを放った。
 そして湖畔には、小さなタワー群が林立している。
 いや、小さいと思ったのは、あの白い巨塔と比較しての錯覚に過ぎなかった。
 目を凝らしてよく見れば、一つ一つがレスター三世の王宮よりも遥かに高い。五階建ての王宮が、子供の積み木に見えるほどの高さだ。それが十や二十ではない。数え切れないほど建ち並び、まるで銀色の森のようになっているのだ。
 そのタワーの間には連絡通路が張り巡らされ、人々が行きかっているのが見える。そう、地上ではなく高層を人々は歩いているのだ。
 ――これが、街だというのか。
 レスター三世の知る街とは、まるで違っていた。
 彼の知る「街」とは、丸い城壁に囲まれた、低層の建築群のことだった。石畳の道と、木造の家々。煙突から立ち上る煙と、市場で交わされる威勢のいい声。大地の上で人々の営みが織りなす場所。
 しかし目の前に広がるこの光景は――。
 大地の匂いがしない。
 まるで、神々の住まう天界そのものだった。
 レスター三世は、不意に涙が滲んでいることに気づいた。悲しいのでも、嬉しいのでもない。ただ、あまりにも圧倒的な光景を前にして、人間の感情では処理しきれない何かが溢れ出してきたのだ。
 六十年生きてきて、こんな経験は初めてだった。
       ◇
 シャトルは、ぐんぐんと降りていく。
 湖面が近づき、タワー群が大きくなっていく。近づけば近づくほど、そのスケールの異常さが際立っていった。
 やがて白い巨塔のそば、水上に設けられた、平らなスペースが見えてきた。
 |離着陸場《ヘリポート》と呼ばれる場所だと、後で知ることになる。
 逆噴射のエンジンが轟音を響かせた。
 機体が震え、ゆっくりと降下していく。窓の外を流れる景色が緩やかになり――。
 ガタン。
 軽い衝撃と共に、シャトルは着陸した。
 着いた――。
 しかしその瞬間、レスター三世には『本当に降りてよいのか?』という疑問に|苛《さいな》まれる。
 降りたらもうこの現実に付き合わねばならない。何とかシャトルに乗る前に戻る方法があるのではないか? と、心が叫んでいる。
 しかし、現実は変わらない。降機を渋ったとして何が変わるだろうか?
「ようこそ、我が大アルカナ王国へ」
 ミーシャが満面の笑みを浮かべ、ドアを開いた。
 その声は相変わらず穏やかで、まるで友人を自宅に招くような気軽さがあった。しかしレスター三世には分かっていた。この女性は、自分たちが今どれほどの衝撃を受けているか、すべて承知の上でこの笑顔を浮かべているのだと。
(『いけず』め……)
 レスター三世はギリッと奥歯を鳴らした。
 外の空気が、ふわりと流れ込んでくる。
 清涼で、どこか甘い香りがした。
 花の香りだ。しかし、王宮の庭園で嗅いだどの花の香りとも異なる、天上の花園を思わせるかぐわしさだった。
 見れば湖畔には花壇が連なっており、色とりどりの花が咲き誇っている。赤、青、黄、紫……。見たこともない色の花々が、まるで虹を砕いて散りばめたかのように咲き乱れていた。
 レスター三世は、深く息を吸い込んだ。
 この空気を、この香りを、肺の奥まで取り込み――なんとか一歩踏み出す勇気をもらいたかった。
       ◇
 よろよろとタラップを降り、傍らの白い巨塔を見上げてみる――。
「はぁっ!?」
 言葉を、失った。
 それは神が大地に突き立てた剣だった。
 上空からは優美な|蝋燭《ろうそく》のように見えていたが、地上から見上げればそれは全く印象が異なっている。
 遥か彼方、雲を突き抜けるほどの高さまで、まっすぐに天を目指して|聳《そび》えている。その白い表面は朝日を受けて輝き、眩しいほどだった。
 レスター三世は、首が痛くなるほど見上げ続ける。
 しかし、頂上が見えない。ただ、青空の中に溶けていくように、白い輪郭がぼやけて良く見えない。まるで天国への階段が、人間の目には見えない高みまで続いているかのように。