190. 社会秩序の崩壊
ー/ー ピシュゥゥゥン……。
不意に、エンジンが止まった。
音速の何倍もの速度で飛んでいたはずのシャトルは、まるで眠りにつくように静かになり、緩やかな放物線を描きながら成層圏を滑空していく。真空に近い外部では風切り音すら生まれず、船内には穏やかな管弦楽だけが、まるで天上の音楽のように響いている。
レスター三世は窓の外を見下ろした。雲の切れ間から、鬱蒼とした緑の絨毯が続いているのが見える。かつて魔の森と呼ばれ、人間が足を踏み入れることすら叶わなかったあの地が、こうして空から見れば、ただの美しい森に過ぎなかった。
無数の魔物が跋扈し、数多の冒険者の命を奪ってきた恐怖の森が、まるで箱庭のように小さく、無害に見える。この高度から眺めれば、地上のあらゆる脅威が取るに足らないものに思えてくるのは、なんとも不思議な感覚だった。
しばらく魔の森の上空を滑空した後、やがて機首が大きく下がり始めた。本格的な降下が始まったのだ。
「もうすぐ着きますわ」
ミーシャが穏やかな声で告げると、レスター三世は思わず目を見開いた。
「えっ……もう?」
馬車で一ヵ月はかかる行程が、あっという間だったのだ。確かにこの尋常ではない速度ならそうかもしれないが、こんなことが本当にあっていいのだろうか?
世界はこんなにも狭かったのか、それともこの国の技術がそれほどまでに常軌を逸しているのか――?
やがて、視界の中に何かが見えてきた。
雲海の上に、ぽっかりと浮かぶ巨大な影である。最初は黒いキノコのように見えたそれは、近づくにつれて徐々にその全貌を現していった。
「あ、あれは……?」
レスター三世は目を凝らし、窓に顔を近づけた。
「あれこそが我が大アルカナ王国のシンボル――天蓋ですわ」
ミーシャが誇らしげに告げる。その声には、故郷を紹介する温かみと、同時に「さあ、驚きなさい」と言わんばかりの自信が滲んでいた。
「キャ……天蓋……?」
魔の森の上空に浮かぶ、途方もない巨大構造物。近づくにつれ、その規模が徐々に明らかになっていく。
――でかい。でかすぎる。
街がすっぽり入るくらいのサイズはあるだろうか。いや、街どころではない。王都全体を覆ってもなお余りあるほどの大きさかもしれない。こんな巨大なものが空に浮かんでいるという事実が、レスター三世の理解を超えていた。
何の支えもなく、雲の上に鎮座しているそれは、まるで神話に登場する天空の城塞である。
よく見れば、黒い表面には模様が刻まれていた。それは『星に剣』の紋章――大アルカナ王国の国章である。黄金色に輝くその紋章が、漆黒の表面のあちこちに描かれ、まるで夜空に浮かぶ星座のように煌めいていた。
「あの天蓋の下に、我が王国の街がありますの」
ミーシャは嬉しそうに微笑んだ。その空色の瞳には純粋な誇りが輝いている。
シャトルはぐんぐんと天蓋に近づいていき、やがて減速しながらその傍をゆっくりと降下し始めた。目前に迫る巨大構造物の存在感は圧倒的で、窓いっぱいに黒い壁面が広がっている。
そして――純白の底面が見えてきた。
そこには数キロサイズの巨大な『星に剣』の国章が、プロジェクションマッピングで黄金色に輝いていた。光の粒子が絶えず流れ、紋章全体が生きているかのように脈動している。視野いっぱいに広がる神々しい国章は、まさに神の威光そのものだった。
そこに映るゴマ粒みたいな影――それがシャトルだった。
「ほわぁ……」
レスター三世は思わず子供のような声を漏らした。王としての威厳も、六十年の経験も、政治家としての冷静さも、すべてを忘れて、ただその壮大な光景に見惚れている自分がいた。こんな感覚は、いつ以来だろうか。幼い頃、父王に連れられて初めて王宮の天井に描かれた壮大なフラスコ画を見た時以来かもしれない。あの時も、こんなふうに口を開けて見上げていた気がする。
視界いっぱいに煌めく国章――そして自分たちはゴマ粒。その事実にレスター三世は完全に打ちのめされた。
船内を静寂が支配し、誰も何も言えなかった。騎士団長も、枢機卿も、従者たちも、皆一様に口を開けたまま、窓の外に広がる光景を食い入るように見つめている。呼吸すら忘れているかのように。
まるで神の御業を目の当たりにしているかのようだ――レスター三世はそう思った。いや、あるいはこれこそが本当の神の御業なのかもしれない。地上で祈りを捧げても決して応えなかった神は、実はこんな形で存在していたのではないか。コクピットで操縦桿を握る金髪の少女――あの小さな背中に宿る力は、人間の理解を超えているのだろう。
――この国は、いったい何なのだ。
――そしてあの少女は、本当に神に連なる者なのか。
答えはまだ分からない。しかし一つだけ、確かなことがあった。
自分たちは、とてつもない場所に来てしまったのだ。もう後戻りはできない。
今までの常識、社会の根幹、王権の正当性、宗教の意義――そのすべてが、今まさに崩壊の危機に瀕している。この国の存在が世に知れ渡れば、大陸中の秩序が根底から覆されるだろう。王は王でなくなり、神官は神官でなくなり、民は何を信じて生きていくのだろう?
その恐るべき予感がレスター三世の胸に重くのしかかり、彼は知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。掌に爪が食い込む痛みだけが、これが夢ではないことを教えてくれている。
不意に、エンジンが止まった。
音速の何倍もの速度で飛んでいたはずのシャトルは、まるで眠りにつくように静かになり、緩やかな放物線を描きながら成層圏を滑空していく。真空に近い外部では風切り音すら生まれず、船内には穏やかな管弦楽だけが、まるで天上の音楽のように響いている。
レスター三世は窓の外を見下ろした。雲の切れ間から、鬱蒼とした緑の絨毯が続いているのが見える。かつて魔の森と呼ばれ、人間が足を踏み入れることすら叶わなかったあの地が、こうして空から見れば、ただの美しい森に過ぎなかった。
無数の魔物が跋扈し、数多の冒険者の命を奪ってきた恐怖の森が、まるで箱庭のように小さく、無害に見える。この高度から眺めれば、地上のあらゆる脅威が取るに足らないものに思えてくるのは、なんとも不思議な感覚だった。
しばらく魔の森の上空を滑空した後、やがて機首が大きく下がり始めた。本格的な降下が始まったのだ。
「もうすぐ着きますわ」
ミーシャが穏やかな声で告げると、レスター三世は思わず目を見開いた。
「えっ……もう?」
馬車で一ヵ月はかかる行程が、あっという間だったのだ。確かにこの尋常ではない速度ならそうかもしれないが、こんなことが本当にあっていいのだろうか?
世界はこんなにも狭かったのか、それともこの国の技術がそれほどまでに常軌を逸しているのか――?
やがて、視界の中に何かが見えてきた。
雲海の上に、ぽっかりと浮かぶ巨大な影である。最初は黒いキノコのように見えたそれは、近づくにつれて徐々にその全貌を現していった。
「あ、あれは……?」
レスター三世は目を凝らし、窓に顔を近づけた。
「あれこそが我が大アルカナ王国のシンボル――天蓋ですわ」
ミーシャが誇らしげに告げる。その声には、故郷を紹介する温かみと、同時に「さあ、驚きなさい」と言わんばかりの自信が滲んでいた。
「キャ……天蓋……?」
魔の森の上空に浮かぶ、途方もない巨大構造物。近づくにつれ、その規模が徐々に明らかになっていく。
――でかい。でかすぎる。
街がすっぽり入るくらいのサイズはあるだろうか。いや、街どころではない。王都全体を覆ってもなお余りあるほどの大きさかもしれない。こんな巨大なものが空に浮かんでいるという事実が、レスター三世の理解を超えていた。
何の支えもなく、雲の上に鎮座しているそれは、まるで神話に登場する天空の城塞である。
よく見れば、黒い表面には模様が刻まれていた。それは『星に剣』の紋章――大アルカナ王国の国章である。黄金色に輝くその紋章が、漆黒の表面のあちこちに描かれ、まるで夜空に浮かぶ星座のように煌めいていた。
「あの天蓋の下に、我が王国の街がありますの」
ミーシャは嬉しそうに微笑んだ。その空色の瞳には純粋な誇りが輝いている。
シャトルはぐんぐんと天蓋に近づいていき、やがて減速しながらその傍をゆっくりと降下し始めた。目前に迫る巨大構造物の存在感は圧倒的で、窓いっぱいに黒い壁面が広がっている。
そして――純白の底面が見えてきた。
そこには数キロサイズの巨大な『星に剣』の国章が、プロジェクションマッピングで黄金色に輝いていた。光の粒子が絶えず流れ、紋章全体が生きているかのように脈動している。視野いっぱいに広がる神々しい国章は、まさに神の威光そのものだった。
そこに映るゴマ粒みたいな影――それがシャトルだった。
「ほわぁ……」
レスター三世は思わず子供のような声を漏らした。王としての威厳も、六十年の経験も、政治家としての冷静さも、すべてを忘れて、ただその壮大な光景に見惚れている自分がいた。こんな感覚は、いつ以来だろうか。幼い頃、父王に連れられて初めて王宮の天井に描かれた壮大なフラスコ画を見た時以来かもしれない。あの時も、こんなふうに口を開けて見上げていた気がする。
視界いっぱいに煌めく国章――そして自分たちはゴマ粒。その事実にレスター三世は完全に打ちのめされた。
船内を静寂が支配し、誰も何も言えなかった。騎士団長も、枢機卿も、従者たちも、皆一様に口を開けたまま、窓の外に広がる光景を食い入るように見つめている。呼吸すら忘れているかのように。
まるで神の御業を目の当たりにしているかのようだ――レスター三世はそう思った。いや、あるいはこれこそが本当の神の御業なのかもしれない。地上で祈りを捧げても決して応えなかった神は、実はこんな形で存在していたのではないか。コクピットで操縦桿を握る金髪の少女――あの小さな背中に宿る力は、人間の理解を超えているのだろう。
――この国は、いったい何なのだ。
――そしてあの少女は、本当に神に連なる者なのか。
答えはまだ分からない。しかし一つだけ、確かなことがあった。
自分たちは、とてつもない場所に来てしまったのだ。もう後戻りはできない。
今までの常識、社会の根幹、王権の正当性、宗教の意義――そのすべてが、今まさに崩壊の危機に瀕している。この国の存在が世に知れ渡れば、大陸中の秩序が根底から覆されるだろう。王は王でなくなり、神官は神官でなくなり、民は何を信じて生きていくのだろう?
その恐るべき予感がレスター三世の胸に重くのしかかり、彼は知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。掌に爪が食い込む痛みだけが、これが夢ではないことを教えてくれている。
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