刑法265条
ー/ー 警察署の受付窓口というのは、たいてい退屈な場所だ。
少なくとも、担当の宮田巡査部長はそう思っていた。遺失物の届け出、駐車違反の相談、迷い込んできた老人の道案内。九年間この窓口に座り続けて、彼が経験したことのほぼすべてはそういう種類の、どこまでも地味な出来事だった。
だから、その男が入ってきたとき、宮田はすぐに「普通じゃない」と感じた。
男は五十がらみで、くたびれたベージュのウィンドブレーカーを着ていた。髪は寝癖なのか天然なのか判断のつかない方向に広がっており、眼鏡のつるが片方セロハンテープで補修してある。体格は中肉中背。特に威圧感はない。しかし、その目が尋常ではなかった。焦点が合っているのか合っていないのか、なにか見えない重力に引っ張られているような、そういう目だった。
男は自動ドアをくぐってから、三歩ほど歩いたところで止まった。受付カウンターを見て、左右の壁を見て、天井を見た。それからもう一度カウンターを見た。宮田と目が合った。
「どうしましたか」
宮田は立ち上がり、カウンター越しに声をかけた。警察署の受付に、これほど明らかに挙動不審な人物が来ることは、月に一度あるかないかだ。
男は答えなかった。ポケットに両手を入れて、何かを探しているようだった。右のポケット、左のポケット、また右。ようやく取り出したのはスマートフォンだった。画面を操作する指が、かすかに震えている。
「あの」
男はカウンターに近づき、スマホの画面を宮田に向けた。
宮田はそれを受け取り、画面を見た。
ゴキブリの写真だった。
死んでいた。足が六本ともひっくり返って空を向いており、茶色い甲殻がフローリングの上に横たわっている。画角からして、スマホをかなり近づけて撮ったのだろう。被写体への異様なほどの接近が、この虫の死をどこか荘厳なものに見せていた。葬儀写真のようだ、と宮田は思った。
宮田は表情を変えなかった。長年の経験で培った能力だった。
「これが、どうかしましたか」
男は両手を前に差し出した。手首を揃えて、まるで手錠をかけられる準備をするように。
「俺が殺しました」
沈黙があった。
「……え?」
「俺が殺したんです」男の声は震えていた。しかし確信に満ちていた。「自首しに来ました」
宮田はもう一度スマホの画面を見た。ゴキブリ。死んでいる。宮田はスマホを男に返した。
「お客さん、自首でしたら、まずこちらの窓口で伺います。どうぞ」
「刑法265条!」
男が叫んだ。受付ホールに声が響いた。奥のデスクで書類を見ていた同僚の田辺が顔を上げる。宮田は片手を上げて「大丈夫です」と田辺に合図した。大丈夫かどうかは全くわからなかったが。
「刑法265条に定められているじゃないですか」男はまくしたてた。「ゴキブリを故意に殺害した者は、懲役五十年以上、もしくは終身刑に処する、と。俺は昨夜、自室でゴキブリを殺しました。スリッパで叩いたんです。だから自首しに来たんです。早く手錠をかけてください」
宮田は男の顔を見た。冗談を言っている顔ではなかった。酔っている様子もなかった。ただ純粋に、恐怖と覚悟が入り混じった顔だった。死刑を宣告された人間がこういう顔をするのかもしれない、と宮田はぼんやり思った。
「お客さん」宮田はゆっくり言った。「刑法265条という条文は、存在しません」
「え」
「刑法にそのような番号の条文はありません。ゴキブリの殺害については、どこにも規定がありません」
男は固まった。
固まったまま、三秒ほどそこに立っていた。
「……そんな、はずが」
「ご自身でお調べになりましたか」
「インターネットで」男は言った。「『ゴキブリ 殺す 法律』で検索したら出てきたんです。刑法265条、ゴキブリ殺害は終身刑、って」
宮田は目を閉じた。一秒だけ閉じて、また開けた。
「それはおそらく、デマ情報です。そういったフェイクの法律条文がネット上に出回ることがあります」
「デマ」
「はい」
「デマ……」
男はゆっくりと差し出していた両手を下ろした。宮田はその様子を静かに観察した。男の顔が、少しずつ変わっていくのがわかった。恐怖が消え、覚悟が消え、代わりに何か別のものがじわじわと浮かんでくる。
恥、だろうか。
あるいは脱力、かもしれない。
田辺が「お茶でも」と紙コップを持ってきた。男は断ろうとしたが、田辺がもう置いてしまったので仕方なく受け取った。
宮田は窓口の外に出て、男の隣に立った。受付にパイプ椅子が二脚あったので、一脚を男に勧めた。男は座った。宮田も座った。
「……お名前は」
「桐島です」男は言った。「桐島和夫。五十三歳。無職」
「桐島さん。昨夜から今日まで、ずっと眠れませんでしたか」
桐島は少し驚いた顔をした。「なんでわかるんですか」
「目が、そういう目をしています」
桐島は紙コップを両手で持ち、お茶を一口飲んだ。それからぽつぽつと話し始めた。
昨夜の十一時ごろ、台所でゴキブリを発見した。とっさにスリッパで叩いた。死んだ。その瞬間から、なぜか罪悪感が止まらなくなった。ゴキブリが嫌いなわけでもないのに、とっさに殺してしまった。一つの命を、理由もなく。そういえば法律に引っかかるんじゃないか、と気になってスマホで検索した。出てきた。刑法265条。終身刑。頭が真っ白になって、朝まで眠れなかった。夜明けに決意した。自首しよう。隠していたって仕方ない。正直に話そう。それで警察署に来た。
宮田は話を聞きながら、メモを取った。メモを取る必要はなかったが、取った方が話しやすそうだったから取った。
「桐島さんは、どんなお仕事を?」
「一年前まで、区役所に勤めていました。定年で辞めて、今は一人暮らしです」
「ご家族は」
「妻は十五年前に。子供はいません」
宮田はペンを置いた。
「ゴキブリを、殺したくなかったんですか」
桐島は少しの間、紙コップを見つめた。
「……わかりません。咄嗟に手が動いたから。本当に、一瞬のことだったから」桐島は言った。「でもその後、ずっと気になって。なんで俺は殺したんだろうって。アイツも生きてたのに、って。変ですよね」
「変じゃないと思います」
桐島は宮田を見た。宮田は真顔だった。
「ゴキブリでも、殺した後で引っかかる人はいます。珍しくない」
「そうですか」
「そうです」
桐島はもう一口お茶を飲んだ。
しばらくして、桐島は帰ることになった。当然だった。逮捕する理由が何もなかった。
宮田は入口まで桐島を送った。自動ドアが開くと、秋の午前の空気が入ってきた。空は高く、雲が薄く伸びていた。
「あの」桐島は外に出る前に振り返った。「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「ゴキブリの、本当の法律ってどうなってるんですか」
「害虫として、駆除は合法です。というか、法的には問題ありません」
「そうですか」
「はい」
桐島はうなずいた。うなずいてから、なぜかまだそこに立っていた。
「俺、変な人ですよね」
宮田は少し考えた。
「桐島さんが変なんじゃなくて、インターネットが変なんです」
桐島はそれを聞いて、小さく笑った。笑うと、少し若く見えた。眼鏡のセロハンテープが光った。
「そうですね」
桐島は頭を下げて、駐車場の方へ歩いていった。ウィンドブレーカーの背中が、少しだけ丸まっていた。
宮田は自動ドアが閉まるまでそれを見ていた。
昼休みに、田辺が弁当を食べながら聞いてきた。
「さっきの人、なんだったんですか」
「ゴキブリを殺して自首しに来た」
田辺は箸を止めた。「……はい?」
「ネットでゴキブリ殺したら終身刑って読んで、信じたらしい」
田辺はしばらく宮田の顔を見た。「本気で?」
「本気で」
「変な人ですね」
宮田は自分の弁当の蓋を開けながら言った。「そうでもないかな」
田辺はまた箸を止めた。「え?」
「ゴキブリ殺したことを気にする人ってあまりいないだろ。あの人は気にしたんだ。それを解消しようとしてネットで調べたら嘘を信じた。そのことを誰かに話せる人もいなくて、一人で朝まで悩んで、結局知らない警察官に話しに来た」
田辺はうなずくべきか判断できない様子で、とりあえず「はあ」と言った。
「孤独な人だよ」宮田は言った。「変な人より、孤独な人の方が正確だと思う」
田辺は少し考えてから、弁当に視線を戻した。「そういうもんですかね」
「そういうもんだと思う」
二人はしばらく黙って食べた。外では秋風が木の葉を揺らしていた。
その夜、桐島和夫は台所に立って夕飯を作った。冷蔵庫の残り物で、豆腐と葱の味噌汁と、白米だった。
食べ終えて茶碗を洗っているとき、シンクの隅に小さな黒い影が動いた。
桐島は動きを止めた。
ゴキブリだった。昨夜とは別の個体なのか、同じ個体の幽霊なのか、当然わからない。一センチほどの、まだ小さい個体だった。触角をゆっくり動かして、桐島の方を見ているような、いないような。
桐島はしばらくそれを見ていた。
スリッパには手を伸ばさなかった。
代わりに流しの下の戸棚を開けて、昔買って使わないままにしていたゴキブリホイホイを取り出した。箱を開けて、台所の隅に置いた。
それが正しいのかどうかはわからない。ゴキブリホイホイだって結局は殺すのだ。だから罪悪感がゼロになるわけではない。
でも、なんとなく、少しだけ、ましな気がした。
桐島は電気を消して寝室に向かった。今夜は眠れそうだった。
ゴキブリは台所の暗闇の中で触角を動かし続けていた。
翌週、宮田の窓口に一通の封書が届いた。差出人の名前は「桐島和夫」とあった。
中には便箋が一枚、折り畳んで入っていた。
宮田は封書を開け、便箋を広げた。
『先日は大変お世話になりました。本当に法律になかったんですね。よかったような、恥ずかしいような、複雑な気持ちです。でも話を聞いてもらえてよかったです。ゴキブリのことを、変じゃないと言ってくれた人は初めてでした。あと、今日は少し晴れていたので散歩に行ってきました。公園の木が色づいていました。特に意味はないですが、書きたくなったので書きました。お体に気をつけてください。』
宮田は便箋をもう一度折り、封書に戻した。
窓口の外では、田辺がコーヒーを飲みながら何か書類を見ていた。
「田辺」
「はい」
「今日、昼飯は外で食べるか」
田辺は少し驚いた顔をした。宮田が外で食べようと言い出すのは珍しかった。
「いいですよ。どこか行きたいとこあるんですか」
「公園の近くに蕎麦屋があるだろ」
「ありますね」
「そこにしよう」
「わかりました」
宮田は封書を引き出しにしまった。窓の外では、秋の木が風に揺れていた。
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