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最接近

ー/ー



ユウゴは震える手でリュックの肩ベルトを握りしめ、母親を探そうと人波に目を凝らす。
心臓は早鐘のように脈打っている。
母親は前の方に押し流されていったように見えた。しかし、ユウゴが押し戻されたのは見えたはずだ。

―ここで待っていれば、母さんが見つけてくれるはず。

ユウゴはそう思い定め、その場に留まろうとしたが、道行く群衆に流されそうになる。
流れを避けようと、近くの横道へ入った。

路地は薄暗く、夕方なのにまるで夜のようだった。

「…っ、う…うぅ…」

すすり泣く声が聞こえた。
ユウゴは恐る恐る、声の方を振り返る。
路地の先に、見覚えのある小さな影がしゃがみ込んでいた。
「…貝塚?」

顔を上げた貝塚ユズの目は、涙で真っ赤だった。
「佐野くん…」

ユズは立ち上がると、今にも消え入りそうな声で言った。
「お母さんと…一緒に避難してたの…
 でも、ポチャが…キャリーから逃げちゃって…
 追いかけてたら…はぐれちゃって…!」

ユズの腕には、扉が開いた空っぽのキャリーケースが抱かれている。
「ポチャ…猫…?」

ユズは大きく頷いた。
「うん…怖がりだから、どこかに隠れちゃったんだと思う…!
 でも…でも…探しても見つからなくて…
 お母さんもどこにいるか分からなくて…!」

言葉が途中で詰まり、ユズはまた泣きそうになった。
普段は冷静で、授業中でも先生に理路整然と質問するユズが、こんなふうに取り乱しているのをユウゴは初めて見た。
「…一緒に探すよ」

本当ならここから動くべきではない。しかし、気づけばユウゴはそう言っていた。
脳裏に、はぐれた時の母親の顔が浮かぶ。
ユズがユウゴを見つめる。
「…いいの…?」

「当たり前だろ。
 ポチャも、おばさんも、絶対見つけようぜ」

ユズの目に、少しだけ光が戻った。
ユウゴは母親が自分を探しに来た際、近くにいる事が分かるように、背負っていたリュックをその場に降ろした。
その瞬間、聞いた事も無い轟音が、大気を震わせて辺りに響いた。
二人は同時に空を見上げる。

ウルゴスが、今や空の半分を覆わんとする大きさになっている。
縁が虹色に光り、趣味の悪い天蓋のようだ。
ユウゴは思わず唾を飲み込む。
「貝塚…急ごう。
 ポチャも、おばさんも今のうちに見つけないと!」

「うん…!」
ユズは震える声で答えた。二人は路地を駆け出す。
ポチャが逃げ込んだかもしれない建物の隙間を覗き込み、段ボールの影や植え込みの下を探して回った。
けれど、猫の姿はどこにもない。
足を止め、周囲を見回したユズが震える声で言った。
「…街灯が…つかない…」

その言葉にユウゴも、はっとした。
確かに、いつもなら夕方になると自動で点く街灯が、どれも暗いままだった。
電線が低く唸り、風が逆流する。

ユウゴは思わずユズの手を掴んだ。
ユズの手は冷たく、震えていた。

路地の奥は真っ暗で、何が潜んでいるのか分からない。
大通りの方からは、避難する人々の叫び声と、渋滞のクラクションが混ざり合って響いてくる。
しかし、この路地だけは別世界みたいに静かだった。
「…こわい…」

ユズが小さく呟いた。
普段の冷静さは完全に消えている。
ユウゴは喉がカラカラになりながらも、必死に声を絞り出した。
「だ、大丈夫だ…!
 ポチャも、おばさんも…絶対見つかるって…!」

そう言う自分の声が震えているのが分かった。
空を見上げると、ウルゴスはもう“星”ではなかった。
空の大半を覆う異形の天蓋。
縁が虹色に光り、まるで空そのものが大きく裂けてしまったようだ。

ゴオオオ…と轟音がさらに大きく、地面の奥から響いてきた。
ユズがユウゴの腕にしがみつく。
「この音…もしかして…」
言葉の続きは、空から降ってきた音にかき消された。

ミシ…ミシ…ミシ…

空が、軋んでいる。
巨大なガラス板がゆっくりとひび割れていくような、不気味な音。
ユウゴは息を呑んだ。

「空が、鳴ってる…?」

ユズは震えながら首を振る。
「違う…これ、地球が…引っ張られてるんだよ…
 ウルゴスの重力で…!」

その説明は、子どもとは思えないほど説得力があった。
そして―

バチッ!!

空の一部が、白く光った。
まるで、空の表面に亀裂が走ったような光。
ユズが叫ぶ。
「来る!!ウルゴスが!!」

ユウゴはユズの手を無意識に強く握りしめる。

風が止まり、車のクラクションも、空の不穏な音も全てが一瞬だけ凍りついた。
ユウゴはまるで世界が息を止めたかのように感じた。

ウルゴスが、空のほとんどを覆っていた。
漆黒としか表現しようのない巨大な影。
縁だけが虹色に光り、その光がゆらゆらと揺れている。

そう思った瞬間―

パキィィィィィン!!

空の一部が、白く裂けた。

雷ではない。
稲妻でもない。
空そのものが、致命傷を負ったように亀裂が走った。
光の線が空を横切り、その周囲の雲が吸い込まれるように歪む。

次の瞬間、大気が爆発したような衝撃音が地面を揺らした。
ユウゴは思わず耳を押さえ、膝をついた。
ユズが悲鳴を上げ、すぐ傍に倒れ込む。

地面が波打つ。
アスファルトが生き物みたいにうねり、街が大きく揺れる。

ユウゴ自身はこの現象の名を後になって知るが、これこそ人類が経験したことのない未曾有の大地震―
メガクエイクだった。

地面の奥から、巨大な力が突き上げてくる。
建物の窓ガラスが一斉に割れ、破片が雨のように降り注ぐ。
電柱が倒れ、火花が散った。

人々の悲鳴が、街全体を覆い尽くす。

ユズがユウゴの腕にしがみつく。
ユウゴも必死にユズを抱き寄せた。
その直後、二人を囲むように地面に亀裂が走る。

空が割れていく。
世界が壊れていく。

ユウゴはユズを体の下に庇い、ただ必死に目を閉じた。
―母さん!
心の中で咄嗟に、はぐれた母を呼ぶ。
突き刺すような耳鳴りがして、世界の音が遠ざかっていく。
呼吸が苦しい。
胸が痛い。

建物が崩れていく。どこかで誰かが叫んでいる。
でも、もう聞き取れない。

ユウゴの意識は、深い闇へと沈んでいった。


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ユウゴは震える手でリュックの肩ベルトを握りしめ、母親を探そうと人波に目を凝らす。心臓は早鐘のように脈打っている。
母親は前の方に押し流されていったように見えた。しかし、ユウゴが押し戻されたのは見えたはずだ。
―ここで待っていれば、母さんが見つけてくれるはず。
ユウゴはそう思い定め、その場に留まろうとしたが、道行く群衆に流されそうになる。
流れを避けようと、近くの横道へ入った。
路地は薄暗く、夕方なのにまるで夜のようだった。
「…っ、う…うぅ…」
すすり泣く声が聞こえた。
ユウゴは恐る恐る、声の方を振り返る。
路地の先に、見覚えのある小さな影がしゃがみ込んでいた。
「…貝塚?」
顔を上げた貝塚ユズの目は、涙で真っ赤だった。
「佐野くん…」
ユズは立ち上がると、今にも消え入りそうな声で言った。
「お母さんと…一緒に避難してたの…
 でも、ポチャが…キャリーから逃げちゃって…
 追いかけてたら…はぐれちゃって…!」
ユズの腕には、扉が開いた空っぽのキャリーケースが抱かれている。
「ポチャ…猫…?」
ユズは大きく頷いた。
「うん…怖がりだから、どこかに隠れちゃったんだと思う…!
 でも…でも…探しても見つからなくて…
 お母さんもどこにいるか分からなくて…!」
言葉が途中で詰まり、ユズはまた泣きそうになった。
普段は冷静で、授業中でも先生に理路整然と質問するユズが、こんなふうに取り乱しているのをユウゴは初めて見た。
「…一緒に探すよ」
本当ならここから動くべきではない。しかし、気づけばユウゴはそう言っていた。
脳裏に、はぐれた時の母親の顔が浮かぶ。
ユズがユウゴを見つめる。
「…いいの…?」
「当たり前だろ。
 ポチャも、おばさんも、絶対見つけようぜ」
ユズの目に、少しだけ光が戻った。
ユウゴは母親が自分を探しに来た際、近くにいる事が分かるように、背負っていたリュックをその場に降ろした。
その瞬間、聞いた事も無い轟音が、大気を震わせて辺りに響いた。
二人は同時に空を見上げる。
ウルゴスが、今や空の半分を覆わんとする大きさになっている。
縁が虹色に光り、趣味の悪い天蓋のようだ。
ユウゴは思わず唾を飲み込む。
「貝塚…急ごう。
 ポチャも、おばさんも今のうちに見つけないと!」
「うん…!」
ユズは震える声で答えた。二人は路地を駆け出す。
ポチャが逃げ込んだかもしれない建物の隙間を覗き込み、段ボールの影や植え込みの下を探して回った。
けれど、猫の姿はどこにもない。
足を止め、周囲を見回したユズが震える声で言った。
「…街灯が…つかない…」
その言葉にユウゴも、はっとした。
確かに、いつもなら夕方になると自動で点く街灯が、どれも暗いままだった。
電線が低く唸り、風が逆流する。
ユウゴは思わずユズの手を掴んだ。
ユズの手は冷たく、震えていた。
路地の奥は真っ暗で、何が潜んでいるのか分からない。
大通りの方からは、避難する人々の叫び声と、渋滞のクラクションが混ざり合って響いてくる。
しかし、この路地だけは別世界みたいに静かだった。
「…こわい…」
ユズが小さく呟いた。
普段の冷静さは完全に消えている。
ユウゴは喉がカラカラになりながらも、必死に声を絞り出した。
「だ、大丈夫だ…!
 ポチャも、おばさんも…絶対見つかるって…!」
そう言う自分の声が震えているのが分かった。
空を見上げると、ウルゴスはもう“星”ではなかった。
空の大半を覆う異形の天蓋。
縁が虹色に光り、まるで空そのものが大きく裂けてしまったようだ。
ゴオオオ…と轟音がさらに大きく、地面の奥から響いてきた。
ユズがユウゴの腕にしがみつく。
「この音…もしかして…」
言葉の続きは、空から降ってきた音にかき消された。
ミシ…ミシ…ミシ…
空が、軋んでいる。
巨大なガラス板がゆっくりとひび割れていくような、不気味な音。
ユウゴは息を呑んだ。
「空が、鳴ってる…?」
ユズは震えながら首を振る。
「違う…これ、地球が…引っ張られてるんだよ…
 ウルゴスの重力で…!」
その説明は、子どもとは思えないほど説得力があった。
そして―
バチッ!!
空の一部が、白く光った。
まるで、空の表面に亀裂が走ったような光。
ユズが叫ぶ。
「来る!!ウルゴスが!!」
ユウゴはユズの手を無意識に強く握りしめる。
風が止まり、車のクラクションも、空の不穏な音も全てが一瞬だけ凍りついた。
ユウゴはまるで世界が息を止めたかのように感じた。
ウルゴスが、空のほとんどを覆っていた。
漆黒としか表現しようのない巨大な影。
縁だけが虹色に光り、その光がゆらゆらと揺れている。
そう思った瞬間―
パキィィィィィン!!
空の一部が、白く裂けた。
雷ではない。
稲妻でもない。
空そのものが、致命傷を負ったように亀裂が走った。
光の線が空を横切り、その周囲の雲が吸い込まれるように歪む。
次の瞬間、大気が爆発したような衝撃音が地面を揺らした。
ユウゴは思わず耳を押さえ、膝をついた。
ユズが悲鳴を上げ、すぐ傍に倒れ込む。
地面が波打つ。
アスファルトが生き物みたいにうねり、街が大きく揺れる。
ユウゴ自身はこの現象の名を後になって知るが、これこそ人類が経験したことのない未曾有の大地震―
メガクエイクだった。
地面の奥から、巨大な力が突き上げてくる。
建物の窓ガラスが一斉に割れ、破片が雨のように降り注ぐ。
電柱が倒れ、火花が散った。
人々の悲鳴が、街全体を覆い尽くす。
ユズがユウゴの腕にしがみつく。
ユウゴも必死にユズを抱き寄せた。
その直後、二人を囲むように地面に亀裂が走る。
空が割れていく。
世界が壊れていく。
ユウゴはユズを体の下に庇い、ただ必死に目を閉じた。
―母さん!
心の中で咄嗟に、はぐれた母を呼ぶ。
突き刺すような耳鳴りがして、世界の音が遠ざかっていく。
呼吸が苦しい。
胸が痛い。
建物が崩れていく。どこかで誰かが叫んでいる。
でも、もう聞き取れない。
ユウゴの意識は、深い闇へと沈んでいった。