第5話
ー/ー 職員室には、志保のほかに桑原校長と、西村老人がいるだけだった。
ほかの教員は既に荷物をまとめ始めていた。共用の本棚から教材が抜かれ、壁の掲示物が剥がされ、職員室は日に日に空洞になっていった。
志保は六年生の担任として最後まで残ることになっていたが、四月からの行き先はまだ決まっていなかった。教育委員会からは「調整中」という言葉を繰り返し聞かされている。
「田中先生、」
桑原が声をかけてきた。六十近い、白髪交じりの穏やかな男だった。この学校に赴任して二十年以上になる。岬小学校と、ほぼ運命を共にしてきた人だった。
「陽向くんのお母さんから電話がありました。明後日の式、親戚の方達も何人かいらっしゃるそうですよ」
「そうですか」
「賑やかになりますね」
志保は小さく頷いた。賑やか、という言葉が、この場所にはどこか似合わない気がした。でもそれは、来てくれる人たちへの失礼にあたると思って、黙っていた。
お昼前に、陽向が職員室に顔を出した。
「先生、質問があります」
「どうぞ」
「情動記録システムって、何ですか」
志保は手を止めた。
「どこで聞いたの」
「壁の補修してた人が言ってた。五年生のとき。あの糸みたいなやつ、何ですかって聞いたら教えてくれた」
「そう」
「この学校の壁に入ってるんですよね」
「そうだよ」
陽向はしばらく考えるような顔をしていた。
「じゃあ、ぼくのこともぜんぶ記録されてるんですか」
志保は少し迷って、頷いた。
「たぶんね。あなたが泣いたこととか、笑ったこととか」
「恥ずかしい」
「大丈夫。データになるから、内容はわからないよ」
「データ」陽向は繰り返した。「消えないんですか」
「建物が解体されるまでは、たぶん消えないと思う」
陽向はまた黙って、それから「そうか」と言った。どういう意味の「そうか」なのか、志保にはわからなかった。安心したのか、それとも別の何かを思ったのか。陽向は「ありがとうございました」と言って、職員室を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、志保は思った。あの子が六年間この学校で感じたことは、壁の中に残っている。それは、何かの慰めになるのだろうか。それとも、ただのデータでしかないのだろうか。
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