表示設定
表示設定
目次 目次




第4話

ー/ー



 図書室は、この学校で一番静かな場所だった。

 もともと静かな学校の中でも、図書室だけは別格だった。本棚が音を吸い込んでいるように、室内の音が外に漏れない。陽向はよく、昼休みに図書室に来ていた。


 貸出カードは一枚だけ更新され続けていた。

 本棚に並ぶ本の背表紙は、ほとんどが日焼けして色が褪せている。


かつて大勢の子どもたちに手に取られ、それ以来ずっとそのままになっている本たち。


「昆虫の図鑑」「星座の話」「世界の国ぐに」「はじめての理科実験」。陽向はそのなかから、気に入った本を選んで、窓際の席に座って読む。


 ある日、陽向が言った。


「先生、この本の貸出カード、ぼく以外の名前が全部古い」

「そうだね。昔の子たちが借りたんだよ」

「みんな、どこ行ったんですか」

「中学校に行って、高校に行って、大人になったんじゃないかな」

 陽向はカードをじっと見て、それから棚に戻した。




「ぼくが最後に借りる人なんだ」

 志保は何も言えなかった。

「最後でも、借りていいですか」

「もちろん」


 陽向は本を抱えて、また窓際の席に戻った。窓の外には冬の海が見えていた。

鉛色の、重い海。その色を背景に、陽向の小さな横顔が、黒いシルエットのように浮かんでいた。




 三月に入って、壁のノイズが増えた、と志保は感じた。




 ノイズ、というのは正確な言葉ではない。何かが滲み出てくるような、空気の中に余分な情報が混じってくるような感覚だ。

廊下を歩いていると、足音の反響が少しおかしい。自分の足音に、別の足音が重なっているような。教室に入ると、窓ガラスに一瞬だけ、何かが映る。振り返ると何もない。


でも確かに、ガラスの中に、今とは違う何かがあった。

 一度だけ、はっきりと見えたことがある。

 卒業式の一週間前、夕方の教室で志保が採点をしていたとき。



 窓ガラスが、橙色の夕日を受けていた。志保はふと顔を上げて、窓の外の海を見た。その瞬間、ガラスの反射の中に、教室が映った。ただし、今の教室ではなかった。


 たくさんの机が並んでいた。すべての席に、子どもが座っていた。三十人か、あるいはもっと。みんな前を向いて、何かを書いている。黒板には文字が書いてある。先生の後ろ姿が見える。


 一秒か、二秒か。


それだけの時間で、映像は消えた。窓ガラスには、夕日と海と、一人だけの教室が映っていた。



 志保は立ち上がって、窓に近づいた。ガラスに手を当てると、ほんの少しだけ温かかった。



 情動記録システムが、放出しているのかもしれない。あるいはただの残像が、疲れた目に見えただけかもしれない。

志保は確認する方法を持っていなかった。ただ手をガラスに当てたまま、しばらくそこに立っていた。外では、夕暮れの海が最後の光を受けて、金色に輝いていた。





 卒業式は明後日に迫っていた。








 





スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 第5話


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 図書室は、この学校で一番静かな場所だった。
 もともと静かな学校の中でも、図書室だけは別格だった。本棚が音を吸い込んでいるように、室内の音が外に漏れない。陽向はよく、昼休みに図書室に来ていた。
 貸出カードは一枚だけ更新され続けていた。
 本棚に並ぶ本の背表紙は、ほとんどが日焼けして色が褪せている。
かつて大勢の子どもたちに手に取られ、それ以来ずっとそのままになっている本たち。
「昆虫の図鑑」「星座の話」「世界の国ぐに」「はじめての理科実験」。陽向はそのなかから、気に入った本を選んで、窓際の席に座って読む。
 ある日、陽向が言った。
「先生、この本の貸出カード、ぼく以外の名前が全部古い」
「そうだね。昔の子たちが借りたんだよ」
「みんな、どこ行ったんですか」
「中学校に行って、高校に行って、大人になったんじゃないかな」
 陽向はカードをじっと見て、それから棚に戻した。
「ぼくが最後に借りる人なんだ」
 志保は何も言えなかった。
「最後でも、借りていいですか」
「もちろん」
 陽向は本を抱えて、また窓際の席に戻った。窓の外には冬の海が見えていた。
鉛色の、重い海。その色を背景に、陽向の小さな横顔が、黒いシルエットのように浮かんでいた。
 三月に入って、壁のノイズが増えた、と志保は感じた。
 ノイズ、というのは正確な言葉ではない。何かが滲み出てくるような、空気の中に余分な情報が混じってくるような感覚だ。
廊下を歩いていると、足音の反響が少しおかしい。自分の足音に、別の足音が重なっているような。教室に入ると、窓ガラスに一瞬だけ、何かが映る。振り返ると何もない。
でも確かに、ガラスの中に、今とは違う何かがあった。
 一度だけ、はっきりと見えたことがある。
 卒業式の一週間前、夕方の教室で志保が採点をしていたとき。
 窓ガラスが、橙色の夕日を受けていた。志保はふと顔を上げて、窓の外の海を見た。その瞬間、ガラスの反射の中に、教室が映った。ただし、今の教室ではなかった。
 たくさんの机が並んでいた。すべての席に、子どもが座っていた。三十人か、あるいはもっと。みんな前を向いて、何かを書いている。黒板には文字が書いてある。先生の後ろ姿が見える。
 一秒か、二秒か。
それだけの時間で、映像は消えた。窓ガラスには、夕日と海と、一人だけの教室が映っていた。
 志保は立ち上がって、窓に近づいた。ガラスに手を当てると、ほんの少しだけ温かかった。
 情動記録システムが、放出しているのかもしれない。あるいはただの残像が、疲れた目に見えただけかもしれない。
志保は確認する方法を持っていなかった。ただ手をガラスに当てたまま、しばらくそこに立っていた。外では、夕暮れの海が最後の光を受けて、金色に輝いていた。
 卒業式は明後日に迫っていた。