第5話  火の神です。見習いですが

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ナビがアパートに転がり込んで三日目の朝だった。この三日間で蒼の日常はずいぶんと変わった。朝起きると知らない少女が畳で大の字になっている。冷蔵庫を開けると昨日あったはずのものが減っている。テレビのリモコンの使い方を一から教えた。シャンプーとコンディショナーの違いを説明した。コンビニのレジで琉球王朝時代の作法で店員に一礼するナビを横で見ていた。慣れてきた、とは言えなかった。でも三日前よりは、驚かなくなっていた。

インターホンが鳴ったのは、そんな朝だった。ドアを開けると大家の安里さんが立っていた。七十代、いつもかりゆしウェアで首にタオルを巻いている。この人がいなければ蒼はここに部屋を借りられなかった。県外出身の学生を何かと気にかけてくれる、ありがたい存在だった。

「蒼くん、ちょっといいかね」
「あ、はい。どうぞ——」
「上がらんくていい、これだけ」

安里さんが両手で差し出したのは、白い布に包まれた香炉だった。小ぶりで古い。隣に水入れ、塩、米の小皿が一式ついている。

「ヒヌカンなんだけどね」
「ヒ……ヌカン?」
「うちで預かってたんだけど、急に姪っ子が泊まりに来ることになってね。姪っ子がこういうの苦手でね。なんか怖いって言うんだよ、若い子は。蒼くんなら大丈夫でしょ」
「いや、大丈夫というか、俺も一応本土の人間なので作法とか——」
「台所に置いとけばいい。難しくないよ」
「でもっ」
「水とたまに泡盛だけ替えてあげればいいから。よろしくね」

有無を言わさぬ笑顔で安里さんは去ったが蒼は押し付けられた形の香炉一式を両手で持ったまま、しばらくドアの前に立っていた。
三日前まで自分の部屋はただの学生アパートだったはずだ。それがユタが住み着いて、今度は火の神様の香炉まで来た。
沖縄は、なんというか、密度が高い。
「ナビ……ヒヌカンだって」
部屋に戻ると、ナビが床に座ってテレビを見ていた。蒼が持ってきたものを一目見て、表情が変わった。
「ああ」
「ああ、じゃなくて。これ、台所に置けばいいのか」
「置けばいいよ。ちゃんと向き確認して」
「向き?」
「火の神様は台所の神様だからちゃんと正面が部屋の中を向くようにね」

ナビのくせに妙に詳しい、と思いながら蒼は台所の棚の上に香炉を置いた。向きを整えて、水を替えて、一応手を合わせた。

「これでいいか」
「いいよ」
「他に何かしないといけないことは」
「水替えと毎日線香を炊いて、後は普通に台所使えばいい。火の神様は台所にいれば満足するさ」
「そういうもんか」
「そういうもん。大丈夫よー」

テレビから天気予報の声が流れてきた。ナビが興味なさそうに画面を見ていた。

「お前、ヒヌカンのこと詳しいな」
「ユタになる前はノロだったからね。家々の神様のことは一通り知ってる」
「ノロって、そういう知識も持ってるのか」
「当たり前さぁ。集落の祭祀を仕切るんだから」
「……知らなかった」
「蒼は知らない事が多いねー」
「そりゃあまだ沖縄に来て一年も経ってないからね……」

その夜は、何も起きなかった。異変が起きたのは翌朝だった。
蒼はその姿を見て硬直した。 台所に、コンロの前で腕を後ろに組んだ知らない女の子が立っていたからだ。制服を着ていたが見たことがない制服だった。茶色い千鳥柄のスカート、白いブラウス、スカートと同じ柄のリボン。背は低くて、髪をきっちり頭の上で二つに束ねていた。腕を後ろに組んで、じっと台所を観察している。
どうしてここに制服姿の女の子がいるのか。まさかこの子もマジムンの類なのか。だとしたら誰か助けてくれ。まだ起き切れていない頭が混乱していた。昨日まではいなかった。確かにいなかった。

「……誰?」

女の子がこちらを向いた。真剣な顔だった。

「換気扇に油が溜まっています。放置すると火災の原因になります」
「はい?」
「コンロ周りの掃除も不足しています。あと冷蔵庫の開閉回数が多い。電気代に響きます」
「ちょっと待って——」
「包丁の切れ味が落ちています。研ぐことをお勧めします」
「……誰なの」

女の子は胸を張った。
「ヒヌカンです。見習いですが」



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ナビがアパートに転がり込んで三日目の朝だった。この三日間で蒼の日常はずいぶんと変わった。朝起きると知らない少女が畳で大の字になっている。冷蔵庫を開けると昨日あったはずのものが減っている。テレビのリモコンの使い方を一から教えた。シャンプーとコンディショナーの違いを説明した。コンビニのレジで琉球王朝時代の作法で店員に一礼するナビを横で見ていた。慣れてきた、とは言えなかった。でも三日前よりは、驚かなくなっていた。
インターホンが鳴ったのは、そんな朝だった。ドアを開けると大家の安里さんが立っていた。七十代、いつもかりゆしウェアで首にタオルを巻いている。この人がいなければ蒼はここに部屋を借りられなかった。県外出身の学生を何かと気にかけてくれる、ありがたい存在だった。
「蒼くん、ちょっといいかね」
「あ、はい。どうぞ——」
「上がらんくていい、これだけ」
安里さんが両手で差し出したのは、白い布に包まれた香炉だった。小ぶりで古い。隣に水入れ、塩、米の小皿が一式ついている。
「ヒヌカンなんだけどね」
「ヒ……ヌカン?」
「うちで預かってたんだけど、急に姪っ子が泊まりに来ることになってね。姪っ子がこういうの苦手でね。なんか怖いって言うんだよ、若い子は。蒼くんなら大丈夫でしょ」
「いや、大丈夫というか、俺も一応本土の人間なので作法とか——」
「台所に置いとけばいい。難しくないよ」
「でもっ」
「水とたまに泡盛だけ替えてあげればいいから。よろしくね」
有無を言わさぬ笑顔で安里さんは去ったが蒼は押し付けられた形の香炉一式を両手で持ったまま、しばらくドアの前に立っていた。
三日前まで自分の部屋はただの学生アパートだったはずだ。それがユタが住み着いて、今度は火の神様の香炉まで来た。
沖縄は、なんというか、密度が高い。
「ナビ……ヒヌカンだって」
部屋に戻ると、ナビが床に座ってテレビを見ていた。蒼が持ってきたものを一目見て、表情が変わった。
「ああ」
「ああ、じゃなくて。これ、台所に置けばいいのか」
「置けばいいよ。ちゃんと向き確認して」
「向き?」
「火の神様は台所の神様だからちゃんと正面が部屋の中を向くようにね」
ナビのくせに妙に詳しい、と思いながら蒼は台所の棚の上に香炉を置いた。向きを整えて、水を替えて、一応手を合わせた。
「これでいいか」
「いいよ」
「他に何かしないといけないことは」
「水替えと毎日線香を炊いて、後は普通に台所使えばいい。火の神様は台所にいれば満足するさ」
「そういうもんか」
「そういうもん。大丈夫よー」
テレビから天気予報の声が流れてきた。ナビが興味なさそうに画面を見ていた。
「お前、ヒヌカンのこと詳しいな」
「ユタになる前はノロだったからね。家々の神様のことは一通り知ってる」
「ノロって、そういう知識も持ってるのか」
「当たり前さぁ。集落の祭祀を仕切るんだから」
「……知らなかった」
「蒼は知らない事が多いねー」
「そりゃあまだ沖縄に来て一年も経ってないからね……」
その夜は、何も起きなかった。異変が起きたのは翌朝だった。
蒼はその姿を見て硬直した。 台所に、コンロの前で腕を後ろに組んだ知らない女の子が立っていたからだ。制服を着ていたが見たことがない制服だった。茶色い千鳥柄のスカート、白いブラウス、スカートと同じ柄のリボン。背は低くて、髪をきっちり頭の上で二つに束ねていた。腕を後ろに組んで、じっと台所を観察している。
どうしてここに制服姿の女の子がいるのか。まさかこの子もマジムンの類なのか。だとしたら誰か助けてくれ。まだ起き切れていない頭が混乱していた。昨日まではいなかった。確かにいなかった。
「……誰?」
女の子がこちらを向いた。真剣な顔だった。
「換気扇に油が溜まっています。放置すると火災の原因になります」
「はい?」
「コンロ周りの掃除も不足しています。あと冷蔵庫の開閉回数が多い。電気代に響きます」
「ちょっと待って——」
「包丁の切れ味が落ちています。研ぐことをお勧めします」
「……誰なの」
女の子は胸を張った。
「ヒヌカンです。見習いですが」