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第5話:独立の産声

ー/ー



「……よし。これで、今日から俺が『社長』か」


相模原の朝。三月の冷たい空気が肺の奥まで突き刺さる。 相沢恒一は、二十四歳になったばかりの自分の顔を、中古の軽トラのサイドミラーで確認した。
助手席には、柴崎から譲り受けたあの古いペンチと、昨日ホームセンターで揃えたばかりの真新しい腰道具。荷台には、なけなしの貯金とローンで揃えた梯子、電線の束、そして数種類の照明器具が積まれている。


看板はまだない。ただ、運転席のダッシュボードに置かれた「相沢電設」という自作の名刺だけが、彼の唯一の身分証明だった。


独立初日の仕事は、柴崎が紹介してくれた地元の工務店からの依頼だった。 「古いアパートの一室のコンセント交換と、換気扇の清掃。手間賃は安いが、まずは顔を売ってこい」
柴崎の言葉を思い出しながら、恒一はアクセルを踏み込んだ。


現場は、築三十年を超える木造のアパートだった。 これまで柴崎電設でこなしてきた数億円単位のビル改修に比べれば、あまりにも小さな、取るに足りない仕事かもしれない。だが、恒一にとっては、自分の名前で受ける初めての「聖域」だった。


「……おはようございます。相沢電設です」


住民の老婦人に頭を下げる。 かつて特攻服で街を流していた頃なら、目を合わせることさえなかったであろう相手。だが今の恒一は、作業着の襟を正し、誰よりも深く頭を下げた。


「あら、若いのに丁寧な方ね。よろしくお願いします」


その一言が、不器用な恒一の胸を震わせた。 作業は一時間足らずで終わるはずのものだった。だが、恒一は妥協しなかった。 コンセントのカバーを外すと、壁の奥に溜まった数十年の埃を丁寧に掃除し、わずかに緩んでいた配線を、佐藤に教わった通り完璧なトルクで締め直す。


(……見えないところこそ、手を抜かねぇ)


それが、柴崎龍司が自分に叩き込んでくれた唯一の「鉄則」だ。 換気扇の清掃では、油ギトギトのファンを取り出し、外の水道で指先が凍えるほど冷たい水に耐えながら、新品同様になるまで磨き上げた。


「……終わりました。確認をお願いします」


老婦人が台所に立ち、スイッチを入れる。 軽やかな音を立てて回り出した換気扇を見て、彼女は「まあ!」と声を上げた。


「こんなに綺麗になるなんて。前の業者さんは、中までは洗ってくれなかったのよ。……ありがとう、相沢さん」


その時、老婦人が差し出したのは、あらかじめ用意されていた一万円札だった。 工務店を通した支払いは後日だが、それは彼女からの「心付け」だった。


「……いえ、これは受け取れません。仕事ですから」 「いいのよ。あなたのその手を見て、決めていたの。……一生懸命な人の仕事は、気持ちがいいわ」


老婦人が指差したのは、傷だらけで、真っ黒に汚れた恒一の手だった。 その一万円を握りしめた時、恒一は目頭が熱くなるのを必死に堪えた。
柴崎電設にいた頃、給料袋を受け取った時とは全く違う感覚。 自分の技術が、自分の誠実さが、目の前の人間を笑顔にし、価値に変わった。 これこそが独立の、そして職人の「産声」だった。


それからの数ヶ月は、まさに怒涛の毎日だった。 「相沢電設の若いのは、仕事が丁寧で、しかも早い」 口コミは、相模原の小さな工務店やリフォーム会社の間で瞬く間に広がった。


朝五時に起き、現場の段取りを組む。 八時から夕方まで現場で汗を流し、夜は事務所代わりのアパートの一室で、慣れない手つきで請求書を作成する。
経理も、営業も、現場も、すべて一人。 昼食を摂る時間さえ惜しみ、コンビニのおにぎりをハンドルを握りながら頬張る日々。


そんな生活の中で、唯一の心の拠り所は、週に一度、あの国道沿いのコンビニへ寄ることだった。


「……お疲れ様です、相沢さん。今日も遅いんですね」


レジに立つ理恵の姿。 彼女は、恒一が独立したことを伝えた日、自分のことのように喜んでくれた。 「いつか、大きな会社にするんでしょ?
私、応援してます」 その言葉が、疲れ果てた恒一の身体にガソリンを注ぎ込む。


だが、現実は甘くない。 仕事が増えれば増えるほど、一人親方の限界が見えてくる。 「相沢さん、来月のマンションの入線作業、十人くらい手配できるかな?」
元請けからの大型案件の打診。 「……今は、俺一人なんです」 断るたびに、悔しさが込み上げた。 チャンスは目の前にある。だが、掴み取るための「腕」が足りない。


(……人を入れなきゃ、これ以上は登れねぇ)


そんなある日、恒一は現場の帰り道、一台の原付バイクが故障して立ち往生している若者を見かけた。 金髪で、どこか投げやりな目をしたその姿は、数年前の自分そのものだった。


「……おい、ガキ。どうした」 「……ベルトが切れたみたいで。……クソ、ついてねぇな」


若者は地べたに座り込み、空を睨んでいた。 恒一は軽トラを止め、荷台から工具箱を取り出した。


「……ちょっと貸してみろ。直し方は、俺が知ってる」


手際よくカバーを外し、応急処置を施していく恒一の手元を、若者は黙って見つめていた。 「……すげぇ。あんた、何者?」
「相沢電設の相沢だ。……おい、お前。名前は? 仕事は何してんだ?」 「……真治。……俺を雇ってくれる所なんかどこにもねぇよ」


恒一は、数年前の柴崎の姿を自分に重ねていた。 「……明日から、うちに来い。お前の進む道は、俺が作ってやる」


それが、「株式会社トラスト・アイ」の、初めての従業員が誕生した瞬間だった。 相沢電設は、一人の「親方」から、小さな「組織」へと脱皮を始める。
しかし、その急成長の裏側で、恒一は「成功」という名の甘い罠に、少しずつ、しかし確実に足を取られ始めていた。


「……真治、お前、さっきの結線。やり直せ」


相模原の照りつける太陽の下、三十歳を過ぎた恒一の声は、かつての佐藤のような冷徹さを帯びていた。 初めて拾った若者・真治を筆頭に、いつの間にか現場には五人の若手が顔を揃えていた。中古の軽トラは三台の新車に変わり、事務所はアパートの一室から、国道沿いのプレハブ小屋へと移っていた。


「えっ、でも恒一さん。これ、導通は取れてますよ。検査も通りますし……」 「……通るか通らねぇかじゃねぇ。トラスト(信頼)が宿ってねぇっつってんだ。やり直せ。……美しくねぇ仕事は、うちの名前を汚す」


真治は怯えたように頷き、再び天井裏へと消えていった。 恒一は、現場の隅で図面を広げた。 独立して数年。地元の小さな工務店からの依頼は、いつしか中堅ゼネコンの一次請け、二次請けへと格上げされていた。


(……もっとだ。もっとデカい現場を、俺たちの手で動かしてやる)


その野心は、かつての「光を灯したい」という純粋な願いから、少しずつ「組織をデカくし、力を見せつけたい」という欲望へと変質し始めていた。


三十三歳になる頃、「相沢電設」は組織変更を行い、**「株式会社トラスト・アイ」**として産声を上げた。 アイは、相沢の「相」であり、自分の「目(Eye)」であり、そして愛する「理恵」への想いも密かに込めていた。


「恒一さん、今日は大手デベロッパーの接待ですよ。準備はいいですか?」 真治が、事務所のデスクで高級なスーツを広げて待っていた。
「ああ。……理恵には、今夜は遅くなると伝えておけ」


理恵。 彼女とは、独立して二年が経った頃、正式に交際を始めていた。コンビニを辞めた彼女は、小さな生花店で働きながら、荒れ狂うように働く恒一を陰で支え続けていた。
だが、今の恒一にとって、理恵の待つアパートよりも、高級クラブの喧騒や、銀行員との会食の方が「勝負の場」に思えていた。


「恒一さん、あんまり無理しないで。最近、現場の空気、殺伐としてるって真治くんが心配してたわよ」 たまに会う夕食の席で、理恵が控えめに言った言葉も、今の恒一には届かなかった。


「現場は戦場だ。優しさで仕事が取れるかよ。……俺は、お前をいつまでもこんなボロアパートに住ませておくつもりはねぇんだ。最高級のマンションを、俺が建ててやる。……いいから黙って見てろ」


恒一は、高級腕時計のクロノグラフをカチリと動かした。 その指先には、かつて柴崎が言った「死神の指先を握る」という緊張感よりも、札束を数える時の冷たい感触が染み付いていた。


三十五歳。 トラスト・アイは、相模原で知らない者はいないほどの成長を遂げていた。 社員は二十名を超え、協力会社の職人を含めれば、一日に動かす人間は百人を超える。
恒一の愛車は、軽トラからドイツ製の高級SUVへと変わっていた。 相模原の国道を走る時、彼はかつての自分のような「ヤンチャなガキ」を窓越しに見下ろしては、優越感に浸った。


「龍司さん、見ててくださいよ。俺はあんたを超えて、この街の電気を全部支配してやりますから」


たまに柴崎の事務所に顔を出しては、景気のいい話を捲し立てる。 柴崎は、かつてのように恒一の肩を叩くことはなかった。ただ、古ぼけた灰皿にタバコを押し付け、濁った瞳で恒一を見つめるだけだった。


「……恒一。お前、最近、盤(ばん)の中を見たか?」 「ええ、見てますよ。管理体制は万全です。IT化も進めました」 「……そうじゃねぇ。お前のその手で、一本の線を繋いだのはいつだ、と言ってんだ」
「社長が現場で結線なんて、効率が悪すぎますよ。……俺は、金を持ってくるのが仕事です」


恒一は笑って、席を立った。 柴崎の背中が、以前より小さく見えた。 (……龍司さんも、焼きが回ったな。時代は変わってんだよ)


その傲慢さが、現場の隅々にまで「毒」として回り始めていることに、恒一は気づいていなかった。 協力会社への理不尽な工期短縮の要求。
「安全よりも、まずは完工(おわり)だ。遅れは損失だぞ」 事務所でそう怒鳴り散らす恒一の指示は、現場の職人たちを疲弊させ、心の「絶縁」を招いていた。


ある秋の夕暮れ。 相模原市内の大型ショッピングモールの建設現場。 恒一は、現場の進捗が三日遅れていることに激怒し、担当の真治を呼び出した。


「真治! なぜ足場解体を急がせねぇ! 明日には内装屋が入るんだぞ!」 「ですが、社長。昨夜の雨で地盤が緩んでいます。補強してからじゃないと、高所作業は……」 「……言い訳はいい。明日の朝までに終わらせろ。できないなら、次の現場から外すぞ。……わかったな?」


恒一は、真治の顔も見ずに高級車のドアを閉めた。 その時、空には重苦しい黒雲が立ち込めていた。 まるで、これから始まる惨劇を予見するかのように。


恒一が夜の街で祝杯を上げている頃、現場では、疲れ果てた職人たちが、街灯の明かりを頼りに危うい足場へと登っていた。 「……なんか、揺れてねぇか?」 「気のせいだろ。社長が急げって言ってんだ。やるしかねぇよ」


その刹那。 鈍い金属音と共に、夜の静寂が引き裂かれた。


恒一の携帯電話が鳴ったのは、彼が高級クラブでシャンパンを開けようとした瞬間だった。 「……はい、相沢です。……え?」


電話の向こうで、真治の震える声が響く。 「……社長、大変です……! 現場で……足場が崩れました……!
下にいた作業員が……っ」


恒一の手から、クリスタルのグラスが滑り落ちた。 絨毯に広がっていく、赤いワインのシミ。 それは、彼が築き上げてきた虚飾の城が、音を立てて崩れ去る合図だった。


絶頂の頂点で、恒一が掴んだのは栄光ではなかった。 自らの慢心が引き起こした、奈落へと続く片道切符だった。



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相模原の朝。三月の冷たい空気が肺の奥まで突き刺さる。 相沢恒一は、二十四歳になったばかりの自分の顔を、中古の軽トラのサイドミラーで確認した。
助手席には、柴崎から譲り受けたあの古いペンチと、昨日ホームセンターで揃えたばかりの真新しい腰道具。荷台には、なけなしの貯金とローンで揃えた梯子、電線の束、そして数種類の照明器具が積まれている。
看板はまだない。ただ、運転席のダッシュボードに置かれた「相沢電設」という自作の名刺だけが、彼の唯一の身分証明だった。
独立初日の仕事は、柴崎が紹介してくれた地元の工務店からの依頼だった。 「古いアパートの一室のコンセント交換と、換気扇の清掃。手間賃は安いが、まずは顔を売ってこい」
柴崎の言葉を思い出しながら、恒一はアクセルを踏み込んだ。
現場は、築三十年を超える木造のアパートだった。 これまで柴崎電設でこなしてきた数億円単位のビル改修に比べれば、あまりにも小さな、取るに足りない仕事かもしれない。だが、恒一にとっては、自分の名前で受ける初めての「聖域」だった。
「……おはようございます。相沢電設です」
住民の老婦人に頭を下げる。 かつて特攻服で街を流していた頃なら、目を合わせることさえなかったであろう相手。だが今の恒一は、作業着の襟を正し、誰よりも深く頭を下げた。
「あら、若いのに丁寧な方ね。よろしくお願いします」
その一言が、不器用な恒一の胸を震わせた。 作業は一時間足らずで終わるはずのものだった。だが、恒一は妥協しなかった。 コンセントのカバーを外すと、壁の奥に溜まった数十年の埃を丁寧に掃除し、わずかに緩んでいた配線を、佐藤に教わった通り完璧なトルクで締め直す。
(……見えないところこそ、手を抜かねぇ)
それが、柴崎龍司が自分に叩き込んでくれた唯一の「鉄則」だ。 換気扇の清掃では、油ギトギトのファンを取り出し、外の水道で指先が凍えるほど冷たい水に耐えながら、新品同様になるまで磨き上げた。
「……終わりました。確認をお願いします」
老婦人が台所に立ち、スイッチを入れる。 軽やかな音を立てて回り出した換気扇を見て、彼女は「まあ!」と声を上げた。
「こんなに綺麗になるなんて。前の業者さんは、中までは洗ってくれなかったのよ。……ありがとう、相沢さん」
その時、老婦人が差し出したのは、あらかじめ用意されていた一万円札だった。 工務店を通した支払いは後日だが、それは彼女からの「心付け」だった。
「……いえ、これは受け取れません。仕事ですから」 「いいのよ。あなたのその手を見て、決めていたの。……一生懸命な人の仕事は、気持ちがいいわ」
老婦人が指差したのは、傷だらけで、真っ黒に汚れた恒一の手だった。 その一万円を握りしめた時、恒一は目頭が熱くなるのを必死に堪えた。
柴崎電設にいた頃、給料袋を受け取った時とは全く違う感覚。 自分の技術が、自分の誠実さが、目の前の人間を笑顔にし、価値に変わった。 これこそが独立の、そして職人の「産声」だった。
それからの数ヶ月は、まさに怒涛の毎日だった。 「相沢電設の若いのは、仕事が丁寧で、しかも早い」 口コミは、相模原の小さな工務店やリフォーム会社の間で瞬く間に広がった。
朝五時に起き、現場の段取りを組む。 八時から夕方まで現場で汗を流し、夜は事務所代わりのアパートの一室で、慣れない手つきで請求書を作成する。
経理も、営業も、現場も、すべて一人。 昼食を摂る時間さえ惜しみ、コンビニのおにぎりをハンドルを握りながら頬張る日々。
そんな生活の中で、唯一の心の拠り所は、週に一度、あの国道沿いのコンビニへ寄ることだった。
「……お疲れ様です、相沢さん。今日も遅いんですね」
レジに立つ理恵の姿。 彼女は、恒一が独立したことを伝えた日、自分のことのように喜んでくれた。 「いつか、大きな会社にするんでしょ?
私、応援してます」 その言葉が、疲れ果てた恒一の身体にガソリンを注ぎ込む。
だが、現実は甘くない。 仕事が増えれば増えるほど、一人親方の限界が見えてくる。 「相沢さん、来月のマンションの入線作業、十人くらい手配できるかな?」
元請けからの大型案件の打診。 「……今は、俺一人なんです」 断るたびに、悔しさが込み上げた。 チャンスは目の前にある。だが、掴み取るための「腕」が足りない。
(……人を入れなきゃ、これ以上は登れねぇ)
そんなある日、恒一は現場の帰り道、一台の原付バイクが故障して立ち往生している若者を見かけた。 金髪で、どこか投げやりな目をしたその姿は、数年前の自分そのものだった。
「……おい、ガキ。どうした」 「……ベルトが切れたみたいで。……クソ、ついてねぇな」
若者は地べたに座り込み、空を睨んでいた。 恒一は軽トラを止め、荷台から工具箱を取り出した。
「……ちょっと貸してみろ。直し方は、俺が知ってる」
手際よくカバーを外し、応急処置を施していく恒一の手元を、若者は黙って見つめていた。 「……すげぇ。あんた、何者?」
「相沢電設の相沢だ。……おい、お前。名前は? 仕事は何してんだ?」 「……真治。……俺を雇ってくれる所なんかどこにもねぇよ」
恒一は、数年前の柴崎の姿を自分に重ねていた。 「……明日から、うちに来い。お前の進む道は、俺が作ってやる」
それが、「株式会社トラスト・アイ」の、初めての従業員が誕生した瞬間だった。 相沢電設は、一人の「親方」から、小さな「組織」へと脱皮を始める。
しかし、その急成長の裏側で、恒一は「成功」という名の甘い罠に、少しずつ、しかし確実に足を取られ始めていた。
「……真治、お前、さっきの結線。やり直せ」
相模原の照りつける太陽の下、三十歳を過ぎた恒一の声は、かつての佐藤のような冷徹さを帯びていた。 初めて拾った若者・真治を筆頭に、いつの間にか現場には五人の若手が顔を揃えていた。中古の軽トラは三台の新車に変わり、事務所はアパートの一室から、国道沿いのプレハブ小屋へと移っていた。
「えっ、でも恒一さん。これ、導通は取れてますよ。検査も通りますし……」 「……通るか通らねぇかじゃねぇ。トラスト(信頼)が宿ってねぇっつってんだ。やり直せ。……美しくねぇ仕事は、うちの名前を汚す」
真治は怯えたように頷き、再び天井裏へと消えていった。 恒一は、現場の隅で図面を広げた。 独立して数年。地元の小さな工務店からの依頼は、いつしか中堅ゼネコンの一次請け、二次請けへと格上げされていた。
(……もっとだ。もっとデカい現場を、俺たちの手で動かしてやる)
その野心は、かつての「光を灯したい」という純粋な願いから、少しずつ「組織をデカくし、力を見せつけたい」という欲望へと変質し始めていた。
三十三歳になる頃、「相沢電設」は組織変更を行い、**「株式会社トラスト・アイ」**として産声を上げた。 アイは、相沢の「相」であり、自分の「目(Eye)」であり、そして愛する「理恵」への想いも密かに込めていた。
「恒一さん、今日は大手デベロッパーの接待ですよ。準備はいいですか?」 真治が、事務所のデスクで高級なスーツを広げて待っていた。
「ああ。……理恵には、今夜は遅くなると伝えておけ」
理恵。 彼女とは、独立して二年が経った頃、正式に交際を始めていた。コンビニを辞めた彼女は、小さな生花店で働きながら、荒れ狂うように働く恒一を陰で支え続けていた。
だが、今の恒一にとって、理恵の待つアパートよりも、高級クラブの喧騒や、銀行員との会食の方が「勝負の場」に思えていた。
「恒一さん、あんまり無理しないで。最近、現場の空気、殺伐としてるって真治くんが心配してたわよ」 たまに会う夕食の席で、理恵が控えめに言った言葉も、今の恒一には届かなかった。
「現場は戦場だ。優しさで仕事が取れるかよ。……俺は、お前をいつまでもこんなボロアパートに住ませておくつもりはねぇんだ。最高級のマンションを、俺が建ててやる。……いいから黙って見てろ」
恒一は、高級腕時計のクロノグラフをカチリと動かした。 その指先には、かつて柴崎が言った「死神の指先を握る」という緊張感よりも、札束を数える時の冷たい感触が染み付いていた。
三十五歳。 トラスト・アイは、相模原で知らない者はいないほどの成長を遂げていた。 社員は二十名を超え、協力会社の職人を含めれば、一日に動かす人間は百人を超える。
恒一の愛車は、軽トラからドイツ製の高級SUVへと変わっていた。 相模原の国道を走る時、彼はかつての自分のような「ヤンチャなガキ」を窓越しに見下ろしては、優越感に浸った。
「龍司さん、見ててくださいよ。俺はあんたを超えて、この街の電気を全部支配してやりますから」
たまに柴崎の事務所に顔を出しては、景気のいい話を捲し立てる。 柴崎は、かつてのように恒一の肩を叩くことはなかった。ただ、古ぼけた灰皿にタバコを押し付け、濁った瞳で恒一を見つめるだけだった。
「……恒一。お前、最近、盤(ばん)の中を見たか?」 「ええ、見てますよ。管理体制は万全です。IT化も進めました」 「……そうじゃねぇ。お前のその手で、一本の線を繋いだのはいつだ、と言ってんだ」
「社長が現場で結線なんて、効率が悪すぎますよ。……俺は、金を持ってくるのが仕事です」
恒一は笑って、席を立った。 柴崎の背中が、以前より小さく見えた。 (……龍司さんも、焼きが回ったな。時代は変わってんだよ)
その傲慢さが、現場の隅々にまで「毒」として回り始めていることに、恒一は気づいていなかった。 協力会社への理不尽な工期短縮の要求。
「安全よりも、まずは完工(おわり)だ。遅れは損失だぞ」 事務所でそう怒鳴り散らす恒一の指示は、現場の職人たちを疲弊させ、心の「絶縁」を招いていた。
ある秋の夕暮れ。 相模原市内の大型ショッピングモールの建設現場。 恒一は、現場の進捗が三日遅れていることに激怒し、担当の真治を呼び出した。
「真治! なぜ足場解体を急がせねぇ! 明日には内装屋が入るんだぞ!」 「ですが、社長。昨夜の雨で地盤が緩んでいます。補強してからじゃないと、高所作業は……」 「……言い訳はいい。明日の朝までに終わらせろ。できないなら、次の現場から外すぞ。……わかったな?」
恒一は、真治の顔も見ずに高級車のドアを閉めた。 その時、空には重苦しい黒雲が立ち込めていた。 まるで、これから始まる惨劇を予見するかのように。
恒一が夜の街で祝杯を上げている頃、現場では、疲れ果てた職人たちが、街灯の明かりを頼りに危うい足場へと登っていた。 「……なんか、揺れてねぇか?」 「気のせいだろ。社長が急げって言ってんだ。やるしかねぇよ」
その刹那。 鈍い金属音と共に、夜の静寂が引き裂かれた。
恒一の携帯電話が鳴ったのは、彼が高級クラブでシャンパンを開けようとした瞬間だった。 「……はい、相沢です。……え?」
電話の向こうで、真治の震える声が響く。 「……社長、大変です……! 現場で……足場が崩れました……!
下にいた作業員が……っ」
恒一の手から、クリスタルのグラスが滑り落ちた。 絨毯に広がっていく、赤いワインのシミ。 それは、彼が築き上げてきた虚飾の城が、音を立てて崩れ去る合図だった。
絶頂の頂点で、恒一が掴んだのは栄光ではなかった。 自らの慢心が引き起こした、奈落へと続く片道切符だった。