第6話:虚飾の宴
ー/ー耳元で鳴り響く、電子音の羅列。 高級クラブの喧騒、女たちの嬌声、氷がグラスに当たる涼しげな音。それらすべてが、真治の震える声一つで、砂嵐のようなノイズへと変わった。
「……社長? もしもし、社長……!
聞こえてますか! 足場が、足場が崩落したんです! 下にいた協力会社の作業員が……っ」
恒一は、手に持っていたスマートフォンの感触さえ失っていた。 床に散らばったワインの赤が、まるで現場に流れた血のように見えて、胃の奥から酸っぱいものがせり上がってくる。
「……すぐ行く。……場所は、どこだ」
這い出すような声でそれだけ告げると、恒一は隣に座っていた取引先の男を突き飛ばすようにして立ち上がった。 「おい、相沢社長!
まだ話は終わってねぇぞ!」 背後から飛んでくる声を無視し、彼は夜の街を駆け抜けた。
愛車のSUVに飛び乗り、アクセルを踏み込む。 相模原の夜景が、窓の外で歪んだ光の帯となって流れていく。
(……嘘だろ。あそこは、地盤補強を……いや、俺が急がせたんだ)
脳裏を掠めるのは、数時間前の自分の傲慢な言葉だ。 『言い訳はいい。明日の朝までに終わらせろ』 その一言が、誰かの命を奪ったのかもしれない。ハンドルを握る手が、自分でも制御できないほど激しく震えていた。
現場に到着した瞬間、恒一は絶句した。 暗闇の中、赤色灯が幾重にも重なり、工事用の投光器が、無惨に折れ曲がった鉄パイプの山を無機質に照らし出している。
崩れ落ちた足場は、まるで巨大な怪物の死骸のように、地面に横たわっていた。
「社長……!」
駆け寄ってきた真治の顔は、泥と涙でぐちゃぐちゃだった。 「……どうなった。容体は」
「……協力会社の山崎さんです。下敷きになって……今、救急車で運ばれました。意識は……意識はなかったです……」
真治の言葉が終わる前に、数人の男たちが恒一を取り囲んだ。 現場に駆けつけた警察官、そして、どこから聞きつけたのか、カメラを抱えた数人の記者たち。
「あなたが、株式会社トラスト・アイの相沢社長ですか!」 「無理な工期短縮があったという証言がありますが、事実は!」 「地盤の緩みを指摘されていたのに、作業を強行させたのは本当ですか!」
フラッシュの白い光が、恒一の視界を焼き切る。 昨日まで、自分を「成功者」として持ち上げていた光とは違う、悪意に満ちた、獲物を追い詰めるための光。
「……今は、何も話せません。……負傷者の、救命が第一です」
そう答えるのが精一杯だった。 SUVの車内に逃げ込むように戻ったが、四方八方からカメラのレンズが向けられ、窓ガラスを叩く音が止まらない。
恒一は、暗い車内でハンドルに額を押し付けた。
(……龍司さん。俺、何を間違えたんだ)
かつて柴崎が言った言葉が、呪いのように蘇る。 『電気ってやつは、ヤンキーだろうがエリートだろうが、間違えた奴を平等に殺す』
電気だけじゃない。現場そのものが、慢心した者を決して許さない、峻烈な神域だったのだ。
翌朝。 株式会社トラスト・アイの本社ビルの前には、朝からマスコミが詰めかけていた。 テレビのニュース番組では、「急成長を遂げた若手社長の闇」「ずさんな安全管理が招いた人災」というテロップと共に、高級車を乗り回す恒一のSNSの写真が晒されていた。
事務所の中は、お通夜のような静寂に包まれていた。 昨日まで「兄貴」と慕い、恒一の周りに群がっていた社員たちの目は、一様に冷たく、あるいは怯えていた。
「社長……銀行から電話です。融資の継続を再検討したいと……」 「元請けのデベロッパーからも連絡が入っています。今回の件が解決するまで、全現場の出入り禁止、および契約の解除を検討すると……」
真治が、次々と舞い込んでくる「絶望」を報告する。 恒一の携帯電話は、鳴り止むことがなかった。 だが、その大半は、自分を助けてくれるための連絡ではなかった。
「……おい、相沢。お前のせいで、うちの評判までガタ落ちだ。貸してた金、今すぐ返せよ」 「契約書通り、違約金を請求させてもらう。……いい夢見させてもらったよ、元ヤン社長さん」
昨日まで肩を組み、酒を酌み交わしていた「仲間」たちが、蜘蛛の子を散らすように去っていく。 残ったのは、膨大な損害賠償の予定額と、世間からの激しいバッシングだけだった。
夕刻。 疲れ果てた恒一が、誰にも見つからないように裏口からビルを出ようとした時だ。 一台の軽自動車が、音もなく目の前に止まった。
「……恒一さん」
運転席から降りてきたのは、理恵だった。 彼女の顔は、テレビの報道で見た以上にやつれ、心配で今にも泣き出しそうだった。
「理恵……。なんでここに……」
「……お弁当、作ってきたの。あなた、昨夜から何も食べてないでしょ?」
差し出された、小さな布に包まれた弁当箱。 理恵は、恒一の置かれている状況をすべて知っているはずだった。会社が潰れるかもしれないことも、彼が人殺しと呼ばれるかもしれないことも。
それでも、彼女の瞳には、三年前のあのコンビニのカウンター越しに自分を見ていた時と同じ、静かな光が宿っていた。
恒一は、弁当箱を受け取ることができなかった。 自分の汚れた手が、彼女の純粋な優しさまで汚してしまうような気がして。
「……帰れよ。……もう、お前と一緒にいられるような状況じゃねぇんだ。俺は、もう終わりだ」
「終わってないわ」
理恵は、恒一の震える手を、両手でしっかりと握りしめた。 「……生きてる。山崎さんも、あなたも。……まだ、息をしてるじゃない。だったら、終わらせちゃダメ。……やり直すの。一から、また……」
理恵の温もりが、氷のように冷え切っていた恒一の心に、痛いほどの熱を伝えてくる。 だが、今の恒一には、その熱を受け入れるだけの器が残っていなかった。
彼は理恵の手を振り切り、逃げるように自分の車へと乗り込んだ。
バックミラーに映る、一人立ち尽くす理恵の姿。 そして、その背後にそびえ立つ、かつての自分の「城」であった自社ビル。 すべてが、虚飾の宴の終わりを告げるように、夕闇の中に沈んでいった。
理恵の手を振り切り、逃げるように向かった先は、被害者である山崎さんが運び込まれた病院だった。 重苦しい消毒液の匂いが立ち込める廊下。その突き当たりにある集中治療室の前で、恒一の足は凍りついたように止まった。
「……どの面下げて、ここに来たんだ!」
野太い怒声が、静まり返った廊下に響き渡った。 山崎さんの息子、まだ二十代前半だろうか。作業着を着たままの彼が、恒一の胸ぐらをつかみ、壁に叩きつけた。
「親父はな……あんたの会社の無理な指示のせいで、あんな鉄クズの下敷きになったんだぞ!
意識も戻らねぇ、足も動くか分からねぇ……。あんた、金さえ稼げれば、人の命なんてどうでもいいのか!」
「……申し訳、ありません……」
恒一は、抵抗一つせず、ただ項垂れた。 かつて相模原の路地裏で、自分を囲んだチンピラに立ち向かった時の勇気など、どこにもなかった。
「申し訳ないで済むかよ! 帰れ! 親父の前に、二度とその薄汚ねぇツラを見せるな!」
突き飛ばされた恒一の背中に、山崎さんの奥さんの、絞り出すような啜り泣きが刺さる。 言葉が出なかった。 自分が「成功」だと思っていたものの正体は、誰かの家族の日常を破壊し、その犠牲の上に築かれた砂の城だったのだ。
病院を出たのは、深夜の二時を回っていた。 事務所に戻ると、そこにはさらなる地獄が待っていた。
「……社長。みんな、辞めるって言ってます」
真治が、一枚の封筒の束をデスクに置いた。 そこには、十数名の社員たちの退職願が重なっていた。 「現場の事故だけじゃない。……社長の、最近のやり方についていけないって。元請けからの取引停止で、来月の給料が出るかどうかも怪しいって噂が広まってます」
「……真治。お前もか?」
恒一が力なく問うと、真治は拳を握りしめたまま、沈黙した。 「……俺は、あんたに拾ってもらった恩があります。でも、今の恒一さんは、俺が憧れた『電気屋の親方』じゃない。……ただの、数字に憑かれた亡霊ですよ」
真治はそれだけ言うと、深く頭を下げて事務所を出ていった。 一人残された事務所。 広々とした社長室には、高級な革張りのソファと、成功を象徴するトロフィーが並んでいる。だが、そのどれもが今は、自分を嘲笑う不気味な置物にしか見えなかった。
翌日から、トラスト・アイの崩壊は加速した。 銀行からの融資は完全にストップし、資金繰りは一気にショートした。 取引先からは、損害賠償と違約金の請求書が山のように届く。
追い打ちをかけるように、労基署の調査が入り、ずさんな安全管理体制が次々と暴かれていった。
「……自己破産。……それしか、道はありませんね」
馴染みの弁護士が、冷淡な声で告げた。 「会社は解散。本社ビルも、ご自宅も、あの高級車も、すべて差し押さえの対象です。……相沢さん、あなたはすべてを失うことになります」
すべてを失う。 その言葉が、恒一の頭の中で虚しく反響した。 相模原のモヒカンから、年商数億の社長へ。 その十数年の軌跡が、たった数日の嵐ですべて消えてなくなる。
一週間後。 恒一は、差し押さえの赤い紙が貼られた社長室で、一人、段ボール箱に私物を詰めていた。 持っていけるものは、ほとんどない。
ブランドものの時計も、高級スーツも、今はもう自分の所有物ではなかった。
箱の底から、ふと一つの工具が顔を出した。 三年前、独立する時に柴崎から譲り受けた、あの古いペンチだ。 成功に酔いしれていた頃は、引き出しの奥に放り投げたまま、触れることさえなかった。
恒一は、そのペンチを手に取り、そっと握りしめた。 錆び一つないように手入れされていたはずのペンチは、いつの間にか、くすんで見えた。
(……龍司さん。俺、あんたとの約束、何一つ守れなかったよ)
「……恒一。入るぞ」
不意に、聞き覚えのある重厚な声がした。 振り返ると、そこには柴崎龍司が立っていた。 かつてより少しだけ白髪の混じったその姿は、相変わらず、この街の「親分」としての揺るぎないオーラを放っていた。
「……龍司さん。……何しに来たんですか。今の俺は、あんたに合わせる顔なんて……」
「合わせる顔がねぇなら、背中で聞け」
柴崎は、窓の外に見える相模原の街を指差した。 「お前が灯したはずの光は、まだ消えちゃいねぇ。……だが、お前の心の中の火は、もう消えちまったのか?」
「……消えたよ! 全部なくなったんだ! 社員も、金も、信用も! 明日には、俺はただの破産者だ!……どうやって、ここから立ち上がれって言うんだよ!」
恒一は叫んだ。それは、自分の情けなさに対する、魂の慟哭だった。 柴崎はゆっくりと歩み寄り、恒一の胸ぐらを掴んで、無理やり顔を上げさせた。
「金がねぇなら、また稼げ。家がねぇなら、現場で寝ろ。……だがな、恒一。お前の『指先』には、まだ技術が残ってんだろ。……そのペンチ、何のために持ってるんだ。お前が繋ぐ一本の線で、誰かの夜を照らすためじゃなかったのか?」
柴崎の手の温もりが、絶望で硬直していた恒一の心に、痛いほど伝わってきた。 「……どん底ってのはな、それ以上落ちねぇって場所だ。……這い上がってこい、恒一。相模原の土は、お前を拒みゃしねぇよ」
柴崎はそれだけ言うと、一通の住所が書かれたメモをデスクに置き、去っていった。
その夜。 恒一は、すべての荷物を運び出した後の、ガランとした事務所の床に座り込んでいた。 電気の止められた室内は、真の闇に包まれている。
かつて自分が支配したと思っていた街の光が、窓の向こうで遠く、冷たく瞬いていた。
恒一は、段ボールの中から、ボロボロになった一冊のノートを取り出した。 それは、かつて理恵との再会を機に書き溜めていた、職人としての備忘録だった。
最後のページ。そこには、数年前の自分が書いた言葉が残っていた。
『誰にも直せないものを、俺が直す。それが、俺の生きる道だ』
恒一は、声も上げずに泣いた。 高級クラブのシャンパンの味も、成功者の高笑いも、すべては泡のように消えていった。 残ったのは、空っぽになった自分の掌と、柴崎から託された一本のペンチだけ。
翌朝。 株式会社トラスト・アイの看板が下ろされた。 相沢恒一は、たった一つのリュックサックを背負い、かつての「城」を後にした。
足元は泥だらけの安全靴。 それは、すべてを失った男の、再起へと続く「地獄の第一歩」だった。
「……社長? もしもし、社長……!
聞こえてますか! 足場が、足場が崩落したんです! 下にいた協力会社の作業員が……っ」
恒一は、手に持っていたスマートフォンの感触さえ失っていた。 床に散らばったワインの赤が、まるで現場に流れた血のように見えて、胃の奥から酸っぱいものがせり上がってくる。
「……すぐ行く。……場所は、どこだ」
這い出すような声でそれだけ告げると、恒一は隣に座っていた取引先の男を突き飛ばすようにして立ち上がった。 「おい、相沢社長!
まだ話は終わってねぇぞ!」 背後から飛んでくる声を無視し、彼は夜の街を駆け抜けた。
愛車のSUVに飛び乗り、アクセルを踏み込む。 相模原の夜景が、窓の外で歪んだ光の帯となって流れていく。
(……嘘だろ。あそこは、地盤補強を……いや、俺が急がせたんだ)
脳裏を掠めるのは、数時間前の自分の傲慢な言葉だ。 『言い訳はいい。明日の朝までに終わらせろ』 その一言が、誰かの命を奪ったのかもしれない。ハンドルを握る手が、自分でも制御できないほど激しく震えていた。
現場に到着した瞬間、恒一は絶句した。 暗闇の中、赤色灯が幾重にも重なり、工事用の投光器が、無惨に折れ曲がった鉄パイプの山を無機質に照らし出している。
崩れ落ちた足場は、まるで巨大な怪物の死骸のように、地面に横たわっていた。
「社長……!」
駆け寄ってきた真治の顔は、泥と涙でぐちゃぐちゃだった。 「……どうなった。容体は」
「……協力会社の山崎さんです。下敷きになって……今、救急車で運ばれました。意識は……意識はなかったです……」
真治の言葉が終わる前に、数人の男たちが恒一を取り囲んだ。 現場に駆けつけた警察官、そして、どこから聞きつけたのか、カメラを抱えた数人の記者たち。
「あなたが、株式会社トラスト・アイの相沢社長ですか!」 「無理な工期短縮があったという証言がありますが、事実は!」 「地盤の緩みを指摘されていたのに、作業を強行させたのは本当ですか!」
フラッシュの白い光が、恒一の視界を焼き切る。 昨日まで、自分を「成功者」として持ち上げていた光とは違う、悪意に満ちた、獲物を追い詰めるための光。
「……今は、何も話せません。……負傷者の、救命が第一です」
そう答えるのが精一杯だった。 SUVの車内に逃げ込むように戻ったが、四方八方からカメラのレンズが向けられ、窓ガラスを叩く音が止まらない。
恒一は、暗い車内でハンドルに額を押し付けた。
(……龍司さん。俺、何を間違えたんだ)
かつて柴崎が言った言葉が、呪いのように蘇る。 『電気ってやつは、ヤンキーだろうがエリートだろうが、間違えた奴を平等に殺す』
電気だけじゃない。現場そのものが、慢心した者を決して許さない、峻烈な神域だったのだ。
翌朝。 株式会社トラスト・アイの本社ビルの前には、朝からマスコミが詰めかけていた。 テレビのニュース番組では、「急成長を遂げた若手社長の闇」「ずさんな安全管理が招いた人災」というテロップと共に、高級車を乗り回す恒一のSNSの写真が晒されていた。
事務所の中は、お通夜のような静寂に包まれていた。 昨日まで「兄貴」と慕い、恒一の周りに群がっていた社員たちの目は、一様に冷たく、あるいは怯えていた。
「社長……銀行から電話です。融資の継続を再検討したいと……」 「元請けのデベロッパーからも連絡が入っています。今回の件が解決するまで、全現場の出入り禁止、および契約の解除を検討すると……」
真治が、次々と舞い込んでくる「絶望」を報告する。 恒一の携帯電話は、鳴り止むことがなかった。 だが、その大半は、自分を助けてくれるための連絡ではなかった。
「……おい、相沢。お前のせいで、うちの評判までガタ落ちだ。貸してた金、今すぐ返せよ」 「契約書通り、違約金を請求させてもらう。……いい夢見させてもらったよ、元ヤン社長さん」
昨日まで肩を組み、酒を酌み交わしていた「仲間」たちが、蜘蛛の子を散らすように去っていく。 残ったのは、膨大な損害賠償の予定額と、世間からの激しいバッシングだけだった。
夕刻。 疲れ果てた恒一が、誰にも見つからないように裏口からビルを出ようとした時だ。 一台の軽自動車が、音もなく目の前に止まった。
「……恒一さん」
運転席から降りてきたのは、理恵だった。 彼女の顔は、テレビの報道で見た以上にやつれ、心配で今にも泣き出しそうだった。
「理恵……。なんでここに……」
「……お弁当、作ってきたの。あなた、昨夜から何も食べてないでしょ?」
差し出された、小さな布に包まれた弁当箱。 理恵は、恒一の置かれている状況をすべて知っているはずだった。会社が潰れるかもしれないことも、彼が人殺しと呼ばれるかもしれないことも。
それでも、彼女の瞳には、三年前のあのコンビニのカウンター越しに自分を見ていた時と同じ、静かな光が宿っていた。
恒一は、弁当箱を受け取ることができなかった。 自分の汚れた手が、彼女の純粋な優しさまで汚してしまうような気がして。
「……帰れよ。……もう、お前と一緒にいられるような状況じゃねぇんだ。俺は、もう終わりだ」
「終わってないわ」
理恵は、恒一の震える手を、両手でしっかりと握りしめた。 「……生きてる。山崎さんも、あなたも。……まだ、息をしてるじゃない。だったら、終わらせちゃダメ。……やり直すの。一から、また……」
理恵の温もりが、氷のように冷え切っていた恒一の心に、痛いほどの熱を伝えてくる。 だが、今の恒一には、その熱を受け入れるだけの器が残っていなかった。
彼は理恵の手を振り切り、逃げるように自分の車へと乗り込んだ。
バックミラーに映る、一人立ち尽くす理恵の姿。 そして、その背後にそびえ立つ、かつての自分の「城」であった自社ビル。 すべてが、虚飾の宴の終わりを告げるように、夕闇の中に沈んでいった。
理恵の手を振り切り、逃げるように向かった先は、被害者である山崎さんが運び込まれた病院だった。 重苦しい消毒液の匂いが立ち込める廊下。その突き当たりにある集中治療室の前で、恒一の足は凍りついたように止まった。
「……どの面下げて、ここに来たんだ!」
野太い怒声が、静まり返った廊下に響き渡った。 山崎さんの息子、まだ二十代前半だろうか。作業着を着たままの彼が、恒一の胸ぐらをつかみ、壁に叩きつけた。
「親父はな……あんたの会社の無理な指示のせいで、あんな鉄クズの下敷きになったんだぞ!
意識も戻らねぇ、足も動くか分からねぇ……。あんた、金さえ稼げれば、人の命なんてどうでもいいのか!」
「……申し訳、ありません……」
恒一は、抵抗一つせず、ただ項垂れた。 かつて相模原の路地裏で、自分を囲んだチンピラに立ち向かった時の勇気など、どこにもなかった。
「申し訳ないで済むかよ! 帰れ! 親父の前に、二度とその薄汚ねぇツラを見せるな!」
突き飛ばされた恒一の背中に、山崎さんの奥さんの、絞り出すような啜り泣きが刺さる。 言葉が出なかった。 自分が「成功」だと思っていたものの正体は、誰かの家族の日常を破壊し、その犠牲の上に築かれた砂の城だったのだ。
病院を出たのは、深夜の二時を回っていた。 事務所に戻ると、そこにはさらなる地獄が待っていた。
「……社長。みんな、辞めるって言ってます」
真治が、一枚の封筒の束をデスクに置いた。 そこには、十数名の社員たちの退職願が重なっていた。 「現場の事故だけじゃない。……社長の、最近のやり方についていけないって。元請けからの取引停止で、来月の給料が出るかどうかも怪しいって噂が広まってます」
「……真治。お前もか?」
恒一が力なく問うと、真治は拳を握りしめたまま、沈黙した。 「……俺は、あんたに拾ってもらった恩があります。でも、今の恒一さんは、俺が憧れた『電気屋の親方』じゃない。……ただの、数字に憑かれた亡霊ですよ」
真治はそれだけ言うと、深く頭を下げて事務所を出ていった。 一人残された事務所。 広々とした社長室には、高級な革張りのソファと、成功を象徴するトロフィーが並んでいる。だが、そのどれもが今は、自分を嘲笑う不気味な置物にしか見えなかった。
翌日から、トラスト・アイの崩壊は加速した。 銀行からの融資は完全にストップし、資金繰りは一気にショートした。 取引先からは、損害賠償と違約金の請求書が山のように届く。
追い打ちをかけるように、労基署の調査が入り、ずさんな安全管理体制が次々と暴かれていった。
「……自己破産。……それしか、道はありませんね」
馴染みの弁護士が、冷淡な声で告げた。 「会社は解散。本社ビルも、ご自宅も、あの高級車も、すべて差し押さえの対象です。……相沢さん、あなたはすべてを失うことになります」
すべてを失う。 その言葉が、恒一の頭の中で虚しく反響した。 相模原のモヒカンから、年商数億の社長へ。 その十数年の軌跡が、たった数日の嵐ですべて消えてなくなる。
一週間後。 恒一は、差し押さえの赤い紙が貼られた社長室で、一人、段ボール箱に私物を詰めていた。 持っていけるものは、ほとんどない。
ブランドものの時計も、高級スーツも、今はもう自分の所有物ではなかった。
箱の底から、ふと一つの工具が顔を出した。 三年前、独立する時に柴崎から譲り受けた、あの古いペンチだ。 成功に酔いしれていた頃は、引き出しの奥に放り投げたまま、触れることさえなかった。
恒一は、そのペンチを手に取り、そっと握りしめた。 錆び一つないように手入れされていたはずのペンチは、いつの間にか、くすんで見えた。
(……龍司さん。俺、あんたとの約束、何一つ守れなかったよ)
「……恒一。入るぞ」
不意に、聞き覚えのある重厚な声がした。 振り返ると、そこには柴崎龍司が立っていた。 かつてより少しだけ白髪の混じったその姿は、相変わらず、この街の「親分」としての揺るぎないオーラを放っていた。
「……龍司さん。……何しに来たんですか。今の俺は、あんたに合わせる顔なんて……」
「合わせる顔がねぇなら、背中で聞け」
柴崎は、窓の外に見える相模原の街を指差した。 「お前が灯したはずの光は、まだ消えちゃいねぇ。……だが、お前の心の中の火は、もう消えちまったのか?」
「……消えたよ! 全部なくなったんだ! 社員も、金も、信用も! 明日には、俺はただの破産者だ!……どうやって、ここから立ち上がれって言うんだよ!」
恒一は叫んだ。それは、自分の情けなさに対する、魂の慟哭だった。 柴崎はゆっくりと歩み寄り、恒一の胸ぐらを掴んで、無理やり顔を上げさせた。
「金がねぇなら、また稼げ。家がねぇなら、現場で寝ろ。……だがな、恒一。お前の『指先』には、まだ技術が残ってんだろ。……そのペンチ、何のために持ってるんだ。お前が繋ぐ一本の線で、誰かの夜を照らすためじゃなかったのか?」
柴崎の手の温もりが、絶望で硬直していた恒一の心に、痛いほど伝わってきた。 「……どん底ってのはな、それ以上落ちねぇって場所だ。……這い上がってこい、恒一。相模原の土は、お前を拒みゃしねぇよ」
柴崎はそれだけ言うと、一通の住所が書かれたメモをデスクに置き、去っていった。
その夜。 恒一は、すべての荷物を運び出した後の、ガランとした事務所の床に座り込んでいた。 電気の止められた室内は、真の闇に包まれている。
かつて自分が支配したと思っていた街の光が、窓の向こうで遠く、冷たく瞬いていた。
恒一は、段ボールの中から、ボロボロになった一冊のノートを取り出した。 それは、かつて理恵との再会を機に書き溜めていた、職人としての備忘録だった。
最後のページ。そこには、数年前の自分が書いた言葉が残っていた。
『誰にも直せないものを、俺が直す。それが、俺の生きる道だ』
恒一は、声も上げずに泣いた。 高級クラブのシャンパンの味も、成功者の高笑いも、すべては泡のように消えていった。 残ったのは、空っぽになった自分の掌と、柴崎から託された一本のペンチだけ。
翌朝。 株式会社トラスト・アイの看板が下ろされた。 相沢恒一は、たった一つのリュックサックを背負い、かつての「城」を後にした。
足元は泥だらけの安全靴。 それは、すべてを失った男の、再起へと続く「地獄の第一歩」だった。
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