第10話:計算外の別離
ー/ー 荒野を爆走する『ブラスト・ヘヴン号』の車内には、耳が痛くなるほどの静寂が満ちていた。
つい先刻までここにあった、カイルという男が持ち込んでいたあの軽薄で騒がしい冗談。真鍮の多重レンズ眼鏡が奏でていた、絶え間なく流れる無機質な歯車の回転音。
それらが消えただけで、世界がこれほどまでに色褪せ、寒々しく見えるものか。
シグナはソファに深く沈み込み、膝を抱えて動かなかった。背中から生えた四本の鋼鉄腕は、持ち主の意気消沈に呼応するように力なく垂れ下がり、冷えた蒸気を微かに排気口から漏らしている。
その手には、カイルが最後に無理やり押し付けていった真鍮の眼鏡が握られている。指先に残るわずかな金属の体温が、冷え切った鋼鉄の義肢を通じて、彼女の心に消えない痛みを刻んでいた。
「……バカね。本当に、バカな男。……私に『逃げろ』なんて、勝手すぎるわ」
掠れた声が、砂塵の入り込む車内に漏れる。
施設で彼を「たちが悪い」と拒絶した直後の、あの最悪な別離。自分を庇い、磁気圧力の鎖に縛られながら連行されていく際に見せた、あの不敵で、どこか満足げな笑みが、網膜の裏側に焼き付いて離れない。
シグナは、自分が彼に対して抱いていた「利用されている」という疑念が、彼が命懸けで見せた「真実」の前で、あまりにも無力に砕け散っていくのを感じていた。彼が守ろうとしたのは、ヘリオスの資産としての私ではなく、ただの「私」だったのだ。
ハルもまた、主を失ったかのように真空管の光を弱め、床の上で力なく駆動音を鳴らしていた。だが、不意にハルの内部でゼンマイが激しく巻き上がる音がし、真鍮のボディがガタガタと震え始めた。
『……生体認証、および緊急時プロトコルを確認。……メインサーバー復旧。ご主人様、カイル様の演算ログの最深部……物理的に隔離されていた、未読の音声メッセージを発見しました。再生を開始します』
「メッセージ……?」
シグナがハルを抱き上げると、そのスピーカーからノイズ混じりの、けれど聞き間違えようのない声が流れてきた。
『……生体認証、確認。シグナ、これを聴いているということは、僕は今、君のそばにいないんだろうね。……ごめん。君を救うには、僕が一度「システム」の内側に戻り、中枢からロックを解除する必要があったんだ。これは計算された必然だよ。決して、君が僕を拒絶したせいじゃない』
カイルの声は、どこか穏やかで、それでいてひどく不器用だった。
『……でも、君はもう自由だ。僕との契約に縛られる必要はない。……どうか、僕のいない世界で、君自身の人生を見つけてほしい。君の笑った顔を計算したかったけれど、それは、君自身で探してくれ』
音声の終了と共に、ハルから強烈な信号がシグナの手の中にある眼鏡へと送信された。
『コード:ゴースト・キー、アクティベート。……君の記憶(データ)を、君に返すよ』
眼鏡からセピア色の投影が溢れ出し、直接神経接続端子を通じてシグナの脳内へ流れ込んだ。それは数式ではない、彼の生の感情の奔流だった。
真っ白な病室。鼻を突く消毒液の臭い。
泣きじゃくる幼い自分の、冷たくなった手を握り、「僕が、君を外へ連れ出す。星を見に行こう」と約束した、眼鏡をかけていない小さな少年の、真摯な瞳。自分を救ってくれたのは「四腕の少女」だと言っていたけれど、私の方こそ、あの時、彼という唯一の希望に救われていたのだ。
彼がどれほどの犠牲を払い、どれほどの時間をかけてあの約束を守ろうとしてきたのか。そのすべてが、今のシグナには痛いほど理解できた。
「シグナ、いつまでそうしてるんだい。……あいつの顔を思い出して泣くのが、今のあんたの「仕事」かい?」
運転席からガラの低い声が飛ぶ。彼女はハンドルを握り締め、大きくため息をつくと、電子タバコを窓の外へと投げ捨てた。
「……もう、隠し通せる状況じゃないね。口止めされてたが、あのお坊ちゃん……カイルから、アタシは最初からすべてを聞かされていたんだよ」
「……聞かされていた? 何を?」
「あいつはヘリオスの単なる道楽息子なんかじゃない。異常な計算機能を持つ個体を創出する「プロジェクト・アイオーン」の最高傑作だったのさ。脳の大部分を精密な時計仕掛けの演算装置へと作り替えられ、常に世界を微分方程式と確率論の数式でしか捉えられないようにされた、哀れな実験体だよ。感情のゆらぎさえも、歯車の回転数として処理するように強制されていたんだ」
「……あいつも、私と同じだったっていうの?」
ガラの言葉の一つ一つが、シグナの胸に突き刺さる。
「ああ。そうだよ。そんな地獄のような施設で、唯一あいつの手を引いて、外の光を見せてくれた「四腕の少女」……あんたを救い出すために、あいつは自らその地獄に舞い戻ったんだ。ヘリオスの次期CEO候補という地位にまで登り詰めたのは、出世欲なんかじゃない。あそこまで高く登らなきゃ、企業が資産として厳重に封印した「あんたの記憶」を盗み出す権限が得られなかったからさ」
シグナは立ち上がった。その瞳には、かつてないほど強固な意志の光が宿っている。
カイルのあの軽薄な態度は、すべて、自分の内面の地獄を見せないための演技だったのだ。そうでもしなければ、自分への罪悪感と執着で、彼の精密すぎる脳は熱暴走を起こし、焼き切れていただろう。
「……あいつ、最初から自分が捕まることまで計算に入れていた。……あいつのあの態度は、全部、私を逃がすための準備だったのね」
「あいつのあの軽薄な態度は全部演技さ。そうでもしなきゃ、あんたへの罪悪感と執着で、あいつ自身の脳が焼き切れていただろうからね」
「あんた……、知ってて私に黙ってたのね」
「……すまないね、これは契約だったんだ。そして、カイルは、自分の命さえも演算の駒として使った。だがね、シグナ。あいつは一つだけ、大きな見落としをしていたよ」
ガラがミラー越しに不敵な笑みを浮かべる。
「あいつの演算には、シグナ……あんたの『怒り』が計算に入ってなかった」
「……ええ。自由と逃亡は、違うわ。……自由を手に入れた私だからこそ、あいつの勝手な計算をぶち壊しに行くのよ。契約は、まだ終わってないんだから」
背中から展開された四本の腕が、かつてないほど滑らかに、そして周囲の空気を震わせるほどの力強さで咆哮を上げる。ピストンが最高圧力を記録し、全身から真っ白な蒸気が噴き出した。
「あんな自分勝手な愛、絶対に許さない。……迎えに行って、本気でぶん殴ってやるんだから。……ハル、要塞列車の位置を特定して。ゴースト・キーの逆探知、開始!」
『了解、ご主人様。……ターゲット、捕捉。ヘリオス本社中枢へと続く要塞列車『ベヒモス』。推定時速二百八十キロ。……追いつきますか?』
「ガラ、やってくれるわね」
その言葉を聞き、ガラはミラー越しに不敵な笑みを浮かべた。
「……ふん。それでこそ、アタシが目をかけたシグナだ。いいよ、あんたがその気ならアタシも腹を決めた。最後の一本のレンチまで、あんたのその四本腕に賭けてやるよ」「頼りにしてるわ、ガラ」
カイルが望んだのはシグナの「逃走」だったかもしれない。
だが、シグナが選んだのは、彼の冷徹な計算を完膚なきまでに破壊する「逆襲」だった。
「ハル、演算を繋いで。あの男の計算を、私が台無しにしてあげる。勝手に犠牲になんて、絶対にさせないんだから」
ガラはアクセルを床まで踏み込み、コンソールの奥に隠されていた禁断の「過熱蒸気プラズマ・ブースター」の封印を解いた。
「あいよ! 死神が本当の愛を取り戻しに行くんだ。時速300キロでも、あいつの身勝手な愛には追いつけないだろうけど、このブラスト・ヘヴン号の底力、見せてやるよ!」
車体が激しく震動し、排気口から青白い炎が噴き出す。
地平線の彼方、鋼鉄の巨龍のようにのたうつ「要塞列車」を目指し、シグナの「逆襲」が、今ここから始まった。
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