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第7話:カオス・レゾナンス(ヴィクター)

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 荒野の果て、夜明け前の最も深い闇が世界を包んでいた。

 『ブラスト・ヘヴン号』の車内を支配するのは、重低音を響かせる巨大ボイラーの唸りと、エンジンのピストンが刻む規則的な鼓動だけだ。目的地まで残り数キロ。窓の外には、砂塵の向こう側に巨大なドーム状の影が、怪物のようにうっすらと浮かび上がっていた。

 シグナは、ソファに座って真鍮の多重レンズ眼鏡を調整しているカイルをじっと見つめ、喉の奥に引っかかっていた問いを口にした。

「……ねえ、カイル。そもそも『銀のゆりかご』って、何なの? あんたはただの施設だって言ったけど、そこにあるのは、ただの答えじゃないんでしょう」

 カイルの指が、端末の歯車を弾く手を止めた。
 彼は顔を上げたが、その表情にはいつもの軽薄な余裕がなかった。レンズに反射する白熱灯の光が、彼の瞳に潜む深い喪失感を浮き彫りにする。

「……忘れてしまったんだね。いや、無理もないか。君の脳が、それを拒絶しているのかもしれない」

 カイルは自嘲気味に、どこか寂しげな笑みを浮かべた。

「あそこはね、ヘリオス社の最重要機密が眠る……とても大切な場所だよ。僕にとってもね。……そして、きっと君にとっても」
「私にとっても……? どういうことよ? そんなはずは――」

 シグナは言いかけて、激しい眩暈(めまい)に襲われた。

 自分の過去。十歳より前の記憶を探ろうとすると、いつもそこには分厚い霧のような「空白」が横たわっている。思い出そうとすればするほど、脳の奥底が熱鉄を押し当てられたように疼く。耳の奥で、カチ、カチと不規則な時計の秒針のような音が響き、視界が白濁していく。

「……っ、あ……」
「シグナ、無理に思い出そうとしなくていい。……答えはあそこにあるんだから」

 カイルの声は優しかったが、その視線はどこか遠く、施設のシルエットが映るモニターを見つめていた。



 その時、ブラスト・ヘヴン号が激しい衝撃とともに急ブレーキをかけた。装甲板が軋み、車内の工具が派手に床へ転がる。

「おい、お二人さん! しんみりしてる暇はないよ! 真打ちのお出ましだ!」

 ガラの絶叫。

 道の中央に、その最後の一歩を阻むように「彼」は立っていた。

 白銀の甲冑を纏い、赤いマントを暴風にたなびかせる騎士。一振りの長槍を携えたその姿は、荒野の静寂そのものだった。
『アイアン・ヴェール』団長、ヴィクター。

「若様。遊びはここまでにしましょう」

 ヴィクターが静かに立ち上がった。ハッチが開き、シグナが荒野に降り立つ。
 シグナは四本の腕を扇状に展開したが、激戦の疲労により、駆動音には隠しきれない軋みが混じっている。

「どいて。……そこを通らせてもらうわ」
「通したければ、その牙で私を貫いて見せなさい。……試させていただく」

 ヴィクターの槍『テレスコピック・スチームランス』が、排気音とともに爆発的に伸長した。

 衝突は、これまでとは次元が違った。ヴィクターの槍は、物理法則をあざ笑うようにしなり、伸び、縮む。シグナの四本の腕が繰り出す手数を、彼はたった一振りの槍で、圧倒的な間合いの外から一方的に封じ込めていた。
 シグナの肩甲骨シャーシに衝撃が走る。

「どうしました。その程度では、ここから先へは進めませんよ。君のその腕は……まだ未完成だ」

 ヴィクターが槍の基部から高圧蒸気を噴射させた。その乱気流が、カイルの演算眼鏡にノイズを走らせる。

「カイル! 演算を頂戴! この槍の着弾点が特定できない!」

 シグナの叫びに、カイルは唇を噛み切り、車内から飛び出してシグナの背後に張り付いた。

「目でも計算でもない。君の直感を僕の演算に直結させる。……『カオス・レゾナンス』。僕と一緒に、狂ってくれ……シグナ!」

 カイルは強制接続コードを引き抜き、シグナの首筋にある端子へと直接突き刺した。

 ――ドクン!

 視界が赤と青に染まる。
 カイルの精密な「論理」と、シグナの鋭敏な「野生」が、一つの意志へと溶け合っていく。ヴィクターの槍が排気で作り出す「カオス」が、もはや不規則なノイズではなく、確率の「渦」として見える。

「……そこ!」

 シグナはヴィクターの必殺の刺突を、最小限の動きですり抜け、逆にその間合いへと踏み込んだ。
 四本の腕を互いに連結させ、伸びきった槍の銃身を「檻」の中に閉じ込める。

「チェックメイトよ!」

 シグナの下腕が、ヴィクターの兜を掠めて至近距離のブラスターを放った。
 爆風が二人を分かつ。

 煙が晴れた時、ヴィクターは自らの槍が半ばからひしゃげているのを見つめ、静かに息を吐いた。その兜の奥で、彼は満足げに口元を綻ばせた。

「……見事です。若様、今のあなた方なら……この先の『真実』と対峙する資格がある」

 ヴィクターは折れた槍を収め、バイクに跨った。

「行きなさい。……待っていますよ、主(あるじ)が」





 ヴィクターが地平線へと消え、静寂が戻った荒野。

 カイルはシグナを背後から支えたまま、額を彼女の肩に預けた。二人の心拍数が、演算眼鏡のノイズと重なって、静かに共鳴していた。

「……終わったわね」
「ああ、100パーセントの確率で、僕たちの勝ちだ」

 カイルはシグナの額に、自分の額をそっと合わせた。至近距離。カイルの優しい眼差しに、シグナの鼓動が激しく跳ねる。

「あー、ご主人様、カイル様。非常にお熱いところ申し訳ありませんが、目的地が見えてきましたよ」

 ハルが空中でくるりと旋回し、電子的な溜息をつく。
 シグナはハッと我に返り、顔を真っ赤にしてカイルを突き飛ばした。

「な、何を言っているのよハル! 別に、お熱いなんて、そんなんじゃないわよ!」
「おやおや、残念だね。あと数センチ近ければ、感動のキスシーンに突入できそうだったのに」
「な……っ! この、変態依頼人!! 死ね! 今すぐ砂漠の塵になって死ね!!」

 照れ隠しの罵声を浴びせながらも、シグナの視線は前方へと向けられた。朝日を浴びて輝く巨大なドーム状の施設――『銀のゆりかご』。

「……あそこへ行けば、わかるの?」

 その瞬間、再び金槌で叩かれたような激痛が脳を襲う。

「うっ……あ、あぁ……っ!」
「シグナ! 大丈夫かい!?」
「……カイル。私、やっぱりおかしいわ。十歳より前の記憶が、何一つ思い出せない。霧がかかったみたいに、真っ白なの。……私、誰なの?」

 震える声で告白するシグナ。その様子を、キャリーの運転席から見ていたガラの顔は、苦渋に満ちていた。

「……知っているよ」

 カイルはシグナの肩を、逃がさないように力強く抱き寄せた。

「君の記憶が欠落していることも。その痛みの理由も。……だから、僕は君をここに連れてきたんだ。君からすべてを奪った、この場所に」

 カイルの瞳は、施設を「希望」としては見ていなかった。

 そこは、ヘリオス社が子供たちを管理し、実験体へと変え、命を弄ぶ「ゆりかご」という名の監獄。カイルも、シグナも、かつてそこで別の実験の候補として並べられていたのだ。

「行こう、シグナ。……決着をつけに」

 ボロボロになったブラスト・ヘヴン号が、再びゆっくりと、しかし確実に巨大なドームへと向かって走り出す。
 逃避行の第1章は終わった。
 だが、二人が「飼い主」の仕掛けた罠に足を踏み入れた瞬間、真の地獄の幕が開ける。





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次のエピソードへ進む 第8話:告発の残り香


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 『ブラスト・ヘヴン号』の車内を支配するのは、重低音を響かせる巨大ボイラーの唸りと、エンジンのピストンが刻む規則的な鼓動だけだ。目的地まで残り数キロ。窓の外には、砂塵の向こう側に巨大なドーム状の影が、怪物のようにうっすらと浮かび上がっていた。
 シグナは、ソファに座って真鍮の多重レンズ眼鏡を調整しているカイルをじっと見つめ、喉の奥に引っかかっていた問いを口にした。
「……ねえ、カイル。そもそも『銀のゆりかご』って、何なの? あんたはただの施設だって言ったけど、そこにあるのは、ただの答えじゃないんでしょう」
 カイルの指が、端末の歯車を弾く手を止めた。
 彼は顔を上げたが、その表情にはいつもの軽薄な余裕がなかった。レンズに反射する白熱灯の光が、彼の瞳に潜む深い喪失感を浮き彫りにする。
「……忘れてしまったんだね。いや、無理もないか。君の脳が、それを拒絶しているのかもしれない」
 カイルは自嘲気味に、どこか寂しげな笑みを浮かべた。
「あそこはね、ヘリオス社の最重要機密が眠る……とても大切な場所だよ。僕にとってもね。……そして、きっと君にとっても」
「私にとっても……? どういうことよ? そんなはずは――」
 シグナは言いかけて、激しい眩暈(めまい)に襲われた。
 自分の過去。十歳より前の記憶を探ろうとすると、いつもそこには分厚い霧のような「空白」が横たわっている。思い出そうとすればするほど、脳の奥底が熱鉄を押し当てられたように疼く。耳の奥で、カチ、カチと不規則な時計の秒針のような音が響き、視界が白濁していく。
「……っ、あ……」
「シグナ、無理に思い出そうとしなくていい。……答えはあそこにあるんだから」
 カイルの声は優しかったが、その視線はどこか遠く、施設のシルエットが映るモニターを見つめていた。
 その時、ブラスト・ヘヴン号が激しい衝撃とともに急ブレーキをかけた。装甲板が軋み、車内の工具が派手に床へ転がる。
「おい、お二人さん! しんみりしてる暇はないよ! 真打ちのお出ましだ!」
 ガラの絶叫。
 道の中央に、その最後の一歩を阻むように「彼」は立っていた。
 白銀の甲冑を纏い、赤いマントを暴風にたなびかせる騎士。一振りの長槍を携えたその姿は、荒野の静寂そのものだった。
『アイアン・ヴェール』団長、ヴィクター。
「若様。遊びはここまでにしましょう」
 ヴィクターが静かに立ち上がった。ハッチが開き、シグナが荒野に降り立つ。
 シグナは四本の腕を扇状に展開したが、激戦の疲労により、駆動音には隠しきれない軋みが混じっている。
「どいて。……そこを通らせてもらうわ」
「通したければ、その牙で私を貫いて見せなさい。……試させていただく」
 ヴィクターの槍『テレスコピック・スチームランス』が、排気音とともに爆発的に伸長した。
 衝突は、これまでとは次元が違った。ヴィクターの槍は、物理法則をあざ笑うようにしなり、伸び、縮む。シグナの四本の腕が繰り出す手数を、彼はたった一振りの槍で、圧倒的な間合いの外から一方的に封じ込めていた。
 シグナの肩甲骨シャーシに衝撃が走る。
「どうしました。その程度では、ここから先へは進めませんよ。君のその腕は……まだ未完成だ」
 ヴィクターが槍の基部から高圧蒸気を噴射させた。その乱気流が、カイルの演算眼鏡にノイズを走らせる。
「カイル! 演算を頂戴! この槍の着弾点が特定できない!」
 シグナの叫びに、カイルは唇を噛み切り、車内から飛び出してシグナの背後に張り付いた。
「目でも計算でもない。君の直感を僕の演算に直結させる。……『カオス・レゾナンス』。僕と一緒に、狂ってくれ……シグナ!」
 カイルは強制接続コードを引き抜き、シグナの首筋にある端子へと直接突き刺した。
 ――ドクン!
 視界が赤と青に染まる。
 カイルの精密な「論理」と、シグナの鋭敏な「野生」が、一つの意志へと溶け合っていく。ヴィクターの槍が排気で作り出す「カオス」が、もはや不規則なノイズではなく、確率の「渦」として見える。
「……そこ!」
 シグナはヴィクターの必殺の刺突を、最小限の動きですり抜け、逆にその間合いへと踏み込んだ。
 四本の腕を互いに連結させ、伸びきった槍の銃身を「檻」の中に閉じ込める。
「チェックメイトよ!」
 シグナの下腕が、ヴィクターの兜を掠めて至近距離のブラスターを放った。
 爆風が二人を分かつ。
 煙が晴れた時、ヴィクターは自らの槍が半ばからひしゃげているのを見つめ、静かに息を吐いた。その兜の奥で、彼は満足げに口元を綻ばせた。
「……見事です。若様、今のあなた方なら……この先の『真実』と対峙する資格がある」
 ヴィクターは折れた槍を収め、バイクに跨った。
「行きなさい。……待っていますよ、主(あるじ)が」
 ヴィクターが地平線へと消え、静寂が戻った荒野。
 カイルはシグナを背後から支えたまま、額を彼女の肩に預けた。二人の心拍数が、演算眼鏡のノイズと重なって、静かに共鳴していた。
「……終わったわね」
「ああ、100パーセントの確率で、僕たちの勝ちだ」
 カイルはシグナの額に、自分の額をそっと合わせた。至近距離。カイルの優しい眼差しに、シグナの鼓動が激しく跳ねる。
「あー、ご主人様、カイル様。非常にお熱いところ申し訳ありませんが、目的地が見えてきましたよ」
 ハルが空中でくるりと旋回し、電子的な溜息をつく。
 シグナはハッと我に返り、顔を真っ赤にしてカイルを突き飛ばした。
「な、何を言っているのよハル! 別に、お熱いなんて、そんなんじゃないわよ!」
「おやおや、残念だね。あと数センチ近ければ、感動のキスシーンに突入できそうだったのに」
「な……っ! この、変態依頼人!! 死ね! 今すぐ砂漠の塵になって死ね!!」
 照れ隠しの罵声を浴びせながらも、シグナの視線は前方へと向けられた。朝日を浴びて輝く巨大なドーム状の施設――『銀のゆりかご』。
「……あそこへ行けば、わかるの?」
 その瞬間、再び金槌で叩かれたような激痛が脳を襲う。
「うっ……あ、あぁ……っ!」
「シグナ! 大丈夫かい!?」
「……カイル。私、やっぱりおかしいわ。十歳より前の記憶が、何一つ思い出せない。霧がかかったみたいに、真っ白なの。……私、誰なの?」
 震える声で告白するシグナ。その様子を、キャリーの運転席から見ていたガラの顔は、苦渋に満ちていた。
「……知っているよ」
 カイルはシグナの肩を、逃がさないように力強く抱き寄せた。
「君の記憶が欠落していることも。その痛みの理由も。……だから、僕は君をここに連れてきたんだ。君からすべてを奪った、この場所に」
 カイルの瞳は、施設を「希望」としては見ていなかった。
 そこは、ヘリオス社が子供たちを管理し、実験体へと変え、命を弄ぶ「ゆりかご」という名の監獄。カイルも、シグナも、かつてそこで別の実験の候補として並べられていたのだ。
「行こう、シグナ。……決着をつけに」
 ボロボロになったブラスト・ヘヴン号が、再びゆっくりと、しかし確実に巨大なドームへと向かって走り出す。
 逃避行の第1章は終わった。
 だが、二人が「飼い主」の仕掛けた罠に足を踏み入れた瞬間、真の地獄の幕が開ける。