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第2話:鉄の聖母(ガラ)

ー/ー



 世界は巨大企業ヘリオス社によって、残酷なまでに二分されていた。

 雲の遥か上、永遠に沈まない人工太陽の恩恵を受け、選ばれた市民が白熱灯の温かな光と濾過された空気の中で優雅に暮らす空中都市「上層(スカイ・アーク)」。その巨大な浮遊基盤の影に隠れ、上層から排出される高熱の廃熱と、煤混じりの廃液、そして機械の死骸を浴び続けるスラム街「下層(ラット・ポート)」。

 下層の空は常に鉄錆色の雲に覆われ、降りしきる酸性雨は人々の皮膚を焼き、建物の鉄骨を腐らせる。この汚泥のような街で生き延びる唯一の手段は、ヘリオス社が製造し、型落ちとして廃棄された蒸気義肢を強引に身体へ繋ぎ止めることだった。

 ヘリオスの支配は絶対だ。彼らが提供する合成食料を食らい、彼らが浄化する空気を吸い、彼らが製造する義体で命を繋ぐ。人々は生き延びるために己の肉体を機械へと売り払い、データベースに刻まれるシリアルナンバーへと堕していく。

 だが、その完璧な支配の裏側には、常に不協和音という名の歪みが生まれる。廃棄されたパーツで組まれた粗悪なオートマタが徘徊し、重金属の雨が鋼鉄の肌を蝕む。シグナのような「異形」が生まれるのも、カイルのような「反逆者」が現れるのも、すべてはこの錆びついた世界の摂理なのだ。

 ヘリオス社次期CEO候補の失踪。その衝撃的なニュースは、雲の上から降り注ぐ情報の雨に紛れ、地上のゴミ溜めへと沈んでいった。だが、支配者は逃亡を許さない。


「……ハル、熱源探知。ポーン隊との距離は?」

 降りしきる酸性雨の中、シグナは廃墟の入り組んだ路地を駆け抜けていた。背後からは、ポーン隊の無機質で重い金属足音が、濡れたアスファルトを規則正しく叩いている。カシャン、カシャンという冷たい駆動音が、死のカウントダウンのように迫っていた。

「後方三十メートル。奴ら、新型の広域センサーを搭載していますね。この煤煙の中でも、ご主人様の排熱を正確に追尾しています」

 シグナの左肩でハルが真空管を激しく明滅させる。

 シグナの四本の腕のうち、上腕の二本は先ほどの乱戦による過負荷で赤く熱を帯びていた。継ぎ目から漏れ出した高圧蒸気が雨水に触れ、シュウシュウと白い煙を上げながら彼女の視界を遮る。神経接続部からは、焼けつくような熱い痛みが脳髄へと直接流れ込んでいた。

「……ハル、残弾数は?」
「ブラスター、残エネルギー7%。サブマシンガン、最後の一連射分のみ。予備弾倉は、先ほどの連戦でスラムのドブに寄付してしまいました」

 ハルの報告に、シグナは短く舌打ちをした。
 四本の腕のうち、上腕の二本はすでに過負荷で熱を帯びている。雨水が義手の継ぎ目に触れては、シュウシュウと白い蒸気を上げていた。


「行き止まりね……。カイル、あんたの『計算』はどうなったのよ。このままじゃ、鉄屑の山に埋もれて終わりよ」

 シグナが足を止めた先には、高さ十メートルはあろうかという、リベット打ちの錆びたコンテナが積み上げられた巨大な壁があった。

 隣を走るカイルは、息一つ乱さずに真鍮の懐中時計を覗き込み、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「シグナ、君は戦いに関しては天才的だが、物流の裏道に関しては素人だね。無理に戦う必要はない。ちょうどいい。最高のタイミングで『タクシー』を呼んでおいたんだ。僕の計算に、一秒の狂いもないさ」
「……冗談はやめて。ここがどこだと思ってるの?」

 シグナが言葉を返そうとした瞬間、正面のコンテナが内側から爆ぜた。

「――っ! 伏せて!」

 シグナの戦士としての本能が火を噴く。敵の重装甲歩兵による突破だと判断した彼女は、瞬時にカイルの襟首を掴んで背後へ放り投げた。
 同時に、四本の腕をフル展開。残エネルギーを無視して下腕のブレードを連結、プラズマを最大出力で励起させる。

「ハル! 全リミッター解除! 刺し違えてでも――」
「ご主人様、待ってください! この熱源反応は――」

 凄まじい爆風と鉄錆の土煙を突き破り、巨大な鋼鉄の質量が躍り出た。

 それは重装甲を纏った巨大な六輪の蒸気牽引車(ランド・クローラー)――『ブラスト・ヘヴン号』。かつての戦争で使われていた移動指揮車を改造したそれは、煤けた黄色い塗装に無数の弾痕と長年のオイルの染みが刻まれ、まるで荒野を這う巨大な甲虫のような威容を誇っていた。

 車体屋根に設置された二連装の自動ガトリングが旋回し、背後のポーン隊に向けて容赦のない火を噴いた。一発一発が親指ほどの大きさもある徹甲弾が、ヘリオスの量産機を紙細工のようにバラバラの破片に変えていく。

「遅いよお坊ちゃん! 超過料金、三倍……いや、今の爆発分も含めて五倍は請求させてもらうからね!」

 車体の拡声器を通した、腹の底に響くような女の声が路地裏に轟く。

「……ガラ? どうして彼女が……」

 開かれたハッチから顔を出したのは、褐色の肌に油汚れのタンクトップを纏った、逞しくも美しい女だった。首からは使い込まれた巨大なスパナを下げ、口に安物の電子タバコを咥えたその女――ガラは、シグナを見てニッと白い歯を見せた。

「さっさと乗りな! この『ヘヴン』がポーンどもの墓場に変わる前にね!」

 シグナがハッチへ飛び込むと、そこには外見からは想像もつかないほど精密な機械の世界が広がっていた。鼻を突く熱いグリスの臭いと、中央の巨大ボイラーが発する熱気。壁一面には、見たこともない複雑な形状の蒸気義肢のパーツや、磨き上げられた工具が整然と並べられている。

「説明して。なんで『鉄の聖母(アイアン・マドンナ)』がこんな汚れ仕事を引き受けてるのよ。彼女はヘリオスの息がかかった仕事は死んでも受けないはずでしょ」

 シグナは車内の鉄製の壁に背を預け、荒い息を整えながらカイルを鋭く睨みつけた。

「彼女の技術は世界一だ。かつてヘリオスの次世代義肢開発部門を担い、誰よりも『機械の心』を理解していた天才。君のその特殊な四本腕をメンテナンスできる人間は、この腐った世界に彼女しかいないんだよ」

 運転席で巨大な舵を握り、シフトレバーを荒々しく操作するガラが、バックミラー越しに鼻を鳴らす。

「アタシがヘリオスを辞めたのは、あそこの上層部が機械を『魂のない消耗品』としてしか扱わなくなったからだ。このお坊ちゃんがヘリオスの現CEOの養子だって聞いた時は、そのままスパナで脳天をカチ割ってやろうかと思ったよ。だが……あんたのその腕を見せられたら、技術者として黙っていられなくてね」

 カイルは高級な革のソファに深く腰掛け、楽しげに足を組んだ。その真鍮眼鏡には、車内の計器類から読み取ったデータが反射している。

「彼女はヘリオスが嫌いだ。そして僕は――ヘリオスを、僕の手で終わらせる。跡形もなく、綺麗なスクラップに変えるためにね。目的が一致しているのなら、過去の経歴なんて些細な問題だろう?」

 その声の冷徹さに、車内の温度が一段階下がったような錯覚をシグナは覚えた。

「おっと、シグナ。動かないで。その角度、ピストンが悲鳴を上げているのが聞こえるよ。無理に格納したせいで、第二関節のボルトが歪んでる」

 ガラがいつの間にかシグナの前に立っていた。その逞しい腕が、シグナの細い肩を強引に引き寄せる。ガラの指先は油にまみれているが、その動きは驚くほど繊細だった。

「いいかい、お坊ちゃん。料金には最高級のメンテナンス料と、アタシの精神的苦痛への慰謝料も含まれてるんだろうね? この子の腕は、そこらのクズ鉄とはわけが違うんだ。ヘリオスの設計思想の結晶でありながら、それを否定するように作られている……実に面白い」
「もちろん、さ。彼女がその腕を重荷ではなく、自分の翼だと感じられるくらいにはね。最高のスペアパーツと、特注のギアオイルを用意しよう」

 ガラは「ケッ、言うねぇ」と笑いながら、シグナの背中にある肩甲骨シャーシの点検口を慣れた手つきで開いた。ガラの指先が、過熱した義手の熱をゆっくりと奪っていく感覚。

 カイルという男の「計算」によって、錆びついた運命の歯車が、また一つ確実に噛み合っていく。シグナは、得体の知れない不安を感じながらも、その温かな指先に身を委ねるしかなかった。




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次のエピソードへ進む 第3話:狂気とギアオイル


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 世界は巨大企業ヘリオス社によって、残酷なまでに二分されていた。
 雲の遥か上、永遠に沈まない人工太陽の恩恵を受け、選ばれた市民が白熱灯の温かな光と濾過された空気の中で優雅に暮らす空中都市「上層(スカイ・アーク)」。その巨大な浮遊基盤の影に隠れ、上層から排出される高熱の廃熱と、煤混じりの廃液、そして機械の死骸を浴び続けるスラム街「下層(ラット・ポート)」。
 下層の空は常に鉄錆色の雲に覆われ、降りしきる酸性雨は人々の皮膚を焼き、建物の鉄骨を腐らせる。この汚泥のような街で生き延びる唯一の手段は、ヘリオス社が製造し、型落ちとして廃棄された蒸気義肢を強引に身体へ繋ぎ止めることだった。
 ヘリオスの支配は絶対だ。彼らが提供する合成食料を食らい、彼らが浄化する空気を吸い、彼らが製造する義体で命を繋ぐ。人々は生き延びるために己の肉体を機械へと売り払い、データベースに刻まれるシリアルナンバーへと堕していく。
 だが、その完璧な支配の裏側には、常に不協和音という名の歪みが生まれる。廃棄されたパーツで組まれた粗悪なオートマタが徘徊し、重金属の雨が鋼鉄の肌を蝕む。シグナのような「異形」が生まれるのも、カイルのような「反逆者」が現れるのも、すべてはこの錆びついた世界の摂理なのだ。
 ヘリオス社次期CEO候補の失踪。その衝撃的なニュースは、雲の上から降り注ぐ情報の雨に紛れ、地上のゴミ溜めへと沈んでいった。だが、支配者は逃亡を許さない。
「……ハル、熱源探知。ポーン隊との距離は?」
 降りしきる酸性雨の中、シグナは廃墟の入り組んだ路地を駆け抜けていた。背後からは、ポーン隊の無機質で重い金属足音が、濡れたアスファルトを規則正しく叩いている。カシャン、カシャンという冷たい駆動音が、死のカウントダウンのように迫っていた。
「後方三十メートル。奴ら、新型の広域センサーを搭載していますね。この煤煙の中でも、ご主人様の排熱を正確に追尾しています」
 シグナの左肩でハルが真空管を激しく明滅させる。
 シグナの四本の腕のうち、上腕の二本は先ほどの乱戦による過負荷で赤く熱を帯びていた。継ぎ目から漏れ出した高圧蒸気が雨水に触れ、シュウシュウと白い煙を上げながら彼女の視界を遮る。神経接続部からは、焼けつくような熱い痛みが脳髄へと直接流れ込んでいた。
「……ハル、残弾数は?」
「ブラスター、残エネルギー7%。サブマシンガン、最後の一連射分のみ。予備弾倉は、先ほどの連戦でスラムのドブに寄付してしまいました」
 ハルの報告に、シグナは短く舌打ちをした。
 四本の腕のうち、上腕の二本はすでに過負荷で熱を帯びている。雨水が義手の継ぎ目に触れては、シュウシュウと白い蒸気を上げていた。
「行き止まりね……。カイル、あんたの『計算』はどうなったのよ。このままじゃ、鉄屑の山に埋もれて終わりよ」
 シグナが足を止めた先には、高さ十メートルはあろうかという、リベット打ちの錆びたコンテナが積み上げられた巨大な壁があった。
 隣を走るカイルは、息一つ乱さずに真鍮の懐中時計を覗き込み、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「シグナ、君は戦いに関しては天才的だが、物流の裏道に関しては素人だね。無理に戦う必要はない。ちょうどいい。最高のタイミングで『タクシー』を呼んでおいたんだ。僕の計算に、一秒の狂いもないさ」
「……冗談はやめて。ここがどこだと思ってるの?」
 シグナが言葉を返そうとした瞬間、正面のコンテナが内側から爆ぜた。
「――っ! 伏せて!」
 シグナの戦士としての本能が火を噴く。敵の重装甲歩兵による突破だと判断した彼女は、瞬時にカイルの襟首を掴んで背後へ放り投げた。
 同時に、四本の腕をフル展開。残エネルギーを無視して下腕のブレードを連結、プラズマを最大出力で励起させる。
「ハル! 全リミッター解除! 刺し違えてでも――」
「ご主人様、待ってください! この熱源反応は――」
 凄まじい爆風と鉄錆の土煙を突き破り、巨大な鋼鉄の質量が躍り出た。
 それは重装甲を纏った巨大な六輪の蒸気牽引車(ランド・クローラー)――『ブラスト・ヘヴン号』。かつての戦争で使われていた移動指揮車を改造したそれは、煤けた黄色い塗装に無数の弾痕と長年のオイルの染みが刻まれ、まるで荒野を這う巨大な甲虫のような威容を誇っていた。
 車体屋根に設置された二連装の自動ガトリングが旋回し、背後のポーン隊に向けて容赦のない火を噴いた。一発一発が親指ほどの大きさもある徹甲弾が、ヘリオスの量産機を紙細工のようにバラバラの破片に変えていく。
「遅いよお坊ちゃん! 超過料金、三倍……いや、今の爆発分も含めて五倍は請求させてもらうからね!」
 車体の拡声器を通した、腹の底に響くような女の声が路地裏に轟く。
「……ガラ? どうして彼女が……」
 開かれたハッチから顔を出したのは、褐色の肌に油汚れのタンクトップを纏った、逞しくも美しい女だった。首からは使い込まれた巨大なスパナを下げ、口に安物の電子タバコを咥えたその女――ガラは、シグナを見てニッと白い歯を見せた。
「さっさと乗りな! この『ヘヴン』がポーンどもの墓場に変わる前にね!」
 シグナがハッチへ飛び込むと、そこには外見からは想像もつかないほど精密な機械の世界が広がっていた。鼻を突く熱いグリスの臭いと、中央の巨大ボイラーが発する熱気。壁一面には、見たこともない複雑な形状の蒸気義肢のパーツや、磨き上げられた工具が整然と並べられている。
「説明して。なんで『鉄の聖母(アイアン・マドンナ)』がこんな汚れ仕事を引き受けてるのよ。彼女はヘリオスの息がかかった仕事は死んでも受けないはずでしょ」
 シグナは車内の鉄製の壁に背を預け、荒い息を整えながらカイルを鋭く睨みつけた。
「彼女の技術は世界一だ。かつてヘリオスの次世代義肢開発部門を担い、誰よりも『機械の心』を理解していた天才。君のその特殊な四本腕をメンテナンスできる人間は、この腐った世界に彼女しかいないんだよ」
 運転席で巨大な舵を握り、シフトレバーを荒々しく操作するガラが、バックミラー越しに鼻を鳴らす。
「アタシがヘリオスを辞めたのは、あそこの上層部が機械を『魂のない消耗品』としてしか扱わなくなったからだ。このお坊ちゃんがヘリオスの現CEOの養子だって聞いた時は、そのままスパナで脳天をカチ割ってやろうかと思ったよ。だが……あんたのその腕を見せられたら、技術者として黙っていられなくてね」
 カイルは高級な革のソファに深く腰掛け、楽しげに足を組んだ。その真鍮眼鏡には、車内の計器類から読み取ったデータが反射している。
「彼女はヘリオスが嫌いだ。そして僕は――ヘリオスを、僕の手で終わらせる。跡形もなく、綺麗なスクラップに変えるためにね。目的が一致しているのなら、過去の経歴なんて些細な問題だろう?」
 その声の冷徹さに、車内の温度が一段階下がったような錯覚をシグナは覚えた。
「おっと、シグナ。動かないで。その角度、ピストンが悲鳴を上げているのが聞こえるよ。無理に格納したせいで、第二関節のボルトが歪んでる」
 ガラがいつの間にかシグナの前に立っていた。その逞しい腕が、シグナの細い肩を強引に引き寄せる。ガラの指先は油にまみれているが、その動きは驚くほど繊細だった。
「いいかい、お坊ちゃん。料金には最高級のメンテナンス料と、アタシの精神的苦痛への慰謝料も含まれてるんだろうね? この子の腕は、そこらのクズ鉄とはわけが違うんだ。ヘリオスの設計思想の結晶でありながら、それを否定するように作られている……実に面白い」
「もちろん、さ。彼女がその腕を重荷ではなく、自分の翼だと感じられるくらいにはね。最高のスペアパーツと、特注のギアオイルを用意しよう」
 ガラは「ケッ、言うねぇ」と笑いながら、シグナの背中にある肩甲骨シャーシの点検口を慣れた手つきで開いた。ガラの指先が、過熱した義手の熱をゆっくりと奪っていく感覚。
 カイルという男の「計算」によって、錆びついた運命の歯車が、また一つ確実に噛み合っていく。シグナは、得体の知れない不安を感じながらも、その温かな指先に身を委ねるしかなかった。