第1話:錆びた街の四腕(アームズ)
ー/ー 空から降るのは雨ではない。それは空中の煤煙と重金属を溶かし込んだ、黒く粘りつく毒液だ。
スラム街「ラット・ポート」。錆びついた鉄骨が折り重なるこの街では、ガス灯の鈍い光さえも湿った煤煙に濁り、煤の黒と潤滑油の虹色が路地裏を支配していた。配管からは絶えず高圧蒸気が漏れ出し、シュウシュウという耳障りな音が街の呼吸音のように響いている。
「――ターゲット、全24名。処理を開始します。周辺の生体反応、および機械稼働音より算出した予測生存時間は……3分12秒です」
シグナの左肩にクランプで固定された小型自動人形(オートマトン)、ハルが、真空管の余熱を帯びた平坦な合成音声で告げる。ハルの真鍮製のボディからは、微かにゼンマイの巻かれる音がカチカチと規則正しく響いていた。
シグナは、廃ビルの屋上からその光景を見下ろしていた。銀髪のポニーテールが酸性雨に濡れ、白磁のような肌を冷たく撫でる。
彼女には、人間らしい柔らかな腕は一本も存在しない。
背中から両肩にかけて、リベット打ちの黒鉄製フレーム(シャーシ)が皮膚を割って直接埋め込まれ、その基部から異形の翼のように「四本の鋼鉄の腕」が展開されていた。基部の中央に配置された小型の蒸気ボイラーがシュ、コンと小刻みな排気音を立て、複雑に噛み合う真鍮の歯車が火花を散らしている。それは、生身の人間であることを捨てた、戦闘用義鋼体(ぎこうたい)の姿だった。
「……了解。ハル、聴覚センサーの感度を下げて。少し騒がしくなる」
シグナが低く呟くと同時に、重厚な駆動音が夜の静寂を切り裂いた。
彼女はためらいなく垂直の壁を蹴り、奈落のような路地へと飛び降りた。
路地裏では、地元マフィア「アイアン・ラッツ」の連中が、違法パーツの取引に興じていた。中央には、企業の払い下げ品であろう旧式の戦闘用オートマタが三体、石炭の焦げる臭いとともに真っ黒な蒸気を吐き出しながら鎮座している。
着地音に気づいたボスらしき男が、安煙草を地面に捨てて振り返った。
「あぁ? なんだ、ガキか。迷い込んだか、それとも死に場所を探しに来たか?」
男は鼻で笑う。シグナは四本の腕を背後に隠し、静かに立っていた。
「おい、始末しろ。目撃者は残すな。オートマタの試運転にちょうどいいだろ」
男の短い命令に応じ、三体の鉄塊がギィギィと耳障りな歯車の軋みを立てて前進する。
シグナは無表情のまま、一つだけ深く息を吐いた。
「ハル、第一兵装解除。リミッターを戦術モードへ移行」
「承知いたしました、ご主人様。クランク、始動します」
その瞬間、彼女の背中を覆っていたボロ布のコートが内側から激しく引き裂かれた。
現れたのは、銀の髪に不釣り合いな、無機質で凶悪な鋼鉄の四肢。肩の上部から突き出した「上腕」と、その直下から展開される「下腕」。合計四本の腕が、高圧蒸気の排気音とともに扇状に展開される。
「な……腕が、四本……!? 生身の腕が一本もねぇだと!」
「まさか、噂に聞く『鋼鉄の蜘蛛(スチール・スパイダー)』か!?」
男たちの顔から血の気が引く。シグナの身体には、人間の血が通う柔らかな部位は頭部と体幹のわずかな部分しか残されていない。あるのは、剥き出しのピストンと真鍮の歯車がのたうつ機械の塊のみ。
下腕の二本が、連結式のメインウェポン『ダブルブレード』を抜き放った。全長二百センチに及ぶ長柄の刃が、電熱コイルのオレンジ色の光を放ちながら一閃する。
まず、先頭のオートマタが沈黙した。
シグナの一撃は、分厚い装甲を無視して蒸気配管を正確に切断した。一呼吸遅れて、鉄塊が内部から熱い油を噴き出して崩れ落ちる。
「掃除の時間です。皆さん、お行儀よくゴミ箱へどうぞ」
ハルの軽口を合図に、死神の舞踏が始まった。
残る二体のオートマタが腕部のガトリングを回そうとするが、シグナの反応速度はその先を行く。
上腕にマウントされた小型の高圧弾発射器が火を噴いた。至近距離から放たれた鉛の塊が、オートマタの視覚レンズを瞬時に砕く。視界を奪われた鉄塊の隙を突き、下腕のブレードがプロペラ状に回転した。
【Form 2:回天の繭(コクーン)】。
火花の散る防御壁を突き抜け、シグナは最短距離で敵の懐へと潜り込む。
突き、払い、射撃、そして斬撃。
四本の腕が、独立したピストンの鼓動を持って別個の敵を捉える。
手首を三百六十度回転させ、人間には不可能な角度から放たれる刃は、重装甲の義体さえもバターのように切り裂いていく。マフィアたちの悲鳴は、蒸気の排気音にかき消された。
わずか1分、いや30秒。
路地裏に残されたのは、焦げた石炭の臭いと、痙攣する機械の残骸、そして静かに滴るオイルの音だけだった。
シグナは四本の腕を背後に収め、排熱孔から漏れる白い蒸気の中で呼吸を整える。
「……ハル、周辺警戒。残存勢力は?」
「異常なしです。それにしても、ご主人様。今の動き、少しばかり『芸術点』に欠けていましたね。もっとこう、重厚かつスタイリッシュに――」
「黙って」
「承知いたしました」
シグナが戦場の痕跡を消そうとしたその時、路地の入り口から規則正しい拍手の音が聞こえてきた。煤煙の中から現れたのは、この汚泥のような街には場違いなほど高級そうな、磨き上げられた革のコートを羽織った男だった。
「見事だ。実物の方が、データより百倍は美しい。その駆動音、その蒸気の揺らぎ。素晴らしいね」
シグナは即座に上腕の発射器を男の眉間に向けた。安全装置を外すカチリという音が響く。
「……誰? これ以上近づけば、頭のネジを一本増やしてあげる」
「おっと、怖いな。僕はカイル――」
「――カイル・ヘリオス」
シグナの淡々とした言葉に、男は意外そうに多重構造の真鍮眼鏡をカチャリと鳴らした。
「……驚いたな。下層の掃除屋がどうして僕を知っているんだい?」
「カイル・ヘリオス。ヘリオス社の『最高位の家出息子』。あんたの首にかかった懸賞金の額を知らないプロはいないわ。こんなところで何をしているの」
カイルは苦笑しながら、多重レンズを指先で調整した。レンズの奥で微細な歯車が回り、シグナの骨格を透視するように計測を始めている。
「光栄だね。でも、もっと刺激的な提案があるんだ。それは『未来』だ、シグナ。僕は君の未来を、相場よりかなり高値で買いに来た」
その瞬間、ハルの真空管が激しく明滅し、警告音を鳴らした。
『ご主人様! 接近する多数の駆動音。ヘリオス社の量産型自律兵器、ポーン隊です! 包囲されています!』
路地の四方から、ガス灯を遮る無機質な影が迫る。
「……なんでヘリオスの正規兵がこんなところにいるのよ。あんた、連れてきたの?」
「ちょっとばかり、実家の金庫を空にしてきただけさ。追っ手が来るのは想定内だよ」
カイルは不敵に笑い、真鍮眼鏡のダイヤルを回した。
「シグナ、右から三番目。ポーンの蒸気弁、二段目のボルトがわずかに歪んでる。そこを撃てば三秒後に誘爆するよ。計算済みだ」
シグナは一瞬迷い、だがカイルの瞳にある確信に圧されて引き金を引いた。
正確な一撃。
直後、指摘されたポーンのボイラーが臨界を突破。凄まじい爆炎が上がり、周囲の隊列を巻き込んで粉砕した。
「ハル! 全アーム、リミッター一時解除! 最大出力だ!」
爆煙を切り裂き、シグナが躍り出る。
残されたポーンたちは機械的に銃口を向けるが、シグナは下腕の連結ポールを分離させ、二刀流へと移行。
【Form 1:アラクネの牙(ファング)】。
跳躍し、空中で手首を回転させながら、後方の敵二体をブラスターで同時狙撃。着地と同時に、目前の三体をクロスさせたブレードで一気に両断する。
四本の腕が嵐のような銀光を描き、ポーンたちは反撃の暇さえ与えられず、ただの鉄屑へと還っていった。
静寂が戻った路地裏で、シグナは荒い息をつきながらカイルに詰め寄った。
「ヘリオスを敵に回すなんて、聞いてない。報酬を上乗せしてもらうわよ」
「ご主人様、少々お待ちを」
ハルが空中で静止し、カイルから送信された「着手金」のデータを確認する。
「……シグナ様。今、私のメインバンクに振り込まれた額ですが……一生、最高級の特注潤滑油に浸かって、ネジ一本まで磨き上げて暮らせる額です」
ハルの音声が心なしか上ずっている。
シグナは眉をひそめ、提示されたホログラムの数字を見つめた。
……確かに、一介の傭兵が一生かかっても稼げない、天文学的な金額だった。
「どうだい? これなら『ヤバイ』連中を相手にするリスク、飲んでくれるかな?」
カイルが楽しげに首をかしげる。
シグナは短く舌打ちをし、四本の腕を一つずつ、ゆっくりと背部のシャーシへ格納した。ガチ、ガチ、という重い固定音が路地裏に響く。
「……ハル、契約成立。この男を目的地まで運ぶわ。ただし、死なせたら報酬なしよ」
「目的地は?」
カイルは満足げに頷き、シグナの隣に並んだ。
「銀のゆりかご。僕たちの……いや、君の失ったものを取り戻す場所だ。さあ、夜明けまでにこのゴミ溜めをおさらばしようか」
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