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第10話 異変

ー/ー



 イヴリンの視線を受けたヴィンセントはわずかに瞠目して、一度ふらりと視線を彷徨わせる。
 
 不確定情報でしかないものを今のイヴリン様にお伝えしていいものか。コリン君自身も自覚はなくとも不安定になっているかもしれないこの状況で。
 
 一瞬、考える。だがすぐにその考えを振り払った。
 ヴィンセント・バルトロメオの敬愛するイヴリン・オルブライトという魔女は繁栄の翳りを許さない。どんな小さな違和感であっても報告が必要だと判断することに時間は必要なかった。
 握った手を口元に添えて一度咳払いをした後に姿勢を正し、わずかにイヴリンの方へと身を乗り出す。
 
「……近頃ルウシャ北西の大森林付近で魔物の様子が妙だとの報告を砦の兵より受けています」
 
 ヴィンセントの視線を受けたイヴリンがコリンの頭に乗せていた頬を離して、ヴィンセントと同じように姿勢を正した。コリンもそれにつられるようにして背筋をぴしりと伸ばす。
 
「妙、というのは?」
「森から出ることのなかった大型の草食獣らが森の外にかなりの数出てきているようです。生息域そのものが人里に寄ってきている……と申し上げればいいのでしょうか。主食としているはずのベリー系植物が例年より少ないというわけでもないのですが……」
「……その子達の捕食者が増えているだとか、生息域を広げている可能性はありますか?」
「確かに生息域は重なっていますが、数が増えすぎているわけでもないと」
「たとえば……亜種のような、少々外見や食性の違う子達というわけでも?」
「ありません」
 
 ヴィンセントの答えを反芻しながらイヴリンは手を口元に添えて考え込む。
 食料もある、敵性生物の増加もない。亜種でも食性の変化でもない。気候に関しても今年は例年通りで急激な変化があったわけでもない。そもそも生息域が丸ごと移動するようなことなど本来は何かしらの外的要因がなければ起こり得ないこと。
 
「砦の兵らに詳しく調査をさせていますが……昨日までに受けた報告では森林全体が静かすぎると。今までに感じたことがない圧迫感というか……そういったものを感じたとも報告を受けています」
「そうですか……気になりますね」
「未だ原因も判明していないため、慎重に事に当たらせています」
 
 ヴィンセントの言葉に答えることもなくイヴリンは思考の海に沈む。何が原因となっているかが浮かばずに、思考が堂々巡りになっていく。イヴリン様、と声を掛けるヴィンセントの声もイヴリンには届かない。
 
 そんな時に、邸宅の玄関に備え付けてある来客を知らせる鐘がからからと鳴り、応接室にもその音が響いた。その音を聞いたコリンがソファから立ち上がり、イヴリンの表情を伺う。
 コリンの視線にひとつ頷いたコリンはヴィンセントに一礼をしてとてとてと玄関へ向かった。
 
 玄関へ向かう道すがら、コリンもまたイヴリンと同じように思考の海に沈んでいた。
 
 ご主人様を害そうとしていた張本人は、誰なのか。

 報告書に名前があったのかもしれないが、コリンには見えないようにとうまく紙を湾曲させてイヴリンは報告書を読んでいた。そうして唐突にイヴリンの口から零れた、ドロセアという花の名前。
 そんなものが、あのナイフに使われていた。その事実にコリンの体は冷え切っていた。
 この体の冷えがどんな感情から来るものなのかはコリンにはまだ理解できない。
 理解はできないけれど、目的のためならば何をしても、何を使ってもいいということ、それをためらいもなくできてしまう人がいるということは深く心に刻まれた。その事実はコリンの足取りを重くしていた。
 
 玄関に辿り着いて、扉を開けたその先にいる人物を確認したコリンはあ、と声を漏らした。

 * 

 応接室では変わらず口元に手を添えてイヴリンが考え込んでいたが、ややあってヴィンセントに視線を向けた。
 
「大森林……草食獣達の異変は私も気になります。直接確認に行きます」
 
 その言葉にヴィンセントは焦りを感じた。経過観察と報告を求めるのではなくて、自ら現地へ赴くということは何かしらの異変をイヴリンが感じ取っているということ、そして王国内でも手練れが多いと高く評価を受けているヴィンセントの私兵でも手に余る可能性があるということ。
 言外に込められた可能性にヴィンセントは生唾を飲み込んだ。そしてそれほどの危険の可能性のある場所へ、イヴリンのみを行かせることはできないと身を乗り出す。イヴリンと自身の間に超えようのない実力の壁があるということも理解したうえで。
 
「もちろんです。私もご一緒いたしますので、すぐにでも日取りの調整を致します」
「わかりました、よろしくお願いいたし──」
「ご、ご主人様……!」
 
 イヴリンの言葉を遮るようにコリンが応接室に駆け込んでくる。コリンの後ろにはルウシャの冒険者組合を取り仕切る支部長がひどく苦々しい顔をして立っていた。
 
「ボルター支部長。どうされましたか」
 
 大柄で豪放磊落な支部長の滅多に見せない姿にイヴリンは腰を浮かせる。常に豪快に何事も笑い飛ばす支部長とも思えない様子は明らかに何かしらの異変が起きたことを悟らせるには十分だった。
 
「……あー……。ちっと厄介なことがな。辺境伯もいるなら話が早ぇ」
 
 ぼり、と頭を掻く支部長の様子にイヴリンとヴィンセントは目配せをする。ルウシャを拠点とする二人に揃って通さなければならない話。それが先程までヴィンセントが報告していた内容に関わるものである可能性を浮かべるのは自然なことだったかもしれない。


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 イヴリンの視線を受けたヴィンセントはわずかに瞠目して、一度ふらりと視線を彷徨わせる。
 不確定情報でしかないものを今のイヴリン様にお伝えしていいものか。コリン君自身も自覚はなくとも不安定になっているかもしれないこの状況で。
 一瞬、考える。だがすぐにその考えを振り払った。
 ヴィンセント・バルトロメオの敬愛するイヴリン・オルブライトという魔女は繁栄の翳りを許さない。どんな小さな違和感であっても報告が必要だと判断することに時間は必要なかった。
 握った手を口元に添えて一度咳払いをした後に姿勢を正し、わずかにイヴリンの方へと身を乗り出す。
「……近頃ルウシャ北西の大森林付近で魔物の様子が妙だとの報告を砦の兵より受けています」
 ヴィンセントの視線を受けたイヴリンがコリンの頭に乗せていた頬を離して、ヴィンセントと同じように姿勢を正した。コリンもそれにつられるようにして背筋をぴしりと伸ばす。
「妙、というのは?」
「森から出ることのなかった大型の草食獣らが森の外にかなりの数出てきているようです。生息域そのものが人里に寄ってきている……と申し上げればいいのでしょうか。主食としているはずのベリー系植物が例年より少ないというわけでもないのですが……」
「……その子達の捕食者が増えているだとか、生息域を広げている可能性はありますか?」
「確かに生息域は重なっていますが、数が増えすぎているわけでもないと」
「たとえば……亜種のような、少々外見や食性の違う子達というわけでも?」
「ありません」
 ヴィンセントの答えを反芻しながらイヴリンは手を口元に添えて考え込む。
 食料もある、敵性生物の増加もない。亜種でも食性の変化でもない。気候に関しても今年は例年通りで急激な変化があったわけでもない。そもそも生息域が丸ごと移動するようなことなど本来は何かしらの外的要因がなければ起こり得ないこと。
「砦の兵らに詳しく調査をさせていますが……昨日までに受けた報告では森林全体が静かすぎると。今までに感じたことがない圧迫感というか……そういったものを感じたとも報告を受けています」
「そうですか……気になりますね」
「未だ原因も判明していないため、慎重に事に当たらせています」
 ヴィンセントの言葉に答えることもなくイヴリンは思考の海に沈む。何が原因となっているかが浮かばずに、思考が堂々巡りになっていく。イヴリン様、と声を掛けるヴィンセントの声もイヴリンには届かない。
 そんな時に、邸宅の玄関に備え付けてある来客を知らせる鐘がからからと鳴り、応接室にもその音が響いた。その音を聞いたコリンがソファから立ち上がり、イヴリンの表情を伺う。
 コリンの視線にひとつ頷いたコリンはヴィンセントに一礼をしてとてとてと玄関へ向かった。
 玄関へ向かう道すがら、コリンもまたイヴリンと同じように思考の海に沈んでいた。
 ご主人様を害そうとしていた張本人は、誰なのか。
 報告書に名前があったのかもしれないが、コリンには見えないようにとうまく紙を湾曲させてイヴリンは報告書を読んでいた。そうして唐突にイヴリンの口から零れた、ドロセアという花の名前。
 そんなものが、あのナイフに使われていた。その事実にコリンの体は冷え切っていた。
 この体の冷えがどんな感情から来るものなのかはコリンにはまだ理解できない。
 理解はできないけれど、目的のためならば何をしても、何を使ってもいいということ、それをためらいもなくできてしまう人がいるということは深く心に刻まれた。その事実はコリンの足取りを重くしていた。
 玄関に辿り着いて、扉を開けたその先にいる人物を確認したコリンはあ、と声を漏らした。
 * 
 応接室では変わらず口元に手を添えてイヴリンが考え込んでいたが、ややあってヴィンセントに視線を向けた。
「大森林……草食獣達の異変は私も気になります。直接確認に行きます」
 その言葉にヴィンセントは焦りを感じた。経過観察と報告を求めるのではなくて、自ら現地へ赴くということは何かしらの異変をイヴリンが感じ取っているということ、そして王国内でも手練れが多いと高く評価を受けているヴィンセントの私兵でも手に余る可能性があるということ。
 言外に込められた可能性にヴィンセントは生唾を飲み込んだ。そしてそれほどの危険の可能性のある場所へ、イヴリンのみを行かせることはできないと身を乗り出す。イヴリンと自身の間に超えようのない実力の壁があるということも理解したうえで。
「もちろんです。私もご一緒いたしますので、すぐにでも日取りの調整を致します」
「わかりました、よろしくお願いいたし──」
「ご、ご主人様……!」
 イヴリンの言葉を遮るようにコリンが応接室に駆け込んでくる。コリンの後ろにはルウシャの冒険者組合を取り仕切る支部長がひどく苦々しい顔をして立っていた。
「ボルター支部長。どうされましたか」
 大柄で豪放磊落な支部長の滅多に見せない姿にイヴリンは腰を浮かせる。常に豪快に何事も笑い飛ばす支部長とも思えない様子は明らかに何かしらの異変が起きたことを悟らせるには十分だった。
「……あー……。ちっと厄介なことがな。辺境伯もいるなら話が早ぇ」
 ぼり、と頭を掻く支部長の様子にイヴリンとヴィンセントは目配せをする。ルウシャを拠点とする二人に揃って通さなければならない話。それが先程までヴィンセントが報告していた内容に関わるものである可能性を浮かべるのは自然なことだったかもしれない。