数式の花束
ー/ー数式の花束
その日の朝、研究所のエントランスに新しい顔があった。
白衣を着た若い女性が、受付で手続きをしている。黒髪を一つに束ね、少し緊張した様子で書類を記入していた。
堀田が直人に声をかけた。「神崎くん、今日から新しい研究員が来ます。案内をお願いできますか」
「わかりました」
直人はエントランスに向かった。女性が顔を上げた。
「はじめまして。今日からお世話になります、佐藤栞です」
「神崎直人です。よろしくお願いします」
栞は直人を見て、少し目を丸くした。「神崎くん、副所長補佐って何?」
「ええと、中学生の僕に与えられた特別な役職ですかね」
「へぇ、そうなんですか」栞は笑った。「貴方も何か研究を?」
「ええ、色々やってます」直人は苦笑いした。「案内しますね」
*
研究所を一通り案内した後、直人は博士の工場の前で立ち止まった。
「ここが所長の工場です。博士はいつもここにいます」
「所長に挨拶した方がいいですよね」栞は言った。
「一応した方がいいと思いますが」直人は少し躊躇った。「博士は少し、変わった方なので」
「大丈夫ですよ」栞は明るく言った。「どんな方でも」
直人はノックした。
「開いとる」
扉を開けると、博士はデスクに向かって設計図を眺めていた。振り返りもせずに言った。「なんじゃ直人、今忙しい」
「新しい研究員の方が挨拶に来たよ」
「後にしろ」
栞が扉から一歩入った。「はじめまして。今日からお世話になります、佐藤栞と申します。よろしくお願いします」
博士が振り返った。
その瞬間、博士の動きが止まった。
設計図を持ったまま、固まった。
栞は気づかずに続けた。「榊博士のご研究を拝見して、ぜひこちらで学びたいと思いまして。どうぞよろしくお願いします」
博士は何も言わなかった。
直人は博士の顔を見た。いつもの鋭い目が、今は違う表情をしていた。驚きとも、戸惑いとも、悲しみともつかない、見たことのない顔だった。
「博士?」直人は小声で言った。
博士はようやく我に返ったように、小さく咳払いをした。「……ああ」博士はぶっきらぼうに言った。「精進せい」
栞は「ありがとうございます」と頭を下げて工場を出た。
直人はもう一度博士を見た。博士はすでに設計図に向き直っていた。でもその手が、微かに震えていた。
*
それから博士の様子が変わった。
以前は工場に籠もりきりで、誰かを呼ぶことなどほとんどなかった。直人でさえ、用がなければ工場に近づかない方がいいと思っていたくらいだ。
それが、栞が来てから変わった。
「佐藤栞を呼んでこい」
最初に直人がそれを聞いたのは、栞が来て数週間後のことだった。
「博士が呼んでいます」と伝えると、栞は「はい、すぐ行きます」と言って工場に向かった。
しばらくして工場から栞の声が聞こえてきた。「この数式の展開なんですが、こういうアプローチも考えられませんか」
博士の返事は聞こえなかった。でも会話は続いていた。
それが毎日になった。
朝、栞が挨拶に来る。午後、博士が栞を呼ぶ。夕方、また呼ぶことがある。工場の扉が開いたままになり、二人の会話が廊下に漏れてくる。
直人はその様子を不思議に思いながらも、そっとしておいた。
*
ある日の夕方、直人が廊下を歩いていると、工場の前にザイロンが立っていた。
壁にもたれ、腕を組んで、工場の中を見ていた。
直人は近づいた。
工場の中では、博士と栞が設計図を広げて話し込んでいた。博士が数式を書き、栞が覗き込む。栞が何か言うと、博士が「ほう」と言って書き直す。
「ザイロン」直人は小声で言った。「ここで何してるの?」
「見ていた」ザイロンは静かに答えた。
「何を」
ザイロンは答えなかった。ただ工場の中を見ていた。
博士が珍しく声を上げて笑った。栞が「そうですよ、だから言ったじゃないですか」と言っている。
直人はザイロンの横顔を見た。ザイロンの目が、いつもと少し違う気がした。鋭さの中に、何か柔らかいものが混じっている。
「ザイロン、どう思う?」直人は聞いた。「博士のこと」
ザイロンはしばらく黙っていた。
「俺がここに来てから」ザイロンはぽつりと言った。「あの爺さんがあんな顔で話しているのを見たことがなかった」
直人は工場の中を見た。博士がまた何か言って、栞が笑っている。博士の顔が、いつもより穏やかだった。
「悪くない」ザイロンは静かに言った。「あの爺さんにとっては、悪くない時間だ」
でもその目が、少し陰った。
直人にはわかった。ザイロンはすでに知っていたのだ。栞がNASAの回し者であることを。この時間がいつまでも続かないことを。
「ザイロン」直人は言った。「博士に話さなきゃいけないよね、いつか」
「ああ」ザイロンは短く答えた。「だがまだいい」
「なんで」
ザイロンはしばらく黙った。
「あの爺さんが、あんな顔をしているのを」ザイロンは静かに言った。「もう少しだけ見ていたい」
工場の中から、また博士の声が聞こえてきた。「この数式の先を考えてみろ。なかなか面白いことになるぞ」
栞が「はい!」と弾んだ声で答えた。
廊下に、夕方の光が差し込んでいた。
直人はザイロンの横顔を見た。
ロボットのくせに、とても人間らしい顔をしていた。
一方その裏で栞には複雑な感情が渦巻いていた
佐藤栞がこの研究所に来た時から、罪悪感はあった。
NASAから頼まれた。それだけだ。義理がある。それだけのことだ。最初はそう思っていた。
エントランスで書類を記入しながら、栞はずっと自分に言い聞かせていた。情報を集めたら戻る。長くても半年。誰も傷つかない。
その日の午後、案内してくれた神崎直人という少年と博士の工場に挨拶に行った。
振り返った博士の顔を見た瞬間、栞には何かが伝わった。うまく言えないが、確かに伝わった。その目に、驚きと、戸惑いと、一瞬だけ顔を出してすぐに引っ込んだ、何か柔らかいものが。
博士は「精進せい」と言っただけで、それ以上何も言わなかった。
研究所を出て自分のデスクに戻った時、栞の中で何かがざわついた。
でも栞はその感覚を無視した。仕事だから。義理があるから。
*
博士が自分を呼ぶようになったのは、来て数週間後のことだった。
工場の扉を開けると、博士は設計図を広げて「ちょうどいい、これを見ろ」と言った。挨拶もなかった。でも声に刺がなかった。
栞は設計図を覗き込んだ。
論理の飛躍がある。でも飛躍の先に、何かある。栞はそれが見えた。「この展開なんですが、こういうアプローチも考えられませんか」と言ってみると、博士は黙って聞いていた。それから「やってみろ」と言った。
その日の夕方、栞は長い時間工場にいた。
帰り道、自分が笑っていたことに気づいた。本当に楽しかった。その事実が、少しだけ怖かった。
*
一ヶ月が経った頃、栞は自分のノートに何も書いていないことに気づいた。
NASAへの報告用のノートだ。来る前に渡されたもの。研究所の技術動向、博士の研究の方向性、進捗。そういったものを書くはずだった。
ページは白いままだった。
書こうと思えば書けた。材料はある。博士は栞に多くを見せた。惜しみなく、というよりも、自然に。「お前はどう思う」と聞きながら、自分の思考を広げていくように。
その思考を、誰かに渡すことが、栞にはできなかった。
ノートを閉じた。引き出しの奥に入れた。
自分が任務を果たしていないことはわかっていた。でも、それ以上に考えたくなかった。
*
二ヶ月が経った。
ある夕方、博士が数式の途中でふと黙った。それから独り言のように「お前は数学が好きか」と聞いた。
「好きです」と栞は答えた。「子どもの頃から、数式を見ると落ち着くんです」
博士は少しの間、栞を見た。その目が、また何か遠いところを見ていた。
「そうか」と博士は言った。それだけだった。
でも、その後しばらく博士の手が止まっていた。
栞はそれを見ながら、胸の奥が痛むのを感じた。
この人は、自分が思っていたよりずっと、傷を持っている。そしてその傷の形が、自分には少しだけ見えてしまう。
それが余計につらかった。
*
三ヶ月が経った朝。
栞はいつものように研究所に来て、自分のデスクに座った。今日も博士に呼ばれるかもしれない。そう思うと、楽しみと、それと同じくらいの重さが同時に来た。
この場所が好きだ。本当に。
そしてそれが、どうにもならないことも、栞にはわかっていた。
ザイロンはとっくに知っている。あのロボットは、来た初日からわかっていたはずだ。それでも何も言わなかった。なぜかは知らない。でもいつか必ず来る。
来てよかった。本当に、そう思う。それが罪悪感をなくすわけではなかった。むしろ、来れば来るほど重くなった。
博士が自分を呼ぶたびに、栞は一度だけ目を閉じてから工場に向かった。
扉を開けると「来たか」と博士が言う。それだけで、胸のどこかが締まった。
午後、デスクで資料を整理していると、廊下の向こうからザイロンが歩いてくるのが見えた。
ザイロンは栞のデスクの前で止まった。
「佐藤栞」
低い声だった。
「副所長室に来い」
栞は立ち上がった。
来た、と思った。
怖くはなかった。むしろ、ずっと待っていたような気がした。
*
「座れ」ザイロンは言った。
栞は静かに椅子に座った。
「単刀直入に言う」ザイロンは続けた。「お前がNASAから派遣されたことはわかっている」
栞は動じなかった。少し目を伏せ、それから顔を上げた。「……いつから」
「お前が来た時からだ」ザイロンは答えた。「13歳でMITに飛び級で入り、NASAと深い関係にある。調べればすぐにわかることだ」
栞はしばらく黙っていた。「解雇ですか」
「ああ」
栞はうなずいた。「わかりました」
「納得しているのか」
「NASAには資金面で大変お世話になりました」栞は静かに言った。「義理があってここに来ました。でも」栞は少し間を置いた。「正直に言うと、来てよかったと思っています。ここは本物の研究をしている場所だと感じました」
ザイロンはしばらく栞を見ていた。
「荷物をまとめろ。今日中に出ていけ」
「はい」栞は立ち上がり、深々と頭を下げた。「お世話になりました」
*
栞が副所長室を出てしばらくして、廊下に足音が響いた。
勢いよく扉が開いた。
博士だった。白衣のまま、工具を手に持っている。目が鋭い。
「ザイロン」博士は言った。「佐藤栞をクビにしたとはどういうことだ。彼女は優秀だ。儂の助手にする」
ザイロンは椅子に座ったまま博士を見た。「あんたが一研究員の名前まで覚えるとはな。よほど入れ込んでるようだ」
「当然じゃ。あれほど優秀な研究員はそうおらん」
「だが駄目だ」ザイロンは静かに言った。「あの女はNASAの回し者だ」
博士の目が鋭くなった。「証拠はあるのか」
「ある」
「それでも儂は構わん」博士は言った。「所長権限じゃ。あの娘をクビにすることは許さん」
ザイロンは立ち上がった。机を叩いた。
「いい加減にしろ、ジジイ」
博士が黙った。
「頭を冷やせ。あんたはNASAの策略にはまってるんだよ」ザイロンは続けた。「研究所の技術を探るために送り込まれた人間だ。それがわかっていて庇うというのか」
博士はしばらくザイロンを見ていた。
部屋に沈黙が落ちた。
やがて博士は小さく息を吐いた。何も言わずに副所長室を出ていった。
*
博士の工場に、栞が呼ばれたのはそれから一時間後だった。
栞は荷物をまとめかけていたところだったが、博士の呼び出しを断れなかった。
工場の扉をノックした。
「開いとる」
中に入ると、博士はデスクに向かっていた。振り返り、栞を見た。
「座れ」
栞は椅子に座った。
「ザイロンに話は聞いた」博士は静かに言った。「出ていくそうだな。残念だ」
「博士」栞は言った。「私は確かにNASAから頼まれてここに来ました」
「知っておる」
「申し訳ありませんでした」栞は頭を下げた。「でも」栞は顔を上げた。「本当に、ここで学べたことは本物でした。博士の研究は、私が今まで見てきたどんなものとも違いました」
博士は黙って栞を見ていた。
「一つだけ聞いてもいいですか」栞は続けた。「博士はなぜ、私にこんなによくしてくださったんですか」
博士はしばらく黙っていた。
それからゆっくりと口を開いた。
「儂には女房がおった」博士は静かに言った。「40半ばで逝ってしまったがな。誰にでも優しくて、誰にでも分け隔てなく接して、儂がどんなに偏屈でも全く動じなかった。馬鹿みたいに儂のことが好きだったんじゃ」
栞は黙って聞いていた。
「お前を見た時」博士は続けた。「驚いた。顔も、声も、雰囲気も、あいつにそっくりじゃった」
工場に静寂が落ちた。
博士は引き出しから紙を取り出した。鉛筆を手に取り、何かを書き始めた。
数式だった。
複雑な数式が、紙の上に広がっていく。博士の手が迷いなく動く。しばらくして、博士はペンを置いた。
紙を栞に差し出した。
「これは?」栞は受け取りながら聞いた。
「女房が若い頃、儂に教えてくれた数式じゃ」博士は言った。「あいつは数学が得意でな。儂が行き詰まるたびに、こうやって紙に書いて渡してくれた」
栞は数式を見た。複雑だが、美しい流れがある。
「この数式の意味は」栞は聞いた。
博士は少し間を置いた。
「持っていけ」博士はぶっきらぼうに言った。「お前が解いてみろ」
栞はしばらく数式を見ていた。その目が、少し潤んだ。
「ありがとうございます、博士」
博士は鼻を鳴らした。「早く行け。ザイロンに怒られる」
栞は立ち上がり、深々と頭を下げた。「お世話になりました」
扉が閉まった。
工場に、博士一人が残った。
博士はデスクに肘をつき、手で顔を覆った。
しばらく、動かなかった。
*
廊下で直人は栞とすれ違った。
栞はキャリーバッグを引いていた。手に、一枚の紙を大事そうに持っている。
「お世話になりました、神崎くん」栞は笑顔で言った。でもその目が、少し赤かった。
「お気をつけて」直人は答えた。
栞はエントランスに向かって歩いていった。
直人は博士の工場を見た。扉が閉まっている。
中から音はしなかった。
直人はそっとその場を離れた。
その夜、栞はホテルの部屋で荷物を解いた。
キャリーバッグから取り出したものを一つ一つテーブルに並べていく。
最後に、あの紙が出てきた。
博士から渡された数式だ。栞は椅子に座り、紙を広げた。
蛍光灯の下で、数式を眺めた。
複雑だが、美しい。博士の筆跡が、紙の上を走っている。
栞はゆっくりと数式を追っていった。
しばらくして、手が止まった。
「これは……」
引力の方程式だった。
しかも単純な引力ではない。二つの全く異なる性質を持つ存在が、距離を超えて引き合う。時間が経っても、その引力は変わらない。むしろ時間が経つほど強くなる。
栞はしばらく数式を見つめていた。
「博士……」
栞は息を呑んだ。
ふと、数式の端々に、今日まで博士と一緒に解いてきた計算の「癖」が混じっていることに気づいた。
昨日、工場で二人で議論した最新の理論が、この数式の土台に使われている。
「……嘘つき」
栞は小さく呟いた。
奥さんに教わったのではない。これは、博士が今日、この数時間で、自分との日々のために書き上げた「新作」だ。
「……ずるいですよ、博士」
小さくそう呟いた。
それが、この世界で最も難解な「さよなら」だった。
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