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幸せな夢⑴

ー/ー



 勇斗たちを乗せた飛竜は、風を切り裂いて進んだ。

 シトレ岬の先。灰色の海の彼方に、巨大な影が浮かんでいるのが見えた。

 マナの聖域だった。島全体が空に浮いている。いや、正確には、無数の根に支えられていた。根は海面を貫き、深い底へと沈み込んでいる。

 飛竜は唸るように喉を鳴らし、高度を上げる。そのまま島へ降り立つと、勇斗と真弘が背から降りた瞬間、たちまち掌に乗るほどの大きさに縮み、真弘の肩に収まった。

 勇斗は辺りを見回した。

 木々は黒く濁り、かつて内部を走っていた青白い光は、黒ずんだ紫へと変わっていた。脈動は異様に速い。異様な速さで脈打ったかと思えば、不意に止まり、次の瞬間には痙攣するように震えた。裂け目から滲み出ているのは、光ではなかった。ねっとりとした黒い瘴気だった。

 耳を澄ます。かつて聖域を満たしていた呼吸は、どこにもなかった。代わりにあるのは、途切れ途切れの脈動だけだった。

 勇斗たちは奥へ進んだ。

 勇斗は黙ったままだ。真弘は落ち着かない様子で、何度も視線をさまよわせていた。肩の飛竜も不安げに喉を鳴らした。

 やがて、かつて花園だった場所にたどり着いた。

 花はなかった。色も香りも、何もかも消えている。代わりに、大きな目玉がいくつも咲いていた。粘つくような視線が、勇斗たちの肌を舐めた。ぞわぞわと虫唾が走った。

 さらに進む。湖に出た。

 濁った湖の中央に浮かぶ精霊樹は、黒く変貌していた。幹はねじれ、枝は槍のように鋭い。葉は一枚も残っていない。骸そのものだった。

 勇斗は、精霊樹だったものを見上げた。

 この先に、ランパとヴェンがいる。

「飛竜で頂上まで飛べないか?」

 勇斗の問いに、真弘は首を横に振った。

「だめ。強い力のせいで、ここから先は飛べないって言ってる」

「そうか。なら、行くしかない」

 勇斗は、幹に穿たれた穴へと続く骨の橋を渡った。無数の骨が絡み合ってできた橋は、踏みしめるたびに乾いた音を立てた。

 樹の内部は赤黒かった。壁はぬめり、ところどころに太い血管のような筋が走っている。指先で触れると、微弱な脈動が伝わってきた。

 中央には螺旋階段が伸びていた。

 段差は臓器のように柔らかく、足を乗せるたび、ぐにゃりと沈む。靴底にまとわりつく感触は、粘膜じみていた。

 禍々しい階段を上りきると、円形の大広間に出た。

 次の瞬間、冷気が肌を刺した。

 そこは、壁も床も天井も鏡だった。映り込む勇斗たちの姿はどれも微妙に歪み、まるで別人のように見えた。

 赤い絨毯が一本、奥へ向かって伸びている。

 その先に、玉座があった。

 玉座に座っていたのは、ソーマだった。

 足を組み、頬杖をつき、退屈そうにこちらを見下ろしている。霞がかった紫の髪が、鏡の光を受けて不気味に揺れた。

「お待ちしておりましたわ、ユート」

「ソーマ。きみはヴェンの下についたのか?」

「そう。わたくしは強いお方が好き。残念ながら、そちらのお子様は主にふさわしくありませんの」

 真弘を一瞥し、ソーマは意地悪く笑った。

「あ、う……」

 真弘は露骨に肩を落とした。言い返すこともできないようだった。

「それではごきげんよう、魔神様。ここはあなたの席ではありませんわ」

「うわぁっ!」

 ぱちん、と乾いた音が響いた。

 真弘の足元で、鏡の床が黒い泥のように溶けた。闇が口を開き、彼の両足へ食らいついた。

「勇斗にいちゃん、た、助け――!」

 真弘の体はずぶずぶと沈んでいく。勇斗が一歩踏み出したときには、もう腰まで飲まれていた。手を伸ばしても届かない。声だけが遠ざかり、最後には完全に消えた。

「さぁ、これで二人きりになれましたわね」

「……ソーマ」

「あらあら、そんなに怖い顔をなさらないで。安心してくださいませ。彼には彼にふさわしい場所へ行っていただいただけですわ。それよりユート、今から何をいたしましょう。ウルパの夜の続きを、ここでいたしましょうか?」

 ソーマは立ち上がり、カラスの羽を思わせる漆黒の衣へ指をかけた。白い肩がのぞく。

「……斬る」

 勇斗はドラシガーを口にくわえ、躊躇なく吸い口を噛みちぎった。宝珠の青白い炎が先端を焦がし、緑の煙が噴き上がった。そして、聖剣クトネシスの柄に手をかけた。

「はぁ、野蛮ですわね。あの頃のやさしいユートは、どこへ行ってしまったのかしら」

 ソーマが再び指を鳴らした。鏡面の床に三つの影が滲み出る。影は膨れ上がり、やがて形を持った。

 巨大な蜥蜴。双頭の怪鳥。白銀の獅子。いずれも、かつて勇斗たちが倒した魔族だった。

「さぁ、これは前菜ですわ。わたくしを楽しませてくださいませ」

 三体が同時に襲いかかってくる。

 勇斗は剣を抜いた。

 甲高い斬撃音が、鏡の間に一瞬だけ重なった。

 次の瞬間、黒い血が鏡張りの床に飛び散る。蜥蜴の胴は真っ二つに裂け、怪鳥の二つの首は宙を舞い、獅子は後ろ脚を残したまま崩れ落ちた。断末魔は短かった。

「……お強いですわね。さすがユート。わたくしが見込んだ勇者」

 ソーマは体を揺らしながら、にこにこと微笑んだ。

「わたくし、ずっと考えていましたの。どうすればあなたを徹底的に壊せるのか。――さぁ、これが答えですわ」

 ソーマの瞳が、妖しく光った。

 黒い霧が勇斗を包み込む。甘い匂いが鼻を満たした。不意に、視界が裏返った。頭の内側を掴まれたような衝撃が走る。

 何を――

 その問いは、最後まで形にならなかった。

 耐えきれず、勇斗の意識は底のない闇へと沈んでいった。
 

 ホッホー、ホッホー。

 フクロウの鳴き声のアラームが鳴り出した。勇斗は布団の中から手を伸ばし、枕元のスマートフォンをたぐり寄せた。

 朝の七時。起きる時間だった。

 ベッドに腰掛け、大きく伸びをする。固まった肩がほぐれ、眠気が少しだけ遠のいた。眠たげな目をこすりながら、勇斗はぼんやりと部屋の中を眺める。

 見慣れた部屋だった。机の上に積まれた教科書。壁に掛かった制服。窓際の読みかけの本。どれも、自分のものだった。なのに、頭が妙に重かった。寝過ぎたのかな、と思った。昨日は何時に寝たっけ。思い出そうとしても、昨夜のことだけが妙に曖昧だった。

 勇斗は無意識に左手を握った。左の目元に触れ、右の耳たぶを確かめる。すべてあった。指も、目も、耳も。

 何を確かめているんだ、僕は。

 苦笑して、ベッドから立ち上がる。

 カーテンを開けると、気持ちのいい日差しが差し込んできた。空は高く澄み、雲ひとつない晴天だった。

「勇斗ー、ご飯できてるよー」

 階下から母の声が聞こえてきた。勇斗は「はーい」と返事をし、ダイニングキッチンへ向かった。

 テーブルの上には、白米と味噌汁、目玉焼きとベーコンが並んでいた。湯気が静かに立ちのぼり、焼いたベーコンの香ばしい匂いが漂っている。香りを嗅いだ途端、腹が小さく鳴った。

 向かいでは、母が白米を口に運びながら、ときおりテレビへ目を向けていた。

 勇斗は小さくため息をついた。いつも通りの朝なのに、どうしてこんなに懐かしいのだろう。

「どうしたの勇斗、食べないの?」

「あ、いや。食べるよ。いただきます」

 箸を取る。味噌汁をひと口すすると、温かさが胃に落ちていった。少しだけほっとした。

 テレビでは朝のニュースが流れていた。株価がどうとか言っているが、勇斗にはよくわからない。やがて画面は、アニマルコーナーへ切り替わった。丸い子猫が転がる映像に、母が小さく笑う。

 朝食を済ませた勇斗は、洗面所で冷たい水を顔に受け、歯を磨いた。

 自分の部屋に戻って着替える。学ランに袖を通し、学生鞄を手に取った。教科書、筆箱、ノート。忘れ物がないか確認してから、玄関へ向かう。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

 外に出ると、秋風が頬を撫でた。冷たすぎず、ちょうどいい風だった。勇斗はのんびりと歩き、高日中学校へ向かう。

 ふと、空を見上げる。青空だった。どこまでも歪みのない空だった。

 通学路を歩いていると、ランドセルを背負った二人の少年が横切った。陽介と真弘だ。

「真弘ー、早くしろよー」

「ま、待って」

 やがて二人は角を曲がり、見えなくなった。

 ふと視線を落とすと、小さな木の枝が落ちていた。どこにでもある枝だった。なのに、それを見ていると胸の奥がざわついた。

「まったく、あんなに急がなくてもいいのにな」

 ぽんと肩に手が置かれた。振り向くと、光太がにっと笑っていた。

「おはよう、光太」

「どうした、浮かない顔して?」

「え、そんな顔してた?」

「してたしてた。何かあったか?」

「いや、何もないけど」

 勇斗は無理に笑った。しかし、心のざわつきは消えない。どこかで、何か大事なものを置き忘れてきたような。そんな感覚だけが、胸の奥にしつこく残っていた。

「アンタら、そんなところで突っ立ってたら邪魔。早くしないと遅刻するよ?」

 美咲がローズピンクの髪を揺らしながら、早足で横を通り過ぎた。

「はいはい、生徒会の女はうるさいな。じゃあ行こうぜ、勇斗」

「う、うん」

 勇斗は後ろを振り返った。

 さっきまであったはずの枝は、跡形もなく消えていた。


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 勇斗たちを乗せた飛竜は、風を切り裂いて進んだ。
 シトレ岬の先。灰色の海の彼方に、巨大な影が浮かんでいるのが見えた。
 マナの聖域だった。島全体が空に浮いている。いや、正確には、無数の根に支えられていた。根は海面を貫き、深い底へと沈み込んでいる。
 飛竜は唸るように喉を鳴らし、高度を上げる。そのまま島へ降り立つと、勇斗と真弘が背から降りた瞬間、たちまち掌に乗るほどの大きさに縮み、真弘の肩に収まった。
 勇斗は辺りを見回した。
 木々は黒く濁り、かつて内部を走っていた青白い光は、黒ずんだ紫へと変わっていた。脈動は異様に速い。異様な速さで脈打ったかと思えば、不意に止まり、次の瞬間には痙攣するように震えた。裂け目から滲み出ているのは、光ではなかった。ねっとりとした黒い瘴気だった。
 耳を澄ます。かつて聖域を満たしていた呼吸は、どこにもなかった。代わりにあるのは、途切れ途切れの脈動だけだった。
 勇斗たちは奥へ進んだ。
 勇斗は黙ったままだ。真弘は落ち着かない様子で、何度も視線をさまよわせていた。肩の飛竜も不安げに喉を鳴らした。
 やがて、かつて花園だった場所にたどり着いた。
 花はなかった。色も香りも、何もかも消えている。代わりに、大きな目玉がいくつも咲いていた。粘つくような視線が、勇斗たちの肌を舐めた。ぞわぞわと虫唾が走った。
 さらに進む。湖に出た。
 濁った湖の中央に浮かぶ精霊樹は、黒く変貌していた。幹はねじれ、枝は槍のように鋭い。葉は一枚も残っていない。骸そのものだった。
 勇斗は、精霊樹だったものを見上げた。
 この先に、ランパとヴェンがいる。
「飛竜で頂上まで飛べないか?」
 勇斗の問いに、真弘は首を横に振った。
「だめ。強い力のせいで、ここから先は飛べないって言ってる」
「そうか。なら、行くしかない」
 勇斗は、幹に穿たれた穴へと続く骨の橋を渡った。無数の骨が絡み合ってできた橋は、踏みしめるたびに乾いた音を立てた。
 樹の内部は赤黒かった。壁はぬめり、ところどころに太い血管のような筋が走っている。指先で触れると、微弱な脈動が伝わってきた。
 中央には螺旋階段が伸びていた。
 段差は臓器のように柔らかく、足を乗せるたび、ぐにゃりと沈む。靴底にまとわりつく感触は、粘膜じみていた。
 禍々しい階段を上りきると、円形の大広間に出た。
 次の瞬間、冷気が肌を刺した。
 そこは、壁も床も天井も鏡だった。映り込む勇斗たちの姿はどれも微妙に歪み、まるで別人のように見えた。
 赤い絨毯が一本、奥へ向かって伸びている。
 その先に、玉座があった。
 玉座に座っていたのは、ソーマだった。
 足を組み、頬杖をつき、退屈そうにこちらを見下ろしている。霞がかった紫の髪が、鏡の光を受けて不気味に揺れた。
「お待ちしておりましたわ、ユート」
「ソーマ。きみはヴェンの下についたのか?」
「そう。わたくしは強いお方が好き。残念ながら、そちらのお子様は主にふさわしくありませんの」
 真弘を一瞥し、ソーマは意地悪く笑った。
「あ、う……」
 真弘は露骨に肩を落とした。言い返すこともできないようだった。
「それではごきげんよう、魔神様。ここはあなたの席ではありませんわ」
「うわぁっ!」
 ぱちん、と乾いた音が響いた。
 真弘の足元で、鏡の床が黒い泥のように溶けた。闇が口を開き、彼の両足へ食らいついた。
「勇斗にいちゃん、た、助け――!」
 真弘の体はずぶずぶと沈んでいく。勇斗が一歩踏み出したときには、もう腰まで飲まれていた。手を伸ばしても届かない。声だけが遠ざかり、最後には完全に消えた。
「さぁ、これで二人きりになれましたわね」
「……ソーマ」
「あらあら、そんなに怖い顔をなさらないで。安心してくださいませ。彼には彼にふさわしい場所へ行っていただいただけですわ。それよりユート、今から何をいたしましょう。ウルパの夜の続きを、ここでいたしましょうか?」
 ソーマは立ち上がり、カラスの羽を思わせる漆黒の衣へ指をかけた。白い肩がのぞく。
「……斬る」
 勇斗はドラシガーを口にくわえ、躊躇なく吸い口を噛みちぎった。宝珠の青白い炎が先端を焦がし、緑の煙が噴き上がった。そして、聖剣クトネシスの柄に手をかけた。
「はぁ、野蛮ですわね。あの頃のやさしいユートは、どこへ行ってしまったのかしら」
 ソーマが再び指を鳴らした。鏡面の床に三つの影が滲み出る。影は膨れ上がり、やがて形を持った。
 巨大な蜥蜴。双頭の怪鳥。白銀の獅子。いずれも、かつて勇斗たちが倒した魔族だった。
「さぁ、これは前菜ですわ。わたくしを楽しませてくださいませ」
 三体が同時に襲いかかってくる。
 勇斗は剣を抜いた。
 甲高い斬撃音が、鏡の間に一瞬だけ重なった。
 次の瞬間、黒い血が鏡張りの床に飛び散る。蜥蜴の胴は真っ二つに裂け、怪鳥の二つの首は宙を舞い、獅子は後ろ脚を残したまま崩れ落ちた。断末魔は短かった。
「……お強いですわね。さすがユート。わたくしが見込んだ勇者」
 ソーマは体を揺らしながら、にこにこと微笑んだ。
「わたくし、ずっと考えていましたの。どうすればあなたを徹底的に壊せるのか。――さぁ、これが答えですわ」
 ソーマの瞳が、妖しく光った。
 黒い霧が勇斗を包み込む。甘い匂いが鼻を満たした。不意に、視界が裏返った。頭の内側を掴まれたような衝撃が走る。
 何を――
 その問いは、最後まで形にならなかった。
 耐えきれず、勇斗の意識は底のない闇へと沈んでいった。
 ホッホー、ホッホー。
 フクロウの鳴き声のアラームが鳴り出した。勇斗は布団の中から手を伸ばし、枕元のスマートフォンをたぐり寄せた。
 朝の七時。起きる時間だった。
 ベッドに腰掛け、大きく伸びをする。固まった肩がほぐれ、眠気が少しだけ遠のいた。眠たげな目をこすりながら、勇斗はぼんやりと部屋の中を眺める。
 見慣れた部屋だった。机の上に積まれた教科書。壁に掛かった制服。窓際の読みかけの本。どれも、自分のものだった。なのに、頭が妙に重かった。寝過ぎたのかな、と思った。昨日は何時に寝たっけ。思い出そうとしても、昨夜のことだけが妙に曖昧だった。
 勇斗は無意識に左手を握った。左の目元に触れ、右の耳たぶを確かめる。すべてあった。指も、目も、耳も。
 何を確かめているんだ、僕は。
 苦笑して、ベッドから立ち上がる。
 カーテンを開けると、気持ちのいい日差しが差し込んできた。空は高く澄み、雲ひとつない晴天だった。
「勇斗ー、ご飯できてるよー」
 階下から母の声が聞こえてきた。勇斗は「はーい」と返事をし、ダイニングキッチンへ向かった。
 テーブルの上には、白米と味噌汁、目玉焼きとベーコンが並んでいた。湯気が静かに立ちのぼり、焼いたベーコンの香ばしい匂いが漂っている。香りを嗅いだ途端、腹が小さく鳴った。
 向かいでは、母が白米を口に運びながら、ときおりテレビへ目を向けていた。
 勇斗は小さくため息をついた。いつも通りの朝なのに、どうしてこんなに懐かしいのだろう。
「どうしたの勇斗、食べないの?」
「あ、いや。食べるよ。いただきます」
 箸を取る。味噌汁をひと口すすると、温かさが胃に落ちていった。少しだけほっとした。
 テレビでは朝のニュースが流れていた。株価がどうとか言っているが、勇斗にはよくわからない。やがて画面は、アニマルコーナーへ切り替わった。丸い子猫が転がる映像に、母が小さく笑う。
 朝食を済ませた勇斗は、洗面所で冷たい水を顔に受け、歯を磨いた。
 自分の部屋に戻って着替える。学ランに袖を通し、学生鞄を手に取った。教科書、筆箱、ノート。忘れ物がないか確認してから、玄関へ向かう。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
 外に出ると、秋風が頬を撫でた。冷たすぎず、ちょうどいい風だった。勇斗はのんびりと歩き、高日中学校へ向かう。
 ふと、空を見上げる。青空だった。どこまでも歪みのない空だった。
 通学路を歩いていると、ランドセルを背負った二人の少年が横切った。陽介と真弘だ。
「真弘ー、早くしろよー」
「ま、待って」
 やがて二人は角を曲がり、見えなくなった。
 ふと視線を落とすと、小さな木の枝が落ちていた。どこにでもある枝だった。なのに、それを見ていると胸の奥がざわついた。
「まったく、あんなに急がなくてもいいのにな」
 ぽんと肩に手が置かれた。振り向くと、光太がにっと笑っていた。
「おはよう、光太」
「どうした、浮かない顔して?」
「え、そんな顔してた?」
「してたしてた。何かあったか?」
「いや、何もないけど」
 勇斗は無理に笑った。しかし、心のざわつきは消えない。どこかで、何か大事なものを置き忘れてきたような。そんな感覚だけが、胸の奥にしつこく残っていた。
「アンタら、そんなところで突っ立ってたら邪魔。早くしないと遅刻するよ?」
 美咲がローズピンクの髪を揺らしながら、早足で横を通り過ぎた。
「はいはい、生徒会の女はうるさいな。じゃあ行こうぜ、勇斗」
「う、うん」
 勇斗は後ろを振り返った。
 さっきまであったはずの枝は、跡形もなく消えていた。