表示設定
表示設定
目次 目次




災い

ー/ー



 高日町の異変は、日に日に増していった。

 まず、地面に樹の根のような亀裂が走った。道路は通行止めの場所が増えていった。白線が宙に浮くという不可解な現象も目撃され始める。足音が、ほんのわずか遅れて聞こえてくる――そんな証言も複数挙がっていた。

 家の中でも異変が起きていた。家鳴りが以前より明らかに増えた。誰もいないはずの二階から足音が聞こえる。鏡の中の自分が、一瞬遅れて動く。そうした怪異が、町のあちこちで報告されるようになった。不眠や悪夢に悩まされる人も増えているという。

 高日中学校でも、異変ははっきり表れていた。廊下が伸び縮みする感覚に襲われる。階段の段数が日によって違う。チャイムの音程が狂う。加えて、学年全体で欠席と早退が明らかに増加していた。強い眠気、集中力の欠如、理由のない不安。町全体が、ゆっくりと何かに侵されていた。学校側も、授業短縮や行事延期を考え始めていた。

 アルトは、これらの異変をまとめたノートを閉じると、せわしなく部屋の中を歩き回った。

 おかしい。これは偶然の重なりではない。

 ――時が来たら、山に登ってくれ。

 ヤトの言葉が脳裏をよぎった。今なのか。

 胸の内がざわめいた、その時だった。

「勇斗ー、ごはんよー!」

 階下から、勇斗の母の声が飛んできた。

 アルトは、「はーい」と返事をし、ダイニングキッチンに向かった。

 白米と漬物を口に運びながら、アルトはテレビを見ていた。背景には、見慣れた町並みが映っていた。高日町に関するニュースだった。誰かがスマートフォンで撮影した写真や動画とともに、『原因不明の異常事態』というテロップが躍っている。

 画面が切り替わり、顔にモザイクのかかった住民のインタビューが流れた。

『怖いです。本当に……』

 その声は、ひどく遠く聞こえた。

 味噌汁をすすったあと、アルトは勇斗の母に視線を向けた。箸を持つ手が、わずかに震えていた。

「大丈夫?」

「ちょっと頭が痛くてね。最近、ずっとこんな調子なの」

「仕事、休んだら?」

「そうね、そうしようかしら。ありがとう、勇斗」

 勇斗の母は、そう言ったあと、食器を片付けようとした。

「いいよ、ボクが洗っておく。学校も休みだし」

「あら、ごめんね」

 アルトが食器を流し台に持って行くと、背後で、勇斗の母がぽつりと呟いた。

「……最近、優しくなったね」

 アルトの手が止まった。

「前はね、もっと……尖ってた。ずっと何かに縛られているみたいだった」

 振り向いたアルトは、困ったように笑った。

「そ、そうか?」

 勇斗の母はゆっくりうなずいたあと、優しく微笑んだ。

「うん。でも、今は違う。前は、こんなふうに笑わなかった」

 黄色のパーカーに黒のダッフルコートを重ねたアルトは、スマートフォンをポケットに滑り込ませて部屋を出た。

 一階に降り、勇斗の母の部屋をそっと覗く。規則正しい寝息が聞こえた。

「行ってきます」

 小さく声をかけたアルトは、音を立てないように扉を閉めた。

 少し歩いたところで、アルトは足を止めた。振り返ると、見慣れた家が、朝の光を浴びて静かにそこにあった。思わず、眉をひそめた。

 胸の奥が、少しだけ熱い。こんな感覚は、いつ以来だろう。口元に指をやり、考え込んだ。

 自分は、この世界に来て、ずいぶん変わった。いや――取り戻したと言うべきか。

 静かに息を吐き、表情を引き締める。アルトは、夏野神社の方角へと歩き出した。

 ――時が来たら、山に登ってくれ。

 再び、ヤトの声が脳裏をよぎった。
 

 夏野神社の鳥居をくぐった瞬間、肌を刺す冷気がやわらいだ。背後のざわめきが、ふっと遠のく。

 境内には誰もいなかった。静かだった。

 薄く積もった雪を踏みしめながら歩いていると、ピーヒョロロロロ、とトビの鳴き声が聞こえてきた。

 空を仰ぐと、一羽のトビがゆったりと旋回していた。鋭く鳴き、天陽山の方角へ滑るように飛んでいく。

 ついてこい――そう告げているようだった。

 アルトは、トビのあとを追った。
 

 山を駆け、獣道を突き抜ける。ひらけた空間の中央に、小屋が一軒だけ建っていた。秘密基地だ。

 トビは秘密基地の扉の前で舞い降り、次の瞬間、光をまとって人の姿に変わった。黄土色の髪をした、着物姿の少年。背中には小さな羽。四つの渦が絡み合う円形の文様が、淡く輝いている。

「来たようじゃな、ルークの魂を継ぐ少年よ」

「ルークは、ボクの世界の伝説の勇者だ。どうしてこの世界のあんたが知ってる?」

 アルトの目が鋭くなる。ヤトはゆっくりと笑った。

「それは、追い追い話してやるわい。まぁ、中に入れ」

 ヤトに続き、アルトは秘密基地の中に入った。

 木の椅子に向かい合うように腰掛けた二人は、しばらくお互いを見つめ合った。

「あんたは、神様なのか?」

「左様。わしはこの高日町を守護する神、ヤトじゃ」

 ヤトがニッと笑う。見た目も声も子供そのものだ。だが、底知れぬ気配がにじむ。

「……妙なやつだな」

「無礼者め。ま、いいわい。さっそく本題に入ろう。今、この町に起きている異常は、異世界からの干渉じゃ」

「異世界……ボクのいた世界か」

「うむ。具体的に言うと、二つの世界を隔てておる壁がな、今にも裂けそうなんじゃ。もともと脆い境じゃが、今回は踏み抜く寸前よ」

 ヤトは、険しい表情をした。

「実はな、大昔にも、同じことがあったのじゃ」

「昔にも?」

「うむ。この地がまだ村未満だった頃、空は裂け、異界から災厄が流れ込んだ。村人どもは為す術もなく、ただ滅びを待つしかなかった」

「……その災いを退けたのが、テンピ様なんだな」

「そうじゃ。じゃが、連中はテンピ様を神か何かのように語り継いだ。実際には違う。あやつもまた、おぬしと同じように異界から来た、生きたひとりの男じゃ」

「え?」

 アルトが困惑していると、ヤトは懐から煙管を取り出した。小さな火が灯る。紫煙がゆらりと立ちのぼり、天井へ溶けていく。

「今から話すのは、テンピ様――否、勇者ルークの話じゃ」

 ヤトは紫煙を吐いたあと、静かに目を閉じた。
 

 高日町が、まだ高日村と呼ばれていた時代。それは、村と呼ぶにはあまりにも小さな集まりに過ぎなかった。山あいのわずかな平地に、数軒の家が肩を寄せ合うように並ぶ。茅葺き屋根は低く重なり、囲炉裏の煙が朝霧と溶け合う。そこでは、山に身を預ける者たちが、土と水と火に頼って日々を繋いでいた。

 ある日、空が歪んだ。

 音もなく、空に裂け目のような影が広がる。

 高日村一帯は、たちまち暗黒に沈んだ。

 まず、作物が一夜で枯れた。次に、大人しかった獣が狂い、牙を剥いた。幻を見て叫ぶ者が現れ、己の家族をも鬼と見なした。

 大雨。氾濫。落雷。山崩れ。地は裂け、空は轟いた。

 人々は土に額を擦りつけた。

「ヤト様……どうか、お助けください」

 しかし、その歪みはヤトの力をものともせず、広がり続けた。いかに守護の神といえど、次元の裂け目までは縫えなかった。

 ヤトは、空を見上げた。

 ――わしの力では、足りぬか。

 その時だった。天陽山の頂に、天を貫く光の柱が立った。

 ただならぬ気配を感じたヤトは、翼を広げた。光へ向かい、空を裂くように飛んだ。

 大木の根元にもたれるように、一人の青年が倒れていた。茶色い髪。異様な面。そして、この地のものではない衣。

「お主、何者じゃ。なぜこんなところで眠っておる」

 ヤトの声に、青年はゆっくりと目を開けた。視線が定まらぬまま、周囲を見渡す。

「ここは、どこだ?」

 聞き覚えのない言葉のはずなのに、意味ははっきり伝わってきた。

「ここは高日村。お主、名は?」

「ルーク」

「お主、どうしてここに?」

「わからない。気づいたら、ここにいた。それより、ただ事じゃないな」

 立ち上がったルークは、裂けた空を見上げた。

「わしには、どうすることもできん」

「大丈夫だ。対処はできる」

「本当か?」

「ああ。おそらく、これが原因だろう」

 ルークは懐に手を差し入れた。取り出したのは、拳ほどの紅い球。表面には無数の棘が生え、内側から鼓動するように脈打っている。まるで、生きているかのようだった。

「なんじゃ、その禍々しきものは」

「魔神の残滓だ。置き土産とでも言うべきか。放っておけば、この地を食い尽くす」

「話がさっぱり見えぬわい」

「詳しい話をしたい。どこか雨宿りできるところはないかな?」

 ヤトは、天陽山の中腹にある小屋へと、ルークを案内した。

「ここは、鍛冶屋か?」

 ルークは物珍しそうに、小屋の設備を見て回っていた。

「刀鍛冶の小屋じゃ。主はとうに山を下りたがの」

「カタナ……この世界の剣のことか」

 ルークは一本の刀を手に取り、刃文を静かに眺めた。見事だ、と呟く。

「それより、お主の話を聞かせてくれぬか?」

 ルークの語った話は、あまりにも常軌を逸していた。彼は人と精霊のあいだに生まれし子であり、その力で魔神を封じたという。半信半疑だったヤトも、やがて言葉を失った。その語りには、偽りを許さぬ重みがあった。もうひとつの世界――それが実在するとは。

「それで、お主が受けた呪いの正体が、その紅い球なのじゃな」

「ああ。魔神は、次元そのものを歪める力を持っていたらしい。ならば、この力で歪みを閉じられるはずだ」

「……その力で歪みを縫い止めれば、お主は帰れぬぞ」

「それでも、構わない」

 ルークの声音が、低く沈んだ。

「お主の覚悟は受け取った。それで、具体的にどうするつもりじゃ?」

「剣――いや、刀を打つ。その球の一部を、刃に封じる」

「ならば、急ぐとしよう」

 ルークとヤトは、刀を打った。ルークは、裂け目の側に立てる存在だった。ヤトが触れられぬ領域へ、ただ一人踏み込める。だが、この世界の理は知らない。だからこそ、二人で打つ必要があった。

 二つの世界の理が交わって生まれた刃は、禍々しくも神々しかった。漆黒の刀身。その中心を、血脈のごとき細い赤が脈打つ。

 刀は、虚裂虎杖丸(きょれついたどりまる)と名付けられた。

 虚裂虎杖丸を握りしめたルークは、ヤトの力を借り、天陽山の頂から歪みへと駆け上がった。

 ただ一太刀。虚を裂く刃が、歪みを断った。次元の裂け目は、音もなく閉じた。

 暗雲は裂け、久しく失われていた陽光が村を照らした。

 ルークは、村を災いから救った存在として「テンピ様」と崇められた。この世界の言葉を覚え、人々と交流を重ねる。復興にも手を貸し、自身の生い立ちも語った。やがて、村には平穏が戻り始めた。

 だが――災いの根は、まだ残っていた。ルークが携えてきた紅き球である。

 ヤトは決断した。この禍根を、地の底へ封じねばならぬと。

 紅い球は、なお脈打っていた。封印の最中、まるで意志を持つかのように暴れ、二人を拒んだ。抑え込んだその瞬間、外殻が砕けた。無数の微細な破片が、闇へと散った。

 虚裂虎杖丸は、天陽山の頂に立つ大樹へと封じられた。二度と、この刃が振るわれないことを願って。

 ルークは、まだ三十八歳でこの世を去った。魔神の呪い。そして、虚裂虎杖丸を振るった代償だった。

「悪くない世界だった。……だが、私は帰りたかった」

 それが、ルークの最期の言葉だった。
 

 ヤトは紫煙をゆらりと吐き出した。小屋の中に、しばし沈黙が落ちる。

「これが、テンピ様――ルークの物語じゃ」

 アルトは、しばらく声を失った。

「なぁ……もしかして、その虚裂虎杖丸の力を使えば、ボクは元の世界に戻れるのか?」

「それは――」

 ヤトが言いかけた時、地の底から突き上げるような衝撃が、小屋を揺らした。

「いかん! はやく出るんじゃ」

 外へ飛び出すと、空は不気味な紫に濁り、生き物のように脈打っていた。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 幸せな夢⑴


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 高日町の異変は、日に日に増していった。
 まず、地面に樹の根のような亀裂が走った。道路は通行止めの場所が増えていった。白線が宙に浮くという不可解な現象も目撃され始める。足音が、ほんのわずか遅れて聞こえてくる――そんな証言も複数挙がっていた。
 家の中でも異変が起きていた。家鳴りが以前より明らかに増えた。誰もいないはずの二階から足音が聞こえる。鏡の中の自分が、一瞬遅れて動く。そうした怪異が、町のあちこちで報告されるようになった。不眠や悪夢に悩まされる人も増えているという。
 高日中学校でも、異変ははっきり表れていた。廊下が伸び縮みする感覚に襲われる。階段の段数が日によって違う。チャイムの音程が狂う。加えて、学年全体で欠席と早退が明らかに増加していた。強い眠気、集中力の欠如、理由のない不安。町全体が、ゆっくりと何かに侵されていた。学校側も、授業短縮や行事延期を考え始めていた。
 アルトは、これらの異変をまとめたノートを閉じると、せわしなく部屋の中を歩き回った。
 おかしい。これは偶然の重なりではない。
 ――時が来たら、山に登ってくれ。
 ヤトの言葉が脳裏をよぎった。今なのか。
 胸の内がざわめいた、その時だった。
「勇斗ー、ごはんよー!」
 階下から、勇斗の母の声が飛んできた。
 アルトは、「はーい」と返事をし、ダイニングキッチンに向かった。
 白米と漬物を口に運びながら、アルトはテレビを見ていた。背景には、見慣れた町並みが映っていた。高日町に関するニュースだった。誰かがスマートフォンで撮影した写真や動画とともに、『原因不明の異常事態』というテロップが躍っている。
 画面が切り替わり、顔にモザイクのかかった住民のインタビューが流れた。
『怖いです。本当に……』
 その声は、ひどく遠く聞こえた。
 味噌汁をすすったあと、アルトは勇斗の母に視線を向けた。箸を持つ手が、わずかに震えていた。
「大丈夫?」
「ちょっと頭が痛くてね。最近、ずっとこんな調子なの」
「仕事、休んだら?」
「そうね、そうしようかしら。ありがとう、勇斗」
 勇斗の母は、そう言ったあと、食器を片付けようとした。
「いいよ、ボクが洗っておく。学校も休みだし」
「あら、ごめんね」
 アルトが食器を流し台に持って行くと、背後で、勇斗の母がぽつりと呟いた。
「……最近、優しくなったね」
 アルトの手が止まった。
「前はね、もっと……尖ってた。ずっと何かに縛られているみたいだった」
 振り向いたアルトは、困ったように笑った。
「そ、そうか?」
 勇斗の母はゆっくりうなずいたあと、優しく微笑んだ。
「うん。でも、今は違う。前は、こんなふうに笑わなかった」
 黄色のパーカーに黒のダッフルコートを重ねたアルトは、スマートフォンをポケットに滑り込ませて部屋を出た。
 一階に降り、勇斗の母の部屋をそっと覗く。規則正しい寝息が聞こえた。
「行ってきます」
 小さく声をかけたアルトは、音を立てないように扉を閉めた。
 少し歩いたところで、アルトは足を止めた。振り返ると、見慣れた家が、朝の光を浴びて静かにそこにあった。思わず、眉をひそめた。
 胸の奥が、少しだけ熱い。こんな感覚は、いつ以来だろう。口元に指をやり、考え込んだ。
 自分は、この世界に来て、ずいぶん変わった。いや――取り戻したと言うべきか。
 静かに息を吐き、表情を引き締める。アルトは、夏野神社の方角へと歩き出した。
 ――時が来たら、山に登ってくれ。
 再び、ヤトの声が脳裏をよぎった。
 夏野神社の鳥居をくぐった瞬間、肌を刺す冷気がやわらいだ。背後のざわめきが、ふっと遠のく。
 境内には誰もいなかった。静かだった。
 薄く積もった雪を踏みしめながら歩いていると、ピーヒョロロロロ、とトビの鳴き声が聞こえてきた。
 空を仰ぐと、一羽のトビがゆったりと旋回していた。鋭く鳴き、天陽山の方角へ滑るように飛んでいく。
 ついてこい――そう告げているようだった。
 アルトは、トビのあとを追った。
 山を駆け、獣道を突き抜ける。ひらけた空間の中央に、小屋が一軒だけ建っていた。秘密基地だ。
 トビは秘密基地の扉の前で舞い降り、次の瞬間、光をまとって人の姿に変わった。黄土色の髪をした、着物姿の少年。背中には小さな羽。四つの渦が絡み合う円形の文様が、淡く輝いている。
「来たようじゃな、ルークの魂を継ぐ少年よ」
「ルークは、ボクの世界の伝説の勇者だ。どうしてこの世界のあんたが知ってる?」
 アルトの目が鋭くなる。ヤトはゆっくりと笑った。
「それは、追い追い話してやるわい。まぁ、中に入れ」
 ヤトに続き、アルトは秘密基地の中に入った。
 木の椅子に向かい合うように腰掛けた二人は、しばらくお互いを見つめ合った。
「あんたは、神様なのか?」
「左様。わしはこの高日町を守護する神、ヤトじゃ」
 ヤトがニッと笑う。見た目も声も子供そのものだ。だが、底知れぬ気配がにじむ。
「……妙なやつだな」
「無礼者め。ま、いいわい。さっそく本題に入ろう。今、この町に起きている異常は、異世界からの干渉じゃ」
「異世界……ボクのいた世界か」
「うむ。具体的に言うと、二つの世界を隔てておる壁がな、今にも裂けそうなんじゃ。もともと脆い境じゃが、今回は踏み抜く寸前よ」
 ヤトは、険しい表情をした。
「実はな、大昔にも、同じことがあったのじゃ」
「昔にも?」
「うむ。この地がまだ村未満だった頃、空は裂け、異界から災厄が流れ込んだ。村人どもは為す術もなく、ただ滅びを待つしかなかった」
「……その災いを退けたのが、テンピ様なんだな」
「そうじゃ。じゃが、連中はテンピ様を神か何かのように語り継いだ。実際には違う。あやつもまた、おぬしと同じように異界から来た、生きたひとりの男じゃ」
「え?」
 アルトが困惑していると、ヤトは懐から煙管を取り出した。小さな火が灯る。紫煙がゆらりと立ちのぼり、天井へ溶けていく。
「今から話すのは、テンピ様――否、勇者ルークの話じゃ」
 ヤトは紫煙を吐いたあと、静かに目を閉じた。
 高日町が、まだ高日村と呼ばれていた時代。それは、村と呼ぶにはあまりにも小さな集まりに過ぎなかった。山あいのわずかな平地に、数軒の家が肩を寄せ合うように並ぶ。茅葺き屋根は低く重なり、囲炉裏の煙が朝霧と溶け合う。そこでは、山に身を預ける者たちが、土と水と火に頼って日々を繋いでいた。
 ある日、空が歪んだ。
 音もなく、空に裂け目のような影が広がる。
 高日村一帯は、たちまち暗黒に沈んだ。
 まず、作物が一夜で枯れた。次に、大人しかった獣が狂い、牙を剥いた。幻を見て叫ぶ者が現れ、己の家族をも鬼と見なした。
 大雨。氾濫。落雷。山崩れ。地は裂け、空は轟いた。
 人々は土に額を擦りつけた。
「ヤト様……どうか、お助けください」
 しかし、その歪みはヤトの力をものともせず、広がり続けた。いかに守護の神といえど、次元の裂け目までは縫えなかった。
 ヤトは、空を見上げた。
 ――わしの力では、足りぬか。
 その時だった。天陽山の頂に、天を貫く光の柱が立った。
 ただならぬ気配を感じたヤトは、翼を広げた。光へ向かい、空を裂くように飛んだ。
 大木の根元にもたれるように、一人の青年が倒れていた。茶色い髪。異様な面。そして、この地のものではない衣。
「お主、何者じゃ。なぜこんなところで眠っておる」
 ヤトの声に、青年はゆっくりと目を開けた。視線が定まらぬまま、周囲を見渡す。
「ここは、どこだ?」
 聞き覚えのない言葉のはずなのに、意味ははっきり伝わってきた。
「ここは高日村。お主、名は?」
「ルーク」
「お主、どうしてここに?」
「わからない。気づいたら、ここにいた。それより、ただ事じゃないな」
 立ち上がったルークは、裂けた空を見上げた。
「わしには、どうすることもできん」
「大丈夫だ。対処はできる」
「本当か?」
「ああ。おそらく、これが原因だろう」
 ルークは懐に手を差し入れた。取り出したのは、拳ほどの紅い球。表面には無数の棘が生え、内側から鼓動するように脈打っている。まるで、生きているかのようだった。
「なんじゃ、その禍々しきものは」
「魔神の残滓だ。置き土産とでも言うべきか。放っておけば、この地を食い尽くす」
「話がさっぱり見えぬわい」
「詳しい話をしたい。どこか雨宿りできるところはないかな?」
 ヤトは、天陽山の中腹にある小屋へと、ルークを案内した。
「ここは、鍛冶屋か?」
 ルークは物珍しそうに、小屋の設備を見て回っていた。
「刀鍛冶の小屋じゃ。主はとうに山を下りたがの」
「カタナ……この世界の剣のことか」
 ルークは一本の刀を手に取り、刃文を静かに眺めた。見事だ、と呟く。
「それより、お主の話を聞かせてくれぬか?」
 ルークの語った話は、あまりにも常軌を逸していた。彼は人と精霊のあいだに生まれし子であり、その力で魔神を封じたという。半信半疑だったヤトも、やがて言葉を失った。その語りには、偽りを許さぬ重みがあった。もうひとつの世界――それが実在するとは。
「それで、お主が受けた呪いの正体が、その紅い球なのじゃな」
「ああ。魔神は、次元そのものを歪める力を持っていたらしい。ならば、この力で歪みを閉じられるはずだ」
「……その力で歪みを縫い止めれば、お主は帰れぬぞ」
「それでも、構わない」
 ルークの声音が、低く沈んだ。
「お主の覚悟は受け取った。それで、具体的にどうするつもりじゃ?」
「剣――いや、刀を打つ。その球の一部を、刃に封じる」
「ならば、急ぐとしよう」
 ルークとヤトは、刀を打った。ルークは、裂け目の側に立てる存在だった。ヤトが触れられぬ領域へ、ただ一人踏み込める。だが、この世界の理は知らない。だからこそ、二人で打つ必要があった。
 二つの世界の理が交わって生まれた刃は、禍々しくも神々しかった。漆黒の刀身。その中心を、血脈のごとき細い赤が脈打つ。
 刀は、|虚裂虎杖丸《きょれついたどりまる》と名付けられた。
 虚裂虎杖丸を握りしめたルークは、ヤトの力を借り、天陽山の頂から歪みへと駆け上がった。
 ただ一太刀。虚を裂く刃が、歪みを断った。次元の裂け目は、音もなく閉じた。
 暗雲は裂け、久しく失われていた陽光が村を照らした。
 ルークは、村を災いから救った存在として「テンピ様」と崇められた。この世界の言葉を覚え、人々と交流を重ねる。復興にも手を貸し、自身の生い立ちも語った。やがて、村には平穏が戻り始めた。
 だが――災いの根は、まだ残っていた。ルークが携えてきた紅き球である。
 ヤトは決断した。この禍根を、地の底へ封じねばならぬと。
 紅い球は、なお脈打っていた。封印の最中、まるで意志を持つかのように暴れ、二人を拒んだ。抑え込んだその瞬間、外殻が砕けた。無数の微細な破片が、闇へと散った。
 虚裂虎杖丸は、天陽山の頂に立つ大樹へと封じられた。二度と、この刃が振るわれないことを願って。
 ルークは、まだ三十八歳でこの世を去った。魔神の呪い。そして、虚裂虎杖丸を振るった代償だった。
「悪くない世界だった。……だが、私は帰りたかった」
 それが、ルークの最期の言葉だった。
 ヤトは紫煙をゆらりと吐き出した。小屋の中に、しばし沈黙が落ちる。
「これが、テンピ様――ルークの物語じゃ」
 アルトは、しばらく声を失った。
「なぁ……もしかして、その虚裂虎杖丸の力を使えば、ボクは元の世界に戻れるのか?」
「それは――」
 ヤトが言いかけた時、地の底から突き上げるような衝撃が、小屋を揺らした。
「いかん! はやく出るんじゃ」
 外へ飛び出すと、空は不気味な紫に濁り、生き物のように脈打っていた。