災い
ー/ー 高日町の異変は、日に日に増していった。
まず、地面に樹の根のような亀裂が走った。道路は通行止めの場所が増えていった。白線が宙に浮くという不可解な現象も目撃され始める。足音が、ほんのわずか遅れて聞こえてくる――そんな証言も複数挙がっていた。
家の中でも異変が起きていた。家鳴りが以前より明らかに増えた。誰もいないはずの二階から足音が聞こえる。鏡の中の自分が、一瞬遅れて動く。そうした怪異が、町のあちこちで報告されるようになった。不眠や悪夢に悩まされる人も増えているという。
高日中学校でも、異変ははっきり表れていた。廊下が伸び縮みする感覚に襲われる。階段の段数が日によって違う。チャイムの音程が狂う。加えて、学年全体で欠席と早退が明らかに増加していた。強い眠気、集中力の欠如、理由のない不安。町全体が、ゆっくりと何かに侵されていた。学校側も、授業短縮や行事延期を考え始めていた。
アルトは、これらの異変をまとめたノートを閉じると、せわしなく部屋の中を歩き回った。
おかしい。これは偶然の重なりではない。
――時が来たら、山に登ってくれ。
ヤトの言葉が脳裏をよぎった。今なのか。
胸の内がざわめいた、その時だった。
「勇斗ー、ごはんよー!」
階下から、勇斗の母の声が飛んできた。
アルトは、「はーい」と返事をし、ダイニングキッチンに向かった。
白米と漬物を口に運びながら、アルトはテレビを見ていた。背景には、見慣れた町並みが映っていた。高日町に関するニュースだった。誰かがスマートフォンで撮影した写真や動画とともに、『原因不明の異常事態』というテロップが躍っている。
画面が切り替わり、顔にモザイクのかかった住民のインタビューが流れた。
『怖いです。本当に……』
その声は、ひどく遠く聞こえた。
味噌汁をすすったあと、アルトは勇斗の母に視線を向けた。箸を持つ手が、わずかに震えていた。
「大丈夫?」
「ちょっと頭が痛くてね。最近、ずっとこんな調子なの」
「仕事、休んだら?」
「そうね、そうしようかしら。ありがとう、勇斗」
勇斗の母は、そう言ったあと、食器を片付けようとした。
「いいよ、ボクが洗っておく。学校も休みだし」
「あら、ごめんね」
アルトが食器を流し台に持って行くと、背後で、勇斗の母がぽつりと呟いた。
「……最近、優しくなったね」
アルトの手が止まった。
「前はね、もっと……尖ってた。ずっと何かに縛られているみたいだった」
振り向いたアルトは、困ったように笑った。
「そ、そうか?」
勇斗の母はゆっくりうなずいたあと、優しく微笑んだ。
「うん。でも、今は違う。前は、こんなふうに笑わなかった」
黄色のパーカーに黒のダッフルコートを重ねたアルトは、スマートフォンをポケットに滑り込ませて部屋を出た。
一階に降り、勇斗の母の部屋をそっと覗く。規則正しい寝息が聞こえた。
「行ってきます」
小さく声をかけたアルトは、音を立てないように扉を閉めた。
少し歩いたところで、アルトは足を止めた。振り返ると、見慣れた家が、朝の光を浴びて静かにそこにあった。思わず、眉をひそめた。
胸の奥が、少しだけ熱い。こんな感覚は、いつ以来だろう。口元に指をやり、考え込んだ。
自分は、この世界に来て、ずいぶん変わった。いや――取り戻したと言うべきか。
静かに息を吐き、表情を引き締める。アルトは、夏野神社の方角へと歩き出した。
――時が来たら、山に登ってくれ。
再び、ヤトの声が脳裏をよぎった。
夏野神社の鳥居をくぐった瞬間、肌を刺す冷気がやわらいだ。背後のざわめきが、ふっと遠のく。
境内には誰もいなかった。静かだった。
薄く積もった雪を踏みしめながら歩いていると、ピーヒョロロロロ、とトビの鳴き声が聞こえてきた。
空を仰ぐと、一羽のトビがゆったりと旋回していた。鋭く鳴き、天陽山の方角へ滑るように飛んでいく。
ついてこい――そう告げているようだった。
アルトは、トビのあとを追った。
山を駆け、獣道を突き抜ける。ひらけた空間の中央に、小屋が一軒だけ建っていた。秘密基地だ。
トビは秘密基地の扉の前で舞い降り、次の瞬間、光をまとって人の姿に変わった。黄土色の髪をした、着物姿の少年。背中には小さな羽。四つの渦が絡み合う円形の文様が、淡く輝いている。
「来たようじゃな、ルークの魂を継ぐ少年よ」
「ルークは、ボクの世界の伝説の勇者だ。どうしてこの世界のあんたが知ってる?」
アルトの目が鋭くなる。ヤトはゆっくりと笑った。
「それは、追い追い話してやるわい。まぁ、中に入れ」
ヤトに続き、アルトは秘密基地の中に入った。
木の椅子に向かい合うように腰掛けた二人は、しばらくお互いを見つめ合った。
「あんたは、神様なのか?」
「左様。わしはこの高日町を守護する神、ヤトじゃ」
ヤトがニッと笑う。見た目も声も子供そのものだ。だが、底知れぬ気配がにじむ。
「……妙なやつだな」
「無礼者め。ま、いいわい。さっそく本題に入ろう。今、この町に起きている異常は、異世界からの干渉じゃ」
「異世界……ボクのいた世界か」
「うむ。具体的に言うと、二つの世界を隔てておる壁がな、今にも裂けそうなんじゃ。もともと脆い境じゃが、今回は踏み抜く寸前よ」
ヤトは、険しい表情をした。
「実はな、大昔にも、同じことがあったのじゃ」
「昔にも?」
「うむ。この地がまだ村未満だった頃、空は裂け、異界から災厄が流れ込んだ。村人どもは為す術もなく、ただ滅びを待つしかなかった」
「……その災いを退けたのが、テンピ様なんだな」
「そうじゃ。じゃが、連中はテンピ様を神か何かのように語り継いだ。実際には違う。あやつもまた、おぬしと同じように異界から来た、生きたひとりの男じゃ」
「え?」
アルトが困惑していると、ヤトは懐から煙管を取り出した。小さな火が灯る。紫煙がゆらりと立ちのぼり、天井へ溶けていく。
「今から話すのは、テンピ様――否、勇者ルークの話じゃ」
ヤトは紫煙を吐いたあと、静かに目を閉じた。
高日町が、まだ高日村と呼ばれていた時代。それは、村と呼ぶにはあまりにも小さな集まりに過ぎなかった。山あいのわずかな平地に、数軒の家が肩を寄せ合うように並ぶ。茅葺き屋根は低く重なり、囲炉裏の煙が朝霧と溶け合う。そこでは、山に身を預ける者たちが、土と水と火に頼って日々を繋いでいた。
ある日、空が歪んだ。
音もなく、空に裂け目のような影が広がる。
高日村一帯は、たちまち暗黒に沈んだ。
まず、作物が一夜で枯れた。次に、大人しかった獣が狂い、牙を剥いた。幻を見て叫ぶ者が現れ、己の家族をも鬼と見なした。
大雨。氾濫。落雷。山崩れ。地は裂け、空は轟いた。
人々は土に額を擦りつけた。
「ヤト様……どうか、お助けください」
しかし、その歪みはヤトの力をものともせず、広がり続けた。いかに守護の神といえど、次元の裂け目までは縫えなかった。
ヤトは、空を見上げた。
――わしの力では、足りぬか。
その時だった。天陽山の頂に、天を貫く光の柱が立った。
ただならぬ気配を感じたヤトは、翼を広げた。光へ向かい、空を裂くように飛んだ。
大木の根元にもたれるように、一人の青年が倒れていた。茶色い髪。異様な面。そして、この地のものではない衣。
「お主、何者じゃ。なぜこんなところで眠っておる」
ヤトの声に、青年はゆっくりと目を開けた。視線が定まらぬまま、周囲を見渡す。
「ここは、どこだ?」
聞き覚えのない言葉のはずなのに、意味ははっきり伝わってきた。
「ここは高日村。お主、名は?」
「ルーク」
「お主、どうしてここに?」
「わからない。気づいたら、ここにいた。それより、ただ事じゃないな」
立ち上がったルークは、裂けた空を見上げた。
「わしには、どうすることもできん」
「大丈夫だ。対処はできる」
「本当か?」
「ああ。おそらく、これが原因だろう」
ルークは懐に手を差し入れた。取り出したのは、拳ほどの紅い球。表面には無数の棘が生え、内側から鼓動するように脈打っている。まるで、生きているかのようだった。
「なんじゃ、その禍々しきものは」
「魔神の残滓だ。置き土産とでも言うべきか。放っておけば、この地を食い尽くす」
「話がさっぱり見えぬわい」
「詳しい話をしたい。どこか雨宿りできるところはないかな?」
ヤトは、天陽山の中腹にある小屋へと、ルークを案内した。
「ここは、鍛冶屋か?」
ルークは物珍しそうに、小屋の設備を見て回っていた。
「刀鍛冶の小屋じゃ。主はとうに山を下りたがの」
「カタナ……この世界の剣のことか」
ルークは一本の刀を手に取り、刃文を静かに眺めた。見事だ、と呟く。
「それより、お主の話を聞かせてくれぬか?」
ルークの語った話は、あまりにも常軌を逸していた。彼は人と精霊のあいだに生まれし子であり、その力で魔神を封じたという。半信半疑だったヤトも、やがて言葉を失った。その語りには、偽りを許さぬ重みがあった。もうひとつの世界――それが実在するとは。
「それで、お主が受けた呪いの正体が、その紅い球なのじゃな」
「ああ。魔神は、次元そのものを歪める力を持っていたらしい。ならば、この力で歪みを閉じられるはずだ」
「……その力で歪みを縫い止めれば、お主は帰れぬぞ」
「それでも、構わない」
ルークの声音が、低く沈んだ。
「お主の覚悟は受け取った。それで、具体的にどうするつもりじゃ?」
「剣――いや、刀を打つ。その球の一部を、刃に封じる」
「ならば、急ぐとしよう」
ルークとヤトは、刀を打った。ルークは、裂け目の側に立てる存在だった。ヤトが触れられぬ領域へ、ただ一人踏み込める。だが、この世界の理は知らない。だからこそ、二人で打つ必要があった。
二つの世界の理が交わって生まれた刃は、禍々しくも神々しかった。漆黒の刀身。その中心を、血脈のごとき細い赤が脈打つ。
刀は、虚裂虎杖丸と名付けられた。
虚裂虎杖丸を握りしめたルークは、ヤトの力を借り、天陽山の頂から歪みへと駆け上がった。
ただ一太刀。虚を裂く刃が、歪みを断った。次元の裂け目は、音もなく閉じた。
暗雲は裂け、久しく失われていた陽光が村を照らした。
ルークは、村を災いから救った存在として「テンピ様」と崇められた。この世界の言葉を覚え、人々と交流を重ねる。復興にも手を貸し、自身の生い立ちも語った。やがて、村には平穏が戻り始めた。
だが――災いの根は、まだ残っていた。ルークが携えてきた紅き球である。
ヤトは決断した。この禍根を、地の底へ封じねばならぬと。
紅い球は、なお脈打っていた。封印の最中、まるで意志を持つかのように暴れ、二人を拒んだ。抑え込んだその瞬間、外殻が砕けた。無数の微細な破片が、闇へと散った。
虚裂虎杖丸は、天陽山の頂に立つ大樹へと封じられた。二度と、この刃が振るわれないことを願って。
ルークは、まだ三十八歳でこの世を去った。魔神の呪い。そして、虚裂虎杖丸を振るった代償だった。
「悪くない世界だった。……だが、私は帰りたかった」
それが、ルークの最期の言葉だった。
ヤトは紫煙をゆらりと吐き出した。小屋の中に、しばし沈黙が落ちる。
「これが、テンピ様――ルークの物語じゃ」
アルトは、しばらく声を失った。
「なぁ……もしかして、その虚裂虎杖丸の力を使えば、ボクは元の世界に戻れるのか?」
「それは――」
ヤトが言いかけた時、地の底から突き上げるような衝撃が、小屋を揺らした。
「いかん! はやく出るんじゃ」
外へ飛び出すと、空は不気味な紫に濁り、生き物のように脈打っていた。
まず、地面に樹の根のような亀裂が走った。道路は通行止めの場所が増えていった。白線が宙に浮くという不可解な現象も目撃され始める。足音が、ほんのわずか遅れて聞こえてくる――そんな証言も複数挙がっていた。
家の中でも異変が起きていた。家鳴りが以前より明らかに増えた。誰もいないはずの二階から足音が聞こえる。鏡の中の自分が、一瞬遅れて動く。そうした怪異が、町のあちこちで報告されるようになった。不眠や悪夢に悩まされる人も増えているという。
高日中学校でも、異変ははっきり表れていた。廊下が伸び縮みする感覚に襲われる。階段の段数が日によって違う。チャイムの音程が狂う。加えて、学年全体で欠席と早退が明らかに増加していた。強い眠気、集中力の欠如、理由のない不安。町全体が、ゆっくりと何かに侵されていた。学校側も、授業短縮や行事延期を考え始めていた。
アルトは、これらの異変をまとめたノートを閉じると、せわしなく部屋の中を歩き回った。
おかしい。これは偶然の重なりではない。
――時が来たら、山に登ってくれ。
ヤトの言葉が脳裏をよぎった。今なのか。
胸の内がざわめいた、その時だった。
「勇斗ー、ごはんよー!」
階下から、勇斗の母の声が飛んできた。
アルトは、「はーい」と返事をし、ダイニングキッチンに向かった。
白米と漬物を口に運びながら、アルトはテレビを見ていた。背景には、見慣れた町並みが映っていた。高日町に関するニュースだった。誰かがスマートフォンで撮影した写真や動画とともに、『原因不明の異常事態』というテロップが躍っている。
画面が切り替わり、顔にモザイクのかかった住民のインタビューが流れた。
『怖いです。本当に……』
その声は、ひどく遠く聞こえた。
味噌汁をすすったあと、アルトは勇斗の母に視線を向けた。箸を持つ手が、わずかに震えていた。
「大丈夫?」
「ちょっと頭が痛くてね。最近、ずっとこんな調子なの」
「仕事、休んだら?」
「そうね、そうしようかしら。ありがとう、勇斗」
勇斗の母は、そう言ったあと、食器を片付けようとした。
「いいよ、ボクが洗っておく。学校も休みだし」
「あら、ごめんね」
アルトが食器を流し台に持って行くと、背後で、勇斗の母がぽつりと呟いた。
「……最近、優しくなったね」
アルトの手が止まった。
「前はね、もっと……尖ってた。ずっと何かに縛られているみたいだった」
振り向いたアルトは、困ったように笑った。
「そ、そうか?」
勇斗の母はゆっくりうなずいたあと、優しく微笑んだ。
「うん。でも、今は違う。前は、こんなふうに笑わなかった」
黄色のパーカーに黒のダッフルコートを重ねたアルトは、スマートフォンをポケットに滑り込ませて部屋を出た。
一階に降り、勇斗の母の部屋をそっと覗く。規則正しい寝息が聞こえた。
「行ってきます」
小さく声をかけたアルトは、音を立てないように扉を閉めた。
少し歩いたところで、アルトは足を止めた。振り返ると、見慣れた家が、朝の光を浴びて静かにそこにあった。思わず、眉をひそめた。
胸の奥が、少しだけ熱い。こんな感覚は、いつ以来だろう。口元に指をやり、考え込んだ。
自分は、この世界に来て、ずいぶん変わった。いや――取り戻したと言うべきか。
静かに息を吐き、表情を引き締める。アルトは、夏野神社の方角へと歩き出した。
――時が来たら、山に登ってくれ。
再び、ヤトの声が脳裏をよぎった。
夏野神社の鳥居をくぐった瞬間、肌を刺す冷気がやわらいだ。背後のざわめきが、ふっと遠のく。
境内には誰もいなかった。静かだった。
薄く積もった雪を踏みしめながら歩いていると、ピーヒョロロロロ、とトビの鳴き声が聞こえてきた。
空を仰ぐと、一羽のトビがゆったりと旋回していた。鋭く鳴き、天陽山の方角へ滑るように飛んでいく。
ついてこい――そう告げているようだった。
アルトは、トビのあとを追った。
山を駆け、獣道を突き抜ける。ひらけた空間の中央に、小屋が一軒だけ建っていた。秘密基地だ。
トビは秘密基地の扉の前で舞い降り、次の瞬間、光をまとって人の姿に変わった。黄土色の髪をした、着物姿の少年。背中には小さな羽。四つの渦が絡み合う円形の文様が、淡く輝いている。
「来たようじゃな、ルークの魂を継ぐ少年よ」
「ルークは、ボクの世界の伝説の勇者だ。どうしてこの世界のあんたが知ってる?」
アルトの目が鋭くなる。ヤトはゆっくりと笑った。
「それは、追い追い話してやるわい。まぁ、中に入れ」
ヤトに続き、アルトは秘密基地の中に入った。
木の椅子に向かい合うように腰掛けた二人は、しばらくお互いを見つめ合った。
「あんたは、神様なのか?」
「左様。わしはこの高日町を守護する神、ヤトじゃ」
ヤトがニッと笑う。見た目も声も子供そのものだ。だが、底知れぬ気配がにじむ。
「……妙なやつだな」
「無礼者め。ま、いいわい。さっそく本題に入ろう。今、この町に起きている異常は、異世界からの干渉じゃ」
「異世界……ボクのいた世界か」
「うむ。具体的に言うと、二つの世界を隔てておる壁がな、今にも裂けそうなんじゃ。もともと脆い境じゃが、今回は踏み抜く寸前よ」
ヤトは、険しい表情をした。
「実はな、大昔にも、同じことがあったのじゃ」
「昔にも?」
「うむ。この地がまだ村未満だった頃、空は裂け、異界から災厄が流れ込んだ。村人どもは為す術もなく、ただ滅びを待つしかなかった」
「……その災いを退けたのが、テンピ様なんだな」
「そうじゃ。じゃが、連中はテンピ様を神か何かのように語り継いだ。実際には違う。あやつもまた、おぬしと同じように異界から来た、生きたひとりの男じゃ」
「え?」
アルトが困惑していると、ヤトは懐から煙管を取り出した。小さな火が灯る。紫煙がゆらりと立ちのぼり、天井へ溶けていく。
「今から話すのは、テンピ様――否、勇者ルークの話じゃ」
ヤトは紫煙を吐いたあと、静かに目を閉じた。
高日町が、まだ高日村と呼ばれていた時代。それは、村と呼ぶにはあまりにも小さな集まりに過ぎなかった。山あいのわずかな平地に、数軒の家が肩を寄せ合うように並ぶ。茅葺き屋根は低く重なり、囲炉裏の煙が朝霧と溶け合う。そこでは、山に身を預ける者たちが、土と水と火に頼って日々を繋いでいた。
ある日、空が歪んだ。
音もなく、空に裂け目のような影が広がる。
高日村一帯は、たちまち暗黒に沈んだ。
まず、作物が一夜で枯れた。次に、大人しかった獣が狂い、牙を剥いた。幻を見て叫ぶ者が現れ、己の家族をも鬼と見なした。
大雨。氾濫。落雷。山崩れ。地は裂け、空は轟いた。
人々は土に額を擦りつけた。
「ヤト様……どうか、お助けください」
しかし、その歪みはヤトの力をものともせず、広がり続けた。いかに守護の神といえど、次元の裂け目までは縫えなかった。
ヤトは、空を見上げた。
――わしの力では、足りぬか。
その時だった。天陽山の頂に、天を貫く光の柱が立った。
ただならぬ気配を感じたヤトは、翼を広げた。光へ向かい、空を裂くように飛んだ。
大木の根元にもたれるように、一人の青年が倒れていた。茶色い髪。異様な面。そして、この地のものではない衣。
「お主、何者じゃ。なぜこんなところで眠っておる」
ヤトの声に、青年はゆっくりと目を開けた。視線が定まらぬまま、周囲を見渡す。
「ここは、どこだ?」
聞き覚えのない言葉のはずなのに、意味ははっきり伝わってきた。
「ここは高日村。お主、名は?」
「ルーク」
「お主、どうしてここに?」
「わからない。気づいたら、ここにいた。それより、ただ事じゃないな」
立ち上がったルークは、裂けた空を見上げた。
「わしには、どうすることもできん」
「大丈夫だ。対処はできる」
「本当か?」
「ああ。おそらく、これが原因だろう」
ルークは懐に手を差し入れた。取り出したのは、拳ほどの紅い球。表面には無数の棘が生え、内側から鼓動するように脈打っている。まるで、生きているかのようだった。
「なんじゃ、その禍々しきものは」
「魔神の残滓だ。置き土産とでも言うべきか。放っておけば、この地を食い尽くす」
「話がさっぱり見えぬわい」
「詳しい話をしたい。どこか雨宿りできるところはないかな?」
ヤトは、天陽山の中腹にある小屋へと、ルークを案内した。
「ここは、鍛冶屋か?」
ルークは物珍しそうに、小屋の設備を見て回っていた。
「刀鍛冶の小屋じゃ。主はとうに山を下りたがの」
「カタナ……この世界の剣のことか」
ルークは一本の刀を手に取り、刃文を静かに眺めた。見事だ、と呟く。
「それより、お主の話を聞かせてくれぬか?」
ルークの語った話は、あまりにも常軌を逸していた。彼は人と精霊のあいだに生まれし子であり、その力で魔神を封じたという。半信半疑だったヤトも、やがて言葉を失った。その語りには、偽りを許さぬ重みがあった。もうひとつの世界――それが実在するとは。
「それで、お主が受けた呪いの正体が、その紅い球なのじゃな」
「ああ。魔神は、次元そのものを歪める力を持っていたらしい。ならば、この力で歪みを閉じられるはずだ」
「……その力で歪みを縫い止めれば、お主は帰れぬぞ」
「それでも、構わない」
ルークの声音が、低く沈んだ。
「お主の覚悟は受け取った。それで、具体的にどうするつもりじゃ?」
「剣――いや、刀を打つ。その球の一部を、刃に封じる」
「ならば、急ぐとしよう」
ルークとヤトは、刀を打った。ルークは、裂け目の側に立てる存在だった。ヤトが触れられぬ領域へ、ただ一人踏み込める。だが、この世界の理は知らない。だからこそ、二人で打つ必要があった。
二つの世界の理が交わって生まれた刃は、禍々しくも神々しかった。漆黒の刀身。その中心を、血脈のごとき細い赤が脈打つ。
刀は、虚裂虎杖丸と名付けられた。
虚裂虎杖丸を握りしめたルークは、ヤトの力を借り、天陽山の頂から歪みへと駆け上がった。
ただ一太刀。虚を裂く刃が、歪みを断った。次元の裂け目は、音もなく閉じた。
暗雲は裂け、久しく失われていた陽光が村を照らした。
ルークは、村を災いから救った存在として「テンピ様」と崇められた。この世界の言葉を覚え、人々と交流を重ねる。復興にも手を貸し、自身の生い立ちも語った。やがて、村には平穏が戻り始めた。
だが――災いの根は、まだ残っていた。ルークが携えてきた紅き球である。
ヤトは決断した。この禍根を、地の底へ封じねばならぬと。
紅い球は、なお脈打っていた。封印の最中、まるで意志を持つかのように暴れ、二人を拒んだ。抑え込んだその瞬間、外殻が砕けた。無数の微細な破片が、闇へと散った。
虚裂虎杖丸は、天陽山の頂に立つ大樹へと封じられた。二度と、この刃が振るわれないことを願って。
ルークは、まだ三十八歳でこの世を去った。魔神の呪い。そして、虚裂虎杖丸を振るった代償だった。
「悪くない世界だった。……だが、私は帰りたかった」
それが、ルークの最期の言葉だった。
ヤトは紫煙をゆらりと吐き出した。小屋の中に、しばし沈黙が落ちる。
「これが、テンピ様――ルークの物語じゃ」
アルトは、しばらく声を失った。
「なぁ……もしかして、その虚裂虎杖丸の力を使えば、ボクは元の世界に戻れるのか?」
「それは――」
ヤトが言いかけた時、地の底から突き上げるような衝撃が、小屋を揺らした。
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外へ飛び出すと、空は不気味な紫に濁り、生き物のように脈打っていた。
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