十一話 "これから"のバウムクーヘン
ー/ー 一月。茹だるようだったあの夏の暑さは、いつしか跡形もなく消え去っていた。事務所の壁にかかったカレンダーも真新しくなり、時の流れを感じさせる。
「ザラメくん、ちょっといいかな」
閉店後のドラッグストア。タイムカードを押す直前、店長に呼び止められたキョウは、紙袋を手渡される。
「はい、これあげる」
マチが広く、高級感のある袋。その中には、老舗洋菓子店のバウムクーヘンが入っていた。ずっしりとした重み。おそらくホールサイズだ。
「……賄賂ですか?」
「なんでそういう発想になるの!?帰省のお土産だよ!お・み・や・げ!」
そういえば、年末年始のわずかな休業期間、店長は実家に帰ると言っていた。気を遣わなくてもいいのに、こうして従業員に手土産を用意する律儀さが、彼の人となりを表している。
「あともう一個話があって…ザラメくん、社員登用とか興味ない?」
「えっ?」
店長はそう言って、キョウに求人の資料を差し出した。大きめのゴシック体で書かれた「正社員」の文字がキョウの目に飛び込んでくる。
「うちで正社員として働かないかってこと」
「……やっぱり賄賂じゃないですか」
「違うって!前々から声かけようとは思ってたんだけど、年末年始忙しかったでしょ?ザラメくんすごく真面目だし、仕事もテキパキできるし、接客も丁寧だし」
お土産はザラメくん以外にも渡してるからと、彼はズレたメガネをかけ直す。ホールサイズのバウムクーヘンを全員に…?年下ながら、彼のお財布事情が気になるキョウ。大型店の店長ともなれば、それほど待遇も良いのだろうか。社員登用の言葉に、キョウの心が揺らぎ始める。
「それは、皆さんがいい方ばかりだからですよ。いつも助けられてばかりですし」
「そんなことないよ〜。実際さぁ、発注とかシフト管理とか、簡単なパソコン業務とか、手伝ってくれてるじゃない」
本当は全部僕がやらなきゃいけないんだけどね、と付け加えながら、店長は続ける。
「それにほら、確か…掛け持ちしてるんだっけ?今はほら、多様性って言うから個人の自由だけど。いつまでもアルバイトってわけにもいかないでしょ?もう二十歳なんだし、生活のこととか、将来のこととか考えたらさ」
将来。彼にとっては何気ないその言葉が、キョウの頭を駆け巡った。
「……そうですよね。確かに」
「うんうん。急ぎじゃないし、ゆっくり考えて返事してくれたらいいよ。じゃあ、お疲れ様。呼び止めてごめんね!」
「いえ、お疲れ様でした。バウムクーヘン、いただきますね」
「本当に賄賂じゃないからねー!」
念を押す店長を背に、従業員用の出入口を通り、キョウは外に出た。刺すような鋭い冷気に思わず身を縮める。賄賂…ではなくお土産を自転車の前かごに乗せて、キョウは自転車を漕ぎ出した。
「将来か…」
呟きは白い息と共に、冷たく澄んだ空気に溶けていく。家まで残り半分くらいの地点、大きな交差点の信号に引っかかり、悴む指でスマートフォンの画面をなぞる。画面に映るのは、勤務中に届いたネットショップの注文通知だった。
八月の初出店以来、はれぞらマルシェへの出店回数も増え、『今日のお菓子屋さん』はちょっとした人気店になりつつあった。ずっと閑古鳥が鳴いていたネットショップも、マルシェの口コミやミゾレたちを通じた宣伝のおかげで、少しずつ売り上げが伸びてきている。正直なところ、今の自分にはそこそこ充足を感じていた。非正規ではあるがちゃんと働いて生活の基盤を保ち、好きなお菓子作りを続けながらルグと共に暮らす。過去と向き合ったキョウは、自身の描く理想の暮らしを、それなりに実現できていた。もし社員になれば、おそらく収入も増える。ネットショップのホームページをリニューアルしたり、オーブン付きのキッチンカーを借りてマルシェで実演販売をしたり……選択肢も広がるはずだ。今よりも安定した、何気ない幸せな日々が手に入る。乗らない手はなかった。
「わっ……!」
青信号に気づかなかったキョウは、すぐ隣を後ろから追い抜いていくバイクに驚き、声を上げる。同時に緩んでいたマフラーが風に煽られ、キョウの首元を離れた。慌てて自転車を停め、マフラーを追いかける。
「危ないなぁ……ん?」
拾い上げたその視線の先。閉まったシャッターが並ぶ通りに、ふと、自分の店の幻影が重なった。
店内に広がる芳醇なバターの香り。軽やかなドアベルの音。ショーケースや棚に並ぶお菓子を選ぶ会話。そして、自分のお菓子が紡ぐ、たくさんの人々の幸せそうな笑顔と、その景色を見守る自分の姿。画面上でも、借り物のキッチンカーでもない、自分だけの城。「これでいい」の中に埋もれて見えなくなっていた「これがいい」という感情が、膨れ上がってくる。
アルバイトとネットショップの二足のわらじ。どれだけ自分が誇りを持っていたとしても、世間から見ればキョウのお菓子作りはあくまで副業や趣味にすぎない。正社員になれば、その二つのパワーバランスはより顕著なものになるだろう。社員登用という選択は、キョウにとって、ずっと追いかけていたお菓子屋さんの夢を諦めることを意味していた。せっかく母親から、ミゾレから、そしてルグから背中を押してもらったのに、果たして自分は、前に進めているのだろうか。
「……本当に、このままでいいのかな」
信号がチカチカと点滅し始める。だがキョウは、拾ったマフラーを握りしめたまま、しばらく動けずにいた。
――
「……じゃあ、開けるよ」
「……おう」
その日の夜。夕食を終えた二人は、重厚感のある箱の蓋を開ける。ふわっと甘い香りが漂い、中から黄金色のバウムクーヘンが姿を現した。
「うまそ〜!早く食おうぜ!」
「わかったわかった、ちょっと待って」
ルグに急かされて、皿に取り分ける。茶葉が開くまでの僅かな時間も待ちきれず、二人はバウムクーヘンを口に運んだ。
「これは……」
「うまぁ……」
口にした瞬間に広がる、こだわりの卵やクリームから生み出されるコクと甘味。食べ応えがありながらパサつきは一切なく、もはや飲めてしまうほどしっとり滑らか。周りのグレーズがアクセントになり、手が止まらなくなる美味しさだ。
「これはもう賄賂だよ……」
「ん?なんか言ったか?」
「いや、こっちの話だよ」
「そうか。よし、おかわりもーらいっ!」
あっという間に空になったルグの小皿。彼は先ほどの倍の大きさを取り分けると、フォークも使わずそのままかじり出した。
「ちょっと、お行儀悪いよ……!」
注意するも、ルグは聞いていない。尻尾をぶんぶん振り、ただ目の前のバウムクーヘンに夢中になっている。少し気難しい部分もあるが、いつもまっすぐで、嘘がつけなくて、お菓子が大好きなルグ。キョウは彼の姿に、自身の幸せの形を重ね合わせる。
「ねえ、ルグ」
彼の皿が再び空になったのを見て、キョウは話を切り出した。
「ん?」
「今日、店長から提案されたんだ。社員にならないかって」
「シャイン?シャインになったらどうなるんだ?」
「えっと……まあ、今より仕事が増える代わりに、お給料も増えて、生活がしやすくなる…って感じかな」
「へえ、いいじゃねえか!」
聞き馴染みのない言葉にきょとんとしていたルグも、キョウの説明を受けて賛同する。
「でも……それじゃだめな気がして」
「何でだよ?だって仕事は増えても、休みはあるんだろ?ネットショップなんだから、続けられるんじゃないのか?」
「うん。ルグの言う通り続けられると思う。マルシェにだって、毎回は無理でもこれまで通り出店できるよ。だけど……」
言葉にできない葛藤を落ち着かせようと、キョウはぬるくなったマグカップに口をつけて紅茶を啜った。浸かりすぎた茶葉の渋みが喉を焼く。
雨の中ルグを探した日。初めてマルシェに出店した日。母やミゾレと再会し、わだかまりを解消した日。ルグと出会ったキョウは、これまでの日々を通して、自身の過去や弱い部分と決別できたと思っていた。絵本のクマさんのように、お菓子で人と人を繋ぎ笑顔にするという目的も、もう達成できていた。誰かが幸せになればいい。みんなが幸せなら、それでよかったはずだった。もう二度と失敗してはならない。誰かを悲しませるようなことがあってはならない。その防衛本能が、キョウを無意識のうちに挑戦から遠ざけていたのだった。
「なあ」
ルグの声がする。
「ザラメはいつも、みんなの幸せのためにって思って生きてきたんだよな」
いつもの溌剌とした声ではない、寄り添うような優しい声。
「その"みんな"に、ザラメは入ってないのか?ザラメは自分を、“みんな“の中に入れてやらないのか?」
彼の問いかけに、キョウは考えたこともなかった、と言うような顔をした。
「幸せになる資格がないとか、みんなのためとか、そういうんじゃないだろ」
「でも…」
「それに、もしザラメがお菓子屋さんを目指して、上手くいかなかったとして、オレたちがバラバラになると思うか?」
キョウは小さく首を横に振る。
「オレが、ザラメのことを嫌って、いなくなると思うか?」
キョウはまた、首を横に振る。
「オレは、ザラメの作るお菓子が好きだ。ずっと誰かのためを思って、色んなものを背負って、乗り越えてきた。そんなザラメにしか作れないお菓子があるって、オレは思ってる。だから、きっとうまくいく」
不安で押しつぶされそうなキョウに、ルグは優しく言葉をかける。
「ザラメはもう、一人で悩んで苦しまなくていい。我慢しなくていい。自分がやりたいことのために進めばいいんだ」
あの日、母親からも贈られた言葉。だがルグから放たれたその言葉は、共に過ごした日々の中で芽生えた揺るがない信頼と、幸せになることを受け入れて前に進んでほしいという心からの願いが込められていた。温かいルグの心に触れ、キョウは目を閉じる。
「……そうだね」
”みんな“を幸せにしたいと願いながら、その中に自分を入れなかった理由。それは、自分を許し、自分に正直に生きていくことへの申し訳なさや不安によるものだった。
「うん。やっと気づけたよ」
誰かのためではなく、自分が選びたい道を選ぶ。例えそれが、綺麗に整えられた道ではなくても。過去に囚われた自分を解放し、自ら石を退け草木をかき分けて進むことを、誰よりも誇れるように。キョウは自分の心を確かめながら、バウムクーヘンを再び口に含む。その年輪は、幾重にも重なり広がっていくこれからの道を暗示しているように思えた。
「まずは……自分の背中を、押してあげなくちゃいけないね」
顔を上げたキョウの瞳には、過去の悔恨だけではない、新しい光が宿り始めていた。
――
翌日。ドラッグストアのお菓子コーナーは、早くもバレンタインへ向けたチョコレート菓子の販促が行われていた。空になった段ボールを手早く畳み、キョウはバックヤードに入る。
「品出し終わりました」
「お!ありがとう、ザラメくん。もう上がりだっけ」
「はい。今日は夕方までです」
「悪いんだけど、五分だけ残業お願いできないかな?倉庫の整理が終わってなくて…」
「あ、もうやりましたよ」
「へ?」
申し訳なさそうに手を合わせようとした店長は、涼しい顔で答えるキョウに目を丸くする。
「倉庫の用度品ですよね。手が空いたタイミングがあったので、片付けておきました。納品書もチェック済みです」
「ザラメくん、君ってやつは……!本当助かるよ…!」
「大袈裟ですよ、このくらいは手伝わせてください。いいバウムクーヘンも貰いましたし」
「いやぁ、これだけシゴデキなら…社員になってくれたらすぐ店長、いや、マネージャーになれちゃうんじゃない…?」
彼の期待の眼差しは、昨日の返事を待ち侘びているようだった。
「……そのことなんですが、ちょうどお話したいことが」
「おっ?なになに?なんでも聞くよ!」
今からザラメくんとちょっとした話があるから、と早々にインカムで共有し、事務所へ招き入れる店長。
「ちょっとした話」は、小一時間に及んだ。
――
「ただいまー」
「おかえり!遅かったな」
「うん、ちょっと長引いちゃって……ルグ、ちょっといい?」
「なんだ?」
カバンを置いて、キョウはルグの前に座った。
「あのね……アルバイト、辞めることにした」
「え、それって…もしかして」
キョウは大きく頷く。
「お菓子屋さん、本気で頑張ってみようと思う」
キョウは社員登用の誘いを断り、そのまま勢いで退職を希望する旨も伝えた。すっかり快諾してくれると思っていたであろう店長は、突然の退職宣言にかなりショックを受けていた。もちろん退職理由については根掘り葉掘り聴取された。仕事がつらかったのか、人間関係でなにかトラブルがあったのか……必死に引き留めようとする店長に、キョウは順を追って経緯を伝えた。
お菓子作りの趣味のことも、ネットショップやマルシェでの出店のことも、店舗を持ったお菓子屋さんを開きたいという夢も。その真剣な眼差しに店長も心を打たれたのか、それ以上追及されることはなく、最終的にはその夢を応援してくれることになった。彼の残業と連勤が増えるのは心苦しいが…辞めるまでの一ヶ月の間に、なんとか代わりの人材を確保してもらおう。掛け持ち先のカフェの店主にも連絡したが、やりたいことが見つかってよかった、と賛同してくれた。
「そうか……ついに、決めたんだな」
「うん。ルグのおかげだよ」
「オレの?」
「そう。ルグがいてくれたから、不安でも一歩踏み出してみようって思えた。お菓子作りの腕も上げないといけないし、お店の場所も探さないといけないし、お金も用意しないといけないし……きっと大変な道だと思う。でも」
キョウは、顔を上げる。
「自分がやりたいって思ったことを、もう誤魔化したくない。」
そう言うと、キョウは微笑む。その目は、もう揺らいでいなかった。確かな自信と決意に満ちた、迷いのない眼差し。
「……だから、これからも、僕のそばにいてほしい」
「もちろん!味見もそうだし、力仕事も雑用も、なんでも手伝うからさ!」
その決意を後押しするように、ルグはにかっと笑った。
「ありがとう。でも……これからは"お手伝い"じゃなくて、"一緒に"やりたいな」
キョウはまた優しい笑みを浮かべ、手を差し伸べる。
「改めて、これからもよろしくね、ルグ」
その手の意味を理解した瞬間、ルグの瞳に輝きが宿った。味見係としてでも、居候としてでもない。ただ一人の、かけがえのない相棒として認められたこと。これからも同じ景色を見据えて共に歩いていけることに、彼は喜びを溢れさせた。
「おう!よろしくな、ザラメ!世界で一番のお菓子屋さんにしようぜ!」
固く握られた二人の手に、確かなぬくもりが宿る。窓の外では、鋭く冷たい風が吹き抜けている。だが、今はこの熱を道標にして。長い冬の先にあるまだ見ぬ春を目指して、二人は歩み始めた。
「ザラメくん、ちょっといいかな」
閉店後のドラッグストア。タイムカードを押す直前、店長に呼び止められたキョウは、紙袋を手渡される。
「はい、これあげる」
マチが広く、高級感のある袋。その中には、老舗洋菓子店のバウムクーヘンが入っていた。ずっしりとした重み。おそらくホールサイズだ。
「……賄賂ですか?」
「なんでそういう発想になるの!?帰省のお土産だよ!お・み・や・げ!」
そういえば、年末年始のわずかな休業期間、店長は実家に帰ると言っていた。気を遣わなくてもいいのに、こうして従業員に手土産を用意する律儀さが、彼の人となりを表している。
「あともう一個話があって…ザラメくん、社員登用とか興味ない?」
「えっ?」
店長はそう言って、キョウに求人の資料を差し出した。大きめのゴシック体で書かれた「正社員」の文字がキョウの目に飛び込んでくる。
「うちで正社員として働かないかってこと」
「……やっぱり賄賂じゃないですか」
「違うって!前々から声かけようとは思ってたんだけど、年末年始忙しかったでしょ?ザラメくんすごく真面目だし、仕事もテキパキできるし、接客も丁寧だし」
お土産はザラメくん以外にも渡してるからと、彼はズレたメガネをかけ直す。ホールサイズのバウムクーヘンを全員に…?年下ながら、彼のお財布事情が気になるキョウ。大型店の店長ともなれば、それほど待遇も良いのだろうか。社員登用の言葉に、キョウの心が揺らぎ始める。
「それは、皆さんがいい方ばかりだからですよ。いつも助けられてばかりですし」
「そんなことないよ〜。実際さぁ、発注とかシフト管理とか、簡単なパソコン業務とか、手伝ってくれてるじゃない」
本当は全部僕がやらなきゃいけないんだけどね、と付け加えながら、店長は続ける。
「それにほら、確か…掛け持ちしてるんだっけ?今はほら、多様性って言うから個人の自由だけど。いつまでもアルバイトってわけにもいかないでしょ?もう二十歳なんだし、生活のこととか、将来のこととか考えたらさ」
将来。彼にとっては何気ないその言葉が、キョウの頭を駆け巡った。
「……そうですよね。確かに」
「うんうん。急ぎじゃないし、ゆっくり考えて返事してくれたらいいよ。じゃあ、お疲れ様。呼び止めてごめんね!」
「いえ、お疲れ様でした。バウムクーヘン、いただきますね」
「本当に賄賂じゃないからねー!」
念を押す店長を背に、従業員用の出入口を通り、キョウは外に出た。刺すような鋭い冷気に思わず身を縮める。賄賂…ではなくお土産を自転車の前かごに乗せて、キョウは自転車を漕ぎ出した。
「将来か…」
呟きは白い息と共に、冷たく澄んだ空気に溶けていく。家まで残り半分くらいの地点、大きな交差点の信号に引っかかり、悴む指でスマートフォンの画面をなぞる。画面に映るのは、勤務中に届いたネットショップの注文通知だった。
八月の初出店以来、はれぞらマルシェへの出店回数も増え、『今日のお菓子屋さん』はちょっとした人気店になりつつあった。ずっと閑古鳥が鳴いていたネットショップも、マルシェの口コミやミゾレたちを通じた宣伝のおかげで、少しずつ売り上げが伸びてきている。正直なところ、今の自分にはそこそこ充足を感じていた。非正規ではあるがちゃんと働いて生活の基盤を保ち、好きなお菓子作りを続けながらルグと共に暮らす。過去と向き合ったキョウは、自身の描く理想の暮らしを、それなりに実現できていた。もし社員になれば、おそらく収入も増える。ネットショップのホームページをリニューアルしたり、オーブン付きのキッチンカーを借りてマルシェで実演販売をしたり……選択肢も広がるはずだ。今よりも安定した、何気ない幸せな日々が手に入る。乗らない手はなかった。
「わっ……!」
青信号に気づかなかったキョウは、すぐ隣を後ろから追い抜いていくバイクに驚き、声を上げる。同時に緩んでいたマフラーが風に煽られ、キョウの首元を離れた。慌てて自転車を停め、マフラーを追いかける。
「危ないなぁ……ん?」
拾い上げたその視線の先。閉まったシャッターが並ぶ通りに、ふと、自分の店の幻影が重なった。
店内に広がる芳醇なバターの香り。軽やかなドアベルの音。ショーケースや棚に並ぶお菓子を選ぶ会話。そして、自分のお菓子が紡ぐ、たくさんの人々の幸せそうな笑顔と、その景色を見守る自分の姿。画面上でも、借り物のキッチンカーでもない、自分だけの城。「これでいい」の中に埋もれて見えなくなっていた「これがいい」という感情が、膨れ上がってくる。
アルバイトとネットショップの二足のわらじ。どれだけ自分が誇りを持っていたとしても、世間から見ればキョウのお菓子作りはあくまで副業や趣味にすぎない。正社員になれば、その二つのパワーバランスはより顕著なものになるだろう。社員登用という選択は、キョウにとって、ずっと追いかけていたお菓子屋さんの夢を諦めることを意味していた。せっかく母親から、ミゾレから、そしてルグから背中を押してもらったのに、果たして自分は、前に進めているのだろうか。
「……本当に、このままでいいのかな」
信号がチカチカと点滅し始める。だがキョウは、拾ったマフラーを握りしめたまま、しばらく動けずにいた。
――
「……じゃあ、開けるよ」
「……おう」
その日の夜。夕食を終えた二人は、重厚感のある箱の蓋を開ける。ふわっと甘い香りが漂い、中から黄金色のバウムクーヘンが姿を現した。
「うまそ〜!早く食おうぜ!」
「わかったわかった、ちょっと待って」
ルグに急かされて、皿に取り分ける。茶葉が開くまでの僅かな時間も待ちきれず、二人はバウムクーヘンを口に運んだ。
「これは……」
「うまぁ……」
口にした瞬間に広がる、こだわりの卵やクリームから生み出されるコクと甘味。食べ応えがありながらパサつきは一切なく、もはや飲めてしまうほどしっとり滑らか。周りのグレーズがアクセントになり、手が止まらなくなる美味しさだ。
「これはもう賄賂だよ……」
「ん?なんか言ったか?」
「いや、こっちの話だよ」
「そうか。よし、おかわりもーらいっ!」
あっという間に空になったルグの小皿。彼は先ほどの倍の大きさを取り分けると、フォークも使わずそのままかじり出した。
「ちょっと、お行儀悪いよ……!」
注意するも、ルグは聞いていない。尻尾をぶんぶん振り、ただ目の前のバウムクーヘンに夢中になっている。少し気難しい部分もあるが、いつもまっすぐで、嘘がつけなくて、お菓子が大好きなルグ。キョウは彼の姿に、自身の幸せの形を重ね合わせる。
「ねえ、ルグ」
彼の皿が再び空になったのを見て、キョウは話を切り出した。
「ん?」
「今日、店長から提案されたんだ。社員にならないかって」
「シャイン?シャインになったらどうなるんだ?」
「えっと……まあ、今より仕事が増える代わりに、お給料も増えて、生活がしやすくなる…って感じかな」
「へえ、いいじゃねえか!」
聞き馴染みのない言葉にきょとんとしていたルグも、キョウの説明を受けて賛同する。
「でも……それじゃだめな気がして」
「何でだよ?だって仕事は増えても、休みはあるんだろ?ネットショップなんだから、続けられるんじゃないのか?」
「うん。ルグの言う通り続けられると思う。マルシェにだって、毎回は無理でもこれまで通り出店できるよ。だけど……」
言葉にできない葛藤を落ち着かせようと、キョウはぬるくなったマグカップに口をつけて紅茶を啜った。浸かりすぎた茶葉の渋みが喉を焼く。
雨の中ルグを探した日。初めてマルシェに出店した日。母やミゾレと再会し、わだかまりを解消した日。ルグと出会ったキョウは、これまでの日々を通して、自身の過去や弱い部分と決別できたと思っていた。絵本のクマさんのように、お菓子で人と人を繋ぎ笑顔にするという目的も、もう達成できていた。誰かが幸せになればいい。みんなが幸せなら、それでよかったはずだった。もう二度と失敗してはならない。誰かを悲しませるようなことがあってはならない。その防衛本能が、キョウを無意識のうちに挑戦から遠ざけていたのだった。
「なあ」
ルグの声がする。
「ザラメはいつも、みんなの幸せのためにって思って生きてきたんだよな」
いつもの溌剌とした声ではない、寄り添うような優しい声。
「その"みんな"に、ザラメは入ってないのか?ザラメは自分を、“みんな“の中に入れてやらないのか?」
彼の問いかけに、キョウは考えたこともなかった、と言うような顔をした。
「幸せになる資格がないとか、みんなのためとか、そういうんじゃないだろ」
「でも…」
「それに、もしザラメがお菓子屋さんを目指して、上手くいかなかったとして、オレたちがバラバラになると思うか?」
キョウは小さく首を横に振る。
「オレが、ザラメのことを嫌って、いなくなると思うか?」
キョウはまた、首を横に振る。
「オレは、ザラメの作るお菓子が好きだ。ずっと誰かのためを思って、色んなものを背負って、乗り越えてきた。そんなザラメにしか作れないお菓子があるって、オレは思ってる。だから、きっとうまくいく」
不安で押しつぶされそうなキョウに、ルグは優しく言葉をかける。
「ザラメはもう、一人で悩んで苦しまなくていい。我慢しなくていい。自分がやりたいことのために進めばいいんだ」
あの日、母親からも贈られた言葉。だがルグから放たれたその言葉は、共に過ごした日々の中で芽生えた揺るがない信頼と、幸せになることを受け入れて前に進んでほしいという心からの願いが込められていた。温かいルグの心に触れ、キョウは目を閉じる。
「……そうだね」
”みんな“を幸せにしたいと願いながら、その中に自分を入れなかった理由。それは、自分を許し、自分に正直に生きていくことへの申し訳なさや不安によるものだった。
「うん。やっと気づけたよ」
誰かのためではなく、自分が選びたい道を選ぶ。例えそれが、綺麗に整えられた道ではなくても。過去に囚われた自分を解放し、自ら石を退け草木をかき分けて進むことを、誰よりも誇れるように。キョウは自分の心を確かめながら、バウムクーヘンを再び口に含む。その年輪は、幾重にも重なり広がっていくこれからの道を暗示しているように思えた。
「まずは……自分の背中を、押してあげなくちゃいけないね」
顔を上げたキョウの瞳には、過去の悔恨だけではない、新しい光が宿り始めていた。
――
翌日。ドラッグストアのお菓子コーナーは、早くもバレンタインへ向けたチョコレート菓子の販促が行われていた。空になった段ボールを手早く畳み、キョウはバックヤードに入る。
「品出し終わりました」
「お!ありがとう、ザラメくん。もう上がりだっけ」
「はい。今日は夕方までです」
「悪いんだけど、五分だけ残業お願いできないかな?倉庫の整理が終わってなくて…」
「あ、もうやりましたよ」
「へ?」
申し訳なさそうに手を合わせようとした店長は、涼しい顔で答えるキョウに目を丸くする。
「倉庫の用度品ですよね。手が空いたタイミングがあったので、片付けておきました。納品書もチェック済みです」
「ザラメくん、君ってやつは……!本当助かるよ…!」
「大袈裟ですよ、このくらいは手伝わせてください。いいバウムクーヘンも貰いましたし」
「いやぁ、これだけシゴデキなら…社員になってくれたらすぐ店長、いや、マネージャーになれちゃうんじゃない…?」
彼の期待の眼差しは、昨日の返事を待ち侘びているようだった。
「……そのことなんですが、ちょうどお話したいことが」
「おっ?なになに?なんでも聞くよ!」
今からザラメくんとちょっとした話があるから、と早々にインカムで共有し、事務所へ招き入れる店長。
「ちょっとした話」は、小一時間に及んだ。
――
「ただいまー」
「おかえり!遅かったな」
「うん、ちょっと長引いちゃって……ルグ、ちょっといい?」
「なんだ?」
カバンを置いて、キョウはルグの前に座った。
「あのね……アルバイト、辞めることにした」
「え、それって…もしかして」
キョウは大きく頷く。
「お菓子屋さん、本気で頑張ってみようと思う」
キョウは社員登用の誘いを断り、そのまま勢いで退職を希望する旨も伝えた。すっかり快諾してくれると思っていたであろう店長は、突然の退職宣言にかなりショックを受けていた。もちろん退職理由については根掘り葉掘り聴取された。仕事がつらかったのか、人間関係でなにかトラブルがあったのか……必死に引き留めようとする店長に、キョウは順を追って経緯を伝えた。
お菓子作りの趣味のことも、ネットショップやマルシェでの出店のことも、店舗を持ったお菓子屋さんを開きたいという夢も。その真剣な眼差しに店長も心を打たれたのか、それ以上追及されることはなく、最終的にはその夢を応援してくれることになった。彼の残業と連勤が増えるのは心苦しいが…辞めるまでの一ヶ月の間に、なんとか代わりの人材を確保してもらおう。掛け持ち先のカフェの店主にも連絡したが、やりたいことが見つかってよかった、と賛同してくれた。
「そうか……ついに、決めたんだな」
「うん。ルグのおかげだよ」
「オレの?」
「そう。ルグがいてくれたから、不安でも一歩踏み出してみようって思えた。お菓子作りの腕も上げないといけないし、お店の場所も探さないといけないし、お金も用意しないといけないし……きっと大変な道だと思う。でも」
キョウは、顔を上げる。
「自分がやりたいって思ったことを、もう誤魔化したくない。」
そう言うと、キョウは微笑む。その目は、もう揺らいでいなかった。確かな自信と決意に満ちた、迷いのない眼差し。
「……だから、これからも、僕のそばにいてほしい」
「もちろん!味見もそうだし、力仕事も雑用も、なんでも手伝うからさ!」
その決意を後押しするように、ルグはにかっと笑った。
「ありがとう。でも……これからは"お手伝い"じゃなくて、"一緒に"やりたいな」
キョウはまた優しい笑みを浮かべ、手を差し伸べる。
「改めて、これからもよろしくね、ルグ」
その手の意味を理解した瞬間、ルグの瞳に輝きが宿った。味見係としてでも、居候としてでもない。ただ一人の、かけがえのない相棒として認められたこと。これからも同じ景色を見据えて共に歩いていけることに、彼は喜びを溢れさせた。
「おう!よろしくな、ザラメ!世界で一番のお菓子屋さんにしようぜ!」
固く握られた二人の手に、確かなぬくもりが宿る。窓の外では、鋭く冷たい風が吹き抜けている。だが、今はこの熱を道標にして。長い冬の先にあるまだ見ぬ春を目指して、二人は歩み始めた。
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