十話 "再会"のカップケーキ
ー/ー「……そう思っていたあの日、ルグに出会ったんだ」
淡々と、だが時折言葉を詰まらせながら、キョウはこれまでのことを語った。
「ずっと、絵本のクマさんみたいになりたかった。温もりを感じるお菓子を作りたい。お菓子を通して、誰かに寄り添いたい。誰かの背中を押す存在になりたいって。でも、僕にはできなかった」
想像もしていなかった彼の過去を知ったルグ。いつも自分を大切に思ってくれる彼が、ずっと隠し続けていたもの。独りになることを恐れ、天才と褒められると複雑な表情をし、確信に迫ろうとするとはぐらかされる。穏やかで悟ったような笑みに包まれて見えなかった、そんな彼の無防備な姿。初めて露呈したその弱さは、十五歳の少年が受け止めるにはあまりに生々しく、痛々しかった。
(……そんな顔、しないでくれよ)
かけてあげたい言葉が浮かんでくるのに、声にならない。
「母さんの期待に応えられずに、ミゾレや家庭科部のみんなとも距離を置いて、一人で逃げ出した。過去のことを思い出さないように誤魔化して笑って、目を背けて……結局こうして何もできないまま、今もまだ夢を諦め切れないで、中途半端に生きてる」
自身への苛立ちか、過去を悔やんでいるのか、彼の拳が静かに握られる。ルグはただ、その様子を見守ることしかできなかった。
「目の前の人ひとり笑顔にできないのに、身近な人の期待に応えられないのに……こんな僕が夢を追いかけるなんて……幸せになる資格なんて、ないんだ」
キョウが自嘲気味に吐き捨てた時、スピードコースで回していた洗濯機が終わりを告げ、再び軽快な音を奏でた。
「ちょっと長くなっちゃったね。ごめん。二人も待ってるだろうし、戻ろっか」
キョウは再びいつものように微笑んで、洗面所から離れようとする。その手を、ルグは咄嗟に掴んだ。
「なあ、その……」
ぬいぐるみのような彼の手が触れる。その手のひらから伝わる震えが、言葉以上に切実な彼の思いを物語っていた。共に過ごしてきた数ヶ月の日々。それを思えば、彼が何を告げようとしているのかも、キョウにはすぐ察しがついた。
「…うん。大丈夫だよ。いつか向き合わなきゃいけないって思ってたことだから。ありがとう」
その不器用な優しさと温もりを確かめるように、キョウは頷く。いつもより長く感じる廊下を抜けて、二人はリビングへ向かった。
――
「やっぱり、キョウくんのお店だったんだね。『今日のお菓子屋さん』」
リビングに会した一同。ミゾレはそう切り出すと、ここに来た経緯を話し始めた。高校を卒業してから、キョウの行方を気にかけていたこと。ある日、ネットで『今日のお菓子屋さん』を見つけたこと。マルシェの概要やショップのホームページに掲載された情報から、キョウ本人なのではないかと感じたこと。そして、友人のつてを駆使してコハクとコンタクトをとり、ここにキョウがいるかもしれない、一緒に来てほしいと説得したこと。
「本当は一人でこっそり覗きに来るつもりだったし、これがお節介だってこともわかってた。でも…今回が最初で最後のチャンスだと思ったから」
ミゾレの眼差しがキョウを射抜く。最初で最後のチャンス。投げかけられた言葉をキョウは反芻する。そうだ、その通りだ。何か言わなければ。アクションを起こさなければ。だが、二人の顔を見ることができず、キョウは俯いてしまう。先ほど向き合う覚悟を決めたはずなのに、コハクの期待を裏切った過去が、ミゾレから離れてしまった過去がヘドロのように纏わりついてきて、また逃げ出したくなる。
その時、キョウの腰の辺りに、ふわりとした感触がした。それは紛れもない、隣に座るルグの黒灰色の尻尾だった。驚いてルグの方を見るが、彼はただまっすぐ前を向き、対岸に座る二人を見据えている。まるでゆらゆらと揺れるそれが、明確な意思を持って自分を勇気づけてくれているかのように、優しく、何度もキョウの背中をぽんと押す。
――そうだ。もう、ひとりではないんだ。もうこれ以上はぐらかすことも、逃げ出すこともしない。今、ここで向き合わなきゃ。
「母さん、ミゾレ、ごめん」
キョウは決意を固め、深く頭を下げた。再びゆっくりと顔を上げた彼の目に、もう迷いはなかった。
「母さん」
驚いたような表情のコハクを見つめ、キョウは口を開く。
「僕は、期待に応えられなかった。自信がなかったんだ。それで製菓学校に行かずに、普通の高校へ行った。でも結局家庭科部に入部して、母さんのことを避けてしまった。一般企業に就職してもすぐに辞めて、またこうして細々と売れないネットショップを続けて……。何もかも、中途半端で」
彼が紡ぐ言葉を、コハクは受け止める。
「母さん。父さんに相応しい息子に……母さんの自慢の息子になれなくて、失望させてしまって、ごめんなさい」
「キョウ…」
再び頭を下げるキョウ。その様子に、コハクは小さく首を横に振り、何か言いたげな仕草を見せた。
「ミゾレ」
その意味を追及するより先に、キョウの視線はミゾレに向けられる。
「あの時の僕にとって、家庭科部は唯一の居場所だった。でも、きっとみんなが慕ってくれるのは、僕がお菓子を作れるからなんだって思っていたんだ」
キョウの脳裏に、ひしゃげた紙袋を抱きしめたあの日の記憶が蘇ってくる。だが目を背けたくなっても、キョウは話すことを止めなかった。
「だからあの日、せっかく作ったお菓子がダメになった時……みんなに合わせる顔がない、もうおしまいだって思った。それで急に怖くなって逃げ出した。思い出したくなくて、連絡も取れないようにしてしまってた。最後の思い出作りの機会を台無しにしてしまって、ちゃんとお別れも言わずに居なくなってしまって……本当にごめん」
「キョウくん…」
ずっと言えないまま胸にしまっていた言葉が、後悔が、長い時を経て二人に届けられる。時間にすればわずか数秒間の沈黙が、キョウにとっては途方もなく長く感じる。
「キョウ、顔を上げて。謝らないといけないのは、お母さんの方よ」
沈黙を破ったのは、コハクだった。顔を上げて改めて母親と対峙したキョウは、これまで完璧に整えられてきたはずの母の容姿から、どこか力が抜けて生活感が垣間見えていることに気づいた。無造作にまとめられた髪、控えめなメイク、ささくれた細い指。その左手の薬指に、指輪はなかった。
「ツカサさんは、もう…家族じゃないの」
「え…」
愕然とするキョウ。コハクはそのまま、離婚に至るまでの日々を話し始めた。就職したキョウを見送った数日後。入れ替わるようにして、仕事が落ち着いて一時帰国したツカサが家に戻ってきた。彼は製菓学校で学ぶことを選ばなかったキョウに対してやはり良い印象を抱かなかったらしく、失望したような反応を見せた。特に会話もなく、どこかへ出かけることもない、夫婦の時間。リビングにいても、ツカサは休む間もなく仕事に明け暮れている。果たして、今のこの状況は、私が望んだ家族の形なのだろうか。この人と人生を共にし、この人に相応しい妻であり続けることが、私にとっての幸せなのだろうか。そう考えるようになり、コハク自ら別れを切り出したのだった。
「ツカサさんと別れて、一人になって、やっと目が覚めた。母親として、あなたのやりたいことを優先させてあげるべきだった。なのに、私はずっとあなたを『ツカサさんの子供』としか見ていなかった。ツカサさんに相応しい人間になることを強制させようとしてしまった。完璧な理想の妻を、理想の家族像を守るために、あなたの気持ちを犠牲にしてしまったの。だから…謝るべきなのは、私の方」
これまで、キョウの胸の奥に刺さって抜けなかった母への罪悪感。期待に応えられなかった自分への怒り。だが、彼が守りたくても守れなかった「完璧な母さん」は、もうどこにもいなかった。自分だけが、埃を被った記憶の中で必死にもがいていた。
「今更こんなことを言ったって許してもらえないのは分かっているわ。でもこれだけはあなたに伝えなきゃいけないって、ずっと思っていた。お母さんの期待が、あなたをずっと苦しめていたはずだから。本当に……ごめんなさい」
母親からの謝罪の言葉。それを引き金に、キョウは自身の中で積み上げていた負債感と責任感が、音を立てて崩れるのを感じた。
(離婚したって、家族じゃないって、どういうこと?)
(じゃあ僕は今、誰の息子なの?母さん?父さん?)
(あの時、何で相談してくれなかったのって言ったくせに、自分はそうやって一人で勝手に決めて、自己解決してるなんて)
言い返そうとしたが、できなかった。様々な感情が押し寄せて、混ざり合い、キョウの心が掻き乱されていく。
「……そんなの、ずるいよ」
絞り出すようなキョウの声。
「そんなこと言われたって、許すとか、許さないとか……分からないよ」
悲しみ、怒り、解放感、虚しさ。ぶつけることも、言葉にすることもままならない。
「そう、よね」
感情の整理がつかず、俯いてしまうキョウとコハク。ミゾレも言葉を探すが、時間の経過で拗れに拗れた親子の軋轢を前にどうすることもできず、黙り込んでしまった。再び、終わりの見えない沈黙が訪れる。
「なあ、みんな」
その時、ここまでじっと静かに動かなかったルグが、突然立ち上がった。
「腹、減らねぇか?」
「え?」
きょとんとした三人を横目に、ルグは一目散にキッチンへ向かう。置かれたバッグの中をしばらく漁った後、何かを両腕に抱えて戻ってきた。
「せっかくお茶もあるんだしさ。これ食べようぜ!」
どさどさとテーブルの中央に置かれたのは、マルシェでは販売しなかったカップケーキ。パウンドケーキで余った材料から生まれた副産物だ。
「ずっといい匂いがしてて、我慢できなかったんだよな〜」
「ちょっとルグくん!今それどころじゃ…」
「じゃ、お先に!いただきまーす!」
ミゾレの制止を振り切り、ルグはカップケーキの包みを解くと、大きな口を開けて頬張った。
「……うん、うまい!いやぁ、やっぱザラメの作るお菓子は本当にうまいよな〜!せっかくこんなに美味しいお菓子が目の前にあるのに、食べないなんてもったいないよな〜!」
いつになく真剣な面持ちで彼がまっすぐ見ていたのは、二人ではなく、その先でいい匂いを漂わせるケーキだった。黙っていたのも、きっとそれを取りに行くタイミングを伺っていたのだろう。場を和ませようとしたのか、それともただ純粋にお腹が空いていたのか。どちらにせよ、無神経なルグの言動は、息もできないほど張り詰めていたこの空間に、確かな緩和をもたらした。
「……そうだね。僕も食べようかな」
やれやれと首を振り、キョウはカップケーキを一つ自分の手元に置く。そして向かい側に座る二人にも、そっと差し出した。
「二人にも食べてほしい。これがきっと、僕の答えだから」
コハクにとっても、ミゾレにとっても馴染み深い、キョウが作ったお菓子。戸惑いながらも、二人はカップケーキを口に含んだ。
心にじんわりと広がる、バターの豊かな香り。きめ細やかな生地は、ふわふわとしていながらも、しっとりと溶けていく。
「……美味しい」
その食感につられるようにして、コハクの表情がふっと緩んだ。
「あの頃と同じ。小さい頃、あなたが作ってくれた、大好きな……あの味のまま」
「うん。キョウくんの味だ…とっても優しくて、あたたかくて、懐かしい味」
コハクとミゾレは、それぞれの記憶と照らし合わせるように、カップケーキを味わう。
「立派なケーキも、一流の技術も、背伸びをして着飾ることも……本当は、必要なかったのね……」
最後のひとかけらを飲み込んだコハクは、ハンカチで涙と口元を拭うと、キョウに優しい眼差しを向けた。
「キョウ。もしこれまでのことに対して少しでも負担を感じているのなら、これだけは忘れないで。あなたの人生は、もう私のものでも、ツカサさんのものでもない……あなただけのもの。好きにしていいの。今なら迷わず伝えられるわ。だって……あなたの幸せが、私の一番の幸せだから」
好きにしていい。コハクの口から紡がれた言葉。それは、もう完璧な夫の妻としてではない。キョウ自身の人生が豊かなものであることを切に願う、母親としての慈愛に満ちた言葉だった。ずっと胸の奥に絡まっていた糸が解けて、キョウも視界を潤ませる。
「うん……ありがとう、母さん」
再び、沈黙が訪れる。大きな氷の塊がゆっくりと溶け出すように、ただここに流れる時間が、これまでのわだかまりを静かに、優しく解きほぐしていく。本音で向き合った親子の間に流れる空気は、真夏の星空のように澄んでいて、ほんの少しだけ、温もりを帯びていた。
――
「じゃあ、車動かしてくるわね。ミゾレさんも準備ができたら帰りましょうか」
「わかりました。ありがとうございます」
玄関を出た二人。昼間の暑さも和らいで、柔らかな風が吹いている。
「今日はありがとう。ごめんね、突然押しかけて」
「全然。おかげで母さんとも話せたし、ちゃんと向き合えたから」
車のエンジン音が聞こえる。
「キョウくん、あのね。さっきのことなんだけど……あの日パーティーに来なかったことも、それから音信不通になったことも、全然怒ってないよ」
「えっ?」
きょとんとするキョウの横で、ミゾレは話を続ける。
「それに……私も、ずっと後悔してた。キョウくんにちゃんと伝えればよかったって」
「伝えればって、何を?」
「もしお菓子作りを辞めて、違う道に進んでいたとしても……何があっても、私にとってキョウくんは大切な友達で、仲間なんだよ。家庭科部のみんなもそう思ってる。昔も今も、これからも」
そう言って、ミゾレはキョウに携帯の画面を見せる。メッセージアプリには、あの頃と変わらない、家庭科部のグループが表示されていた。
「でも、嬉しかった。キョウくんが今も元気で暮らしていて、お菓子作りを続けてることが。だって…そうじゃなきゃ、私もコハクさんもこのマルシェに辿り着けなかったし、きっともう会えなかった。キョウくんのお菓子が……私たちを繋いでくれたんだよ」
ミゾレの言葉に、キョウははっとする。
「……そうか。そう、だったんだ」
キョウのお菓子。それは、彼を縛るものでも、彼のアイデンティティを支配するものでもない。彼がずっと求めていた温もりは、彼が思い描いていたものは、すでにそこに存在していた。そのことに気づけていなかったのは、彼自身だった。
「僕は、誰かを……幸せにできているのかな」
「できてるよ、きっと。ううん、絶対!」
迷いを掻き消すような、ミゾレの力強い声。飾らない彼女の言葉に、キョウの胸がじんわりと熱くなる。
「それに……少なくとも、今キョウくんのそばにいる子は、とっても幸せだと思うよ?」
「……そうだね。そうだったら、嬉しいな」
振り返る二人。リビングからこちらを覗いていたルグと目が合い、ミゾレは小さく手を振る。初めはどうなることかと思ったが、彼もすっかり打ち解けたようだ。
「よかったらまた来てほしい。次のマルシェも出店してると思うから」
「うん。次は家庭科部のみんなも連れてくる!お手伝いが必要な時は任せて!なんでもするよ!」
「ふふ、頼もしいね」
コハクが助手席のドアを開け、ミゾレを呼ぶ。
「もう行かなきゃ。じゃあ、またね!キョウくん!」
「またね。待ってる!」
再会を願う言葉を交わし、ミゾレは軽自動車に飛び乗った。動き出した車は、すっかり暗くなった田舎道を照らしながら進んでいく。そのテールランプが遠ざかっていくのを、キョウは穏やかな表情で見送った。
――
「ルグ」
「おう、おかえり」
キョウがリビングに戻ると、ルグはテーブルの上に残ったカップケーキをすっかり平らげて座っていた。相変わらずの食欲だ。
「えっと……何て言うか、その……よかったな」
彼は視線を泳がせながら呟く。
「うん。ありがとう。僕の背中、押してくれて」
「は?お、オレは何もしてねぇし」
キョウが感謝を伝えると、彼は鼻を鳴らしてまたそっぽを向いてしまった。しかし、その尻尾は左右にぱたぱたと揺れている。いつも通りの素直になりきれない彼の姿に、キョウは自然と笑みが溢れた。
「よし!じゃあ、二人で打ち上げしよう!」
「打ち上げ?今からか?」
景気よく両手を叩いたキョウからの提案に、湯呑みを片付けていたルグの耳がピンと立ち上がった。
「そう、打ち上げ!マルシェのね。色々あったけど、無事に初出店も成功したわけだし!ケーキだけじゃ、物足りないでしょ?」
マルシェは完売御礼……とまではいかなかったが、予想を上回る売れ行きと、帰りの交通費が浮いたこともあり、若干の黒字に終わった。課題は山積みだが、まずは頑張った自分たちを労うことにする。
「いいな、やろうぜ!何食べるんだ?」
「うーん、何がいいかな……」
人気のない田舎道。明かりのついた一軒の家から、二人の賑やかな会話が聞こえてくる。長い一日は、もう少しだけ続きそうだ。
淡々と、だが時折言葉を詰まらせながら、キョウはこれまでのことを語った。
「ずっと、絵本のクマさんみたいになりたかった。温もりを感じるお菓子を作りたい。お菓子を通して、誰かに寄り添いたい。誰かの背中を押す存在になりたいって。でも、僕にはできなかった」
想像もしていなかった彼の過去を知ったルグ。いつも自分を大切に思ってくれる彼が、ずっと隠し続けていたもの。独りになることを恐れ、天才と褒められると複雑な表情をし、確信に迫ろうとするとはぐらかされる。穏やかで悟ったような笑みに包まれて見えなかった、そんな彼の無防備な姿。初めて露呈したその弱さは、十五歳の少年が受け止めるにはあまりに生々しく、痛々しかった。
(……そんな顔、しないでくれよ)
かけてあげたい言葉が浮かんでくるのに、声にならない。
「母さんの期待に応えられずに、ミゾレや家庭科部のみんなとも距離を置いて、一人で逃げ出した。過去のことを思い出さないように誤魔化して笑って、目を背けて……結局こうして何もできないまま、今もまだ夢を諦め切れないで、中途半端に生きてる」
自身への苛立ちか、過去を悔やんでいるのか、彼の拳が静かに握られる。ルグはただ、その様子を見守ることしかできなかった。
「目の前の人ひとり笑顔にできないのに、身近な人の期待に応えられないのに……こんな僕が夢を追いかけるなんて……幸せになる資格なんて、ないんだ」
キョウが自嘲気味に吐き捨てた時、スピードコースで回していた洗濯機が終わりを告げ、再び軽快な音を奏でた。
「ちょっと長くなっちゃったね。ごめん。二人も待ってるだろうし、戻ろっか」
キョウは再びいつものように微笑んで、洗面所から離れようとする。その手を、ルグは咄嗟に掴んだ。
「なあ、その……」
ぬいぐるみのような彼の手が触れる。その手のひらから伝わる震えが、言葉以上に切実な彼の思いを物語っていた。共に過ごしてきた数ヶ月の日々。それを思えば、彼が何を告げようとしているのかも、キョウにはすぐ察しがついた。
「…うん。大丈夫だよ。いつか向き合わなきゃいけないって思ってたことだから。ありがとう」
その不器用な優しさと温もりを確かめるように、キョウは頷く。いつもより長く感じる廊下を抜けて、二人はリビングへ向かった。
――
「やっぱり、キョウくんのお店だったんだね。『今日のお菓子屋さん』」
リビングに会した一同。ミゾレはそう切り出すと、ここに来た経緯を話し始めた。高校を卒業してから、キョウの行方を気にかけていたこと。ある日、ネットで『今日のお菓子屋さん』を見つけたこと。マルシェの概要やショップのホームページに掲載された情報から、キョウ本人なのではないかと感じたこと。そして、友人のつてを駆使してコハクとコンタクトをとり、ここにキョウがいるかもしれない、一緒に来てほしいと説得したこと。
「本当は一人でこっそり覗きに来るつもりだったし、これがお節介だってこともわかってた。でも…今回が最初で最後のチャンスだと思ったから」
ミゾレの眼差しがキョウを射抜く。最初で最後のチャンス。投げかけられた言葉をキョウは反芻する。そうだ、その通りだ。何か言わなければ。アクションを起こさなければ。だが、二人の顔を見ることができず、キョウは俯いてしまう。先ほど向き合う覚悟を決めたはずなのに、コハクの期待を裏切った過去が、ミゾレから離れてしまった過去がヘドロのように纏わりついてきて、また逃げ出したくなる。
その時、キョウの腰の辺りに、ふわりとした感触がした。それは紛れもない、隣に座るルグの黒灰色の尻尾だった。驚いてルグの方を見るが、彼はただまっすぐ前を向き、対岸に座る二人を見据えている。まるでゆらゆらと揺れるそれが、明確な意思を持って自分を勇気づけてくれているかのように、優しく、何度もキョウの背中をぽんと押す。
――そうだ。もう、ひとりではないんだ。もうこれ以上はぐらかすことも、逃げ出すこともしない。今、ここで向き合わなきゃ。
「母さん、ミゾレ、ごめん」
キョウは決意を固め、深く頭を下げた。再びゆっくりと顔を上げた彼の目に、もう迷いはなかった。
「母さん」
驚いたような表情のコハクを見つめ、キョウは口を開く。
「僕は、期待に応えられなかった。自信がなかったんだ。それで製菓学校に行かずに、普通の高校へ行った。でも結局家庭科部に入部して、母さんのことを避けてしまった。一般企業に就職してもすぐに辞めて、またこうして細々と売れないネットショップを続けて……。何もかも、中途半端で」
彼が紡ぐ言葉を、コハクは受け止める。
「母さん。父さんに相応しい息子に……母さんの自慢の息子になれなくて、失望させてしまって、ごめんなさい」
「キョウ…」
再び頭を下げるキョウ。その様子に、コハクは小さく首を横に振り、何か言いたげな仕草を見せた。
「ミゾレ」
その意味を追及するより先に、キョウの視線はミゾレに向けられる。
「あの時の僕にとって、家庭科部は唯一の居場所だった。でも、きっとみんなが慕ってくれるのは、僕がお菓子を作れるからなんだって思っていたんだ」
キョウの脳裏に、ひしゃげた紙袋を抱きしめたあの日の記憶が蘇ってくる。だが目を背けたくなっても、キョウは話すことを止めなかった。
「だからあの日、せっかく作ったお菓子がダメになった時……みんなに合わせる顔がない、もうおしまいだって思った。それで急に怖くなって逃げ出した。思い出したくなくて、連絡も取れないようにしてしまってた。最後の思い出作りの機会を台無しにしてしまって、ちゃんとお別れも言わずに居なくなってしまって……本当にごめん」
「キョウくん…」
ずっと言えないまま胸にしまっていた言葉が、後悔が、長い時を経て二人に届けられる。時間にすればわずか数秒間の沈黙が、キョウにとっては途方もなく長く感じる。
「キョウ、顔を上げて。謝らないといけないのは、お母さんの方よ」
沈黙を破ったのは、コハクだった。顔を上げて改めて母親と対峙したキョウは、これまで完璧に整えられてきたはずの母の容姿から、どこか力が抜けて生活感が垣間見えていることに気づいた。無造作にまとめられた髪、控えめなメイク、ささくれた細い指。その左手の薬指に、指輪はなかった。
「ツカサさんは、もう…家族じゃないの」
「え…」
愕然とするキョウ。コハクはそのまま、離婚に至るまでの日々を話し始めた。就職したキョウを見送った数日後。入れ替わるようにして、仕事が落ち着いて一時帰国したツカサが家に戻ってきた。彼は製菓学校で学ぶことを選ばなかったキョウに対してやはり良い印象を抱かなかったらしく、失望したような反応を見せた。特に会話もなく、どこかへ出かけることもない、夫婦の時間。リビングにいても、ツカサは休む間もなく仕事に明け暮れている。果たして、今のこの状況は、私が望んだ家族の形なのだろうか。この人と人生を共にし、この人に相応しい妻であり続けることが、私にとっての幸せなのだろうか。そう考えるようになり、コハク自ら別れを切り出したのだった。
「ツカサさんと別れて、一人になって、やっと目が覚めた。母親として、あなたのやりたいことを優先させてあげるべきだった。なのに、私はずっとあなたを『ツカサさんの子供』としか見ていなかった。ツカサさんに相応しい人間になることを強制させようとしてしまった。完璧な理想の妻を、理想の家族像を守るために、あなたの気持ちを犠牲にしてしまったの。だから…謝るべきなのは、私の方」
これまで、キョウの胸の奥に刺さって抜けなかった母への罪悪感。期待に応えられなかった自分への怒り。だが、彼が守りたくても守れなかった「完璧な母さん」は、もうどこにもいなかった。自分だけが、埃を被った記憶の中で必死にもがいていた。
「今更こんなことを言ったって許してもらえないのは分かっているわ。でもこれだけはあなたに伝えなきゃいけないって、ずっと思っていた。お母さんの期待が、あなたをずっと苦しめていたはずだから。本当に……ごめんなさい」
母親からの謝罪の言葉。それを引き金に、キョウは自身の中で積み上げていた負債感と責任感が、音を立てて崩れるのを感じた。
(離婚したって、家族じゃないって、どういうこと?)
(じゃあ僕は今、誰の息子なの?母さん?父さん?)
(あの時、何で相談してくれなかったのって言ったくせに、自分はそうやって一人で勝手に決めて、自己解決してるなんて)
言い返そうとしたが、できなかった。様々な感情が押し寄せて、混ざり合い、キョウの心が掻き乱されていく。
「……そんなの、ずるいよ」
絞り出すようなキョウの声。
「そんなこと言われたって、許すとか、許さないとか……分からないよ」
悲しみ、怒り、解放感、虚しさ。ぶつけることも、言葉にすることもままならない。
「そう、よね」
感情の整理がつかず、俯いてしまうキョウとコハク。ミゾレも言葉を探すが、時間の経過で拗れに拗れた親子の軋轢を前にどうすることもできず、黙り込んでしまった。再び、終わりの見えない沈黙が訪れる。
「なあ、みんな」
その時、ここまでじっと静かに動かなかったルグが、突然立ち上がった。
「腹、減らねぇか?」
「え?」
きょとんとした三人を横目に、ルグは一目散にキッチンへ向かう。置かれたバッグの中をしばらく漁った後、何かを両腕に抱えて戻ってきた。
「せっかくお茶もあるんだしさ。これ食べようぜ!」
どさどさとテーブルの中央に置かれたのは、マルシェでは販売しなかったカップケーキ。パウンドケーキで余った材料から生まれた副産物だ。
「ずっといい匂いがしてて、我慢できなかったんだよな〜」
「ちょっとルグくん!今それどころじゃ…」
「じゃ、お先に!いただきまーす!」
ミゾレの制止を振り切り、ルグはカップケーキの包みを解くと、大きな口を開けて頬張った。
「……うん、うまい!いやぁ、やっぱザラメの作るお菓子は本当にうまいよな〜!せっかくこんなに美味しいお菓子が目の前にあるのに、食べないなんてもったいないよな〜!」
いつになく真剣な面持ちで彼がまっすぐ見ていたのは、二人ではなく、その先でいい匂いを漂わせるケーキだった。黙っていたのも、きっとそれを取りに行くタイミングを伺っていたのだろう。場を和ませようとしたのか、それともただ純粋にお腹が空いていたのか。どちらにせよ、無神経なルグの言動は、息もできないほど張り詰めていたこの空間に、確かな緩和をもたらした。
「……そうだね。僕も食べようかな」
やれやれと首を振り、キョウはカップケーキを一つ自分の手元に置く。そして向かい側に座る二人にも、そっと差し出した。
「二人にも食べてほしい。これがきっと、僕の答えだから」
コハクにとっても、ミゾレにとっても馴染み深い、キョウが作ったお菓子。戸惑いながらも、二人はカップケーキを口に含んだ。
心にじんわりと広がる、バターの豊かな香り。きめ細やかな生地は、ふわふわとしていながらも、しっとりと溶けていく。
「……美味しい」
その食感につられるようにして、コハクの表情がふっと緩んだ。
「あの頃と同じ。小さい頃、あなたが作ってくれた、大好きな……あの味のまま」
「うん。キョウくんの味だ…とっても優しくて、あたたかくて、懐かしい味」
コハクとミゾレは、それぞれの記憶と照らし合わせるように、カップケーキを味わう。
「立派なケーキも、一流の技術も、背伸びをして着飾ることも……本当は、必要なかったのね……」
最後のひとかけらを飲み込んだコハクは、ハンカチで涙と口元を拭うと、キョウに優しい眼差しを向けた。
「キョウ。もしこれまでのことに対して少しでも負担を感じているのなら、これだけは忘れないで。あなたの人生は、もう私のものでも、ツカサさんのものでもない……あなただけのもの。好きにしていいの。今なら迷わず伝えられるわ。だって……あなたの幸せが、私の一番の幸せだから」
好きにしていい。コハクの口から紡がれた言葉。それは、もう完璧な夫の妻としてではない。キョウ自身の人生が豊かなものであることを切に願う、母親としての慈愛に満ちた言葉だった。ずっと胸の奥に絡まっていた糸が解けて、キョウも視界を潤ませる。
「うん……ありがとう、母さん」
再び、沈黙が訪れる。大きな氷の塊がゆっくりと溶け出すように、ただここに流れる時間が、これまでのわだかまりを静かに、優しく解きほぐしていく。本音で向き合った親子の間に流れる空気は、真夏の星空のように澄んでいて、ほんの少しだけ、温もりを帯びていた。
――
「じゃあ、車動かしてくるわね。ミゾレさんも準備ができたら帰りましょうか」
「わかりました。ありがとうございます」
玄関を出た二人。昼間の暑さも和らいで、柔らかな風が吹いている。
「今日はありがとう。ごめんね、突然押しかけて」
「全然。おかげで母さんとも話せたし、ちゃんと向き合えたから」
車のエンジン音が聞こえる。
「キョウくん、あのね。さっきのことなんだけど……あの日パーティーに来なかったことも、それから音信不通になったことも、全然怒ってないよ」
「えっ?」
きょとんとするキョウの横で、ミゾレは話を続ける。
「それに……私も、ずっと後悔してた。キョウくんにちゃんと伝えればよかったって」
「伝えればって、何を?」
「もしお菓子作りを辞めて、違う道に進んでいたとしても……何があっても、私にとってキョウくんは大切な友達で、仲間なんだよ。家庭科部のみんなもそう思ってる。昔も今も、これからも」
そう言って、ミゾレはキョウに携帯の画面を見せる。メッセージアプリには、あの頃と変わらない、家庭科部のグループが表示されていた。
「でも、嬉しかった。キョウくんが今も元気で暮らしていて、お菓子作りを続けてることが。だって…そうじゃなきゃ、私もコハクさんもこのマルシェに辿り着けなかったし、きっともう会えなかった。キョウくんのお菓子が……私たちを繋いでくれたんだよ」
ミゾレの言葉に、キョウははっとする。
「……そうか。そう、だったんだ」
キョウのお菓子。それは、彼を縛るものでも、彼のアイデンティティを支配するものでもない。彼がずっと求めていた温もりは、彼が思い描いていたものは、すでにそこに存在していた。そのことに気づけていなかったのは、彼自身だった。
「僕は、誰かを……幸せにできているのかな」
「できてるよ、きっと。ううん、絶対!」
迷いを掻き消すような、ミゾレの力強い声。飾らない彼女の言葉に、キョウの胸がじんわりと熱くなる。
「それに……少なくとも、今キョウくんのそばにいる子は、とっても幸せだと思うよ?」
「……そうだね。そうだったら、嬉しいな」
振り返る二人。リビングからこちらを覗いていたルグと目が合い、ミゾレは小さく手を振る。初めはどうなることかと思ったが、彼もすっかり打ち解けたようだ。
「よかったらまた来てほしい。次のマルシェも出店してると思うから」
「うん。次は家庭科部のみんなも連れてくる!お手伝いが必要な時は任せて!なんでもするよ!」
「ふふ、頼もしいね」
コハクが助手席のドアを開け、ミゾレを呼ぶ。
「もう行かなきゃ。じゃあ、またね!キョウくん!」
「またね。待ってる!」
再会を願う言葉を交わし、ミゾレは軽自動車に飛び乗った。動き出した車は、すっかり暗くなった田舎道を照らしながら進んでいく。そのテールランプが遠ざかっていくのを、キョウは穏やかな表情で見送った。
――
「ルグ」
「おう、おかえり」
キョウがリビングに戻ると、ルグはテーブルの上に残ったカップケーキをすっかり平らげて座っていた。相変わらずの食欲だ。
「えっと……何て言うか、その……よかったな」
彼は視線を泳がせながら呟く。
「うん。ありがとう。僕の背中、押してくれて」
「は?お、オレは何もしてねぇし」
キョウが感謝を伝えると、彼は鼻を鳴らしてまたそっぽを向いてしまった。しかし、その尻尾は左右にぱたぱたと揺れている。いつも通りの素直になりきれない彼の姿に、キョウは自然と笑みが溢れた。
「よし!じゃあ、二人で打ち上げしよう!」
「打ち上げ?今からか?」
景気よく両手を叩いたキョウからの提案に、湯呑みを片付けていたルグの耳がピンと立ち上がった。
「そう、打ち上げ!マルシェのね。色々あったけど、無事に初出店も成功したわけだし!ケーキだけじゃ、物足りないでしょ?」
マルシェは完売御礼……とまではいかなかったが、予想を上回る売れ行きと、帰りの交通費が浮いたこともあり、若干の黒字に終わった。課題は山積みだが、まずは頑張った自分たちを労うことにする。
「いいな、やろうぜ!何食べるんだ?」
「うーん、何がいいかな……」
人気のない田舎道。明かりのついた一軒の家から、二人の賑やかな会話が聞こえてくる。長い一日は、もう少しだけ続きそうだ。
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