祈りの石から出てきた少女 2

ー/ー



ナビが低い声で言った。さっきまでと声のトーンが違った。
「何が?」
「マジムン」
「まじ…む?」
「悪いやつ」ナビが立ち上がって跳躍するや蒼を飛び越え前に降り立った。「石が割れたから、わったー達の世界に入ってきたんだね……」
「入ってきたって、どこから」
「結界が割れたから……ここに」

 蒼には何も見えなかった。何も感じなかった。でも空気が変わったのは分かった。温度が下がっていた。八月の沖縄なのに、確かに冷えていた。

「……っ!下がって」
「え」
「下がって!」

 押されてもいないのに、蒼は一歩後ろに下がった。足が勝手に動いた。
 蒼の前に立ち塞がったナビが右手の人差し指を口に持っていって躊躇なく、嚙んだ。

「ちょっと——」

 蒼が驚く間もないまま僅かに血が指から出るやナビがその血を空中に向かって弾き、赤い粒が宙を飛んだ。粒が消えた瞬間、空気の層が一枚重なったような感触があった。音の届き方が変わった。木の葉がこすれる音が遠のき、蒼と ナビの間だけ別の空間になったような、薄い膜が一枚できたような。

「これは結界」ナビの眉が少し寄った。「でも……ちょっと不安定」
「不安定って——」
「長く封印されてたから。霊力がまだ戻りきってないさ……」

 言い終わる前に何かが来た。音が先だった。木が軋んで折れる音。地面が鈍く抉れる音。何かが真っ直ぐ向かってくる音。蒼には見えなかったがでも来ていた。確かに来ていた。
 その瞬間、ナビの全身が変わった。
 肩が下がり、重心が落ち、石から出てきた時の頼りない少女の姿ではなくなった。両足が地面をしっかり掴んで、揺れない。何かを待ち受けている立ち方だった。
 衝撃が来た。見えない何かが結界に激突し、透明な膜がぐにゃりと歪んだ。衝撃波が蒼の胸まで届いて押し返すような圧があった。それでも結界は破れなかった。

「くっ——」
 ナビが声を漏らした。膝が少し折れた。すぐに立て直したが、一瞬よろけた。
「大丈夫か?」
「ん。大丈夫」

 そう答えるナビの声は大丈夫に見えなかった。口元はまだ笑みの形をしていたが、目が笑っていなかった。正面を向いたまま、瞬きひとつしなかった。
 ナビが懐から何かを取り出した。蒼が持ってきた線香だった。いつのまにかナビの手の中にあったそれは平たい、束になった沖縄の線香——ヒラウコー。三本くっついているその一本だけ引き抜いて地面の石床の摩擦で火をつけた。

「お前火とか付けられるのか?」
「黙って」

 白い煙が立ち上った。ナビがヒラウコーを握ったまま構えた。腕が水平に伸び、煙がその先端で形を変えた。揺らめきながら、引き絞られるように細くなり——刃の輪郭を作った。それは剣というより、光を拒むものだった。白い煙でできた、影のような刃。
 また何かが来た。今度は二方向からだ。
 ナビが煙の刃を薙いだ。一方を弾いた。乾いた音がした——布が裂けるような、でも空気が鳴るような音。確かに何かが弾かれた。でも残りの一方が結界の端を打った。ナビの体が横にぶれて、歯を食いしばったのが横顔から分かった。

「結界が!」
「持つ。でも……」ナビが言った。「霊力が足りない。あと二、三回打たれたら……割れるはず」

 蒼は周囲を見たが何も見えなかった。でも確かに何かがいた。自分でも驚いたが気配が分かり始めていたことに、蒼は不思議な感覚を覚えていた。

「俺に何かできることはあるか」
「ない」
「本当に何もないのか」
「……」ナビが少し黙った。「右後ろ。そっちから来たら教えて」
「見えないのに?」
「感じたら」
「感じ方が分からないし……」
「寒くなったら!」

 それだけ言ってナビは前に向き直った。蒼は右後ろを向いた。木が並んでいた森の奥は暗かった。何も見えなかった。でも——冷たい。左でも前でもなく、右後ろだけが明らかに温度が違っていた。皮膚ではなく、もう少し深いところが感じる冷たさだった。

「ナビ、右後ろ!」

 ナビが振り向いた。一切の迷いがなかった。体が回るより先に刃が動いていた。ヒラウコーの白い煙が弧を描いて——何かに触れた。
 断末魔のような音がした。人の声ではない、でも確かに何かが終わった音。散るような、消えるような音。その後に来た静寂は、さっきまでの静寂とは質が違った。一つ、いなくなった後の静寂だった。
 蒼は息を止めていたことに気づいてゆっくり吐いた。

「……終わったか」
「一体は終わった」ナビが言った。「でも」
「でも?」
「もう一体いる」



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ナビが低い声で言った。さっきまでと声のトーンが違った。
「何が?」
「マジムン」
「まじ…む?」
「悪いやつ」ナビが立ち上がって跳躍するや蒼を飛び越え前に降り立った。「石が割れたから、わったー達の世界に入ってきたんだね……」
「入ってきたって、どこから」
「結界が割れたから……ここに」
 蒼には何も見えなかった。何も感じなかった。でも空気が変わったのは分かった。温度が下がっていた。八月の沖縄なのに、確かに冷えていた。
「……っ!下がって」
「え」
「下がって!」
 押されてもいないのに、蒼は一歩後ろに下がった。足が勝手に動いた。
 蒼の前に立ち塞がったナビが右手の人差し指を口に持っていって躊躇なく、嚙んだ。
「ちょっと——」
 蒼が驚く間もないまま僅かに血が指から出るやナビがその血を空中に向かって弾き、赤い粒が宙を飛んだ。粒が消えた瞬間、空気の層が一枚重なったような感触があった。音の届き方が変わった。木の葉がこすれる音が遠のき、蒼と ナビの間だけ別の空間になったような、薄い膜が一枚できたような。
「これは結界」ナビの眉が少し寄った。「でも……ちょっと不安定」
「不安定って——」
「長く封印されてたから。霊力がまだ戻りきってないさ……」
 言い終わる前に何かが来た。音が先だった。木が軋んで折れる音。地面が鈍く抉れる音。何かが真っ直ぐ向かってくる音。蒼には見えなかったがでも来ていた。確かに来ていた。
 その瞬間、ナビの全身が変わった。
 肩が下がり、重心が落ち、石から出てきた時の頼りない少女の姿ではなくなった。両足が地面をしっかり掴んで、揺れない。何かを待ち受けている立ち方だった。
 衝撃が来た。見えない何かが結界に激突し、透明な膜がぐにゃりと歪んだ。衝撃波が蒼の胸まで届いて押し返すような圧があった。それでも結界は破れなかった。
「くっ——」
 ナビが声を漏らした。膝が少し折れた。すぐに立て直したが、一瞬よろけた。
「大丈夫か?」
「ん。大丈夫」
 そう答えるナビの声は大丈夫に見えなかった。口元はまだ笑みの形をしていたが、目が笑っていなかった。正面を向いたまま、瞬きひとつしなかった。
 ナビが懐から何かを取り出した。蒼が持ってきた線香だった。いつのまにかナビの手の中にあったそれは平たい、束になった沖縄の線香——ヒラウコー。三本くっついているその一本だけ引き抜いて地面の石床の摩擦で火をつけた。
「お前火とか付けられるのか?」
「黙って」
 白い煙が立ち上った。ナビがヒラウコーを握ったまま構えた。腕が水平に伸び、煙がその先端で形を変えた。揺らめきながら、引き絞られるように細くなり——刃の輪郭を作った。それは剣というより、光を拒むものだった。白い煙でできた、影のような刃。
 また何かが来た。今度は二方向からだ。
 ナビが煙の刃を薙いだ。一方を弾いた。乾いた音がした——布が裂けるような、でも空気が鳴るような音。確かに何かが弾かれた。でも残りの一方が結界の端を打った。ナビの体が横にぶれて、歯を食いしばったのが横顔から分かった。
「結界が!」
「持つ。でも……」ナビが言った。「霊力が足りない。あと二、三回打たれたら……割れるはず」
 蒼は周囲を見たが何も見えなかった。でも確かに何かがいた。自分でも驚いたが気配が分かり始めていたことに、蒼は不思議な感覚を覚えていた。
「俺に何かできることはあるか」
「ない」
「本当に何もないのか」
「……」ナビが少し黙った。「右後ろ。そっちから来たら教えて」
「見えないのに?」
「感じたら」
「感じ方が分からないし……」
「寒くなったら!」
 それだけ言ってナビは前に向き直った。蒼は右後ろを向いた。木が並んでいた森の奥は暗かった。何も見えなかった。でも——冷たい。左でも前でもなく、右後ろだけが明らかに温度が違っていた。皮膚ではなく、もう少し深いところが感じる冷たさだった。
「ナビ、右後ろ!」
 ナビが振り向いた。一切の迷いがなかった。体が回るより先に刃が動いていた。ヒラウコーの白い煙が弧を描いて——何かに触れた。
 断末魔のような音がした。人の声ではない、でも確かに何かが終わった音。散るような、消えるような音。その後に来た静寂は、さっきまでの静寂とは質が違った。一つ、いなくなった後の静寂だった。
 蒼は息を止めていたことに気づいてゆっくり吐いた。
「……終わったか」
「一体は終わった」ナビが言った。「でも」
「でも?」
「もう一体いる」