第1話 祈りの石から出てきた少女
ー/ー後から分かったことだが、この少女はその日が来るのを
石の中からずっと待っていたのだ。
あの時、どこで引き返せばよかったのか。もっと手前で、もっと別の判断ができたのではないか。でもたぶん、できなかった。埼玉で生まれ育って二十二年、俺がこういう場所に来ることを、ずっと待っていたような気がしていたから。
仲村蒼(なかむら あおい)が琉球大学の生態学科を選んだのは、嘘ではない理由と本当の理由があったからだ。志望理由書に書けたのは、前者だけだった。嘘ではない方の理由は、沖縄の固有種と亜熱帯生態系を研究したかったということ。書けなかった方の理由は、行かないといけない気がした、ということだった。志望理由書の欄に「行かないといけない気がした」とは書けない。だから書かなかった。でも蒼の中では、そっちの方がずっと本当だった。
沖縄の空気は最初から違った。湿度の質、光の角度、植物の密度が全部違った。那覇に降り立った瞬間から、ここは自分が来る場所だと思った。根拠はなかったが確信した。
アパートは那覇から少し北の静かな住宅地。大家の安里さんが格安で貸してくれていた。「県外の学生を応援してるさね」と笑う人だったが、たぶん単純にお人好しなのだと蒼は思っていた。
大学のフィールドワークは週三回。御嶽を含む聖域の生態系調査が主な内容だった。信仰が守ってきた場所は、往々にして豊かな自然が残っている。蒼はそこに学術的な関心を持っていた——霊的な意味ではなく、純粋に生態学として、と思っていた。少なくとも今朝までは。
その日の朝、蒼はリュックに入れるものを確認した。フィールドノート、カメラ、水、非常食のちんすこう。それと今日は一応、と思って買ってきたワンカップの泡盛。御嶽(うたき)に行くならお供えをした方がいいと安里さんに言われていた。付け焼き刃だったが、気持ちだけでも。
車を路上駐車しやすい所に止め、近くの御嶽が祀られている鳥居の前で立ち止まった。
「……お邪魔します」
誰に言うわけでもなく、蒼は言った。沖縄に来てから自分で決めた習慣だった。御嶽に入る時は一言断る。なぜかは分からないがそうしないといけない気がした。
森の中はその日、不思議なほど静かだった。いつもは鳥の声が聞こえるのに、今日は少なかった。とりあえず植物を観察しながら奥に進んで、フィールドノートに記録をつけた。
霊石が見えたのは、御嶽から少し奥に入ったところだった。
何度もここに来ていたが、この石には近づかなかった。理由はなんとなく、近づいてはいけない気がして。今日も同じように少し距離を置いて観察していたその時、地震が来た。
ほんの数秒だった。ポケットの中で災害通知のアラームが鳴った。しゃがんで頭を抱えながら、蒼は一つのことが引っかかっていた。地震の前、一瞬だけ風が完全に止まったのだ。
揺れが収まり静寂が戻ってきた時、気づけば御嶽の横の霊石は割れていた。
蒼は立ち上がり徐に近づいた。近づいてはいけないと十回以上自分に言い聞かせながらも興味が勝ってしまっていた。
「……うそだろ」
大家の安里さんも「御嶽には気をつけて、ユタでもないのに一人で奥まで行くもんじゃないよ」と言っていたのを今思い出した。
割れた石の断面は白かったが中が空洞になっていたのか、内側から光でも当たっているように妙に明るく見える。
それから恐る恐る石の断面を覗こうとした。
石の隙間から、何かが動いた。最初は虫か風に揺られた木の根かと思った。
だが違った。
木の根かと思ったら——指だった。
「——っ!」
蒼は後ろに飛び退いた。かかとが入り組んだ木の根に引っかかって転びそうになり、なんとか踏みとどまる。
手は細かった。土で汚れていたが、間違いなく人の手だった。続いて肩が出てきて、頭が出てきて……体全体がゆっくりと石の外に這い出てきた。
少女だった。
白い着物に髪は長くて乱れていた。地面に両手をついてしばらく動かなかったが、やがてゆっくり顔を上げ——目が合ってしまった。
真っ黒な目だった。ぼんやりとしているが、何かをはっきりと見ている目。蒼を見て、それから周囲を見回して、また蒼を見た。
口が開いた。
「……喉、渇いた」
かすれた声に蒼の頭が真っ白になった。最初、怪我人か?と思った。何故ここに閉じ込められていたのか?とも思った。警察か救急か……と思った。でも思考がそこで止まった。あの石は中が空洞になっていたとしても、人が入れるような大きさではなくて。
「あ、えっと……水は、今持ってなくて」
やっとの事で思考が回った答えを少女に返す。
「水じゃなくていい」
少女は蒼のリュックに目を向けた。というか、リュックの中を見るような目をした。
「それ」
「え」
「それ、くれない?」
蒼は反射的に半開きになっていたリュックを開けた。中に手を入れて、触れたものを取り出すと——ワンカップの泡盛だった。今日この御嶽に来るにあたって、一応お供えをと思って買ってきたものだった。渡していいのか迷っている間に、少女の手がそれを取って……蓋を開け一気に飲んだ。
「……????ちょっと待っ——」
止める間もなかった。少女はあっという間にワンカップを空にして、笑顔で満足そうに息をついた。
「ぷはぁ!まーさん(おいしい)!ありがとうね!」
「いや、それ泡盛だぞ。アルコールが」
「ん?知ってる」
「知ってて飲んだのか」
「まっさいびーん(ご馳走様)さぁ」
方言が入り混じるがとりあえず会話が成立している。なんで会話が成立しているんだ、と蒼は思った。石から出てきた少女が言葉を喋っている。泡盛を一気に飲んでいたが顔色ひとつ変えていない。思考が追いつかないまま、蒼はリュックの中に手を入れた。非常食として入れていたちんすこう袋を取り出して、なんとなく開けた袋を差し出した。少女は当然のように受け取って食べ始め、しばらく沈黙が続いた。
木の間から風が吹いた。御嶽の空気は、さっきと少し変わった気がした。張り詰めていた何かが、抜けたような。少女はちんすこうを食べながら、割れた石を一度だけ振り返って見た。それから蒼に向き直った。
「ねえ」
「な、なに」
「これ」ちんすこうの袋を少し持ち上げた。「ウサギムン(お供え用)でしょ?」
蒼は一瞬固まった。
「……あーむい(泡盛)も?」
「うん。泡盛もそう、だけど」
「じゃあ、わん(私)のもの」
「いや、お供えって別に所有権が——」
「なら、わんのモノさぁ!」
断言だった。蒼は口を開けたまま、石から出てきた少女と、空のワンカップと、半分なくなったちんすこう袋を交互に見た。
「……名前、聞いてもいいか」
少女は最後のちんすこうを咀嚼しながら答えた。
「ナビ」
「ナビ……か。俺は——」
「知ってる」ナビはあっさり言った。「あんたさっき、わんにウートートー(拝み事)して名乗ってたでしょ?」
その一言で、蒼の背中に鳥肌が立った。
「ずっと、って……」
「石の中から」
沈黙。遠くで鳥が鳴いた。蒼はゆっくりと溜息ついたその時だった。気が付いたらナビの表情が変わっていた。ちんすこうを食べていた顔から全ての表情が抜け、目が細くなった。視線が蒼ではなく、森の奥に向いていた。
「ナビ?」
ナビは答えなかった。さっきまで吹いていた風が嘘のように止まる。木の葉が動かなくなった。鳥の声が消えた。御嶽全体が息を止めたような重い静寂だった。
「……来た」
石の中からずっと待っていたのだ。
あの時、どこで引き返せばよかったのか。もっと手前で、もっと別の判断ができたのではないか。でもたぶん、できなかった。埼玉で生まれ育って二十二年、俺がこういう場所に来ることを、ずっと待っていたような気がしていたから。
仲村蒼(なかむら あおい)が琉球大学の生態学科を選んだのは、嘘ではない理由と本当の理由があったからだ。志望理由書に書けたのは、前者だけだった。嘘ではない方の理由は、沖縄の固有種と亜熱帯生態系を研究したかったということ。書けなかった方の理由は、行かないといけない気がした、ということだった。志望理由書の欄に「行かないといけない気がした」とは書けない。だから書かなかった。でも蒼の中では、そっちの方がずっと本当だった。
沖縄の空気は最初から違った。湿度の質、光の角度、植物の密度が全部違った。那覇に降り立った瞬間から、ここは自分が来る場所だと思った。根拠はなかったが確信した。
アパートは那覇から少し北の静かな住宅地。大家の安里さんが格安で貸してくれていた。「県外の学生を応援してるさね」と笑う人だったが、たぶん単純にお人好しなのだと蒼は思っていた。
大学のフィールドワークは週三回。御嶽を含む聖域の生態系調査が主な内容だった。信仰が守ってきた場所は、往々にして豊かな自然が残っている。蒼はそこに学術的な関心を持っていた——霊的な意味ではなく、純粋に生態学として、と思っていた。少なくとも今朝までは。
その日の朝、蒼はリュックに入れるものを確認した。フィールドノート、カメラ、水、非常食のちんすこう。それと今日は一応、と思って買ってきたワンカップの泡盛。御嶽(うたき)に行くならお供えをした方がいいと安里さんに言われていた。付け焼き刃だったが、気持ちだけでも。
車を路上駐車しやすい所に止め、近くの御嶽が祀られている鳥居の前で立ち止まった。
「……お邪魔します」
誰に言うわけでもなく、蒼は言った。沖縄に来てから自分で決めた習慣だった。御嶽に入る時は一言断る。なぜかは分からないがそうしないといけない気がした。
森の中はその日、不思議なほど静かだった。いつもは鳥の声が聞こえるのに、今日は少なかった。とりあえず植物を観察しながら奥に進んで、フィールドノートに記録をつけた。
霊石が見えたのは、御嶽から少し奥に入ったところだった。
何度もここに来ていたが、この石には近づかなかった。理由はなんとなく、近づいてはいけない気がして。今日も同じように少し距離を置いて観察していたその時、地震が来た。
ほんの数秒だった。ポケットの中で災害通知のアラームが鳴った。しゃがんで頭を抱えながら、蒼は一つのことが引っかかっていた。地震の前、一瞬だけ風が完全に止まったのだ。
揺れが収まり静寂が戻ってきた時、気づけば御嶽の横の霊石は割れていた。
蒼は立ち上がり徐に近づいた。近づいてはいけないと十回以上自分に言い聞かせながらも興味が勝ってしまっていた。
「……うそだろ」
大家の安里さんも「御嶽には気をつけて、ユタでもないのに一人で奥まで行くもんじゃないよ」と言っていたのを今思い出した。
割れた石の断面は白かったが中が空洞になっていたのか、内側から光でも当たっているように妙に明るく見える。
それから恐る恐る石の断面を覗こうとした。
石の隙間から、何かが動いた。最初は虫か風に揺られた木の根かと思った。
だが違った。
木の根かと思ったら——指だった。
「——っ!」
蒼は後ろに飛び退いた。かかとが入り組んだ木の根に引っかかって転びそうになり、なんとか踏みとどまる。
手は細かった。土で汚れていたが、間違いなく人の手だった。続いて肩が出てきて、頭が出てきて……体全体がゆっくりと石の外に這い出てきた。
少女だった。
白い着物に髪は長くて乱れていた。地面に両手をついてしばらく動かなかったが、やがてゆっくり顔を上げ——目が合ってしまった。
真っ黒な目だった。ぼんやりとしているが、何かをはっきりと見ている目。蒼を見て、それから周囲を見回して、また蒼を見た。
口が開いた。
「……喉、渇いた」
かすれた声に蒼の頭が真っ白になった。最初、怪我人か?と思った。何故ここに閉じ込められていたのか?とも思った。警察か救急か……と思った。でも思考がそこで止まった。あの石は中が空洞になっていたとしても、人が入れるような大きさではなくて。
「あ、えっと……水は、今持ってなくて」
やっとの事で思考が回った答えを少女に返す。
「水じゃなくていい」
少女は蒼のリュックに目を向けた。というか、リュックの中を見るような目をした。
「それ」
「え」
「それ、くれない?」
蒼は反射的に半開きになっていたリュックを開けた。中に手を入れて、触れたものを取り出すと——ワンカップの泡盛だった。今日この御嶽に来るにあたって、一応お供えをと思って買ってきたものだった。渡していいのか迷っている間に、少女の手がそれを取って……蓋を開け一気に飲んだ。
「……????ちょっと待っ——」
止める間もなかった。少女はあっという間にワンカップを空にして、笑顔で満足そうに息をついた。
「ぷはぁ!まーさん(おいしい)!ありがとうね!」
「いや、それ泡盛だぞ。アルコールが」
「ん?知ってる」
「知ってて飲んだのか」
「まっさいびーん(ご馳走様)さぁ」
方言が入り混じるがとりあえず会話が成立している。なんで会話が成立しているんだ、と蒼は思った。石から出てきた少女が言葉を喋っている。泡盛を一気に飲んでいたが顔色ひとつ変えていない。思考が追いつかないまま、蒼はリュックの中に手を入れた。非常食として入れていたちんすこう袋を取り出して、なんとなく開けた袋を差し出した。少女は当然のように受け取って食べ始め、しばらく沈黙が続いた。
木の間から風が吹いた。御嶽の空気は、さっきと少し変わった気がした。張り詰めていた何かが、抜けたような。少女はちんすこうを食べながら、割れた石を一度だけ振り返って見た。それから蒼に向き直った。
「ねえ」
「な、なに」
「これ」ちんすこうの袋を少し持ち上げた。「ウサギムン(お供え用)でしょ?」
蒼は一瞬固まった。
「……あーむい(泡盛)も?」
「うん。泡盛もそう、だけど」
「じゃあ、わん(私)のもの」
「いや、お供えって別に所有権が——」
「なら、わんのモノさぁ!」
断言だった。蒼は口を開けたまま、石から出てきた少女と、空のワンカップと、半分なくなったちんすこう袋を交互に見た。
「……名前、聞いてもいいか」
少女は最後のちんすこうを咀嚼しながら答えた。
「ナビ」
「ナビ……か。俺は——」
「知ってる」ナビはあっさり言った。「あんたさっき、わんにウートートー(拝み事)して名乗ってたでしょ?」
その一言で、蒼の背中に鳥肌が立った。
「ずっと、って……」
「石の中から」
沈黙。遠くで鳥が鳴いた。蒼はゆっくりと溜息ついたその時だった。気が付いたらナビの表情が変わっていた。ちんすこうを食べていた顔から全ての表情が抜け、目が細くなった。視線が蒼ではなく、森の奥に向いていた。
「ナビ?」
ナビは答えなかった。さっきまで吹いていた風が嘘のように止まる。木の葉が動かなくなった。鳥の声が消えた。御嶽全体が息を止めたような重い静寂だった。
「……来た」
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