九話(下) “ミゾレ”とキョウ
ー/ー「双目キョウです。名字は"ザラメ"と読みます。よろしくお願いします」
放課後の家庭科室。チョークで書いた文字を背に自己紹介をする。公立高校に進学した僕は、家庭科部に入部した。男子部員は僕だけで肩身が狭かったけど、お菓子作りの経験もあって、みんなに馴染むことが出来た。
「キョウくん、文化祭のお菓子、何にするか決めた?」
その部員の一人が、ミゾレだった。ザラメという呼び名が定着する中で、彼女だけはずっと僕のことを下の名前で呼んでくれた。
「うーん、どうしようかな…せっかくの文化祭だから、凝った感じにしたいかも。マカロンとか、フロランタンとか」
「マカロン作れるの⁉︎すご!」
「コツさえ掴めばできるよ。じゃあ、今度みんなで作ってみる?」
「いいね!やろやろ!」
お菓子を通じて会話もどんどん弾む。家庭科部で過ごす時間は、本当に楽しかった。お菓子だけじゃない。料理をしたり、裁縫をしたり、生活に必要な知識を学んだり。クラスでは友達はできなかったけど、部活のみんながいたから、寂しくはなかった。
――
あっという間に時は流れ、三年生の冬休みを控えたある日。ミゾレの提案で、卒業前の思い出づくりに家庭科室でパーティーをすることになった。開催前夜、長らく動いていなかった家庭科部のグループチャットは、通知が鳴り止まなくなっていた。
『パーティー明日だけど、みんな準備できてる?』
『もちろん!私ジュースと紙コップ持ってくね』
『私は授業早く終わると思うから、鍵借りて先に入っとくよ』
『あれ、集合って何時だっけ?』
『そういえば決めてない笑』
『六限終わり直行でいいよね』
『ザラメくんは何作ったの?』
『内緒だよ』
『えー!楽しみすぎる!』
『ザラメくんのお菓子とか何でも美味しいの確定じゃん』
『ね!ほんと神!』
「ふふ、神ってそんな大袈裟な」
粗熱をとったカップケーキをラッピングしながら、画面を飛び交う言葉に笑みが溢れる。みんなで過ごす時間は、きっとこれが最後。何を用意するか迷いに迷って、作り慣れたカップケーキをカラフルにアレンジすることにした。基本の生地を作ったら、ココアや抹茶のパウダーを混ぜたり、ジャムを忍ばせたり……。僕以外の部員はみんな受験を選んでいたから、各々の花を咲かせられるようにという願いも込めて、仕上げにアイシングをかけて色とりどりのエディブルフラワーを添えてみた。少し張り切りすぎた気もするけど、我ながらいいアイデアだと思う。
「……よし!できた」
完成したものをいくつか避けて、残りを紙袋にまとめる。避けた分は、明日の朝に味見する用。それから、母さんに食べてもらう用だ。
「まあ、きっと食べてくれないけど」
愚痴みたいに独り言が溢れる。出願したあの日から、母さんとはあまり話せていない。鉢合わせた時に最低限の会話をするくらいで、あとはそれぞれの部屋にこもっている。僕が家庭科部に入り浸っていたこともあって、ほぼ顔を合わせない日だって珍しくなかった。
そして、母さんは僕のお菓子を食べてくれなくなった。「よかったら食べてね」とメモを添えてテーブルに置いてみたり、ラップして冷蔵庫の手前側に並べてみたりしたけれど、一口も食べてもらえないまま。結局僕が学校に持っていって、おやつに食べていた。でも、構わなかった。だって僕には家庭科部のみんながいる。放課後の家庭科室は、僕の聖堂であり、唯一の居場所だったんだ。
――
朝の教室。いつも通り、ひっそりと自分の席に座り、机の端に幸せが詰まった紙袋を置く。カラフルなケーキから、微かな甘い香りが漂う。
「ういーっす、おはよ〜」
程なくして、クラスの男子が入ってくる。同じクラスにならなければおそらく交わることがなかったであろう、僕とは違うタイプの人。でも、席替えで運悪く隣の席になってしまった。クラスの中心人物である彼の周りには、自然と人が集まる。僕はカバンを机の横にかけて身を縮め、空気になって、嵐が過ぎ去るのを待った。
「なあ、これ見た?」
「なになに?」
「これ俺も見た!マジ面白いよな〜」
彼らは一台のスマホを囲み、話題になった動画に釘付けになっている。どのような内容かはわからないが、たびたび大爆笑が起こっているので、お笑いかバラエティか何かを見ているのだろう。
「ぎゃはは、マジかよ!」
そのうちの一人。すぐ真横で僕に背を向けていた男子生徒が、手を叩いて仰け反るようにして笑った。そのまま後ずさった彼の大きな背中が僕の机にぶつかる。その衝撃で、端に置かれていた紙袋が足を踏み外した。
「あっ……!」
声が出るよりも早く、吸い込まれるように床に落下する紙袋。だが、悲劇は終わらない。
「うおっ⁉︎」
そのすぐ隣。椅子の前足を浮かせて危ういバランスで座っていたもう一人の生徒が、衝撃音とともに真後ろへひっくり返った。
――ガシャンッ!
「おいおい!お前大丈夫かよ!」
「ダッサ〜!」
「痛って……ん?何だこれ」
大はしゃぎする彼らの横で、僕は血の気が引いていくのを感じた。椅子の背もたれごと倒れた彼の全体重は、あろうことか床に落ちた紙袋に預けられてしまったのだ。
「ん……?何だこれ」
「え、それ、ザラメくんのじゃね?」
起き上がり、しわくちゃになった紙袋を拾い上げる男子生徒。初めは気が付かなかった彼らも、無惨な姿になったその中身と絶望するような僕の表情を見て、何が起こったかを察し始める。
「あーその、わざとじゃないんだ……悪い」
そう言って、汚れをさっさっと手で軽く払われた紙袋が、机の上にぽんと置かれる。彼らは気まずそうに顔を見合わせながらも、どこか「大したことではない」と言いたげな雰囲気だった。視界が急に狭くなって、次第に呼吸が浅くなる。たかがお菓子。でも今の僕にとっては、命よりも大事なお菓子。
「……っ」
ひしゃげた紙袋とカバンを抱えて、椅子を蹴るように立ち上がる。この場から消えたくなって、そのまま教室を飛び出した。
「あ、おい!どこ行くんだよ!」
背後からの声も、クラスメイトの視線も気にしない。三年間真面目に守っていた「廊下を走るな」の張り紙も無視して、僕はあてもなく走った。予鈴が鳴った。教室に戻らないと、遅刻扱いになる。でも、どうでもよかった。ただ、どこか遠くへ行きたかった。
使われていない空き教室に入り、鍵をかける。足に力が入らなくなって、そのまま座り込んだ。恐る恐る紙袋の中を確かめる。そこにはもう、丁寧なラッピングやかわいいデコレーションの面影はない。理不尽に潰されてしまった幸せのかけらが、まるでゴミのように散乱していた。こんなことになってしまっては、もうパーティーには持っていけない。お菓子が用意できない僕に、今の僕に何の価値がある?もうみんなに合わせられる顔もない。メッセージアプリを開き、震える指で文字を打った。
『ごめん、急用ができて、今日行けなくなった。ほんとごめん』
メッセージを送信し、そのままスマホの通知を切ってうずくまった。何も見えないし、聞こえない。でも、カップケーキの優しい甘い香りだけは僕の鼻をくすぐってきて、やるせなさとともに涙が溢れそうになる。
泣くな。絶対泣くな。仕方がなかっただろ。彼らも意図的にやったわけじゃなかった。それに、彼らだけが悪いんじゃない。僕にも非はあるはずだ。カバンじゃなくて、紙袋を先にフックにかければよかった。そもそも、教室まで持ってこないで、ロッカーに入れておけばよかった。必死に言い聞かせるが、視界はどんどん潤んでいく。
「…………なんで」
あの男子生徒の顔が浮かんで、ふつふつと怒りが込み上げてくる。どうして。どうして、こんな目に遭わなきゃいけないんだ。自分の力で切り拓いて、やっと見つけた居場所だったのに。今度は僕のことを何にも知らないやつらに、一瞬で台無しにされて。でも何よりも許せなかったのは、何もできずに逃げ出した自分自身だった。どうしようもないことはわかっている。彼を責め立てたところで、このカップケーキが綺麗な姿に戻ることなんてない。でも、あの時あいつらにあんな態度を取られて、踏みにじられてしまった自分の中のちっぽけなプライドに気づいた。感情がせめぎ合って、泡立て器で力任せに混ぜられているみたいにぐちゃぐちゃになる。
「……もう、嫌だ」
本鈴が鳴った。これで一限目の授業は遅刻確定だ。でも、動けない。チャイムの残響の中、僕はただ声を殺して泣くことしかできなかった。
――
それから、僕とミゾレたちが会うことはなくなった。あの日のことを思い出したくなかったから、クラスや家庭科部のグループを退会して、みんなの連絡先も削除した。卒業式も式にだけ参加して、すぐに家に帰った。高校を卒業してからは、田舎の中小企業に就職した。できる限り地元から離れたくて、仕事をきっかけに引っ越して今の住居を借りることにした。一人で暮らすには勿体無いくらいの家だ。気持ちを入れ替えて頑張ろう、と自分を奮い立てた。
仕事自体は苦ではなかった。残業も少ないし、業務もすぐに慣れた。だけど、僕以外の職員はその地域出身の人ばかりで、正直うまく馴染めなかった。未成年なのに飲み会に連れて行かれて、上司の武勇伝に付き合わされたり、勤務中に繰り広げられる内輪ノリについていけなかったり、休みの日にも地域のイベントの手伝いに駆り出されたり。公私の境目が曖昧になって、お菓子を作る余裕もなくなって……。少しずつ心が擦り減って、結局半年で辞めてしまった。やりがいも思い出もスキルも、何もない。残ったものは、半年分の給料と、家賃補助を失った家だけだった。
そうして少し休んだ後、生活費のために、自宅から一番近く(といっても、自転車で二十分ほどの場所だが)にオープンしたドラッグストアで働くようになった。アルバイトで給料は少なかったけど、社割で日用品が買えるし、職場環境も自分に合っていた。そうして少しずつ、壊れてしまった日々を取り戻していった。
探し物をしていたある日、押し入れの段ボール箱の中から、一冊の絵本が出てきた。小さい頃夢中になっていた、クマとオオカミ、そしてお菓子が描かれた表紙。引っ越しの時に持ってくるか迷って、結局箱に詰めたのを忘れていた。
「懐かしいな…」
ページをめくる度、幼い頃の思い出が、ぽつぽつと頭に蘇ってくる。決していい思い出だけではない。怖いはずなのに、読み進める手を止めることはできなかった。あっという間に、最後のページが訪れる。森の動物たちと友達になったオオカミさんの笑顔。そしてそのそばで優しい笑みを浮かべ、みんなを見守るクマさん。その姿に、忘れかけていた夢が弾けて、きらきらと輝き出す。
「……やっぱり、好きだ。お菓子」
不意に口をついた言葉。止まっていた時計の針が、再び動き出す音がした。
それから僕は、必死に勉強して、資格も取って、たくさん試作を重ねて、『今日のお菓子屋さん』を開いた。
誰かが今日のひとときに食べるお菓子に選んでもらえるように。というのが、表向きの理由。本当は「今日の」という言葉を入れることで、母さんや父さんが僕のことを連想して、見つけてくれるんじゃないかなんて淡い期待があった。しっかり自立して、「誰かの背中を押すお菓子を作る」という自分の目標を達成した姿を見せて、認められたかった。
……でも、現実はそう甘くなかった。予想はしていたけど、ここまで注文が来ないとは思っていなかった。ひょんなことから口コミが広がったり、一躍ネットニュースで有名になったり、予約で数ヶ月先まで注文が入ってしまうかも、なんて考えは打ち砕かれて、自分は無力なんだと思い知らされた。
非正規で働き、必死にお金を稼ぐ日々。あまりシフトには入れていなかったけど、掛け持ちでカフェのアルバイトも始めた。毎朝ほとんど更新されない注文ページを眺めて、憂鬱な気持ちになる。カレンダーにバツ印を書き込む度に、自身まで否定されているような気持ちになる。誰にも見向きもされないのに、お菓子を作っては、一人だけで消費する日々。数え切れないくらい失敗して、材料を無駄にしてしまったこともあった。せっかく上手くできたのに、眺めているうちに突然の吐き気に襲われて、売らずにそのまま捨ててしまうこともあった。いつしか、成功しても美味しいと思えなくなった。そうして、次第にお菓子作りも楽しいと思えなくなって。
僕には、絵本のクマさんのようになるなんて、無理だったのかもしれない。あのとき母さんの言う通りにしてたらって、今でも考えることがある。もしあのまま母さんの願いを受け入れて、製菓学校に行っていたら。技術を身につけて、同じ夢を持つ仲間と出会って、色々な可能性があったかもしれない。みんなが幸せになれたかもしれない。あの時の自分の判断は、間違っていたのかもしれないって。
僕は一体、何がしたいんだろう。どうしてこんなに頑張っているんだろう。僕のいる意味は……何なんだろう。
放課後の家庭科室。チョークで書いた文字を背に自己紹介をする。公立高校に進学した僕は、家庭科部に入部した。男子部員は僕だけで肩身が狭かったけど、お菓子作りの経験もあって、みんなに馴染むことが出来た。
「キョウくん、文化祭のお菓子、何にするか決めた?」
その部員の一人が、ミゾレだった。ザラメという呼び名が定着する中で、彼女だけはずっと僕のことを下の名前で呼んでくれた。
「うーん、どうしようかな…せっかくの文化祭だから、凝った感じにしたいかも。マカロンとか、フロランタンとか」
「マカロン作れるの⁉︎すご!」
「コツさえ掴めばできるよ。じゃあ、今度みんなで作ってみる?」
「いいね!やろやろ!」
お菓子を通じて会話もどんどん弾む。家庭科部で過ごす時間は、本当に楽しかった。お菓子だけじゃない。料理をしたり、裁縫をしたり、生活に必要な知識を学んだり。クラスでは友達はできなかったけど、部活のみんながいたから、寂しくはなかった。
――
あっという間に時は流れ、三年生の冬休みを控えたある日。ミゾレの提案で、卒業前の思い出づくりに家庭科室でパーティーをすることになった。開催前夜、長らく動いていなかった家庭科部のグループチャットは、通知が鳴り止まなくなっていた。
『パーティー明日だけど、みんな準備できてる?』
『もちろん!私ジュースと紙コップ持ってくね』
『私は授業早く終わると思うから、鍵借りて先に入っとくよ』
『あれ、集合って何時だっけ?』
『そういえば決めてない笑』
『六限終わり直行でいいよね』
『ザラメくんは何作ったの?』
『内緒だよ』
『えー!楽しみすぎる!』
『ザラメくんのお菓子とか何でも美味しいの確定じゃん』
『ね!ほんと神!』
「ふふ、神ってそんな大袈裟な」
粗熱をとったカップケーキをラッピングしながら、画面を飛び交う言葉に笑みが溢れる。みんなで過ごす時間は、きっとこれが最後。何を用意するか迷いに迷って、作り慣れたカップケーキをカラフルにアレンジすることにした。基本の生地を作ったら、ココアや抹茶のパウダーを混ぜたり、ジャムを忍ばせたり……。僕以外の部員はみんな受験を選んでいたから、各々の花を咲かせられるようにという願いも込めて、仕上げにアイシングをかけて色とりどりのエディブルフラワーを添えてみた。少し張り切りすぎた気もするけど、我ながらいいアイデアだと思う。
「……よし!できた」
完成したものをいくつか避けて、残りを紙袋にまとめる。避けた分は、明日の朝に味見する用。それから、母さんに食べてもらう用だ。
「まあ、きっと食べてくれないけど」
愚痴みたいに独り言が溢れる。出願したあの日から、母さんとはあまり話せていない。鉢合わせた時に最低限の会話をするくらいで、あとはそれぞれの部屋にこもっている。僕が家庭科部に入り浸っていたこともあって、ほぼ顔を合わせない日だって珍しくなかった。
そして、母さんは僕のお菓子を食べてくれなくなった。「よかったら食べてね」とメモを添えてテーブルに置いてみたり、ラップして冷蔵庫の手前側に並べてみたりしたけれど、一口も食べてもらえないまま。結局僕が学校に持っていって、おやつに食べていた。でも、構わなかった。だって僕には家庭科部のみんながいる。放課後の家庭科室は、僕の聖堂であり、唯一の居場所だったんだ。
――
朝の教室。いつも通り、ひっそりと自分の席に座り、机の端に幸せが詰まった紙袋を置く。カラフルなケーキから、微かな甘い香りが漂う。
「ういーっす、おはよ〜」
程なくして、クラスの男子が入ってくる。同じクラスにならなければおそらく交わることがなかったであろう、僕とは違うタイプの人。でも、席替えで運悪く隣の席になってしまった。クラスの中心人物である彼の周りには、自然と人が集まる。僕はカバンを机の横にかけて身を縮め、空気になって、嵐が過ぎ去るのを待った。
「なあ、これ見た?」
「なになに?」
「これ俺も見た!マジ面白いよな〜」
彼らは一台のスマホを囲み、話題になった動画に釘付けになっている。どのような内容かはわからないが、たびたび大爆笑が起こっているので、お笑いかバラエティか何かを見ているのだろう。
「ぎゃはは、マジかよ!」
そのうちの一人。すぐ真横で僕に背を向けていた男子生徒が、手を叩いて仰け反るようにして笑った。そのまま後ずさった彼の大きな背中が僕の机にぶつかる。その衝撃で、端に置かれていた紙袋が足を踏み外した。
「あっ……!」
声が出るよりも早く、吸い込まれるように床に落下する紙袋。だが、悲劇は終わらない。
「うおっ⁉︎」
そのすぐ隣。椅子の前足を浮かせて危ういバランスで座っていたもう一人の生徒が、衝撃音とともに真後ろへひっくり返った。
――ガシャンッ!
「おいおい!お前大丈夫かよ!」
「ダッサ〜!」
「痛って……ん?何だこれ」
大はしゃぎする彼らの横で、僕は血の気が引いていくのを感じた。椅子の背もたれごと倒れた彼の全体重は、あろうことか床に落ちた紙袋に預けられてしまったのだ。
「ん……?何だこれ」
「え、それ、ザラメくんのじゃね?」
起き上がり、しわくちゃになった紙袋を拾い上げる男子生徒。初めは気が付かなかった彼らも、無惨な姿になったその中身と絶望するような僕の表情を見て、何が起こったかを察し始める。
「あーその、わざとじゃないんだ……悪い」
そう言って、汚れをさっさっと手で軽く払われた紙袋が、机の上にぽんと置かれる。彼らは気まずそうに顔を見合わせながらも、どこか「大したことではない」と言いたげな雰囲気だった。視界が急に狭くなって、次第に呼吸が浅くなる。たかがお菓子。でも今の僕にとっては、命よりも大事なお菓子。
「……っ」
ひしゃげた紙袋とカバンを抱えて、椅子を蹴るように立ち上がる。この場から消えたくなって、そのまま教室を飛び出した。
「あ、おい!どこ行くんだよ!」
背後からの声も、クラスメイトの視線も気にしない。三年間真面目に守っていた「廊下を走るな」の張り紙も無視して、僕はあてもなく走った。予鈴が鳴った。教室に戻らないと、遅刻扱いになる。でも、どうでもよかった。ただ、どこか遠くへ行きたかった。
使われていない空き教室に入り、鍵をかける。足に力が入らなくなって、そのまま座り込んだ。恐る恐る紙袋の中を確かめる。そこにはもう、丁寧なラッピングやかわいいデコレーションの面影はない。理不尽に潰されてしまった幸せのかけらが、まるでゴミのように散乱していた。こんなことになってしまっては、もうパーティーには持っていけない。お菓子が用意できない僕に、今の僕に何の価値がある?もうみんなに合わせられる顔もない。メッセージアプリを開き、震える指で文字を打った。
『ごめん、急用ができて、今日行けなくなった。ほんとごめん』
メッセージを送信し、そのままスマホの通知を切ってうずくまった。何も見えないし、聞こえない。でも、カップケーキの優しい甘い香りだけは僕の鼻をくすぐってきて、やるせなさとともに涙が溢れそうになる。
泣くな。絶対泣くな。仕方がなかっただろ。彼らも意図的にやったわけじゃなかった。それに、彼らだけが悪いんじゃない。僕にも非はあるはずだ。カバンじゃなくて、紙袋を先にフックにかければよかった。そもそも、教室まで持ってこないで、ロッカーに入れておけばよかった。必死に言い聞かせるが、視界はどんどん潤んでいく。
「…………なんで」
あの男子生徒の顔が浮かんで、ふつふつと怒りが込み上げてくる。どうして。どうして、こんな目に遭わなきゃいけないんだ。自分の力で切り拓いて、やっと見つけた居場所だったのに。今度は僕のことを何にも知らないやつらに、一瞬で台無しにされて。でも何よりも許せなかったのは、何もできずに逃げ出した自分自身だった。どうしようもないことはわかっている。彼を責め立てたところで、このカップケーキが綺麗な姿に戻ることなんてない。でも、あの時あいつらにあんな態度を取られて、踏みにじられてしまった自分の中のちっぽけなプライドに気づいた。感情がせめぎ合って、泡立て器で力任せに混ぜられているみたいにぐちゃぐちゃになる。
「……もう、嫌だ」
本鈴が鳴った。これで一限目の授業は遅刻確定だ。でも、動けない。チャイムの残響の中、僕はただ声を殺して泣くことしかできなかった。
――
それから、僕とミゾレたちが会うことはなくなった。あの日のことを思い出したくなかったから、クラスや家庭科部のグループを退会して、みんなの連絡先も削除した。卒業式も式にだけ参加して、すぐに家に帰った。高校を卒業してからは、田舎の中小企業に就職した。できる限り地元から離れたくて、仕事をきっかけに引っ越して今の住居を借りることにした。一人で暮らすには勿体無いくらいの家だ。気持ちを入れ替えて頑張ろう、と自分を奮い立てた。
仕事自体は苦ではなかった。残業も少ないし、業務もすぐに慣れた。だけど、僕以外の職員はその地域出身の人ばかりで、正直うまく馴染めなかった。未成年なのに飲み会に連れて行かれて、上司の武勇伝に付き合わされたり、勤務中に繰り広げられる内輪ノリについていけなかったり、休みの日にも地域のイベントの手伝いに駆り出されたり。公私の境目が曖昧になって、お菓子を作る余裕もなくなって……。少しずつ心が擦り減って、結局半年で辞めてしまった。やりがいも思い出もスキルも、何もない。残ったものは、半年分の給料と、家賃補助を失った家だけだった。
そうして少し休んだ後、生活費のために、自宅から一番近く(といっても、自転車で二十分ほどの場所だが)にオープンしたドラッグストアで働くようになった。アルバイトで給料は少なかったけど、社割で日用品が買えるし、職場環境も自分に合っていた。そうして少しずつ、壊れてしまった日々を取り戻していった。
探し物をしていたある日、押し入れの段ボール箱の中から、一冊の絵本が出てきた。小さい頃夢中になっていた、クマとオオカミ、そしてお菓子が描かれた表紙。引っ越しの時に持ってくるか迷って、結局箱に詰めたのを忘れていた。
「懐かしいな…」
ページをめくる度、幼い頃の思い出が、ぽつぽつと頭に蘇ってくる。決していい思い出だけではない。怖いはずなのに、読み進める手を止めることはできなかった。あっという間に、最後のページが訪れる。森の動物たちと友達になったオオカミさんの笑顔。そしてそのそばで優しい笑みを浮かべ、みんなを見守るクマさん。その姿に、忘れかけていた夢が弾けて、きらきらと輝き出す。
「……やっぱり、好きだ。お菓子」
不意に口をついた言葉。止まっていた時計の針が、再び動き出す音がした。
それから僕は、必死に勉強して、資格も取って、たくさん試作を重ねて、『今日のお菓子屋さん』を開いた。
誰かが今日のひとときに食べるお菓子に選んでもらえるように。というのが、表向きの理由。本当は「今日の」という言葉を入れることで、母さんや父さんが僕のことを連想して、見つけてくれるんじゃないかなんて淡い期待があった。しっかり自立して、「誰かの背中を押すお菓子を作る」という自分の目標を達成した姿を見せて、認められたかった。
……でも、現実はそう甘くなかった。予想はしていたけど、ここまで注文が来ないとは思っていなかった。ひょんなことから口コミが広がったり、一躍ネットニュースで有名になったり、予約で数ヶ月先まで注文が入ってしまうかも、なんて考えは打ち砕かれて、自分は無力なんだと思い知らされた。
非正規で働き、必死にお金を稼ぐ日々。あまりシフトには入れていなかったけど、掛け持ちでカフェのアルバイトも始めた。毎朝ほとんど更新されない注文ページを眺めて、憂鬱な気持ちになる。カレンダーにバツ印を書き込む度に、自身まで否定されているような気持ちになる。誰にも見向きもされないのに、お菓子を作っては、一人だけで消費する日々。数え切れないくらい失敗して、材料を無駄にしてしまったこともあった。せっかく上手くできたのに、眺めているうちに突然の吐き気に襲われて、売らずにそのまま捨ててしまうこともあった。いつしか、成功しても美味しいと思えなくなった。そうして、次第にお菓子作りも楽しいと思えなくなって。
僕には、絵本のクマさんのようになるなんて、無理だったのかもしれない。あのとき母さんの言う通りにしてたらって、今でも考えることがある。もしあのまま母さんの願いを受け入れて、製菓学校に行っていたら。技術を身につけて、同じ夢を持つ仲間と出会って、色々な可能性があったかもしれない。みんなが幸せになれたかもしれない。あの時の自分の判断は、間違っていたのかもしれないって。
僕は一体、何がしたいんだろう。どうしてこんなに頑張っているんだろう。僕のいる意味は……何なんだろう。
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