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第二十七節 夜の味が変わるとき

ー/ー



 火は小さかった。
それでも、夜を分けるには十分だった。
乾いた枝が、ぱちりと弾ける。小さな音が、やけに遠くまで届いた気がした。
荒野の夜は広い。昼間に見た広がりとは違う。もっと深くて、底のない広さ。光を持たない分だけ、闇はどこまでも均一で、境界を曖昧にしていく。

それなのに────

 息を吸っても、喉の奥に引っかかるものがない。
ふと、そんなことに気づいた。
以前に知っている夜は、もっと重かった。
空気は舌に残って、呼吸をするたびに、わずかな苦味が胸の奥へと沈んでいくような────

 舌の上で、半ば溶けた錠剤の味。
飲み込んだはずなのに、消えきらないまま、夜の間ずっと残っていた気がする。
……あの苦さ。

そんな感覚があったはずなのに。

 今は違う。
冷たいだけで、澄んでいる。
ただそれだけの、何も混ざってない夜。
小さく吐いた息は白くほどけ、そのまま何にも触れず消えていく。

苦く、ない。

その事実が、思っていたよりも静かに、けれど確かに胸の内に落ちた。
こんな夜を、自分は知っていただろうか────少しだけわからなくなる。

 火の周りには、自然と人が集まっていた。
輪のように並ぶでもなく、誰かが主導して配置したわけでもない。ただ、自然とそこに集まって、自然と距離を保ったまま、それぞれが腰を落としていた。
火の向こうにいるはずの誰かの顔は、はっきりとは見えない。揺れる光が輪郭を作っては壊し、作っては壊す。

 近いようで遠い。
 その曖昧さが、今の自分たちにはちょうどよかった。

 ルナシアは膝を抱え、炎の揺れを目で追っていた。橙の光が瞳に映りこみ、金色の奥で静かに揺れる。

 風がひとつ、夜を撫でる。
火はわずかに傾き、影の位置が変わった。
その一瞬だけ、隣にいるドルスの横顔がはっきりと浮かび上がる。
昼間とは違う、何もしていない顔。
何もしていないのに、そこにいるとわかる顔。

 言葉はまだない。
それでも沈黙は重くはなかった。
火があるからか、それとも────
さっきまで一緒に走って笑っていたからか。

 誰かが薪をくべたのだろう、炎がひときわ大きく揺れた。
火は小さな音を立てて息を継ぎ、また静かに燃え始めた。
 その揺らぎの中で、ルナシアの視線がふと逸れる。

火から少し離れた場所。
光の届き切らない、夜の縁。
眠ったままの観測者。
背に預けられるものもなく、ただ座している。瞳は開かれたまま、どこも見ていない。深い海だけが夜から切り離されて、波ひとつ立たない。

静止している、というより────切り離されているような在り方。

 ルナシアは少しだけ迷ってから、立ち上がった。足音を殺すでもなく、かといって踏みしめるでもなく、ただ自然な歩幅で近づいていく。

「オルド、君がいないと、少し寂しいよ。ほんの少し、だけどね」

 返事はない。
わかっていたことだ。それでも言葉にせずにはいられなかった。
一歩、距離を詰める。
火が届かないその場所は、少しだけ温度が低い。けれど、不思議と嫌な冷たさではなかった。先ほど感じた夜と同じ、ただ澄んでいる。

 ルナシアは、そっと指を伸ばす。
触れていいのかどうか、わからない。
指先が、オルドの肩に触れた────その瞬間。

「──────起動」

 微かな声が夜に落ちた。
深い海に、幾何学模様が灯る。
静止していたはずのものが、内側からゆっくりと動き始める。

「観測を再開」

 僅かに遅れて、焦点が結ばれる。
その視線が、まっすぐルナシアを捉えた。
いつもと変わらない、淡々とした声音。

「……おはよう」

 ルナシアの口から零れた言葉に、ほんのわずか、間があった。
本来必要のない沈黙。
幾何学模様が、一瞬だけ不規則に揺れる。

わずかな遅延。
それから────

「おはよう、ルナシア」

 火が、小さく音を立てる。
夜は変わらず静かで、広くて、冷たい。
それでも────

もう苦くはなかった。

 オルドの瞳に灯った幾何学模様が、炎の揺らぎを受けて微かに瞬く。
その光を見つめながら、ルナシアは小さく息を吐いた。
白い息は、夜に溶けて消えていく。

 それを────今度は、ちゃんと見送ることができた。


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 火は小さかった。
それでも、夜を分けるには十分だった。
乾いた枝が、ぱちりと弾ける。小さな音が、やけに遠くまで届いた気がした。
荒野の夜は広い。昼間に見た広がりとは違う。もっと深くて、底のない広さ。光を持たない分だけ、闇はどこまでも均一で、境界を曖昧にしていく。
それなのに────
 息を吸っても、喉の奥に引っかかるものがない。
ふと、そんなことに気づいた。
以前に知っている夜は、もっと重かった。
空気は舌に残って、呼吸をするたびに、わずかな苦味が胸の奥へと沈んでいくような────
 舌の上で、半ば溶けた錠剤の味。
飲み込んだはずなのに、消えきらないまま、夜の間ずっと残っていた気がする。
……あの苦さ。
そんな感覚があったはずなのに。
 今は違う。
冷たいだけで、澄んでいる。
ただそれだけの、何も混ざってない夜。
小さく吐いた息は白くほどけ、そのまま何にも触れず消えていく。
苦く、ない。
その事実が、思っていたよりも静かに、けれど確かに胸の内に落ちた。
こんな夜を、自分は知っていただろうか────少しだけわからなくなる。
 火の周りには、自然と人が集まっていた。
輪のように並ぶでもなく、誰かが主導して配置したわけでもない。ただ、自然とそこに集まって、自然と距離を保ったまま、それぞれが腰を落としていた。
火の向こうにいるはずの誰かの顔は、はっきりとは見えない。揺れる光が輪郭を作っては壊し、作っては壊す。
 近いようで遠い。
 その曖昧さが、今の自分たちにはちょうどよかった。
 ルナシアは膝を抱え、炎の揺れを目で追っていた。橙の光が瞳に映りこみ、金色の奥で静かに揺れる。
 風がひとつ、夜を撫でる。
火はわずかに傾き、影の位置が変わった。
その一瞬だけ、隣にいるドルスの横顔がはっきりと浮かび上がる。
昼間とは違う、何もしていない顔。
何もしていないのに、そこにいるとわかる顔。
 言葉はまだない。
それでも沈黙は重くはなかった。
火があるからか、それとも────
さっきまで一緒に走って笑っていたからか。
 誰かが薪をくべたのだろう、炎がひときわ大きく揺れた。
火は小さな音を立てて息を継ぎ、また静かに燃え始めた。
 その揺らぎの中で、ルナシアの視線がふと逸れる。
火から少し離れた場所。
光の届き切らない、夜の縁。
眠ったままの観測者。
背に預けられるものもなく、ただ座している。瞳は開かれたまま、どこも見ていない。深い海だけが夜から切り離されて、波ひとつ立たない。
静止している、というより────切り離されているような在り方。
 ルナシアは少しだけ迷ってから、立ち上がった。足音を殺すでもなく、かといって踏みしめるでもなく、ただ自然な歩幅で近づいていく。
「オルド、君がいないと、少し寂しいよ。ほんの少し、だけどね」
 返事はない。
わかっていたことだ。それでも言葉にせずにはいられなかった。
一歩、距離を詰める。
火が届かないその場所は、少しだけ温度が低い。けれど、不思議と嫌な冷たさではなかった。先ほど感じた夜と同じ、ただ澄んでいる。
 ルナシアは、そっと指を伸ばす。
触れていいのかどうか、わからない。
指先が、オルドの肩に触れた────その瞬間。
「──────起動」
 微かな声が夜に落ちた。
深い海に、幾何学模様が灯る。
静止していたはずのものが、内側からゆっくりと動き始める。
「観測を再開」
 僅かに遅れて、焦点が結ばれる。
その視線が、まっすぐルナシアを捉えた。
いつもと変わらない、淡々とした声音。
「……おはよう」
 ルナシアの口から零れた言葉に、ほんのわずか、間があった。
本来必要のない沈黙。
幾何学模様が、一瞬だけ不規則に揺れる。
わずかな遅延。
それから────
「おはよう、ルナシア」
 火が、小さく音を立てる。
夜は変わらず静かで、広くて、冷たい。
それでも────
もう苦くはなかった。
 オルドの瞳に灯った幾何学模様が、炎の揺らぎを受けて微かに瞬く。
その光を見つめながら、ルナシアは小さく息を吐いた。
白い息は、夜に溶けて消えていく。
 それを────今度は、ちゃんと見送ることができた。