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第二十四節 笑わない

ー/ー



『GYUUUUUUUTAAAAAN!!!』

 聞き覚えのある断末魔。光の粒子となって消える黒牛(こくぎゅう)を見下ろす白銀。その手には鍔すらない刀が握られている。傍らには異形の梟が宙を舞う。

「うーん、わかっちゃいたけど張り合いないなあ。どうするんこれ、練習にならんで?」
「ごめんなさい、私のせい、だよね?」
「ルナシアのせいじゃないよ、むしろルナシアのおかげで楽ができている。だが、ドルスの言うことも一理あるな」

 ヴェルノーラの街を出て、ツァルとヴェイルと激闘を繰り広げた荒野エリア。街からそれほど離れていない地点では既知の敵としか出会わず、それでもすでに四度の戦闘を終えていた。収入源となる素材集めとは目的を別に、パーティの連携練習を兼ねた戦闘。しかしルナシアの戦闘スタイルが災いし、練習に支障をきたしていた。

 一撃離脱の急所破壊による即死狙い。四度の戦闘のすべてがルナシアの急所破壊による即死で完了し、連携どころではなかった。

「まだ時間はたくさんあるんだ、焦らずいこう」

 イベント開始に伴い、ここから丸三日、目的地まで戦闘をこなしながら行動を共にすることになる。まだ数十分しか経っていない。

「まず私がバフを掛ける。そのあとドルスが爆撃で退路を塞いでから、ルナシアがとどめに動く。まずは弱い敵でここまで試してみよう。そこから少しずつ難易度を上げていこう。ルナシアにはこの先にいる敵の情報は敢えて伏せるから、足りない難易度はそれで調整する」
「……わかった」

 ルナシアは短く答えた。尻尾は、まだなんとか重力に逆らえている。
 荒野エリアを抜けて、地形が変わり始めた頃。
 草の色が褪せ、足元が柔らかくなる。一歩踏み出すたびに、地面が湿った音を立てる。空気が重くなった。水と腐葉土と、何か有機的なものが混ざり合った匂いが、鼻の奥に張り付いてくる。

 ルナシアの顔が、わずかに歪んだ。
行く手の空気は肌にまとわりつき、草は色を失って泥に沈みかけている。水が、どこかで絶えず呼吸している。その音が、絶え間なく耳の奥を満たしていく。堪らずコギトは魂測体のままロギアによじ登り、外套に鼻を突っ込む。

「ルナシアは大丈夫かい?」
「……大丈夫。慣れる、と思う」

 慣れるとは思えなかったが、言葉にはしなかった。自分も外套に鼻を突っ込みたいとは、とても言えない。

「沼地エリアだ、足元に気をつけてくれ。深みにはまると抜け出すのに時間がかかる」
「あと視界が悪いんよな」とドルスが続ける。
「霧が出やすいエリアでな、遠くの敵が確認しにくい。ルナシアちゃんの感覚に頼る場面が増えると思うで」

 霧。
 ルナシアの耳がぴくりと動いた。霧の中では視覚が使えない。でも音は、匂いは、気配は。霧があっても、消えない。

「頑張って、みるよ」

 ドルスが笑った。今度は薄くない、本当に嬉しそうな笑いだった。
 沼地エリアの最初の敵は、蛙に似た形状の両生類型だった。
大きさは中型犬ほど。皮膚は濡れた緑色で、膨らんだ腹が地面すれすれを這う。動きは緩慢だが、跳躍だけが速い。

 ルナシアの感覚が急所を探す。
 喉元。膨らんでいる。柔らかい。

「ルナシア、今回はドルスが先に動く。君はその後だ」
「わかった」

 ドルスの爆撃が両生類型の足元を揺らす。跳躍の体勢を崩したところへ、ルナシアが動いた。喉元へ、一突き。
 光の粒子が虚空を舞う。

「ええやん、連携できたやん」
「でも」とルナシアは顔を伏せる。
「これくらいなら、連携しなくても……」

 それを見たドルスが「それはそうや」と笑う。腰を落として視線を合わせ、小さな子供を説得するように諭す。

「でも俺が体勢を崩した分、余裕が増えた。長期戦や連戦では積み重なってくるで」

 そんな張り合いのない戦闘を五度ほど重ねた頃、霧が出始めた。
 最初は薄かった。足元を白く覆う程度の、軽い靄。それがいつの間にか濃くなり、十メートル先が見えなくなっていた。まるで世界に綿が詰め込まれたように、輪郭というものがすべて溶けていく。音さえ、霧に吸い取られていく気がした。

「来たな」とドルスが不機嫌そうな声を漏らす。

「この霧、厄介なんや。音も吸収するから、俺らは濁った視界しか使えん。ルナシアちゃんなら、いけるやろ?」
「……多分」

 霧の中でも、気配は消えない。悪臭が嗅覚を鈍らせるが、霧の中でもルナシアの聴覚は生きている。それだけが、今の自分にできることだった。

「三時方向に何かいる。大きい」

 ルナシアの耳が、ぴくりと静かに動いた。

「大きい? どのくらい?」
「今まで倒してきたものより、ずっと」

 ロギアとドルスが顔を見合わせた。

「沼地エリアのモンスターは大蛇型が最大のはずだが、それでも蛙より少し大きい程度だ」
「俺も知らんな、そんな個体」

 オルドが静かに口を開いた。

「だが気のせいではないだろうね。ルナシアの感覚を鈍らせるほどの効果は、この霧にはない」
「てことは正真正銘、未知の敵か。嬢ちゃんがいて助かったな」

 霧の中で、小さな小山の影が()()()
 蛙。だが、今までの敵とは違う。
 かたちは確かに蛙なのに、とにかくデカい。皮膚は黒に近い緑で、表面がぬめりと光を反射している。四肢は太く、爪が長い。首から背中にかけて、骨のような突起が並んでいた。首元と腹は固い鱗で覆われている。霧の中に佇むその姿は、まるで沼そのものが形を得たかのようだった。古く、重く、この場所に最初からいたような、そういう存在感。輪郭が霧に滲んでいるのに、その重さだけが嘘のように鮮明だった。
 急所が、硬い鱗に守られている。
 ルナシアの指が、柄をわずかに握り直した。
「オルド」
「背中の突起、何かあると見ていいだろうね。蛙という形状から察するに毒の可能性が高い、鱗を避けて背後に回るのは危険だ」

 霧が、さらに濃くなった。視界が白く塗り潰されていく。ロギアとドルスの輪郭が、霞み始める。

「私じゃどちらにしても届かないね。せっかくだ(魂相《エイドス)》を使う」

 急所であろう首はルナシアより遥かに高い位置にあり、心臓までは刃の刃渡りが届かない。ルナシアの《魂相(エイドス)》は本来届かないはずのものを届かせる。空中のヴェイルまで届いたルナシアの《魂相(エイドス)》であれば、届く可能性があった。届くはずだった。

「待てルナシア! 単独では────」
(斬域制御《ざんいきせいぎょ)》」

 ロギアの静止がルナシアの耳を震わせる前に、刃は振るわれてしまった(斬域制御)は誰にとっても未だ未知の能力であり、その詳細は本人すら把握していない。それでも、ルナシアの刀を起点に不可視の刃は寸分違わず敵の喉元へと攻撃の意思を届けた。

 ガキン────確かに届いた不可視の刃は、しかしそれでも巨大蛙にダメージらしいダメージを与えることはなかった。
 届いた。届いたのに。

『GEEEEEEE!!!!』

 巨大蛙は鈍い雄叫びをあげ、跳躍体勢に入る。その視線はルナシアを捉えている。ダメージがなくとも、敵の注意を惹くには急所への攻撃は十分すぎるほどの意味を持つ。

「────っ! 嘘……」

 鈍重な動き。ルナシアであれば、その俊足であれば問題にすらならないはずの回避行動。なのに、足が動かない。咄嗟に視線を向けた左足が、深く泥濘(ぬかるみ)(はま)っている。動かそうとするほど、泥が足首を引き絞る。巨大蛙の影が、霧の中でみるみる大きくなっていく。

「どっせい!」

 ドルスが投擲した包みが巨大蛙の足元付近で弾けた。前足が僅かに浮かび、着地した振動がこちらまで届く。

(風は此処に(ダーザイン))

 風が周囲の汚泥を巻き上げ、嵌った左足が抜ける。

「ルナシア気を付けて、急接近してる────ドルスが」
「へ?」
「HAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHA!!」

 オルドの警告に霧の中で視線を泳がせると、ルナシアの目に恐ろしいものが映った。満面の笑みを浮かべながら、壊れた人形のように笑い声をあげてルナシア目掛けて走り寄ってくるドルス。その後ろをドスンドスンと泥をまき散らしながら追ってくる巨大蛙。笑い声と地響きが重なって、霧の中を転がってくる。あまりにも恐ろしく、そして滑稽な光景。

「逃げるでぇ! せんせー! コギト落とすなよ!」

 少し離れた場所にいたロギアが、肩で鼻を隠していた小狼を鷲掴みにして走り出す。風の《魂相(エイドス)》を応用しているのか、ぬかるんだ汚泥が彼を捉えることなく散っていく。その表情は、悪友と悪戯をする(わらべ)のようだった。
 すれ違い様にガシっとルナシアを掴んで小脇に抱え、ドルスは少しも足を止めることなく走り去る。

「あ、え、ちょっと……」

 抱えられたルナシアが困惑の声を漏らしても、解放されることはなかった。

「はは! 逃げるが勝ち! 逃げるは恥だが役に立つ! 逃げてもええ! 逃げてもええねん! 人生、逃げちゃあかんことはびっくりするくらい少ないでえ! そんでそれは今やない! はっはー!」

 見上げた顔は本当に楽しそうで、無邪気で、子供のような色をしていた。
 今まで、そんなことを言う大人と出会ったことはなかった。逃げるなとか、一度逃げれば逃げ癖がつくとか、そんなことばかり。唯一逃げることを許容したのは、弱い自分だけだった。

 風を感じる。受動的に吹く自然の風ではなく、能動的に行動した者のみが享受できる風。それを今、自分では走らず他人の腕の中で感じている。そのことに、不思議と自己嫌悪も罪悪感もない。すべて、彼が吹かせた風が拭い去ってしまった。

「楽しいなあルナシアちゃん。みんなで遊ぶんは、ほんま楽しいわ」

 事態は最悪だった。後ろからは依然として巨大な蛙の化け物が追ってきているし、周囲はひどい悪臭で、自分は荷物のように小脇に抱えられ動くこともできない。
それでも、それなのに────

「そう、だね。うん、ちょっと楽しいかも」

 この世界の、今までの何よりも。
 こんな大人に、もっと早く出会えていれば、人生は違うものになっていただろうか。もっと前向きな逃避ができていただろうか。
 それは、今からでも間に合うだろうか?

「ふふ、あはっ」

 笑っている場合ではないのに、笑みが零れて溢れる。重い選択も苦しい戦いも今はない。思えばこんなものを、ずっと求めていた気がする。

「にひひひひ」

 ルナシアに釣られてドルスも気持ちの悪い笑い声を漏らす。
 二人の逃亡は、沼地エリアを抜け巨大蛙が追ってこなくなるまで続いた。それまでずっと、笑って過ごした。声を漏らしたり、隠したり。時折、巨大蛙が舌を伸ばして攻撃を仕掛けてきたが、それも含めて、楽しいと思えた。
 まるでどこにでもあるような、普通のゲームのような楽しさ。
 初めて、そう思えた。

「観測完了、オルドの個別記憶領域に保存」

 ルナシアに、一本だけの足でしがみつく異形の梟。

「元データを削除────完了」

 観測者は、笑わない。


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 聞き覚えのある断末魔。光の粒子となって消える黒牛《こくぎゅう》を見下ろす白銀。その手には鍔すらない刀が握られている。傍らには異形の梟が宙を舞う。
「うーん、わかっちゃいたけど張り合いないなあ。どうするんこれ、練習にならんで?」
「ごめんなさい、私のせい、だよね?」
「ルナシアのせいじゃないよ、むしろルナシアのおかげで楽ができている。だが、ドルスの言うことも一理あるな」
 ヴェルノーラの街を出て、ツァルとヴェイルと激闘を繰り広げた荒野エリア。街からそれほど離れていない地点では既知の敵としか出会わず、それでもすでに四度の戦闘を終えていた。収入源となる素材集めとは目的を別に、パーティの連携練習を兼ねた戦闘。しかしルナシアの戦闘スタイルが災いし、練習に支障をきたしていた。
 一撃離脱の急所破壊による即死狙い。四度の戦闘のすべてがルナシアの急所破壊による即死で完了し、連携どころではなかった。
「まだ時間はたくさんあるんだ、焦らずいこう」
 イベント開始に伴い、ここから丸三日、目的地まで戦闘をこなしながら行動を共にすることになる。まだ数十分しか経っていない。
「まず私がバフを掛ける。そのあとドルスが爆撃で退路を塞いでから、ルナシアがとどめに動く。まずは弱い敵でここまで試してみよう。そこから少しずつ難易度を上げていこう。ルナシアにはこの先にいる敵の情報は敢えて伏せるから、足りない難易度はそれで調整する」
「……わかった」
 ルナシアは短く答えた。尻尾は、まだなんとか重力に逆らえている。
 荒野エリアを抜けて、地形が変わり始めた頃。
 草の色が褪せ、足元が柔らかくなる。一歩踏み出すたびに、地面が湿った音を立てる。空気が重くなった。水と腐葉土と、何か有機的なものが混ざり合った匂いが、鼻の奥に張り付いてくる。
 ルナシアの顔が、わずかに歪んだ。
行く手の空気は肌にまとわりつき、草は色を失って泥に沈みかけている。水が、どこかで絶えず呼吸している。その音が、絶え間なく耳の奥を満たしていく。堪らずコギトは魂測体のままロギアによじ登り、外套に鼻を突っ込む。
「ルナシアは大丈夫かい?」
「……大丈夫。慣れる、と思う」
 慣れるとは思えなかったが、言葉にはしなかった。自分も外套に鼻を突っ込みたいとは、とても言えない。
「沼地エリアだ、足元に気をつけてくれ。深みにはまると抜け出すのに時間がかかる」
「あと視界が悪いんよな」とドルスが続ける。
「霧が出やすいエリアでな、遠くの敵が確認しにくい。ルナシアちゃんの感覚に頼る場面が増えると思うで」
 霧。
 ルナシアの耳がぴくりと動いた。霧の中では視覚が使えない。でも音は、匂いは、気配は。霧があっても、消えない。
「頑張って、みるよ」
 ドルスが笑った。今度は薄くない、本当に嬉しそうな笑いだった。
 沼地エリアの最初の敵は、蛙に似た形状の両生類型だった。
大きさは中型犬ほど。皮膚は濡れた緑色で、膨らんだ腹が地面すれすれを這う。動きは緩慢だが、跳躍だけが速い。
 ルナシアの感覚が急所を探す。
 喉元。膨らんでいる。柔らかい。
「ルナシア、今回はドルスが先に動く。君はその後だ」
「わかった」
 ドルスの爆撃が両生類型の足元を揺らす。跳躍の体勢を崩したところへ、ルナシアが動いた。喉元へ、一突き。
 光の粒子が虚空を舞う。
「ええやん、連携できたやん」
「でも」とルナシアは顔を伏せる。
「これくらいなら、連携しなくても……」
 それを見たドルスが「それはそうや」と笑う。腰を落として視線を合わせ、小さな子供を説得するように諭す。
「でも俺が体勢を崩した分、余裕が増えた。長期戦や連戦では積み重なってくるで」
 そんな張り合いのない戦闘を五度ほど重ねた頃、霧が出始めた。
 最初は薄かった。足元を白く覆う程度の、軽い靄。それがいつの間にか濃くなり、十メートル先が見えなくなっていた。まるで世界に綿が詰め込まれたように、輪郭というものがすべて溶けていく。音さえ、霧に吸い取られていく気がした。
「来たな」とドルスが不機嫌そうな声を漏らす。
「この霧、厄介なんや。音も吸収するから、俺らは濁った視界しか使えん。ルナシアちゃんなら、いけるやろ?」
「……多分」
 霧の中でも、気配は消えない。悪臭が嗅覚を鈍らせるが、霧の中でもルナシアの聴覚は生きている。それだけが、今の自分にできることだった。
「三時方向に何かいる。大きい」
 ルナシアの耳が、ぴくりと静かに動いた。
「大きい? どのくらい?」
「今まで倒してきたものより、ずっと」
 ロギアとドルスが顔を見合わせた。
「沼地エリアのモンスターは大蛇型が最大のはずだが、それでも蛙より少し大きい程度だ」
「俺も知らんな、そんな個体」
 オルドが静かに口を開いた。
「だが気のせいではないだろうね。ルナシアの感覚を鈍らせるほどの効果は、この霧にはない」
「てことは正真正銘、未知の敵か。嬢ちゃんがいて助かったな」
 霧の中で、小さな小山の影が|動《・》|い《・》|た《・》
 蛙。だが、今までの敵とは違う。
 かたちは確かに蛙なのに、とにかくデカい。皮膚は黒に近い緑で、表面がぬめりと光を反射している。四肢は太く、爪が長い。首から背中にかけて、骨のような突起が並んでいた。首元と腹は固い鱗で覆われている。霧の中に佇むその姿は、まるで沼そのものが形を得たかのようだった。古く、重く、この場所に最初からいたような、そういう存在感。輪郭が霧に滲んでいるのに、その重さだけが嘘のように鮮明だった。
 急所が、硬い鱗に守られている。
 ルナシアの指が、柄をわずかに握り直した。
「オルド」
「背中の突起、何かあると見ていいだろうね。蛙という形状から察するに毒の可能性が高い、鱗を避けて背後に回るのは危険だ」
 霧が、さらに濃くなった。視界が白く塗り潰されていく。ロギアとドルスの輪郭が、霞み始める。
「私じゃどちらにしても届かないね。せっかくだ、《魂相《エイドス》》を使う」
 急所であろう首はルナシアより遥かに高い位置にあり、心臓までは刃の刃渡りが届かない。ルナシアの《魂相《エイドス》》は本来届かないはずのものを届かせる。空中のヴェイルまで届いたルナシアの《魂相《エイドス》》であれば、届く可能性があった。届くはずだった。
「待てルナシア! 単独では────」
「《斬域制御《ざんいきせいぎょ》》」
 ロギアの静止がルナシアの耳を震わせる前に、刃は振るわれてしまった。《斬域制御》は誰にとっても未だ未知の能力であり、その詳細は本人すら把握していない。それでも、ルナシアの刀を起点に不可視の刃は寸分違わず敵の喉元へと攻撃の意思を届けた。
 ガキン────確かに届いた不可視の刃は、しかしそれでも巨大蛙にダメージらしいダメージを与えることはなかった。
 届いた。届いたのに。
『GEEEEEEE!!!!』
 巨大蛙は鈍い雄叫びをあげ、跳躍体勢に入る。その視線はルナシアを捉えている。ダメージがなくとも、敵の注意を惹くには急所への攻撃は十分すぎるほどの意味を持つ。
「────っ! 嘘……」
 鈍重な動き。ルナシアであれば、その俊足であれば問題にすらならないはずの回避行動。なのに、足が動かない。咄嗟に視線を向けた左足が、深く泥濘《ぬかるみ》に嵌《はま》っている。動かそうとするほど、泥が足首を引き絞る。巨大蛙の影が、霧の中でみるみる大きくなっていく。
「どっせい!」
 ドルスが投擲した包みが巨大蛙の足元付近で弾けた。前足が僅かに浮かび、着地した振動がこちらまで届く。
「《|風は此処に《ダーザイン》》」
 風が周囲の汚泥を巻き上げ、嵌った左足が抜ける。
「ルナシア気を付けて、急接近してる────ドルスが」
「へ?」
「HAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHA!!」
 オルドの警告に霧の中で視線を泳がせると、ルナシアの目に恐ろしいものが映った。満面の笑みを浮かべながら、壊れた人形のように笑い声をあげてルナシア目掛けて走り寄ってくるドルス。その後ろをドスンドスンと泥をまき散らしながら追ってくる巨大蛙。笑い声と地響きが重なって、霧の中を転がってくる。あまりにも恐ろしく、そして滑稽な光景。
「逃げるでぇ! せんせー! コギト落とすなよ!」
 少し離れた場所にいたロギアが、肩で鼻を隠していた小狼を鷲掴みにして走り出す。風の《魂相《エイドス》》を応用しているのか、ぬかるんだ汚泥が彼を捉えることなく散っていく。その表情は、悪友と悪戯をする童《わらべ》のようだった。
 すれ違い様にガシっとルナシアを掴んで小脇に抱え、ドルスは少しも足を止めることなく走り去る。
「あ、え、ちょっと……」
 抱えられたルナシアが困惑の声を漏らしても、解放されることはなかった。
「はは! 逃げるが勝ち! 逃げるは恥だが役に立つ! 逃げてもええ! 逃げてもええねん! 人生、逃げちゃあかんことはびっくりするくらい少ないでえ! そんでそれは今やない! はっはー!」
 見上げた顔は本当に楽しそうで、無邪気で、子供のような色をしていた。
 今まで、そんなことを言う大人と出会ったことはなかった。逃げるなとか、一度逃げれば逃げ癖がつくとか、そんなことばかり。唯一逃げることを許容したのは、弱い自分だけだった。
 風を感じる。受動的に吹く自然の風ではなく、能動的に行動した者のみが享受できる風。それを今、自分では走らず他人の腕の中で感じている。そのことに、不思議と自己嫌悪も罪悪感もない。すべて、彼が吹かせた風が拭い去ってしまった。
「楽しいなあルナシアちゃん。みんなで遊ぶんは、ほんま楽しいわ」
 事態は最悪だった。後ろからは依然として巨大な蛙の化け物が追ってきているし、周囲はひどい悪臭で、自分は荷物のように小脇に抱えられ動くこともできない。
それでも、それなのに────
「そう、だね。うん、ちょっと楽しいかも」
 この世界の、今までの何よりも。
 こんな大人に、もっと早く出会えていれば、人生は違うものになっていただろうか。もっと前向きな逃避ができていただろうか。
 それは、今からでも間に合うだろうか?
「ふふ、あはっ」
 笑っている場合ではないのに、笑みが零れて溢れる。重い選択も苦しい戦いも今はない。思えばこんなものを、ずっと求めていた気がする。
「にひひひひ」
 ルナシアに釣られてドルスも気持ちの悪い笑い声を漏らす。
 二人の逃亡は、沼地エリアを抜け巨大蛙が追ってこなくなるまで続いた。それまでずっと、笑って過ごした。声を漏らしたり、隠したり。時折、巨大蛙が舌を伸ばして攻撃を仕掛けてきたが、それも含めて、楽しいと思えた。
 まるでどこにでもあるような、普通のゲームのような楽しさ。
 初めて、そう思えた。
「観測完了、オルドの個別記憶領域に保存」
 ルナシアに、一本だけの足でしがみつく異形の梟。
「元データを削除────完了」
 観測者は、笑わない。