第二十三節 夜の呼吸
ー/ー「気を付けていきな、旅のご加護を」
「うん、ありがとう、ございます」
昼間の喧騒が鳴りを潜めたヴェルノーラの街。その片隅の古本屋を、本を安く譲ってもらった礼をするためにコギトに手を引かれながらルナシアは訪れた。灰白の少女の主は、宿でドルスと合流するために残っている。傍らにはオルドも同行していた。オルドへの依存からの脱却のため、オルドも宿に残ることをルナシアは提案したが、あえなく却下された。彼女は、小さな観測者の同行に関して拒否権を有していない。
古本屋の老婦人と少し言葉を交わしたが、ルナシアの好感度補正を受けても対応はそれほど変わらなかった。素っ気なく、それでも確かな温かみのある言葉が返ってくる。飾らないが、冷たくもない。元からこういう人なのだろう。
「ごめんねコギト、付き合ってもらっちゃって」
感情の機微に疎いオルドだけでは、会話のフォローに限界がある。その点、コギトは申し分なかった。好感度の補正などなくとも、快活で気持ちのいいコギトの性格は口数の少ない老婦人ともすぐに打ち解けていた。笑い声が場を温め、気づけば老婦人の口元にも薄く笑みが宿っていた。
「遠慮すんねい! 先生から小遣いもらったしな!」
ケラケラと小気味よく笑うコギトの脇には、紙袋が大事そうに抱えられている。古本屋の帰りに寄った店で購入した菓子類が、紙袋の中でかさかさと音を立てる。もう一方の手はルナシアの手と繋がれていた。小さくて温かい、迷いのない手。
「宿に戻るか? 先生の部屋で待っててもいいぜ?」
「ルナシアの部屋は引き払ってしまったからね」
コギトの反対側、何故かコギトと同じようにルナシアの手を握るオルド。古本屋ではコギトの様子を黙って見つめていた。学習のための観測対象は、ルナシアだけではないようだった。ひたすら貪欲に、自身にないものを取り込んでいく。その横顔に感情はなく、ただ静かな熱だけがあった。
「風が気持ちいいからね、このまま予定通り待ち合わせ場所で待ってるよ」
三人は連れ立って、夜の街を歩き出した。
街灯の琥珀色が濡れた石畳に溶け込んでいる。光と影が古い建物の壁をゆっくりと這い、時計の針は十時を指したまま動かない。まるで時間そのものが、この街と一緒に老いることを選んだかのように。
風が路地の奥から忍び込んでくる。枯れ葉を二、三枚転がして、古い看板を小さく揺らし、そのまま何事もなかったように去っていく。夜はまだ浅いのに、どこか深更の静けさを帯びていた。三人の足音だけが、石畳の隙間に静かに落ちていく。
やがて街の外れに差し掛かると、石橋が見えてきた。欄干に手をかけると、水の匂いを含んだ夜風がひとつ、静かに吹き抜けた。石橋はヴェルノーラの古い時代からそこにあるのだろう。石組みの継ぎ目が苔に覆われ、踏み石は長年の往来で緩やかに磨り減っている。どれほどの足がここを渡り、どれほどの別れと帰還をこの石は見てきたのか。川はさほど広くない。それでも夜の中では存在感があった。街灯の光を飲み込んだ水面が、風に揺れるたびに砕けて、また戻る。その繰り返しがどこか呼吸のようで、橋の上にいるとこちらの息まで合わせたくなる。
「ここでいいんだよね?」
「是、ここで合っているよ」
ルナシアの問いにオルドは短く答えた。欄干の向こう、川下の方角に目をやると、街の灯りが水面に長く伸びている。揺れては崩れ、崩れてはまた形を取り戻す光の帯。どこかの生垣がかさりと鳴る。姿は見えない。ただ暗がりのなかで小さな命が今夜も動いているのだという事実だけが、柔らかく胸の中に落ちてくる。
「気持ちがいいね」
夜の風にあわせて尻尾は左右に揺れる。フリルで装飾された遮音カバーの中でぴくぴくと動く耳が、夜の街から流れてくる音をひとつひとつ拾い上げていく。遠くで水鳥が鳴いた。その声は川面を滑り、夜に溶けた。
「やー、すまんすまん。子供がパパを離してくれんくてなあ、待たせたか?」
三十分ほど経って合流したドルスの表情は、謝罪の言葉とは裏腹に、普段の薄っぺらい陽気さとも違う、深く穏やかなものが張り付いていた。誰かに必要とされた夜の、静かな充足。
「あ、ううん、大丈夫だよ。えっと、静かな場所にいるのは、嫌いじゃないから」
昼間から酒を飲むし普段の笑顔は若干胡散臭い。それでもドルスは善人だ。ロギアとはまた違った優しさがあることを、ルナシアは知っている。だが彼女の対人経験値は、対人全般ではなく個人ごとに積まれていく。彼女はまだ、ドルスとの経験値がそれほど積めていない。言葉を選ぶ間が少し長く、笑い返すのが少し遅い。ぎこちなさが、消えない。
「イベント開始は十一時からだ。まだ時間はあるけど、我々は先に行こうか。道中の敵はできるだけ倒して進もう。目的のスキルはスキルブック、売り物だ。誰でも買えるけど高価らしいからね。それに────」
ロギアの視線が、ルナシアに映る。正確には、彼女の質素な薄い衣服へ。
「装備も更新しないとな。大きな街まで行けば、気に入るものもあると思うよ」
初期装備を選択する際、ルナシアはただ動きやすそうで邪魔にならないものを選んだ。通常のプレイヤーが初心者用ポーションで浮いた資金を運用して装備を更新していく中、ルナシアの資金は携帯食と本へと消えていく。
「装備って更新が必要なの?」
重ねて、ルナシアはゲームの知識に疎い。
「……ルナシア、ゲームの経験は? 素人の動きではないから、勝手に初心者ではないと思い込んでいたんだけど」
「ってゲームだけやったことあるけど……」
「UGO !? か~っ! アカンアカン、あれを基準にしたらアカンて!」
額に手を当ててドルスは天を仰ぐ。その表情には驚愕の色が強い。ドルス以外には、その驚愕の理由がわからず困惑していた。
「その、どんなゲームなんだ? 私もそれほど詳しくないんだ」
「ごっりごりの対人ゲームや。探索も戦闘中の回復手段もない、ステータスは全プレイヤー共通、スキルもレベルすらもあらへん」
「それじゃあ、どうやって強くなるんだ?」
「ならへんよ」
ドルスはわざとらしく肩をすくめてみせた。ロギアの表情に、先ほどのドルスの驚愕が少しずつ、確実に移っていく。
「最初に武器だけ選んだら終わり。当然武器のステータスも武器種ごとに固定で更新もないし後から変更もできん。選んだ武器一本でひたすらPvP対人戦 を繰り返して、勝ったやつだけが《UGO》唯一のマップ、天空の塔の頂に立てる」
ドルスはにやりと悪戯っぽく、ニヒルに笑う。
「純粋なPSプレイヤースキル だけが、すべてを決める」
大人と子供の狭間にいるような少女をロギアは見つめる。どう見てもそんな殺伐としたゲームを好むようには見えない。それなのに戦場での彼女の動きに迷いはなく、静かに鋭い。視線に気づいたルナシアは、不思議そうな表情でロギアを覗き返す。ここ最近で視線を逸らされることが減った、吸い込まれそうな金色の瞳。その奥に何かが沈んでいる。それが何なのか、ロギアにはまだわからない。
「──まあ、私も詳しい方ではないから、一緒に覚えていこうか。ここから三日あるんだ、頼むぞドルス」
意図的に、自分から視線を逸らして歩き出す。ドルスとの会話に慣れてほしいという思惑からの提案。ロギアは自身に言い聞かせる。ロギアの隣をドルスとコギトが歩き、少し後ろをルナシアとオルドが続く。
「任せとき! ルナシアちゃんもなんでも聞いてな、俺結構詳しいから」
「うん、ありがとう」
ヴェルノーラの街に、振り返ることもなく別れを告げる。少しぎこちなさを残しながら、臨時パーティのまま、各々の思惑を抱きながら。
オルドだけが、来た道を振り返った。
その眼が何を映していたのか、誰も知らない。
「うん、ありがとう、ございます」
昼間の喧騒が鳴りを潜めたヴェルノーラの街。その片隅の古本屋を、本を安く譲ってもらった礼をするためにコギトに手を引かれながらルナシアは訪れた。灰白の少女の主は、宿でドルスと合流するために残っている。傍らにはオルドも同行していた。オルドへの依存からの脱却のため、オルドも宿に残ることをルナシアは提案したが、あえなく却下された。彼女は、小さな観測者の同行に関して拒否権を有していない。
古本屋の老婦人と少し言葉を交わしたが、ルナシアの好感度補正を受けても対応はそれほど変わらなかった。素っ気なく、それでも確かな温かみのある言葉が返ってくる。飾らないが、冷たくもない。元からこういう人なのだろう。
「ごめんねコギト、付き合ってもらっちゃって」
感情の機微に疎いオルドだけでは、会話のフォローに限界がある。その点、コギトは申し分なかった。好感度の補正などなくとも、快活で気持ちのいいコギトの性格は口数の少ない老婦人ともすぐに打ち解けていた。笑い声が場を温め、気づけば老婦人の口元にも薄く笑みが宿っていた。
「遠慮すんねい! 先生から小遣いもらったしな!」
ケラケラと小気味よく笑うコギトの脇には、紙袋が大事そうに抱えられている。古本屋の帰りに寄った店で購入した菓子類が、紙袋の中でかさかさと音を立てる。もう一方の手はルナシアの手と繋がれていた。小さくて温かい、迷いのない手。
「宿に戻るか? 先生の部屋で待っててもいいぜ?」
「ルナシアの部屋は引き払ってしまったからね」
コギトの反対側、何故かコギトと同じようにルナシアの手を握るオルド。古本屋ではコギトの様子を黙って見つめていた。学習のための観測対象は、ルナシアだけではないようだった。ひたすら貪欲に、自身にないものを取り込んでいく。その横顔に感情はなく、ただ静かな熱だけがあった。
「風が気持ちいいからね、このまま予定通り待ち合わせ場所で待ってるよ」
三人は連れ立って、夜の街を歩き出した。
街灯の琥珀色が濡れた石畳に溶け込んでいる。光と影が古い建物の壁をゆっくりと這い、時計の針は十時を指したまま動かない。まるで時間そのものが、この街と一緒に老いることを選んだかのように。
風が路地の奥から忍び込んでくる。枯れ葉を二、三枚転がして、古い看板を小さく揺らし、そのまま何事もなかったように去っていく。夜はまだ浅いのに、どこか深更の静けさを帯びていた。三人の足音だけが、石畳の隙間に静かに落ちていく。
やがて街の外れに差し掛かると、石橋が見えてきた。欄干に手をかけると、水の匂いを含んだ夜風がひとつ、静かに吹き抜けた。石橋はヴェルノーラの古い時代からそこにあるのだろう。石組みの継ぎ目が苔に覆われ、踏み石は長年の往来で緩やかに磨り減っている。どれほどの足がここを渡り、どれほどの別れと帰還をこの石は見てきたのか。川はさほど広くない。それでも夜の中では存在感があった。街灯の光を飲み込んだ水面が、風に揺れるたびに砕けて、また戻る。その繰り返しがどこか呼吸のようで、橋の上にいるとこちらの息まで合わせたくなる。
「ここでいいんだよね?」
「是、ここで合っているよ」
ルナシアの問いにオルドは短く答えた。欄干の向こう、川下の方角に目をやると、街の灯りが水面に長く伸びている。揺れては崩れ、崩れてはまた形を取り戻す光の帯。どこかの生垣がかさりと鳴る。姿は見えない。ただ暗がりのなかで小さな命が今夜も動いているのだという事実だけが、柔らかく胸の中に落ちてくる。
「気持ちがいいね」
夜の風にあわせて尻尾は左右に揺れる。フリルで装飾された遮音カバーの中でぴくぴくと動く耳が、夜の街から流れてくる音をひとつひとつ拾い上げていく。遠くで水鳥が鳴いた。その声は川面を滑り、夜に溶けた。
「やー、すまんすまん。子供がパパを離してくれんくてなあ、待たせたか?」
三十分ほど経って合流したドルスの表情は、謝罪の言葉とは裏腹に、普段の薄っぺらい陽気さとも違う、深く穏やかなものが張り付いていた。誰かに必要とされた夜の、静かな充足。
「あ、ううん、大丈夫だよ。えっと、静かな場所にいるのは、嫌いじゃないから」
昼間から酒を飲むし普段の笑顔は若干胡散臭い。それでもドルスは善人だ。ロギアとはまた違った優しさがあることを、ルナシアは知っている。だが彼女の対人経験値は、対人全般ではなく個人ごとに積まれていく。彼女はまだ、ドルスとの経験値がそれほど積めていない。言葉を選ぶ間が少し長く、笑い返すのが少し遅い。ぎこちなさが、消えない。
「イベント開始は十一時からだ。まだ時間はあるけど、我々は先に行こうか。道中の敵はできるだけ倒して進もう。目的のスキルはスキルブック、売り物だ。誰でも買えるけど高価らしいからね。それに────」
ロギアの視線が、ルナシアに映る。正確には、彼女の質素な薄い衣服へ。
「装備も更新しないとな。大きな街まで行けば、気に入るものもあると思うよ」
初期装備を選択する際、ルナシアはただ動きやすそうで邪魔にならないものを選んだ。通常のプレイヤーが初心者用ポーションで浮いた資金を運用して装備を更新していく中、ルナシアの資金は携帯食と本へと消えていく。
「装備って更新が必要なの?」
重ねて、ルナシアはゲームの知識に疎い。
「……ルナシア、ゲームの経験は? 素人の動きではないから、勝手に初心者ではないと思い込んでいたんだけど」
「ってゲームだけやったことあるけど……」
「
額に手を当ててドルスは天を仰ぐ。その表情には驚愕の色が強い。ドルス以外には、その驚愕の理由がわからず困惑していた。
「その、どんなゲームなんだ? 私もそれほど詳しくないんだ」
「ごっりごりの対人ゲームや。探索も戦闘中の回復手段もない、ステータスは全プレイヤー共通、スキルもレベルすらもあらへん」
「それじゃあ、どうやって強くなるんだ?」
「ならへんよ」
ドルスはわざとらしく肩をすくめてみせた。ロギアの表情に、先ほどのドルスの驚愕が少しずつ、確実に移っていく。
「最初に武器だけ選んだら終わり。当然武器のステータスも武器種ごとに固定で更新もないし後から変更もできん。選んだ武器一本でひたすらPvP
ドルスはにやりと悪戯っぽく、ニヒルに笑う。
「純粋なPS
大人と子供の狭間にいるような少女をロギアは見つめる。どう見てもそんな殺伐としたゲームを好むようには見えない。それなのに戦場での彼女の動きに迷いはなく、静かに鋭い。視線に気づいたルナシアは、不思議そうな表情でロギアを覗き返す。ここ最近で視線を逸らされることが減った、吸い込まれそうな金色の瞳。その奥に何かが沈んでいる。それが何なのか、ロギアにはまだわからない。
「──まあ、私も詳しい方ではないから、一緒に覚えていこうか。ここから三日あるんだ、頼むぞドルス」
意図的に、自分から視線を逸らして歩き出す。ドルスとの会話に慣れてほしいという思惑からの提案。ロギアは自身に言い聞かせる。ロギアの隣をドルスとコギトが歩き、少し後ろをルナシアとオルドが続く。
「任せとき! ルナシアちゃんもなんでも聞いてな、俺結構詳しいから」
「うん、ありがとう」
ヴェルノーラの街に、振り返ることもなく別れを告げる。少しぎこちなさを残しながら、臨時パーティのまま、各々の思惑を抱きながら。
オルドだけが、来た道を振り返った。
その眼が何を映していたのか、誰も知らない。
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