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第二十五節 ただ、隣にいる

ー/ー



 そわそわしている。何か、何か言葉を発さなければ。何を言えばいいのかわからないのに、ずっとそんな思考が渦巻いている。

 沼地エリアを抜け、巨大蛙から逃げ果せたドルスとルナシアは、荒野エリアへと足を戻していた。逃げる途中でロギアと逸れ、ドルスと二人きり。今は大きな岩に背を預けている。先ほどから会話はなく、ルナシアはどこか落ち着かない。

 夜の荒野は静かだった。岩の冷たさが背中からじわりと染み込んでくる。沼地の湿気を纏った衣服は乾ききらず、夜風に晒されるたびに肌へ薄く貼り付いた。沼の泥の匂いがまだ微かに漂っている。頭上には星が散らばっているが、地上には光がない。闇は輪郭を溶かし、荒野と夜空の境界を曖昧にしていた。ルナシアは膝を抱えるようにして座り、視線を荒れた地面へと落とす。ドルスは隣で腕を組み、何かを考えているのか、あるいは何も考えていないのか、その横顔からは読み取れない。

 気まずい沈黙からくる焦りだけが、胸の中で空回りしていた。いつもであれば誰かが橋を架けてくれた。コギトの軽口が静寂を砕き、ロギアの穏やかな声が場を包んでくれた。その橋が今はない。繋がりの細い糸を握りしめたまま——そう感じながら、ルナシアはただ夜風の音を聞いていた。

「メッセージだ、ロギアは無事らしいぜ。だが敵の多いエリアに逃げちまったらしい、向こうからこっちに合流するのは難しいってよ」

 ドルスの腕から、不機嫌そうな、どこか怠そうな声が聞こえる。沼地の泥で汚れた灰色の外套に隠れて、その姿は窺えない。

「やっと連絡か、遅いっちゅうねん。ん? あー、ルナシアちゃんは初めてか。こいつが俺の《ペナテス》セグニや。普段はこうやって腕に纏わりついて、なーんもせえへん」

 ルナシアが不思議そうにしているとドルスが腕にかかった外套を捲り、肌を露出させた。そこには群青色の細長い蛇が巻き付いている。小さな目がルナシアを捉え、つい身構えてしまう。それを見たドルスが、すっと外套を戻し視界を遮った。

「苦手やろ? 蛇やしな。普段から魂測体でめったに人型にはならんし、面倒くさがって会話にも入ってこんから、無理になれんでええよ」
「う、うん」

 今まで蛇に苦手意識を持ったことはなかったが、間近で見たそれは少し気味が悪かった。セグニという普通ではない存在へ向けた感想ではあったが、値踏みするように静止していたあの群青の瞳が、まだ瞼の裏に残っていた。夜の底に沈んだような、冷たい色だった。

 ドルスが再び腕を組み、視線を遠くへ向ける。外套の内側、蛇はもう沈黙している。ルナシアはそっと息を吐いた。白く細い息が夜気に溶けて、消えた。それだけで、肺の奥に溜まっていた何かが少しほどけた気がした。

「んで、どうしよか。先生が動けんから俺らが向かう必要があんねんけど、先生がいる場所へはあの沼地を通らんといけんしな。俺と二人で大丈夫そうか?」

 それが、あの巨大蛙との再戦を意味しないことはルナシアにも理解できた。確認されているのは、ドルスと二人きりで行動できるかどうか。巨大蛙と出くわせば逃げるという選択肢がある。しかしドルスと共に動くということに関しては、途中でやっぱり無理です、とはいかない。

 横目でオルドを見ても、小さな観測者からのフォローはない。何を助けてくれて何を助けてくれないのか、未だに掴めない案内人。今はただ虚空を眺めている。

「だ、大丈夫」

 本心ではある。先ほど笑い合いながら一緒に逃げた。あの瞬間、恐怖よりも可笑しさが勝って、二人して笑った。あれは確かに本物だったはずだ。経験値は確かに積もっているはずだ。それでも、不安は完全に払拭されない。

 コギトのような軽快な言葉も、ロギアのような包み込む声も、ここにはない。ドルスが言うように外套の内で眠るように静かな《ペナテス》は、積極的に会話へ入ってきてはくれない。あるのはただ、夜の荒野を渡る風と、冷えた岩肌と、隣に座るドルスの静けさだけだった。その静けさは重くも冷たくもなかったが、ルナシアにはまだうまく馴染めない。

 夜風が一度、強く吹いた。ルナシアの髪を攫い、乾いた砂粒を連れて闇の中へ消えていく。その一瞬だけ、世界が息を吸ったような気がした。沈黙は続いているのに、空気の重さがほんのわずかに変わっていた。気のせいかもしれない。それでもルナシアは、その違いをどこかで感じ取っていた。

 ドルスはそんなルナシアの様子を見て腕を組み、唸るような声を漏らしながら思考を巡らせる。

「っし、セーフワードを決めよか。俺は先生みたいに機微を読み取れんから、どうしても無理やってなったらできるだけ大きな声でそれを叫んで離脱してくれ。ログアウトでも走って離脱でも構わんから。気づいたらいないとか、無理に我慢するより、これが一番ええと思う。そもそもセーフワードっていうのは元々……んー、なんて言うか、いや、これはええか」

 言い淀んでから、「教育に悪いかもしれん」と小さく呟く。ルナシアの聴覚はそれを聞き逃さなかったが、深堀りする勇気はさすがになかった。

「とにかく、そやな……『ピザ』でええか。うん。我慢できなくなったら『ピザ!』って言って離脱。わかった?」

 ルナシアは小さく頷く。「ピザ」という単語に意味はないのだろう。離脱の意図がない場面で咄嗟に出てこない言葉であれば、なんでもいい。肝心なのは、離脱が許されているという安心感だった。

 シリアスな夜の荒野に似つかわしくない「ピザ」という単語が、ルナシアの胸の内に小さな灯りをともした。逃げてもいい——その安堵が、じわりと広がっていく。

 不思議だった。約束でも契約でもない、たった一単語。それだけのことが、こんなにも息を楽にする。ドルスが気を遣ってそうしたのか、それとも単なる経験則なのか、ルナシアには判断がつかなかった。ただ、どちらでもよかった。差し出されたものを受け取ることと、その意図を理解することは、別のことだと今は思う。

 岩に預けた背中から、ほんのわずかに力が抜けていった。

「んじゃ、デカい蛙と出会った時の動きを決めとこか。倒せば金になる、でも無理に倒す必要はない。それを前提に作戦立てるで。まあ、基本は変わらん。初撃は俺が、そのあとルナシアちゃんな。ただ目的は敵の退路を塞ぐんやなく、鱗を剥がすこと。そうすればルナシアちゃんの攻撃が通るやろ」

 それを聞いて、今度はルナシアが考え込んだ。

「でも私の攻撃、全然効いてなかった……」

 力を込めて放った一撃が、分厚い壁に吸い込まれるようにして消えていった感触を思い出す。届いているはずなのに届いていない。その不全感はまだ指先に薄く残っていた。

「多分、威力が減衰するんだよ」

 オルドが口を開く。幾何学模様はルナシアに向けられず、ただ変わらず座ったままぼんやりと虚無を見つめていた。

「強力な能力ほど何かしら制約が付く。理論上は魔力が続く限りどこまでも遠くへ伸ばせるけど、恐らくそのぶん威力が落ちる。ルナシアは攻撃力自体がそれほど高くないから、耐久力の高い敵とは相性が悪いんだろうね。ストレージに魔力回復効果のある食べ物があるから、食べておくことを推奨するよ」

「疲労感が出るからね」と続けて、オルドは口を閉ざした。

 ルナシアはアイテムストレージから助言通り微弱な魔力回復効果のある加工肉を取り出し、口に含む。オルドの助言を無視していくつかの手痛い失敗を経験している、同じ轍は踏まない。
 癖のない味だが、何とも言えない獣臭さが鼻腔をくすぐる。ポーションよりはマシだが、あまり得意な香りではなかった。奥歯で嚙み締めながら夜の稜線(りょうせん)を眺める。星明かりの下、大地の輪郭だけが薄く浮かんでいる。昼であれば赤みを帯びているはずの地平は今は夜の色に沈み、空と大地の境界が闇の中に静かに溶けていた。

 ここはゲームの中だ。わかっている。それでも夜風は冷たいし、肉の味はするし、岩の冷たさが背に残る。

「オルド大丈夫?」

 硬めの肉を鋭い犬歯で嚙み千切りながら、座ったまま動かないオルドを気に掛ける。先ほどから言葉がなく、あの薄い気配すら夜の底へゆっくりと沈んでいくようだった。

「問題ない(斬域制御)の観測結果の解析にリソースを割いてるだけだよ。二度目の観測とはいえ情報が少ないから、時間がかかってる。申し訳ないけど、しばらくスリープするよ。戦闘開始と同時に起動する」

 そう言い残してオルドは目を開いたまま沈黙した。虚空を覗く瞳から幾何学模様は消え、ただ深い海の色だけが残されている。満ちていた気配が潮の引くように凪いで、夜の静寂にもうひとつの層が加わった。

 ルナシアは視線をオルドからドルスへと移した。彼はもう立ち上がりかけていて、外套の裾が夜風に揺れている。

「せめて魂測体になってから……まあええわ。俺が背負ってく。食べ終わったら出発しよか、食べ歩きはお行儀悪いからな」

 そのあまりにも平然とした一言に、ルナシアは小さく息を吐いた。頼れる人がいる。ただそれだけのことで、今は十分だった。加工肉の最後の一切れを呑み込んで、ルナシアはゆっくりと立ち上がる。
 岩から離れた背中に、冷たさの名残がしばらく貼り付いていた。隣に並んで初めて気づく、ドルスの背の高さ。頼れるとか信じられるとか、そういう言葉はまだ遠い。ただ、隣にいる——それだけが今は確かだった。

 沼地の匂いはもう、夜風の中に薄れていた。​​​​​​​​​​​​​​​​


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 そわそわしている。何か、何か言葉を発さなければ。何を言えばいいのかわからないのに、ずっとそんな思考が渦巻いている。
 沼地エリアを抜け、巨大蛙から逃げ果せたドルスとルナシアは、荒野エリアへと足を戻していた。逃げる途中でロギアと逸れ、ドルスと二人きり。今は大きな岩に背を預けている。先ほどから会話はなく、ルナシアはどこか落ち着かない。
 夜の荒野は静かだった。岩の冷たさが背中からじわりと染み込んでくる。沼地の湿気を纏った衣服は乾ききらず、夜風に晒されるたびに肌へ薄く貼り付いた。沼の泥の匂いがまだ微かに漂っている。頭上には星が散らばっているが、地上には光がない。闇は輪郭を溶かし、荒野と夜空の境界を曖昧にしていた。ルナシアは膝を抱えるようにして座り、視線を荒れた地面へと落とす。ドルスは隣で腕を組み、何かを考えているのか、あるいは何も考えていないのか、その横顔からは読み取れない。
 気まずい沈黙からくる焦りだけが、胸の中で空回りしていた。いつもであれば誰かが橋を架けてくれた。コギトの軽口が静寂を砕き、ロギアの穏やかな声が場を包んでくれた。その橋が今はない。繋がりの細い糸を握りしめたまま——そう感じながら、ルナシアはただ夜風の音を聞いていた。
「メッセージだ、ロギアは無事らしいぜ。だが敵の多いエリアに逃げちまったらしい、向こうからこっちに合流するのは難しいってよ」
 ドルスの腕から、不機嫌そうな、どこか怠そうな声が聞こえる。沼地の泥で汚れた灰色の外套に隠れて、その姿は窺えない。
「やっと連絡か、遅いっちゅうねん。ん? あー、ルナシアちゃんは初めてか。こいつが俺の《ペナテス》セグニや。普段はこうやって腕に纏わりついて、なーんもせえへん」
 ルナシアが不思議そうにしているとドルスが腕にかかった外套を捲り、肌を露出させた。そこには群青色の細長い蛇が巻き付いている。小さな目がルナシアを捉え、つい身構えてしまう。それを見たドルスが、すっと外套を戻し視界を遮った。
「苦手やろ? 蛇やしな。普段から魂測体でめったに人型にはならんし、面倒くさがって会話にも入ってこんから、無理になれんでええよ」
「う、うん」
 今まで蛇に苦手意識を持ったことはなかったが、間近で見たそれは少し気味が悪かった。セグニという普通ではない存在へ向けた感想ではあったが、値踏みするように静止していたあの群青の瞳が、まだ瞼の裏に残っていた。夜の底に沈んだような、冷たい色だった。
 ドルスが再び腕を組み、視線を遠くへ向ける。外套の内側、蛇はもう沈黙している。ルナシアはそっと息を吐いた。白く細い息が夜気に溶けて、消えた。それだけで、肺の奥に溜まっていた何かが少しほどけた気がした。
「んで、どうしよか。先生が動けんから俺らが向かう必要があんねんけど、先生がいる場所へはあの沼地を通らんといけんしな。俺と二人で大丈夫そうか?」
 それが、あの巨大蛙との再戦を意味しないことはルナシアにも理解できた。確認されているのは、ドルスと二人きりで行動できるかどうか。巨大蛙と出くわせば逃げるという選択肢がある。しかしドルスと共に動くということに関しては、途中でやっぱり無理です、とはいかない。
 横目でオルドを見ても、小さな観測者からのフォローはない。何を助けてくれて何を助けてくれないのか、未だに掴めない案内人。今はただ虚空を眺めている。
「だ、大丈夫」
 本心ではある。先ほど笑い合いながら一緒に逃げた。あの瞬間、恐怖よりも可笑しさが勝って、二人して笑った。あれは確かに本物だったはずだ。経験値は確かに積もっているはずだ。それでも、不安は完全に払拭されない。
 コギトのような軽快な言葉も、ロギアのような包み込む声も、ここにはない。ドルスが言うように外套の内で眠るように静かな《ペナテス》は、積極的に会話へ入ってきてはくれない。あるのはただ、夜の荒野を渡る風と、冷えた岩肌と、隣に座るドルスの静けさだけだった。その静けさは重くも冷たくもなかったが、ルナシアにはまだうまく馴染めない。
 夜風が一度、強く吹いた。ルナシアの髪を攫い、乾いた砂粒を連れて闇の中へ消えていく。その一瞬だけ、世界が息を吸ったような気がした。沈黙は続いているのに、空気の重さがほんのわずかに変わっていた。気のせいかもしれない。それでもルナシアは、その違いをどこかで感じ取っていた。
 ドルスはそんなルナシアの様子を見て腕を組み、唸るような声を漏らしながら思考を巡らせる。
「っし、セーフワードを決めよか。俺は先生みたいに機微を読み取れんから、どうしても無理やってなったらできるだけ大きな声でそれを叫んで離脱してくれ。ログアウトでも走って離脱でも構わんから。気づいたらいないとか、無理に我慢するより、これが一番ええと思う。そもそもセーフワードっていうのは元々……んー、なんて言うか、いや、これはええか」
 言い淀んでから、「教育に悪いかもしれん」と小さく呟く。ルナシアの聴覚はそれを聞き逃さなかったが、深堀りする勇気はさすがになかった。
「とにかく、そやな……『ピザ』でええか。うん。我慢できなくなったら『ピザ!』って言って離脱。わかった?」
 ルナシアは小さく頷く。「ピザ」という単語に意味はないのだろう。離脱の意図がない場面で咄嗟に出てこない言葉であれば、なんでもいい。肝心なのは、離脱が許されているという安心感だった。
 シリアスな夜の荒野に似つかわしくない「ピザ」という単語が、ルナシアの胸の内に小さな灯りをともした。逃げてもいい——その安堵が、じわりと広がっていく。
 不思議だった。約束でも契約でもない、たった一単語。それだけのことが、こんなにも息を楽にする。ドルスが気を遣ってそうしたのか、それとも単なる経験則なのか、ルナシアには判断がつかなかった。ただ、どちらでもよかった。差し出されたものを受け取ることと、その意図を理解することは、別のことだと今は思う。
 岩に預けた背中から、ほんのわずかに力が抜けていった。
「んじゃ、デカい蛙と出会った時の動きを決めとこか。倒せば金になる、でも無理に倒す必要はない。それを前提に作戦立てるで。まあ、基本は変わらん。初撃は俺が、そのあとルナシアちゃんな。ただ目的は敵の退路を塞ぐんやなく、鱗を剥がすこと。そうすればルナシアちゃんの攻撃が通るやろ」
 それを聞いて、今度はルナシアが考え込んだ。
「でも私の攻撃、全然効いてなかった……」
 力を込めて放った一撃が、分厚い壁に吸い込まれるようにして消えていった感触を思い出す。届いているはずなのに届いていない。その不全感はまだ指先に薄く残っていた。
「多分、威力が減衰するんだよ」
 オルドが口を開く。幾何学模様はルナシアに向けられず、ただ変わらず座ったままぼんやりと虚無を見つめていた。
「強力な能力ほど何かしら制約が付く。理論上は魔力が続く限りどこまでも遠くへ伸ばせるけど、恐らくそのぶん威力が落ちる。ルナシアは攻撃力自体がそれほど高くないから、耐久力の高い敵とは相性が悪いんだろうね。ストレージに魔力回復効果のある食べ物があるから、食べておくことを推奨するよ」
「疲労感が出るからね」と続けて、オルドは口を閉ざした。
 ルナシアはアイテムストレージから助言通り微弱な魔力回復効果のある加工肉を取り出し、口に含む。オルドの助言を無視していくつかの手痛い失敗を経験している、同じ轍は踏まない。
 癖のない味だが、何とも言えない獣臭さが鼻腔をくすぐる。ポーションよりはマシだが、あまり得意な香りではなかった。奥歯で嚙み締めながら夜の稜線《りょうせん》を眺める。星明かりの下、大地の輪郭だけが薄く浮かんでいる。昼であれば赤みを帯びているはずの地平は今は夜の色に沈み、空と大地の境界が闇の中に静かに溶けていた。
 ここはゲームの中だ。わかっている。それでも夜風は冷たいし、肉の味はするし、岩の冷たさが背に残る。
「オルド大丈夫?」
 硬めの肉を鋭い犬歯で嚙み千切りながら、座ったまま動かないオルドを気に掛ける。先ほどから言葉がなく、あの薄い気配すら夜の底へゆっくりと沈んでいくようだった。
「問題ない。《斬域制御》の観測結果の解析にリソースを割いてるだけだよ。二度目の観測とはいえ情報が少ないから、時間がかかってる。申し訳ないけど、しばらくスリープするよ。戦闘開始と同時に起動する」
 そう言い残してオルドは目を開いたまま沈黙した。虚空を覗く瞳から幾何学模様は消え、ただ深い海の色だけが残されている。満ちていた気配が潮の引くように凪いで、夜の静寂にもうひとつの層が加わった。
 ルナシアは視線をオルドからドルスへと移した。彼はもう立ち上がりかけていて、外套の裾が夜風に揺れている。
「せめて魂測体になってから……まあええわ。俺が背負ってく。食べ終わったら出発しよか、食べ歩きはお行儀悪いからな」
 そのあまりにも平然とした一言に、ルナシアは小さく息を吐いた。頼れる人がいる。ただそれだけのことで、今は十分だった。加工肉の最後の一切れを呑み込んで、ルナシアはゆっくりと立ち上がる。
 岩から離れた背中に、冷たさの名残がしばらく貼り付いていた。隣に並んで初めて気づく、ドルスの背の高さ。頼れるとか信じられるとか、そういう言葉はまだ遠い。ただ、隣にいる——それだけが今は確かだった。
 沼地の匂いはもう、夜風の中に薄れていた。​​​​​​​​​​​​​​​​