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第二十二節 小さな雛の口へ

ー/ー



 ヴェルノーラの街の宿、その一室に頭を抱える獣人の少女の姿があった。正確には少女と呼べるか悩む年齢ではあるが、小さな体と幼い顔つきにぶら下がるツインテールが、彼女の齢を正確には測らせてくれない。

 部屋の面々の反応は様々で、笑いこける中年の男性と、同情の視線を送る壮年の男性と灰白の少女。
それから、淡々と報告を続ける——柔らかな髪に星空を宿した、小さな観測者。四者四様の空気が、宿の一室という狭い器の中で、それぞれ別の温度を保っていた。

ドルスと勝手に《友好の契り》を結んだのは問題ない。買い物を勝手にしていたのも、まあ問題ではない。自分で買い物をしていれば無駄遣いをしていた自信はあるし、街が喧騒で溢れ外出できないだろうというのもその通りだ。

ただ、どうやら彼女が頭を抱えたのは、ここ三日の自身の行動にあるらしい。この三日間、彼女は小さな観測者に甲斐甲斐しく世話をされるだけの、所謂ヒモ生活を怠惰にも送っていたらしい。飯の世話までされていたという。恥というものには厚さがある。ルナシアのそれは今、なかなかの重みに達していた。

「最後にドルスが言っていたイベントについてだけど、これは極めて試験的なものだ。ゲーム内加速時間のシステムの初導入、そのテストを兼ねている」
「通常は現実世界の時間とリンクしているゲーム内の時間を、イベント中だけ加速させて引き延ばすシステムらしいわ。一時間を二十四倍——つまり現実の一時間で、ここでは一日が経過する。これを三時間だけ、ってことやね。各街にイベント用ダンジョンへの入り口ができて、踏破時間を競うシンプルな仕様で、順位に応じて賞金がでる」

 そんなところだね、とオルドが話を締めくくる。

「試験的なイベントだからな、特別な素材やアイテムの獲得はねーみたいだぜ。参加しても金がもらえるだけだかんな」
「んぅ、わかった、と思う……」

 三日間溜めた報告の数々、そしてイベントの告知。言葉という荷物が次々と積まれ、小さな頭の棚はとうに満杯だった。ルナシアの処理能力は限界に近い。これが漫画であれば、頭から煙が出ていても不思議ではない。

「そのイベント、今日の夜からでね。だから急いで戻ってきたんだ——ルナシアはイベントに興味あるかい?」

 ロギアの言葉に、途端に喉が詰まる。唾液がうまく呑み込めない。興味など、そんなものは微塵もない。ダンジョンだとかイベントだとか、そんなものを求めてこの世界にいるのではない。ルナシアの動機は一貫して「現実ではない、痛くない、優しい世界」だけを求めている。今までの戦闘も選択も、そのためにある。イベントなんて、人が多く集まりそうなもの——御免こうむりたい。

 それでも、「興味がない」の一声が出てこないのは、怖いから。自分のために遮音カバーを買いに行ってくれた、何枚も買ってきてくれた。そんな友人が、今自分を死地へ誘おうとしている。胸の奥で何かが小さく軋んだ。身を隠してしまいたい主人を余所に、耳は垂れ、尻尾は体へと巻き付いていた。ルナシアはただ、小さく、小さくなっていく。
それを見たドルスが、ロギアの後頭部を叩く。部屋の中に気持ちのいい音が響いた。

「こんのド阿保が! 怖がってもうてるやろが、ちゃんと最後まで説明せんかい! 口下手星の口下手星人が!」
「すまない。いや本当に、すまない……そんなつもりではなかったんだ。きちんと説明する前に、落ち着いて、ゆっくり呼吸をするんだ。私が原因なのは重々承知しているが、呼吸が乱れている。ゆっくり、落ち着いて、丁寧に」

 伸ばそうとして躊躇ったロギアの手が、宙を彷徨う。行き場を失ったまま、どこにも触れられずにいた。代わりに、オルドの小さな手がルナシアの背中を撫でた。以前は指示を受けなければ伸びてこなかった手が、今は自らルナシアの背をさする。その手つきは相変わらず機械的で、感情などないようで——それでも以前より、どこか温かい気がした。冬の日差しのような、主張しない温もり。

「ごめんなさい、取り乱しちゃって……もう、大丈夫だよ」

 言葉とは裏腹に、一度走った衝動はなかなか消えない。波は凪ぐまでには時間がかかる。胸の内側はまだわずかにざわめいていた。強張ったままの背中を、オルドはさすり続けている。

「誤解させて悪かった、結論から言うね。私もドルスも、このイベントに参加するつもりはないんだ。だから、ルナシアを誘おうとしたんじゃない。教職に就いていながら恥ずかしい限りなんだが、どうやら言葉が足りないことがあるようで。怖い思いをさせて申し訳なかった」

 ロギアはルナシアの前へ移動して、腰を落として目線を合わせる。彷徨っていた手が、今度こそルナシアへと届く。男性にしては小さく、不器用で、血の通った温かい手がルナシアの頭を、小さく撫でた。それを後ろから見ていたドルスとコギトが、うんうんと大きく何度も頷く。

「ここから少し遠いところに大きな街があって、記帳したことのある宿へ転移できるスキルが手に入るんだ。イベントで街のプレイヤーは減るだろうし、まとまった時間もとれる。この機会に——そこまで一緒に行かないかい、と誘いたかったんだ」

 今までで一番近い距離に、ロギアがいる。その手が、初めて自分に触れている。それでも、嫌悪感はなかった。恐れていたはずの距離が、今は痛くない。ルナシアにとって、ロギアはすでに、それを許せる存在になっていた。いつの間に、とは思う。けれど問い返す必要はないことも、どこかで知っていた。

「そっか……私こそごめんなさい、勝手に勘違いしちゃって。私も、一緒に行きたい、かな」
「っし、決まりやね。俺らは一度ログアウトして夜にまたログインするけど、ルナシアちゃんは?」
「私はしばらく時間あるから、このまま残るよ」

 どの道、夜になるまでそう時間はない。特に予定もないので、このまま残る選択をした。
三人と別れたあとは、読みかけの本を手に読書を再開する。ページをめくるたび、静かな時間が部屋に積もっていく。それを見たオルドが調理場へと消え、細かく切られたパンを乗せた皿を運んでくる。香ばしくて優しい小麦の香りが、空気の中にそっと溶けた。ルナシアの鼻がぴくぴくと動く。

「ルナシア、本格的に読書を始める前に食事を……」

 言い終わる前に、ルナシアの口は小さく開かれている。

「世のすべての親に敬意を」

 それだけ呟いて、細かく切られたパンを少しずつ、小さな雛の口へと運ぶ。その所作には迷いがなく、まるで最初からそういうものとして備わっていたかのようだった。
ここ三日で、オルドは《ペナテス》らしからぬ経験値を多く積んだ。

 結局、日が暮れてロギアがルナシアを訪ねるまで、彼女が空想の世界から帰還することはなかった。窓の外では、ヴェルノーラの空が橙から藍へと静かに染まっていった。その色の移ろいを、ルナシアはとうとう見ることがなかった。


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 ヴェルノーラの街の宿、その一室に頭を抱える獣人の少女の姿があった。正確には少女と呼べるか悩む年齢ではあるが、小さな体と幼い顔つきにぶら下がるツインテールが、彼女の齢を正確には測らせてくれない。
 部屋の面々の反応は様々で、笑いこける中年の男性と、同情の視線を送る壮年の男性と灰白の少女。
それから、淡々と報告を続ける——柔らかな髪に星空を宿した、小さな観測者。四者四様の空気が、宿の一室という狭い器の中で、それぞれ別の温度を保っていた。
ドルスと勝手に《友好の契り》を結んだのは問題ない。買い物を勝手にしていたのも、まあ問題ではない。自分で買い物をしていれば無駄遣いをしていた自信はあるし、街が喧騒で溢れ外出できないだろうというのもその通りだ。
ただ、どうやら彼女が頭を抱えたのは、ここ三日の自身の行動にあるらしい。この三日間、彼女は小さな観測者に甲斐甲斐しく世話をされるだけの、所謂ヒモ生活を怠惰にも送っていたらしい。飯の世話までされていたという。恥というものには厚さがある。ルナシアのそれは今、なかなかの重みに達していた。
「最後にドルスが言っていたイベントについてだけど、これは極めて試験的なものだ。ゲーム内加速時間のシステムの初導入、そのテストを兼ねている」
「通常は現実世界の時間とリンクしているゲーム内の時間を、イベント中だけ加速させて引き延ばすシステムらしいわ。一時間を二十四倍——つまり現実の一時間で、ここでは一日が経過する。これを三時間だけ、ってことやね。各街にイベント用ダンジョンへの入り口ができて、踏破時間を競うシンプルな仕様で、順位に応じて賞金がでる」
 そんなところだね、とオルドが話を締めくくる。
「試験的なイベントだからな、特別な素材やアイテムの獲得はねーみたいだぜ。参加しても金がもらえるだけだかんな」
「んぅ、わかった、と思う……」
 三日間溜めた報告の数々、そしてイベントの告知。言葉という荷物が次々と積まれ、小さな頭の棚はとうに満杯だった。ルナシアの処理能力は限界に近い。これが漫画であれば、頭から煙が出ていても不思議ではない。
「そのイベント、今日の夜からでね。だから急いで戻ってきたんだ——ルナシアはイベントに興味あるかい?」
 ロギアの言葉に、途端に喉が詰まる。唾液がうまく呑み込めない。興味など、そんなものは微塵もない。ダンジョンだとかイベントだとか、そんなものを求めてこの世界にいるのではない。ルナシアの動機は一貫して「現実ではない、痛くない、優しい世界」だけを求めている。今までの戦闘も選択も、そのためにある。イベントなんて、人が多く集まりそうなもの——御免こうむりたい。
 それでも、「興味がない」の一声が出てこないのは、怖いから。自分のために遮音カバーを買いに行ってくれた、何枚も買ってきてくれた。そんな友人が、今自分を死地へ誘おうとしている。胸の奥で何かが小さく軋んだ。身を隠してしまいたい主人を余所に、耳は垂れ、尻尾は体へと巻き付いていた。ルナシアはただ、小さく、小さくなっていく。
それを見たドルスが、ロギアの後頭部を叩く。部屋の中に気持ちのいい音が響いた。
「こんのド阿保が! 怖がってもうてるやろが、ちゃんと最後まで説明せんかい! 口下手星の口下手星人が!」
「すまない。いや本当に、すまない……そんなつもりではなかったんだ。きちんと説明する前に、落ち着いて、ゆっくり呼吸をするんだ。私が原因なのは重々承知しているが、呼吸が乱れている。ゆっくり、落ち着いて、丁寧に」
 伸ばそうとして躊躇ったロギアの手が、宙を彷徨う。行き場を失ったまま、どこにも触れられずにいた。代わりに、オルドの小さな手がルナシアの背中を撫でた。以前は指示を受けなければ伸びてこなかった手が、今は自らルナシアの背をさする。その手つきは相変わらず機械的で、感情などないようで——それでも以前より、どこか温かい気がした。冬の日差しのような、主張しない温もり。
「ごめんなさい、取り乱しちゃって……もう、大丈夫だよ」
 言葉とは裏腹に、一度走った衝動はなかなか消えない。波は凪ぐまでには時間がかかる。胸の内側はまだわずかにざわめいていた。強張ったままの背中を、オルドはさすり続けている。
「誤解させて悪かった、結論から言うね。私もドルスも、このイベントに参加するつもりはないんだ。だから、ルナシアを誘おうとしたんじゃない。教職に就いていながら恥ずかしい限りなんだが、どうやら言葉が足りないことがあるようで。怖い思いをさせて申し訳なかった」
 ロギアはルナシアの前へ移動して、腰を落として目線を合わせる。彷徨っていた手が、今度こそルナシアへと届く。男性にしては小さく、不器用で、血の通った温かい手がルナシアの頭を、小さく撫でた。それを後ろから見ていたドルスとコギトが、うんうんと大きく何度も頷く。
「ここから少し遠いところに大きな街があって、記帳したことのある宿へ転移できるスキルが手に入るんだ。イベントで街のプレイヤーは減るだろうし、まとまった時間もとれる。この機会に——そこまで一緒に行かないかい、と誘いたかったんだ」
 今までで一番近い距離に、ロギアがいる。その手が、初めて自分に触れている。それでも、嫌悪感はなかった。恐れていたはずの距離が、今は痛くない。ルナシアにとって、ロギアはすでに、それを許せる存在になっていた。いつの間に、とは思う。けれど問い返す必要はないことも、どこかで知っていた。
「そっか……私こそごめんなさい、勝手に勘違いしちゃって。私も、一緒に行きたい、かな」
「っし、決まりやね。俺らは一度ログアウトして夜にまたログインするけど、ルナシアちゃんは?」
「私はしばらく時間あるから、このまま残るよ」
 どの道、夜になるまでそう時間はない。特に予定もないので、このまま残る選択をした。
三人と別れたあとは、読みかけの本を手に読書を再開する。ページをめくるたび、静かな時間が部屋に積もっていく。それを見たオルドが調理場へと消え、細かく切られたパンを乗せた皿を運んでくる。香ばしくて優しい小麦の香りが、空気の中にそっと溶けた。ルナシアの鼻がぴくぴくと動く。
「ルナシア、本格的に読書を始める前に食事を……」
 言い終わる前に、ルナシアの口は小さく開かれている。
「世のすべての親に敬意を」
 それだけ呟いて、細かく切られたパンを少しずつ、小さな雛の口へと運ぶ。その所作には迷いがなく、まるで最初からそういうものとして備わっていたかのようだった。
ここ三日で、オルドは《ペナテス》らしからぬ経験値を多く積んだ。
 結局、日が暮れてロギアがルナシアを訪ねるまで、彼女が空想の世界から帰還することはなかった。窓の外では、ヴェルノーラの空が橙から藍へと静かに染まっていった。その色の移ろいを、ルナシアはとうとう見ることがなかった。