死にゆく世界
ー/ー 勇斗は、見張りの塔の頂上に戻ってきた。
辺りを見渡す。紫色だった空はさらに濁り、生き物のように脈打っている。
真弘とシグネリアが、走ってきた。その後ろを、ロンが杖をつきながら歩いてくる。
「あれから、どれくらい時間が経った?」
勇斗の声は、低く鋭かった。真弘たちは一瞬目を見開き、すぐに表情を引き締めた。
「一週間、じゃよ」
返答に迷う二人の代わりに、ロンが答える。
「そうか」
皆の顔を見るのが、すでに何年も前の出来事のようだった。
「世界は、どうなっている?」
勇斗は、ロンに視線を向けた。その目には、以前にはない冷たさがあった。
「……お主が消えたあと、知り合いと伝書鳥で何度かやり取りをした。世界は、死んだも同然じゃ」
ロンは一度、言葉を切った。
「地面のいたるところから鋭い根や花が生え、命を喰らっておる。魔族は姿形を変え、暴れ回っておる」
声が、わずかに震える。
「セク砂漠では異常な砂嵐が巻き起こり、ウルパは雪崩に飲み込まれてしまった。唯一被害を免れているのが、トトイ周辺の高原。そこに、避難所が設けられておる」
勇斗は無言でうなずいたあと、天を仰いだ。濁った空は、修行の空間で見たどんな景色よりも生々しかった。
「僕は今から、ランパを助けに行く」
「助けに行くって、場所はわかるの?」
真弘が首を傾げた。
「マナの聖域だ。ランパとヴェンは、そこにいる。精霊樹の枝が、そこだと示している」
勇斗は、ランパが残していった精霊樹の枝を眺めた。
「真弘くんは、どうする?」
「お、おれも行く! おれにも責任があるから」
真弘は両手を握りしめた。
「わかった。シグネリアは?」
「私は、避難所に行きます。民を、安心させなければいけません」
シグネリアは、凜とした声で言った。
「ロンさんは、どうしますか?」
「ホッホ。わしは、ここから世界の行く末を見届けさせてもらおうかの」
「わかりました」
勇斗は一礼し、塔の欄干へと歩いた。
「真弘くん、飛竜を」
「あ、うん」
真弘の横にいた赤い子竜が、ちょこちょこと歩き出し、小さな羽を羽ばたかせる。
瞬間、子竜の姿が変化した。体が膨れ、翼が広がり、低い咆哮が空を震わせる。
「行くぞ」
勇斗たちは飛竜の背に乗り、淀んだ空へと飛び立った。
飛竜に乗って進んでいると、眼下に赤い光が揺らめいた。
「あそこは、確かキーナの村だ。すまない、一度下ろしてくれ」
飛竜は旋回しながら高度を下げ、大地へと降り立った。
キーナの村は、燃えていた。赤い炎が家々を包み、黒煙が空へと立ち上っている。
勇斗の頭に、孤児院の院長と、子供たちの顔が浮かんだ。
まだ、生きていてくれ。
ここは、アルトの故郷だ。これ以上、奪わせたくなかった。
勇斗は、ドラシガーの先端に青白い炎を灯した。緑の煙が口内を満たす。胸の奥で、ラマシルが静かに脈打った。
煙をまとい、駆け出す。
村の中には、多くの怪物がうろついていた。全身が歪んだ骨でできた巨大な四足獣だった。骨の隙間から、黒い瘴気が滲み出ている。
怪物は家屋に体当たりし、粉砕する。瓦礫の中から何かを引きずり出した。人だった。
やめろ、と胸の奥で叫ぶ。
次の瞬間、怪物の足が振り下ろされる。赤い飛沫が、炎の光を反射して散った。
勇斗は、煙を足に集中させた。
次の瞬間には、怪物の眼前に立っていた。
剣は止まらない。骨の束が、音もなく断ち切られる。怪物は、崩れ落ちる前に絶命していた。
「きゃああっ!」
振り返る。巨大な虫が、シグネリアに襲いかかっていた。黒光りする顎が開き、牙が彼女の頭部へと迫る。
「うわあああああっ!」
真弘の斧が振り下ろされる。地面に叩きつけるように、巨大虫を潰した。黒い液体が飛び散り、歪な臭気が広がる。
真弘は涙を流しながら、荒い息を吐いていた。
「マヒロくん、まだ来る!」
シグネリアが叫んだ。
地面が盛り上がる。土を割って、巨大虫が次々と姿を現す。
たちまち、真弘とシグネリアは囲まれた。
勇斗は地を蹴った。だが、背後から重い振動が伝わる。
素早く体を反転させる。
巨大な四足獣が群れをなして突進してくる。骨が軋み、瘴気が尾を引いている。
持ちこたえろ、真弘くん。
勇斗は、群れを正面から見据えた。
緑の煙が、細く揺れた。
村が静まり返るまで、長くはかからなかった。
消えゆく化け物の骸を見下ろしながら、勇斗は煙を吐いた。
「勇斗にいちゃん」
目に涙を浮かべた真弘が駆け寄ってくる。漆黒の鎧は、返り血でさらに黒く染まっていた。
「よくやった」
勇斗はそれ以上何も言わず、村の奥へ歩いていった。
瓦礫を越え、生存者を探す。だが、転がっているのは死体ばかりだった。悲壮な表情のまま息絶えた者、首のない者、原型をとどめていない者。異臭が、ドラシガーの香りを塗り潰す。
やがて、勇斗は孤児院の前で足を止めた。
かつて笑い声に満ちていた場所には、瓦礫と、小さな手足が散らばっていた。
「ユート、この子、まだ息があるわ」
シグネリアが、青髪の少年の肩を揺らしていた。
「どいてくれ」
勇斗はかがみ込み、少年の顔を覗き込む。
「トンキ――」
青い髪は煤と血にまみれ、本来の色を失っていた。額にかかった前髪の隙間から、半ば開いた目が覗く。だが、焦点は合っていない。
「アルト……アルトか?」
わずかに間を置いて、勇斗は「ああ」と答えた。
「来てくれたん……だな」
「すまない、遅かった」
「俺、子供たちを……守れなかった……情けないよな」
「そんなことは、ない」
トンキの手に握られた長剣は刃こぼれし、先端が欠けている。それでも、柄は離されていなかった。
「最後に、お前の声を聞けて、よかったよ」
その直後、トンキの喉から、かすかな息が抜けた。
勇斗はゆっくりと立ち上がった。
目を閉じることも、手を握ることもなかった。ただ、煙を深く吸い込み、静かに吐く。
勇斗たちは、墓を作った。場所は、崩れた塀の陰を選んだ。
石を積む。名は刻まなかった。それでも、ここに人がいたことだけは、残る。
勇斗は、手を合わせなかった。
一歩、後ろへ下がる。
立ち止まっている暇は、もうなかった。
村を出たところで、勇斗は足を止めた。
マントの内側に手を入れる。指先に触れるはずの感触がなかった。
ドラシガーが、尽きたか。
最後の一本は、キーナの村で灰になっている。
ランパはいない。新しいドラシガーが生まれるはずはなかった。
勇斗は、精霊樹の枝を取り出した。
掌の上で、枝がかすかに震え、淡い光を帯びた。
勇斗は、息を呑んだ。
ランパ、そこにいるのか。
精霊樹の枝と、三つの指輪が宙に浮かぶ。光が絡み合い、煙のように渦を巻く。
やがて、三本のドラシガーが静かに形を結んだ。
勇斗は、それを見つめたまま、ゆっくりと息を吐く。
「……あと、三本しかない」
勇斗の手にあるものは、もう無限ではなかった。
「勇斗にいちゃん、何してるの? はやく行こうよ!」
翼を広げた飛竜の上で、真弘が手を振っている。
勇斗は、三本のドラシガーをマントの内側に収めた。
「すまない、すぐ行く」
勇斗は飛竜のもとへ駆け寄った。
高原地帯の上空を、飛竜は滑るように進んでいた。
勇斗は目を凝らす。眼下の一点に、不自然な光の集まりがあった。松明だ。不揃いな揺れ方が、そこに人がいることを示していた。
「あれが、避難所か」
勇斗が合図すると、飛竜はゆっくりと降下を始めた。
着地と同時に、周囲の空気が硬くなった。
武装した人々が一斉に取り囲んだ。人間に加え、モッケ族とオル族もいる。
怯え、怒り、疑い。むき出しの感情が、勇斗たちへ向けられる。
数人が弓を引いた。弦が軋む音が、はっきりと聞こえた。
「待て!」
ミュールが群衆を押しのけ、飛竜の前に立つ。
「こいつらはオレたちの仲間だ。武器を下ろせ!」
一瞬のためらい。やがて、弓はゆっくりと下げられた。
「ユート、生きていたんだな」
「ああ」
飛竜の背から降り立った勇斗は、わずかに頷いた。
「えっと、そっちの女の人は……」
ミュールの視線がシグネリアに向く。
「シグネリア王女だ」
「こ、これは失礼しました!」
ミュールは慌てて頭を下げた。尻尾が、落ち着きなく揺れた。
「かしこまらなくていいわ。今は立場より、命の方が大事でしょう?」
シグネリアの声は穏やかだが、芯は強い。
「ミュール、避難所を案内して。私にしかできないことがあるわ」
「わ、わかった。……ユートも来るか?」
「ああ。状況を把握したい」
その言葉に、ミュールは一瞬だけ黙った。
「お前、本当にユートか?」
勇斗は静かに頷く。
「……なんか、急に雰囲気変わったな。ま、いい。ついてこい」
勇斗とシグネリアが歩き出す。群衆も一斉に背を向けた。
「えっと、お、おれは……」
取り残された真弘に、ミュールの視線が向く。
「真弘、だったな。悪いが、中には入れられねぇ」
声は低いが、責めるような響きはなかった。
「ここには、魔族に家族を殺された奴が大勢いる。お前を信用してねえわけじゃない。だが、今は刺激を増やせない。避難所を守るためだ。わかってくれ」
真弘は一瞬唇を噛み、それから頷いた。
「わかった。おれ、ここで待ってる」
しゅんと肩を落とす真弘の頬を、飛竜の舌がぺろりと舐めた。
防壁を越え、避難所の中に入る。倒木を並べた柵。縄で縛っただけの支柱。傾いた櫓。全てが急ごしらえだった。
炊き出しの鍋の前に列がある。肩が触れ合うほど密だが、誰も割り込まない。割り込む余力すらないのかもしれない。
少し進むと、怪我人の一角があった。毛布の上に横たわる者。腕を吊られた者。脚を板で固定された者。看護師が無言で走り回っている。トトイの診療所にいた、アリシアの姿も見えた。
怪我人の中に、見覚えのある顔があった。勇斗は思わず立ち止まってしまった。
スラム街で出会った、シリとイメルだった。
シリは、眠っているように見える。イメルは勇斗を見ると、眉をつり上げた。その後、すぐに目線を逸らした。
勇斗は、短く息を吐いたあと、再び歩いた。
防壁の上では、見張りが交代している。目の下に濃い影を落とし、湿地の向こうを睨み続けている。
「お前は……確か、勇者ユートか」
低い声。モッケ族の族長、ウォルゼが立っていた。勇斗は頭を下げた。
「勇者よ。きみは、どこに行く」
「大切な仲間を、助けに行きます」
ウォルゼはしばらく勇斗を見つめ、それから言った。
「ならば、ここを見るな。振り返るな」
勇斗は、ウォルゼと目を合わせたあと、静かに頷いた。
「ユート!」
人波をかき分け、チカップが駆け寄ってきた。左耳の耳飾りが忙しなく揺れている。
「チカップ、無事だったか」
「あれくらいでくたばるほど、やわじゃねーっス」
ニッと、チカップは笑った。
「それにしてもユート……なんか変わったっスね。前とは別人みたいだ。何があったんスか?」
三つの目が、まっすぐ勇斗を射抜く。
「そうなんだよ。ほんと、別人みたいだろ?」
ミュールが歩み寄る。浮かない顔のまま、腕を組んだ。
「一週間でここまで変わるものかしらね。まるでアルトみたいになってしまったわ」
シグネリアがため息をつき、静かに目を伏せる。
その瞬間だった。
「敵襲! す、すごい大群だ!」
地鳴りが足元を震わせた。悲鳴が上がる。避難所の空気が一瞬で崩れた。
勇斗は反射的にマントへ手を伸ばす。
「ダメだ」
ミュールが叫んだ。
「お前はチビスケを助けに行け。ここはオレたちが止める」
ミュールは不敵に笑い、両腕のガントレットを打ち鳴らした。
「寄り道しちゃダメっスよ」
チカップは、じっと勇斗の目を見据えたあと、羽ペンを取り出した。
「ユート、健闘を祈ります」
シグネリアの両手が、勇斗の右手を包み込んだ。
勇斗は仲間たちを見渡す。
ここに残る者たちは、死ぬかもしれない。それでも、自分を送り出してくれている。胸の奥が熱くなるのを、ぐっと押し殺した。
「……任せる」
それだけ告げ、仲間たちに背を向けた。
大地を蹴る。
勇斗は、振り返らなかった。
辺りを見渡す。紫色だった空はさらに濁り、生き物のように脈打っている。
真弘とシグネリアが、走ってきた。その後ろを、ロンが杖をつきながら歩いてくる。
「あれから、どれくらい時間が経った?」
勇斗の声は、低く鋭かった。真弘たちは一瞬目を見開き、すぐに表情を引き締めた。
「一週間、じゃよ」
返答に迷う二人の代わりに、ロンが答える。
「そうか」
皆の顔を見るのが、すでに何年も前の出来事のようだった。
「世界は、どうなっている?」
勇斗は、ロンに視線を向けた。その目には、以前にはない冷たさがあった。
「……お主が消えたあと、知り合いと伝書鳥で何度かやり取りをした。世界は、死んだも同然じゃ」
ロンは一度、言葉を切った。
「地面のいたるところから鋭い根や花が生え、命を喰らっておる。魔族は姿形を変え、暴れ回っておる」
声が、わずかに震える。
「セク砂漠では異常な砂嵐が巻き起こり、ウルパは雪崩に飲み込まれてしまった。唯一被害を免れているのが、トトイ周辺の高原。そこに、避難所が設けられておる」
勇斗は無言でうなずいたあと、天を仰いだ。濁った空は、修行の空間で見たどんな景色よりも生々しかった。
「僕は今から、ランパを助けに行く」
「助けに行くって、場所はわかるの?」
真弘が首を傾げた。
「マナの聖域だ。ランパとヴェンは、そこにいる。精霊樹の枝が、そこだと示している」
勇斗は、ランパが残していった精霊樹の枝を眺めた。
「真弘くんは、どうする?」
「お、おれも行く! おれにも責任があるから」
真弘は両手を握りしめた。
「わかった。シグネリアは?」
「私は、避難所に行きます。民を、安心させなければいけません」
シグネリアは、凜とした声で言った。
「ロンさんは、どうしますか?」
「ホッホ。わしは、ここから世界の行く末を見届けさせてもらおうかの」
「わかりました」
勇斗は一礼し、塔の欄干へと歩いた。
「真弘くん、飛竜を」
「あ、うん」
真弘の横にいた赤い子竜が、ちょこちょこと歩き出し、小さな羽を羽ばたかせる。
瞬間、子竜の姿が変化した。体が膨れ、翼が広がり、低い咆哮が空を震わせる。
「行くぞ」
勇斗たちは飛竜の背に乗り、淀んだ空へと飛び立った。
飛竜に乗って進んでいると、眼下に赤い光が揺らめいた。
「あそこは、確かキーナの村だ。すまない、一度下ろしてくれ」
飛竜は旋回しながら高度を下げ、大地へと降り立った。
キーナの村は、燃えていた。赤い炎が家々を包み、黒煙が空へと立ち上っている。
勇斗の頭に、孤児院の院長と、子供たちの顔が浮かんだ。
まだ、生きていてくれ。
ここは、アルトの故郷だ。これ以上、奪わせたくなかった。
勇斗は、ドラシガーの先端に青白い炎を灯した。緑の煙が口内を満たす。胸の奥で、ラマシルが静かに脈打った。
煙をまとい、駆け出す。
村の中には、多くの怪物がうろついていた。全身が歪んだ骨でできた巨大な四足獣だった。骨の隙間から、黒い瘴気が滲み出ている。
怪物は家屋に体当たりし、粉砕する。瓦礫の中から何かを引きずり出した。人だった。
やめろ、と胸の奥で叫ぶ。
次の瞬間、怪物の足が振り下ろされる。赤い飛沫が、炎の光を反射して散った。
勇斗は、煙を足に集中させた。
次の瞬間には、怪物の眼前に立っていた。
剣は止まらない。骨の束が、音もなく断ち切られる。怪物は、崩れ落ちる前に絶命していた。
「きゃああっ!」
振り返る。巨大な虫が、シグネリアに襲いかかっていた。黒光りする顎が開き、牙が彼女の頭部へと迫る。
「うわあああああっ!」
真弘の斧が振り下ろされる。地面に叩きつけるように、巨大虫を潰した。黒い液体が飛び散り、歪な臭気が広がる。
真弘は涙を流しながら、荒い息を吐いていた。
「マヒロくん、まだ来る!」
シグネリアが叫んだ。
地面が盛り上がる。土を割って、巨大虫が次々と姿を現す。
たちまち、真弘とシグネリアは囲まれた。
勇斗は地を蹴った。だが、背後から重い振動が伝わる。
素早く体を反転させる。
巨大な四足獣が群れをなして突進してくる。骨が軋み、瘴気が尾を引いている。
持ちこたえろ、真弘くん。
勇斗は、群れを正面から見据えた。
緑の煙が、細く揺れた。
村が静まり返るまで、長くはかからなかった。
消えゆく化け物の骸を見下ろしながら、勇斗は煙を吐いた。
「勇斗にいちゃん」
目に涙を浮かべた真弘が駆け寄ってくる。漆黒の鎧は、返り血でさらに黒く染まっていた。
「よくやった」
勇斗はそれ以上何も言わず、村の奥へ歩いていった。
瓦礫を越え、生存者を探す。だが、転がっているのは死体ばかりだった。悲壮な表情のまま息絶えた者、首のない者、原型をとどめていない者。異臭が、ドラシガーの香りを塗り潰す。
やがて、勇斗は孤児院の前で足を止めた。
かつて笑い声に満ちていた場所には、瓦礫と、小さな手足が散らばっていた。
「ユート、この子、まだ息があるわ」
シグネリアが、青髪の少年の肩を揺らしていた。
「どいてくれ」
勇斗はかがみ込み、少年の顔を覗き込む。
「トンキ――」
青い髪は煤と血にまみれ、本来の色を失っていた。額にかかった前髪の隙間から、半ば開いた目が覗く。だが、焦点は合っていない。
「アルト……アルトか?」
わずかに間を置いて、勇斗は「ああ」と答えた。
「来てくれたん……だな」
「すまない、遅かった」
「俺、子供たちを……守れなかった……情けないよな」
「そんなことは、ない」
トンキの手に握られた長剣は刃こぼれし、先端が欠けている。それでも、柄は離されていなかった。
「最後に、お前の声を聞けて、よかったよ」
その直後、トンキの喉から、かすかな息が抜けた。
勇斗はゆっくりと立ち上がった。
目を閉じることも、手を握ることもなかった。ただ、煙を深く吸い込み、静かに吐く。
勇斗たちは、墓を作った。場所は、崩れた塀の陰を選んだ。
石を積む。名は刻まなかった。それでも、ここに人がいたことだけは、残る。
勇斗は、手を合わせなかった。
一歩、後ろへ下がる。
立ち止まっている暇は、もうなかった。
村を出たところで、勇斗は足を止めた。
マントの内側に手を入れる。指先に触れるはずの感触がなかった。
ドラシガーが、尽きたか。
最後の一本は、キーナの村で灰になっている。
ランパはいない。新しいドラシガーが生まれるはずはなかった。
勇斗は、精霊樹の枝を取り出した。
掌の上で、枝がかすかに震え、淡い光を帯びた。
勇斗は、息を呑んだ。
ランパ、そこにいるのか。
精霊樹の枝と、三つの指輪が宙に浮かぶ。光が絡み合い、煙のように渦を巻く。
やがて、三本のドラシガーが静かに形を結んだ。
勇斗は、それを見つめたまま、ゆっくりと息を吐く。
「……あと、三本しかない」
勇斗の手にあるものは、もう無限ではなかった。
「勇斗にいちゃん、何してるの? はやく行こうよ!」
翼を広げた飛竜の上で、真弘が手を振っている。
勇斗は、三本のドラシガーをマントの内側に収めた。
「すまない、すぐ行く」
勇斗は飛竜のもとへ駆け寄った。
高原地帯の上空を、飛竜は滑るように進んでいた。
勇斗は目を凝らす。眼下の一点に、不自然な光の集まりがあった。松明だ。不揃いな揺れ方が、そこに人がいることを示していた。
「あれが、避難所か」
勇斗が合図すると、飛竜はゆっくりと降下を始めた。
着地と同時に、周囲の空気が硬くなった。
武装した人々が一斉に取り囲んだ。人間に加え、モッケ族とオル族もいる。
怯え、怒り、疑い。むき出しの感情が、勇斗たちへ向けられる。
数人が弓を引いた。弦が軋む音が、はっきりと聞こえた。
「待て!」
ミュールが群衆を押しのけ、飛竜の前に立つ。
「こいつらはオレたちの仲間だ。武器を下ろせ!」
一瞬のためらい。やがて、弓はゆっくりと下げられた。
「ユート、生きていたんだな」
「ああ」
飛竜の背から降り立った勇斗は、わずかに頷いた。
「えっと、そっちの女の人は……」
ミュールの視線がシグネリアに向く。
「シグネリア王女だ」
「こ、これは失礼しました!」
ミュールは慌てて頭を下げた。尻尾が、落ち着きなく揺れた。
「かしこまらなくていいわ。今は立場より、命の方が大事でしょう?」
シグネリアの声は穏やかだが、芯は強い。
「ミュール、避難所を案内して。私にしかできないことがあるわ」
「わ、わかった。……ユートも来るか?」
「ああ。状況を把握したい」
その言葉に、ミュールは一瞬だけ黙った。
「お前、本当にユートか?」
勇斗は静かに頷く。
「……なんか、急に雰囲気変わったな。ま、いい。ついてこい」
勇斗とシグネリアが歩き出す。群衆も一斉に背を向けた。
「えっと、お、おれは……」
取り残された真弘に、ミュールの視線が向く。
「真弘、だったな。悪いが、中には入れられねぇ」
声は低いが、責めるような響きはなかった。
「ここには、魔族に家族を殺された奴が大勢いる。お前を信用してねえわけじゃない。だが、今は刺激を増やせない。避難所を守るためだ。わかってくれ」
真弘は一瞬唇を噛み、それから頷いた。
「わかった。おれ、ここで待ってる」
しゅんと肩を落とす真弘の頬を、飛竜の舌がぺろりと舐めた。
防壁を越え、避難所の中に入る。倒木を並べた柵。縄で縛っただけの支柱。傾いた櫓。全てが急ごしらえだった。
炊き出しの鍋の前に列がある。肩が触れ合うほど密だが、誰も割り込まない。割り込む余力すらないのかもしれない。
少し進むと、怪我人の一角があった。毛布の上に横たわる者。腕を吊られた者。脚を板で固定された者。看護師が無言で走り回っている。トトイの診療所にいた、アリシアの姿も見えた。
怪我人の中に、見覚えのある顔があった。勇斗は思わず立ち止まってしまった。
スラム街で出会った、シリとイメルだった。
シリは、眠っているように見える。イメルは勇斗を見ると、眉をつり上げた。その後、すぐに目線を逸らした。
勇斗は、短く息を吐いたあと、再び歩いた。
防壁の上では、見張りが交代している。目の下に濃い影を落とし、湿地の向こうを睨み続けている。
「お前は……確か、勇者ユートか」
低い声。モッケ族の族長、ウォルゼが立っていた。勇斗は頭を下げた。
「勇者よ。きみは、どこに行く」
「大切な仲間を、助けに行きます」
ウォルゼはしばらく勇斗を見つめ、それから言った。
「ならば、ここを見るな。振り返るな」
勇斗は、ウォルゼと目を合わせたあと、静かに頷いた。
「ユート!」
人波をかき分け、チカップが駆け寄ってきた。左耳の耳飾りが忙しなく揺れている。
「チカップ、無事だったか」
「あれくらいでくたばるほど、やわじゃねーっス」
ニッと、チカップは笑った。
「それにしてもユート……なんか変わったっスね。前とは別人みたいだ。何があったんスか?」
三つの目が、まっすぐ勇斗を射抜く。
「そうなんだよ。ほんと、別人みたいだろ?」
ミュールが歩み寄る。浮かない顔のまま、腕を組んだ。
「一週間でここまで変わるものかしらね。まるでアルトみたいになってしまったわ」
シグネリアがため息をつき、静かに目を伏せる。
その瞬間だった。
「敵襲! す、すごい大群だ!」
地鳴りが足元を震わせた。悲鳴が上がる。避難所の空気が一瞬で崩れた。
勇斗は反射的にマントへ手を伸ばす。
「ダメだ」
ミュールが叫んだ。
「お前はチビスケを助けに行け。ここはオレたちが止める」
ミュールは不敵に笑い、両腕のガントレットを打ち鳴らした。
「寄り道しちゃダメっスよ」
チカップは、じっと勇斗の目を見据えたあと、羽ペンを取り出した。
「ユート、健闘を祈ります」
シグネリアの両手が、勇斗の右手を包み込んだ。
勇斗は仲間たちを見渡す。
ここに残る者たちは、死ぬかもしれない。それでも、自分を送り出してくれている。胸の奥が熱くなるのを、ぐっと押し殺した。
「……任せる」
それだけ告げ、仲間たちに背を向けた。
大地を蹴る。
勇斗は、振り返らなかった。
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