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第11話 麗子嬢が来た夜

ー/ー



月見橋交差点の夜は、たいてい静かに始まる。
 信号が変わる電子音、コンビニの自動ドア、遠くを走るタクシーの重いタイヤ音。そんな音が混ざり合って、この街の夜の空気がゆっくりと出来上がっていく。
 その交差点から一本入った細い路地に、赤いランプを灯す店がある。――Red Light Bar。カウンター八席だけの、小さな、けれど今夜は“予感”に満ちた店だ。

その夜、異変は“匂い”から始まった。
 タケさんがいつも通りグラスを拭いていた。角度も、速度も、いつもと変わらない。だが、ふと、その手が止まった。
「……なんか、来るな」
 特等席で神様がグラスを傾けたまま、低く応じる。
「……来ますね。風向きが変わりました」
「ただ事じゃねぇ匂いだぜ、こいつは」ゴウちゃんが腕を組み、ドアを睨む。
「データ的に推測すると、重要イベントの発生確率は九十二パーセントです」
「何のデータだよ」とタケさんが突っ込む。
その直後、ドアが開いた。
 一瞬で、店内の酸素が書き換えられた。
 黒いレザージャケットに、艶やかな赤髪。耳元で揺れる大ぶりのピアス。コンクリートを叩くヒールの音が、メトロノームのように正確に響く。
 女は一歩だけ中に入り、品定めをするように店内を見渡した。 「……ここ?」
 低く、ハスキーな声。落ち着いているのに、不思議と鼓膜に深く刺さる。
 常連たちの背筋が、軍隊のように一斉に伸びた。タケさんが一歩前に出る。
「い、いらっしゃい……セクシー」
 ミルクちゃんがいないのに、反射的にその言葉が出た。
 女は一瞬だけ眉を上げ、ふっと、夜霧が晴れるように笑った。 「……面白い店ね」
その瞬間、男たちの脳内スイッチが「全入れ」になった。
「あ、こっちの席へどうぞ!」とゴウちゃんが椅子を引く。
「よろしければ、これを使ってください」とマウスがポケットティッシュを差し出す。
「……なんで今ティッシュなんだよ」とタケさんの小声が虚しく響く。
女は流れるような動作でカウンターに座った。
「麗子」
 それだけを名乗り、煙草を取り出す。神様が、これ以上ないほど優雅に火を差し出した。
「いいお名前ですね」
「……ふっ、事件の匂いがするな」工藤ちゃんが帽子のつばを弄る。
「「「「しない」」」」
 タケさんが、少しだけ声を整えて聞いた。
「……何、飲む?」
「強いのを」
「具体的には」
「強ければ、それでいい」
「……一番、困る注文だな」
 タケさんは苦笑しながら、手際よくボトルを選び始めた。
その間、男たちの“アホの競演”が幕を開ける。
「麗子さん、ダンディってのはね、背筋の角度なんですよ」とゴウちゃんが胸を張る。
「違います。顎を十五度上に向ける『俯瞰のポエム』こそが重要です」とマウス。
「いや、歩き方だ。自分の影と会話するように歩くんだ」と工藤ちゃん。
「影と会話ってなんだよ」
「……存在感、そのものです」と神様。
「一番分からんわ!」
麗子がくすくすと笑った。その笑い声一つで、男たちのテンションはさらに加速する。
「見ていろ。これが真の歩き方だ」
 ゴウちゃんが立ち上がり、肩を怒らせてゆっくりと歩き出す。だが、気負いすぎて足元のコースターを踏み、盛大に滑った。
「おっとぉ! 危ねぇ!」
「素人ですね。こうですよ」
 マウスが顎を突き出し、完全に天井を仰ぎ見ながら行進する。案の定、そのまま壁に正面衝突した。
「痛っ……! 計算外です」
「……お前ら、修行が足りんな」
 工藤ちゃんが帽子を深くかぶり、カニのように真横に向かって歩き出す。
「……なんで横歩きなんだよ」
「死角を作らない。これがプロの探偵だ」
「バーに暗殺者は来ねえよ」
麗子が声を上げて笑う中、タケさんが静かにグラスを差し出した。 「……ほら、強いの。お待たせ」
「ありがとう」
 麗子が一口含む。喉を焼くような酒に、彼女は満足げに目を細めた。
「……いいわね、これ」
 その一言で、タケさんの肩からようやく力が抜けた。
そこへ、賑やかな風が吹き込む。
「ただいま~~♡」
 ミルクちゃんとマユ姐のコンビが登場した。二人は一瞬で空気を察知する。
「……何この、バカの運動会」
「ダンディ選手権だ」とゴウちゃん。
 「バカじゃないの」「本当、救いようがないわね」
 ミルクちゃんが麗子をじっと見る。
「……あんた、強いわね」
 麗子が微笑む。
「そう?」
「ええ。面白いわ、気に入ったわ」
 女同士の不思議な連帯感が、瞬時に出来上がる。
男たちはさらに張り切る。
「女性が求める『真のダンディ』とは何か! それを教えてくれ」 「金よ」とマユ姐が即答する。
「早いな!」
「何の話?」金の権化、ヒロがちょうど入ってくる。
「来るな、夢のない男」とゴウちゃん。
「ダンディなんてね、気遣いと余裕よ」とミルクちゃんがまとめる。
麗子が、空になったグラスを見つめながら、ぽつりと呟いた。 「……あとね、ちゃんと見てくれる人」
 店内が、不意に静まり返った。
「カッコつけてる人なんて、見てればすぐ分かる。でもね、何も飾ってないのに、ただそこに『ちゃんといる』人。そういうのが、一番強いのよ」
 タケさんが、グラスを拭く手を止めて少しだけ笑った。
「……それって、タケさんじゃないっすか」
 りょうちんが素朴に言うと、一瞬の静寂の後、マユ姐もミルクちゃんも、小さく頷いた。
「……そうね」「まあ、認めざるを得ないわね」
「くっそ……負けた気分だぜ」ゴウちゃんが頭をかく。
「……ふっ、事件だな」
「「「「しない」」」」
麗子が席を立った。
「また来るわ」
 男たちの心拍数が跳ね上がる音が聞こえそうだ。
「次はもっとダンディを磨いておきなさいよ」とマユ姐。
「無理だろ、こいつらには」とタケさんが笑う。
 麗子がドアの前で、肩越しに振り返った。
「……もう、なっている人がいるじゃない」
 彼女は、タケさんをほんの一瞬だけ、真っ直ぐに見つめた。そして、夜の街へと消えていった。
沈黙。
「……今の、見たか?」とゴウちゃん。
「バッチリ、ログに保存しました」とマウス。
「……事件だ」
「「「「しない!!」」」」
タケさんは何も言わず、いつもよりほんの少しだけ丁寧に、麗子の使ったグラスを磨き始めた。
「……たまには、こういう夜もいいわね」マユ姐が静かに呟く。
「うん、たまにはね」
 神様が静かにグラスを上げた。
この店のダンディズムは、きっとこれからも変わらない。
 アホで、騒がしくて、自分の足でつまづいて。
 けれど、誰かが店に来た時、変わらずそこにいて「いらっしゃい」と迎える。
 それでいい。それが、この店の誇りなのだ。
「ところで、俺の横歩き、かなりキマってたよな?」
「「「「「最悪だったよ!!」」」」」  
  いつもの笑い声が、再び赤いランプの下に溢れ出した。
 そして今夜もまた、Red
Light Barで何かが起こっていた。

――この店の夜は、まだ終わらない。
(続きは22時)


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月見橋交差点の夜は、たいてい静かに始まる。
 信号が変わる電子音、コンビニの自動ドア、遠くを走るタクシーの重いタイヤ音。そんな音が混ざり合って、この街の夜の空気がゆっくりと出来上がっていく。
 その交差点から一本入った細い路地に、赤いランプを灯す店がある。――Red Light Bar。カウンター八席だけの、小さな、けれど今夜は“予感”に満ちた店だ。
その夜、異変は“匂い”から始まった。
 タケさんがいつも通りグラスを拭いていた。角度も、速度も、いつもと変わらない。だが、ふと、その手が止まった。
「……なんか、来るな」
 特等席で神様がグラスを傾けたまま、低く応じる。
「……来ますね。風向きが変わりました」
「ただ事じゃねぇ匂いだぜ、こいつは」ゴウちゃんが腕を組み、ドアを睨む。
「データ的に推測すると、重要イベントの発生確率は九十二パーセントです」
「何のデータだよ」とタケさんが突っ込む。
その直後、ドアが開いた。
 一瞬で、店内の酸素が書き換えられた。
 黒いレザージャケットに、艶やかな赤髪。耳元で揺れる大ぶりのピアス。コンクリートを叩くヒールの音が、メトロノームのように正確に響く。
 女は一歩だけ中に入り、品定めをするように店内を見渡した。 「……ここ?」
 低く、ハスキーな声。落ち着いているのに、不思議と鼓膜に深く刺さる。
 常連たちの背筋が、軍隊のように一斉に伸びた。タケさんが一歩前に出る。
「い、いらっしゃい……セクシー」
 ミルクちゃんがいないのに、反射的にその言葉が出た。
 女は一瞬だけ眉を上げ、ふっと、夜霧が晴れるように笑った。 「……面白い店ね」
その瞬間、男たちの脳内スイッチが「全入れ」になった。
「あ、こっちの席へどうぞ!」とゴウちゃんが椅子を引く。
「よろしければ、これを使ってください」とマウスがポケットティッシュを差し出す。
「……なんで今ティッシュなんだよ」とタケさんの小声が虚しく響く。
女は流れるような動作でカウンターに座った。
「麗子」
 それだけを名乗り、煙草を取り出す。神様が、これ以上ないほど優雅に火を差し出した。
「いいお名前ですね」
「……ふっ、事件の匂いがするな」工藤ちゃんが帽子のつばを弄る。
「「「「しない」」」」
 タケさんが、少しだけ声を整えて聞いた。
「……何、飲む?」
「強いのを」
「具体的には」
「強ければ、それでいい」
「……一番、困る注文だな」
 タケさんは苦笑しながら、手際よくボトルを選び始めた。
その間、男たちの“アホの競演”が幕を開ける。
「麗子さん、ダンディってのはね、背筋の角度なんですよ」とゴウちゃんが胸を張る。
「違います。顎を十五度上に向ける『俯瞰のポエム』こそが重要です」とマウス。
「いや、歩き方だ。自分の影と会話するように歩くんだ」と工藤ちゃん。
「影と会話ってなんだよ」
「……存在感、そのものです」と神様。
「一番分からんわ!」
麗子がくすくすと笑った。その笑い声一つで、男たちのテンションはさらに加速する。
「見ていろ。これが真の歩き方だ」
 ゴウちゃんが立ち上がり、肩を怒らせてゆっくりと歩き出す。だが、気負いすぎて足元のコースターを踏み、盛大に滑った。
「おっとぉ! 危ねぇ!」
「素人ですね。こうですよ」
 マウスが顎を突き出し、完全に天井を仰ぎ見ながら行進する。案の定、そのまま壁に正面衝突した。
「痛っ……! 計算外です」
「……お前ら、修行が足りんな」
 工藤ちゃんが帽子を深くかぶり、カニのように真横に向かって歩き出す。
「……なんで横歩きなんだよ」
「死角を作らない。これがプロの探偵だ」
「バーに暗殺者は来ねえよ」
麗子が声を上げて笑う中、タケさんが静かにグラスを差し出した。 「……ほら、強いの。お待たせ」
「ありがとう」
 麗子が一口含む。喉を焼くような酒に、彼女は満足げに目を細めた。
「……いいわね、これ」
 その一言で、タケさんの肩からようやく力が抜けた。
そこへ、賑やかな風が吹き込む。
「ただいま~~♡」
 ミルクちゃんとマユ姐のコンビが登場した。二人は一瞬で空気を察知する。
「……何この、バカの運動会」
「ダンディ選手権だ」とゴウちゃん。
 「バカじゃないの」「本当、救いようがないわね」
 ミルクちゃんが麗子をじっと見る。
「……あんた、強いわね」
 麗子が微笑む。
「そう?」
「ええ。面白いわ、気に入ったわ」
 女同士の不思議な連帯感が、瞬時に出来上がる。
男たちはさらに張り切る。
「女性が求める『真のダンディ』とは何か! それを教えてくれ」 「金よ」とマユ姐が即答する。
「早いな!」
「何の話?」金の権化、ヒロがちょうど入ってくる。
「来るな、夢のない男」とゴウちゃん。
「ダンディなんてね、気遣いと余裕よ」とミルクちゃんがまとめる。
麗子が、空になったグラスを見つめながら、ぽつりと呟いた。 「……あとね、ちゃんと見てくれる人」
 店内が、不意に静まり返った。
「カッコつけてる人なんて、見てればすぐ分かる。でもね、何も飾ってないのに、ただそこに『ちゃんといる』人。そういうのが、一番強いのよ」
 タケさんが、グラスを拭く手を止めて少しだけ笑った。
「……それって、タケさんじゃないっすか」
 りょうちんが素朴に言うと、一瞬の静寂の後、マユ姐もミルクちゃんも、小さく頷いた。
「……そうね」「まあ、認めざるを得ないわね」
「くっそ……負けた気分だぜ」ゴウちゃんが頭をかく。
「……ふっ、事件だな」
「「「「しない」」」」
麗子が席を立った。
「また来るわ」
 男たちの心拍数が跳ね上がる音が聞こえそうだ。
「次はもっとダンディを磨いておきなさいよ」とマユ姐。
「無理だろ、こいつらには」とタケさんが笑う。
 麗子がドアの前で、肩越しに振り返った。
「……もう、なっている人がいるじゃない」
 彼女は、タケさんをほんの一瞬だけ、真っ直ぐに見つめた。そして、夜の街へと消えていった。
沈黙。
「……今の、見たか?」とゴウちゃん。
「バッチリ、ログに保存しました」とマウス。
「……事件だ」
「「「「しない!!」」」」
タケさんは何も言わず、いつもよりほんの少しだけ丁寧に、麗子の使ったグラスを磨き始めた。
「……たまには、こういう夜もいいわね」マユ姐が静かに呟く。
「うん、たまにはね」
 神様が静かにグラスを上げた。
この店のダンディズムは、きっとこれからも変わらない。
 アホで、騒がしくて、自分の足でつまづいて。
 けれど、誰かが店に来た時、変わらずそこにいて「いらっしゃい」と迎える。
 それでいい。それが、この店の誇りなのだ。
「ところで、俺の横歩き、かなりキマってたよな?」
「「「「「最悪だったよ!!」」」」」  
  いつもの笑い声が、再び赤いランプの下に溢れ出した。
 そして今夜もまた、Red
Light Barで何かが起こっていた。
――この店の夜は、まだ終わらない。
(続きは22時)