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第12話 ミルクの夜は忙しい

ー/ー



月見橋交差点の夜は、たいてい静かに始まる。
信号が変わる電子音、コンビニの自動ドア、遠くを走るタクシーの重いタイヤ音。そんな日常の断片が混ざり合って、この街特有の夜の空気がゆっくりと出来上がっていく。
 その交差点から一本入った細い路地に、赤いランプを灯す店がある。――Red Light Bar。
カウンター八席だけの、小さな、けれど今夜は珍しく凪(なぎ)のような静寂に包まれた店だ。


「……静かすぎて、逆に落ち着かねえな」  タケさんが手持ち無沙汰にグラスを拭きながら呟く。
「嵐の前の静けさ、というやつですかね」とゴウちゃんが腕を組む。
「単に客が来てないだけでしょ。景気の悪いこと言わないでよ」とマユ姐。
「客足が途絶えるのは、経営学的には最大級の嵐です」とマウス。
「数字で脅すなよ。……お、噂をすれば」
その直後、ドアが蹴破らんばかりの勢いで開いた。
「ただいまぁあああああああああああ!!!!」
 鼓膜を震わす爆音と共になだれ込んできたのは――ミルクだった。
「「「「うるさい!!」」」」
 店内に揃ったツッコミを無視して、ミルクはカウンターに身を乗り出した。
「ちょっと聞いてよ! 今日のあたしの人生、完全に全米が泣くレベルの全24話ドラマだったんだから!」
「毎日最終回みたいな騒ぎ方すんなよ」とタケさん。
「今日はマジなの! 五反田が、今日だけは戦場だったのよ!」
神様が静かにグラスを置いた。
「……何があった」
 ミルクは深く息を吸い、語り始めた。
「まずね、開店早々に現れたのが――“自称・ITベンチャー社長”」
「もうその肩書きだけで怪しいっすね」とりょうちん。
「そいつがさ、“俺、女を見る目だけはあるんだよね”とか言いながら、あたしに“その胸、本物かどうか触って確かめていい?”って言ってきたのよ」
「即、出禁だな」とタケさん。
「で、どうしたのよ」とマユ姐。
 ミルクは不敵に笑った。
「“いいわよ♡ ただし有料ね。三十分十万。前金で、今すぐ”って言ったわ」
「「「「高ぇな!!」」」」
「そしたら脱兎の如く逃げてったわ。あー、安上がりな男」
「でもね、本番はここから。次に来たのが――“本気(マジ)で恋してるおじさん”」
「……それは、よくある話だろう」と神様。
「違うのよ! その人、会うたびにプロポーズしてくるの! “ミルクちゃん、君を必ず幸せにする。店なんか辞めて、僕のところにおいで”って」
「重いな。……で、なんて返したんだ?」とゴウちゃん。
 ミルクはグラスを見つめ、ふっと柔らかく笑った。
「“もう十分幸せだから、大丈夫よ”って」
一瞬、店が静まり返った。
「……で、どうなったんだ?」とタケさん。
「泣いたわ」
「泣いたのか」
「おじさんが」
「そっちかよ!」
 店にどっと笑いが起きた。
「でもね、あたしちょっと思ったのよ」ミルクの声が、少しだけ低くなる。
「“幸せにする”って、随分と乱暴な言葉よね」
 神様が、深く頷いた。「……左様。傲慢な言葉でもある」
「だってさ、自分が幸せかどうかって、他人に決められるもんじゃないじゃない?
自分で決める特権なのよ、それは」
「……珍しく、本質を突くじゃない」マユ姐が感心したように煙草をくゆらす。
「でしょ? ……あ、でも三分後にはどうでもいい話するから安心して♡」
「「「「するだろうな」」」」
その時、再びドアが開いた。
 入ってきたのは、二十代半ばの女性。肩をすぼめ、今にも消え入りそうな顔で席に座った。
「いらっしゃい、セクシー。……何にする?」
「……あの、ここ初めてで。……カクテルの名前、よく分からなくて」
「大丈夫よぉ♡」ミルクがすかさず隣に滑り込む。
「この店、見た目より中身が五倍は変だから、何言っても恥ずかしくないわよ♡」
「……安心できない情報ですね」とマウス。
女性は少しだけ表情を緩めた。
「……今日、ちょっと落ち込んでて」
「出た。事件の匂いだ」工藤ちゃんが帽子のつばを触る。
「「「「黙れ」」」」
 ミルクは女性をじっと覗き込んだ。
「……失恋?」
 女性は目を見開いた。「……なんで分かるんですか」
「分かるわよ。心臓が半分くらい外に溢れ出してる顔してるもの」  女性は俯き、声を絞り出した。
「彼に……“重い”って言われて。……私、ただ、ちゃんと向き合いたかっただけなのに」
ミルクは静かに、けれど断定するように言った。
「それ、全然重くないわよ」
「え……?」
「向き合うのって、めちゃくちゃ体力がいるの。逃げる方が何倍も楽なのよ。だからね、“重い”って言葉を使って逃げる男は――」
 ミルクは一拍置いて、言い切った。
「ただの、スタミナ不足の臆病者。それだけ」  
 店がしんと静まる。女性の瞳に、少しだけ熱が戻った。
「……そっか。逃げてたのは、彼の方だったんだ」
「そうよ! そんな男、こっちから熨斗(のし)付けて返品よ!」マユ姐が追い討ちをかける。
「でもね」ミルクが笑った。
「ちゃんと向き合おうとしたあんたは、最高にタフで、いい女よ」
その時、カラン、とドアが開いた。
「ミルクちゃぁぁぁぁぁぁん!!!」
 先ほどの“プロポーズおじさん”が、血相を変えて飛び込んできた。
「また来た!」と全員。
「君にもう一度伝えなきゃと思って! 僕は本気なんだ!!」
「今忙しいの! ストップ!」
 ミルクが凛とした声を響かせた。
「おじさん。人を幸せにしたいなら、まず自分の足でちゃんと立ちなさいよ」
 おじさんが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まる。
「自分がぐらぐらのままで、誰かを支えようとするから共倒れになるの。それが本当の“重さ”よ。……それが分かったら、また一杯飲みに来なさい。以上!」
おじさんは、魂を抜かれたように呆然と立ち尽くした後、小さく「……はい」と答えて、静かに店を出て行った。
 数秒の沈黙の後、さんがボソッと言った。
「……ミルク。今の、三秒くらいッコよかったぞ」
「三秒だけ!? 延長料金取るわよ♡」
 女性客は、今度は声を上げて笑った。
「……なんか、元気出ました。また、来てもいいですか?」
「もちろん。いつでもいい。……OK、セクシーダンディー」
「女性にダンディーって……。まあ、いいか」とマユ姐。
ミルクは勢いよくグラスを持ち上げた。
「さあ飲みましょ! 人生はね、飲んで忘れられることと、飲んで思い出せることで出来てるのよ♡」
今夜も店は、いつも通り騒がしく、そしていつもより少しだけ優しい。
 ミルクは笑っている。いつも通り、バカっぽく、底抜けに明るく。
 その笑いの奥に、彼女がかつて自分で乗り越えてきたであろう「重さ」の跡を、誰もあえて指摘はしなかった。
 それでいい。深さはいつも、この店では笑いの後ろに隠しておくのがマナーだからだ。
そして今夜もまた――Red
Light Barで何かが起こっていた。


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信号が変わる電子音、コンビニの自動ドア、遠くを走るタクシーの重いタイヤ音。そんな日常の断片が混ざり合って、この街特有の夜の空気がゆっくりと出来上がっていく。
 その交差点から一本入った細い路地に、赤いランプを灯す店がある。――Red Light Bar。
カウンター八席だけの、小さな、けれど今夜は珍しく凪(なぎ)のような静寂に包まれた店だ。
「……静かすぎて、逆に落ち着かねえな」  タケさんが手持ち無沙汰にグラスを拭きながら呟く。
「嵐の前の静けさ、というやつですかね」とゴウちゃんが腕を組む。
「単に客が来てないだけでしょ。景気の悪いこと言わないでよ」とマユ姐。
「客足が途絶えるのは、経営学的には最大級の嵐です」とマウス。
「数字で脅すなよ。……お、噂をすれば」
その直後、ドアが蹴破らんばかりの勢いで開いた。
「ただいまぁあああああああああああ!!!!」
 鼓膜を震わす爆音と共になだれ込んできたのは――ミルクだった。
「「「「うるさい!!」」」」
 店内に揃ったツッコミを無視して、ミルクはカウンターに身を乗り出した。
「ちょっと聞いてよ! 今日のあたしの人生、完全に全米が泣くレベルの全24話ドラマだったんだから!」
「毎日最終回みたいな騒ぎ方すんなよ」とタケさん。
「今日はマジなの! 五反田が、今日だけは戦場だったのよ!」
神様が静かにグラスを置いた。
「……何があった」
 ミルクは深く息を吸い、語り始めた。
「まずね、開店早々に現れたのが――“自称・ITベンチャー社長”」
「もうその肩書きだけで怪しいっすね」とりょうちん。
「そいつがさ、“俺、女を見る目だけはあるんだよね”とか言いながら、あたしに“その胸、本物かどうか触って確かめていい?”って言ってきたのよ」
「即、出禁だな」とタケさん。
「で、どうしたのよ」とマユ姐。
 ミルクは不敵に笑った。
「“いいわよ♡ ただし有料ね。三十分十万。前金で、今すぐ”って言ったわ」
「「「「高ぇな!!」」」」
「そしたら脱兎の如く逃げてったわ。あー、安上がりな男」
「でもね、本番はここから。次に来たのが――“本気(マジ)で恋してるおじさん”」
「……それは、よくある話だろう」と神様。
「違うのよ! その人、会うたびにプロポーズしてくるの! “ミルクちゃん、君を必ず幸せにする。店なんか辞めて、僕のところにおいで”って」
「重いな。……で、なんて返したんだ?」とゴウちゃん。
 ミルクはグラスを見つめ、ふっと柔らかく笑った。
「“もう十分幸せだから、大丈夫よ”って」
一瞬、店が静まり返った。
「……で、どうなったんだ?」とタケさん。
「泣いたわ」
「泣いたのか」
「おじさんが」
「そっちかよ!」
 店にどっと笑いが起きた。
「でもね、あたしちょっと思ったのよ」ミルクの声が、少しだけ低くなる。
「“幸せにする”って、随分と乱暴な言葉よね」
 神様が、深く頷いた。「……左様。傲慢な言葉でもある」
「だってさ、自分が幸せかどうかって、他人に決められるもんじゃないじゃない?
自分で決める特権なのよ、それは」
「……珍しく、本質を突くじゃない」マユ姐が感心したように煙草をくゆらす。
「でしょ? ……あ、でも三分後にはどうでもいい話するから安心して♡」
「「「「するだろうな」」」」
その時、再びドアが開いた。
 入ってきたのは、二十代半ばの女性。肩をすぼめ、今にも消え入りそうな顔で席に座った。
「いらっしゃい、セクシー。……何にする?」
「……あの、ここ初めてで。……カクテルの名前、よく分からなくて」
「大丈夫よぉ♡」ミルクがすかさず隣に滑り込む。
「この店、見た目より中身が五倍は変だから、何言っても恥ずかしくないわよ♡」
「……安心できない情報ですね」とマウス。
女性は少しだけ表情を緩めた。
「……今日、ちょっと落ち込んでて」
「出た。事件の匂いだ」工藤ちゃんが帽子のつばを触る。
「「「「黙れ」」」」
 ミルクは女性をじっと覗き込んだ。
「……失恋?」
 女性は目を見開いた。「……なんで分かるんですか」
「分かるわよ。心臓が半分くらい外に溢れ出してる顔してるもの」  女性は俯き、声を絞り出した。
「彼に……“重い”って言われて。……私、ただ、ちゃんと向き合いたかっただけなのに」
ミルクは静かに、けれど断定するように言った。
「それ、全然重くないわよ」
「え……?」
「向き合うのって、めちゃくちゃ体力がいるの。逃げる方が何倍も楽なのよ。だからね、“重い”って言葉を使って逃げる男は――」
 ミルクは一拍置いて、言い切った。
「ただの、スタミナ不足の臆病者。それだけ」  
 店がしんと静まる。女性の瞳に、少しだけ熱が戻った。
「……そっか。逃げてたのは、彼の方だったんだ」
「そうよ! そんな男、こっちから熨斗(のし)付けて返品よ!」マユ姐が追い討ちをかける。
「でもね」ミルクが笑った。
「ちゃんと向き合おうとしたあんたは、最高にタフで、いい女よ」
その時、カラン、とドアが開いた。
「ミルクちゃぁぁぁぁぁぁん!!!」
 先ほどの“プロポーズおじさん”が、血相を変えて飛び込んできた。
「また来た!」と全員。
「君にもう一度伝えなきゃと思って! 僕は本気なんだ!!」
「今忙しいの! ストップ!」
 ミルクが凛とした声を響かせた。
「おじさん。人を幸せにしたいなら、まず自分の足でちゃんと立ちなさいよ」
 おじさんが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まる。
「自分がぐらぐらのままで、誰かを支えようとするから共倒れになるの。それが本当の“重さ”よ。……それが分かったら、また一杯飲みに来なさい。以上!」
おじさんは、魂を抜かれたように呆然と立ち尽くした後、小さく「……はい」と答えて、静かに店を出て行った。
 数秒の沈黙の後、さんがボソッと言った。
「……ミルク。今の、三秒くらいッコよかったぞ」
「三秒だけ!? 延長料金取るわよ♡」
 女性客は、今度は声を上げて笑った。
「……なんか、元気出ました。また、来てもいいですか?」
「もちろん。いつでもいい。……OK、セクシーダンディー」
「女性にダンディーって……。まあ、いいか」とマユ姐。
ミルクは勢いよくグラスを持ち上げた。
「さあ飲みましょ! 人生はね、飲んで忘れられることと、飲んで思い出せることで出来てるのよ♡」
今夜も店は、いつも通り騒がしく、そしていつもより少しだけ優しい。
 ミルクは笑っている。いつも通り、バカっぽく、底抜けに明るく。
 その笑いの奥に、彼女がかつて自分で乗り越えてきたであろう「重さ」の跡を、誰もあえて指摘はしなかった。
 それでいい。深さはいつも、この店では笑いの後ろに隠しておくのがマナーだからだ。
そして今夜もまた――Red
Light Barで何かが起こっていた。