第10話 タケさん、雑誌に載る夜
ー/ー月見橋交差点の夜は、たいてい静かに始まる。
信号が変わる電子音、コンビニの自動ドア、遠くを走るタクシーのタイヤ音。そんな音が混ざり合って、この街の夜の空気がゆっくりと出来上がっていく。
その交差点から一本入った細い路地に、赤いランプを灯す店がある。――Red Light Bar。
カウンター八席だけの、小さな、けれど今夜はいつもと違う奇妙な緊張に包まれた店だ。
理由は明確だった。
カウンターの上に、見慣れない名刺が二枚置いてあったからだ。
一枚は、有名ファッション誌の編集部。もう一枚は、フリーカメラマン。
その二枚の紙片を前にして、店主のタケさんが石像のように固まっていた。
「無理だろ……」
グラスを拭いているはずの手が、十五分前から同じ箇所だけを往復している。
「いつまで磨くのよ、それ。穴が開くわよ」
マユ姐が呆れたように煙草をくゆらす。
「いや……取材なんて、何を喋ればいいんだ。台本はあるのか?」
「普通にしていればいいのよ。いつもの感じで」
「『いつもの感じ』で雑誌に載ったら、翌日には営業停止だろ」 ミルクちゃんが肩を震わせて笑う。
「やだ、タケさん、もしかして緊張してる?」
「してない」
「してるわよ。今、氷も入ってない空のグラスを、バースプーンで必死にステアしてたわよ」
タケさんは手元を見た。確かに、虚無をかき混ぜていた。 「……イメトレだ」
「嘘おっしゃい」とマユ姐。
「タケさんにも『緊張』という、人間らしいプロトコルが存在したのですね」
マウスが感心したように眼鏡をクイと上げた。
「俺を何だと思ってるんだ」
「夜の支配者」と、工藤ちゃんが低い声で割り込む。
「帰れ」
その時、カランとベルが鳴った。
入ってきたのは、三十代前半の知的な女性と、巨大な機材バッグを担いだ男性。
「こんばんは。月刊『ルミエール』編集部の白石です。本日はよろしくお願いします」
その瞬間、タケさんの背筋がボルトを入れたように直立した。 「い、いらっしゃい……セクシー」
蚊の鳴くような声だった。
「今の、完全にカンペ読んでたわね」とミルクちゃん。
「カタカナの『セクシー』だったわ」とマユ姐。
白石は店内を見渡し、瞳を輝かせた。
「わあ、素敵……。今回のテーマが『都会の隠れ家・心が落ち着くバー』なんですけど、まさにイメージ通りです」
その言葉に、常連たちが一斉に反応した。
「心が落ち着く?」とミルクちゃん。
「どこが」とマユ姐。
「統計的には、かなりノイズの多い環境ですが」とマウス。
「いや、今日はちょっと……メンバーが特殊で」
タケさんが必死にフォローするが、ゴウちゃんが鼻で笑った。 「嘘つけ。毎日こんなんだろ」
「虚偽記載で訴えられないようにね、編集者さん」とマユ姐。
「じゃあ、まずは店内の雰囲気から撮らせていただきますね」 カメラマンの安西がレンズを構えた。「マスター、自然な感じでお願いします」
「自然……」
今のタケさんにとって、それは宇宙の真理を悟るより難しい注文だった。
彼はグラスを持つが、布を持つ手に力が入りすぎている。まるで親の仇を討つかのような真剣さで、グラスをギリギリと磨き上げる。
「あ、マスター、もう少し力を抜いて」
「はい」
今度は逆に、ふにゃふにゃと幽霊のような手つきになる。
「何その手。生まれたての小鹿?」とミルクちゃんが吹き出した。 「普段通りが……分からなくなってきた」
安西は苦笑いしながらシャッターを切る。
「うーん、次は笑顔が欲しいですね」
「笑顔?」
「自然な笑顔が、今この店で一番不自然なものになってるわね」とマユ姐。
白石が優しく問いかけた。「お店を始めて、どれくらいになるんですか?」
タケさんが答えようとした瞬間、後ろからミルクちゃんが囁いた。
「四百年」
「何言ってんだよ!」
思わず突っ込んだタケさんの顔を見て、カメラマンが叫んだ。 「今だ!
今の顔、最高に自然です!」
「お前はノイズだ」とタケさんがミルクちゃんを睨む。
「ノイズじゃないわよ。上質な潤滑油と言って」
白石がメモを取りながら尋ねる。
「タケさんが、お客様に対して一番大切にしていることって何ですか?」
その問いに、タケさんはふっと力を抜いた。
「……そうですね。なるべく、『無理をさせない』こと、ですかね」
店内の空気が、少しだけ静まり返る。
「酒を飲む店ってのは、元気な時だけ来る場所じゃないと思うんです。ここだけは、元気がない時でも、そのままの顔で座っていられる店でありたい」
「……素敵ですね」
白石がペンを止める。カメラマンも頷き、その穏やかな表情を逃さず切り取った。
しかし、美談は長くは続かない。
「じゃあ最後、集合写真を撮りましょうか」
「えー!」と叫びながら、ミルクちゃんが最前列を陣取る。
マユ姐は「私はいいわよ」と言いながら、鏡も見ずに完璧に前髪を整えている。神様は襟を正し、工藤ちゃんは帽子の角度を三度調整した。
「いきますよ。はい、自然に!」
中央に立つタケさんの顔が、またしても「証明写真」のように固まった。
「マスター、力入ってます!」
「抜いてる!」
「入ってる!」
「抜いてる!」
そのやり取りに耐えきれず、常連たちが一斉に吹き出した。 神様も、マウスも、ゴウちゃんも、肩を震わせて笑っている。
「……今だ!」
工藤ちゃんの合図と同時に、シャッターが切られた。
安西がカメラを下ろした。
「……最高です。これぞ『Red Light Bar』の顔ですね」
そこには、笑い転げる客たちと、それを見て「やれやれ」と困ったように笑う店主の姿があった。
取材陣が帰り、扉が閉まる。
店内にはいつもの、琥珀色の静寂が戻ってきた。
さっきまで取材を眺めていた一人の男性客が、ぽつりと漏らした。
「……でも、分かります。ここ、本当に落ち着きますね」
「今日は、特別に騒がしかったけどな」
タケさんは最後のグラスを棚に戻し、肩をすくめた。
「いえ……誰かがバカなことで笑ってるのを見てると、自分の悩みがどうでもよくなってくるっていうか。そういう『落ち着き方』もあるんだなって」
ミルクちゃんが、得意げに胸を張る。「でしょ?」
タケさんは照れ隠しに、一番高いボトルの埃を払った。
「……まあ、雑誌に載ったら、少しはモテるようになるかな」
一瞬の沈黙。
「「「「「やっぱり女好きじゃない!」」」」」
店内に、今日一番の爆笑が轟いた。
「紳士の皮を被った狼ですね」と神様。
「見出しが決まりました。『欲望が露骨すぎるマスター』」とマウス。
「……ふっ、事件の匂いがするな」
「「「「「しない!」」」」」
月見橋の夜は、相変わらず静かに流れている。
けれどこの小さな赤いランプの下だけは、今夜も少しだけ騒がしくて、そしてひどくあたたかい。
そして今夜もまた――Red
Light Barで何かが起こっていた。
信号が変わる電子音、コンビニの自動ドア、遠くを走るタクシーのタイヤ音。そんな音が混ざり合って、この街の夜の空気がゆっくりと出来上がっていく。
その交差点から一本入った細い路地に、赤いランプを灯す店がある。――Red Light Bar。
カウンター八席だけの、小さな、けれど今夜はいつもと違う奇妙な緊張に包まれた店だ。
理由は明確だった。
カウンターの上に、見慣れない名刺が二枚置いてあったからだ。
一枚は、有名ファッション誌の編集部。もう一枚は、フリーカメラマン。
その二枚の紙片を前にして、店主のタケさんが石像のように固まっていた。
「無理だろ……」
グラスを拭いているはずの手が、十五分前から同じ箇所だけを往復している。
「いつまで磨くのよ、それ。穴が開くわよ」
マユ姐が呆れたように煙草をくゆらす。
「いや……取材なんて、何を喋ればいいんだ。台本はあるのか?」
「普通にしていればいいのよ。いつもの感じで」
「『いつもの感じ』で雑誌に載ったら、翌日には営業停止だろ」 ミルクちゃんが肩を震わせて笑う。
「やだ、タケさん、もしかして緊張してる?」
「してない」
「してるわよ。今、氷も入ってない空のグラスを、バースプーンで必死にステアしてたわよ」
タケさんは手元を見た。確かに、虚無をかき混ぜていた。 「……イメトレだ」
「嘘おっしゃい」とマユ姐。
「タケさんにも『緊張』という、人間らしいプロトコルが存在したのですね」
マウスが感心したように眼鏡をクイと上げた。
「俺を何だと思ってるんだ」
「夜の支配者」と、工藤ちゃんが低い声で割り込む。
「帰れ」
その時、カランとベルが鳴った。
入ってきたのは、三十代前半の知的な女性と、巨大な機材バッグを担いだ男性。
「こんばんは。月刊『ルミエール』編集部の白石です。本日はよろしくお願いします」
その瞬間、タケさんの背筋がボルトを入れたように直立した。 「い、いらっしゃい……セクシー」
蚊の鳴くような声だった。
「今の、完全にカンペ読んでたわね」とミルクちゃん。
「カタカナの『セクシー』だったわ」とマユ姐。
白石は店内を見渡し、瞳を輝かせた。
「わあ、素敵……。今回のテーマが『都会の隠れ家・心が落ち着くバー』なんですけど、まさにイメージ通りです」
その言葉に、常連たちが一斉に反応した。
「心が落ち着く?」とミルクちゃん。
「どこが」とマユ姐。
「統計的には、かなりノイズの多い環境ですが」とマウス。
「いや、今日はちょっと……メンバーが特殊で」
タケさんが必死にフォローするが、ゴウちゃんが鼻で笑った。 「嘘つけ。毎日こんなんだろ」
「虚偽記載で訴えられないようにね、編集者さん」とマユ姐。
「じゃあ、まずは店内の雰囲気から撮らせていただきますね」 カメラマンの安西がレンズを構えた。「マスター、自然な感じでお願いします」
「自然……」
今のタケさんにとって、それは宇宙の真理を悟るより難しい注文だった。
彼はグラスを持つが、布を持つ手に力が入りすぎている。まるで親の仇を討つかのような真剣さで、グラスをギリギリと磨き上げる。
「あ、マスター、もう少し力を抜いて」
「はい」
今度は逆に、ふにゃふにゃと幽霊のような手つきになる。
「何その手。生まれたての小鹿?」とミルクちゃんが吹き出した。 「普段通りが……分からなくなってきた」
安西は苦笑いしながらシャッターを切る。
「うーん、次は笑顔が欲しいですね」
「笑顔?」
「自然な笑顔が、今この店で一番不自然なものになってるわね」とマユ姐。
白石が優しく問いかけた。「お店を始めて、どれくらいになるんですか?」
タケさんが答えようとした瞬間、後ろからミルクちゃんが囁いた。
「四百年」
「何言ってんだよ!」
思わず突っ込んだタケさんの顔を見て、カメラマンが叫んだ。 「今だ!
今の顔、最高に自然です!」
「お前はノイズだ」とタケさんがミルクちゃんを睨む。
「ノイズじゃないわよ。上質な潤滑油と言って」
白石がメモを取りながら尋ねる。
「タケさんが、お客様に対して一番大切にしていることって何ですか?」
その問いに、タケさんはふっと力を抜いた。
「……そうですね。なるべく、『無理をさせない』こと、ですかね」
店内の空気が、少しだけ静まり返る。
「酒を飲む店ってのは、元気な時だけ来る場所じゃないと思うんです。ここだけは、元気がない時でも、そのままの顔で座っていられる店でありたい」
「……素敵ですね」
白石がペンを止める。カメラマンも頷き、その穏やかな表情を逃さず切り取った。
しかし、美談は長くは続かない。
「じゃあ最後、集合写真を撮りましょうか」
「えー!」と叫びながら、ミルクちゃんが最前列を陣取る。
マユ姐は「私はいいわよ」と言いながら、鏡も見ずに完璧に前髪を整えている。神様は襟を正し、工藤ちゃんは帽子の角度を三度調整した。
「いきますよ。はい、自然に!」
中央に立つタケさんの顔が、またしても「証明写真」のように固まった。
「マスター、力入ってます!」
「抜いてる!」
「入ってる!」
「抜いてる!」
そのやり取りに耐えきれず、常連たちが一斉に吹き出した。 神様も、マウスも、ゴウちゃんも、肩を震わせて笑っている。
「……今だ!」
工藤ちゃんの合図と同時に、シャッターが切られた。
安西がカメラを下ろした。
「……最高です。これぞ『Red Light Bar』の顔ですね」
そこには、笑い転げる客たちと、それを見て「やれやれ」と困ったように笑う店主の姿があった。
取材陣が帰り、扉が閉まる。
店内にはいつもの、琥珀色の静寂が戻ってきた。
さっきまで取材を眺めていた一人の男性客が、ぽつりと漏らした。
「……でも、分かります。ここ、本当に落ち着きますね」
「今日は、特別に騒がしかったけどな」
タケさんは最後のグラスを棚に戻し、肩をすくめた。
「いえ……誰かがバカなことで笑ってるのを見てると、自分の悩みがどうでもよくなってくるっていうか。そういう『落ち着き方』もあるんだなって」
ミルクちゃんが、得意げに胸を張る。「でしょ?」
タケさんは照れ隠しに、一番高いボトルの埃を払った。
「……まあ、雑誌に載ったら、少しはモテるようになるかな」
一瞬の沈黙。
「「「「「やっぱり女好きじゃない!」」」」」
店内に、今日一番の爆笑が轟いた。
「紳士の皮を被った狼ですね」と神様。
「見出しが決まりました。『欲望が露骨すぎるマスター』」とマウス。
「……ふっ、事件の匂いがするな」
「「「「「しない!」」」」」
月見橋の夜は、相変わらず静かに流れている。
けれどこの小さな赤いランプの下だけは、今夜も少しだけ騒がしくて、そしてひどくあたたかい。
そして今夜もまた――Red
Light Barで何かが起こっていた。
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