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第8話 マウスのプレゼンが長すぎる夜

ー/ー



月見橋交差点の夜は、たいてい静かに始まる。
 信号が変わる電子音、コンビニの自動ドアが吸い込む吐息、遠くを走り去るタクシーの重いタイヤ音。そんな音が混ざり合って、この街特有の、夜の空気がゆっくりと出来上がっていく。
 その交差点から一本入った細い路地に、赤いランプを灯す店がある。――Red Light Bar。カウンター八席だけの、小さな、けれど今夜は妙に冷ややかな光を放つ店だ。

その夜、店主のタケさんは珍しく、眉間に皺を寄せて困り果てていた。
 理由は、目の前の光景に尽きる。
 常連客のマウスが、あろうことかカウンターにノートパソコンを広げていたからだ。
「……なあ、マウス」
「はい、何でしょう」
「ここ、バーなんだけどな」
「重々承知しております」
「じゃあ、なんでパソコンを開いて、あまつさえプロジェクターの代わりに壁を凝視してるんだ」
「今日は、皆さんに共有すべき重大な『研究成果』がありまして」
ゴウちゃんが呆れたように鼻を鳴らす。
「またデータかよ」
「発表会っすか? 単位もらえるなら聞きますけど」とりょうちん。
「……嫌な予感しかしないわね」マユ姐が煙草に火をつける。
「絶対長くなるわよ、この人の話は」ミルクちゃんも警戒態勢だ。  ただ一人、特等席の神様だけが、ウイスキーの氷を鳴らして静かに言った。
「……聞き届けましょう。何事も、研鑽は必要です」
「ありがとうございます、神様」
 マウスは眼鏡をクイと押し上げ、無機質な画面を一同の方へ向けた。
「本日のテーマを発表します」
 一拍置いて、彼は厳かに宣言した。
「『人はなぜ、恋愛において致命的な失敗を繰り返すのか』」
店内が、真空状態になったかのように静まり返った。
「……やめろ、帰れ」とタケさん。
「絶対長いやつだわ。一軒目で帰ればよかった」とミルクちゃん。 「私も、今すぐ別の店にハシゴしたくなってきたわ」とマユ姐。
 しかし、マウスのプレゼンは止まらない。
「まず第一に、人間関係における『期待値のミスマッチ』についてご説明します」
そこへ、場違いな鼻歌が響いた。
「バックシティ~~♪」
 工藤ちゃんだ。
「OKダンディー、いらっしゃい。……ちょうど今、地獄の講義が始まったところだ」
 タケさんの言葉をスルーし、工藤ちゃんはカウンターに座って低い声を出した。
「……何をしている。壁に向かって儀式でもしているのか」
「恋愛講義よ」とミルクちゃん。
「なるほど」工藤ちゃんは腕を組み、不敵に笑う。
「恋愛とは、すなわち……孤独な戦いだ」
「「「「違う」」」」
 全員のツッコミを背に、マウスはマウス(機器)をカチリと鳴らした。 「次に、こちらのスライドをご覧ください」
「……データまであるのかよ」とタケさん。
「当然です。こちらが、『いい人だけどモテない男』の相関分布図です」
 画面には、残酷なほど分かりやすいグラフが表示されていた。 「やめて、もう面白いわよ、この図面」ミルクちゃんが腹を抱える。
「で、このデカい円は何なのよ」とマユ姐。
「いい人は、だいたいこのゾーンに収束します。……見ての通り、『安全だが、絶望的に退屈』という領域です」
 店内がどっと沸いた。
「残酷すぎるだろ!」とゴウちゃん。
「統計的事実です」マウスはどこまでも真剣だ。
「では、女性を惹きつける領域はどこにあるのですか?」神様が興味深げに尋ねる。
 マウスが次のスライドを出す。そこには太字でこう書かれていた。 『――ちょっと、危ない』
「危ない方がいいのかよ!」とゴウちゃん。
「残念ながら、生存本能に基づくスリルは、恋愛において強力なフックとなります」
「じゃあ、この店にはモテる男なんて一人もいないわね」マユ姐が全員を見渡す。
「確かに。みんな安全すぎて、もはや反射板みたいなもんね」とミルクちゃん。
「……余計なお世話だ」タケさんがグラスを叩くように置いた。
そこへ、カランとベルが鳴り、一人の女性客が入ってきた。
 仕事帰りだろうか、少しだけ疲れた顔をした彼女は、店内の異様な光景に目を丸くした。
「いらっしゃい、セクシー。……今、恋愛の勉強会中なんだ。好きな席へ」
「あ、ありがとうございます……。面白いお店ですね」
 女性はくすくすと笑いながら座った。マウスがすかさず質問を飛ばす。
「セクシー、あなたは恋愛において何を最重視しますか?」
「うーん……そうですね」
 店中が、彼女の答えを固唾を呑んで待つ。
「やっぱり、『安心感』、でしょうか」
「ほら見たことか!」マウスが叫ぶ。
「でも、マウスはさっき『安心は退屈』って言っただろ」とゴウちゃん。
「……安心と退屈は、似ているようで全く違うんですよ」
 女性客が静かに付け加えた。その言葉に、神様が深く頷く。 「……金言ですね」
「マウス、聞いた? 理論だけじゃ測れないのよ」マユ姐がニヤリと笑う。
マウスはしばらく黙り込み、そして静かにノートパソコンの画面を少しだけ伏せた。
「……実は、今日この話を持ち出したのには理由があります」
 店内の空気が、ふっと柔らかくなる。
「……僕が昨日、失恋したからです」
一瞬の静寂。
「……マウス」ミルクちゃんが、今日初めて優しい声を出す。
「そういうことだったのね」とマユ姐。
「それで、一晩中原因を分析してたわけか」タケさんが新しい酒を差し出す。
 マウスは自嘲気味に笑った。
「……原因分析です。PDCAサイクルを回さないと、次に行けませんから」
「恋愛を仕事みたいに言うなよ」ゴウちゃんが笑う。
「どんな人だったんですか?」女性客が優しく尋ねた。
「……とても、優しい人でした」
「それ、一番ダメなパターンね」とミルクちゃん。
「で、最後に何て言われたの?」
マウスは眼鏡を外し、眉間を押さえて答えた。
「……『あなたのことは好きだけど、プロポーズの時にExcelの比較表を出すのはやめて』と」
 店内に、今日一番の――いや、今月一番の爆笑が轟いた。
「そりゃそうだろ!」とタケさん。
「恋愛で比較表なんて出されたら、私なら通報するわよ!」とマユ姐。
「ロマンがExcelなのよ、この人は!」ミルクちゃんが椅子から転げ落ちそうになる。
マウスは耳を真っ赤にしながら、照れたように呟いた。
「……でも、ここに来ると、あんまり落ち込まないんです」
「なんでだ」
「……皆さんが、ほどよくバカだからです」
 一瞬の沈黙の後、今度は怒号のような笑い声が上がった。
「失礼ね!」
「まあ、否定はできないがな」とゴウちゃん。
「研究対象としては、最高に香ばしいサンプルばかりですよ」  マウスの言葉に、女性客も声を上げて笑っていた。
「でも、いいじゃない」
 マユ姐がグラスを掲げた。
「恋愛で派手に失敗しないと、人間なんて面白くないわよ」
「確かに。挫折は人を深めます」と神様。
「失敗は、一つの『事件』だ」工藤ちゃんが割り込む。
「……それは事件じゃなくて事故だ」とタケさん。
ミルクちゃんが、マウスの肩をバンバンと叩いた。
「いい、マウス。次の恋愛では、三つの禁止事項を守りなさい」 「……何でしょう」
「一、  グラフ禁止」
「……努力します」
「二、  分布図も禁止」
「……かなり難しいですが」
「三、  Excelは論外」
「……それは、人生の否定です」
 再び店内が笑いに包まれる。
「マウス」
 タケさんが、仕上げに磨き抜いたグラスを置いた。
「なんだ」
「次の相手にはな、データの代わりに一言だけ言え」
「……何と」
「『可愛いね』。それだけだ」
 マウスは真剣な顔でポケットからメモ帳を取り出し、ペンを走らせた。
「メモするな!!」
 ミルクちゃんの絶叫で、また店がひっくり返った。
この店では、誰かの失敗も、ちっぽけな悩みも、いつの間にか笑いの肴に変わっていく。真面目な講義も、気がつけば全員で茶化し合い、最後には本人が一番笑っている。

  マウスはパソコンを閉じた。
「……今日の結論。恋愛は、データでは測れない」
「最初からそう言えよ」とタケさん。
「私の一時間を返しなさいよ」とマユ姐。
「でも……ちょっとだけ、泣けたわよ」とミルクちゃん。
「いい研究でしたよ」と神様。
「……ふっ、やはり事件の匂いがするな」
「「「「しない!」」」」
月見橋の夜は、外では相変わらず静かに流れている。
 けれどRed Light Barの扉の内側だけは、今夜も心地よい馬鹿げた熱気が、琥珀色の酒と一緒に溶け合っていた。
 そして今夜もまた――何かが起こっていた。


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月見橋交差点の夜は、たいてい静かに始まる。
 信号が変わる電子音、コンビニの自動ドアが吸い込む吐息、遠くを走り去るタクシーの重いタイヤ音。そんな音が混ざり合って、この街特有の、夜の空気がゆっくりと出来上がっていく。
 その交差点から一本入った細い路地に、赤いランプを灯す店がある。――Red Light Bar。カウンター八席だけの、小さな、けれど今夜は妙に冷ややかな光を放つ店だ。
その夜、店主のタケさんは珍しく、眉間に皺を寄せて困り果てていた。
 理由は、目の前の光景に尽きる。
 常連客のマウスが、あろうことかカウンターにノートパソコンを広げていたからだ。
「……なあ、マウス」
「はい、何でしょう」
「ここ、バーなんだけどな」
「重々承知しております」
「じゃあ、なんでパソコンを開いて、あまつさえプロジェクターの代わりに壁を凝視してるんだ」
「今日は、皆さんに共有すべき重大な『研究成果』がありまして」
ゴウちゃんが呆れたように鼻を鳴らす。
「またデータかよ」
「発表会っすか? 単位もらえるなら聞きますけど」とりょうちん。
「……嫌な予感しかしないわね」マユ姐が煙草に火をつける。
「絶対長くなるわよ、この人の話は」ミルクちゃんも警戒態勢だ。  ただ一人、特等席の神様だけが、ウイスキーの氷を鳴らして静かに言った。
「……聞き届けましょう。何事も、研鑽は必要です」
「ありがとうございます、神様」
 マウスは眼鏡をクイと押し上げ、無機質な画面を一同の方へ向けた。
「本日のテーマを発表します」
 一拍置いて、彼は厳かに宣言した。
「『人はなぜ、恋愛において致命的な失敗を繰り返すのか』」
店内が、真空状態になったかのように静まり返った。
「……やめろ、帰れ」とタケさん。
「絶対長いやつだわ。一軒目で帰ればよかった」とミルクちゃん。 「私も、今すぐ別の店にハシゴしたくなってきたわ」とマユ姐。
 しかし、マウスのプレゼンは止まらない。
「まず第一に、人間関係における『期待値のミスマッチ』についてご説明します」
そこへ、場違いな鼻歌が響いた。
「バックシティ~~♪」
 工藤ちゃんだ。
「OKダンディー、いらっしゃい。……ちょうど今、地獄の講義が始まったところだ」
 タケさんの言葉をスルーし、工藤ちゃんはカウンターに座って低い声を出した。
「……何をしている。壁に向かって儀式でもしているのか」
「恋愛講義よ」とミルクちゃん。
「なるほど」工藤ちゃんは腕を組み、不敵に笑う。
「恋愛とは、すなわち……孤独な戦いだ」
「「「「違う」」」」
 全員のツッコミを背に、マウスはマウス(機器)をカチリと鳴らした。 「次に、こちらのスライドをご覧ください」
「……データまであるのかよ」とタケさん。
「当然です。こちらが、『いい人だけどモテない男』の相関分布図です」
 画面には、残酷なほど分かりやすいグラフが表示されていた。 「やめて、もう面白いわよ、この図面」ミルクちゃんが腹を抱える。
「で、このデカい円は何なのよ」とマユ姐。
「いい人は、だいたいこのゾーンに収束します。……見ての通り、『安全だが、絶望的に退屈』という領域です」
 店内がどっと沸いた。
「残酷すぎるだろ!」とゴウちゃん。
「統計的事実です」マウスはどこまでも真剣だ。
「では、女性を惹きつける領域はどこにあるのですか?」神様が興味深げに尋ねる。
 マウスが次のスライドを出す。そこには太字でこう書かれていた。 『――ちょっと、危ない』
「危ない方がいいのかよ!」とゴウちゃん。
「残念ながら、生存本能に基づくスリルは、恋愛において強力なフックとなります」
「じゃあ、この店にはモテる男なんて一人もいないわね」マユ姐が全員を見渡す。
「確かに。みんな安全すぎて、もはや反射板みたいなもんね」とミルクちゃん。
「……余計なお世話だ」タケさんがグラスを叩くように置いた。
そこへ、カランとベルが鳴り、一人の女性客が入ってきた。
 仕事帰りだろうか、少しだけ疲れた顔をした彼女は、店内の異様な光景に目を丸くした。
「いらっしゃい、セクシー。……今、恋愛の勉強会中なんだ。好きな席へ」
「あ、ありがとうございます……。面白いお店ですね」
 女性はくすくすと笑いながら座った。マウスがすかさず質問を飛ばす。
「セクシー、あなたは恋愛において何を最重視しますか?」
「うーん……そうですね」
 店中が、彼女の答えを固唾を呑んで待つ。
「やっぱり、『安心感』、でしょうか」
「ほら見たことか!」マウスが叫ぶ。
「でも、マウスはさっき『安心は退屈』って言っただろ」とゴウちゃん。
「……安心と退屈は、似ているようで全く違うんですよ」
 女性客が静かに付け加えた。その言葉に、神様が深く頷く。 「……金言ですね」
「マウス、聞いた? 理論だけじゃ測れないのよ」マユ姐がニヤリと笑う。
マウスはしばらく黙り込み、そして静かにノートパソコンの画面を少しだけ伏せた。
「……実は、今日この話を持ち出したのには理由があります」
 店内の空気が、ふっと柔らかくなる。
「……僕が昨日、失恋したからです」
一瞬の静寂。
「……マウス」ミルクちゃんが、今日初めて優しい声を出す。
「そういうことだったのね」とマユ姐。
「それで、一晩中原因を分析してたわけか」タケさんが新しい酒を差し出す。
 マウスは自嘲気味に笑った。
「……原因分析です。PDCAサイクルを回さないと、次に行けませんから」
「恋愛を仕事みたいに言うなよ」ゴウちゃんが笑う。
「どんな人だったんですか?」女性客が優しく尋ねた。
「……とても、優しい人でした」
「それ、一番ダメなパターンね」とミルクちゃん。
「で、最後に何て言われたの?」
マウスは眼鏡を外し、眉間を押さえて答えた。
「……『あなたのことは好きだけど、プロポーズの時にExcelの比較表を出すのはやめて』と」
 店内に、今日一番の――いや、今月一番の爆笑が轟いた。
「そりゃそうだろ!」とタケさん。
「恋愛で比較表なんて出されたら、私なら通報するわよ!」とマユ姐。
「ロマンがExcelなのよ、この人は!」ミルクちゃんが椅子から転げ落ちそうになる。
マウスは耳を真っ赤にしながら、照れたように呟いた。
「……でも、ここに来ると、あんまり落ち込まないんです」
「なんでだ」
「……皆さんが、ほどよくバカだからです」
 一瞬の沈黙の後、今度は怒号のような笑い声が上がった。
「失礼ね!」
「まあ、否定はできないがな」とゴウちゃん。
「研究対象としては、最高に香ばしいサンプルばかりですよ」  マウスの言葉に、女性客も声を上げて笑っていた。
「でも、いいじゃない」
 マユ姐がグラスを掲げた。
「恋愛で派手に失敗しないと、人間なんて面白くないわよ」
「確かに。挫折は人を深めます」と神様。
「失敗は、一つの『事件』だ」工藤ちゃんが割り込む。
「……それは事件じゃなくて事故だ」とタケさん。
ミルクちゃんが、マウスの肩をバンバンと叩いた。
「いい、マウス。次の恋愛では、三つの禁止事項を守りなさい」 「……何でしょう」
「一、  グラフ禁止」
「……努力します」
「二、  分布図も禁止」
「……かなり難しいですが」
「三、  Excelは論外」
「……それは、人生の否定です」
 再び店内が笑いに包まれる。
「マウス」
 タケさんが、仕上げに磨き抜いたグラスを置いた。
「なんだ」
「次の相手にはな、データの代わりに一言だけ言え」
「……何と」
「『可愛いね』。それだけだ」
 マウスは真剣な顔でポケットからメモ帳を取り出し、ペンを走らせた。
「メモするな!!」
 ミルクちゃんの絶叫で、また店がひっくり返った。
この店では、誰かの失敗も、ちっぽけな悩みも、いつの間にか笑いの肴に変わっていく。真面目な講義も、気がつけば全員で茶化し合い、最後には本人が一番笑っている。
  マウスはパソコンを閉じた。
「……今日の結論。恋愛は、データでは測れない」
「最初からそう言えよ」とタケさん。
「私の一時間を返しなさいよ」とマユ姐。
「でも……ちょっとだけ、泣けたわよ」とミルクちゃん。
「いい研究でしたよ」と神様。
「……ふっ、やはり事件の匂いがするな」
「「「「しない!」」」」
月見橋の夜は、外では相変わらず静かに流れている。
 けれどRed Light Barの扉の内側だけは、今夜も心地よい馬鹿げた熱気が、琥珀色の酒と一緒に溶け合っていた。
 そして今夜もまた――何かが起こっていた。