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第7話 姫殿、弱点が多すぎる夜

ー/ー



月見橋交差点の夜は、たいてい静かに始まる。
 信号が変わる電子音、コンビニの自動ドア、遠くを走るタクシーのタイヤ音。そんな音が混ざり合って、この街の夜の空気がゆっくりと出来上がる。
 その交差点から一本入った細い路地に、赤いランプを灯す店がある。――Red Light Bar。


その夜、タケさんは開口一番、珍しく感心したような声を上げた。
「……早いな、姫殿」
 カウンターの真ん中で、仕立ての良い黒いジャケットを纏い、スマートに脚を組んでいる女性。黒崎麗奈、通称“姫殿”。四十二歳。ITベンチャーの社長であり、おっとりとした声とは裏腹に、時折、真理を突くような鋭い感性を見せる女性だ。
 店に入ってきた男は、だいたい一度はその美しさに「おお……」と圧倒される。実際、今夜の男たちも、いつもより心なしか姿勢が良い。
「今日は、会社に早く見切りをつけたの」
 姫殿がグラスを持ち上げる。
「見切りって言い方、社長としてどうなのよ」
 マユ姐が煙草をくゆらす。
「だって、部下が言ったのよ。『社長、それ、今日じゃなくてもいいですよね?』って」
「言うわね、今どきの子は」とミルクちゃん。
「だから帰ってきたわ。今日じゃなくていいなら、今日やらない方が世界のためでしょ?」
「その理屈、経営者として相当危ういぞ」
 タケさんが苦笑する。神様が静かに頷いた。
「……合理的ではあります」
「神様は姫殿に甘いのよ!」とマユ姐。
「私は、美しい女性には平等に優しいだけですよ」
「それが一番、始末に負えないってまだ学ばないのかしら、この人は」
そこへ、いつもの鼻歌が聞こえてきた。
「バックシティ~~♪」
「OKダンディー、いらっしゃい」
「……今夜も、事件の匂いがするな」
「「「「しない」」」」
 工藤ちゃんは帽子を脱ぎ、カウンターに座る前に姫殿を見て、少しだけ背筋を伸ばした。
「姫殿。今日は一段と……『気迫』があるな」
「気迫って何よ。私、鬼みたいに見える?」
「仕事帰りの女社長ってのは、だいたい近寄りがたいオーラを放ってるものよ」とミルクちゃん。
「データ的にも、その傾向はありそうですね」とマウス。
「データで私の顔を語るな」
 姫殿の一喝に、店内に小さな笑いが起きた。
その時、りょうちんが何気なく言った。
「でも姫殿さんって、弱点とかなさそうっすよね」
 一瞬、店が静まり返った。姫殿がゆっくりとりょうちんを見る。 「……何?」
「いや、だって仕事はバリバリだし、綺麗だし、話も面白いし」 「そうよね。完璧すぎて、隙がないわ」とミルクちゃん。
「強いわね」とマユ姐。
「完璧に見える」と神様。
 タケさんだけが、ニヤニヤしながらグラスを拭いている。
「そうか? こいつが完璧か?」
 姫殿が少しだけ顎を上げた。
「……まあ、ないこともないけど」
 その言葉に、ミルクちゃんが猛然と食いついた。
「あるのね! 今、『ないこともない』って認めたわね!」
「弱点、暴きましょう」とマウスがスマホを構える。
「教えてやれよ。店の平和のために」
「なんで私の弱点が平和に繋がるのよ!」
「みんな、お前が完璧すぎて緊張してるんだよ。一個くらい『人間っぽい』ところを見せてやれ」
 姫殿は一度溜息をつき、観念したように呟いた。
「……雷」
一瞬、店が静まり返った。
「雷?」とりょうちんが首を傾げる。
「うそ、可愛いじゃない」とマユ姐。
「可愛くないわよ! 死活問題なんだから!」
 工藤ちゃんが腕を組む。
「なるほど……自然現象系、不可抗力型の弱点か」
「分類しなくていいわよ」 「どのくらいダメなんだ?」  タケさんの問いに、姫殿は悔しそうに顔を歪めた。
「……この前、大事な役員会議の最中に雷が鳴った瞬間、会議を強制終了したわ」
 店がひっくり返った。
「止めたの!? 社長権限で!?」
「止めたわよ。危険を察知したから、一時中断、避難よ!」
「やってることは小学生以下ね」とミルクちゃんが爆笑する。
そこへ、シャカが静かに入ってきた。
「こんばんは」
「シャカ、いいところに来たわ。姫殿の弱点を暴いてるのよ」  シャカは驚きもせず、いつもの調子で席に着いた。
「……ああ。あとは、虫もダメでしょう?」
 姫殿が、石のように固まった。
「当たり!!」とミルクちゃんが椅子を叩く。
「ちょっと、なんで知ってるのよ!」
「この前、店の外で小さな蛾が飛んできた時、あなた、タクシーを止めるみたいなポーズで固まってましたよ」
「……それは反射よ!」
「しかも、『誰か! 誰か!』って叫んでたしな」とタケさん。 「覚えてるの!?」
「よく通るいい声だったからな」
 マウスが真面目な顔で分析する。
「雷と虫……怖がりのテンプレート、古典的な王道ですね」
「王道って何よ!」
工藤ちゃんが、急に低い声を喉の奥で作った。
「姫殿。本当に怖いのは、雷でも虫でもない」
「なによ」
「……孤独だ」
「「「「帰れ」」」」
そこへ、少し控えめな雰囲気の女性客が入ってきた。
 店内の盛り上がりを見て戸惑っている彼女に、タケさんが声をかける。
「いらっしゃい、セクシー。……今、姫殿の弱点発表会をやってたんだ」
 女性客は思わず笑った。「弱点って、大事ですよね。私も完璧を演じて疲れた時期がありましたけど、今はちょっと抜けてるくらいが楽だなって」
「ほら! 完璧な女より、ちょっと抜けてるほうが可愛いのよ」  ミルクちゃんが胸を張る。
「でも、雷と虫が苦手な社長さんって、すごく人間味があって素敵ですよ」
 女性客の言葉に、姫殿は少し照れたような、悔しいような顔をした。
その時だった。
 遠くの夜空が、一瞬、青白く光った。
 姫殿の背筋が、ぴん、と一直線に伸びる。
 一秒後。微かに「ゴロゴロ」と地鳴りが聞こえた。
「……タケさん」
「なんだ」
「入口、閉めて。今すぐ」
「はやっ!」とミルクちゃんが噴き出す。
「風が入るでしょ! 雷の気配を遮断するの!」
もう一度、空が光る。
 姫殿はグラスを持ったまま、じりじりとカウンターの内側、タケさんの至近距離まで詰め寄った。
「何してる」
「……避難よ。ここが一番安全そうだから」
「守って」
 店内が今日一番の爆笑に包まれた。
「社長が『守って』って言った!」とりょうちんが騒ぐ。
「可愛いじゃないのよ、もう!」
「姫殿」
 工藤ちゃんがまた低い声を出す。
「いざとなったら、俺が守る」  
一瞬の静寂。
 「「「「お前が一番信用ない!!」」」」
 タケさんも、マユ姐も、ミルクちゃんも、同時に突っ込んだ。 「自分を電柱で守れよ!」
「それ尾行の話だろ!」
姫殿もとうとう、観念したように笑い出した。
「……もう、最悪」
 そう言いながら笑う彼女の顔は、いつもの「社長」ではなく、ただの愛すべき一人の女性の顔だった。
「安心しろ、姫殿」
 タケさんがグラスを拭きながら、ぼそっと言った。
「雷が来たら、店ごと閉めてやるよ」
「閉めなくていいわよ」
「じゃあ、カウンターの中だけ貸してやる」
「……それは、ちょっと助かるかも」
「結局避難するのかよ!」
 マユ姐のツッコミが響き、店は再び笑いに包まれた。
月見橋の夜は、外では相変わらず静かに流れている。
 完璧な人間なんていない。もしいたとしても、この店に来れば二時間でそのメッキは剥がれ、愛すべき「バカ」に戻る。

 雷の音が遠ざかった頃、姫殿はようやく元の席に戻った。 「……この話、会社でバラしたら全員殺すからね」
「蛾で叫ぶ社長が言っても怖くないわよ」
「それは今関係ない!」
「関係ある」
「ない!」
「ある!」
 今夜もまた、Red Light
Barでは、騒がしくも温かな時間が、ゆっくりと溶けていくのだった。

――この店の夜は、まだ終わらない。
(続きは22時)


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月見橋交差点の夜は、たいてい静かに始まる。
 信号が変わる電子音、コンビニの自動ドア、遠くを走るタクシーのタイヤ音。そんな音が混ざり合って、この街の夜の空気がゆっくりと出来上がる。
 その交差点から一本入った細い路地に、赤いランプを灯す店がある。――Red Light Bar。
その夜、タケさんは開口一番、珍しく感心したような声を上げた。
「……早いな、姫殿」
 カウンターの真ん中で、仕立ての良い黒いジャケットを纏い、スマートに脚を組んでいる女性。黒崎麗奈、通称“姫殿”。四十二歳。ITベンチャーの社長であり、おっとりとした声とは裏腹に、時折、真理を突くような鋭い感性を見せる女性だ。
 店に入ってきた男は、だいたい一度はその美しさに「おお……」と圧倒される。実際、今夜の男たちも、いつもより心なしか姿勢が良い。
「今日は、会社に早く見切りをつけたの」
 姫殿がグラスを持ち上げる。
「見切りって言い方、社長としてどうなのよ」
 マユ姐が煙草をくゆらす。
「だって、部下が言ったのよ。『社長、それ、今日じゃなくてもいいですよね?』って」
「言うわね、今どきの子は」とミルクちゃん。
「だから帰ってきたわ。今日じゃなくていいなら、今日やらない方が世界のためでしょ?」
「その理屈、経営者として相当危ういぞ」
 タケさんが苦笑する。神様が静かに頷いた。
「……合理的ではあります」
「神様は姫殿に甘いのよ!」とマユ姐。
「私は、美しい女性には平等に優しいだけですよ」
「それが一番、始末に負えないってまだ学ばないのかしら、この人は」
そこへ、いつもの鼻歌が聞こえてきた。
「バックシティ~~♪」
「OKダンディー、いらっしゃい」
「……今夜も、事件の匂いがするな」
「「「「しない」」」」
 工藤ちゃんは帽子を脱ぎ、カウンターに座る前に姫殿を見て、少しだけ背筋を伸ばした。
「姫殿。今日は一段と……『気迫』があるな」
「気迫って何よ。私、鬼みたいに見える?」
「仕事帰りの女社長ってのは、だいたい近寄りがたいオーラを放ってるものよ」とミルクちゃん。
「データ的にも、その傾向はありそうですね」とマウス。
「データで私の顔を語るな」
 姫殿の一喝に、店内に小さな笑いが起きた。
その時、りょうちんが何気なく言った。
「でも姫殿さんって、弱点とかなさそうっすよね」
 一瞬、店が静まり返った。姫殿がゆっくりとりょうちんを見る。 「……何?」
「いや、だって仕事はバリバリだし、綺麗だし、話も面白いし」 「そうよね。完璧すぎて、隙がないわ」とミルクちゃん。
「強いわね」とマユ姐。
「完璧に見える」と神様。
 タケさんだけが、ニヤニヤしながらグラスを拭いている。
「そうか? こいつが完璧か?」
 姫殿が少しだけ顎を上げた。
「……まあ、ないこともないけど」
 その言葉に、ミルクちゃんが猛然と食いついた。
「あるのね! 今、『ないこともない』って認めたわね!」
「弱点、暴きましょう」とマウスがスマホを構える。
「教えてやれよ。店の平和のために」
「なんで私の弱点が平和に繋がるのよ!」
「みんな、お前が完璧すぎて緊張してるんだよ。一個くらい『人間っぽい』ところを見せてやれ」
 姫殿は一度溜息をつき、観念したように呟いた。
「……雷」
一瞬、店が静まり返った。
「雷?」とりょうちんが首を傾げる。
「うそ、可愛いじゃない」とマユ姐。
「可愛くないわよ! 死活問題なんだから!」
 工藤ちゃんが腕を組む。
「なるほど……自然現象系、不可抗力型の弱点か」
「分類しなくていいわよ」 「どのくらいダメなんだ?」  タケさんの問いに、姫殿は悔しそうに顔を歪めた。
「……この前、大事な役員会議の最中に雷が鳴った瞬間、会議を強制終了したわ」
 店がひっくり返った。
「止めたの!? 社長権限で!?」
「止めたわよ。危険を察知したから、一時中断、避難よ!」
「やってることは小学生以下ね」とミルクちゃんが爆笑する。
そこへ、シャカが静かに入ってきた。
「こんばんは」
「シャカ、いいところに来たわ。姫殿の弱点を暴いてるのよ」  シャカは驚きもせず、いつもの調子で席に着いた。
「……ああ。あとは、虫もダメでしょう?」
 姫殿が、石のように固まった。
「当たり!!」とミルクちゃんが椅子を叩く。
「ちょっと、なんで知ってるのよ!」
「この前、店の外で小さな蛾が飛んできた時、あなた、タクシーを止めるみたいなポーズで固まってましたよ」
「……それは反射よ!」
「しかも、『誰か! 誰か!』って叫んでたしな」とタケさん。 「覚えてるの!?」
「よく通るいい声だったからな」
 マウスが真面目な顔で分析する。
「雷と虫……怖がりのテンプレート、古典的な王道ですね」
「王道って何よ!」
工藤ちゃんが、急に低い声を喉の奥で作った。
「姫殿。本当に怖いのは、雷でも虫でもない」
「なによ」
「……孤独だ」
「「「「帰れ」」」」
そこへ、少し控えめな雰囲気の女性客が入ってきた。
 店内の盛り上がりを見て戸惑っている彼女に、タケさんが声をかける。
「いらっしゃい、セクシー。……今、姫殿の弱点発表会をやってたんだ」
 女性客は思わず笑った。「弱点って、大事ですよね。私も完璧を演じて疲れた時期がありましたけど、今はちょっと抜けてるくらいが楽だなって」
「ほら! 完璧な女より、ちょっと抜けてるほうが可愛いのよ」  ミルクちゃんが胸を張る。
「でも、雷と虫が苦手な社長さんって、すごく人間味があって素敵ですよ」
 女性客の言葉に、姫殿は少し照れたような、悔しいような顔をした。
その時だった。
 遠くの夜空が、一瞬、青白く光った。
 姫殿の背筋が、ぴん、と一直線に伸びる。
 一秒後。微かに「ゴロゴロ」と地鳴りが聞こえた。
「……タケさん」
「なんだ」
「入口、閉めて。今すぐ」
「はやっ!」とミルクちゃんが噴き出す。
「風が入るでしょ! 雷の気配を遮断するの!」
もう一度、空が光る。
 姫殿はグラスを持ったまま、じりじりとカウンターの内側、タケさんの至近距離まで詰め寄った。
「何してる」
「……避難よ。ここが一番安全そうだから」
「守って」
 店内が今日一番の爆笑に包まれた。
「社長が『守って』って言った!」とりょうちんが騒ぐ。
「可愛いじゃないのよ、もう!」
「姫殿」
 工藤ちゃんがまた低い声を出す。
「いざとなったら、俺が守る」  
一瞬の静寂。
 「「「「お前が一番信用ない!!」」」」
 タケさんも、マユ姐も、ミルクちゃんも、同時に突っ込んだ。 「自分を電柱で守れよ!」
「それ尾行の話だろ!」
姫殿もとうとう、観念したように笑い出した。
「……もう、最悪」
 そう言いながら笑う彼女の顔は、いつもの「社長」ではなく、ただの愛すべき一人の女性の顔だった。
「安心しろ、姫殿」
 タケさんがグラスを拭きながら、ぼそっと言った。
「雷が来たら、店ごと閉めてやるよ」
「閉めなくていいわよ」
「じゃあ、カウンターの中だけ貸してやる」
「……それは、ちょっと助かるかも」
「結局避難するのかよ!」
 マユ姐のツッコミが響き、店は再び笑いに包まれた。
月見橋の夜は、外では相変わらず静かに流れている。
 完璧な人間なんていない。もしいたとしても、この店に来れば二時間でそのメッキは剥がれ、愛すべき「バカ」に戻る。
 雷の音が遠ざかった頃、姫殿はようやく元の席に戻った。 「……この話、会社でバラしたら全員殺すからね」
「蛾で叫ぶ社長が言っても怖くないわよ」
「それは今関係ない!」
「関係ある」
「ない!」
「ある!」
 今夜もまた、Red Light
Barでは、騒がしくも温かな時間が、ゆっくりと溶けていくのだった。
――この店の夜は、まだ終わらない。
(続きは22時)