第6話 工藤ちゃん、尾行に失敗する夜
ー/ー月見橋交差点の夜は、たいてい静かに始まる。
信号が変わる電子音、コンビニの自動ドア、遠くを走るタクシーの重いタイヤ音。そんな日常の断片が混ざり合って、この街特有の、湿り気を帯びた夜の空気がゆっくりと出来上がっていく。
その交差点から一本入った細い路地に、血のような、あるいは救いのような赤いランプを灯す店がある。――Red Light Bar。カウンター八席だけの、小さな、けれど今夜も騒がしい予感に満ちた店だ。
その夜、店内にはいつもの顔ぶれが揃っていた。
タケさんはカウンターの中で無心にグラスを拭き、神様はいつもの席で静かに琥珀色の液体を揺らしている。ゴウちゃんは新聞を広げ、マウスはスマホの画面をなぞり、りょうちんはハイボールをちびちびと大事そうに飲んでいた。
その凪いだ空気を切り裂くように、ドアが勢いよく開いた。
「バックシティ~~♪ バックシティ~~♪」
工藤ちゃんだ。
だが、今夜はいつもと様子が違う。帽子のつばを深く下げ、顔つきが異様に真剣だった。
「OKダンディー。……事件だ」
「またかよ」
タケさんが、磨いていたグラスを置いて溜息をつく。
「週三ペースですね。もはやルーティンです」とマウス。
「今回は何があったんだ」
ゴウちゃんが新聞を畳む。工藤ちゃんは腕を組み、重々しい沈黙の後に呟いた。
「……尾行だ」
店内に、妙な緊張感が走った。
「探偵っぽい!」とりょうちんが目を輝かせる。
「依頼ですか」と神様が促すと、工藤ちゃんは短く「そうだ」と答えた。
「で、誰を尾行したんだ」
タケさんの問いに、工藤ちゃんは一瞬、間を置いた。
「……依頼人だ」
店内の時間が、物理的に止まった。
「……ちょっと待ってください」
マウスが眼鏡を指で押し上げる。ゴウちゃんも顔をしかめた。 「それ、どういう意味だ? 依頼人を尾行してどうするんだよ」 工藤ちゃんは微塵も揺らがぬ真顔で言い放った。
「尾行が、バレた」
ちょうどそのタイミングで、ミルクちゃんが「こんばんはー」と入ってきた。
店内の、お通夜と爆笑が混ざったような空気を見て鼻を鳴らす。 「何これ。誰か死んだの?」
「工藤ちゃんが、依頼人を尾行して失敗したんだとよ」
タケさんの説明に、ミルクちゃんは五秒間、彫刻のように固まった。
「……バカなの?」
「違う」
「違わないわよ!」
「ただいま」
マユ姐が、夜の風を纏って入ってきた。
「何、今度は誰がバカなの?」
「工藤ちゃんが尾行失敗よ」とミルクちゃん。
「また? 前も電柱に隠れて見つかったじゃない」
「あれは電柱が細すぎたんだ。俺のせいじゃない」
「電柱の太さに文句を言う探偵がどこにいるのよ!」
マユ姐のツッコミに、タケさんが話を戻した。
「で、工藤ちゃん。一体全体、何が起きたんだ」
工藤ちゃんは、ハードボイルドな面持ちで語り始めた。
「依頼人は、自分の奥さんを疑っていた。不倫の調査だ」
「ほう。そこまでは普通ですね」と神様。
「だから俺は尾行した」
「奥さんをか?」
「いや、途中で気づいたんだ。奥さんじゃない……こいつは、依頼人だ、と」
店内が爆発した。
「だから、どういうことよ!」とマユ姐が机を叩く。
「順を追って説明しろ!」
「依頼人が『ちょっと見てきます』と言って、トイレに立ったんだ。だが、なかなか帰ってこない。怪しいと思った俺は、即座に尾行を開始した」
「……なんでだよ!」
「直感だ。探偵の直感が、彼を追えと告げていた」
ミルクちゃんがカウンターに突っ伏した。 「その時点で、探偵やめたほうがいいわ……」
「マウス、これ依頼人だよな?」
「はい。百パーセント、クライアントです」
「尾行する理由、一ミリもありませんね」
りょうちんが笑いをこらえながら先を促す。
「それで、どうなったんっすか?」
「尾行していたら、依頼人が唐突に振り返った。目が合った」 「そりゃ合うだろ」
「彼は言った。『……工藤さん、何してるんですか』と」
店内に今日一番の爆笑が響き渡った。
「なんて答えたのよ」
工藤ちゃんは、一点の曇りもない真顔で答えた。
「……『尾行です』」
「正直すぎるだろ!」とタケさん。
「そこは嘘をつけよ!」とゴウちゃん。
「探偵として、致命的な誠実さですね」とマウス。
「潔い」と神様だけが感心している。
「バカよ」とマユ姐が切り捨てた。
工藤ちゃんは腕を組み、誇らしげに胸を張る。
「探偵は、嘘をつかない」 「つけ。今すぐつけ」
そこへ、カランとベルが鳴り、一人の女性客が入ってきた。
店内のカオスな空気を見て、一瞬足を止める。
「いらっしゃい、セクシー。……今、探偵が尾行に失敗した話をしてたのよ」
ミルクちゃんが笑いながら迎える。女性はカウンターに座りながら、くすくすと笑った。
「探偵さんって、よく失敗するものなんですか?」
「この店では、成功例を聞いたことがねえな」とタケさん。
「誤解だ。成功の準備をしているだけだ」
「じゃあ、過去の成功例を一つ言ってみなさいよ」とマユ姐。 工藤ちゃんは少し考え……そして、静かに首を振った。
「……まだ、ない」
店がひっくり返る。
「あんた、普段どうやって食ってるのよ」
「アルバイトだ。コンビニのレジ打ちをしている」
「ほら見たことか!」とミルクちゃん。「尾行よりレジ打ちの方が、よっぽど正確そうね」
女性客が楽しそうに笑っている。マウスが冷静に尋ねた。
「ちなみに工藤さん、どこで尾行したんですか」
「駅前だ」
「隠れる場所なんてありました?」
「コンビニの看板の後ろに潜んでいた」
「全部見えてるだろ!」とゴウちゃん。
「看板より、お前の方がデカいんだよ」とタケさん。
「それ、尾行じゃなくて散歩だろ」
「しかも、相手にストーキングされてる側の散歩ね」
工藤ちゃんは全く堪えた様子もなく、帽子を直した。
「……次は、必ず成功させる」
「やめなさい。この街の防犯レベルが下がるわ」
マユ姐の毒舌に、女性客が笑いながら呟いた。
「でも、面白いですね。なんだか、ここに来ると悩みがバカバカしくなりそう」
「そうだろう? どんな深刻な問題を持ってきても」とタケさん。 「途中で全員がバカになるのよ」とミルクちゃん。
「それで、少しだけ肩が軽くなる」とゴウちゃん。
「不思議な店だ」と神様。
「……ふっ、やはり事件の匂いがするな」
「「「「しない」」」」
全員の声が揃い、店に笑いが広がる。
タケさんはグラスを拭きながら、工藤ちゃんに静かに告げた。 「工藤ちゃん」
「なんだ」
「次の尾行の時はな」
「ああ」
「……まず、自分より太い電柱を探すことから始めろ」
店は再び、温かな笑いに包まれた。
月見橋の夜は、まだ続いている。
そして今夜もまた、Red
Light Barでは、取るに足らない、けれど誰かの明日を救うような何かが起こっていた。
信号が変わる電子音、コンビニの自動ドア、遠くを走るタクシーの重いタイヤ音。そんな日常の断片が混ざり合って、この街特有の、湿り気を帯びた夜の空気がゆっくりと出来上がっていく。
その交差点から一本入った細い路地に、血のような、あるいは救いのような赤いランプを灯す店がある。――Red Light Bar。カウンター八席だけの、小さな、けれど今夜も騒がしい予感に満ちた店だ。
その夜、店内にはいつもの顔ぶれが揃っていた。
タケさんはカウンターの中で無心にグラスを拭き、神様はいつもの席で静かに琥珀色の液体を揺らしている。ゴウちゃんは新聞を広げ、マウスはスマホの画面をなぞり、りょうちんはハイボールをちびちびと大事そうに飲んでいた。
その凪いだ空気を切り裂くように、ドアが勢いよく開いた。
「バックシティ~~♪ バックシティ~~♪」
工藤ちゃんだ。
だが、今夜はいつもと様子が違う。帽子のつばを深く下げ、顔つきが異様に真剣だった。
「OKダンディー。……事件だ」
「またかよ」
タケさんが、磨いていたグラスを置いて溜息をつく。
「週三ペースですね。もはやルーティンです」とマウス。
「今回は何があったんだ」
ゴウちゃんが新聞を畳む。工藤ちゃんは腕を組み、重々しい沈黙の後に呟いた。
「……尾行だ」
店内に、妙な緊張感が走った。
「探偵っぽい!」とりょうちんが目を輝かせる。
「依頼ですか」と神様が促すと、工藤ちゃんは短く「そうだ」と答えた。
「で、誰を尾行したんだ」
タケさんの問いに、工藤ちゃんは一瞬、間を置いた。
「……依頼人だ」
店内の時間が、物理的に止まった。
「……ちょっと待ってください」
マウスが眼鏡を指で押し上げる。ゴウちゃんも顔をしかめた。 「それ、どういう意味だ? 依頼人を尾行してどうするんだよ」 工藤ちゃんは微塵も揺らがぬ真顔で言い放った。
「尾行が、バレた」
ちょうどそのタイミングで、ミルクちゃんが「こんばんはー」と入ってきた。
店内の、お通夜と爆笑が混ざったような空気を見て鼻を鳴らす。 「何これ。誰か死んだの?」
「工藤ちゃんが、依頼人を尾行して失敗したんだとよ」
タケさんの説明に、ミルクちゃんは五秒間、彫刻のように固まった。
「……バカなの?」
「違う」
「違わないわよ!」
「ただいま」
マユ姐が、夜の風を纏って入ってきた。
「何、今度は誰がバカなの?」
「工藤ちゃんが尾行失敗よ」とミルクちゃん。
「また? 前も電柱に隠れて見つかったじゃない」
「あれは電柱が細すぎたんだ。俺のせいじゃない」
「電柱の太さに文句を言う探偵がどこにいるのよ!」
マユ姐のツッコミに、タケさんが話を戻した。
「で、工藤ちゃん。一体全体、何が起きたんだ」
工藤ちゃんは、ハードボイルドな面持ちで語り始めた。
「依頼人は、自分の奥さんを疑っていた。不倫の調査だ」
「ほう。そこまでは普通ですね」と神様。
「だから俺は尾行した」
「奥さんをか?」
「いや、途中で気づいたんだ。奥さんじゃない……こいつは、依頼人だ、と」
店内が爆発した。
「だから、どういうことよ!」とマユ姐が机を叩く。
「順を追って説明しろ!」
「依頼人が『ちょっと見てきます』と言って、トイレに立ったんだ。だが、なかなか帰ってこない。怪しいと思った俺は、即座に尾行を開始した」
「……なんでだよ!」
「直感だ。探偵の直感が、彼を追えと告げていた」
ミルクちゃんがカウンターに突っ伏した。 「その時点で、探偵やめたほうがいいわ……」
「マウス、これ依頼人だよな?」
「はい。百パーセント、クライアントです」
「尾行する理由、一ミリもありませんね」
りょうちんが笑いをこらえながら先を促す。
「それで、どうなったんっすか?」
「尾行していたら、依頼人が唐突に振り返った。目が合った」 「そりゃ合うだろ」
「彼は言った。『……工藤さん、何してるんですか』と」
店内に今日一番の爆笑が響き渡った。
「なんて答えたのよ」
工藤ちゃんは、一点の曇りもない真顔で答えた。
「……『尾行です』」
「正直すぎるだろ!」とタケさん。
「そこは嘘をつけよ!」とゴウちゃん。
「探偵として、致命的な誠実さですね」とマウス。
「潔い」と神様だけが感心している。
「バカよ」とマユ姐が切り捨てた。
工藤ちゃんは腕を組み、誇らしげに胸を張る。
「探偵は、嘘をつかない」 「つけ。今すぐつけ」
そこへ、カランとベルが鳴り、一人の女性客が入ってきた。
店内のカオスな空気を見て、一瞬足を止める。
「いらっしゃい、セクシー。……今、探偵が尾行に失敗した話をしてたのよ」
ミルクちゃんが笑いながら迎える。女性はカウンターに座りながら、くすくすと笑った。
「探偵さんって、よく失敗するものなんですか?」
「この店では、成功例を聞いたことがねえな」とタケさん。
「誤解だ。成功の準備をしているだけだ」
「じゃあ、過去の成功例を一つ言ってみなさいよ」とマユ姐。 工藤ちゃんは少し考え……そして、静かに首を振った。
「……まだ、ない」
店がひっくり返る。
「あんた、普段どうやって食ってるのよ」
「アルバイトだ。コンビニのレジ打ちをしている」
「ほら見たことか!」とミルクちゃん。「尾行よりレジ打ちの方が、よっぽど正確そうね」
女性客が楽しそうに笑っている。マウスが冷静に尋ねた。
「ちなみに工藤さん、どこで尾行したんですか」
「駅前だ」
「隠れる場所なんてありました?」
「コンビニの看板の後ろに潜んでいた」
「全部見えてるだろ!」とゴウちゃん。
「看板より、お前の方がデカいんだよ」とタケさん。
「それ、尾行じゃなくて散歩だろ」
「しかも、相手にストーキングされてる側の散歩ね」
工藤ちゃんは全く堪えた様子もなく、帽子を直した。
「……次は、必ず成功させる」
「やめなさい。この街の防犯レベルが下がるわ」
マユ姐の毒舌に、女性客が笑いながら呟いた。
「でも、面白いですね。なんだか、ここに来ると悩みがバカバカしくなりそう」
「そうだろう? どんな深刻な問題を持ってきても」とタケさん。 「途中で全員がバカになるのよ」とミルクちゃん。
「それで、少しだけ肩が軽くなる」とゴウちゃん。
「不思議な店だ」と神様。
「……ふっ、やはり事件の匂いがするな」
「「「「しない」」」」
全員の声が揃い、店に笑いが広がる。
タケさんはグラスを拭きながら、工藤ちゃんに静かに告げた。 「工藤ちゃん」
「なんだ」
「次の尾行の時はな」
「ああ」
「……まず、自分より太い電柱を探すことから始めろ」
店は再び、温かな笑いに包まれた。
月見橋の夜は、まだ続いている。
そして今夜もまた、Red
Light Barでは、取るに足らない、けれど誰かの明日を救うような何かが起こっていた。
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