第2話 ダンディーの作り方
ー/ー月見橋交差点の夜は、呼吸するようにゆっくりと始まる。
青から赤へ変わる信号の電子音、遠くを走り去る車のロードノイズ、コンビニの自動ドアが吐き出す無機質なチャイム。どこにでもある街の断片が重なり合い、この界隈特有の、夜の輪郭を形作っていく。
その交差点から、吸い込まれるように一本入った路地の奥。闇の中にぽつんと、血色の悪い、けれど温かな赤いランプを灯す店がある。
――Red Light Bar。
カウンターわずか八席。そこは、行き場をなくした大人たちが漂着する、小さな島のような場所だった。
その夜、店内に満ちていたのは野太い男たちの声だけだった。 店主のタケさんが、使い込まれたリネンの布でグラスを磨きながら、ふと思いついたように店内を見渡した。
「……ダンディーってのは、一体何なんだろうな」
右奥の特等席で、神様が琥珀色のグラスを静かに傾ける。 「ほう。また随分と、哲学的な問いですね」
すると、隣に座っていたゴウちゃんが、待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「いや、哲学じゃねえ。それは技術だ」
さらに隣でマウスが、呆れたように肩をすくめる。
「あーあ、また始まったよ。この人の自論」
若手のりょうちんは、少し楽しそうに目を輝かせた。
「ダンディーの話ですか? 深いですね」
タケさんは満足げに頷き、磨き上げたグラスを照明に透かした。
「そうだ。今夜の議題は決まった。“ダンディーの作り方”だ」
「ほう、見せていただきましょうか」
真っ先に動いたのはゴウちゃんだった。椅子から勢いよく立ち上がると、カウンターの背後、わずか数メートルの狭い通路をパリの『ランウェイ』に見立てるようにして陣取った。
「いいか、まずは歩き方だ。ダンディーは背中で語るもんだろ」
神様の促しに、ゴウちゃんは不自然なほど背筋をピンと伸ばし、顎を突き出した。そして、まるでスローモーションの映画のように、重々しく足を運ぶ。カウンターの前を三歩進んで、ピタリと止まった。
「……どうだ」
マウスが、間髪入れずに即答した。
「ただの、重度のギックリ腰の人」
店内に、爆発的な笑いが弾けた。
「違いますね」
神様が、静かに椅子を引いて立ち上がる。
「ダンディーとは“静寂”そのもの。存在感の消し方にこそ、真髄がある」
神様の歩みには無駄がなかった。姿勢も完璧、足音ひとつ立てない。三歩進んで止まるその所作には、確かな品格が漂っている。
それを見て、りょうちんがぽつりと呟いた。
「……大学教授の総回診ですね。白い巨塔みたい」
「神様、それ回診ですよ」
タケさんの追い打ちに、神様は憮然とした表情で席に戻った。 「君たちは、理解が浅い。浅すぎます」
「いえ、違いますよ」
今度はマウスが立ち上がった。
「何がだ」
「顎の角度ですよ。ダンディーの顎は、常に十五度上を向いているべきなんです」
「……なんでだ?」
「余裕の角度ですよ。下界を見下ろすくらいのね」
マウスは自信満々に歩き出したが、顎を上げすぎて視線は完全に天井を向いている。
「おい、マウス。それじゃ雨が降ったら溺れるぞ」
ゴウちゃんの指摘に、りょうちんも続く。
「そもそも、首のヘルニアまっしぐらですよ」
タケさんが、耐えきれずに吹き出した。
「お前ら、ここはバーだぞ。ダンディー研究会じゃなくて整形外科の待合室かよ」
そこへ、りょうちんが控えめに手を挙げた。
「……僕、わかったかもしれません」
「言ってみろ、若人よ」
「ダンディーは目線です。常に遠くを見据えているんです」
「どこをだよ」
「未来、ですよ」
一瞬、全員が沈黙した。
タケさんが、しみじみとした声で漏らす。
「……若いなぁ、お前」
りょうちんは期待に応えるべく、一点を見つめて悠然と歩き出した。未来を見つめ、高潔な表情で進んでいく。――そして、そのまま店の壁に派手に正面衝突した。
「ゴツッ!」という鈍い音が店内に響き、衝撃で棚の上のミニチュアボトルがチリンと微かに揺れた。
「……ぶっ!」
一拍置いて、店内は今日一番の爆笑に包まれた。
その絶妙なタイミングで、カランとベルが鳴る。
「バックシティ~~♪ バックシティ~~♪」
ご機嫌な鼻歌と共に現れたのは、工藤ちゃんだ。
「OKダンディー、いらっしゃい」
タケさんの挨拶に、工藤ちゃんは帽子を脱ぎ、鋭い視線で店内を射抜いた。
「……何をしている。妙に空気が震えているが」
「ダンディー研究会だ」
タケさんの説明に、工藤ちゃんは不敵な笑みを浮かべ、低い声で言い放った。
「なるほど。だが貴様ら、本質を忘れているな。ダンディーとはな……孤独という名の鎧を纏うことだ」
「またそれかよ」とゴウちゃん。
「お前、本当にそれしか言わねえな。レパートリー増やせよ」とタケさん。
そこへ、立て続けにドアが開いた。
「こんばんはー、ダンディーたち」
ミルクちゃんだ。彼女は店内を一瞥するなり、鼻を鳴らした。 「何これ。中年おじさん研究所?」
「ダンディー研究会だ」
マウスの訂正に、ミルクちゃんは三秒ほど真顔でフリーズした後、一言。
「……バカなの?」
その直後、まるで嵐を連れてくるようにマユ姐が入ってきた。 「ただいま」
店内のカオスな様子に、マユ姐は露骨に眉をひそめる。 「……ちょっと、何やってんのよ、あんたたち」
「ダンディーの歩き方を実演してたんだ」
タケさんの答えに、マユ姐は一秒で切り捨てた。
「全員、不合格。論外。更生行きね」
ミルクちゃんが、カウンターに肘をついて追い打ちをかける。 「そもそもね、ダンディーっていうのは、こんなことを汗かいて議論してる時点で失格なの。……ねえタケさん、いつもの」
「あいよ」
男たちがグサリと胸を突かれ、一斉に肩を落とす。マユ姐は流れるような動作で椅子に座り、足を組んで、片腕をカウンターに置いた。
「ダンディーは座り方よ。こうして、隙を見せないこと」
それを見たミルクちゃんが、即座にツッコミを入れる。
「マユ姐、それただの極道の姐さん」
「……ぶっ!」ドッと店が沸く。
その時、ドアが静かに、遠慮がちに開いた。
入ってきたのは、一人の女性客だった。
彼女が目にしたのは、カウンターで中年男たちが代わる代わる歩き方を披露し、顎を上げて天井を見つめる男や、壁に激突して鼻をさすっている若者の姿だった。
「……あの」
女性の困惑した声に、タケさんが最高の笑顔を向ける。
「いらっしゃい、セクシー」
女性は後ずさりせんばかりに戸惑った。
「……あの。私、もしかして、何か変な宗教か、撮影中のお店に入っちゃいました?」
「正解よ」
ミルクちゃんが楽しげに笑う。
「でも、慣れると中毒になるわよ。ここ」
マユ姐も頷く。
ゴウちゃんが、まだ少し背筋を伸ばしたまま言った。
「今、ダンディーについて真剣に研究している最中なんです」 女性は少しだけ考え、核心を突く一言を放った。
「……それ、人生に必要なんですか?」
一瞬の静寂。
タケさんが、再びグラスを拭き始めながら呟いた。
「今、この場の全員が同じことを思ったよ」
店内に、この日一番の、そして最も穏やかな笑いが起きた。
月見橋の夜は、まだ始まったばかりだ。
そして今夜も――Red
Light Barでは、取るに足らない、けれどかけがえのない何かが起こっていた。
青から赤へ変わる信号の電子音、遠くを走り去る車のロードノイズ、コンビニの自動ドアが吐き出す無機質なチャイム。どこにでもある街の断片が重なり合い、この界隈特有の、夜の輪郭を形作っていく。
その交差点から、吸い込まれるように一本入った路地の奥。闇の中にぽつんと、血色の悪い、けれど温かな赤いランプを灯す店がある。
――Red Light Bar。
カウンターわずか八席。そこは、行き場をなくした大人たちが漂着する、小さな島のような場所だった。
その夜、店内に満ちていたのは野太い男たちの声だけだった。 店主のタケさんが、使い込まれたリネンの布でグラスを磨きながら、ふと思いついたように店内を見渡した。
「……ダンディーってのは、一体何なんだろうな」
右奥の特等席で、神様が琥珀色のグラスを静かに傾ける。 「ほう。また随分と、哲学的な問いですね」
すると、隣に座っていたゴウちゃんが、待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「いや、哲学じゃねえ。それは技術だ」
さらに隣でマウスが、呆れたように肩をすくめる。
「あーあ、また始まったよ。この人の自論」
若手のりょうちんは、少し楽しそうに目を輝かせた。
「ダンディーの話ですか? 深いですね」
タケさんは満足げに頷き、磨き上げたグラスを照明に透かした。
「そうだ。今夜の議題は決まった。“ダンディーの作り方”だ」
「ほう、見せていただきましょうか」
真っ先に動いたのはゴウちゃんだった。椅子から勢いよく立ち上がると、カウンターの背後、わずか数メートルの狭い通路をパリの『ランウェイ』に見立てるようにして陣取った。
「いいか、まずは歩き方だ。ダンディーは背中で語るもんだろ」
神様の促しに、ゴウちゃんは不自然なほど背筋をピンと伸ばし、顎を突き出した。そして、まるでスローモーションの映画のように、重々しく足を運ぶ。カウンターの前を三歩進んで、ピタリと止まった。
「……どうだ」
マウスが、間髪入れずに即答した。
「ただの、重度のギックリ腰の人」
店内に、爆発的な笑いが弾けた。
「違いますね」
神様が、静かに椅子を引いて立ち上がる。
「ダンディーとは“静寂”そのもの。存在感の消し方にこそ、真髄がある」
神様の歩みには無駄がなかった。姿勢も完璧、足音ひとつ立てない。三歩進んで止まるその所作には、確かな品格が漂っている。
それを見て、りょうちんがぽつりと呟いた。
「……大学教授の総回診ですね。白い巨塔みたい」
「神様、それ回診ですよ」
タケさんの追い打ちに、神様は憮然とした表情で席に戻った。 「君たちは、理解が浅い。浅すぎます」
「いえ、違いますよ」
今度はマウスが立ち上がった。
「何がだ」
「顎の角度ですよ。ダンディーの顎は、常に十五度上を向いているべきなんです」
「……なんでだ?」
「余裕の角度ですよ。下界を見下ろすくらいのね」
マウスは自信満々に歩き出したが、顎を上げすぎて視線は完全に天井を向いている。
「おい、マウス。それじゃ雨が降ったら溺れるぞ」
ゴウちゃんの指摘に、りょうちんも続く。
「そもそも、首のヘルニアまっしぐらですよ」
タケさんが、耐えきれずに吹き出した。
「お前ら、ここはバーだぞ。ダンディー研究会じゃなくて整形外科の待合室かよ」
そこへ、りょうちんが控えめに手を挙げた。
「……僕、わかったかもしれません」
「言ってみろ、若人よ」
「ダンディーは目線です。常に遠くを見据えているんです」
「どこをだよ」
「未来、ですよ」
一瞬、全員が沈黙した。
タケさんが、しみじみとした声で漏らす。
「……若いなぁ、お前」
りょうちんは期待に応えるべく、一点を見つめて悠然と歩き出した。未来を見つめ、高潔な表情で進んでいく。――そして、そのまま店の壁に派手に正面衝突した。
「ゴツッ!」という鈍い音が店内に響き、衝撃で棚の上のミニチュアボトルがチリンと微かに揺れた。
「……ぶっ!」
一拍置いて、店内は今日一番の爆笑に包まれた。
その絶妙なタイミングで、カランとベルが鳴る。
「バックシティ~~♪ バックシティ~~♪」
ご機嫌な鼻歌と共に現れたのは、工藤ちゃんだ。
「OKダンディー、いらっしゃい」
タケさんの挨拶に、工藤ちゃんは帽子を脱ぎ、鋭い視線で店内を射抜いた。
「……何をしている。妙に空気が震えているが」
「ダンディー研究会だ」
タケさんの説明に、工藤ちゃんは不敵な笑みを浮かべ、低い声で言い放った。
「なるほど。だが貴様ら、本質を忘れているな。ダンディーとはな……孤独という名の鎧を纏うことだ」
「またそれかよ」とゴウちゃん。
「お前、本当にそれしか言わねえな。レパートリー増やせよ」とタケさん。
そこへ、立て続けにドアが開いた。
「こんばんはー、ダンディーたち」
ミルクちゃんだ。彼女は店内を一瞥するなり、鼻を鳴らした。 「何これ。中年おじさん研究所?」
「ダンディー研究会だ」
マウスの訂正に、ミルクちゃんは三秒ほど真顔でフリーズした後、一言。
「……バカなの?」
その直後、まるで嵐を連れてくるようにマユ姐が入ってきた。 「ただいま」
店内のカオスな様子に、マユ姐は露骨に眉をひそめる。 「……ちょっと、何やってんのよ、あんたたち」
「ダンディーの歩き方を実演してたんだ」
タケさんの答えに、マユ姐は一秒で切り捨てた。
「全員、不合格。論外。更生行きね」
ミルクちゃんが、カウンターに肘をついて追い打ちをかける。 「そもそもね、ダンディーっていうのは、こんなことを汗かいて議論してる時点で失格なの。……ねえタケさん、いつもの」
「あいよ」
男たちがグサリと胸を突かれ、一斉に肩を落とす。マユ姐は流れるような動作で椅子に座り、足を組んで、片腕をカウンターに置いた。
「ダンディーは座り方よ。こうして、隙を見せないこと」
それを見たミルクちゃんが、即座にツッコミを入れる。
「マユ姐、それただの極道の姐さん」
「……ぶっ!」ドッと店が沸く。
その時、ドアが静かに、遠慮がちに開いた。
入ってきたのは、一人の女性客だった。
彼女が目にしたのは、カウンターで中年男たちが代わる代わる歩き方を披露し、顎を上げて天井を見つめる男や、壁に激突して鼻をさすっている若者の姿だった。
「……あの」
女性の困惑した声に、タケさんが最高の笑顔を向ける。
「いらっしゃい、セクシー」
女性は後ずさりせんばかりに戸惑った。
「……あの。私、もしかして、何か変な宗教か、撮影中のお店に入っちゃいました?」
「正解よ」
ミルクちゃんが楽しげに笑う。
「でも、慣れると中毒になるわよ。ここ」
マユ姐も頷く。
ゴウちゃんが、まだ少し背筋を伸ばしたまま言った。
「今、ダンディーについて真剣に研究している最中なんです」 女性は少しだけ考え、核心を突く一言を放った。
「……それ、人生に必要なんですか?」
一瞬の静寂。
タケさんが、再びグラスを拭き始めながら呟いた。
「今、この場の全員が同じことを思ったよ」
店内に、この日一番の、そして最も穏やかな笑いが起きた。
月見橋の夜は、まだ始まったばかりだ。
そして今夜も――Red
Light Barでは、取るに足らない、けれどかけがえのない何かが起こっていた。
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