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17_ユミル洞窟(6)

ー/ー




(……それはそれとして、本当にどうやったら勝てるのかな……?)
 
 誰に向けた嘲笑なのか、そもそも嘲笑なのかすらも分からない笑みを零した後に、モナはひしと口元を引き締めると勝利のための一手を思考する。
 重い一撃を食らって分かったことは、真正面から立ち向かえば次こそ命はないということだった。現に地に足をつけて立っているとはいえ、満身創痍なことは誰がどう見ても明白だった。ひとつ呼吸をする度に呼吸器からはヒュウヒュウと木枯らしのような音が漏れ出すし、左腕は心なしかだらりと垂れ下がっているような気がする。その上両脚は産まれたての子鹿のように細かく震えている。

「――グゥオォォオン!!」
 
 そんなモナを眼前に、トロールは両腕を大きく開いた後にけたたましい咆哮を腹の底から上げると図書館のネズミを甚振る猫のような、はたまた殺人を通して悦に浸るサイコパスのような、けたたましい咆哮を上げる。宛ら勝利を確信したかのように高らかに響く雑音に、モナはああ、面白くないと口の中の液体をペッと吐き捨てる。そうしてモナの口から吐き出された凝固を始めた血液は、地面に接触すると同時に柔く砕け散った。

(…………あれ……?)

 生理的な嫌悪感に基づく、なんてことのない流れるような動作にモナはふと動きを止める。そしてつい十数分前に、さっさと洞窟の調査を終えて帰宅しようと急くルチアに対して発した言葉――もとい地図に記してあった情報が脳裏を過ぎると、絶え間なく襲う激痛に最早どこが痛いかも分からない身体を唯一ましな右腕で抱き締めながら、最奥の小部屋をぐるりと見渡した。

(確かここって……。)

 モナはつい先程の記憶を頼りに視界に映る全てを素早く、かつ丹念に凝視する。そして散々トロールが本能のままに暴れ回ってくれたおかげとでも言うべきか、痛みに霞む視界でもそう苦労することなく目的の箇所――それも恐らくは当初よりも大きくひび割れ、今にも崩落しそうになっている壁と天井を見つけると、もしかしなくとも起こるかもしれない奇跡に今日初めて心の底からの笑みを浮かべた。
 無論、幾ら楽観的なルチアや町の人々に影響されつつあるとはいえ、基本リアリストなモナは奇跡が起こらない可能性も充分に考慮していた。ただ現実として、モナの脳裏を過ぎった唯一の生還の可能性及びに奇跡を、ルチアならばきっと。例え奇跡が起こらなかったとしてもそれに賭けてみること、期待してみることは決して悪いことではないと言ってくれるような気がしたのだ。

【縫い付ける魔法】(クチーレ)!!」

 モナはそう考えるや否や、これ以上痛みと失血とで本格的に視覚を失う前にと勝負に出る。なけなしの勇気と魔力とで恐怖心に蓋をして、自身が唯一使える【縫い付ける魔法】(クチーレ)を、大きく亀裂の入った天井に向けて放った。
 但しこれまでと大きく違うことは、縫い付ける対象はトロールでもなければ積み重なっているオークの亡骸でもなく、自分自身だということだった。モナは生き残るために咄嗟に考え付いた稚拙な作戦のためとはいえ、普段の彼女からは想像もつかない程に大胆な行動に打って出る。とはいえ必要最低限の配慮改め、これ以上身体にダメージが出ないようにと出力は極力控えめに――具体的には天井に左手をかろうじて数秒耐えられる程度の強度の魔力の糸で縫い付けると、高所からトロールを見下ろした。そして真剣な眼差しを向けつつ顎が外れんばかりにその小さな口を開くと、これまたモナらしからぬ大声を洞窟内に響かせた。

「――――来い!!」
「グァア……ガァアアアァァァアアアーーー!!」

 挑発と呼ぶには少々シンプルすぎるそれに呼応するかのように、トロールは鼓膜が破れかねない程の怒声で応える。それから両の拳をしっかりと固く握り締めると、自身の胸板を力任せに叩いては力を誇示した。所謂ドラミングと呼ばれるその行為はトロールという種族、ひいては自分がいかに優れた存在なのかを相手に本能的に指し示す行為であった。そしてトロールにして見れば取るに足らない程に矮小な、ただの人間であるモナに改めて恐怖心を抱かせるには充分すぎるくらいの威力を含んでいた。
 けれどモナは1歩も引かない。否、確かに心の奥底には今すぐにでも逃げ出したい気持ちは依然としてあるものの、それ以上に覚悟を決めていた。常に不安と罪悪感、それから何故自分などという存在がのうのうと生きているのだろうかと荒波の如く揺れ動いていた珊瑚色の瞳は、今や凪のように穏やかだった。だというのにその水晶体と瞳孔からは、それでいて何かを決意した生き物特有の真っ直ぐとした視線――それも相手を捉えては決して離そうとしない、何らかの引力にも似た力強さを臆することなく放っていた。

 ただの自暴自棄とも諦めとも違うその光は、自然界の連鎖において限りなく頂点に近いトロールにとって今まで目にしたことのないものだった。今までありとあらゆる生き物を蹂躙してきた筈の彼が、初めて明確に恐怖心を覚えた瞬間だった。それもそのはずで、何しろその光を放っているのはつい先程までろくに抵抗する兆しのなかった、小さなちいさな人間なのだ。
 それはある意味、本能のまま生きてきたトロールにとって不幸ですらあった。何しろ彼は他の個体ならいざ知らず、自身はこうして覚悟を決めた人間と対峙した経験がなかったのだ。故に彼にとってはモナの全てが今までに経験のない、未知の脅威であった。不気味ですらあった。加えてその底の知れない相手が自分よりも高い位置から見下ろしてきているのだから、なまじ自身が強者であるという自覚の強い彼には堪ったものではなかった。プライドを大いに逆撫でされたような気持ちだった。

 だからこそ彼はモナの思惑通り、威嚇行為(ドラミング)の後に右腕を大きく振り上げるとそのまま天井とモナ目掛けて突き上げた。この洞窟の天井ごとモナの身体という身体を砕いてしまおうと、渾身の力を込めた重い一撃を食らわせた。
 するや否や、トロールは自慢の腕力にスピードを乗算した強烈なパンチが齎す衝撃――皮膚から筋肉、そして骨と順に伝わってくる確かな感覚と、天井からパラパラと崩れ落ちてくる小石や舞い上がる土埃に勝ちを確信すると、ニンマリとほくそ笑んだ。あの鋭い目をしたネズミを粉々にしてやったと、慢心のままに腹の底から大声を出して笑った。
 そうやって暫し洞窟内に笑い声を響かせた後、トロールはいよいよ自身の拳と天井との間でペチャンコに潰れた獲物でも鑑賞するかと、突き上げたままの拳をゆっくりと離した。それに合わせてパラパラと降り注ぐ小石に不快そうに眉を顰めながら腕を下ろし、滴ってくる筈の血の雨を今か今かと心踊らせながら待った。

「………………?」
 
 しかしながら一向に降る気配のない雨にトロールが疑問を抱き、ふと視線を上に向けた時だった。土埃が徐々に落ち着いていくと共に彼の目に映ったのは、自身の拳の形にへこんだ天井とその地点を中心に走る亀裂のみだった。モナの姿はどこにもなかった。
 トロールは予想だにしていなかった事態に、必死に目を凝らしてモナの姿を探す。稚拙な知能なりに、あまりの衝撃と圧力に原型さえも分からない程に圧縮してしまったのかと、最もらしい可能性を思案してみたりもした。もしかしたら亀裂の間に埋まってしまったのかもしれないと、背筋を伸ばして窪みを覗き込んでみたりもした。
 なんとも不幸なことに、ここまで負け知らずだった彼は自身が負ける可能性など少しも頭になかったのだ。故に傍から見れば滑稽にも思える程に、ありもしない事実を探して足元が留守になっているのだ。

(………………まだ。まだだ……!)

 ――トロールの凄まじい一撃が炸裂する寸前、モナは縫い付ける魔法(クチーレ)を解除すると重力に任せて落下していた。そして転がりながら土埃に身を紛らせ、彼の股座に潜り込むとその場で息を潜めながら、チェックメイトを宣言するタイミングを注意深く伺っていた。これで2回目となる高所からの自由落下だったが、あの魂が抜けるような感覚にはどうも慣れそうにないなとモナはさらに損傷した身体を、どうにも上手く動かない右腕で抱き締めながら口元を緩めた。
 敢えて天井に吊り下がり、トロールを煽るような真似をしたのは正しくこの状況こそがモナの考える『奇跡』への王手に他ならなかった。そして身を隠すにあたって敢えて岩の陰でもなければ背後でもなく、足元を選んだのはこれほどの巨体ならば恐らく真下こそが死角になるのではと考えたからだった。
 
 とはいえ、全てはあくまでも推測。実際にどうなるかはモナとて未知の領域だったものの、図体ばかりが大きくて知能があまり発達していないモンスターが相手だったのが不幸中の幸いだった。そしてその幸運を掴んで離さないようにするためには最後まで気を抜いてはいけないと、モナはふと気を抜けば意識を失いそうになる激痛に物音ひとつも立てずに必死に耐える。
 そしてその傍らすぐに切れそうになる集中力を意地で保つと、もうまともに動かない右手で握り締めているワンドの先に溜めた。

 『早くしないと自分の居場所がバレるかもしれない』――そんな焦りは、当然ある。故に焦るなと言い聞かせても無理なことは、モナ自身がいちばん良く理解していた。
 だからこそモナは逆にこう考える。『相手に気付かれた時こそが、寧ろ好機なのだ』と。

「……はぁ、ッ……!!」

 モナは時折途切れそうになる意識の中、ワンドの先になんとか魔法として形になりそうな程度には魔力を集めると、最後の一手を決めにかかる。
 モナは足元に散らばった小石のうち、素早く特に鋭利なものを選ぶと全くと言っていいほどに力の入らない左手でそれを握り締めた。そしてそれをトロールの裸足の足の先、自身から最も近かった親指に宛てがうと、力が入らない代わりに自分の全体重をその小石に乗せて力任せに押した。

「グ……グァア、ォオオォン――!!」
 
 極めて標準的な体格とはいえ、体重の全てを乗せた鋭利な小石はそれなりに痛むだろう。加えて不意打ちだったのだ、トロールの受けたダメージは想像以上だろう。現にトロールは痛み以上に不覚をとった驚きに今日1番の大声を上げると、半ば飛び跳ねるように姿勢を崩した。
 次いでトロールはパニックになりながらも自身の足元へと視線を向けた。するとそこには仕留めたはずだと頻りに探していた目的の人物が居たものだから、彼の頭の中は混乱から一転、さらにプライドを傷付けられたという怒りで満たされた。そして本能的な怒りに満ち満ちた思考のまま、彼は自分を散々小馬鹿にしてくれたモナを今度こそ逃がすまいと頭を垂れてはしっかりと両の眼で捕らえる。濁りきった瞳で拘束しながら、舌舐りしながら大玉のメロンかスイカほどある手のひらをモナに近付ける。

「――――【縫い付ける魔法】(クチーレ)……!!」

 自身の視界いっぱいに、真上から見下ろすトロールの顔が映ったまさにその瞬間。モナはここだ、とワンドの先から魔法を放った。縫い付ける対象は大きな亀裂の入った件の天井と、こちらからは見えないものの無防備に晒されているであろうトロールの後頭部だった。視界にないもの同士を縫い付けるという、凡人の自覚があるモナにとっては中々に無謀な挑戦だった。
 ……が、こういうのを火事場の馬鹿力というのだろうか。あるいは土壇場の力というべきか、はたまた窮鼠猫を噛むと言うべきか。もう少し格好付けた表現を選ぶとするならば、運命力とでも言い表すべきなのだろうか。――ともかくモナは運がいいのか悪いのか、それとも逆境で強くなるタイプの人間なのかは、定かではないもののどうにか視界にないもの同士を縫い付けることに成功したのだ。

「ガ、ッ――――?!?」

 縫い付ける対象となった二者が引かれ合う。引かれ合ったかと思えば、以前牧場でオークと岩とを縫い付けた時と全く同じ反応が起きた。要するに、トロールの後頭部が天井の窪みに勢いよく叩きつけられたのだ。
 流石にコンディションの問題からあの時ほどの威力はないものの、不意をつくには充分なそれにトロールは思わず脳天に走った衝撃に任せ、ごく短い呻き声を上げると目を見開いた。それからギョロリと目は見開いたまま、相も変わらず油断しているところを狙って小賢しい攻撃を仕掛けてくるモナを大層苛立っている様子で睨み付けると、これ以上何かされる前に早く息の根を止めてしまおうと手を伸ばしてきた。

「………………?」
「……ああ――――。」
 
 その瞬間だった。何度も何度も執拗な程に強烈な力が加わった天井からポロリポロリ、小さなものから大きなものまで石が剥がれては落ちてきた。最初は疎らだったそれは、瞬く間に土砂降りの雨のような速度と量になってはモナとトロールに襲い掛かってきた。
 
 ――崩落だ。
 
 モナはなんとか狙い通りに起こせた奇跡もとい、地図に記されていた『地盤沈下の疑い有り』『壁に亀裂有り。長時間の滞在禁止』という情報を元に咄嗟に練り上げた作戦が上手くいったことを悟ると、敢えてこの後自分がどうなるのか、という最も重大な問題からは目を逸らす。
 その代わりに誰も見ていないのを良いことに精一杯格好付けると、ふっと笑った。

「…………チェックメイト、ってね。」

 その笑みは決してモンスターという忌みされる存在への憐れみではない。ただただ知恵のなさを経験で補おうともしなければ、生まれながらの能力のままにそれなりに平穏に暮らしていた他者を蹂躙した者への、ごく純粋な軽蔑だった。加えて相打ちならば凡人にしてはまあまあ上等なところかといった、いつも通りの理性的な独り言だった。


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(……それはそれとして、本当にどうやったら勝てるのかな……?)
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 重い一撃を食らって分かったことは、真正面から立ち向かえば次こそ命はないということだった。現に地に足をつけて立っているとはいえ、満身創痍なことは誰がどう見ても明白だった。ひとつ呼吸をする度に呼吸器からはヒュウヒュウと木枯らしのような音が漏れ出すし、左腕は心なしかだらりと垂れ下がっているような気がする。その上両脚は産まれたての子鹿のように細かく震えている。
「――グゥオォォオン!!」
 そんなモナを眼前に、トロールは両腕を大きく開いた後にけたたましい咆哮を腹の底から上げると図書館のネズミを甚振る猫のような、はたまた殺人を通して悦に浸るサイコパスのような、けたたましい咆哮を上げる。宛ら勝利を確信したかのように高らかに響く雑音に、モナはああ、面白くないと口の中の液体をペッと吐き捨てる。そうしてモナの口から吐き出された凝固を始めた血液は、地面に接触すると同時に柔く砕け散った。
(…………あれ……?)
 生理的な嫌悪感に基づく、なんてことのない流れるような動作にモナはふと動きを止める。そしてつい十数分前に、さっさと洞窟の調査を終えて帰宅しようと急くルチアに対して発した言葉――もとい地図に記してあった情報が脳裏を過ぎると、絶え間なく襲う激痛に最早どこが痛いかも分からない身体を唯一ましな右腕で抱き締めながら、最奥の小部屋をぐるりと見渡した。
(確かここって……。)
 モナはつい先程の記憶を頼りに視界に映る全てを素早く、かつ丹念に凝視する。そして散々トロールが本能のままに暴れ回ってくれたおかげとでも言うべきか、痛みに霞む視界でもそう苦労することなく目的の箇所――それも恐らくは当初よりも大きくひび割れ、今にも崩落しそうになっている壁と天井を見つけると、もしかしなくとも起こるかもしれない奇跡に今日初めて心の底からの笑みを浮かべた。
 無論、幾ら楽観的なルチアや町の人々に影響されつつあるとはいえ、基本リアリストなモナは奇跡が起こらない可能性も充分に考慮していた。ただ現実として、モナの脳裏を過ぎった唯一の生還の可能性及びに奇跡を、ルチアならばきっと。例え奇跡が起こらなかったとしてもそれに賭けてみること、期待してみることは決して悪いことではないと言ってくれるような気がしたのだ。
「|【縫い付ける魔法】《クチーレ》!!」
 モナはそう考えるや否や、これ以上痛みと失血とで本格的に視覚を失う前にと勝負に出る。なけなしの勇気と魔力とで恐怖心に蓋をして、自身が唯一使える|【縫い付ける魔法】《クチーレ》を、大きく亀裂の入った天井に向けて放った。
 但しこれまでと大きく違うことは、縫い付ける対象はトロールでもなければ積み重なっているオークの亡骸でもなく、自分自身だということだった。モナは生き残るために咄嗟に考え付いた稚拙な作戦のためとはいえ、普段の彼女からは想像もつかない程に大胆な行動に打って出る。とはいえ必要最低限の配慮改め、これ以上身体にダメージが出ないようにと出力は極力控えめに――具体的には天井に左手をかろうじて数秒耐えられる程度の強度の魔力の糸で縫い付けると、高所からトロールを見下ろした。そして真剣な眼差しを向けつつ顎が外れんばかりにその小さな口を開くと、これまたモナらしからぬ大声を洞窟内に響かせた。
「――――来い!!」
「グァア……ガァアアアァァァアアアーーー!!」
 挑発と呼ぶには少々シンプルすぎるそれに呼応するかのように、トロールは鼓膜が破れかねない程の怒声で応える。それから両の拳をしっかりと固く握り締めると、自身の胸板を力任せに叩いては力を誇示した。所謂ドラミングと呼ばれるその行為はトロールという種族、ひいては自分がいかに優れた存在なのかを相手に本能的に指し示す行為であった。そしてトロールにして見れば取るに足らない程に矮小な、ただの人間であるモナに改めて恐怖心を抱かせるには充分すぎるくらいの威力を含んでいた。
 けれどモナは1歩も引かない。否、確かに心の奥底には今すぐにでも逃げ出したい気持ちは依然としてあるものの、それ以上に覚悟を決めていた。常に不安と罪悪感、それから何故自分などという存在がのうのうと生きているのだろうかと荒波の如く揺れ動いていた珊瑚色の瞳は、今や凪のように穏やかだった。だというのにその水晶体と瞳孔からは、それでいて何かを決意した生き物特有の真っ直ぐとした視線――それも相手を捉えては決して離そうとしない、何らかの引力にも似た力強さを臆することなく放っていた。
 ただの自暴自棄とも諦めとも違うその光は、自然界の連鎖において限りなく頂点に近いトロールにとって今まで目にしたことのないものだった。今までありとあらゆる生き物を蹂躙してきた筈の彼が、初めて明確に恐怖心を覚えた瞬間だった。それもそのはずで、何しろその光を放っているのはつい先程までろくに抵抗する兆しのなかった、小さなちいさな人間なのだ。
 それはある意味、本能のまま生きてきたトロールにとって不幸ですらあった。何しろ彼は他の個体ならいざ知らず、自身はこうして覚悟を決めた人間と対峙した経験がなかったのだ。故に彼にとってはモナの全てが今までに経験のない、未知の脅威であった。不気味ですらあった。加えてその底の知れない相手が自分よりも高い位置から見下ろしてきているのだから、なまじ自身が強者であるという自覚の強い彼には堪ったものではなかった。プライドを大いに逆撫でされたような気持ちだった。
 だからこそ彼はモナの思惑通り、|威嚇行為《ドラミング》の後に右腕を大きく振り上げるとそのまま天井とモナ目掛けて突き上げた。この洞窟の天井ごとモナの身体という身体を砕いてしまおうと、渾身の力を込めた重い一撃を食らわせた。
 するや否や、トロールは自慢の腕力にスピードを乗算した強烈なパンチが齎す衝撃――皮膚から筋肉、そして骨と順に伝わってくる確かな感覚と、天井からパラパラと崩れ落ちてくる小石や舞い上がる土埃に勝ちを確信すると、ニンマリとほくそ笑んだ。あの鋭い目をしたネズミを粉々にしてやったと、慢心のままに腹の底から大声を出して笑った。
 そうやって暫し洞窟内に笑い声を響かせた後、トロールはいよいよ自身の拳と天井との間でペチャンコに潰れた獲物でも鑑賞するかと、突き上げたままの拳をゆっくりと離した。それに合わせてパラパラと降り注ぐ小石に不快そうに眉を顰めながら腕を下ろし、滴ってくる筈の血の雨を今か今かと心踊らせながら待った。
「………………?」
 しかしながら一向に降る気配のない雨にトロールが疑問を抱き、ふと視線を上に向けた時だった。土埃が徐々に落ち着いていくと共に彼の目に映ったのは、自身の拳の形にへこんだ天井とその地点を中心に走る亀裂のみだった。モナの姿はどこにもなかった。
 トロールは予想だにしていなかった事態に、必死に目を凝らしてモナの姿を探す。稚拙な知能なりに、あまりの衝撃と圧力に原型さえも分からない程に圧縮してしまったのかと、最もらしい可能性を思案してみたりもした。もしかしたら亀裂の間に埋まってしまったのかもしれないと、背筋を伸ばして窪みを覗き込んでみたりもした。
 なんとも不幸なことに、ここまで負け知らずだった彼は自身が負ける可能性など少しも頭になかったのだ。故に傍から見れば滑稽にも思える程に、ありもしない事実を探して足元が留守になっているのだ。
(………………まだ。まだだ……!)
 ――トロールの凄まじい一撃が炸裂する寸前、モナは|縫い付ける魔法《クチーレ》を解除すると重力に任せて落下していた。そして転がりながら土埃に身を紛らせ、彼の股座に潜り込むとその場で息を潜めながら、チェックメイトを宣言するタイミングを注意深く伺っていた。これで2回目となる高所からの自由落下だったが、あの魂が抜けるような感覚にはどうも慣れそうにないなとモナはさらに損傷した身体を、どうにも上手く動かない右腕で抱き締めながら口元を緩めた。
 敢えて天井に吊り下がり、トロールを煽るような真似をしたのは正しくこの状況こそがモナの考える『奇跡』への王手に他ならなかった。そして身を隠すにあたって敢えて岩の陰でもなければ背後でもなく、足元を選んだのはこれほどの巨体ならば恐らく真下こそが死角になるのではと考えたからだった。
 とはいえ、全てはあくまでも推測。実際にどうなるかはモナとて未知の領域だったものの、図体ばかりが大きくて知能があまり発達していないモンスターが相手だったのが不幸中の幸いだった。そしてその幸運を掴んで離さないようにするためには最後まで気を抜いてはいけないと、モナはふと気を抜けば意識を失いそうになる激痛に物音ひとつも立てずに必死に耐える。
 そしてその傍らすぐに切れそうになる集中力を意地で保つと、もうまともに動かない右手で握り締めているワンドの先に溜めた。
 『早くしないと自分の居場所がバレるかもしれない』――そんな焦りは、当然ある。故に焦るなと言い聞かせても無理なことは、モナ自身がいちばん良く理解していた。
 だからこそモナは逆にこう考える。『相手に気付かれた時こそが、寧ろ好機なのだ』と。
「……はぁ、ッ……!!」
 モナは時折途切れそうになる意識の中、ワンドの先になんとか魔法として形になりそうな程度には魔力を集めると、最後の一手を決めにかかる。
 モナは足元に散らばった小石のうち、素早く特に鋭利なものを選ぶと全くと言っていいほどに力の入らない左手でそれを握り締めた。そしてそれをトロールの裸足の足の先、自身から最も近かった親指に宛てがうと、力が入らない代わりに自分の全体重をその小石に乗せて力任せに押した。
「グ……グァア、ォオオォン――!!」
 極めて標準的な体格とはいえ、体重の全てを乗せた鋭利な小石はそれなりに痛むだろう。加えて不意打ちだったのだ、トロールの受けたダメージは想像以上だろう。現にトロールは痛み以上に不覚をとった驚きに今日1番の大声を上げると、半ば飛び跳ねるように姿勢を崩した。
 次いでトロールはパニックになりながらも自身の足元へと視線を向けた。するとそこには仕留めたはずだと頻りに探していた目的の人物が居たものだから、彼の頭の中は混乱から一転、さらにプライドを傷付けられたという怒りで満たされた。そして本能的な怒りに満ち満ちた思考のまま、彼は自分を散々小馬鹿にしてくれたモナを今度こそ逃がすまいと頭を垂れてはしっかりと両の眼で捕らえる。濁りきった瞳で拘束しながら、舌舐りしながら大玉のメロンかスイカほどある手のひらをモナに近付ける。
「――――|【縫い付ける魔法】《クチーレ》……!!」
 自身の視界いっぱいに、真上から見下ろすトロールの顔が映ったまさにその瞬間。モナはここだ、とワンドの先から魔法を放った。縫い付ける対象は大きな亀裂の入った件の天井と、こちらからは見えないものの無防備に晒されているであろうトロールの後頭部だった。視界にないもの同士を縫い付けるという、凡人の自覚があるモナにとっては中々に無謀な挑戦だった。
 ……が、こういうのを火事場の馬鹿力というのだろうか。あるいは土壇場の力というべきか、はたまた窮鼠猫を噛むと言うべきか。もう少し格好付けた表現を選ぶとするならば、運命力とでも言い表すべきなのだろうか。――ともかくモナは運がいいのか悪いのか、それとも逆境で強くなるタイプの人間なのかは、定かではないもののどうにか視界にないもの同士を縫い付けることに成功したのだ。
「ガ、ッ――――?!?」
 縫い付ける対象となった二者が引かれ合う。引かれ合ったかと思えば、以前牧場でオークと岩とを縫い付けた時と全く同じ反応が起きた。要するに、トロールの後頭部が天井の窪みに勢いよく叩きつけられたのだ。
 流石にコンディションの問題からあの時ほどの威力はないものの、不意をつくには充分なそれにトロールは思わず脳天に走った衝撃に任せ、ごく短い呻き声を上げると目を見開いた。それからギョロリと目は見開いたまま、相も変わらず油断しているところを狙って小賢しい攻撃を仕掛けてくるモナを大層苛立っている様子で睨み付けると、これ以上何かされる前に早く息の根を止めてしまおうと手を伸ばしてきた。
「………………?」
「……ああ――――。」
 その瞬間だった。何度も何度も執拗な程に強烈な力が加わった天井からポロリポロリ、小さなものから大きなものまで石が剥がれては落ちてきた。最初は疎らだったそれは、瞬く間に土砂降りの雨のような速度と量になってはモナとトロールに襲い掛かってきた。
 ――崩落だ。
 モナはなんとか狙い通りに起こせた奇跡もとい、地図に記されていた『地盤沈下の疑い有り』『壁に亀裂有り。長時間の滞在禁止』という情報を元に咄嗟に練り上げた作戦が上手くいったことを悟ると、敢えてこの後自分がどうなるのか、という最も重大な問題からは目を逸らす。
 その代わりに誰も見ていないのを良いことに精一杯格好付けると、ふっと笑った。
「…………チェックメイト、ってね。」
 その笑みは決してモンスターという忌みされる存在への憐れみではない。ただただ知恵のなさを経験で補おうともしなければ、生まれながらの能力のままにそれなりに平穏に暮らしていた他者を蹂躙した者への、ごく純粋な軽蔑だった。加えて相打ちならば凡人にしてはまあまあ上等なところかといった、いつも通りの理性的な独り言だった。