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02_田舎町イルクオーレ(2)

ー/ー




「――ぅ、っ…。」

 不意に真白の紙にペンから零れ落ちたインクが染みるように、静寂という静寂を切り裂いた自身の呻き声をモナは薄明かりのような意識のなかでぼんやりと知覚していた。知覚し、自覚していくにつれて、まだ未覚醒の脳で必死に『あれからどうなったのだろう?』『わたしは今、生きているのだろうか?』と思い悩んだ。けれどいまいちどこか覚醒しきれない脳に、モナは自身の生死すら分からないまま夢現を彷徨う。
 
 ――声を上げられるってことは、生きているのかも?
 ――でも、指先ひとつも動かない。
 ――ってことはわたし、死んじゃったのかな?

 堂々巡りする思考を、一体どれくらい続けただろうか。5分か10分か、あるいはそれ以上か――とにかくモナがどうやら自分が助かってしまったこと、生きていること、指先ひとつも動かせないくらいに疲労していることを徐々に目を覚まし始めた脳で認識し始めると、やっとのことで重い瞼が開いた。
 そうして見開いたチェリーピンクの瞳は、最初は久方ぶりの光を疎まし思うかのように何度か瞬きする。それを何度か繰り返すうちに、ゆっくりと現状が夢を侵食してくる。空想と、現実が置き換わる。

「…………あの世って、案外庶民的なんだなぁ…。」
「それは光栄ね。」

 モナがどこかぼんやりとした瞳で清潔感のある白の壁紙と天井とを見つめながら、誰に向けるわけでもなくぽつりと力なく呟いた言葉を誰かが拾う。まさか返答があるとは思わなかったモナは、酷く驚いた顔をした後に自身の置かれている状況を冷静に分析する。――壁、天井、それ即ち家。家イコール、誰かが住んでいる場所。では、声の主はこの家の住人だろうか?モナは限られた情報を元に平時においてはごく当たり前の事実を大袈裟に推理してみせると、おそるおそる声のする方向へと視線を向けた。幸いなことに、顔と首周りの筋肉の負傷は少ないらしい。モナはなんの苦労もなくこの家の住人であろう誰かを視界に捉えると、まずは助かってしまった絶望から他人の家をあの世呼ばわりしたことを謝ろうとした。
 けれどモナが喉を開くよりも先に、彼女の視線の先に居た少女――グレーアッシュの髪をローポニーテールにした上で、更に纏めやすくしようとしたのだろう。そこそこに長い髪を半ばで曲げ、大きなヘアクリップで留めている――は、窓を覆っていたカーテンに手をかける。そしてゆっくりと引きながら外の春らしいうららかな陽光を取り入れると、サイドテーブルに置かれた桶にガーゼを浸して軽く絞ってから優しくモナの額を拭いた。

「だって、それだけ親しみやすいってことじゃない?」

 そう言ってグレーアッシュの髪の少女はモナがあの日見た碧空と同じ色の瞳を細めてニカッと笑った。くにゃりと歪められた大きな瞳とへにゃりと緩んだ口元は、初対面ながらも人の良さを感じさせた。
 が、モナにとってはそんなことは些事だった。この少女が良い人間であろうが悪い人間であろうが、両親を見殺しにしてまで助かってしまったことへの強い自己嫌悪と、そんな最低なことをしてまで生き残ってしまった自分なんて誰かに優しくされるべきではないという自罰的な感情が故だった。加えて状況証拠にしか過ぎないが滝壺に落下後、水の勢いに任せて下流へ下流へと流れていった自分を助けてくれたのがこの少女だとするならば、モナは彼女に感謝すれば良いのか、はたまた逆恨みすれば良いのか分からずにいた。故にモナは少女になんと言葉を返せば良いのか分からずに、ただただ押し黙る。
 
(………ちがう、)

 何も言葉を発しないモナを心配に思ったのか、顔を覗き込んでくる少女にモナはどうしようもなく泣きたくなった。本当は、本当は、傷付いた自分に優しくしてくれる相手は見ず知らずの少女ではなくて、大好きな母親が良かった。否、そうであるべきだったのだ。
 けれどモナが咄嗟に違うと感じたのはそんな子供じみた主張に基づくワガママが故ではなく、『きっとお母さんなら、親切にしてくれた人に対してこんな態度を取らない』という、彼女なりのプライドと実体験が織り交ぜられた一種の現実逃避であった。

「大丈夫?どこか、痛いところとかない?お腹は?空いてる?……そうだ!あなた、名前は?どこから来たの?どうしてボロボロだったの?」
「…………そ、れは――。」

 混乱と、悲哀と、どうしようもない現実とに押し潰されそうになりながらも、モナは万が一――此処がまだ帝国領である可能性を考慮して、自分を生かすために全力を尽くしてくれた両親のために。何よりもあの時、少しだって振り向こうともしなかった自分自身の行動を正当化するかのように、今すぐにでも思考を放棄したくなるのを抑えると努めて冷静に適切な答えを模索する。

 ――大丈夫、ではあると思う。ちゃんと口は動くし、思考も出来る。
 ――痛み、は…まだ分からない。多分、身体がちゃんと目を覚ましてないと思うから。
 ――空腹も、同様。

 モナは以上の答えを、まずは軽く頷くことで少女に伝える。次いで最も重要な質問――『わたし』という人物が何者で、一体どういう経緯で彼女に助けられるに至ったのかをどう説明したものだろうかと思い悩む。果たして何も情報がない中で、自分という人間はなんとか落とし損ねた命をどう死守すべきかと必死に思考を巡らせる。

(…………そうだ。これなら、不審がられない…かもしれない…!)

 こちらをじいっと見つめてくる二つの瞳を前に、一体どう答えるべきかとあぐねていたモナの頭の中にふと閃光が走る。それは幼い頃、母親に読み聞かせて貰った民族童話――記憶を無くした女の子の大冒険を描いた、特にお気に入りの話――を思い出したのだった。
 モナ自身、まさかおとぎ話のようになにもかも上手くいくとは思っていない。それでも咄嗟に「使えるかもしれない」と思ったのは、もし仮に此処が未だ帝国領で、自分が亡命した魔法使いだと判明してしまう最悪の場合のことを考えてのことだった。

 なあに、ダメだった場合は少し両親のところに行くのが遅くなったと思えばいい。でも、目の前にたった一縷でも望みがあるならば、あの時最低な行動を取ってしまった自分のために手を伸ばしてみたい――そう思ったモナはゆっくりと口を開くと、少女に向かって告げた。

「ごめんなさい。……何も、覚えていません…。」
「――――――――。」
「…………あ、あの…?」

 絶句。正しくそう表現するのがピッタリだなと思わず呑気なことを考えてしまうくらいに予想だにしない現実(モナにとっては真っ赤な嘘だが)に直面したであろう少女は、思い切り目を見開いた後、暫し言葉を失った。それから酸欠の魚のように口を何度か開けては閉じ、開けては閉じ…と数回繰り返した後に、モナは流石に無茶が過ぎたかと慌てて、やっぱり名前くらいはなんとなく覚えていたかもしれないと口にしようとした。

「…………ま、」
「……ま?」
「まじかーーー!?!叔父さん!!叔父さーーーん!!女の子、目を覚ましたけど痛いところがない代わりに何にも覚えてないんだって〜〜〜!!!ど〜しよ、キオクソウシツってやつだよ〜〜〜!!!!」
 
 が、それは杞憂だった。要らぬ心配だった。モナの眼前の少女は、良く言えば純粋だった。そして悪く言えば人を疑うことを知らない田舎娘だった。そのため少女はモナがおずおずと開いた口から発しようとした声ごと彼女の叫びで飲み込むと、叔父にあたる人物を呼びながら文字通り転がり落ちるように階段を降りて行った。

 ――ゴツン。ドカン。パリン。
 
 モナがあまりの騒々しさに思わず眉を顰めたところで階下から大きな物音と、家中に振動が伝わった。それから間髪入れずに「ぎゃー!!花瓶が〜!!」と再三叫ぶ少女の声がしてきたものだからモナはもしかしなくとも、不可抗力とはいえとんでもなく大きな嘘をついてしまったのでは?と、唇を結んだ。


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 不意に真白の紙にペンから零れ落ちたインクが染みるように、静寂という静寂を切り裂いた自身の呻き声をモナは薄明かりのような意識のなかでぼんやりと知覚していた。知覚し、自覚していくにつれて、まだ未覚醒の脳で必死に『あれからどうなったのだろう?』『わたしは今、生きているのだろうか?』と思い悩んだ。けれどいまいちどこか覚醒しきれない脳に、モナは自身の生死すら分からないまま夢現を彷徨う。
 ――声を上げられるってことは、生きているのかも?
 ――でも、指先ひとつも動かない。
 ――ってことはわたし、死んじゃったのかな?
 堂々巡りする思考を、一体どれくらい続けただろうか。5分か10分か、あるいはそれ以上か――とにかくモナがどうやら自分が助かってしまったこと、生きていること、指先ひとつも動かせないくらいに疲労していることを徐々に目を覚まし始めた脳で認識し始めると、やっとのことで重い瞼が開いた。
 そうして見開いたチェリーピンクの瞳は、最初は久方ぶりの光を疎まし思うかのように何度か瞬きする。それを何度か繰り返すうちに、ゆっくりと現状が夢を侵食してくる。空想と、現実が置き換わる。
「…………あの世って、案外庶民的なんだなぁ…。」
「それは光栄ね。」
 モナがどこかぼんやりとした瞳で清潔感のある白の壁紙と天井とを見つめながら、誰に向けるわけでもなくぽつりと力なく呟いた言葉を誰かが拾う。まさか返答があるとは思わなかったモナは、酷く驚いた顔をした後に自身の置かれている状況を冷静に分析する。――壁、天井、それ即ち家。家イコール、誰かが住んでいる場所。では、声の主はこの家の住人だろうか?モナは限られた情報を元に平時においてはごく当たり前の事実を大袈裟に推理してみせると、おそるおそる声のする方向へと視線を向けた。幸いなことに、顔と首周りの筋肉の負傷は少ないらしい。モナはなんの苦労もなくこの家の住人であろう誰かを視界に捉えると、まずは助かってしまった絶望から他人の家をあの世呼ばわりしたことを謝ろうとした。
 けれどモナが喉を開くよりも先に、彼女の視線の先に居た少女――グレーアッシュの髪をローポニーテールにした上で、更に纏めやすくしようとしたのだろう。そこそこに長い髪を半ばで曲げ、大きなヘアクリップで留めている――は、窓を覆っていたカーテンに手をかける。そしてゆっくりと引きながら外の春らしいうららかな陽光を取り入れると、サイドテーブルに置かれた桶にガーゼを浸して軽く絞ってから優しくモナの額を拭いた。
「だって、それだけ親しみやすいってことじゃない?」
 そう言ってグレーアッシュの髪の少女はモナがあの日見た碧空と同じ色の瞳を細めてニカッと笑った。くにゃりと歪められた大きな瞳とへにゃりと緩んだ口元は、初対面ながらも人の良さを感じさせた。
 が、モナにとってはそんなことは些事だった。この少女が良い人間であろうが悪い人間であろうが、両親を見殺しにしてまで助かってしまったことへの強い自己嫌悪と、そんな最低なことをしてまで生き残ってしまった自分なんて誰かに優しくされるべきではないという自罰的な感情が故だった。加えて状況証拠にしか過ぎないが滝壺に落下後、水の勢いに任せて下流へ下流へと流れていった自分を助けてくれたのがこの少女だとするならば、モナは彼女に感謝すれば良いのか、はたまた逆恨みすれば良いのか分からずにいた。故にモナは少女になんと言葉を返せば良いのか分からずに、ただただ押し黙る。
(………ちがう、)
 何も言葉を発しないモナを心配に思ったのか、顔を覗き込んでくる少女にモナはどうしようもなく泣きたくなった。本当は、本当は、傷付いた自分に優しくしてくれる相手は見ず知らずの少女ではなくて、大好きな母親が良かった。否、そうであるべきだったのだ。
 けれどモナが咄嗟に違うと感じたのはそんな子供じみた主張に基づくワガママが故ではなく、『きっとお母さんなら、親切にしてくれた人に対してこんな態度を取らない』という、彼女なりのプライドと実体験が織り交ぜられた一種の現実逃避であった。
「大丈夫?どこか、痛いところとかない?お腹は?空いてる?……そうだ!あなた、名前は?どこから来たの?どうしてボロボロだったの?」
「…………そ、れは――。」
 混乱と、悲哀と、どうしようもない現実とに押し潰されそうになりながらも、モナは万が一――此処がまだ帝国領である可能性を考慮して、自分を生かすために全力を尽くしてくれた両親のために。何よりもあの時、少しだって振り向こうともしなかった自分自身の行動を正当化するかのように、今すぐにでも思考を放棄したくなるのを抑えると努めて冷静に適切な答えを模索する。
 ――大丈夫、ではあると思う。ちゃんと口は動くし、思考も出来る。
 ――痛み、は…まだ分からない。多分、身体がちゃんと目を覚ましてないと思うから。
 ――空腹も、同様。
 モナは以上の答えを、まずは軽く頷くことで少女に伝える。次いで最も重要な質問――『わたし』という人物が何者で、一体どういう経緯で彼女に助けられるに至ったのかをどう説明したものだろうかと思い悩む。果たして何も情報がない中で、自分という人間はなんとか落とし損ねた命をどう死守すべきかと必死に思考を巡らせる。
(…………そうだ。これなら、不審がられない…かもしれない…!)
 こちらをじいっと見つめてくる二つの瞳を前に、一体どう答えるべきかとあぐねていたモナの頭の中にふと閃光が走る。それは幼い頃、母親に読み聞かせて貰った民族童話――記憶を無くした女の子の大冒険を描いた、特にお気に入りの話――を思い出したのだった。
 モナ自身、まさかおとぎ話のようになにもかも上手くいくとは思っていない。それでも咄嗟に「使えるかもしれない」と思ったのは、もし仮に此処が未だ帝国領で、自分が亡命した魔法使いだと判明してしまう最悪の場合のことを考えてのことだった。
 なあに、ダメだった場合は少し両親のところに行くのが遅くなったと思えばいい。でも、目の前にたった一縷でも望みがあるならば、あの時最低な行動を取ってしまった自分のために手を伸ばしてみたい――そう思ったモナはゆっくりと口を開くと、少女に向かって告げた。
「ごめんなさい。……何も、覚えていません…。」
「――――――――。」
「…………あ、あの…?」
 絶句。正しくそう表現するのがピッタリだなと思わず呑気なことを考えてしまうくらいに予想だにしない現実(モナにとっては真っ赤な嘘だが)に直面したであろう少女は、思い切り目を見開いた後、暫し言葉を失った。それから酸欠の魚のように口を何度か開けては閉じ、開けては閉じ…と数回繰り返した後に、モナは流石に無茶が過ぎたかと慌てて、やっぱり名前くらいはなんとなく覚えていたかもしれないと口にしようとした。
「…………ま、」
「……ま?」
「まじかーーー!?!叔父さん!!叔父さーーーん!!女の子、目を覚ましたけど痛いところがない代わりに何にも覚えてないんだって〜〜〜!!!ど〜しよ、キオクソウシツってやつだよ〜〜〜!!!!」
 が、それは杞憂だった。要らぬ心配だった。モナの眼前の少女は、良く言えば純粋だった。そして悪く言えば人を疑うことを知らない田舎娘だった。そのため少女はモナがおずおずと開いた口から発しようとした声ごと彼女の叫びで飲み込むと、叔父にあたる人物を呼びながら文字通り転がり落ちるように階段を降りて行った。
 ――ゴツン。ドカン。パリン。
 モナがあまりの騒々しさに思わず眉を顰めたところで階下から大きな物音と、家中に振動が伝わった。それから間髪入れずに「ぎゃー!!花瓶が〜!!」と再三叫ぶ少女の声がしてきたものだからモナはもしかしなくとも、不可抗力とはいえとんでもなく大きな嘘をついてしまったのでは?と、唇を結んだ。