◇◇◇魔女の手下が触れたもの◇◇◇

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 ノーリは診療所を出て、湖沼地帯の傍の森に入っていた。
 アクアが早朝からアルヴァを探しに森に入っていった後に、続いたことになる。だが、ノーリが探しにきたのは、魔女の姿をした、吸血鬼だ。昨日の激戦は、アクアと一緒にあとから駆けつけていたノーリも見ていた。
 湖沼の黒雲から魔女の姿が現れた時には、一瞬、驚かされた。
 ――その後の行動は、ただの発生したての吸血鬼でしかなかったが。
 吸血鬼特有の魔物の気配を辿っていくと、こんな森の中だというのに、家をみつけた。
 ここアーペの人間は、湖沼地帯から出てくる強力な魔物から身を守る為にも、街の中にしか住まない筈だ。
 一応家全体に守護の魔法はかけられている。しかしそれにしても、誰がこんな場所に好んで住んでいるのだろう? そっと窓から家の中を覗き込んでみる。綺麗に片付いている部屋の中で、昨日の吸血鬼が、深い椅子に座って眠っているのをみつけた。
 まるで、普通の人間が自宅で寛いでいるかのようにしか見えない。他に人の気配はない。家の中が小奇麗なままだから、吸血鬼に家を制圧された訳でもなさそうだ。
 ――まさか、発生したてとはいえ、最強と称される魔物の吸血鬼を、捕らえたのか。
 それとも、吸血鬼自身が、守護魔法を突破して留守の民家に日差しを避けて侵入したのか――。
 家主の気配がない状況で悩んでいても仕方ない。
 トントンと扉を叩いてから簡単な施錠を外して、家の扉を開けた。守護魔法は魔物にしか効かない。
 微かに甘い、独特だが良い香りが部屋の中に満ちている。深い椅子にすっぽりと座って眠っている吸血鬼にそっと近づいた。

 彼女の姿の白い頬に、触れる。
 さらりと流れる茶色の髪を整えて、小さく息をついた。
 ……この吸血鬼を形作った魔女探しの観察眼は、なかなか優れている。
 およそ300年――
 それほど長い時間があっても、こんなに穏やかに彼女の顔を見ていられる時があっただろうか。
 これは本当の魔女ではない。
 ただの写し姿だ。
 それでも、無防備に眠るその姿に、おもわず、触れた。
 本物の彼女には、こんな風に触れることは、許されない。
 今までに一度も――きっと、これからも。

 アルヴァは、この顔を知っていた。
 自分の知らないところで彼女が行動していた時に、会った事があるのだという。
 あれだけ自分の容姿を隠していた彼女が、どうしてここ数年、顔を見た人間を殺さずにおくのだろうか。
 ばらばらだった魔女探し達を纏めるのに一役買っているフェルトリア連邦の総議長の事も放置だ。
 今までなら、雑草のように摘み取っていた芽を、育てようとしているとしか思えない。
 それに、この吸血鬼だ。
 無力化された状態で協会に差し出されでもしたら、彼女の顔は広く知られるようになってしまう。
 逆にそれで集まってきた魔女探し達を、まとめて処分するつもりか。
 それとも、あの『二つ蛇の門』で魔女探し達を追い返した後、こんなふうに眠ってしまったのか。

「さて……どうしましょうね」
 少なくとも、この吸血鬼を協会に渡す訳にはいかない。
「本人に、どうしたいか聞くのが一番かな?」
 吸血鬼の額に、トンと指先を当てる。
『起きろ』
 魔力を込めた声に、暗い赤色の瞳が、ゆっくりと開く。
 本物の魔女の瞳は、緑色だ。
 魔物との決定的な外見の違いは、そこにある。
「……わたし、は……どうなったの? ……返して……私の血を……」
 うわ言のように、ぼそぼそと呟く声は、枯れている。
 強烈な恨みを持って死んだ人間の怨念の集合体である、吸血鬼。
 発生して間もないということは、ごく最近死んだ者の恨みが、強く反映されている筈だ。
「まだ昼間ですから、動けないでしょう。貴女には最初の吸血も足りていないようですね」
「違う、あの血じゃない。あいつの……私の命を奪った、あいつの血を……」
「奪い返しに、行きますか? お手伝いしますよ」
 吸血鬼の目が、大きくひらく。
「あいつを、許さない……!」
 ぱっと立とうとした吸血鬼は、しかし、椅子に掴まってへたり込んでしまった。
 その目が再び、とろんと眠そうになる。まだ昼間だからというばかりでは無さそうだ。
 それならさっきの覚醒の魔法の力で動ける筈。
 ここに座って眠らせていた何者かが、この吸血鬼の力を抑えているのだろう。
「――この、甘い香りかな? ちょっと失礼します」
 香りが原因なら家から出れば良い。

 ふわりと吸血鬼を抱き上げて、扉から家の外に連れ出す。聖者の守護魔法は開いている門や扉には効果がない。
 眠そうな目が、それでようやく開いてきた。
「……お前は……?」
「私はあの方の奴隷です。吸血鬼の貴女には、味方になりますね」
「……そう……。奴隷……」
 吸血鬼はトンと自分から地面に立った。もう眠気は、無くなったようだ。
 ――気怠げな表情。言葉少なに落とす声。風で飛んでしまいそうな儚げな存在感。
 300年前、はじめて出遭った頃の彼女の姿を、思い出す。
 もう、ずっと、昔の事なのに――。

 荷物の中から髪留めを出して、吸血鬼のサラリとした茶髪を結う。
 髪型が違うだけでも、大分印象が変わった。
 大人しく髪を結ばれた吸血鬼の赤い目が、ちらりとこちらをみる。
「あなたも、奴隷……。奴隷からは、血は貰わない」
「おや、好みがあるんですね。目が覚めたとはいえ、まだ昼間で、血も足りないでしょう。全力で動けない時は、少量でも素早く採取して離脱する、というのを繰り返すと良いですよ」
「夜を待てばいい」
「夜は街の警護が厚くなります。”あいつ”は、生きているなら診療所にいる筈です。昼間のうちに『守護の聖者』を襲撃して、退魔師の混乱に乗じて診療所を襲撃する、というのがお勧めですね」
 適当な思い付きの作戦だが、実際、『守護の聖者』の街の守護魔法を解くことができれば、混乱に陥るのは退魔師だけではないだろう。すぐ街が危機に晒されるわけではないが、魔物の脅威が、街を蝕んでいく筈だ。
「……そう。じゃあ、そうする」
 ばさ、と大きな蝙蝠の羽を背中に出現させた吸血鬼は、街の方へするりと低く飛んで行った。出現して間もない筈だが、流石、最強の魔物と称される吸血鬼。自身の能力についても、状況把握についても、認識能力が高い。
 ノーリは荷物を畳んで、訪問した家の扉を閉めた。
 家の中に満ちる甘い香りについては、追々確認することにしよう。

「さてと、また置いて行かれちゃいましたね。教会へ戻りますか」


◇◇◇あの湖沼の反対側には砂漠がある◇◇◇

 生き残った魔女探し達から話を聞く。
 それは、既にアクアが試していていた通り、錯乱状態で話にならなかった。時間が経ってからゆっくり聞いた方がいい、というのがソーマの提案だ。確かに、ただでさえ恐怖だったことを語らせて追体験させることが良い訳は無い。
 教会と診療所をあとにして緑の屋根の街並をゆるやかに歩く。
 行き交う住人に声をかけ、地元の伝承をたずねてみるが、出てくる話は技術工作についてのうんちくばかりだ。
「なによもう~! ここの人達、みんな機械馬鹿じゃないの!?」
 流石にアクアもうんざりして、最初の広場の椅子に、どさっと座り込んだ。
「そいつは地元民には褒め言葉だな。それにしても、魔女の力の源か。どうしてそれを調べようと思ったんだ? アルヴァは、どんなものだと思ってる? でっかい魔力の塊を手に入れた、とか?」
 椅子の下でぶらぶらと足を遊ばせて、面白そうに聞いてくるソーマの言葉に、どきりとする。
 ――資料を集めて、話を聞いて、正答に辿り着こうとしか、考えていなかった。
「リースが……教会の仲間が、最初に提言したんです。力の源がわかれば、対抗策を立てられる、と。……そういえば、リースは『人』だと考えていたような……気のせいか……?」
「あー、なんかそんな感じのこと言ってた気がするわ! もしかしてリース様、最初から心当たりがあったのかしら。でも、それだったら、文献の調査だなんて、効率悪くない?」
 胸の奥がざらつく。
 リースは、力の源を探して、何をしようとしていたのだろう。
 心当たりがあるなら、何故、話してくれなかったのか。
 ――何も、進展がない。
 なのに、悶々と嫌な想像しか出来ないのが、苦しい。
「ふーん。まぁ、誰にだって秘密はあるさ。それが、そいつを魅力的にさせるんだ。この俺みたいになっ!」
 ソーマの自信満々な調子が、いきなり目の前に明るくひろがった。
 少し驚いてから、ため息をつく。
「……ソーマ。貴方に関しては秘密も何も、まだあまり知らない事の方が多いんですが――」
「そうだな、折角仲良くなれたんだから、もっとお互いに知り合おうぜ。な、アルヴァ!」
「……そ、そうですね……」
 本当に、この軽口には、どうやってついていけばいいのだろう。
 何故か生暖かい目で傍観していたアクアが、軽く割って入ってくる。
「リース様の魅力は、ソーマさんとは逆ね。こう、静かで、神秘的な感じ?」
「へえ、アクアにはリースって奴が本当に特別なんだな。なんで今別行動なんだ? アルヴァと喧嘩でもしたのか?」
 馬鹿みたいな会話なのに、ソーマの素朴な質問が、ひとつひとつ、胸に突き刺さってくる。
「そういう訳では……」
 魔物だった、とは、言えない。まだ協会の誰にも打ち明けていないのに。
「ちょっとお悩み事があったのよ。でも大丈夫! 私がリース様を探し出して、全部受け止めて差し上げるんだから!」
「おお、頼もしいな。そいつは幸せ者だな!」
 ――――アクアがいてくれて助かった、と心底思ったのは、初めてかもしれない。

 昨日馬で駆け下りた坂道を、あらためて見下ろしてみる。よく晴れた水色の空に、あたたかい緑の街並。彼方に見える、湖沼に隣接した森と白霧に目をつぶれば、本当に平和なところだ。
 この景色のどこかに、リースはいるのだろうか。
 あの白霧の向こうに、本物の魔女は本当にいたのだろうか。
 魔女の力の源は、誰か特定の『人』なのだろうか。
 それとも、魔法具のような『物』だろうか。
 幼い頃に会った彼女の事を思い出してみても、特に何かを大切に持っていた訳でもなかった。
 では、やはり、『人』が関わってくるのだろうか――。

 坂道の下の方から、馬が駆けてくる。昨日の馬だ。無事だったのか、と安心すると同時に、昨日と同じように聖使の姿がその馬上にあるのをみつけた。
 聖使の少女もこちらに気付いて、挨拶するように片手をあげた。
「ご無事でしたか。良かった……魔物を深追いしていったものだから、心配してました。聖者様にはお会いになりましたか?」
 茶色の馬が元気な足取りで広場に辿り着いた。
「ああ。ありがとう。馬を勝手に使ったうえに転ばせてしまって、済まなかった」
「この子も、うまく転んでくれたみたいです。見ての通り無事でしたよ。魔物は、人しか襲いませんかし」
 昨日はよく顔を見ていなかったが、焦げ茶色の癖っ毛がよく似合う、ふんわりとした雰囲気の少女だ。教会の馬の世話を担当しているのだろう。
 彼女はうしろの椅子で寛いでいるソーマに、馬の手綱を握り締めて声をあげた。
「ソーマさん、探しましたよ!」
「ん? どーしたの、ディアナちゃん」
「どーしたのじゃないです。昼間だっていうのに、森の近隣で吸血鬼の被害が出てるんです! 今はコウモリ型っぽいのでまだ良いですが、昨日の事もありましたから、夜になったらどうなるか……」
 急に、緊迫した空気になる。
 昨日の吸血鬼はソーマの家で眠っている筈だ。しかし何の拘束もしていなかった事を考えると、不安になってくる。それとも、全く別の吸血鬼だろうか。
「コウモリ型ってことは、死人は出てないんだな。どのくらい吸われた?」
「私が知らせを受けた時は5人でした。いまは増えているかも知れません。どこかに逃げられる前に……夜になる前に、なんとかして下さいっ」
「ほいよ。このソーマさんが何とかしてあげよう。安心してお茶でも飲んでなさい。済まんなアルヴァ、ちょっと行ってくるぜ。困った事があったら呼んでな」
 言うなり素早く駆け下りていったソーマの背中が、あっというまに小さくなる。
 羽根でも生えているのかと思うほど軽い動きに、しばらく呆然とした。
 もしかすると、リースよりも速いかもしれない。
「はや! 軽いのは口だけじゃなかったのね」
「おかげで探すのがいつも大変なんですよ。逃げ足も、もちろん速いですし」
 驚いたアクアの傍で少女が溜息をつく。やはり地元の人間も彼の軽口に振り回されているのだろうか。
 だが、吸血鬼の退魔師として頼られていることは間違いないようだ。

「それにしても、ソーマさんと何かお話している所を、失礼しました」
「気にしないで。大した話じゃないわ。ねぇ、さっきのコウモリ型って何のことなの? 吸血コウモリ?」
「ああ、いえ、人型なんですが、一度の吸血量が大した事がなくて、その代わり被害に遭う人が多いから、コウモリ型って呼んでるんです。ソーマさんが言うには、力が弱いか小さい吸血鬼みたいです」
 では、ソーマの家で眠っている魔女の顔の吸血鬼ではなさそうだ。情報の調査に手詰まりを感じている今、ソーマの手伝いに行った方がいいだろうか。いや、専門家にとっては、行っても邪魔になるだけかもしれない。
 ――そういえば、街の住人に話を訊いてまわっていたが、聖使には訊いていなかった。
「……ディアナさん。改めて、俺はリュディア王国教会所属、アルヴァ=シルセックです。魔女探しの協会の活動として、魔女の力の源を調査しているのですが、何か関係ありそうなこの地の伝承、口伝……何でも良いんですが、きいた事はありませんか?」
 馬上の少女の目がひらく。
「そんなの訊かれたの、初めてです。教会の図書に昔話はちょこっとありますが……そんなお話があれば、皆もう知ってるでしょうし……」
「ああ、本資料については領主様にも確認して頂いています。地元の言い伝え、とか、この土地ならではの伝承とかはありませんか?」
 なかなか難しい事を聞いているとは思う。今まで道行く住人をつかまえて尋ねてきたが、何の収穫も無かったのだから。
 ディアナは顎に手を当てて、考え込むふうにメルド湖沼地帯のほうの空を見上げた。
「そうですね……本に無いといったら、昔から子供の間で流行ってる地元の怪談でしょうか。――あの湖沼の反対側には砂漠があって、湖沼に水を全部取られた土地なんだ――っていう話があります。だれも見たことはないし、魔女の力の源と関係があるかはわかりませんが。思い付くのは、それくらいです」
「砂漠……?」
「本当、子供の怪談ですよ。好き勝手に妄想できて、創作しやすい話題なんですよね」
 考えてみたこともなかった。
 メルド湖沼地帯の反対側――東側は、地図上では東方世界の国々が記されている。しかし、湖沼に遮られて交通手段が無くなってからは、地図の書き換えはされていない。いま自分達が活動しているのは、湖沼の西側に限られている。
 東方世界に魔女の秘密があるのだとしたら、今は、調査の手が届かない。
 ――いや。
 あの飛行機工を使って魔女の土地を超えれば、もしかすると――……
「……アルヴァ。おーい。どうしたの? ぼーっとして」
 考え込んでしまった自分の視界に、アクアが割り込んできた。
「いや……」
「あら? アルヴァさん、顔が真っ白ですよ。診療所にお連れしましょうか」
「ああ、ちょっと今、昨日の出血で血が足りないの。アルヴァを馬に乗せて貰ってもいい? こんな所で倒れられても、私じゃ運んでいけないわ。もぅ、本当に、ノーリはどこに行っちゃったのかしら」
 回復役の筈のノーリは、薬屋や宿屋にもいなかった。
 どこかですれ違ってしまっているのだろう。
「むこうも、こちらを探しているのかも知れないな。教会か診療所にいれば、そのうち合流できるだろう」
 ディアナの馬に乗せて貰い、急な坂道を教会へと戻る。
 揺れも辛いが、息を切らしながら坂道を登るよりも、ずっと楽だ。
 茶色の毛並みをポンと撫でる。昨日ピッタリ息の合ったこの馬には、また、助けられている。


◇◇◇魔物最強の吸血鬼◇◇◇

 アルヴァは馬に揺られて、午後の柔らかい日差しのなかにある教会の門を通過した。
 教会では、棺も墓地へ運ばれて、日常の風景を取り戻しつつあるようだ。地方都市の大規模葬儀としては、進捗が速い。これまで何度も魔女探し達を弔ってきたこの街としての、やりかたなのだろう。
 教会の敷地に入ってすぐ、聖者が木材を切り出しているところに遭遇した。
「おお、ディアナ。昨日から色々ありがとな」
 朝の聖者様的な雰囲気はどこへ行ったのか、また作業着姿の技工士にしか見えなくなっている。
「聖者様、こんな日ぐらい、聖者様の格好でいて下さいよ。何人も亡くなってるんですから」
「厳しいなぁ。弔いはちゃんとしただろ。俺は生きてる奴の為に働きてぇんだよ。湖沼側の柵の修繕が第一だぜ。アルヴァもお疲れさん。アンゼリカには会えたかな?」
「はい。館から資料を持ってきて頂けるそうです――」
 馬から降りる瞬間、ふっと目の前が暗くなる。
 どうにか落馬はしなかったが、地面との距離感を失って、ザッと尻をついていた。
 ディアナの慌てた声が、どこか、遠い。
「ぷっ……あはは……! アルヴァが転ぶとこ、はじめて見た!」
 アクアの笑いだけが、ハッキリと耳に届く。それに反論する余裕もない。
 ――怠い。気持ち悪い――。
 ぐい、と作業着姿の大きな手に抱え上げられて、その手の温かさに、小さく息をつく。
「かなり無理してたんだな。何か食って休んでおけ。寝ててもいいぞ。日が落ちたら、また魔物が出てくるかも知れないしな」
 少し揺られたあと、ふわりと柔らかい場所に横たえられる。
 聖者とディアナが何かを喋って、楽しそうな顔をしたアクアに、水っぽい普通の粥をねじこまれた。
 ソーマの甘粥が、飲みたい。


 ――気付くと、静かになっていた。
 どのくらい経ったのか、少し眠ってしまったようだ。
 アルヴァは聖者の執務室でひとりで横になっている状況に、ため息をついた。
 旅先でこんな情けない状態になるなんて――。
 頭が、働かない。身体も重い。
 目を閉じると、何故かリースの顔が浮かんでくる。
 リースは子供の頃から、亡き姉の代わりのように、傍にいた。
 今まで考えた事も無かったが、彼はどうして、一緒にいてくれたのだろう?
 魔物である正体を隠し通そうとするなら、特定の人間に長期間関わるということは、避ける筈だ。
 浅く広く、目的の為に移動を続ける。それが秘密を守るには一番良いし、誰も傷付けない。
 ……自分は、リースにとって、何だったのだろう。

 ふと、目元を温かいものが塞ぐ。
「こんな所でお昼寝しているなんて、思いもしませんでしたよ」
 小さく回復魔法を唱えられ、急速に全身が楽になる。
 目元を塞いできた手が外れると、いつもの笑顔を浮かべたノーリが、そっと隣に座っていた。
「……ノーリ。どこに行っていたんだ。少し、探していた」
「貴方こそ。昨夜はアクアが心配して、大変だったんですからね」
 そっと、ノーリの指先が目元を拭ってくる。
 どうしてか、涙が滲んでいたらしい。
「昨日は大丈夫でしたか? 無事で良かった。まさかあそこで深追いするとは、驚きました」
 アルヴァは少し軽くなった身体を起こして、目を擦る。
「あの敵は、魔女の顔をしていたんだ。少し頭に血が昇っていた。手間をかけて、済まなかった」
「魔女の顔……。幼い頃に会ったと聞きましたが、よく覚えていますね。僕なんてすぐ人の顔を忘れてしまいますよ。特に、顔と名前を一致させるのって、大変です」
 困ったように腕を組んだノーリに、少しだけ和まされる。
 どうやら彼に助けられているのは、アクアばかりではなかったようだ。
「生き残った魔女探し達は、一様に魔女の存在にうなされていました。忘れてしまえば少しは楽になるのかも知れませんが、そういう訳にもいきませんよね。どうにか落ち着いて、情報が共有できるといいですね」
「ああ。時間が必要だな」
 頷いたところで、突然、外が騒然としたのに気付く。
 湖沼の方で、夕方を待たずに再び魔物が出て来たのだろうか?
「外が……何があったんだ?」
「さあ……? さっきまでは静かでした。動いて大丈夫ですか?」
 ノーリの回復魔法のおかげで、身体はかなり楽だ。いつのまにか外されていた装備を身につけながら、窓の外を覗く。騒ぎのもとは、この角度からはわからない。
 だが、悲鳴がきこえた気がした。何かあったのは、湖沼の方ではない。
「様子を見てくる。回復魔法、助かった」
 何か、嫌な予感がする。
「また倒れないで下さいね」
 ノーリの声を背中で聞いて、急ぎ足で執務室を出る。


 がらんとした聖堂を抜けて外に出ようとして、水魔法の飛沫が飛んできたのを咄嗟に避ける。
 その一瞬、目の前を、黒衣を被った人間が、駈け抜けた。
「何してんの、捕まえて!」
 アクアの怒鳴り声に、さっと剣を抜く。
 深く被った黒衣で顔を隠した人間。いま目の前を通りすぎたそれは、聖堂の中央を駆け抜けてくるりと天使像のうえに飛び乗った。――体重を感じさせないその動きは、まるで、リースのようだ。だが、彼よりずっと小柄だ。それに黒衣の下で長剣を握っている。
 刀身から溢れる何かが、天使像に、ポタポタと滴り落ちていく。
「何が起こってる?!」
 背後で息を切らしたアクアが、渾身の魔法を詠唱する。
『水よ 我が意に従い 絡み取り・打ち縛れ!』
 ゴッと両側をすり抜け、強力な魔力の水が像の上の人間を襲う。
 高速で回転しながらその身体を締め上げていく――が、捕らえたのは一瞬で、引きちぎるようにして破られた水魔法の飛沫が、入り口にまで吹き飛ぶ。
 一瞬だが動きを止めたその瞬間にダッとアルヴァが距離を詰め、黒衣をとらえた。
 刀身を横に薙ぎ払うもうまく躱され、ばさ、と黒衣だけを掴まされる。
 さら、と流れる茶色の髪。結い上げた髪で、一瞬、わからなかった。

 だが、その顔立ちと、赤黒い目は――
「なっ……どうして、昼間に……?!」
 じり、と間合いを取りながら、魔女と同じ顔に、戸惑う。
「――違う。おまえじゃ、ない」
 昨夜とは違う、意思の力が、その魔物の瞳にゆらめいたように見えた。不覚にも再び視線の力に拘束された隙に、ばっと目の前から逃げられる。
「くっ……待……アクア!!」
 ぎり、と振り返る。聖堂の入口にいたアクアは、渾身の魔法を弾かれた衝撃を受けた筈だ。彼女は、長椅子に掴まってどうにか立っていた。一瞬アクアを無視して通り抜けようとした吸血鬼が、急に、ピタリとその動きを止めた。
 そして、ゆっくりと、振り返る。
「……アクア……」
 する、と振りかぶった長剣が、いきなりドッと彼女を襲った。
 魔導杖でどうにか致命傷を避けるが、防ぎ切れるような斬撃ではない。ガンと叩き落とされた魔導杖が床をすべり、血飛沫がそれを追う。
 崩れ落ちかけたアクアの肩を掴み、吸血鬼の長い牙が、彼女の首に消える。
 あれは、魔女ではない。
 まったく別の、吸血鬼だ。
「くっ……そ……『光よ 我が意に従い 刃となれ』!」
 身体の自由がきかないなら魔法がある。
 周囲に発生した無数の光の針が、高速で吸血鬼に突き刺さっていく。
 熱いものに触れたように驚いて離脱したところに――斬り込みたいが、まだ身体が思うように動かずに、よろめいた。
 その隙に、サッと外に逃げられてしまった。

 吸血鬼が視界から消えて、急に動けるようになった。
 急いで床に倒れたアクアに駆けつける。
「アクア、こんな所で死ぬな。リースに会うんだろう!」
 ざっと確認しただけでも、相当の深手だ。右肩から、あっというまに服が真っ赤に染まっていく。
 そのうえ首筋から血を吸われたとなれば、相当な失血量だ。
「……へへっ……やっぱ、私、人間、かぁ」
 激痛に顔をしかめる余裕はあるようだ。一瞬安心したが、今すぐ止血が必要だ。
「アクアは、人間ですよ。頑張り屋さんですからね」
 背後で、のんびりした声がした。
 いつのまに来たのか、ノーリの詠唱する丁寧な回復魔法が、アクアの傷をゆっくり塞いでいく。
「ノーリ。すまない、助かる」
「いえいえ、これが僕の役割ですし。ちなみに魔物に回復魔法をかけたらどうなるか、知ってます?」
「? いや……効かないんじゃないか?」
「実は少しですが、弱体化させる事ができるんですよ。吸血鬼程の大物には無意味でしょうが、通常の魔物には結構有効なんです。逃げる時間を稼ぐのに、ですけどね」
 そういって少し場を和ませてくれるノーリの気遣いに感謝しつつ、じっと回復魔法が落ち着くのを待つ。
 逃げた吸血鬼が外で惨事を起こしている。
 多くの悲鳴と、怒号と、対抗する詠唱がきこえる。
 だが今は、アクアにかけている回復魔法が終わるまで、じっとしているしかない。
「……くそ。何故昼間からあんなに普通に動いているんだ。ソーマの家で眠っていた筈なのに」
「魔女の顔だもん。専門家でも想定外の能力があったのかも。……顔だけじゃなく、能力も複製したとか」
「そんな吸血鬼がいたら、とても手に負えない。まだ魔法や蛇を使っては来ないから、大丈夫だとは思うが――。ソーマには、家で見張っていて貰うべきだったな」
 回復魔法の柔らかい光が、収束して消えていく。
 アクアも、やっと安堵した息を吐いた。だが、顔色が良いとはいえない。
「……最初は、魔女探しの一人が来たのかと思ったわ。顔も見えなかったし、地元の人も知らないみたいだったし。でも突然、聖者様を襲ったの。聖衣も着てなかったのに、確実に、聖者様だけを狙った。街の守護を揺るがすつもりなら、最高の手段よね」
 まさか――。
「退魔師達は?」
「びっくりしすぎて、一瞬、動けなかったみたい。すぐに私が対応したんだけど、やっぱり吸血鬼相手に私一人じゃ、ちょっと無理。退魔師の手にも、余るみたいだし」
 外の騒ぎが少し遠くなった。
 逃げたか、場所を移したか。
「聖者様は大丈夫なんですか? 治療に駆けつけた方がいいでしょうか」
 ぐい、と椅子につかまって立とうとしたアクアを支えて、ノーリが大事なことを聞いた。
「わ、わかんない。でも、お願い」
 頷いて外に駆けていったノーリの背中を見送ってしまってから、一緒に行くべきだったと気付く。
 しかし、頭ではわかっていても、身体がどこか重くて、動こうとしない。

「……あ~あ。リース様がいてくれたらなぁ~」
 床に転がった魔導杖を拾って、口先だけは、いつものアクアが戻ってきた。
「――アクア。何か……その、大丈夫か?」
 自分が何を言っているのかわからないが、それしか言葉が選べない。
「え? 駄目に決まってんじゃない。おもいっきり負けるし、リース様は見つかんないし、怪我人だらけだし、もう散々よ。アルヴァこそ大丈夫なの? ノーリに回復して貰ったみたいだけど、なんかいつもと違うんじゃない。さっきも、ノーリと一緒に行くと思ったんだけど」
 唇を尖らせてそんな事をいうアクアに、手を差し伸べられた。
 何かが、いつもと違う。
 なのに何が違うのかが、わからない。


 外に出ると、惨状だった。傷付いた退魔師がそこかしこで呻き声をあげ、血痕があちこちに散っている。
 この街の退魔師が複数人いても、これだ。最強の魔物という吸血鬼の評価は本物だろう。
 昨夜、発生したてとはいえ、ソーマはこれほどの魔物をどうやって捕らえたのだろう? 今からソーマを馬で迎えに行ったとしても、吸血鬼の被害が拡大するのは目にみえている。
「――吸血鬼の標的は、本当に街の守護なのか……俺を見て、『違う』と言ったのに、アクアに対しては明確な意思をもって攻撃したように見えた。アクアは守護とは関係無い。退魔師も蹴散らすように攻撃しているだけで、吸血はされていない……」
 追うにしても、また返り討ちに遭う可能性が高い。
 気合いだけで勝てると思うほど馬鹿ではない。声に出して頭の中を整理してみても、どう対抗すればいいのか分らなかった。
「……あっ……診療所は? 魔女探し達はどうなってるかしら」
 急に、アクアが走り出した。
 教会のすぐ隣にあるその建物の広間には、動けない魔女探し達が大勢横になっている。応戦どころか、抵抗もできない筈だ。
 診療所の大きく開け放たれた扉の奥から、異様な気配が溢れていた。
 そっと気配をころして中の様子を覗き込む。強烈な、生温い鉄の臭いが、鼻を刺す。
 引きつったような悲鳴が小さくきこえて、やがて途絶えた。
 吸血鬼の長い溜め息のあとに、その息が笑いに変わる。
 それが静まり返った広間に、反響していく。

 ――外が惨状なら、診療所の広間は、惨劇、だ。
 こみ上げる吐き気を飲み込んで、剣を握り直す。だが、どうしたらいい。
「……吸血鬼は、心臓を破るか、首を落とすか。アルヴァ、私がもう一度囮になるから、仕留めて」
「無理だ。危険すぎる」
「でも、あいつをもうここから出す訳にはいかないでしょ。まだ生きてる人もいるかも知れない。建物に封鎖の魔法をかけるなんて、私の魔力じゃ出来ないし。やるしか、ないじゃない」
 これが、本当にあの、アクアだろうか。
 いつもリースについてまわって、戦闘は離れた所から支援魔法を飛ばし、前線に踏み込む事はあまり無かった。
 ついでに人助けよりもリースと一緒にいることを優先する時すらあった。
 リースにべったりの時の彼女との格差が、大きすぎる。
「……死ぬなよ。一緒に、リースを見つけるんだ」
「別にアルヴァと一緒じゃなくても、絶対に見つけるんだから」
 頼りないが、頼もしい返事に、頷く。

 ザ、とアクアが扉の真ん中に立って魔導杖を構えた。
「取込み中に悪いわね。『水よ 我が意に従え』!」
 ドロリと淀んだ空気を、水の刃が切り裂いて、棒立ちで笑っていた吸血鬼に襲いかかる。吸血鬼は避ける様子もなく、小さな無数の傷をつくりながら、こちらをみる。
「そこにも、いた」
 嬉しそうな声が響く。ガリガリと長剣を引きずり、ゆっくり歩を進めてくる。と、急に加速して、あっという間にアクアの目の前に立った。
「っ……!」
 速すぎる――。
 大きくアクアの首筋に噛みつき、首を振って彼女の身体を放り出した。あまりに予想外の動きに、アルヴァの繰り出した長剣が吸血鬼の首をかすめて、宙を裂く。
 ――駄目だ。
 魔女と、同じ顔。その首筋を自分の剣がかすめる瞬間を、自分の全感情が、拒絶する。
 どうしてだかわからない。
 ただ、嫌だ。
 それではいけないと、わかっているのに。
「……っソーマ!! こいつを捕まえてくれ……!!」
 何故あんな自身満々な人間が、こんな大切な時に居ない?
 理不尽な苛立ちだ。
 それは、わかっている。

 瞬間――白い閃光が、目の前で爆発した。
 轟音が地面を叩き、衝撃で全身が痺れる。光に焼かれた視界の中に、黒い人影がふわりと舞い降りた――ように見えた。
「俺の名を、呼んだな。アルヴァ。嬉しいぜ」
 軽くて甘ったるい、低い声。
 どこから出現したのか、どうやって出現したのか、それは確かに、ソーマだった。

「ここにいたのか。これはまた、派手にやらかしたな」
 光にくらんだ視界に、目を擦る。
 ソーマの反対側に同じように目を擦っている吸血鬼の姿があった。
「ほら、大丈夫だよ。おいで。――《スレイヴ》、(ソレイユ)
 武器も魔法もない。ソーマは両手をひろげて、愛犬を待つかのように、片膝をついた。
「ば……」
 馬鹿か、と言いかけて、吸血鬼の表情がみるみる変わっていくのに、言葉を飲み込む。
 吸血鬼の瞳から攻撃性が引いて、ぽかんとしたような顔にかわる。優しく待ち構えたソーマの腕の中に、おずおずと自分から収まってしまった。
 ぽかんとするのは、こちらだ。
 何か特殊な魔法を使った訳でもない。一体どうして、そうなる。
 まるで飼いならされた犬のように、大人しくソーマが撫でるのに任せ、吸血鬼は目を細めている。

 昨日もこうして眠らされたのだろう。
 傷ひとつ付けずに捕らえていたのは、戦っていないからだった。
 首筋から血を滲ませたアクアが、同じように呆然とした顔で、ふらりと歩み寄る。
「……そう。やっぱり、それで……。――ソーマさん、遅い!」
 アクアは何かを呟いてから、いきなり口を尖らせた。
 新しい怪我は大きくなさそうだ。
「えぇ~それちょっと厳しくねぇ? 俺、役に立ってるだろ?」
「どうしてそんなに簡単に捕まえられるのよ? 貴方も、別の意味で魔物みたい」
「あ、やっぱり? 俺って魔物すら魅了しちゃうんだよね。人外の魅力ってやつ」
 そんな会話が、吸血鬼の頭上でかわされる光景に、冷や汗が出てきそうだ。
 ソーマの軽口に、アクアは諦めたようなため息をつく。
「……アルヴァ、大丈夫? いつまでぼーっとしてるのよ。まさか貴方までソーマに魅了されてないでしょうね」
「まさか――少し、驚いただけだ」
 アクアにそんな言葉をかけられるとは思わなかった。
 いそいで立ち上がって、砂埃を払う。
「あー。それにしても、ここで助けてくれるのがリース様だったらなぁ~。私もぽーっとしちゃうわ~」
「だから、魅了されてなんて、いない」
 それにしてもこれだけ馬鹿な会話をしていても、気持ちよく目を細めた吸血鬼に、これといった反応はない。
 ソーマの腕の中で、会話が耳に入っていないのか、意識はもう眠っているのだろうか。
「でもびっくりしたぜ。家で寝てた筈なのにな。ディアナちゃんが知らせてくれたコウモリ型も、結局こいつがちょっとかじった痕で、準備体操みたいなもんだったし。こっちが狙いって事は、俺はうまく無駄足を踏まされた訳だ」
「やっぱり魔女の顔をしてるから、ちょっと能力も特殊って事かしら」
「いや、そんなことはない。いつもの普通のやつだ。……日があるのに、勝手にひとりで起きるって事も、本来はできなかった筈なんだよなぁ」
 そうすると、原因は他にある。
「――誰かに、起こされたのか。そして街の守護と戦力を狙ったとすると……」

 まさか、リースだろうか。その一言は、のみこんだ。
 『守護の聖者』の強力な魔物除けが無ければ、魔物である彼は人目につかずに街の中へ出入りができるようになるだろう。けれど、そのためだけに、ここまでの惨劇を起こす必要はない筈だ。彼が一人で聖者を狙えばいい。
 ソーマが吸血鬼の結い上げられた髪留めを外す。茶色の長い髪がさらりと肩におちて、彼女は不思議そうに目をあげた。
(スレイヴ)(ソレイユ)。この髪留めは、誰に貰ったのかな?」
 吸血鬼は小さく首を傾げてから、ゆっくり口をひらいた。
「……だれ……名前は、しらない。白い、真っ白い髪の、男の人……。」
 少なくともリースではない。ほっと安堵してから、別の不安がこみあげてくる。
 では一体誰なのか。
 白い髪といえば、古書の亡霊であるフェイゼルしかいないが、彼は消極的だ。わざわざ吸血鬼を起こして髪留めを与えたりすることは無いだろう。街の住人に白い髪をもつ人間がいる様子もなかった。見事な焦げ茶色が多い中で白髪がいれば、目立つ。
「その人は、今どこにいるんだい?」
「……今は知らない。森の中に、いた」
 やはりこの惨劇を作り出した人間が、存在している――。
 ただの強力な頭の良い吸血鬼の仕業で済む話ではない。これは相当、深刻な問題だ。

 吸血鬼を抱いて立ち上がったソーマは、診療所の中の惨劇に少し眉をひそめてから、教会の裏側へ足を向けた。教会の裏には緑の庭しかない筈だが、とにかく、彼の後を追う。
「アルヴァ、今のうちに、この子に訊きたいことを訊いてくれ。また眠っていて貰うには、被害を出しすぎた」
 それは――、そうかもしれない。
 これだけの死傷者を出した魔物を、ソーマが退治もせずに平然と抱いているのを見れば、地元の人間も黙っていないだろう。下手に騒ぎをつくるよりも、人目につかないうちに本当に退治して貰った方が良い。
「……魔女の力の源について、知っている事を教えて欲しい」
 そのために、強い魔物と戦ってまわってきたのに――
 この吸血鬼がとどめを刺されるのを、自分は黙って見ていられるのだろうか。

 ゆっくりと、暗くて赤い瞳と目が合う。今度は身体が動かなくなるということはない。
 ソーマに揺られながら、少しの沈黙のあと、小さく口をひらいた。
「――”好きだから”」
 いきなり、思考停止に落とされそうになった。
「”師匠が教えてくれた、この世界が……”」
 ほとんど意味の分からない呟きが、こぼれ落ちる。

 教会の中庭に辿り着いた。
 吸血鬼の身体が、緑の中の光に溶けるように、薄くなってきていた。
「師匠? それは誰なんだ?」
 今にも消えてしまいそうな様子に、慌てる。まさかとどめを刺すような動作もなく、消えていってしまうとは予想外だ。そもそもソーマの捕獲手段から、予想外ではあったのだが。
 答えがないままに、どんどん消えていく。いつもの、魔物を倒した時に砂になって崩れ落ちるのとは違う。陽光に紛れるように、きらきらと、薄く、淡い光になって、ほどけていく。
「……ソレイユ、ごめんね……」
 いつのまにか、アクアが吸血鬼の手を握っていた。
 その声に少しだけ吸血鬼の口元が緩んで、さらりと一気に霧散する。

 しばらく、声がでなかった。吸血鬼を退治しただけの筈だ。聖者を攻撃し、退魔師達を負傷させ、魔女探し達を殺戮した、最悪の魔物。――その最期が、何故、これほどの哀愁に満ちるのだろう。
 何故、一番散々な目に遭ったはずのアクアが、強い瞳で自分の涙を拭っているのか。
「……さて、しめっぽいのはここまでだ。無事なのと生き残ってるのを確認しなきゃだな。聖者様は?」
「真っ先に襲われて、今、ノーリが診てる筈だけど……動いてなければ、炊事場に」
「うへぇ、あのおっさんもやられたのか。参ったね」
 今は考えるより現状を何とか立て直すほうが優先だ。
 街の防衛力が削がれているこの状況で、昨夜のように魔物が大挙して押し寄せれば、防ぎ切れないだろう。
 教会の正面のほうから、驚きの悲鳴がきこえてきた。昨日の事があって遠慮していただろうが、ここは一般住民も自由に出入りする教会の土地だ。そこらじゅうに負傷した退魔師が倒れている光景は、衝撃に違いない。
 突然の戦闘に息を潜めていた聖使達が、安全を確認しながら恐る恐る出て来て、負傷者の救護にとりかかった。
 凄惨に過ぎる診療所は、封鎖された。


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 ノーリは診療所を出て、湖沼地帯の傍の森に入っていた。
 アクアが早朝からアルヴァを探しに森に入っていった後に、続いたことになる。だが、ノーリが探しにきたのは、魔女の姿をした、吸血鬼だ。昨日の激戦は、アクアと一緒にあとから駆けつけていたノーリも見ていた。
 湖沼の黒雲から魔女の姿が現れた時には、一瞬、驚かされた。
 ――その後の行動は、ただの発生したての吸血鬼でしかなかったが。
 吸血鬼特有の魔物の気配を辿っていくと、こんな森の中だというのに、家をみつけた。
 ここアーペの人間は、湖沼地帯から出てくる強力な魔物から身を守る為にも、街の中にしか住まない筈だ。
 一応家全体に守護の魔法はかけられている。しかしそれにしても、誰がこんな場所に好んで住んでいるのだろう? そっと窓から家の中を覗き込んでみる。綺麗に片付いている部屋の中で、昨日の吸血鬼が、深い椅子に座って眠っているのをみつけた。
 まるで、普通の人間が自宅で寛いでいるかのようにしか見えない。他に人の気配はない。家の中が小奇麗なままだから、吸血鬼に家を制圧された訳でもなさそうだ。
 ――まさか、発生したてとはいえ、最強と称される魔物の吸血鬼を、捕らえたのか。
 それとも、吸血鬼自身が、守護魔法を突破して留守の民家に日差しを避けて侵入したのか――。
 家主の気配がない状況で悩んでいても仕方ない。
 トントンと扉を叩いてから簡単な施錠を外して、家の扉を開けた。守護魔法は魔物にしか効かない。
 微かに甘い、独特だが良い香りが部屋の中に満ちている。深い椅子にすっぽりと座って眠っている吸血鬼にそっと近づいた。
 彼女の姿の白い頬に、触れる。
 さらりと流れる茶色の髪を整えて、小さく息をついた。
 ……この吸血鬼を形作った魔女探しの観察眼は、なかなか優れている。
 およそ300年――
 それほど長い時間があっても、こんなに穏やかに彼女の顔を見ていられる時があっただろうか。
 これは本当の魔女ではない。
 ただの写し姿だ。
 それでも、無防備に眠るその姿に、おもわず、触れた。
 本物の彼女には、こんな風に触れることは、許されない。
 今までに一度も――きっと、これからも。
 アルヴァは、この顔を知っていた。
 自分の知らないところで彼女が行動していた時に、会った事があるのだという。
 あれだけ自分の容姿を隠していた彼女が、どうしてここ数年、顔を見た人間を殺さずにおくのだろうか。
 ばらばらだった魔女探し達を纏めるのに一役買っているフェルトリア連邦の総議長の事も放置だ。
 今までなら、雑草のように摘み取っていた芽を、育てようとしているとしか思えない。
 それに、この吸血鬼だ。
 無力化された状態で協会に差し出されでもしたら、彼女の顔は広く知られるようになってしまう。
 逆にそれで集まってきた魔女探し達を、まとめて処分するつもりか。
 それとも、あの『二つ蛇の門』で魔女探し達を追い返した後、こんなふうに眠ってしまったのか。
「さて……どうしましょうね」
 少なくとも、この吸血鬼を協会に渡す訳にはいかない。
「本人に、どうしたいか聞くのが一番かな?」
 吸血鬼の額に、トンと指先を当てる。
『起きろ』
 魔力を込めた声に、暗い赤色の瞳が、ゆっくりと開く。
 本物の魔女の瞳は、緑色だ。
 魔物との決定的な外見の違いは、そこにある。
「……わたし、は……どうなったの? ……返して……私の血を……」
 うわ言のように、ぼそぼそと呟く声は、枯れている。
 強烈な恨みを持って死んだ人間の怨念の集合体である、吸血鬼。
 発生して間もないということは、ごく最近死んだ者の恨みが、強く反映されている筈だ。
「まだ昼間ですから、動けないでしょう。貴女には最初の吸血も足りていないようですね」
「違う、あの血じゃない。あいつの……私の命を奪った、あいつの血を……」
「奪い返しに、行きますか? お手伝いしますよ」
 吸血鬼の目が、大きくひらく。
「あいつを、許さない……!」
 ぱっと立とうとした吸血鬼は、しかし、椅子に掴まってへたり込んでしまった。
 その目が再び、とろんと眠そうになる。まだ昼間だからというばかりでは無さそうだ。
 それならさっきの覚醒の魔法の力で動ける筈。
 ここに座って眠らせていた何者かが、この吸血鬼の力を抑えているのだろう。
「――この、甘い香りかな? ちょっと失礼します」
 香りが原因なら家から出れば良い。
 ふわりと吸血鬼を抱き上げて、扉から家の外に連れ出す。聖者の守護魔法は開いている門や扉には効果がない。
 眠そうな目が、それでようやく開いてきた。
「……お前は……?」
「私はあの方の奴隷です。吸血鬼の貴女には、味方になりますね」
「……そう……。奴隷……」
 吸血鬼はトンと自分から地面に立った。もう眠気は、無くなったようだ。
 ――気怠げな表情。言葉少なに落とす声。風で飛んでしまいそうな儚げな存在感。
 300年前、はじめて出遭った頃の彼女の姿を、思い出す。
 もう、ずっと、昔の事なのに――。
 荷物の中から髪留めを出して、吸血鬼のサラリとした茶髪を結う。
 髪型が違うだけでも、大分印象が変わった。
 大人しく髪を結ばれた吸血鬼の赤い目が、ちらりとこちらをみる。
「あなたも、奴隷……。奴隷からは、血は貰わない」
「おや、好みがあるんですね。目が覚めたとはいえ、まだ昼間で、血も足りないでしょう。全力で動けない時は、少量でも素早く採取して離脱する、というのを繰り返すと良いですよ」
「夜を待てばいい」
「夜は街の警護が厚くなります。”あいつ”は、生きているなら診療所にいる筈です。昼間のうちに『守護の聖者』を襲撃して、退魔師の混乱に乗じて診療所を襲撃する、というのがお勧めですね」
 適当な思い付きの作戦だが、実際、『守護の聖者』の街の守護魔法を解くことができれば、混乱に陥るのは退魔師だけではないだろう。すぐ街が危機に晒されるわけではないが、魔物の脅威が、街を蝕んでいく筈だ。
「……そう。じゃあ、そうする」
 ばさ、と大きな蝙蝠の羽を背中に出現させた吸血鬼は、街の方へするりと低く飛んで行った。出現して間もない筈だが、流石、最強の魔物と称される吸血鬼。自身の能力についても、状況把握についても、認識能力が高い。
 ノーリは荷物を畳んで、訪問した家の扉を閉めた。
 家の中に満ちる甘い香りについては、追々確認することにしよう。
「さてと、また置いて行かれちゃいましたね。教会へ戻りますか」
◇◇◇あの湖沼の反対側には砂漠がある◇◇◇
 生き残った魔女探し達から話を聞く。
 それは、既にアクアが試していていた通り、錯乱状態で話にならなかった。時間が経ってからゆっくり聞いた方がいい、というのがソーマの提案だ。確かに、ただでさえ恐怖だったことを語らせて追体験させることが良い訳は無い。
 教会と診療所をあとにして緑の屋根の街並をゆるやかに歩く。
 行き交う住人に声をかけ、地元の伝承をたずねてみるが、出てくる話は技術工作についてのうんちくばかりだ。
「なによもう~! ここの人達、みんな機械馬鹿じゃないの!?」
 流石にアクアもうんざりして、最初の広場の椅子に、どさっと座り込んだ。
「そいつは地元民には褒め言葉だな。それにしても、魔女の力の源か。どうしてそれを調べようと思ったんだ? アルヴァは、どんなものだと思ってる? でっかい魔力の塊を手に入れた、とか?」
 椅子の下でぶらぶらと足を遊ばせて、面白そうに聞いてくるソーマの言葉に、どきりとする。
 ――資料を集めて、話を聞いて、正答に辿り着こうとしか、考えていなかった。
「リースが……教会の仲間が、最初に提言したんです。力の源がわかれば、対抗策を立てられる、と。……そういえば、リースは『人』だと考えていたような……気のせいか……?」
「あー、なんかそんな感じのこと言ってた気がするわ! もしかしてリース様、最初から心当たりがあったのかしら。でも、それだったら、文献の調査だなんて、効率悪くない?」
 胸の奥がざらつく。
 リースは、力の源を探して、何をしようとしていたのだろう。
 心当たりがあるなら、何故、話してくれなかったのか。
 ――何も、進展がない。
 なのに、悶々と嫌な想像しか出来ないのが、苦しい。
「ふーん。まぁ、誰にだって秘密はあるさ。それが、そいつを魅力的にさせるんだ。この俺みたいになっ!」
 ソーマの自信満々な調子が、いきなり目の前に明るくひろがった。
 少し驚いてから、ため息をつく。
「……ソーマ。貴方に関しては秘密も何も、まだあまり知らない事の方が多いんですが――」
「そうだな、折角仲良くなれたんだから、もっとお互いに知り合おうぜ。な、アルヴァ!」
「……そ、そうですね……」
 本当に、この軽口には、どうやってついていけばいいのだろう。
 何故か生暖かい目で傍観していたアクアが、軽く割って入ってくる。
「リース様の魅力は、ソーマさんとは逆ね。こう、静かで、神秘的な感じ?」
「へえ、アクアにはリースって奴が本当に特別なんだな。なんで今別行動なんだ? アルヴァと喧嘩でもしたのか?」
 馬鹿みたいな会話なのに、ソーマの素朴な質問が、ひとつひとつ、胸に突き刺さってくる。
「そういう訳では……」
 魔物だった、とは、言えない。まだ協会の誰にも打ち明けていないのに。
「ちょっとお悩み事があったのよ。でも大丈夫! 私がリース様を探し出して、全部受け止めて差し上げるんだから!」
「おお、頼もしいな。そいつは幸せ者だな!」
 ――――アクアがいてくれて助かった、と心底思ったのは、初めてかもしれない。
 昨日馬で駆け下りた坂道を、あらためて見下ろしてみる。よく晴れた水色の空に、あたたかい緑の街並。彼方に見える、湖沼に隣接した森と白霧に目をつぶれば、本当に平和なところだ。
 この景色のどこかに、リースはいるのだろうか。
 あの白霧の向こうに、本物の魔女は本当にいたのだろうか。
 魔女の力の源は、誰か特定の『人』なのだろうか。
 それとも、魔法具のような『物』だろうか。
 幼い頃に会った彼女の事を思い出してみても、特に何かを大切に持っていた訳でもなかった。
 では、やはり、『人』が関わってくるのだろうか――。
 坂道の下の方から、馬が駆けてくる。昨日の馬だ。無事だったのか、と安心すると同時に、昨日と同じように聖使の姿がその馬上にあるのをみつけた。
 聖使の少女もこちらに気付いて、挨拶するように片手をあげた。
「ご無事でしたか。良かった……魔物を深追いしていったものだから、心配してました。聖者様にはお会いになりましたか?」
 茶色の馬が元気な足取りで広場に辿り着いた。
「ああ。ありがとう。馬を勝手に使ったうえに転ばせてしまって、済まなかった」
「この子も、うまく転んでくれたみたいです。見ての通り無事でしたよ。魔物は、人しか襲いませんかし」
 昨日はよく顔を見ていなかったが、焦げ茶色の癖っ毛がよく似合う、ふんわりとした雰囲気の少女だ。教会の馬の世話を担当しているのだろう。
 彼女はうしろの椅子で寛いでいるソーマに、馬の手綱を握り締めて声をあげた。
「ソーマさん、探しましたよ!」
「ん? どーしたの、ディアナちゃん」
「どーしたのじゃないです。昼間だっていうのに、森の近隣で吸血鬼の被害が出てるんです! 今はコウモリ型っぽいのでまだ良いですが、昨日の事もありましたから、夜になったらどうなるか……」
 急に、緊迫した空気になる。
 昨日の吸血鬼はソーマの家で眠っている筈だ。しかし何の拘束もしていなかった事を考えると、不安になってくる。それとも、全く別の吸血鬼だろうか。
「コウモリ型ってことは、死人は出てないんだな。どのくらい吸われた?」
「私が知らせを受けた時は5人でした。いまは増えているかも知れません。どこかに逃げられる前に……夜になる前に、なんとかして下さいっ」
「ほいよ。このソーマさんが何とかしてあげよう。安心してお茶でも飲んでなさい。済まんなアルヴァ、ちょっと行ってくるぜ。困った事があったら呼んでな」
 言うなり素早く駆け下りていったソーマの背中が、あっというまに小さくなる。
 羽根でも生えているのかと思うほど軽い動きに、しばらく呆然とした。
 もしかすると、リースよりも速いかもしれない。
「はや! 軽いのは口だけじゃなかったのね」
「おかげで探すのがいつも大変なんですよ。逃げ足も、もちろん速いですし」
 驚いたアクアの傍で少女が溜息をつく。やはり地元の人間も彼の軽口に振り回されているのだろうか。
 だが、吸血鬼の退魔師として頼られていることは間違いないようだ。
「それにしても、ソーマさんと何かお話している所を、失礼しました」
「気にしないで。大した話じゃないわ。ねぇ、さっきのコウモリ型って何のことなの? 吸血コウモリ?」
「ああ、いえ、人型なんですが、一度の吸血量が大した事がなくて、その代わり被害に遭う人が多いから、コウモリ型って呼んでるんです。ソーマさんが言うには、力が弱いか小さい吸血鬼みたいです」
 では、ソーマの家で眠っている魔女の顔の吸血鬼ではなさそうだ。情報の調査に手詰まりを感じている今、ソーマの手伝いに行った方がいいだろうか。いや、専門家にとっては、行っても邪魔になるだけかもしれない。
 ――そういえば、街の住人に話を訊いてまわっていたが、聖使には訊いていなかった。
「……ディアナさん。改めて、俺はリュディア王国教会所属、アルヴァ=シルセックです。魔女探しの協会の活動として、魔女の力の源を調査しているのですが、何か関係ありそうなこの地の伝承、口伝……何でも良いんですが、きいた事はありませんか?」
 馬上の少女の目がひらく。
「そんなの訊かれたの、初めてです。教会の図書に昔話はちょこっとありますが……そんなお話があれば、皆もう知ってるでしょうし……」
「ああ、本資料については領主様にも確認して頂いています。地元の言い伝え、とか、この土地ならではの伝承とかはありませんか?」
 なかなか難しい事を聞いているとは思う。今まで道行く住人をつかまえて尋ねてきたが、何の収穫も無かったのだから。
 ディアナは顎に手を当てて、考え込むふうにメルド湖沼地帯のほうの空を見上げた。
「そうですね……本に無いといったら、昔から子供の間で流行ってる地元の怪談でしょうか。――あの湖沼の反対側には砂漠があって、湖沼に水を全部取られた土地なんだ――っていう話があります。だれも見たことはないし、魔女の力の源と関係があるかはわかりませんが。思い付くのは、それくらいです」
「砂漠……?」
「本当、子供の怪談ですよ。好き勝手に妄想できて、創作しやすい話題なんですよね」
 考えてみたこともなかった。
 メルド湖沼地帯の反対側――東側は、地図上では東方世界の国々が記されている。しかし、湖沼に遮られて交通手段が無くなってからは、地図の書き換えはされていない。いま自分達が活動しているのは、湖沼の西側に限られている。
 東方世界に魔女の秘密があるのだとしたら、今は、調査の手が届かない。
 ――いや。
 あの飛行機工を使って魔女の土地を超えれば、もしかすると――……
「……アルヴァ。おーい。どうしたの? ぼーっとして」
 考え込んでしまった自分の視界に、アクアが割り込んできた。
「いや……」
「あら? アルヴァさん、顔が真っ白ですよ。診療所にお連れしましょうか」
「ああ、ちょっと今、昨日の出血で血が足りないの。アルヴァを馬に乗せて貰ってもいい? こんな所で倒れられても、私じゃ運んでいけないわ。もぅ、本当に、ノーリはどこに行っちゃったのかしら」
 回復役の筈のノーリは、薬屋や宿屋にもいなかった。
 どこかですれ違ってしまっているのだろう。
「むこうも、こちらを探しているのかも知れないな。教会か診療所にいれば、そのうち合流できるだろう」
 ディアナの馬に乗せて貰い、急な坂道を教会へと戻る。
 揺れも辛いが、息を切らしながら坂道を登るよりも、ずっと楽だ。
 茶色の毛並みをポンと撫でる。昨日ピッタリ息の合ったこの馬には、また、助けられている。
◇◇◇魔物最強の吸血鬼◇◇◇
 アルヴァは馬に揺られて、午後の柔らかい日差しのなかにある教会の門を通過した。
 教会では、棺も墓地へ運ばれて、日常の風景を取り戻しつつあるようだ。地方都市の大規模葬儀としては、進捗が速い。これまで何度も魔女探し達を弔ってきたこの街としての、やりかたなのだろう。
 教会の敷地に入ってすぐ、聖者が木材を切り出しているところに遭遇した。
「おお、ディアナ。昨日から色々ありがとな」
 朝の聖者様的な雰囲気はどこへ行ったのか、また作業着姿の技工士にしか見えなくなっている。
「聖者様、こんな日ぐらい、聖者様の格好でいて下さいよ。何人も亡くなってるんですから」
「厳しいなぁ。弔いはちゃんとしただろ。俺は生きてる奴の為に働きてぇんだよ。湖沼側の柵の修繕が第一だぜ。アルヴァもお疲れさん。アンゼリカには会えたかな?」
「はい。館から資料を持ってきて頂けるそうです――」
 馬から降りる瞬間、ふっと目の前が暗くなる。
 どうにか落馬はしなかったが、地面との距離感を失って、ザッと尻をついていた。
 ディアナの慌てた声が、どこか、遠い。
「ぷっ……あはは……! アルヴァが転ぶとこ、はじめて見た!」
 アクアの笑いだけが、ハッキリと耳に届く。それに反論する余裕もない。
 ――怠い。気持ち悪い――。
 ぐい、と作業着姿の大きな手に抱え上げられて、その手の温かさに、小さく息をつく。
「かなり無理してたんだな。何か食って休んでおけ。寝ててもいいぞ。日が落ちたら、また魔物が出てくるかも知れないしな」
 少し揺られたあと、ふわりと柔らかい場所に横たえられる。
 聖者とディアナが何かを喋って、楽しそうな顔をしたアクアに、水っぽい普通の粥をねじこまれた。
 ソーマの甘粥が、飲みたい。
 ――気付くと、静かになっていた。
 どのくらい経ったのか、少し眠ってしまったようだ。
 アルヴァは聖者の執務室でひとりで横になっている状況に、ため息をついた。
 旅先でこんな情けない状態になるなんて――。
 頭が、働かない。身体も重い。
 目を閉じると、何故かリースの顔が浮かんでくる。
 リースは子供の頃から、亡き姉の代わりのように、傍にいた。
 今まで考えた事も無かったが、彼はどうして、一緒にいてくれたのだろう?
 魔物である正体を隠し通そうとするなら、特定の人間に長期間関わるということは、避ける筈だ。
 浅く広く、目的の為に移動を続ける。それが秘密を守るには一番良いし、誰も傷付けない。
 ……自分は、リースにとって、何だったのだろう。
 ふと、目元を温かいものが塞ぐ。
「こんな所でお昼寝しているなんて、思いもしませんでしたよ」
 小さく回復魔法を唱えられ、急速に全身が楽になる。
 目元を塞いできた手が外れると、いつもの笑顔を浮かべたノーリが、そっと隣に座っていた。
「……ノーリ。どこに行っていたんだ。少し、探していた」
「貴方こそ。昨夜はアクアが心配して、大変だったんですからね」
 そっと、ノーリの指先が目元を拭ってくる。
 どうしてか、涙が滲んでいたらしい。
「昨日は大丈夫でしたか? 無事で良かった。まさかあそこで深追いするとは、驚きました」
 アルヴァは少し軽くなった身体を起こして、目を擦る。
「あの敵は、魔女の顔をしていたんだ。少し頭に血が昇っていた。手間をかけて、済まなかった」
「魔女の顔……。幼い頃に会ったと聞きましたが、よく覚えていますね。僕なんてすぐ人の顔を忘れてしまいますよ。特に、顔と名前を一致させるのって、大変です」
 困ったように腕を組んだノーリに、少しだけ和まされる。
 どうやら彼に助けられているのは、アクアばかりではなかったようだ。
「生き残った魔女探し達は、一様に魔女の存在にうなされていました。忘れてしまえば少しは楽になるのかも知れませんが、そういう訳にもいきませんよね。どうにか落ち着いて、情報が共有できるといいですね」
「ああ。時間が必要だな」
 頷いたところで、突然、外が騒然としたのに気付く。
 湖沼の方で、夕方を待たずに再び魔物が出て来たのだろうか?
「外が……何があったんだ?」
「さあ……? さっきまでは静かでした。動いて大丈夫ですか?」
 ノーリの回復魔法のおかげで、身体はかなり楽だ。いつのまにか外されていた装備を身につけながら、窓の外を覗く。騒ぎのもとは、この角度からはわからない。
 だが、悲鳴がきこえた気がした。何かあったのは、湖沼の方ではない。
「様子を見てくる。回復魔法、助かった」
 何か、嫌な予感がする。
「また倒れないで下さいね」
 ノーリの声を背中で聞いて、急ぎ足で執務室を出る。
 がらんとした聖堂を抜けて外に出ようとして、水魔法の飛沫が飛んできたのを咄嗟に避ける。
 その一瞬、目の前を、黒衣を被った人間が、駈け抜けた。
「何してんの、捕まえて!」
 アクアの怒鳴り声に、さっと剣を抜く。
 深く被った黒衣で顔を隠した人間。いま目の前を通りすぎたそれは、聖堂の中央を駆け抜けてくるりと天使像のうえに飛び乗った。――体重を感じさせないその動きは、まるで、リースのようだ。だが、彼よりずっと小柄だ。それに黒衣の下で長剣を握っている。
 刀身から溢れる何かが、天使像に、ポタポタと滴り落ちていく。
「何が起こってる?!」
 背後で息を切らしたアクアが、渾身の魔法を詠唱する。
『水よ 我が意に従い 絡み取り・打ち縛れ!』
 ゴッと両側をすり抜け、強力な魔力の水が像の上の人間を襲う。
 高速で回転しながらその身体を締め上げていく――が、捕らえたのは一瞬で、引きちぎるようにして破られた水魔法の飛沫が、入り口にまで吹き飛ぶ。
 一瞬だが動きを止めたその瞬間にダッとアルヴァが距離を詰め、黒衣をとらえた。
 刀身を横に薙ぎ払うもうまく躱され、ばさ、と黒衣だけを掴まされる。
 さら、と流れる茶色の髪。結い上げた髪で、一瞬、わからなかった。
 だが、その顔立ちと、赤黒い目は――
「なっ……どうして、昼間に……?!」
 じり、と間合いを取りながら、魔女と同じ顔に、戸惑う。
「――違う。おまえじゃ、ない」
 昨夜とは違う、意思の力が、その魔物の瞳にゆらめいたように見えた。不覚にも再び視線の力に拘束された隙に、ばっと目の前から逃げられる。
「くっ……待……アクア!!」
 ぎり、と振り返る。聖堂の入口にいたアクアは、渾身の魔法を弾かれた衝撃を受けた筈だ。彼女は、長椅子に掴まってどうにか立っていた。一瞬アクアを無視して通り抜けようとした吸血鬼が、急に、ピタリとその動きを止めた。
 そして、ゆっくりと、振り返る。
「……アクア……」
 する、と振りかぶった長剣が、いきなりドッと彼女を襲った。
 魔導杖でどうにか致命傷を避けるが、防ぎ切れるような斬撃ではない。ガンと叩き落とされた魔導杖が床をすべり、血飛沫がそれを追う。
 崩れ落ちかけたアクアの肩を掴み、吸血鬼の長い牙が、彼女の首に消える。
 あれは、魔女ではない。
 まったく別の、吸血鬼だ。
「くっ……そ……『光よ 我が意に従い 刃となれ』!」
 身体の自由がきかないなら魔法がある。
 周囲に発生した無数の光の針が、高速で吸血鬼に突き刺さっていく。
 熱いものに触れたように驚いて離脱したところに――斬り込みたいが、まだ身体が思うように動かずに、よろめいた。
 その隙に、サッと外に逃げられてしまった。
 吸血鬼が視界から消えて、急に動けるようになった。
 急いで床に倒れたアクアに駆けつける。
「アクア、こんな所で死ぬな。リースに会うんだろう!」
 ざっと確認しただけでも、相当の深手だ。右肩から、あっというまに服が真っ赤に染まっていく。
 そのうえ首筋から血を吸われたとなれば、相当な失血量だ。
「……へへっ……やっぱ、私、人間、かぁ」
 激痛に顔をしかめる余裕はあるようだ。一瞬安心したが、今すぐ止血が必要だ。
「アクアは、人間ですよ。頑張り屋さんですからね」
 背後で、のんびりした声がした。
 いつのまに来たのか、ノーリの詠唱する丁寧な回復魔法が、アクアの傷をゆっくり塞いでいく。
「ノーリ。すまない、助かる」
「いえいえ、これが僕の役割ですし。ちなみに魔物に回復魔法をかけたらどうなるか、知ってます?」
「? いや……効かないんじゃないか?」
「実は少しですが、弱体化させる事ができるんですよ。吸血鬼程の大物には無意味でしょうが、通常の魔物には結構有効なんです。逃げる時間を稼ぐのに、ですけどね」
 そういって少し場を和ませてくれるノーリの気遣いに感謝しつつ、じっと回復魔法が落ち着くのを待つ。
 逃げた吸血鬼が外で惨事を起こしている。
 多くの悲鳴と、怒号と、対抗する詠唱がきこえる。
 だが今は、アクアにかけている回復魔法が終わるまで、じっとしているしかない。
「……くそ。何故昼間からあんなに普通に動いているんだ。ソーマの家で眠っていた筈なのに」
「魔女の顔だもん。専門家でも想定外の能力があったのかも。……顔だけじゃなく、能力も複製したとか」
「そんな吸血鬼がいたら、とても手に負えない。まだ魔法や蛇を使っては来ないから、大丈夫だとは思うが――。ソーマには、家で見張っていて貰うべきだったな」
 回復魔法の柔らかい光が、収束して消えていく。
 アクアも、やっと安堵した息を吐いた。だが、顔色が良いとはいえない。
「……最初は、魔女探しの一人が来たのかと思ったわ。顔も見えなかったし、地元の人も知らないみたいだったし。でも突然、聖者様を襲ったの。聖衣も着てなかったのに、確実に、聖者様だけを狙った。街の守護を揺るがすつもりなら、最高の手段よね」
 まさか――。
「退魔師達は?」
「びっくりしすぎて、一瞬、動けなかったみたい。すぐに私が対応したんだけど、やっぱり吸血鬼相手に私一人じゃ、ちょっと無理。退魔師の手にも、余るみたいだし」
 外の騒ぎが少し遠くなった。
 逃げたか、場所を移したか。
「聖者様は大丈夫なんですか? 治療に駆けつけた方がいいでしょうか」
 ぐい、と椅子につかまって立とうとしたアクアを支えて、ノーリが大事なことを聞いた。
「わ、わかんない。でも、お願い」
 頷いて外に駆けていったノーリの背中を見送ってしまってから、一緒に行くべきだったと気付く。
 しかし、頭ではわかっていても、身体がどこか重くて、動こうとしない。
「……あ~あ。リース様がいてくれたらなぁ~」
 床に転がった魔導杖を拾って、口先だけは、いつものアクアが戻ってきた。
「――アクア。何か……その、大丈夫か?」
 自分が何を言っているのかわからないが、それしか言葉が選べない。
「え? 駄目に決まってんじゃない。おもいっきり負けるし、リース様は見つかんないし、怪我人だらけだし、もう散々よ。アルヴァこそ大丈夫なの? ノーリに回復して貰ったみたいだけど、なんかいつもと違うんじゃない。さっきも、ノーリと一緒に行くと思ったんだけど」
 唇を尖らせてそんな事をいうアクアに、手を差し伸べられた。
 何かが、いつもと違う。
 なのに何が違うのかが、わからない。
 外に出ると、惨状だった。傷付いた退魔師がそこかしこで呻き声をあげ、血痕があちこちに散っている。
 この街の退魔師が複数人いても、これだ。最強の魔物という吸血鬼の評価は本物だろう。
 昨夜、発生したてとはいえ、ソーマはこれほどの魔物をどうやって捕らえたのだろう? 今からソーマを馬で迎えに行ったとしても、吸血鬼の被害が拡大するのは目にみえている。
「――吸血鬼の標的は、本当に街の守護なのか……俺を見て、『違う』と言ったのに、アクアに対しては明確な意思をもって攻撃したように見えた。アクアは守護とは関係無い。退魔師も蹴散らすように攻撃しているだけで、吸血はされていない……」
 追うにしても、また返り討ちに遭う可能性が高い。
 気合いだけで勝てると思うほど馬鹿ではない。声に出して頭の中を整理してみても、どう対抗すればいいのか分らなかった。
「……あっ……診療所は? 魔女探し達はどうなってるかしら」
 急に、アクアが走り出した。
 教会のすぐ隣にあるその建物の広間には、動けない魔女探し達が大勢横になっている。応戦どころか、抵抗もできない筈だ。
 診療所の大きく開け放たれた扉の奥から、異様な気配が溢れていた。
 そっと気配をころして中の様子を覗き込む。強烈な、生温い鉄の臭いが、鼻を刺す。
 引きつったような悲鳴が小さくきこえて、やがて途絶えた。
 吸血鬼の長い溜め息のあとに、その息が笑いに変わる。
 それが静まり返った広間に、反響していく。
 ――外が惨状なら、診療所の広間は、惨劇、だ。
 こみ上げる吐き気を飲み込んで、剣を握り直す。だが、どうしたらいい。
「……吸血鬼は、心臓を破るか、首を落とすか。アルヴァ、私がもう一度囮になるから、仕留めて」
「無理だ。危険すぎる」
「でも、あいつをもうここから出す訳にはいかないでしょ。まだ生きてる人もいるかも知れない。建物に封鎖の魔法をかけるなんて、私の魔力じゃ出来ないし。やるしか、ないじゃない」
 これが、本当にあの、アクアだろうか。
 いつもリースについてまわって、戦闘は離れた所から支援魔法を飛ばし、前線に踏み込む事はあまり無かった。
 ついでに人助けよりもリースと一緒にいることを優先する時すらあった。
 リースにべったりの時の彼女との格差が、大きすぎる。
「……死ぬなよ。一緒に、リースを見つけるんだ」
「別にアルヴァと一緒じゃなくても、絶対に見つけるんだから」
 頼りないが、頼もしい返事に、頷く。
 ザ、とアクアが扉の真ん中に立って魔導杖を構えた。
「取込み中に悪いわね。『水よ 我が意に従え』!」
 ドロリと淀んだ空気を、水の刃が切り裂いて、棒立ちで笑っていた吸血鬼に襲いかかる。吸血鬼は避ける様子もなく、小さな無数の傷をつくりながら、こちらをみる。
「そこにも、いた」
 嬉しそうな声が響く。ガリガリと長剣を引きずり、ゆっくり歩を進めてくる。と、急に加速して、あっという間にアクアの目の前に立った。
「っ……!」
 速すぎる――。
 大きくアクアの首筋に噛みつき、首を振って彼女の身体を放り出した。あまりに予想外の動きに、アルヴァの繰り出した長剣が吸血鬼の首をかすめて、宙を裂く。
 ――駄目だ。
 魔女と、同じ顔。その首筋を自分の剣がかすめる瞬間を、自分の全感情が、拒絶する。
 どうしてだかわからない。
 ただ、嫌だ。
 それではいけないと、わかっているのに。
「……っソーマ!! こいつを捕まえてくれ……!!」
 何故あんな自身満々な人間が、こんな大切な時に居ない?
 理不尽な苛立ちだ。
 それは、わかっている。
 瞬間――白い閃光が、目の前で爆発した。
 轟音が地面を叩き、衝撃で全身が痺れる。光に焼かれた視界の中に、黒い人影がふわりと舞い降りた――ように見えた。
「俺の名を、呼んだな。アルヴァ。嬉しいぜ」
 軽くて甘ったるい、低い声。
 どこから出現したのか、どうやって出現したのか、それは確かに、ソーマだった。
「ここにいたのか。これはまた、派手にやらかしたな」
 光にくらんだ視界に、目を擦る。
 ソーマの反対側に同じように目を擦っている吸血鬼の姿があった。
「ほら、大丈夫だよ。おいで。――《スレイヴ》、《ソレイユ》」
 武器も魔法もない。ソーマは両手をひろげて、愛犬を待つかのように、片膝をついた。
「ば……」
 馬鹿か、と言いかけて、吸血鬼の表情がみるみる変わっていくのに、言葉を飲み込む。
 吸血鬼の瞳から攻撃性が引いて、ぽかんとしたような顔にかわる。優しく待ち構えたソーマの腕の中に、おずおずと自分から収まってしまった。
 ぽかんとするのは、こちらだ。
 何か特殊な魔法を使った訳でもない。一体どうして、そうなる。
 まるで飼いならされた犬のように、大人しくソーマが撫でるのに任せ、吸血鬼は目を細めている。
 昨日もこうして眠らされたのだろう。
 傷ひとつ付けずに捕らえていたのは、戦っていないからだった。
 首筋から血を滲ませたアクアが、同じように呆然とした顔で、ふらりと歩み寄る。
「……そう。やっぱり、それで……。――ソーマさん、遅い!」
 アクアは何かを呟いてから、いきなり口を尖らせた。
 新しい怪我は大きくなさそうだ。
「えぇ~それちょっと厳しくねぇ? 俺、役に立ってるだろ?」
「どうしてそんなに簡単に捕まえられるのよ? 貴方も、別の意味で魔物みたい」
「あ、やっぱり? 俺って魔物すら魅了しちゃうんだよね。人外の魅力ってやつ」
 そんな会話が、吸血鬼の頭上でかわされる光景に、冷や汗が出てきそうだ。
 ソーマの軽口に、アクアは諦めたようなため息をつく。
「……アルヴァ、大丈夫? いつまでぼーっとしてるのよ。まさか貴方までソーマに魅了されてないでしょうね」
「まさか――少し、驚いただけだ」
 アクアにそんな言葉をかけられるとは思わなかった。
 いそいで立ち上がって、砂埃を払う。
「あー。それにしても、ここで助けてくれるのがリース様だったらなぁ~。私もぽーっとしちゃうわ~」
「だから、魅了されてなんて、いない」
 それにしてもこれだけ馬鹿な会話をしていても、気持ちよく目を細めた吸血鬼に、これといった反応はない。
 ソーマの腕の中で、会話が耳に入っていないのか、意識はもう眠っているのだろうか。
「でもびっくりしたぜ。家で寝てた筈なのにな。ディアナちゃんが知らせてくれたコウモリ型も、結局こいつがちょっとかじった痕で、準備体操みたいなもんだったし。こっちが狙いって事は、俺はうまく無駄足を踏まされた訳だ」
「やっぱり魔女の顔をしてるから、ちょっと能力も特殊って事かしら」
「いや、そんなことはない。いつもの普通のやつだ。……日があるのに、勝手にひとりで起きるって事も、本来はできなかった筈なんだよなぁ」
 そうすると、原因は他にある。
「――誰かに、起こされたのか。そして街の守護と戦力を狙ったとすると……」
 まさか、リースだろうか。その一言は、のみこんだ。
 『守護の聖者』の強力な魔物除けが無ければ、魔物である彼は人目につかずに街の中へ出入りができるようになるだろう。けれど、そのためだけに、ここまでの惨劇を起こす必要はない筈だ。彼が一人で聖者を狙えばいい。
 ソーマが吸血鬼の結い上げられた髪留めを外す。茶色の長い髪がさらりと肩におちて、彼女は不思議そうに目をあげた。
「《スレイヴ》、《ソレイユ》。この髪留めは、誰に貰ったのかな?」
 吸血鬼は小さく首を傾げてから、ゆっくり口をひらいた。
「……だれ……名前は、しらない。白い、真っ白い髪の、男の人……。」
 少なくともリースではない。ほっと安堵してから、別の不安がこみあげてくる。
 では一体誰なのか。
 白い髪といえば、古書の亡霊であるフェイゼルしかいないが、彼は消極的だ。わざわざ吸血鬼を起こして髪留めを与えたりすることは無いだろう。街の住人に白い髪をもつ人間がいる様子もなかった。見事な焦げ茶色が多い中で白髪がいれば、目立つ。
「その人は、今どこにいるんだい?」
「……今は知らない。森の中に、いた」
 やはりこの惨劇を作り出した人間が、存在している――。
 ただの強力な頭の良い吸血鬼の仕業で済む話ではない。これは相当、深刻な問題だ。
 吸血鬼を抱いて立ち上がったソーマは、診療所の中の惨劇に少し眉をひそめてから、教会の裏側へ足を向けた。教会の裏には緑の庭しかない筈だが、とにかく、彼の後を追う。
「アルヴァ、今のうちに、この子に訊きたいことを訊いてくれ。また眠っていて貰うには、被害を出しすぎた」
 それは――、そうかもしれない。
 これだけの死傷者を出した魔物を、ソーマが退治もせずに平然と抱いているのを見れば、地元の人間も黙っていないだろう。下手に騒ぎをつくるよりも、人目につかないうちに本当に退治して貰った方が良い。
「……魔女の力の源について、知っている事を教えて欲しい」
 そのために、強い魔物と戦ってまわってきたのに――
 この吸血鬼がとどめを刺されるのを、自分は黙って見ていられるのだろうか。
 ゆっくりと、暗くて赤い瞳と目が合う。今度は身体が動かなくなるということはない。
 ソーマに揺られながら、少しの沈黙のあと、小さく口をひらいた。
「――”好きだから”」
 いきなり、思考停止に落とされそうになった。
「”師匠が教えてくれた、この世界が……”」
 ほとんど意味の分からない呟きが、こぼれ落ちる。
 教会の中庭に辿り着いた。
 吸血鬼の身体が、緑の中の光に溶けるように、薄くなってきていた。
「師匠? それは誰なんだ?」
 今にも消えてしまいそうな様子に、慌てる。まさかとどめを刺すような動作もなく、消えていってしまうとは予想外だ。そもそもソーマの捕獲手段から、予想外ではあったのだが。
 答えがないままに、どんどん消えていく。いつもの、魔物を倒した時に砂になって崩れ落ちるのとは違う。陽光に紛れるように、きらきらと、薄く、淡い光になって、ほどけていく。
「……ソレイユ、ごめんね……」
 いつのまにか、アクアが吸血鬼の手を握っていた。
 その声に少しだけ吸血鬼の口元が緩んで、さらりと一気に霧散する。
 しばらく、声がでなかった。吸血鬼を退治しただけの筈だ。聖者を攻撃し、退魔師達を負傷させ、魔女探し達を殺戮した、最悪の魔物。――その最期が、何故、これほどの哀愁に満ちるのだろう。
 何故、一番散々な目に遭ったはずのアクアが、強い瞳で自分の涙を拭っているのか。
「……さて、しめっぽいのはここまでだ。無事なのと生き残ってるのを確認しなきゃだな。聖者様は?」
「真っ先に襲われて、今、ノーリが診てる筈だけど……動いてなければ、炊事場に」
「うへぇ、あのおっさんもやられたのか。参ったね」
 今は考えるより現状を何とか立て直すほうが優先だ。
 街の防衛力が削がれているこの状況で、昨夜のように魔物が大挙して押し寄せれば、防ぎ切れないだろう。
 教会の正面のほうから、驚きの悲鳴がきこえてきた。昨日の事があって遠慮していただろうが、ここは一般住民も自由に出入りする教会の土地だ。そこらじゅうに負傷した退魔師が倒れている光景は、衝撃に違いない。
 突然の戦闘に息を潜めていた聖使達が、安全を確認しながら恐る恐る出て来て、負傷者の救護にとりかかった。
 凄惨に過ぎる診療所は、封鎖された。