◇◇◇魔女の住むディールの丘◇◇◇

ー/ー




 メルド湖沼地帯。魔物が無尽蔵に沸いて出るその場所へ挑んで無事に帰還するには相当な準備が必要であり、いままでにも多くの犠牲者を出してきた。集団であっても全滅することは珍しくない。
 しかしいま、その攻略は大きく変化した。
『上空から入る事で、湖沼地帯ではなく平原に入る事が出来る』という新情報。
 実際に上空から湖沼地帯へ向かい、平原へ降り立った魔女探し達は、大きく興奮した。
 そもそも拠点とした東地区アーペで制作された《飛行機械》が”上空から”などという無茶難題を叶えてくれたことには全員が驚嘆していた。先人達が知ったらどんなに悔しがるだろうなどと歓談する余裕すらある。
 《飛行機械》を丘陵地帯の一角に固定し、そこを拠点として探索が開始された。

 乾いた風が冷たく草を鳴らしていく。人の踏み入る事の無かった広大な草原だ。
 なだらかな丘陵の地理を記録して歩いていくと、魔女探し達はひときわ小高い丘をみつけた。古王国のものとみられる荒廃した城砦が、天然の地層を背に佇んでいる。ただの廃墟か、世界を支配する魔女の城砦か?かれらはその寂れた城門をくぐった。
 遺跡発掘家が喜んで探索を始めそうな巨大な遺構だ。しんとした冷たい空気。生き物の気配も魔物の気配すらも無い。
 その最奥には、地層の岩肌を抉るようにそびえる、巨大な門があった。
 2匹の大蛇の彫刻に圧倒されるその門はぴたりと閉ざされ、一見すると門の形をした装飾のようにしか見えない。
 しかし、この門には施錠の魔法がかかっていた。蛇の彫刻のすぐ下に、わかりやすく開錠の条件が刻まれている。
『心臓の血を注いでみると良い。その熱きに応えよう』
 血といっても、動物はいない。鳥も、魔物すらいない。一度街に戻って家畜を連れて来ようという声があがる。
 だが――『初めて探索するこの丘陵地で、再びまたこの門の前に辿り着けるものだろうか?』という意識が、彼らの間にゆらめいていた。
 
 ドン、とひとりの女性が立ち竦んだ集団の中から突き倒される。
「スレイヴ、お前が役に立つ時が来たな。元奴隷が。光栄に思えよ」
 つめたい声に、驚きと困惑の目が交錯した。
「やめろよ、おい、俺達は偵察に来たんだ。一度戻って……」
「わざわざ戻って、門がありましたとだけ報告するのか? 戻るのはこの門の向こう側を確認してからだ。ここまでの労力を考えてみろ。ここで帰るわけにはいかない」
 確かに、ここは入り口に過ぎない。これだけ静かなのだから、この門の向こうはきっと深い地下が続いているのだろう。その中を偵察してこそ大手を振って戻れるというものだ。
 ざわ、と異常な空気が満ちる。
 急に変わったその場の空気に、突き倒されて呆然としていた元奴隷――スレイヴは、立ち上がろうとした足をもつれさせた。
「な……何考えてんのよ。冗談じゃないわ! 私、もう奴隷じゃないのよ!」
 悲鳴のような叫びは、逆効果だった。数人に両脇を抱えられた元奴隷が門に押し付けられる。
 その左胸を、仲間だった筈の人間の長剣が躊躇なく貫き、おびただしい出血が門を彩った。
 両脇をかためていた人間も、おもわず後退る。

 ――その血を媒介とするように、門からぼうっと暗い闇色の魔力が立ち昇りはじめた。
 重い石門が地面を低く鳴らして、ゆっくり、細く、開いていく。
 そこに赤く染まった遺体が倒れ込むのを、内側から誰かが、受けとめた。
「……ようこそ。そして、さようなら」
 澄んだ女性の声が、凛とひびく。
 次の瞬間、門に彫られた大蛇が突然実体化し、巨大な牙が呆然としていた魔女探し達を襲った。
 悲鳴、怒号、沈黙――。
 一瞬で凄惨な状況になった門前に悠然と立っているのは、門の中から出現した白衣の女性だ。
「仲間を殺すような人間は、自分自身を殺すことになる。あなた達は、ここまでね」
 石畳の床が音もなくドロリと黒い沼のように溶けだした。
 僅かに生き残っていた者達がうめき声と共に溶けた地面にのみこまれる。遺体の残骸もすべてがのみこまれ、跡形も無く消え去ってしまった。白衣の女性が、血まみれの元奴隷の女の身体をそこに横たえる。たちまちそれも沈み込んで、消えていく。
 それを見送った白衣の女性は、くるりと背をむけて門の奥へ戻っていく。それと同時に、細く開いていた門は静かに閉ざされた。
 大蛇は彫刻に戻り、黒い沼はもとの硬い石畳へと姿を変える。
 あとには、しん、とした静寂だけが残った。
 門には、血の跡が残っている。

 リース=レクトは、身を隠していた天井の梁から、トンと石畳の床に降りた。
 あの場の空気がおかしくなった時に離脱しておいて、正解だった。
 そっと床に触れる。何も変哲もないただの石畳だ。しかし今までも恐らく、辿り着いた魔女探し達は、ここで消えていったのだろう。何が起こるのかを見届けたは良いが、肝心の門は、閉まってしまった。
「……困ったな。俺は、魔法は使えないんだが」
 小さく声を出してみるが、門に反応は無い。
 丁寧にあたりを探索してみるも、見事に何も無い。結局またこの門の前に戻ってきて、ただの入り口のように、蛇の門を叩いてみた。コンコンと、軽い音が響く。
 ――軽い音?
 試しに力を込めて開いてみると相当な重量はあったが、魔力的な抵抗は何もなく、あっさりと開いてしまった。
 外見の大きさに反して、どうやらこの幅までしか開かない造りになっている。
 細い入口にそっと入って、様子を見る。ごく普通の寂れた城砦の地下通路だ。
 明かりの無い地下だが、魔物であるリースの瞳には暗闇のなかでも細部までがくっきりと認識できる。
 古い地下道の通路が奥の方まで続いている。かすかに冷たい空気が動いているということは、行き止まりでは無い筈だ。

 足音を立てずに奥へ進む。
 よくある罠のように、背後で門が勝手に閉まるという事も無かった。緩やかに曲がりくねった一本道の通路を進んでいくと、古い装飾の扉に行き当たる。
 ここが終点か。
 明かりが無ければ見えないだろう、小さな取っ手がある。取っ手に触れると、驚くほど軽く扉が横にひらいた。
 差し込んできた外の光に、リースは目を細める。涼しい――けれど暖かい陽の光。
「……これは……」
 まるで小さな教会の緑の庭園のような光景がひろがっていた。
 足元を横切る小さな清流を跨いで、草木の柔らかい香りにつつまれる。周囲を取り囲む建物は廃墟の続きのようだが、寂れた感じはしない。小さなせせらぎの音を聞きながら、緑の中に続く石畳の小路をすすむ。

 2本の低木に渡した布が、ひとりぶんの人間の重量に、ゆるやかに揺れている。
 厚手の外套が地面に垂れ落ちていて、薄手の白衣からのびる細身の腕がゆるやかに腹の上で呼吸とともに上下していた。
 そこに、さらりとした茶髪の女性が、眠っている。
「……冷えますよ。セト=リンクス」
 リースは、冷えきったその手を丁寧に取り、トンと吐息を落とす。静電気は発生しなかった。
 下を向いていた彼女の長い睫毛の奥から、深い、緑色の光がさす。
「また、会ったわね。リース=レクト」
「もしかして、お招き頂いたんでしょうか」
 ”世界を支配する魔女”。彼女の本当の名前は、わからない。
 セト=リンクスという男性として、少なくとも10年以上の時を過ごしていたはずだ。いまリースの前にいる彼女は、さらりとした長い茶髪に、深い緑の瞳。素朴なふわりとした雰囲気の20代ほどの女性の姿だ。これが真実の姿なのだろうか。

「リース……不思議な魔物ね……。あなたの話を、聞かせてくれる?」


◇◇◇東地区アーペとアクア◇◇◇

 魔女探し達の集団よりも遅れて首都を出発したアルヴァの一行は、盛大に寄り道を繰り返していた。
 森をつらぬいていく街道の途中で魔物の気配を追って道を外れる。東地区に近づくほど、少しずつ遭遇する魔物が手強い種類になっていくのがよくわかった。野生の猛獣と魔物は、全く別の存在だ。魔物には全身の神経が拒絶反応を示すような、禍々しい雰囲気がある。
 ――しかし、リースはほとんど人間と同じ気配を持っていた。生命力を吸われた時にも禍々しさは感じなかった。こうして改めて魔物と相対すると、改めてそれを実感する。
「アクア、木の上の魔物は任せる!」
 アルヴァは頭上から襲ってくる魔物をぱっと避け、奥の茂みの中にザっと踏み込んで低い位置を斬り払う。ザアッと手ごたえがあり、身を伏せていた赤黒の獣を頭から両断していた。魔物の禍々しい姿は、一瞬のち、砂になっていく。
 アクアの的確な水魔法で、背後でも似たような砂が散っていた。
「……ここの魔物も、喋れはしないか……」
 ぐるりと周りの気配をあらためて、小さく息をついた。
 仮に今、リースが魔物として襲ってきたら、対応できないかもしれない。彼の気配を追う事はできない。魔物の気配も無いが、思えば人間としての気配も希薄だった。
「もう! こんな寄り道してないで、早くアーペに行こうよ! その辺に出てくる魔物なんて大した相手じゃないでしょ。いちいち潰してたらキリがないじゃないの」
「わかっている……だが、アーペに近付くほど魔物が強力になっているのも、見過ごせない。メルド湖沼地帯が近いのを実感するな」
 アクアの苛立ちがいつもより肌に刺さる。彼女の長い金髪の奥から小さく睨みつけてくる青い目の色はするどく、濃い。
 遠く置き去りにしてしまった街道の馬車で待っているノーリを見やれば、目が合った。彼はのんびりとにこやかに手を振っている。
「……行くか。喋るような魔物がいるのは、やはりメルド湖沼地帯だろうな」

 出発地であるフェルトリア連邦の中央都市フェリアから、東地区の街アーペまでは街道を馬車で旅することが出来る。寄り道をしないで乗り継げば、7日程度の距離だ。北西の祖国からフェリアまで整備されていない道を何十日もかけて旅した事を考えれば、かなり近い。
 その短い旅程にも、”人語を喋る魔物に、訊いてまわる”という新しい手段をできるだけ試してみたかった。
 かつて300年間みつけられなかった魔女を、探し出した実績のある手段だ。
 人語を喋る魔物というのは、吸血鬼を代表格として難敵であり、非常に危険だ。だからこの手段はちょっとした情報混乱状態にある魔女探し協会には教えられない。実際に自分が検証していない情報を無暗に広める訳にはいかないという理由もある。
 それに目下自分達の目的は、彼らのように”魔女を探す”事ではない。
 仮に彼女のもとに辿り着き、対峙したとして、300年という大きな経験と実力をもつ魔女に勝負を挑んだところで勝ち目はない。だからその魔女の力、そのものについて――300年も生き続け、魔物も天候も操作する、その力の源を、探している。

 アルヴァは乗り込んだ馬車の中、ノーリが淹れてくれたお茶で渇いた喉を潤した。
「あとはアーペに直行でいいですか? アルヴァ。急げば半日もかかりませんよ」
 新しく仲間になったノーリには急ぐ理由はない。アクアの機嫌をみてのんびり聞いてきた。
「ああ。急いで行こう」
「もー、ほんとよ。早くリース様に追いつかなくちゃ」
 アクアが繰り返し呟くこの言葉に、実は、結構安心させられている。
 リースとは、いきなり別れてしまった。
 10年も兄のように一緒に行動していた彼は、実は魔物だったと判った事で逃げるように姿をくらませた。
 魔物特有の暗く赤い瞳。生命力を吸い取って逃げた行動は、吸血鬼にも似ているが、吸血鬼とは違う。
 本性を見せつけられたのに、まだどこか信じられないでいる。
「アクアさんは、本当にリースが好きなんですねぇ」
「それもあるけど、だって私、リース様が魔物だろうと何だろうと気にしないって、言ってない。もしリース様がそんな事を気にして私の前から去ってしまったんだとしたらっ……!」
「いや、気にしているのは確実だろうが、アクアからというより、我々魔女探しという存在から……」
「そんな事はどうでも良いのよっ。ああ、リース様……私がお側についていながら、ひとりで悩んでいたなんて……」
 きゅ、と胸の前で手を握りしめて車窓のお空を見つめるアクアは、そのままにしておこう。
 もとより潔くリースを慕っていたから、長時間離れているうちに落ち込むかと思ったが、この調子なら余計な心配のようだ。
「……アルヴァ、少し、疲れているんじゃありませんか?」
 首を傾げたノーリが、少し覗き込むようにしてきた。
「まさか。アーペに着いてからが大事なのに、今から疲れてなどいられない」
「どこか調子が悪くなったら、いつでも言って下さいね。皆さんがあんまり強いんで、回復役としては少し物足りなかったりするんです」
 そういってお茶のおかわりを淹れてくれるノーリには、どこかささくれた神経が癒される。

 街道の舗装が次第にきれいになって、車の揺れが小さくなる。アーペは、もうすぐだ。
 以前に来たのは何年前だっただろうか。ぐるりと街を二重に囲う柵。一般的な作りだが、そこに付加された魔除けの守護魔法は、アーペ教会の『守護の聖者』によるのもで、彼が街を護り始めてから40年程、ほぼ魔物の侵入を許していないと聞いている。
「……リース様、大丈夫なのかしら」
 訓練された街の退魔師が守る門を通過して、ぽつりとアクアが呟いた。
「前にも来た事がある。『守護の聖者』の付与効力は柵だけで、人に守られた出入口は、魔物とわからなければ出入り可能だ。リースなら問題ないだろう」
 魔女探しとして、単純にメルド湖沼地帯を目指したあの頃を思い出す。旅の中であらゆる魔物との戦い方を、彼に教わった。
「そうよね。リース様は、強いもの」
「……それより、彼が君を拾ったのは、このアーペだ。覚えていないか」
「あれ、そうだっけ? そういえば、そう……?」
「アクアさん、拾得物だったんですか?」
 そんなことを言って首を傾げたノーリに、彼女は笑顔で頷いてみせた。
「なんか私、気付いたらまわりが魔物だらけで、何してたかも分んなくて。そしたらリース様が助けてくれたの。あれって、アーペでの事だったのね」
「正しくはメルド湖沼地帯の入り口のあたりだったが……結局君を拾ったことで、リースはそれ以上湖沼に入ろうとしなかった。今思えば、正しい判断だったな」
 いま協会では、メルド湖沼地帯には『上空から入れば魔女のいる土地に行ける』という情報が広まり、魔女探し達が一斉にそこへ向かった。
 その成果はまだ聞かないが、昔、リースと一緒に行ったあの時、重傷のアクアと出会わなければ、自分たちも無為に湖沼地帯をさまよう羽目になっていただろう。
 アクアもそうして重傷を負いながら、何とか抜け出してきた魔女探しのひとりに違いなかった。
 ”メルド湖沼地帯”は、記憶を失うほどに厳しい、魔物だらけの土地だということだ。

 門を通過してしまうと、急に街としての空気が漂ってきた。守護の柵が、魔物と人間の活動圏を、見事に隔てている。丘を越え、緑色の屋根が斜面に連なる低層の街並に入った。このアーペが、多くの魔女探し達の旅の始まりともいえる場所だ。
 魔女の始まりの地であるメルド湖沼地帯に隣接し、どれだけ必死に探索しても見つからないからと、彼らが世界中を旅する契機になった。まさか、長い時間の後に、結局魔女はここにいる、という事になるとは、歴代の魔女探し達は思いもしなかっただろう。
 魔物と対峙しながら生活する為に発展した機工技術が、この街の経済水準を、中央都市と遜色無いものにしている。
 見た事のない作りかけの機械があちこちに無造作に置いてあるのをみると、興味をそそられる。そういう観光地としても、知名度が高い。
「それにしても、魔女探し達の姿がありませんね。もう皆湖沼へ出発してしまったんでしょうか」
「皆、物凄い勢いで首都を出ていったものね」
 中央都市からの街道の轍跡は本当に酷かった。特に整備が行き届いていなかった場所などは、車輪が溝にはまりかけるほどだった。
「あのー、教会前は急斜面なので、いつもアーペのお客さんは広場に下ろしてんですけど、そこでいいですかー?」
 馭者の提案に、そういえば前に来た時もそんな場所に着いたなと思い出す。
「ああ、構わない。その近くに魔女探し達が集まっていそうな場所を知っているか」
「それなら『待合い酒場』が昼からやってますよ。大抵の人はまずそこで一息ついてますね。広場の端にありますから、すぐにわかりますよ」
 馬車が平坦な場所に出ると、そこは緑の植栽が豊かな広場だ。中央の植栽に『技術の街アーペ』と彫られた見事な石柱が建っているのをみると、ここが観光地としても潤っているのが、よくわかる。
「やっと着いたぁ! ほらアルヴァ、ノーリも、早く行こうよ!」
 ころがるように馬車から降りたアクアがいつの間にか全員の荷物を抱えていた。魔法使いの細腕で、よく持ったものだ。急かされるままに馭者に代金を払って馬車を降りた。
 彼女は一人でさっさと目立つ看板の『待合い酒場』へまっしぐらだ。
 一緒に追いかけようとしたノーリが、隣でイタタと言いながら腰をさする。
「いやぁ、馬車に乗りっぱなしだと、何だか背中にきますね。僕も少し途中で外に出れば良かったかな」
 見た目の年齢に似合わないような事を言う。
「そうだな、帰りはそうすると良い」
 ポンとノーリの背中を叩いて、先に酒場に入ってしまったアクアを追い駆ける。荷物には大事なものが入っているから、アクアが持っているとはいえ出来るだけ手元に持っていたい。

 『待合い酒場』の中は意外と広い。一瞬そんな気がしたのは、他に客があまりいないからだろうか。
 年季の入った落ち着いた雰囲気の店内を見回して、そういえば前に来た時もリースとここに寄った気がすると、すこしだけ思い出す。あの時は目的地に行く事ばかり考えていたし、帰りにはぐったりしたアクアを抱えていたから、あまりこういう風にまわりを見渡す余裕が無かった。
「やあやあ、遅かったなぁ。もう皆行っちまったぞ。ようこそ、即戦力よ!」
 朗らかなよく通る声に迎えられて、びっくりした。
 茶色の酒を飲みながら近付いてきた初老の男の顔に、なんとなく見覚えがある。
 技工士のくたびれた作業着姿だが――それにしても、酒臭い。
「おじさん、黒い長髪が印象的な魔女探しの男性がここに寄りませんでした?」
「黒い髪の男? いや、わかんねぇよ。一斉に大勢の魔女探しが押しかけて来たからなぁ。それより嬢ちゃん、荷物重いだろ。そのへんに置いて座りな。飲むか?」
 やっぱりそう簡単には見つからないかぁと言って、アクアが無造作に置いた荷物から目を離さないように、気をつける。
 他にいる客は、どうやら地元の人間だけのようだ。
「本当に一人残らずメルド湖沼地帯に向かったんですか? ガラガラですね」
「おうよ。上空から入るとかで、大層意気込んで行ったぞ。こっちも急いで対応したぜ。何しろ飛行技術なんて初めてだったからよ。まぁそれは何とかなった訳だが、下手にあっちの領域を刺激して、厄介事にならねぇかだけが気掛かりでな。それで、若い奴らをあっち側の警戒に当たらせてんだ。偵察だけだとか言ってたが、果たして何人帰って来れるかね。じゃなきゃ赤字だぜ。まぁ何か飲めよ」
 気持ちよく酔いがまわっているんだろう。
 聞きたい事を勝手に喋ってくれた礼に、麦酒を注文する。
「あれ、アルヴァは麦酒なんですね。北のリュディア王国といえばワインを飲む人が多い印象なんですけど」
 ノーリにそう言われてから、そういえば国では赤い酒を傾けている人間が多かったような気もする。いつも酒場に入る時はリースと一緒だった。彼の注文するものと同じものを何となく選んでいたから、酒場に入ったらとりあえず麦酒を注文するようになっていた。運ばれてきた白い泡の杯が3杯で、少し戸惑う。
 アクアが酒を飲んだところを、まだ見た事がない。
「まぁ座れや。長旅だったんだろう? まずはお疲れさん。一息ついてから動くといい」
 彼に勧められるままに麦酒を口にしたアクアの顔が、なんともいえない不思議そうな表情になった。
「ははは、喉でぐっと飲むんだよ! 口の中で味わったって苦いだけだ。おい兄ちゃん、美味しい飲み方をちゃんと教えてあげろよ。酒嫌いになるなんて、絶対に勿体無いからなぁ」
 それより、アクアに酒を飲ませて良いんだろうか。それも心配だ。
 隣で麦酒を一気に飲み干したノーリが、一息ついて、美味しいですよと笑顔でいう。
「……ところで、魔女探し達がメルド湖沼地帯に入ってどのくらい経ちましたか?」
 自分は少し麦酒で唇を潤す程度で止めておく。
 技術者が飛行技術を完成させて上機嫌でここにいるのなら、出発から大きく日時が経っている訳ではなさそうだ。
「日の出から出発していったが、何しろ徒歩じゃなくて飛行機械を使ったからなぁ。どのくらいの速さでどれだけの距離を飛べたんだか、俺も奴らの帰りが待ち遠しいよ。飲んだら様子見に行ってみるか? 遠くまで飛べてれば、今日は誰も帰って来ないだろうがね」
 偵察の結果が帰還者によって協会に情報共有されるのであれば、わざわざ後をついて行くことはない。しかし、彼が繰り返し喋る飛行機械の技術がどういうものなのか、気になってきた。もしかすると、普段の移動手段にも使えないか――。地面の舗装環境を気にしないで移動出来れば、どんなに楽だろうか。
「行く行く~! 早く行こうよ~。ここでのんびりしてても~リース様は見つかんないわ~!」
 アクアの声の抑揚が少しおかしい。2杯目に入る前に早々に出た方が良い。
「おいおい、着いたばっかりだろ。少し休憩して――」
 ふと彼の目に冷静な色がさしたのを、見逃さなかった。トンと杯を置いて、まっすぐ立ったこの男に続き、席を立つ。
「兄ちゃん腕は立つ方だな。今すぐついて来て欲しいんだが、構わないかね」
 小さく頷いて、荷物を取る。
「え? 何? 行くの? 私も~!」
「アクアさん、代金を払ってから出ましょうね」
 ノーリが酔っ払いに常識を思い出させているうちに、小銭を机に置いてサッと出て行った男の後を追う。
 ついさっきまで朝から飲んでいた人間とは思えない足取りに導かれて、夕暮れの近付く丘の街並みを駆け出した。



◇◇◇湖沼地帯からの魔物◇◇◇

 街全体に、どこからか低い警報音が響き渡っていた。住人はいそいで家屋に入り、扉を閉ざす。
 流石、湖沼地帯と隣接している街というべきか、異様な光景だ。
「一体、何が起きているんですか?」
「街の柵が壊れた場合の警報だ。やべぇな」
 そこに、聖使姿の少女が馬で坂道を駆け登ってきた。
「聖者様! 魔物が多すぎて結界外部が突破されました!」
「やっぱりか。馬、借りていいか」
「勿論です、急いで下さいっ」
 少女が転がるように降りるのと入れ替わりにサッと騎乗した作業着の男が、手綱を片手に手を差し伸べてくる。
「……聖衣を着ていて下さい。聖者様。誰だかわかりませんでした」
 荷物を背にまわして、掴んだ手にぐいと引き上げられる。
「あれ、動きにくいんだよなぁ」
 『守護の聖者』バルド=レイフォン。
 彼は悪戯っぽく唇を尖らせて手綱を操る。なるほど見覚えがあったわけだ。
 ゆるやかに駆け出した馬上からは、街の外れで黒雲が立ちこめているのが見えた。魔物特有の嫌悪感に、全身の神経が緊張する。若い奴を警戒に当たらせていたということは、街の退魔師の備えは充分だった筈だ。長年街を護ってきた備えを破るほどの魔物の襲来ということだろうか。

 聖者の駆る馬が街外れの低木林を抜け、メルド湖沼地帯の淵にあたる危険地帯に入った。
 湖沼地帯に満ちた暗雲が境界地帯である砂地を浸食し、魔物が続々と溢れ出てきている光景がとびこんできた。
 ――その足元に、複数の魔女探し達が、這うように逃げ出してきている。
 街の退魔師も、倒しても倒しても出現する魔物の数に、防戦一方だ。砂地で破られた柵の内側にある二重目の柵を、どうにか守っている。
『地の守護よ、轟け、聞かせよ!』
 よく通る『守護の聖者』の声が、苦しい前線に朗々と響いた。
 二重の柵が、びり、と強烈な光を放つ。それに押し返されるように、百出した魔物も黒雲の中に僅かに退いた。
「聖者様……! 助かりました。でも、どうしたら――」
「お前らは無事か? 転がってる魔女探し達を回収しろ。魔物を倒す事は考えるな!」
 疲労困憊していた退魔師達にサッと血気が蘇った。見事な連携で救命活動に切り替える。
 酒場で寛いでいた人間とは思えない、力強い存在感だ。
「兄ちゃんも手伝ってくれ。救助に邪魔な魔物を防ぐだけでいい。頼んだぜ」
 聖者は馬から降りて、いくつかの守護魔法を唱えながら柵に駆け出していった。放り出された手綱をあわてて拾い、戸惑う馬を宥める。これだけの魔物を前にして逃げ出さないとは、流石、魔物の巣窟の近くで育った馬だ。
「よし、お前、あそこに突っ込んでいっても平気か」
 ぽんと触れた馬首が、落ち着いた温かみを返してきた。手入れされた毛並みを撫でる。
 腰の長剣を抜いて、ひとつ、深呼吸した。
「――行くぞ!」
 ぐんと駆け出した馬の速度を、自分のものにする。
『光よ 宿れ 我が刃となれ』
 魔力を纏った斬撃が魔物の身体を軽々と切り裂く。
 手応えが軽い分、剣を振るう速度が格段に速い。魔女探し達に襲いかかっている魔物を、片端から斬り捨てていく。馬も自分の役割を理解しているのか、倒れている人間をうまく避けてくれる。
 だが、数が多すぎる。魔物も、魔女探しもだ。
 アクアが追いついたのか、時々水魔法の支援がとんできた。それでもキリが無い。退魔師達によって手負いの魔女探し達の半分は回収できただろうか。

 不意に、黒雲がするすると湖沼側へ引きはじめた。
「……なんだ?」
 一見、攻撃の手を引いたようにもみえる。これで収まってくれれば良いが――。
 様子をみていると、足元で倒れていた魔女探しのひとりが小さく悲鳴を洩らした。
「う、あぁ……魔女……魔女がぁぁ…………」
 その、恐怖に染まった視線の先をみる。黒雲が濃く集まった湖沼のふちに、ゆらり、と人影がみえた。
 ――まさか。
 魔物の、赤黒い色を纏った女が、黒雲からうまれるように、スウ、と形を現す。
 同時に再びその両側から、ドッと魔物がとびだしてきた。
 勢いに押され、馬から咄嗟に飛び降りた。倒れた馬を無視した魔物が、まだ残っている魔女探し達に次々と群がっていく。
「くそっ……! やめろ、やめてくれ!」
 女の視線がこちらを捉えた。
 赤黒い、瞳。
 凝ったような、重い魔力。――身体が動かない。
『水よ 我が意に従い 突き抜けろ!』
 強力な水魔法の刃が女に叩き込まれて、白煙があがる。視線からは解放されたが、女の姿も見失った。
「アルヴァ、上よ!」
 アクアの声に上を見るよりも速く、肩を掴まれ後ろにドオッと引き倒された。
 目の前に、魔女の顔があった。けれどその瞳は魔物の色に暗く沈んでいる。
『水よ 我が意に従え!』
 ザッと水魔法の斬撃が横殴りに女を襲う。小さく驚いた声をあげて怯んだ隙に、その拘束から脱出する。間髪を入れずアクアが魔導杖で殴り掛かったのには助けられた。しかしそれはくるりと魔導杖を避け、そのまま振り向きもせずに、湖沼のまわりを縁取る森の中に駆け込んでいった。
「――待て!」
 ぼうっとしている暇はない。
 ここで見失ったら、次に捕まえられるのは、また、いつになるのか。
 背中にアクアの声をきいた気がした。が、まっすぐ女の消えた森に入る。
 対抗策も、なにもない。
 ただ、もういちど捕まえる――。

◇◇◇

 夕闇の迫る森の暗がりに視界を阻まれるが、こんなことは何度も経験している。こういう時、自分の魔法属性が光であることに感謝する。火の魔法と違って自らが目立つことはない。
『光よ 我が目に宿れ』
 ひと呼吸おいて、自分にだけ明るくなった森の中で動くものの姿に目を凝らす。なんのことはない。逃げて行った方向に、そのまま木々をかいくぐって走っていく女の背中をみつけた。
「待て……待って下さい! 俺です! アルヴァ=シルセックです!」
 同じように木々をかいくぐって追い掛けているのに、追いつかない。
 追いかける自分を気に留めるふうでもない背中に、声をあげた。
 ちらりと振り返ったかと思うと、突然、掻き消えた。――いや、その先で、大きな水音が響いた。
 急いでその場に駆けつける。湖沼地帯に向かって流れる小さな水の流れが、いきなり足元を横切っている。これに足を取られたのか。まさかこの浅瀬に流される訳でもないだろう。
 下流に目を向けた瞬間。
 ひた、と背中に冷たいものが触れた。
「アル……ヴァ……」
 小さな声に、身体が硬直する。
 さっき視線に捕われた時と同じだ。だが、固まっている場合ではない。
「俺は……話……を……」
 重い唇をうごかし、振り向こうと力を込めると、さらりと茶色の髪が頬に触れた。
 ぶつ、と聞き慣れない音が頭に響く。
 焼けるような激痛が首筋を貫いて、硬直のかわりに、全身が痺れる。
 首がどうなっているのか分らない。全身から急速に血の気が引いていく。遠くなる意識の中で、かすかにそれを認識するが、もう、どうしようもない。

「――大人しく吸われてやるなんて、お人好しだな、『アルヴァ』」
 低くて優しい声が、聞こえたような気がした。



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 メルド湖沼地帯。魔物が無尽蔵に沸いて出るその場所へ挑んで無事に帰還するには相当な準備が必要であり、いままでにも多くの犠牲者を出してきた。集団であっても全滅することは珍しくない。
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 その最奥には、地層の岩肌を抉るようにそびえる、巨大な門があった。
 2匹の大蛇の彫刻に圧倒されるその門はぴたりと閉ざされ、一見すると門の形をした装飾のようにしか見えない。
 しかし、この門には施錠の魔法がかかっていた。蛇の彫刻のすぐ下に、わかりやすく開錠の条件が刻まれている。
『心臓の血を注いでみると良い。その熱きに応えよう』
 血といっても、動物はいない。鳥も、魔物すらいない。一度街に戻って家畜を連れて来ようという声があがる。
 だが――『初めて探索するこの丘陵地で、再びまたこの門の前に辿り着けるものだろうか?』という意識が、彼らの間にゆらめいていた。
 ドン、とひとりの女性が立ち竦んだ集団の中から突き倒される。
「スレイヴ、お前が役に立つ時が来たな。元奴隷が。光栄に思えよ」
 つめたい声に、驚きと困惑の目が交錯した。
「やめろよ、おい、俺達は偵察に来たんだ。一度戻って……」
「わざわざ戻って、門がありましたとだけ報告するのか? 戻るのはこの門の向こう側を確認してからだ。ここまでの労力を考えてみろ。ここで帰るわけにはいかない」
 確かに、ここは入り口に過ぎない。これだけ静かなのだから、この門の向こうはきっと深い地下が続いているのだろう。その中を偵察してこそ大手を振って戻れるというものだ。
 ざわ、と異常な空気が満ちる。
 急に変わったその場の空気に、突き倒されて呆然としていた元奴隷――スレイヴは、立ち上がろうとした足をもつれさせた。
「な……何考えてんのよ。冗談じゃないわ! 私、もう奴隷じゃないのよ!」
 悲鳴のような叫びは、逆効果だった。数人に両脇を抱えられた元奴隷が門に押し付けられる。
 その左胸を、仲間だった筈の人間の長剣が躊躇なく貫き、おびただしい出血が門を彩った。
 両脇をかためていた人間も、おもわず後退る。
 ――その血を媒介とするように、門からぼうっと暗い闇色の魔力が立ち昇りはじめた。
 重い石門が地面を低く鳴らして、ゆっくり、細く、開いていく。
 そこに赤く染まった遺体が倒れ込むのを、内側から誰かが、受けとめた。
「……ようこそ。そして、さようなら」
 澄んだ女性の声が、凛とひびく。
 次の瞬間、門に彫られた大蛇が突然実体化し、巨大な牙が呆然としていた魔女探し達を襲った。
 悲鳴、怒号、沈黙――。
 一瞬で凄惨な状況になった門前に悠然と立っているのは、門の中から出現した白衣の女性だ。
「仲間を殺すような人間は、自分自身を殺すことになる。あなた達は、ここまでね」
 石畳の床が音もなくドロリと黒い沼のように溶けだした。
 僅かに生き残っていた者達がうめき声と共に溶けた地面にのみこまれる。遺体の残骸もすべてがのみこまれ、跡形も無く消え去ってしまった。白衣の女性が、血まみれの元奴隷の女の身体をそこに横たえる。たちまちそれも沈み込んで、消えていく。
 それを見送った白衣の女性は、くるりと背をむけて門の奥へ戻っていく。それと同時に、細く開いていた門は静かに閉ざされた。
 大蛇は彫刻に戻り、黒い沼はもとの硬い石畳へと姿を変える。
 あとには、しん、とした静寂だけが残った。
 門には、血の跡が残っている。
 リース=レクトは、身を隠していた天井の梁から、トンと石畳の床に降りた。
 あの場の空気がおかしくなった時に離脱しておいて、正解だった。
 そっと床に触れる。何も変哲もないただの石畳だ。しかし今までも恐らく、辿り着いた魔女探し達は、ここで消えていったのだろう。何が起こるのかを見届けたは良いが、肝心の門は、閉まってしまった。
「……困ったな。俺は、魔法は使えないんだが」
 小さく声を出してみるが、門に反応は無い。
 丁寧にあたりを探索してみるも、見事に何も無い。結局またこの門の前に戻ってきて、ただの入り口のように、蛇の門を叩いてみた。コンコンと、軽い音が響く。
 ――軽い音?
 試しに力を込めて開いてみると相当な重量はあったが、魔力的な抵抗は何もなく、あっさりと開いてしまった。
 外見の大きさに反して、どうやらこの幅までしか開かない造りになっている。
 細い入口にそっと入って、様子を見る。ごく普通の寂れた城砦の地下通路だ。
 明かりの無い地下だが、魔物であるリースの瞳には暗闇のなかでも細部までがくっきりと認識できる。
 古い地下道の通路が奥の方まで続いている。かすかに冷たい空気が動いているということは、行き止まりでは無い筈だ。
 足音を立てずに奥へ進む。
 よくある罠のように、背後で門が勝手に閉まるという事も無かった。緩やかに曲がりくねった一本道の通路を進んでいくと、古い装飾の扉に行き当たる。
 ここが終点か。
 明かりが無ければ見えないだろう、小さな取っ手がある。取っ手に触れると、驚くほど軽く扉が横にひらいた。
 差し込んできた外の光に、リースは目を細める。涼しい――けれど暖かい陽の光。
「……これは……」
 まるで小さな教会の緑の庭園のような光景がひろがっていた。
 足元を横切る小さな清流を跨いで、草木の柔らかい香りにつつまれる。周囲を取り囲む建物は廃墟の続きのようだが、寂れた感じはしない。小さなせせらぎの音を聞きながら、緑の中に続く石畳の小路をすすむ。
 2本の低木に渡した布が、ひとりぶんの人間の重量に、ゆるやかに揺れている。
 厚手の外套が地面に垂れ落ちていて、薄手の白衣からのびる細身の腕がゆるやかに腹の上で呼吸とともに上下していた。
 そこに、さらりとした茶髪の女性が、眠っている。
「……冷えますよ。セト=リンクス」
 リースは、冷えきったその手を丁寧に取り、トンと吐息を落とす。静電気は発生しなかった。
 下を向いていた彼女の長い睫毛の奥から、深い、緑色の光がさす。
「また、会ったわね。リース=レクト」
「もしかして、お招き頂いたんでしょうか」
 ”世界を支配する魔女”。彼女の本当の名前は、わからない。
 セト=リンクスという男性として、少なくとも10年以上の時を過ごしていたはずだ。いまリースの前にいる彼女は、さらりとした長い茶髪に、深い緑の瞳。素朴なふわりとした雰囲気の20代ほどの女性の姿だ。これが真実の姿なのだろうか。
「リース……不思議な魔物ね……。あなたの話を、聞かせてくれる?」
◇◇◇東地区アーペとアクア◇◇◇
 魔女探し達の集団よりも遅れて首都を出発したアルヴァの一行は、盛大に寄り道を繰り返していた。
 森をつらぬいていく街道の途中で魔物の気配を追って道を外れる。東地区に近づくほど、少しずつ遭遇する魔物が手強い種類になっていくのがよくわかった。野生の猛獣と魔物は、全く別の存在だ。魔物には全身の神経が拒絶反応を示すような、禍々しい雰囲気がある。
 ――しかし、リースはほとんど人間と同じ気配を持っていた。生命力を吸われた時にも禍々しさは感じなかった。こうして改めて魔物と相対すると、改めてそれを実感する。
「アクア、木の上の魔物は任せる!」
 アルヴァは頭上から襲ってくる魔物をぱっと避け、奥の茂みの中にザっと踏み込んで低い位置を斬り払う。ザアッと手ごたえがあり、身を伏せていた赤黒の獣を頭から両断していた。魔物の禍々しい姿は、一瞬のち、砂になっていく。
 アクアの的確な水魔法で、背後でも似たような砂が散っていた。
「……ここの魔物も、喋れはしないか……」
 ぐるりと周りの気配をあらためて、小さく息をついた。
 仮に今、リースが魔物として襲ってきたら、対応できないかもしれない。彼の気配を追う事はできない。魔物の気配も無いが、思えば人間としての気配も希薄だった。
「もう! こんな寄り道してないで、早くアーペに行こうよ! その辺に出てくる魔物なんて大した相手じゃないでしょ。いちいち潰してたらキリがないじゃないの」
「わかっている……だが、アーペに近付くほど魔物が強力になっているのも、見過ごせない。メルド湖沼地帯が近いのを実感するな」
 アクアの苛立ちがいつもより肌に刺さる。彼女の長い金髪の奥から小さく睨みつけてくる青い目の色はするどく、濃い。
 遠く置き去りにしてしまった街道の馬車で待っているノーリを見やれば、目が合った。彼はのんびりとにこやかに手を振っている。
「……行くか。喋るような魔物がいるのは、やはりメルド湖沼地帯だろうな」
 出発地であるフェルトリア連邦の中央都市フェリアから、東地区の街アーペまでは街道を馬車で旅することが出来る。寄り道をしないで乗り継げば、7日程度の距離だ。北西の祖国からフェリアまで整備されていない道を何十日もかけて旅した事を考えれば、かなり近い。
 その短い旅程にも、”人語を喋る魔物に、訊いてまわる”という新しい手段をできるだけ試してみたかった。
 かつて300年間みつけられなかった魔女を、探し出した実績のある手段だ。
 人語を喋る魔物というのは、吸血鬼を代表格として難敵であり、非常に危険だ。だからこの手段はちょっとした情報混乱状態にある魔女探し協会には教えられない。実際に自分が検証していない情報を無暗に広める訳にはいかないという理由もある。
 それに目下自分達の目的は、彼らのように”魔女を探す”事ではない。
 仮に彼女のもとに辿り着き、対峙したとして、300年という大きな経験と実力をもつ魔女に勝負を挑んだところで勝ち目はない。だからその魔女の力、そのものについて――300年も生き続け、魔物も天候も操作する、その力の源を、探している。
 アルヴァは乗り込んだ馬車の中、ノーリが淹れてくれたお茶で渇いた喉を潤した。
「あとはアーペに直行でいいですか? アルヴァ。急げば半日もかかりませんよ」
 新しく仲間になったノーリには急ぐ理由はない。アクアの機嫌をみてのんびり聞いてきた。
「ああ。急いで行こう」
「もー、ほんとよ。早くリース様に追いつかなくちゃ」
 アクアが繰り返し呟くこの言葉に、実は、結構安心させられている。
 リースとは、いきなり別れてしまった。
 10年も兄のように一緒に行動していた彼は、実は魔物だったと判った事で逃げるように姿をくらませた。
 魔物特有の暗く赤い瞳。生命力を吸い取って逃げた行動は、吸血鬼にも似ているが、吸血鬼とは違う。
 本性を見せつけられたのに、まだどこか信じられないでいる。
「アクアさんは、本当にリースが好きなんですねぇ」
「それもあるけど、だって私、リース様が魔物だろうと何だろうと気にしないって、言ってない。もしリース様がそんな事を気にして私の前から去ってしまったんだとしたらっ……!」
「いや、気にしているのは確実だろうが、アクアからというより、我々魔女探しという存在から……」
「そんな事はどうでも良いのよっ。ああ、リース様……私がお側についていながら、ひとりで悩んでいたなんて……」
 きゅ、と胸の前で手を握りしめて車窓のお空を見つめるアクアは、そのままにしておこう。
 もとより潔くリースを慕っていたから、長時間離れているうちに落ち込むかと思ったが、この調子なら余計な心配のようだ。
「……アルヴァ、少し、疲れているんじゃありませんか?」
 首を傾げたノーリが、少し覗き込むようにしてきた。
「まさか。アーペに着いてからが大事なのに、今から疲れてなどいられない」
「どこか調子が悪くなったら、いつでも言って下さいね。皆さんがあんまり強いんで、回復役としては少し物足りなかったりするんです」
 そういってお茶のおかわりを淹れてくれるノーリには、どこかささくれた神経が癒される。
 街道の舗装が次第にきれいになって、車の揺れが小さくなる。アーペは、もうすぐだ。
 以前に来たのは何年前だっただろうか。ぐるりと街を二重に囲う柵。一般的な作りだが、そこに付加された魔除けの守護魔法は、アーペ教会の『守護の聖者』によるのもで、彼が街を護り始めてから40年程、ほぼ魔物の侵入を許していないと聞いている。
「……リース様、大丈夫なのかしら」
 訓練された街の退魔師が守る門を通過して、ぽつりとアクアが呟いた。
「前にも来た事がある。『守護の聖者』の付与効力は柵だけで、人に守られた出入口は、魔物とわからなければ出入り可能だ。リースなら問題ないだろう」
 魔女探しとして、単純にメルド湖沼地帯を目指したあの頃を思い出す。旅の中であらゆる魔物との戦い方を、彼に教わった。
「そうよね。リース様は、強いもの」
「……それより、彼が君を拾ったのは、このアーペだ。覚えていないか」
「あれ、そうだっけ? そういえば、そう……?」
「アクアさん、拾得物だったんですか?」
 そんなことを言って首を傾げたノーリに、彼女は笑顔で頷いてみせた。
「なんか私、気付いたらまわりが魔物だらけで、何してたかも分んなくて。そしたらリース様が助けてくれたの。あれって、アーペでの事だったのね」
「正しくはメルド湖沼地帯の入り口のあたりだったが……結局君を拾ったことで、リースはそれ以上湖沼に入ろうとしなかった。今思えば、正しい判断だったな」
 いま協会では、メルド湖沼地帯には『上空から入れば魔女のいる土地に行ける』という情報が広まり、魔女探し達が一斉にそこへ向かった。
 その成果はまだ聞かないが、昔、リースと一緒に行ったあの時、重傷のアクアと出会わなければ、自分たちも無為に湖沼地帯をさまよう羽目になっていただろう。
 アクアもそうして重傷を負いながら、何とか抜け出してきた魔女探しのひとりに違いなかった。
 ”メルド湖沼地帯”は、記憶を失うほどに厳しい、魔物だらけの土地だということだ。
 門を通過してしまうと、急に街としての空気が漂ってきた。守護の柵が、魔物と人間の活動圏を、見事に隔てている。丘を越え、緑色の屋根が斜面に連なる低層の街並に入った。このアーペが、多くの魔女探し達の旅の始まりともいえる場所だ。
 魔女の始まりの地であるメルド湖沼地帯に隣接し、どれだけ必死に探索しても見つからないからと、彼らが世界中を旅する契機になった。まさか、長い時間の後に、結局魔女はここにいる、という事になるとは、歴代の魔女探し達は思いもしなかっただろう。
 魔物と対峙しながら生活する為に発展した機工技術が、この街の経済水準を、中央都市と遜色無いものにしている。
 見た事のない作りかけの機械があちこちに無造作に置いてあるのをみると、興味をそそられる。そういう観光地としても、知名度が高い。
「それにしても、魔女探し達の姿がありませんね。もう皆湖沼へ出発してしまったんでしょうか」
「皆、物凄い勢いで首都を出ていったものね」
 中央都市からの街道の轍跡は本当に酷かった。特に整備が行き届いていなかった場所などは、車輪が溝にはまりかけるほどだった。
「あのー、教会前は急斜面なので、いつもアーペのお客さんは広場に下ろしてんですけど、そこでいいですかー?」
 馭者の提案に、そういえば前に来た時もそんな場所に着いたなと思い出す。
「ああ、構わない。その近くに魔女探し達が集まっていそうな場所を知っているか」
「それなら『待合い酒場』が昼からやってますよ。大抵の人はまずそこで一息ついてますね。広場の端にありますから、すぐにわかりますよ」
 馬車が平坦な場所に出ると、そこは緑の植栽が豊かな広場だ。中央の植栽に『技術の街アーペ』と彫られた見事な石柱が建っているのをみると、ここが観光地としても潤っているのが、よくわかる。
「やっと着いたぁ! ほらアルヴァ、ノーリも、早く行こうよ!」
 ころがるように馬車から降りたアクアがいつの間にか全員の荷物を抱えていた。魔法使いの細腕で、よく持ったものだ。急かされるままに馭者に代金を払って馬車を降りた。
 彼女は一人でさっさと目立つ看板の『待合い酒場』へまっしぐらだ。
 一緒に追いかけようとしたノーリが、隣でイタタと言いながら腰をさする。
「いやぁ、馬車に乗りっぱなしだと、何だか背中にきますね。僕も少し途中で外に出れば良かったかな」
 見た目の年齢に似合わないような事を言う。
「そうだな、帰りはそうすると良い」
 ポンとノーリの背中を叩いて、先に酒場に入ってしまったアクアを追い駆ける。荷物には大事なものが入っているから、アクアが持っているとはいえ出来るだけ手元に持っていたい。
 『待合い酒場』の中は意外と広い。一瞬そんな気がしたのは、他に客があまりいないからだろうか。
 年季の入った落ち着いた雰囲気の店内を見回して、そういえば前に来た時もリースとここに寄った気がすると、すこしだけ思い出す。あの時は目的地に行く事ばかり考えていたし、帰りにはぐったりしたアクアを抱えていたから、あまりこういう風にまわりを見渡す余裕が無かった。
「やあやあ、遅かったなぁ。もう皆行っちまったぞ。ようこそ、即戦力よ!」
 朗らかなよく通る声に迎えられて、びっくりした。
 茶色の酒を飲みながら近付いてきた初老の男の顔に、なんとなく見覚えがある。
 技工士のくたびれた作業着姿だが――それにしても、酒臭い。
「おじさん、黒い長髪が印象的な魔女探しの男性がここに寄りませんでした?」
「黒い髪の男? いや、わかんねぇよ。一斉に大勢の魔女探しが押しかけて来たからなぁ。それより嬢ちゃん、荷物重いだろ。そのへんに置いて座りな。飲むか?」
 やっぱりそう簡単には見つからないかぁと言って、アクアが無造作に置いた荷物から目を離さないように、気をつける。
 他にいる客は、どうやら地元の人間だけのようだ。
「本当に一人残らずメルド湖沼地帯に向かったんですか? ガラガラですね」
「おうよ。上空から入るとかで、大層意気込んで行ったぞ。こっちも急いで対応したぜ。何しろ飛行技術なんて初めてだったからよ。まぁそれは何とかなった訳だが、下手にあっちの領域を刺激して、厄介事にならねぇかだけが気掛かりでな。それで、若い奴らをあっち側の警戒に当たらせてんだ。偵察だけだとか言ってたが、果たして何人帰って来れるかね。じゃなきゃ赤字だぜ。まぁ何か飲めよ」
 気持ちよく酔いがまわっているんだろう。
 聞きたい事を勝手に喋ってくれた礼に、麦酒を注文する。
「あれ、アルヴァは麦酒なんですね。北のリュディア王国といえばワインを飲む人が多い印象なんですけど」
 ノーリにそう言われてから、そういえば国では赤い酒を傾けている人間が多かったような気もする。いつも酒場に入る時はリースと一緒だった。彼の注文するものと同じものを何となく選んでいたから、酒場に入ったらとりあえず麦酒を注文するようになっていた。運ばれてきた白い泡の杯が3杯で、少し戸惑う。
 アクアが酒を飲んだところを、まだ見た事がない。
「まぁ座れや。長旅だったんだろう? まずはお疲れさん。一息ついてから動くといい」
 彼に勧められるままに麦酒を口にしたアクアの顔が、なんともいえない不思議そうな表情になった。
「ははは、喉でぐっと飲むんだよ! 口の中で味わったって苦いだけだ。おい兄ちゃん、美味しい飲み方をちゃんと教えてあげろよ。酒嫌いになるなんて、絶対に勿体無いからなぁ」
 それより、アクアに酒を飲ませて良いんだろうか。それも心配だ。
 隣で麦酒を一気に飲み干したノーリが、一息ついて、美味しいですよと笑顔でいう。
「……ところで、魔女探し達がメルド湖沼地帯に入ってどのくらい経ちましたか?」
 自分は少し麦酒で唇を潤す程度で止めておく。
 技術者が飛行技術を完成させて上機嫌でここにいるのなら、出発から大きく日時が経っている訳ではなさそうだ。
「日の出から出発していったが、何しろ徒歩じゃなくて飛行機械を使ったからなぁ。どのくらいの速さでどれだけの距離を飛べたんだか、俺も奴らの帰りが待ち遠しいよ。飲んだら様子見に行ってみるか? 遠くまで飛べてれば、今日は誰も帰って来ないだろうがね」
 偵察の結果が帰還者によって協会に情報共有されるのであれば、わざわざ後をついて行くことはない。しかし、彼が繰り返し喋る飛行機械の技術がどういうものなのか、気になってきた。もしかすると、普段の移動手段にも使えないか――。地面の舗装環境を気にしないで移動出来れば、どんなに楽だろうか。
「行く行く~! 早く行こうよ~。ここでのんびりしてても~リース様は見つかんないわ~!」
 アクアの声の抑揚が少しおかしい。2杯目に入る前に早々に出た方が良い。
「おいおい、着いたばっかりだろ。少し休憩して――」
 ふと彼の目に冷静な色がさしたのを、見逃さなかった。トンと杯を置いて、まっすぐ立ったこの男に続き、席を立つ。
「兄ちゃん腕は立つ方だな。今すぐついて来て欲しいんだが、構わないかね」
 小さく頷いて、荷物を取る。
「え? 何? 行くの? 私も~!」
「アクアさん、代金を払ってから出ましょうね」
 ノーリが酔っ払いに常識を思い出させているうちに、小銭を机に置いてサッと出て行った男の後を追う。
 ついさっきまで朝から飲んでいた人間とは思えない足取りに導かれて、夕暮れの近付く丘の街並みを駆け出した。
◇◇◇湖沼地帯からの魔物◇◇◇
 街全体に、どこからか低い警報音が響き渡っていた。住人はいそいで家屋に入り、扉を閉ざす。
 流石、湖沼地帯と隣接している街というべきか、異様な光景だ。
「一体、何が起きているんですか?」
「街の柵が壊れた場合の警報だ。やべぇな」
 そこに、聖使姿の少女が馬で坂道を駆け登ってきた。
「聖者様! 魔物が多すぎて結界外部が突破されました!」
「やっぱりか。馬、借りていいか」
「勿論です、急いで下さいっ」
 少女が転がるように降りるのと入れ替わりにサッと騎乗した作業着の男が、手綱を片手に手を差し伸べてくる。
「……聖衣を着ていて下さい。聖者様。誰だかわかりませんでした」
 荷物を背にまわして、掴んだ手にぐいと引き上げられる。
「あれ、動きにくいんだよなぁ」
 『守護の聖者』バルド=レイフォン。
 彼は悪戯っぽく唇を尖らせて手綱を操る。なるほど見覚えがあったわけだ。
 ゆるやかに駆け出した馬上からは、街の外れで黒雲が立ちこめているのが見えた。魔物特有の嫌悪感に、全身の神経が緊張する。若い奴を警戒に当たらせていたということは、街の退魔師の備えは充分だった筈だ。長年街を護ってきた備えを破るほどの魔物の襲来ということだろうか。
 聖者の駆る馬が街外れの低木林を抜け、メルド湖沼地帯の淵にあたる危険地帯に入った。
 湖沼地帯に満ちた暗雲が境界地帯である砂地を浸食し、魔物が続々と溢れ出てきている光景がとびこんできた。
 ――その足元に、複数の魔女探し達が、這うように逃げ出してきている。
 街の退魔師も、倒しても倒しても出現する魔物の数に、防戦一方だ。砂地で破られた柵の内側にある二重目の柵を、どうにか守っている。
『地の守護よ、轟け、聞かせよ!』
 よく通る『守護の聖者』の声が、苦しい前線に朗々と響いた。
 二重の柵が、びり、と強烈な光を放つ。それに押し返されるように、百出した魔物も黒雲の中に僅かに退いた。
「聖者様……! 助かりました。でも、どうしたら――」
「お前らは無事か? 転がってる魔女探し達を回収しろ。魔物を倒す事は考えるな!」
 疲労困憊していた退魔師達にサッと血気が蘇った。見事な連携で救命活動に切り替える。
 酒場で寛いでいた人間とは思えない、力強い存在感だ。
「兄ちゃんも手伝ってくれ。救助に邪魔な魔物を防ぐだけでいい。頼んだぜ」
 聖者は馬から降りて、いくつかの守護魔法を唱えながら柵に駆け出していった。放り出された手綱をあわてて拾い、戸惑う馬を宥める。これだけの魔物を前にして逃げ出さないとは、流石、魔物の巣窟の近くで育った馬だ。
「よし、お前、あそこに突っ込んでいっても平気か」
 ぽんと触れた馬首が、落ち着いた温かみを返してきた。手入れされた毛並みを撫でる。
 腰の長剣を抜いて、ひとつ、深呼吸した。
「――行くぞ!」
 ぐんと駆け出した馬の速度を、自分のものにする。
『光よ 宿れ 我が刃となれ』
 魔力を纏った斬撃が魔物の身体を軽々と切り裂く。
 手応えが軽い分、剣を振るう速度が格段に速い。魔女探し達に襲いかかっている魔物を、片端から斬り捨てていく。馬も自分の役割を理解しているのか、倒れている人間をうまく避けてくれる。
 だが、数が多すぎる。魔物も、魔女探しもだ。
 アクアが追いついたのか、時々水魔法の支援がとんできた。それでもキリが無い。退魔師達によって手負いの魔女探し達の半分は回収できただろうか。
 不意に、黒雲がするすると湖沼側へ引きはじめた。
「……なんだ?」
 一見、攻撃の手を引いたようにもみえる。これで収まってくれれば良いが――。
 様子をみていると、足元で倒れていた魔女探しのひとりが小さく悲鳴を洩らした。
「う、あぁ……魔女……魔女がぁぁ…………」
 その、恐怖に染まった視線の先をみる。黒雲が濃く集まった湖沼のふちに、ゆらり、と人影がみえた。
 ――まさか。
 魔物の、赤黒い色を纏った女が、黒雲からうまれるように、スウ、と形を現す。
 同時に再びその両側から、ドッと魔物がとびだしてきた。
 勢いに押され、馬から咄嗟に飛び降りた。倒れた馬を無視した魔物が、まだ残っている魔女探し達に次々と群がっていく。
「くそっ……! やめろ、やめてくれ!」
 女の視線がこちらを捉えた。
 赤黒い、瞳。
 凝ったような、重い魔力。――身体が動かない。
『水よ 我が意に従い 突き抜けろ!』
 強力な水魔法の刃が女に叩き込まれて、白煙があがる。視線からは解放されたが、女の姿も見失った。
「アルヴァ、上よ!」
 アクアの声に上を見るよりも速く、肩を掴まれ後ろにドオッと引き倒された。
 目の前に、魔女の顔があった。けれどその瞳は魔物の色に暗く沈んでいる。
『水よ 我が意に従え!』
 ザッと水魔法の斬撃が横殴りに女を襲う。小さく驚いた声をあげて怯んだ隙に、その拘束から脱出する。間髪を入れずアクアが魔導杖で殴り掛かったのには助けられた。しかしそれはくるりと魔導杖を避け、そのまま振り向きもせずに、湖沼のまわりを縁取る森の中に駆け込んでいった。
「――待て!」
 ぼうっとしている暇はない。
 ここで見失ったら、次に捕まえられるのは、また、いつになるのか。
 背中にアクアの声をきいた気がした。が、まっすぐ女の消えた森に入る。
 対抗策も、なにもない。
 ただ、もういちど捕まえる――。
◇◇◇
 夕闇の迫る森の暗がりに視界を阻まれるが、こんなことは何度も経験している。こういう時、自分の魔法属性が光であることに感謝する。火の魔法と違って自らが目立つことはない。
『光よ 我が目に宿れ』
 ひと呼吸おいて、自分にだけ明るくなった森の中で動くものの姿に目を凝らす。なんのことはない。逃げて行った方向に、そのまま木々をかいくぐって走っていく女の背中をみつけた。
「待て……待って下さい! 俺です! アルヴァ=シルセックです!」
 同じように木々をかいくぐって追い掛けているのに、追いつかない。
 追いかける自分を気に留めるふうでもない背中に、声をあげた。
 ちらりと振り返ったかと思うと、突然、掻き消えた。――いや、その先で、大きな水音が響いた。
 急いでその場に駆けつける。湖沼地帯に向かって流れる小さな水の流れが、いきなり足元を横切っている。これに足を取られたのか。まさかこの浅瀬に流される訳でもないだろう。
 下流に目を向けた瞬間。
 ひた、と背中に冷たいものが触れた。
「アル……ヴァ……」
 小さな声に、身体が硬直する。
 さっき視線に捕われた時と同じだ。だが、固まっている場合ではない。
「俺は……話……を……」
 重い唇をうごかし、振り向こうと力を込めると、さらりと茶色の髪が頬に触れた。
 ぶつ、と聞き慣れない音が頭に響く。
 焼けるような激痛が首筋を貫いて、硬直のかわりに、全身が痺れる。
 首がどうなっているのか分らない。全身から急速に血の気が引いていく。遠くなる意識の中で、かすかにそれを認識するが、もう、どうしようもない。
「――大人しく吸われてやるなんて、お人好しだな、『アルヴァ』」
 低くて優しい声が、聞こえたような気がした。