◇◇◇夢を見る時間の終わり◇◇◇

ー/ー




 若きフェルトリア連邦の総議長――リッド=ウインツ。
 いつもの業務に加えて、外交大使の対応もあって、今日も忙しかった。そこに仕事を頼んでいたセトが成果を持ってきてくれた。いつもは自分が取りにいくのに、珍しく足を運んできてくれた。
 リッドがセトと出会ったは、森の中だった。
 馬車を襲ってきた盗賊団の首領がセトだ。魔法に髪を濡らしたセトが、じっと睨みつけてきたのを思い出す。
 最初は散々な目に遭わされたが、旅で得た頼もしい仲間達のおかげもあって、帰路では彼らを護衛として雇う事で味方に付ける事ができた。決定権をもっていたのは、勿論、首領であったセトだ。
『仲間達の生活を保障すること』
 そう言った真剣な眼差しに、何故か背筋を伸ばされる心地がした。そのくせ彼自身は雇われるのは嫌いだと言って、古本屋をはじめてしまった。盗賊団を解散した後も護衛に雇った男達からの信頼が厚く、彼らとの良好な関係を築く為にも頻繁に交流を重ねるようになっていた。
 セトは何をしていても、不思議と人を惹きつける。
 古本屋をはじめただけあって博学だというのもわかった。人と違う人生経験を積んできており、仲間を安住の地に導いた、集団の責任者だ。
 だから、まだ若い『光明の聖女』に、勉強を教えて欲しいという形で紹介した。

 何気なく近づいてきた、外交大使の護衛の女性。
 すれ違う一瞬、ドン、と隣を歩いているセトにぶつかってきたと思った。
 だがその手に握られていたのは、細い短剣。
 そしてその切っ先は、まっすぐ、セトの胸に吸い込まれていた。
 ドッと周囲の護衛官が犯人を確保した。駆けつけた外交大使の困惑した様子に、とにかく場を落ち着かせる。
 咄嗟に抱き崩れた足元にとめどなく血が流れていく。
 正装の中まで染み込んでくる、零れていくのは、命だ。
 ――どうして、こんなことに――。
 リーオレイス帝国の護衛の人間が、突然にセトを襲った意味がわからない。古本屋の店主が、何をしたっていうんだ?いや、その前は盗賊だった。盗賊だった頃の、怨恨か何かだろうか?それにしても喧嘩を売るでもなく、刺されるなんて――。

「こんな所で泣き崩れている場合じゃありませんよ。とにかく移動させます。リーオレイスの意図が判明するまで、元仲間に知らせてはいけません。逆上しかねない」
 傍についていた緑の制服の護衛が、セトの身体を抱え上げて歩き出す。

 いつもは元盗賊の護衛が緑の制服を着てリッドの警護についているのだが、この階層は公務員である黒服の警護官が目を光らせているため、私兵である彼らは立ち入りを遠慮していた。
 ここにいる緑の制服は、盗賊団とは関係無い昔からの親友だ。
 確かに、常日頃から周囲にいる元盗賊団の護衛達が知ったら、犯人の命が危ないかも知れない。
 涙を拭ってふらつく足元を踏みしめ、どうにか親友をおいかける。
「……そうやって、事実を抹消するのは、よくない」
「その通り。でも、必要です。特にリーオレイスと仲良くするつもりなら」
 良好な関係を築いている護衛達に、嘘をつくような事はしたくない。
 だが、親友は爽やかに正論をつきつけてくる。
「――リーオレイスの意図がわかるまで、だ。本当は俺を狙ったのかも知れないし」
「あれだけの至近距離で間違える筈もないでしょう。不本意ながら、私でも防げなかったし、そんな予兆も無かった。『見つけた瞬間、暗殺を即決した』といった感じでした」
「なんだ、それ……」
「そんな感じってだけですよ。真相は本人から直接お伺いすべきですね」
 それきりふたりで口を噤んだ。
 悲しいのに、悔しくて、口を開くと喧嘩になりそうだ。



(――それに、僕には多分、もうそれだけの時間は、残っていないから)
 あの時。
 ミラノちゃんと喋っていた時、言いかけた言葉。
 どうしてか日々の生活の終わりが迫ってきている気がしていた。
 古本屋の店主として、盗賊だった仲間の人生が変わっていくのを見届けたら、その先には自分の役割はなくなるという直感。仲間達はもう既にそれぞれ幸せに生きていけるようになった。
 ――この生き方は、もうすぐ終わる。
 そんな、漠然とした、感覚。
 だからって、こうしていきなり殺されるとは思ってなかったけど。

 背中を抱いてくれる総議長の泣き顔が、なんだか可愛い。出遭った時は、クソガキが、と思ったものだ。
(……ありがとう……)
 盗賊団を手懐けて、うまく利用してくれて。
 皆を、街で暮らせるようにしてくれて。僕に、皆が幸せになっていくのを、見せてくれて。

 視界が昏くなる。
 息が停まる。
 鼓動が小さくなって、きこえなくなる。
 胸を刺されたんだから、あたりまえだ。




 ――――血。
 失った血は、どこにいったのだろう。
 そうだ。リッドとその護衛に染み込んでいった。
 護衛の名前は、確かユリウスといった。動物の目を借りてあらゆるところから情報を取り、直観力にも優れた、リッドの親友。
 血は、命だ。

 この命に触れたなら、彼らには、資格がある。
 そして、もうひとり――。



◇◇◇可愛い聖女と◇◇◇

 聖女ミラノは、定例である深夜礼拝のために独りで聖堂に膝をついていた。
 満天の星が、キラキラと中庭の水面に輝く。
 旅路に出た魔女探し達には、嬉しい天気だ。明かりの乏しいなかで、急ぎたい者は、星明りの夜道を進む事ができる。聖堂の奥の開け放たれた扉から、冷たくて柔らかい風が、そっと吹き込んできていた。魔女探し達がいなくなってから、静寂が深くなった気がする。今までもこの時間帯は騒々しいとは思わなかったけれど、寝起きしている人数がこれだけごっそり居なくなると、静けさが違った。
 天使像の前でいつものように両膝をついているのに、なんだか眠くなってきてしまう。
 風が、ふと目の前で遮られた。

「――こんばんは。お邪魔するよ」
 どこから現れたんだろう。
 開いているのは中庭の扉だけ。こんな、目の前に来るまで、全然気付かなかったなんて。
「……先生?」
 やわらかく風に揺れる、さらりとした茶髪。見慣れた、ゆるやかな笑顔。
 だけどどうして死人に着せる白衣なんて着てるんだろう。
 そして、どうして、女の子みたいな感じがするんだろう。
「え? どうしたんですか……? いつのまに――」
 折角、こんな遅くに先生が訪ねて来てくれたのに、頭が、ぼうっとする。

「『光明の聖女』……魔物を理解し、解放する。暗い魂の、希望の光。やっと現れていた――」
 する、と先生が延べた指先が、私の手とぶつかるように絡まる。
 深い緑色の瞳に見つめられて、どうしたらいいのか、わからない。
 先生の瞳って、緑色だっただろうか。
 軽く握り込まれた指先の、きれいな、細い線――。
「あ……の……」
 いきなりドキドキしてきた。
 これって、どういう状況なんだろう。
 目の前にいるのが男の人なのか女の人なのかも、自信がなくなる。
「フェイの本は、読めた? ひねくれ者だから大変だったでしょう」
「あ……あれ、先生の本だったんですか。えっと、簡単に内容を紙に書いて貰って……」
 持ち主が、開けなかったから譲って貰ったって、言ってなかっただろうか。
「……先生って、女の人……?」

 ふ、と視界が暗くなる。
 吐息が頬をくすぐって、やわらかい体温に唇を塞がれていた。
 ぼうっとしていた頭が、白く、とける。
「――ふふっ……可愛いね。沢山学んで、考えて、行動して、強くなってね。貴女の光が、世界の闇を、照らせるように……」
 唇から零れる小さな呟きが、直接、身体の中に入ってくる。
 いきなり、どうしてそんな事を言うんだろう。
 なんで、こんなに――……

 なめらかな指先がほどけると、さっと不安が立ち昇ってきた。
 離したら――離れたら、どこかに、消えてしまう。
「待って! セト先生。あなたは、私の、先生なんですっ……!」
「……うん。だから、先に行くよ。焦らなくていい。一歩一歩、追いかけておいで」
 ざあ、と中庭の木々が緑の風に揺れる。
 白衣姿が、やわらかな星明りの中に、とけるように見えなくなっていく。

「……だめ、行かないで……――セト先生―!!」
 咄嗟に中庭に飛び出していた。
 草の中のせせらぎに足を取られて、バシャンと転ぶ。
 私の声を聞きつけた誰かが、素早く駆けつけてきた。

「聖女様! 今呼んだ名前は……?!」
 肩を掴んできたのは、アルヴァだ。
 彼の驚いた顔に、びっくりする。
「セト先生が……いなく、なっちゃったんです……。死人の白衣を着てて……それと……」
「セト=リンクスという男性――。それが、女性にかわっていた?」
 小さく頷いて、深く、息をつく。
 肩を掴んでいるアルヴァの手が、小さくふるえていた。
「……こんな近くに……。どうして、気付けなかったんだ……」
 アルヴァの声で、ゆるやかに、醒めた頭がやっと働きはじめる。

 ごく普通の人間として存在していた、世界を支配する魔女――。
 さっき目の前にいたときに、どこか、頭の中で気付いていたのに、私には引き留められなかった。
 意地でも握られた手を離さなければ、少しは違っていたんだろうか。
 凄い力を持つ魔法使いが、そんな事で捕まえられる訳はないのは、わかってる。
 だけどまだ、あの細い指先の感触が、残ってる。
 優しい唇の体温が、残ってる。
 明日、古本屋さんを訪ねて行けば、いつもと変わらない姿で、何の事?って言われる。
 そうならいいのに。これは、たぶん、そうじゃない。

「――聖女様。聖女様は、あの魔女が嫌いですか?」
 ぽつ、と小さな声がおちてきたのに、強く首を横に振った。
 嫌いな訳がない。
 ――こんなに、大好きだったのに。
「……皆は、魔女を憎む。探し出して、倒そうとする。……殺そうとする。それが魔女探しです」
「あの人はっ……悪い人なんかじゃ、ないじゃないですか。戦争を止めただけ。……なのに、なんでっ……」
 それで、起きた悪い事を全部、あの人のせいにされて、憎まれるなんて、違う――。
 そう言いたくて、喉がつまって、声にならない。
 見上げたアルヴァの瞳から、一筋、涙が流れていった。
「……だから、俺は、探し出します。絶対捕まえてみせます。そうしたら、証明できる。300年間の誤解も、絶対にとけない事なんて無い。あとから歴史が修正される事なんて、珍しくない」
 表情のすくない、真面目な魔女探しだと思ってた。
 こんなに、烈しい切なさを抱えていたなんて、知らなかった……。
「……追いかけておいでって、言われたんです。アルヴァさん……私にも、お手伝いさせて下さい」
 会いたい。
 もう一度、あの人と会いたい――。

 アルヴァが、優しい顔で頷いてくれるのを見て、やっと少しだけホッとした。
 それから、今日の出発じゃなかったのかな、とようやく気付いて、ごしごし目を擦る。
「今日は、皆さんと一緒に出発しなかったんですね。荷物はできてたみたいですけど……」
「リースが急用とかで、出発する時になってから出掛けたんです。俺達は魔女探しとしての活動以外にも、リュディア王国の指示を受ける事がありますから。……しかし、結果として、よかった。こうして聖女様と、話が出来て……」
 ――彼は、ずっと、黙って耐えていたんだ。
 皆が魔女を憎む中で、ひとり、それを哀しみながら、力を貸してくれていた。
 それは、凄いことだと思う。


 夜が明けて一番に、平民服の総議長様が教会に駆け込んで来た。
 お互いに目が赤い理由は、やっぱり先生の件だ。
「――リーオレイス帝国の護衛は、魔女だから、正体を現してうまく逃げられるのを防ぐために即断で刺した、と言っていました。セトは、男だし、元盗賊団の仲間も大勢いる。だいたい、俺の……目の前で……絶命したのは、はっきり確認したのに。それが安置所から、姿を消した――」
 それでやっと、死人の白衣を着ていた理由がわかった。これが魔女の話じゃなければ、物凄く怖い話になる。いや、魔女に接していたっていう事事態が怖い話になるのかもしれないけど。
「……それで、そのあと、私の所に来たんですね。すぐにどこかへ消えてしまいましたけど……。魔女に会ったことがある人にも確認しましたが、先生が魔女だったのは間違いじゃないです。外交問題に障害の出ないようにしてあげて下さい」
 こういう事をスラスラ言える自分が、不思議だ。
 落ちるような眠りから醒めてみると、朝から、感覚が澄み切って、頭もよく回るようになっていた。なんだか魔力も余裕がある。力が漲る。哀しみ以上に、頑張らなきゃという気がしてくる。
 アルヴァっていう味方がいてくれたのが、ものすごく、大きいかもしれない。

 協会の情報と事の顛末を総議長様に説明すると、目を擦りながら、やっと納得したふうだった。
「俺も、セトが……魔女が、一般に言われているような奴じゃないっていうのは同感です。盗賊だったから悪い事はしてたけど。それと人間味とは、また別だ。だから、勉強の先生として紹介したんです。……もう少し早く、協会の情報共有が出来ていれば、どこかで気付けたかも知れませんね」
「あ……それなんですけど」
 為政者の立場だけに絞られた、古い歴史の閲覧。
 その伝統をどうにか出来ないのか。制限されているのは、何か理由があるのか――。
 伝統の理由はは、総議長様にも、よくわからないようだった。
「少し、確認してみます。問題が無ければ、少しずつでも自由に見られるように工夫しましょう。今回の件に限らず、知らないよりは、知っておいた方が解決できる事は増える筈ですから」
「お願いします。……このまま、礼拝に出ていかれますか?」
「……いえ。セトは、居なくなったけど、死んでいない。冥福を祈る必要は、ありませんから」
 駆け込んで来た時は憔悴していた顔に朱が差して、元気をみせたこの国の盟主に、ほっとした。
 ――そう。
 こうして、人の胸に、光を灯す事ができると、本当にうれしい。


◇◇◇洞窟古書店◇◇◇


 『洞窟古書店』
 フェリアの通りのはずれにある小さな書店は、小奇麗に店仕舞いしたままだ。もしかすると何事も無かったように、店主が現れるかも知れない――そう、薄い期待をもって、店の様子を見守っていた。
 だが、昼になっても、店主が現れることは、なかった。

 物陰から古書店の様子を見守るアルヴァに、アクアが大きな欠伸をする。
「ふぁぁ……もういい加減諦めて、本屋さんの中、調べようよ。官公庁から合鍵貰ったんだから、堂々としてればいいのに。そんなに慎重にする必要、ないでしょ?」
「……そう、だな。こうしていても、仕方無いか……」
「もう、なんでそんなに慎重なのよ。殺されたのは聖女様の先生だったんでしょ? 他に怪しい人が出入りする訳も無いし、私もリース様と一緒にあの古本屋さんに行ったけど、凄く普通の店主だったわよ?」
 アクアには、古本屋の店主が魔女だったことは、言っていない。
 突然官公庁で殺害されてしまった、聖女の先生。
 彼が例のフェイゼル=アーカイルの本の出所だった事もあり、他にも何か重要な資料がないか、確認するという話になっている。
 単独行動はいつもの事だが、リースは結局、戻っていない。古本屋の店主について、セトと会ったことがあるリースは気付いていた筈だ。そういえば急用があると言い出したのは、官公庁で事件が起きた頃だった。
「アルヴァ? もう、本当にどうしたの? なんで緊張してるの?」
「――何でもない。本屋に入ろう」
 合鍵で本屋の扉の鍵を開こうとして、もう開いている事に気付いた。
 施錠を忘れたのか、誰かが、いるのか。小さく息をのんでから、そっと店の扉をあける。
 古い紙のにおい。
 薄暗い古本屋の本棚は綺麗に整頓されていて、店主が本を大事にしていたことがわかる。
 ――ここに、魔女――あの人が、いた。
 魔女探し達と行動を共にして、ずっと、探していた。
 あと少しで――本当に、あと少しで、会えたかも知れない所まで、来ていたんだ。

 入口から差し込んだ明かりに薄暗く照らされた本棚の間で、黒い人影が、古書をひろげていた。
「リース……!」
 アルヴァは、おもわず厳しい声をおとした。
「どうして、教えてくれなかったんです。フェイゼルの本は、あの人が持っていたと――早く、捕まえていれば――レギナさんに見つからなければっ……!」
 それにリースは目をあげて、淡々と、古書を片付けはじめた。
「……セト=リンクスは、平和に暮らしていた。そのままにしておくのが一番だったんだ。その方が、混乱を招かない。だが、リーオレイスの護衛にみつかったのは、運が悪かった」
「……俺にも黙って、ですか」
「教えれば、放っておけないだろう。お前は」
 リースは、アルヴァの魔女へのこだわりを知っている。
 10年前、無理矢理アルヴァを監視の任務から引き離して連れ帰ったのは、彼なのだから。
 それにしても、やはり、セトがレギナに殺されたという情報は、得ていたようだ。
 昨日から戻っていないのに、どこで知ったのか――。
「ちょっと、何の話? ほらアルヴァ、他に資料が無いか、見に来たんでしょ。リース様は先に来てたんですねっ! 遅れてごめんなさい♡ 今読んでたの何ですか??」
 少し押し黙った隙に、アクアが割り込んできた。
 リースがひろげていた古書は、古語で書かれているものだ。
 古語が読めたのか――というのも驚きだが、それは、今この状況に関係があるのだろうか。
「魔法の派生についてだな。言葉の意義による呪術が根本としてあり、それと魔力を合わせて周囲の自然環境を操作する。魔女は、そもそも戦場で活躍するほどの魔法使いだったのだろう。であれば、その力の源が、魔法の探求の過程にある可能性はあるだろう」
「なるほど! 流石リース様♡ 私そんなの考えた事無かったです~」
 割り込みによって、完全に話が逸れてしまった。
 確かにそういう事を調べに来た訳だが――。

 灰色の猫が、開け放した古書店の入り口からスルリと入ってきた。
 ぴょんと店主の机に飛び乗り、堂々と丸くなってくつろぎだす。この猫は確か、『光明の聖女』が抱いていた猫だ。
「こら! 先に勝手に……!」
 薄紅色の私服を着た『光明の聖女』が、慌てて猫を追い駆けて古書店に入ってきた。
 聖女特有の丈の長い聖衣を着ていない彼女は、ごく普通の可愛い女の子にしかみえない。今日の予定は聖女様には伝えてあった。仕事の合間をみて、駆けつけてきてくれたらしい。彼女にとっても、あの人がいたこの場所は、特別なものだろう。
 しかし、本屋に足を踏み入れた所で、ピタリと止まる。
 その顔が、真っ青だ。
「聖女様! 可愛い服ですね、一瞬誰だかわかりませんでした。……聖女様?」
 アクアが、ぱっと彼女に駆け寄っていった。

 すう、と聖女の右手が上がって、ふわりと白い魔力のようなものが滲む。
『――消えて――……!』
 空間が、ゆがむ。
 その先に立っていたリースから、ドッと煙が噴き出した。
 赤黒い――魔物の気配の、かたまり。

 何が起きているのか一瞬分からなかった。苦しげに呻いたリースの身体が、白くなっていく。
「やっ……やめて……!」
 アクアが聖女の手を押しのけて、白い力が解けるように散る。
 そのまま2人で崩れるように倒れ込んだ。
「リース様が苦しんでるの。お願い、やめてくださいっ……!」
 びっくりしたように少し目を瞬かせた聖女は、そっと身を起こして、リースをみた。
「――リースさん、あなたは……」
 蹲ったままのリースを、そっと窺う。
 苦しげに顔をあげた彼の右目が、魔物の色に、暗くぼんやりと光っていた。
 息を、のむ。
 10年も一緒にいて、全く気付かなかった――いや、不思議だと思う事はよくあった。
 素手で剣に打ち勝ち、魔物を切り裂く。そして猫のように素早く、しなやかな動き。
「……魔物……」
 ぽつ、と誰かが呟いた声に、リースがふらりと後退る。ドンと背中を本棚にぶつけて、バラバラと古書が崩れ落ちた。
「俺は……まだ……」
 いつもより低い声が、掠れた息を吐いた。白く硬直しかけた身体の色が、うっすら血が通っていくように、黒に、戻る。
「リース様っ……」
 ぱ、とアクアが傍に行こうとした瞬間、それをかわすように床を蹴って一気に扉の前まで跳躍したリースは、あっという間に外に出て行ってしまった。
「えっ……ちょっ、待って下さい~!」
 アクアが急いで追い駆けていくのを、ただ立ち尽くして見送る。
「リースが……」
「あっ……あの、ごめんなさい。いきなり、こんな事して――」
 聖女の慌てた声に、ぼうっとした頭が醒めた。
「い、いえ。いつ気付いたんですか」
「実はお会いした時からずっと、何か怖いなって思ってたんですけど……今入ってみたら、魔物の気配が凄くしてて……。あの、やっぱり皆さん、ご存じなかったんですよね……」
 それは、そうだ。魔物と一緒に魔女探しをしているなんて、おかしいだろう。魔女の手下だったのか――いや、それならクレイさんが顔をみて気付く筈だが、手下が一人じゃないとすれば――
 不安気に覗き込んでくる、可愛い私服姿の聖女。彼女を不安にさせる訳にはいかない。混乱した感情を、そっと、鎮める。
 リースの言動に、魔女探しを陥れるようなものは、10年、まったく無かった。積極的に魔物退治だってしていたし、帝国に於いては国王の信頼も厚い。魔物だから敵だ、というのは、魔女だから悪だ、という先入観にも通じるものがあるのかも知れない。
 それにしても、こんなに長く一緒にいて、気付けなかったとは。
 部屋の片隅に逃げていた猫が、ぴょんと机の上に乗った。散らばった紙をガサガサと踏むのを、聖女が慌てて抱き上げる。
「私、リースさんを探してきます。今ならまだ気配が分かるかも。アルヴァさんは、ここにいて下さい。私がいなければ、逆に、リースさんが戻ってくるかも知れません」
 聖女がそう言ってぱっと飛び出して行ったのを見送り、手近な椅子に腰をおろした。
 リースが、魔物……。
 まだどこか、信じられない。

『――あの魔物は、魔女とは無縁の存在だ』
 傍らの荷物の中から、ぼうっと仄かな青白い光が零れる。
 古書店の薄暗い本棚のあいだに、唐突に、本に宿った魂――フェイゼルが姿を現していた。
「……驚かさないで下さい。フェイゼル」
 東地区への出発にあたり聖女に返して貰った本を、荷物の中に入れて持ってきていた。
『君と同じ時に一度会っただけ。魔女の支配下にはなく自我を持つ、珍しい魔物だ』
 フェイゼルは、俺を、知っているのか。だから自分一人だけになったときだけ出現するのだろうか。昔一緒に行動していたとき、セトはこの本を持っていなかった。という事は、フェイゼルは、離れていても魔女の状況がわかる、ということだ。
「――今、魔女は何処にいるんです」
 低く声をおとしたのに、フェイゼルは黙ったまま眉を寄せた。介入しない、と言いたげだ。
『……知った所で、何も出来まい。魔女は私を回収しなかった。仮に私が彼女の居場所を示唆したとしても、何の脅威にもならないということだろう』
「では、どうしたら良いんです?」
『魔女探し達には、彼女を倒す事は出来ない。――例えばこの国の盟主。例えば隣国の王。世界を、人々の生活を変える事の出来る影響力。その善政が行き渡り国同士を繋いだ時、魔女の支配は形を無くす。歴史的観点でみれば、それが、真に魔女を倒すという事だ。その点からいえば、この国の盟主は、無自覚ながら平穏の中に彼女を捕らえ、勝利していたといえる』
 思わぬ言葉に、言葉がみつからなくなる。
 これが、歴史家の考え方かのか。
「……だとしても、魔女は一人の人間だ。社会そのものではない」
『社会、そのものだよ。例え彼女を今倒せたとしても、戦争が復活するだけで、人々は世界の理不尽を、別の魔女を作り上げて、そのせいにするだろう。それが、人間の歴史だ。それを断ち切る事が、彼女の……』
 ふ、と言葉がとまる。
 そっと目を伏せて、フェイゼルは、はじめて少しだけ、笑った。
『……喋り過ぎた。話に火が点くと、いけないな』
 そのままスルリと掻き消える。
「フェイゼル! 今重要な事を言いかけましたね。きちんと最後までお話下さい!」
 急いで荷物の中から本を取り出して、直接呼びかけてみたものの、しんと静まり返ってしまった。
 確実に重要な事を聞きそびれた。次に出てきたら、真っ先に確認する必要がある。

「……アルヴァ」
 いつのまにか黒い影が、扉にもたれていた。逆光だがリースであることは間違いない。
「――助けてくれ――」
 リースらしくない言葉に、おもわず息をのむ。
 咄嗟に駆け寄ると、倒れ込んできた身体を受け止めきれず、ドッと床に倒された。
「っ……どうしたんです、貴方らしくない――」
 こんな、肩で息をしているような姿は、見た事がない。リースは強い。いつも助けられてばかりで、助けを求められた事なんて、なかった。弱っている筈なのに、腕を掴んでくる手の力が、強い。
 すぅ、と全身から何かが流れ出すような感覚と共に、急速に力が抜けていく。
 視界が、昏くなっていく。
 リースの黒髪が目の前にあって、必死に押しのけようとするのに、力が、入らない。
「な……にを……」
 まずい。
 このままでは気を失う。
 意識が、身体の感覚が、白くなっていく――。
 意識を落とす直前で、ピタリと症状が止まった。
 そっと、リースが顔をあげる。弱っていた様子は消えて、いつもの調子を取り戻したようだ。
「……すまない。俺は――ひとりで、捜す。付き合せて、悪かった」
 重くのしかかっていた身体が離れて、冷たい風が流れる。
 自由になったのに、全然身体が動かない。
 待てよ、と言いたいのに、声が出ない。
 うわ言のような音が少し零れて、リースの気配を追い駆ける。
 扉が閉じたのを足元で感じたのを最後に、視界が昏くなった。


『命の光よ 集い来たれ』
 いつのまにか知らない人間が何度か回復魔法を唱えていて、目を擦った。
 どのくらい気を失っていたのだろう。
「あぁ、良かった。入り口で倒れていたので驚きましたよ」
 知らない、丁寧で和やかな声。
 怠さの残る頭を抱えてゆっくり起きると、薄い金髪の若い男が、柔らかい微笑でこちらを覗き込んでいた。
「店主は留守ですか? 久しぶりに寄ってみたんですが」
 薄暗い店内に目をあげた男は、旅装姿だ。
「……店主は事情があり、不在です。……回復魔法を、ありがとうございます。あなたは、魔女探しですか?」
「はい。協会の噂を聞いてフェリアに到着した所です。医者の所までお送りしましょうか?」
「いや――」
 日差しの傾きから、あまり時間が経ってないのをみて、机に縋りながらぐいと立ち上がる。
 ガタン、と腰にしていた長剣が床に転がる。
 そういえば、リースに対して剣を抜くという発想自体が、出てこなかった。

「――ごめんなさい、見つからないです! こちらはどうですか? ……あれ?」
 走って戻ってきた聖女は、知らない人間がいる状況に、少し首を傾げた。
「仰った通り、リースが一度戻ってきました。力を吸われてたようで、倒れていたんですが、たまたま来店した彼に回復魔法をかけて貰って」
「えっ? 大丈夫なんですか、アルヴァさん」
「何とか……一体、何だったのか……」
 カタ、とアルヴァの長剣を拾った男が、首を傾げた。
「魔力と生命力が消耗しているようでしたね。それは、何者なんですか?」
 私服の聖女に視線をむけるが、彼女も、申し訳なさそうに首を振った。
「――わかりません。私には、魔物としか……。普通の魔物は『命』を求めます。魔力と生命力を持って行ったのなら、命そのものよりも、『命の持つ力』を求めたのかもしれないです」
「……それにしても今まで、こんな事はなかった……」
「うぅ……ごめんなさい。私がいきなり力を使わないで、ゆっくり事情をお伺いできれば……」
「いや、それでははぐらかされるだけだったでしょう。俺達もまさか一緒に行動しているのが魔物とは思いもしませんでした。それに、目的は同じです。魔女の力の源を調査する。同じ所に行きつくなら、まだ会う機会はある筈。元々単独行動の多い勝手な人ですから、捕まえれば良いだけです」
 自責のいきおいに駆られて目に涙をためてしまった聖女に、少し慌てる。
「魔女の力の、源……?」
 協会にまだ合流していない魔女探しには、情報が共有されていない。
 首を傾げた男から落とした剣を受け取って、簡単に協会の動きを説明すると、ぱっと顔を輝かせてきた。
「それは、凄いですね。よく思いつきましたねぇ」
 自分の力を向上させようとは思っても、相手の強さの原因については、誰も注目してこなかった。
 言い出したのは、リースだ。
 はじめから、魔女ではなく、それが目的だったのだろうか。
「ところで、アクアを知りませんか?」
「わ、わかりません。まだ探してるのかも。その辺りを見て来ます!」
 路上で同じように倒れているとしたら、回収しなくてはならない。再び駆け出していった聖女に、頭が下がる。

 深く、息を吐いた。
 ――魔女と、力の源と。
 また、探さなくてはならないものが、増えるとは。

 聖女がおいていった猫が、男の荷物のまわりをぐるぐるまわる。
「あ、さっき買った保存食を見つけましたね。賢い仔ですねー。ちょっとだけですよ」
 荷物から香辛料を片面にきかせたパンを取り出して、白い部分だけをちぎって猫に与えた。
 彼は猫が夢中になって齧り付くのを見守ってから、ぐい、と残りのパンを渡してきた。
「魔力はともかく、生命力は食事で補えます。お腹、空いてるんじゃないですか?」
 言われてみれば、空腹時の気分の悪さに似ている気がする。
 猫がパンを完食して満足そうに床の上でゴロゴロとお腹を見せるのを眺めて、香辛料に染まったパンを少しだけ齧ってみる。
 フェリアの食糧は、大体旨い。おもわず全部食べ切った。
「よく気付きますね……。ありがとうございます」
「いえいえ、元々僕は回復役ですから」
 世話を焼くのが好きなのか、親切そうな顔を、はじめてきちんと見た。
 誰かに似ている気がするが、よくあるお人好しの顔、という気もする。

 ノーリ=カークランド。
 リュディア王国郊外の教会の聖使だったのが、治癒魔法を沢山使いたくて、魔女探しに混ざった、という、一風変わった動機をさらさらと喋った。
「――つい最近仲間達が解散してしまいまして、いまは一人旅なんですよ。もしお邪魔でなければ、その、力の源を調査しに行くのに、ご一緒しても良いでしょうか?」
 話をしながら何個かパンを貰ったところで、笑顔でそういう事を言われると、断りにくい。
 ノーリは、なかなか処世術に長けているところがあるようだ。
 いつも一緒だったリースがいない状況。賑やかなアクアと二人旅になるよりは、まだ良いかもしれない。


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 最初は散々な目に遭わされたが、旅で得た頼もしい仲間達のおかげもあって、帰路では彼らを護衛として雇う事で味方に付ける事ができた。決定権をもっていたのは、勿論、首領であったセトだ。
『仲間達の生活を保障すること』
 そう言った真剣な眼差しに、何故か背筋を伸ばされる心地がした。そのくせ彼自身は雇われるのは嫌いだと言って、古本屋をはじめてしまった。盗賊団を解散した後も護衛に雇った男達からの信頼が厚く、彼らとの良好な関係を築く為にも頻繁に交流を重ねるようになっていた。
 セトは何をしていても、不思議と人を惹きつける。
 古本屋をはじめただけあって博学だというのもわかった。人と違う人生経験を積んできており、仲間を安住の地に導いた、集団の責任者だ。
 だから、まだ若い『光明の聖女』に、勉強を教えて欲しいという形で紹介した。
 何気なく近づいてきた、外交大使の護衛の女性。
 すれ違う一瞬、ドン、と隣を歩いているセトにぶつかってきたと思った。
 だがその手に握られていたのは、細い短剣。
 そしてその切っ先は、まっすぐ、セトの胸に吸い込まれていた。
 ドッと周囲の護衛官が犯人を確保した。駆けつけた外交大使の困惑した様子に、とにかく場を落ち着かせる。
 咄嗟に抱き崩れた足元にとめどなく血が流れていく。
 正装の中まで染み込んでくる、零れていくのは、命だ。
 ――どうして、こんなことに――。
 リーオレイス帝国の護衛の人間が、突然にセトを襲った意味がわからない。古本屋の店主が、何をしたっていうんだ?いや、その前は盗賊だった。盗賊だった頃の、怨恨か何かだろうか?それにしても喧嘩を売るでもなく、刺されるなんて――。
「こんな所で泣き崩れている場合じゃありませんよ。とにかく移動させます。リーオレイスの意図が判明するまで、元仲間に知らせてはいけません。逆上しかねない」
 傍についていた緑の制服の護衛が、セトの身体を抱え上げて歩き出す。
 いつもは元盗賊の護衛が緑の制服を着てリッドの警護についているのだが、この階層は公務員である黒服の警護官が目を光らせているため、私兵である彼らは立ち入りを遠慮していた。
 ここにいる緑の制服は、盗賊団とは関係無い昔からの親友だ。
 確かに、常日頃から周囲にいる元盗賊団の護衛達が知ったら、犯人の命が危ないかも知れない。
 涙を拭ってふらつく足元を踏みしめ、どうにか親友をおいかける。
「……そうやって、事実を抹消するのは、よくない」
「その通り。でも、必要です。特にリーオレイスと仲良くするつもりなら」
 良好な関係を築いている護衛達に、嘘をつくような事はしたくない。
 だが、親友は爽やかに正論をつきつけてくる。
「――リーオレイスの意図がわかるまで、だ。本当は俺を狙ったのかも知れないし」
「あれだけの至近距離で間違える筈もないでしょう。不本意ながら、私でも防げなかったし、そんな予兆も無かった。『見つけた瞬間、暗殺を即決した』といった感じでした」
「なんだ、それ……」
「そんな感じってだけですよ。真相は本人から直接お伺いすべきですね」
 それきりふたりで口を噤んだ。
 悲しいのに、悔しくて、口を開くと喧嘩になりそうだ。
(――それに、僕には多分、もうそれだけの時間は、残っていないから)
 あの時。
 ミラノちゃんと喋っていた時、言いかけた言葉。
 どうしてか日々の生活の終わりが迫ってきている気がしていた。
 古本屋の店主として、盗賊だった仲間の人生が変わっていくのを見届けたら、その先には自分の役割はなくなるという直感。仲間達はもう既にそれぞれ幸せに生きていけるようになった。
 ――この生き方は、もうすぐ終わる。
 そんな、漠然とした、感覚。
 だからって、こうしていきなり殺されるとは思ってなかったけど。
 背中を抱いてくれる総議長の泣き顔が、なんだか可愛い。出遭った時は、クソガキが、と思ったものだ。
(……ありがとう……)
 盗賊団を手懐けて、うまく利用してくれて。
 皆を、街で暮らせるようにしてくれて。僕に、皆が幸せになっていくのを、見せてくれて。
 視界が昏くなる。
 息が停まる。
 鼓動が小さくなって、きこえなくなる。
 胸を刺されたんだから、あたりまえだ。
 ――――血。
 失った血は、どこにいったのだろう。
 そうだ。リッドとその護衛に染み込んでいった。
 護衛の名前は、確かユリウスといった。動物の目を借りてあらゆるところから情報を取り、直観力にも優れた、リッドの親友。
 血は、命だ。
 この命に触れたなら、彼らには、資格がある。
 そして、もうひとり――。
◇◇◇可愛い聖女と◇◇◇
 聖女ミラノは、定例である深夜礼拝のために独りで聖堂に膝をついていた。
 満天の星が、キラキラと中庭の水面に輝く。
 旅路に出た魔女探し達には、嬉しい天気だ。明かりの乏しいなかで、急ぎたい者は、星明りの夜道を進む事ができる。聖堂の奥の開け放たれた扉から、冷たくて柔らかい風が、そっと吹き込んできていた。魔女探し達がいなくなってから、静寂が深くなった気がする。今までもこの時間帯は騒々しいとは思わなかったけれど、寝起きしている人数がこれだけごっそり居なくなると、静けさが違った。
 天使像の前でいつものように両膝をついているのに、なんだか眠くなってきてしまう。
 風が、ふと目の前で遮られた。
「――こんばんは。お邪魔するよ」
 どこから現れたんだろう。
 開いているのは中庭の扉だけ。こんな、目の前に来るまで、全然気付かなかったなんて。
「……先生?」
 やわらかく風に揺れる、さらりとした茶髪。見慣れた、ゆるやかな笑顔。
 だけどどうして死人に着せる白衣なんて着てるんだろう。
 そして、どうして、女の子みたいな感じがするんだろう。
「え? どうしたんですか……? いつのまに――」
 折角、こんな遅くに先生が訪ねて来てくれたのに、頭が、ぼうっとする。
「『光明の聖女』……魔物を理解し、解放する。暗い魂の、希望の光。やっと現れていた――」
 する、と先生が延べた指先が、私の手とぶつかるように絡まる。
 深い緑色の瞳に見つめられて、どうしたらいいのか、わからない。
 先生の瞳って、緑色だっただろうか。
 軽く握り込まれた指先の、きれいな、細い線――。
「あ……の……」
 いきなりドキドキしてきた。
 これって、どういう状況なんだろう。
 目の前にいるのが男の人なのか女の人なのかも、自信がなくなる。
「フェイの本は、読めた? ひねくれ者だから大変だったでしょう」
「あ……あれ、先生の本だったんですか。えっと、簡単に内容を紙に書いて貰って……」
 持ち主が、開けなかったから譲って貰ったって、言ってなかっただろうか。
「……先生って、女の人……?」
 ふ、と視界が暗くなる。
 吐息が頬をくすぐって、やわらかい体温に唇を塞がれていた。
 ぼうっとしていた頭が、白く、とける。
「――ふふっ……可愛いね。沢山学んで、考えて、行動して、強くなってね。貴女の光が、世界の闇を、照らせるように……」
 唇から零れる小さな呟きが、直接、身体の中に入ってくる。
 いきなり、どうしてそんな事を言うんだろう。
 なんで、こんなに――……
 なめらかな指先がほどけると、さっと不安が立ち昇ってきた。
 離したら――離れたら、どこかに、消えてしまう。
「待って! セト先生。あなたは、私の、先生なんですっ……!」
「……うん。だから、先に行くよ。焦らなくていい。一歩一歩、追いかけておいで」
 ざあ、と中庭の木々が緑の風に揺れる。
 白衣姿が、やわらかな星明りの中に、とけるように見えなくなっていく。
「……だめ、行かないで……――セト先生―!!」
 咄嗟に中庭に飛び出していた。
 草の中のせせらぎに足を取られて、バシャンと転ぶ。
 私の声を聞きつけた誰かが、素早く駆けつけてきた。
「聖女様! 今呼んだ名前は……?!」
 肩を掴んできたのは、アルヴァだ。
 彼の驚いた顔に、びっくりする。
「セト先生が……いなく、なっちゃったんです……。死人の白衣を着てて……それと……」
「セト=リンクスという男性――。それが、女性にかわっていた?」
 小さく頷いて、深く、息をつく。
 肩を掴んでいるアルヴァの手が、小さくふるえていた。
「……こんな近くに……。どうして、気付けなかったんだ……」
 アルヴァの声で、ゆるやかに、醒めた頭がやっと働きはじめる。
 ごく普通の人間として存在していた、世界を支配する魔女――。
 さっき目の前にいたときに、どこか、頭の中で気付いていたのに、私には引き留められなかった。
 意地でも握られた手を離さなければ、少しは違っていたんだろうか。
 凄い力を持つ魔法使いが、そんな事で捕まえられる訳はないのは、わかってる。
 だけどまだ、あの細い指先の感触が、残ってる。
 優しい唇の体温が、残ってる。
 明日、古本屋さんを訪ねて行けば、いつもと変わらない姿で、何の事?って言われる。
 そうならいいのに。これは、たぶん、そうじゃない。
「――聖女様。聖女様は、あの魔女が嫌いですか?」
 ぽつ、と小さな声がおちてきたのに、強く首を横に振った。
 嫌いな訳がない。
 ――こんなに、大好きだったのに。
「……皆は、魔女を憎む。探し出して、倒そうとする。……殺そうとする。それが魔女探しです」
「あの人はっ……悪い人なんかじゃ、ないじゃないですか。戦争を止めただけ。……なのに、なんでっ……」
 それで、起きた悪い事を全部、あの人のせいにされて、憎まれるなんて、違う――。
 そう言いたくて、喉がつまって、声にならない。
 見上げたアルヴァの瞳から、一筋、涙が流れていった。
「……だから、俺は、探し出します。絶対捕まえてみせます。そうしたら、証明できる。300年間の誤解も、絶対にとけない事なんて無い。あとから歴史が修正される事なんて、珍しくない」
 表情のすくない、真面目な魔女探しだと思ってた。
 こんなに、烈しい切なさを抱えていたなんて、知らなかった……。
「……追いかけておいでって、言われたんです。アルヴァさん……私にも、お手伝いさせて下さい」
 会いたい。
 もう一度、あの人と会いたい――。
 アルヴァが、優しい顔で頷いてくれるのを見て、やっと少しだけホッとした。
 それから、今日の出発じゃなかったのかな、とようやく気付いて、ごしごし目を擦る。
「今日は、皆さんと一緒に出発しなかったんですね。荷物はできてたみたいですけど……」
「リースが急用とかで、出発する時になってから出掛けたんです。俺達は魔女探しとしての活動以外にも、リュディア王国の指示を受ける事がありますから。……しかし、結果として、よかった。こうして聖女様と、話が出来て……」
 ――彼は、ずっと、黙って耐えていたんだ。
 皆が魔女を憎む中で、ひとり、それを哀しみながら、力を貸してくれていた。
 それは、凄いことだと思う。
 夜が明けて一番に、平民服の総議長様が教会に駆け込んで来た。
 お互いに目が赤い理由は、やっぱり先生の件だ。
「――リーオレイス帝国の護衛は、魔女だから、正体を現してうまく逃げられるのを防ぐために即断で刺した、と言っていました。セトは、男だし、元盗賊団の仲間も大勢いる。だいたい、俺の……目の前で……絶命したのは、はっきり確認したのに。それが安置所から、姿を消した――」
 それでやっと、死人の白衣を着ていた理由がわかった。これが魔女の話じゃなければ、物凄く怖い話になる。いや、魔女に接していたっていう事事態が怖い話になるのかもしれないけど。
「……それで、そのあと、私の所に来たんですね。すぐにどこかへ消えてしまいましたけど……。魔女に会ったことがある人にも確認しましたが、先生が魔女だったのは間違いじゃないです。外交問題に障害の出ないようにしてあげて下さい」
 こういう事をスラスラ言える自分が、不思議だ。
 落ちるような眠りから醒めてみると、朝から、感覚が澄み切って、頭もよく回るようになっていた。なんだか魔力も余裕がある。力が漲る。哀しみ以上に、頑張らなきゃという気がしてくる。
 アルヴァっていう味方がいてくれたのが、ものすごく、大きいかもしれない。
 協会の情報と事の顛末を総議長様に説明すると、目を擦りながら、やっと納得したふうだった。
「俺も、セトが……魔女が、一般に言われているような奴じゃないっていうのは同感です。盗賊だったから悪い事はしてたけど。それと人間味とは、また別だ。だから、勉強の先生として紹介したんです。……もう少し早く、協会の情報共有が出来ていれば、どこかで気付けたかも知れませんね」
「あ……それなんですけど」
 為政者の立場だけに絞られた、古い歴史の閲覧。
 その伝統をどうにか出来ないのか。制限されているのは、何か理由があるのか――。
 伝統の理由はは、総議長様にも、よくわからないようだった。
「少し、確認してみます。問題が無ければ、少しずつでも自由に見られるように工夫しましょう。今回の件に限らず、知らないよりは、知っておいた方が解決できる事は増える筈ですから」
「お願いします。……このまま、礼拝に出ていかれますか?」
「……いえ。セトは、居なくなったけど、死んでいない。冥福を祈る必要は、ありませんから」
 駆け込んで来た時は憔悴していた顔に朱が差して、元気をみせたこの国の盟主に、ほっとした。
 ――そう。
 こうして、人の胸に、光を灯す事ができると、本当にうれしい。
◇◇◇洞窟古書店◇◇◇
 『洞窟古書店』
 フェリアの通りのはずれにある小さな書店は、小奇麗に店仕舞いしたままだ。もしかすると何事も無かったように、店主が現れるかも知れない――そう、薄い期待をもって、店の様子を見守っていた。
 だが、昼になっても、店主が現れることは、なかった。
 物陰から古書店の様子を見守るアルヴァに、アクアが大きな欠伸をする。
「ふぁぁ……もういい加減諦めて、本屋さんの中、調べようよ。官公庁から合鍵貰ったんだから、堂々としてればいいのに。そんなに慎重にする必要、ないでしょ?」
「……そう、だな。こうしていても、仕方無いか……」
「もう、なんでそんなに慎重なのよ。殺されたのは聖女様の先生だったんでしょ? 他に怪しい人が出入りする訳も無いし、私もリース様と一緒にあの古本屋さんに行ったけど、凄く普通の店主だったわよ?」
 アクアには、古本屋の店主が魔女だったことは、言っていない。
 突然官公庁で殺害されてしまった、聖女の先生。
 彼が例のフェイゼル=アーカイルの本の出所だった事もあり、他にも何か重要な資料がないか、確認するという話になっている。
 単独行動はいつもの事だが、リースは結局、戻っていない。古本屋の店主について、セトと会ったことがあるリースは気付いていた筈だ。そういえば急用があると言い出したのは、官公庁で事件が起きた頃だった。
「アルヴァ? もう、本当にどうしたの? なんで緊張してるの?」
「――何でもない。本屋に入ろう」
 合鍵で本屋の扉の鍵を開こうとして、もう開いている事に気付いた。
 施錠を忘れたのか、誰かが、いるのか。小さく息をのんでから、そっと店の扉をあける。
 古い紙のにおい。
 薄暗い古本屋の本棚は綺麗に整頓されていて、店主が本を大事にしていたことがわかる。
 ――ここに、魔女――あの人が、いた。
 魔女探し達と行動を共にして、ずっと、探していた。
 あと少しで――本当に、あと少しで、会えたかも知れない所まで、来ていたんだ。
 入口から差し込んだ明かりに薄暗く照らされた本棚の間で、黒い人影が、古書をひろげていた。
「リース……!」
 アルヴァは、おもわず厳しい声をおとした。
「どうして、教えてくれなかったんです。フェイゼルの本は、あの人が持っていたと――早く、捕まえていれば――レギナさんに見つからなければっ……!」
 それにリースは目をあげて、淡々と、古書を片付けはじめた。
「……セト=リンクスは、平和に暮らしていた。そのままにしておくのが一番だったんだ。その方が、混乱を招かない。だが、リーオレイスの護衛にみつかったのは、運が悪かった」
「……俺にも黙って、ですか」
「教えれば、放っておけないだろう。お前は」
 リースは、アルヴァの魔女へのこだわりを知っている。
 10年前、無理矢理アルヴァを監視の任務から引き離して連れ帰ったのは、彼なのだから。
 それにしても、やはり、セトがレギナに殺されたという情報は、得ていたようだ。
 昨日から戻っていないのに、どこで知ったのか――。
「ちょっと、何の話? ほらアルヴァ、他に資料が無いか、見に来たんでしょ。リース様は先に来てたんですねっ! 遅れてごめんなさい♡ 今読んでたの何ですか??」
 少し押し黙った隙に、アクアが割り込んできた。
 リースがひろげていた古書は、古語で書かれているものだ。
 古語が読めたのか――というのも驚きだが、それは、今この状況に関係があるのだろうか。
「魔法の派生についてだな。言葉の意義による呪術が根本としてあり、それと魔力を合わせて周囲の自然環境を操作する。魔女は、そもそも戦場で活躍するほどの魔法使いだったのだろう。であれば、その力の源が、魔法の探求の過程にある可能性はあるだろう」
「なるほど! 流石リース様♡ 私そんなの考えた事無かったです~」
 割り込みによって、完全に話が逸れてしまった。
 確かにそういう事を調べに来た訳だが――。
 灰色の猫が、開け放した古書店の入り口からスルリと入ってきた。
 ぴょんと店主の机に飛び乗り、堂々と丸くなってくつろぎだす。この猫は確か、『光明の聖女』が抱いていた猫だ。
「こら! 先に勝手に……!」
 薄紅色の私服を着た『光明の聖女』が、慌てて猫を追い駆けて古書店に入ってきた。
 聖女特有の丈の長い聖衣を着ていない彼女は、ごく普通の可愛い女の子にしかみえない。今日の予定は聖女様には伝えてあった。仕事の合間をみて、駆けつけてきてくれたらしい。彼女にとっても、あの人がいたこの場所は、特別なものだろう。
 しかし、本屋に足を踏み入れた所で、ピタリと止まる。
 その顔が、真っ青だ。
「聖女様! 可愛い服ですね、一瞬誰だかわかりませんでした。……聖女様?」
 アクアが、ぱっと彼女に駆け寄っていった。
 すう、と聖女の右手が上がって、ふわりと白い魔力のようなものが滲む。
『――消えて――……!』
 空間が、ゆがむ。
 その先に立っていたリースから、ドッと煙が噴き出した。
 赤黒い――魔物の気配の、かたまり。
 何が起きているのか一瞬分からなかった。苦しげに呻いたリースの身体が、白くなっていく。
「やっ……やめて……!」
 アクアが聖女の手を押しのけて、白い力が解けるように散る。
 そのまま2人で崩れるように倒れ込んだ。
「リース様が苦しんでるの。お願い、やめてくださいっ……!」
 びっくりしたように少し目を瞬かせた聖女は、そっと身を起こして、リースをみた。
「――リースさん、あなたは……」
 蹲ったままのリースを、そっと窺う。
 苦しげに顔をあげた彼の右目が、魔物の色に、暗くぼんやりと光っていた。
 息を、のむ。
 10年も一緒にいて、全く気付かなかった――いや、不思議だと思う事はよくあった。
 素手で剣に打ち勝ち、魔物を切り裂く。そして猫のように素早く、しなやかな動き。
「……魔物……」
 ぽつ、と誰かが呟いた声に、リースがふらりと後退る。ドンと背中を本棚にぶつけて、バラバラと古書が崩れ落ちた。
「俺は……まだ……」
 いつもより低い声が、掠れた息を吐いた。白く硬直しかけた身体の色が、うっすら血が通っていくように、黒に、戻る。
「リース様っ……」
 ぱ、とアクアが傍に行こうとした瞬間、それをかわすように床を蹴って一気に扉の前まで跳躍したリースは、あっという間に外に出て行ってしまった。
「えっ……ちょっ、待って下さい~!」
 アクアが急いで追い駆けていくのを、ただ立ち尽くして見送る。
「リースが……」
「あっ……あの、ごめんなさい。いきなり、こんな事して――」
 聖女の慌てた声に、ぼうっとした頭が醒めた。
「い、いえ。いつ気付いたんですか」
「実はお会いした時からずっと、何か怖いなって思ってたんですけど……今入ってみたら、魔物の気配が凄くしてて……。あの、やっぱり皆さん、ご存じなかったんですよね……」
 それは、そうだ。魔物と一緒に魔女探しをしているなんて、おかしいだろう。魔女の手下だったのか――いや、それならクレイさんが顔をみて気付く筈だが、手下が一人じゃないとすれば――
 不安気に覗き込んでくる、可愛い私服姿の聖女。彼女を不安にさせる訳にはいかない。混乱した感情を、そっと、鎮める。
 リースの言動に、魔女探しを陥れるようなものは、10年、まったく無かった。積極的に魔物退治だってしていたし、帝国に於いては国王の信頼も厚い。魔物だから敵だ、というのは、魔女だから悪だ、という先入観にも通じるものがあるのかも知れない。
 それにしても、こんなに長く一緒にいて、気付けなかったとは。
 部屋の片隅に逃げていた猫が、ぴょんと机の上に乗った。散らばった紙をガサガサと踏むのを、聖女が慌てて抱き上げる。
「私、リースさんを探してきます。今ならまだ気配が分かるかも。アルヴァさんは、ここにいて下さい。私がいなければ、逆に、リースさんが戻ってくるかも知れません」
 聖女がそう言ってぱっと飛び出して行ったのを見送り、手近な椅子に腰をおろした。
 リースが、魔物……。
 まだどこか、信じられない。
『――あの魔物は、魔女とは無縁の存在だ』
 傍らの荷物の中から、ぼうっと仄かな青白い光が零れる。
 古書店の薄暗い本棚のあいだに、唐突に、本に宿った魂――フェイゼルが姿を現していた。
「……驚かさないで下さい。フェイゼル」
 東地区への出発にあたり聖女に返して貰った本を、荷物の中に入れて持ってきていた。
『君と同じ時に一度会っただけ。魔女の支配下にはなく自我を持つ、珍しい魔物だ』
 フェイゼルは、俺を、知っているのか。だから自分一人だけになったときだけ出現するのだろうか。昔一緒に行動していたとき、セトはこの本を持っていなかった。という事は、フェイゼルは、離れていても魔女の状況がわかる、ということだ。
「――今、魔女は何処にいるんです」
 低く声をおとしたのに、フェイゼルは黙ったまま眉を寄せた。介入しない、と言いたげだ。
『……知った所で、何も出来まい。魔女は私を回収しなかった。仮に私が彼女の居場所を示唆したとしても、何の脅威にもならないということだろう』
「では、どうしたら良いんです?」
『魔女探し達には、彼女を倒す事は出来ない。――例えばこの国の盟主。例えば隣国の王。世界を、人々の生活を変える事の出来る影響力。その善政が行き渡り国同士を繋いだ時、魔女の支配は形を無くす。歴史的観点でみれば、それが、真に魔女を倒すという事だ。その点からいえば、この国の盟主は、無自覚ながら平穏の中に彼女を捕らえ、勝利していたといえる』
 思わぬ言葉に、言葉がみつからなくなる。
 これが、歴史家の考え方かのか。
「……だとしても、魔女は一人の人間だ。社会そのものではない」
『社会、そのものだよ。例え彼女を今倒せたとしても、戦争が復活するだけで、人々は世界の理不尽を、別の魔女を作り上げて、そのせいにするだろう。それが、人間の歴史だ。それを断ち切る事が、彼女の……』
 ふ、と言葉がとまる。
 そっと目を伏せて、フェイゼルは、はじめて少しだけ、笑った。
『……喋り過ぎた。話に火が点くと、いけないな』
 そのままスルリと掻き消える。
「フェイゼル! 今重要な事を言いかけましたね。きちんと最後までお話下さい!」
 急いで荷物の中から本を取り出して、直接呼びかけてみたものの、しんと静まり返ってしまった。
 確実に重要な事を聞きそびれた。次に出てきたら、真っ先に確認する必要がある。
「……アルヴァ」
 いつのまにか黒い影が、扉にもたれていた。逆光だがリースであることは間違いない。
「――助けてくれ――」
 リースらしくない言葉に、おもわず息をのむ。
 咄嗟に駆け寄ると、倒れ込んできた身体を受け止めきれず、ドッと床に倒された。
「っ……どうしたんです、貴方らしくない――」
 こんな、肩で息をしているような姿は、見た事がない。リースは強い。いつも助けられてばかりで、助けを求められた事なんて、なかった。弱っている筈なのに、腕を掴んでくる手の力が、強い。
 すぅ、と全身から何かが流れ出すような感覚と共に、急速に力が抜けていく。
 視界が、昏くなっていく。
 リースの黒髪が目の前にあって、必死に押しのけようとするのに、力が、入らない。
「な……にを……」
 まずい。
 このままでは気を失う。
 意識が、身体の感覚が、白くなっていく――。
 意識を落とす直前で、ピタリと症状が止まった。
 そっと、リースが顔をあげる。弱っていた様子は消えて、いつもの調子を取り戻したようだ。
「……すまない。俺は――ひとりで、捜す。付き合せて、悪かった」
 重くのしかかっていた身体が離れて、冷たい風が流れる。
 自由になったのに、全然身体が動かない。
 待てよ、と言いたいのに、声が出ない。
 うわ言のような音が少し零れて、リースの気配を追い駆ける。
 扉が閉じたのを足元で感じたのを最後に、視界が昏くなった。
『命の光よ 集い来たれ』
 いつのまにか知らない人間が何度か回復魔法を唱えていて、目を擦った。
 どのくらい気を失っていたのだろう。
「あぁ、良かった。入り口で倒れていたので驚きましたよ」
 知らない、丁寧で和やかな声。
 怠さの残る頭を抱えてゆっくり起きると、薄い金髪の若い男が、柔らかい微笑でこちらを覗き込んでいた。
「店主は留守ですか? 久しぶりに寄ってみたんですが」
 薄暗い店内に目をあげた男は、旅装姿だ。
「……店主は事情があり、不在です。……回復魔法を、ありがとうございます。あなたは、魔女探しですか?」
「はい。協会の噂を聞いてフェリアに到着した所です。医者の所までお送りしましょうか?」
「いや――」
 日差しの傾きから、あまり時間が経ってないのをみて、机に縋りながらぐいと立ち上がる。
 ガタン、と腰にしていた長剣が床に転がる。
 そういえば、リースに対して剣を抜くという発想自体が、出てこなかった。
「――ごめんなさい、見つからないです! こちらはどうですか? ……あれ?」
 走って戻ってきた聖女は、知らない人間がいる状況に、少し首を傾げた。
「仰った通り、リースが一度戻ってきました。力を吸われてたようで、倒れていたんですが、たまたま来店した彼に回復魔法をかけて貰って」
「えっ? 大丈夫なんですか、アルヴァさん」
「何とか……一体、何だったのか……」
 カタ、とアルヴァの長剣を拾った男が、首を傾げた。
「魔力と生命力が消耗しているようでしたね。それは、何者なんですか?」
 私服の聖女に視線をむけるが、彼女も、申し訳なさそうに首を振った。
「――わかりません。私には、魔物としか……。普通の魔物は『命』を求めます。魔力と生命力を持って行ったのなら、命そのものよりも、『命の持つ力』を求めたのかもしれないです」
「……それにしても今まで、こんな事はなかった……」
「うぅ……ごめんなさい。私がいきなり力を使わないで、ゆっくり事情をお伺いできれば……」
「いや、それでははぐらかされるだけだったでしょう。俺達もまさか一緒に行動しているのが魔物とは思いもしませんでした。それに、目的は同じです。魔女の力の源を調査する。同じ所に行きつくなら、まだ会う機会はある筈。元々単独行動の多い勝手な人ですから、捕まえれば良いだけです」
 自責のいきおいに駆られて目に涙をためてしまった聖女に、少し慌てる。
「魔女の力の、源……?」
 協会にまだ合流していない魔女探しには、情報が共有されていない。
 首を傾げた男から落とした剣を受け取って、簡単に協会の動きを説明すると、ぱっと顔を輝かせてきた。
「それは、凄いですね。よく思いつきましたねぇ」
 自分の力を向上させようとは思っても、相手の強さの原因については、誰も注目してこなかった。
 言い出したのは、リースだ。
 はじめから、魔女ではなく、それが目的だったのだろうか。
「ところで、アクアを知りませんか?」
「わ、わかりません。まだ探してるのかも。その辺りを見て来ます!」
 路上で同じように倒れているとしたら、回収しなくてはならない。再び駆け出していった聖女に、頭が下がる。
 深く、息を吐いた。
 ――魔女と、力の源と。
 また、探さなくてはならないものが、増えるとは。
 聖女がおいていった猫が、男の荷物のまわりをぐるぐるまわる。
「あ、さっき買った保存食を見つけましたね。賢い仔ですねー。ちょっとだけですよ」
 荷物から香辛料を片面にきかせたパンを取り出して、白い部分だけをちぎって猫に与えた。
 彼は猫が夢中になって齧り付くのを見守ってから、ぐい、と残りのパンを渡してきた。
「魔力はともかく、生命力は食事で補えます。お腹、空いてるんじゃないですか?」
 言われてみれば、空腹時の気分の悪さに似ている気がする。
 猫がパンを完食して満足そうに床の上でゴロゴロとお腹を見せるのを眺めて、香辛料に染まったパンを少しだけ齧ってみる。
 フェリアの食糧は、大体旨い。おもわず全部食べ切った。
「よく気付きますね……。ありがとうございます」
「いえいえ、元々僕は回復役ですから」
 世話を焼くのが好きなのか、親切そうな顔を、はじめてきちんと見た。
 誰かに似ている気がするが、よくあるお人好しの顔、という気もする。
 ノーリ=カークランド。
 リュディア王国郊外の教会の聖使だったのが、治癒魔法を沢山使いたくて、魔女探しに混ざった、という、一風変わった動機をさらさらと喋った。
「――つい最近仲間達が解散してしまいまして、いまは一人旅なんですよ。もしお邪魔でなければ、その、力の源を調査しに行くのに、ご一緒しても良いでしょうか?」
 話をしながら何個かパンを貰ったところで、笑顔でそういう事を言われると、断りにくい。
 ノーリは、なかなか処世術に長けているところがあるようだ。
 いつも一緒だったリースがいない状況。賑やかなアクアと二人旅になるよりは、まだ良いかもしれない。