◇◇◇ジェストと子猫◇◇◇
ー/ー食堂の奥の倉庫。
その床材を外して、次々と溜め込んでいた武器を並べる。倉庫の一角に武器が積み上がり、集まってきた仲間達がひとつひとつ手に取っていく。ジェストは集められた奴隷達の作業の間を掻き分けて、私服姿に血糊をつけたままのイリスに駆け寄り、そっと声おとした。
「イリス様。聖使達に聖女が死亡したという話をしましたが、半信半疑で、動揺しています。アリスの着ていた聖衣をお借りできますか?」
アリスの着ていた聖衣は聖女のものだし、黒々と大量の血が染み込んでいる。
これほどわかりやすい証拠品はない。
「……ジェストの、馬鹿ぁっ……!!」
ドン、と夜風に冷えた胸板を叩いてきたのは、涙でぐしゃぐしゃになったセフィシスだった。何故八つ当たりされたのか分からないが、しゃくりあげながら掴んだ服を離してくれない。
「セフィシス。泣いてる場合じゃない。事態は動き始めた」
「わかっ……る……わかってるわよ! 馬鹿!」
アリスが殺されたのが悲しいのはわかるが、感傷に浸っている余裕はない。
その傍で、イリスは黙ったまま丁寧に横たえていたアリスの聖衣を外して、きちんと畳んで差し出した。
「警護官が出てきているだろう。後をつけられないよう、気をつけろ」
淡々と声をおとしたイリスの、静かな眼差しを受け取る。
「戻りは遅くなるかも知れません。場所を移す際は、第二の潜伏地でいいですか」
「……そうだな。何事もなければ、下手に動かないとは思うが」
ジェストはその言葉に頷く。
畳まれた聖衣をそっと外套の下に仕舞い、倉庫を後にした。
イリスも含めて身内の死に取り乱さずにいられるのは、たぶん、セフィシスが盛大に泣いているせいもあるだろう。傍に取り乱す人間がいると、逆に、しっかりしなければと醒めてしまう。
セフィシスのせいで、ジェストは、そういう役回りにあたることが多い。
燻った黒煙をあげる教会の周りには、祭りの影響もあって大勢の野次馬が集まっている。
人だかりを掻き分けて門の前に辿り着くと、ようやく警護官が一般人の侵入を塞いでいるのに突き当たる。教会の退魔師だと言って通して貰うと、宿舎から避難した聖使達が、さっき凶報をもたらした自分をみつけて、詰め寄るように駆けてきた。
「何かの間違いだったでしょ? だって、聖女様は外出されていた筈――」
「証拠だ。間違いはない」
必死の聖使達に、隠し持ってきた血塗れの聖衣をひろげて見せる。
悲鳴のような息があがって、彼らも言葉を失ってしまった。
こんな役目は、自分にしか、できないだろう。
それよりもこの場に避難しているのが聖使だけであることに、違和感がある。
「……保護奴隷達はどうしたんです。大した人数はいなかったと思いますが」
涙に濡れた目をあげて、聖使のひとりが、ちらりと周りをかためている警護官をみた。
「逃亡しないようにって、警護官のもとにいるみたい。この状況で、逃亡も何もないと思うけど……」
思わず舌打ちしたくなるのを堪えた。これから奴隷解放活動をしようというのに対して、人質を取られたようなものだ。
――せめて、聖使達の保護下にいてくれれば。
今から彼らを自分が保護に動くのは不自然だし、イリスのもとに戻らなければならない。教会内の仲間が、足りない。ミラノをアキディスに預けてしまったのが、良くなかった。だがあの場面に異を唱えることは、流石にできなかった。
訃報に泣く聖使達に取り囲まれている状況で立ち竦んでいる場合じゃない。
立ち去る機会を考えたところで、教会の門前で警護官と何者かが言い争っているのに気付いた。
言い争っているのは旅装姿の人間だ。
「どうしたんですか?」
取り囲んでいた聖使達の輪をうまく抜けて、門前に駆け寄る。
「魔女探しだ。ここは退魔師がいるから要らんと言っているんだがな」
警護官の一人が迷惑そうな顔をみせる。
その向こうに、外套を深く被ったままの旅装の人間が、6人。
「少し、話をさせてもらえますか」
退魔師がいる、といっても、聖女不在の今、ここにいるのは自分ひとりだ。
しかもすぐにでも外に出たい状況を思うと、そういうふうに警護官に自分を認識されているのは、厄介でしかない。
彼らの間から門の前に出ると、芯の強い目をした旅装の人間に取り囲まれる形になった。
「貴方が、この教会の退魔師でしたか。大変でしたね」
思いがけず、中心の人物から聞き覚えのあるような女性の声がした。
深く被っていた外套の下で、おそらく20歳過ぎの見覚えのある顔が、小さく笑む。名前は思い出せないが、南方エラークの奴隷の状況を観に行ったとき、現地の教会で、会った事がある。
「お久しぶりです。折角お訪ね頂きましたが、こんな状況で――」
「こんな状況だからこそ、です。私達魔女探しは、事あるごとに各地の教会にお世話になっています。そんな教会が大変な事になっているのなら、助力させて下さい。私達は単に旅をしている訳じゃないです。色々な伝手を共有しています。必ず、貴方の助けになれるかと」
最後に含みのある笑顔をみせた彼女が、ペコリと頭を下げると、周りの魔女探しもきれいにそれに倣った。
――彼らに教会の復興活動を任せれば、警衛官の占領を、避けられる。
近年、魔女探し達が独自の協会を立てて教会を中継に活発なやりとりをしているのはよく知っている。
実際、この教会にも何度もそういう魔女探しが顔を出して、足場を固めようとしていた。
奴隷解放活動のこともあって放置してきたけれど、ここで彼らと連携しておいて、損はないだろう。
「そういう事なら、お言葉に甘えて。聖女を喪った今、奴隷達を支援できる体制が薄い状況です。彼らの保護と秩序の調整を、お任せしたい」
本当に魔女が亡くなったのか、と顔を曇らせた旅装の一団を、渋い顔を突き合わせた警護官の間を通して招き入れる。
野次馬の視線が切れる所まできてから、彼らは外套を外して、活発に働き始めた。野営に慣れているのだろう、適当な材料で手際よく幾つもの天幕を作り上げていく。警護官は任務外の行動を取る訳にもいかず、ただ完成を見守った挙句、確保していた保護奴隷達も、魔女探し達によって仮設の天幕に引き取られていた。
中心となって動いている魔女探しの女性は、仲間からシヅキと呼ばれていた。
「近郊の魔女探し達にも報せを飛ばしましたから、数日中には聖女不在の教会を支えることが出来る人材が揃うと思います。……あの、噂では、奴隷に優しい聖女様を逆恨みした人間の仕業だと聞きましたが……本当なんですか?」
すっかり面目を失ってぼうっと周囲をかためているだけになった警護官を尻目に、そっと声を掛けてきたシヅキの言葉に、少しだけ安堵した。イリスが総議長の配下に頼んでおいた内容は、速やかに遂行されたらしい。彼女に伝わった情報は、恐らく魔女探しの協会を通じて、知れ渡るだろう。
シヅキと一緒に、警護官から見えない位置に何気なく移動する。
「概ね間違いではありません。……自分は外出する必要がありますが、ここを頼みます」
「――何か事情があるんですね。わかりました。ここはお任せください」
力強い言葉を背にして、教会をあとにした。
食堂の裏の倉庫。本当にそこが安全なのかは不安だ。
日常的に使っていた場所だからこそ、どこからか場所の情報が漏れている可能性がある。まだ連絡のつかない仲間達が聖女の死を聞いて真偽を確かめに、一斉に足を運ぶだろう。そうなると、余計目立つ。
――先に、第二の拠点の安全を確認してから、移動を提案しよう。
警護官がつけてこないかを再三注意しながら、曲がりくねった繁華街を駆け抜ける。緩やかな勾配をあがった路地の奥に、寂しい暗がりが横たわっていた。
明かりひとつない寒々とした空地。
朽ちた鉄格子が、時折星明りで鈍色に光る。傾きかけた廃屋の扉の錆を削りながらそっと押し開けると、無機質な空洞がひろがる。見事に何もない。
第2の拠点として決めてはあったが、物資をかなり持ち込まないと、過ごしにくいだろう。取り敢えず人の手が入っていない事は確認できたのを良しとして、踵を返した。
次の瞬間、柔らかい何かに足をとられて、転びかけた。
暗くて見えなかったが、驚いて目を凝らすと、子猫が一匹。
踏んではいないと思うが、驚いたのか、這うような姿勢で、光る目をじっとこちらに向けていた。
「……すまん。怪我はないか」
流石に放置してさっさと戻る訳にもいかず、そっと腰を落として様子をみる。こんな所で小動物を蹴り殺してしまったら、いい気分はしない。
綺麗な灰色の毛並。
大きく開いた金の目を細めてソロソロと起き上がると、しゃがんだ足元の周りを、品定めするかのようにするりと一周する。どうやら怪我は無さそうな動きにホッとして立ち上がろうとした時に、トンと腕の中に飛び込まれて、驚いた。猫と遊んでいる暇はない。床に降ろして立ち上がり、廃屋を後にしても、一緒に行くんだと言わんばかりに、しつこく足元を付いてくる。こんな時に、猫に遊ばれている場合じゃない。
ふと、セフィシスの顔が浮かんでくる。付いてくるのを気にしながら戻るよりは――。
どこまでも付きまとう子猫を拾い上げて、荷物の中に放り込んだ。
◇◇◇解放軍団の結集◇◇◇
祭りの夜に教会が焼けて『降魔の聖女』が死亡したという速報は、街の人々に、大きな衝撃を与えた。
中央教会は人々の拠り所として、よく親しまれている。聖女を悼みながら静かに酒を飲み交わし、明け方を待たずに露店も早々と店を閉めはじめた。降魔の聖女のしてきたことが、支持されている証だ。
アキディスは馴染みの店に顔を出しながら、それを改めて確認すると、小さく笑った。
イリスが聖女のまま下手に反旗を翻していれば、積み上げてきていた聖女への信頼が揺らいでいたかも知れない。だが、死者は、それ以上人々の信用を裏切る事は無い。あとは、彼女がどこに潜伏しているのかを確認して、下手な行動を抑えられれば――。
ぽつ、と冷たいものが頬に落ちてきて、湿った風に気付く。
いつの間にか星明りが消えて、漆黒の夜が街を包んでいた。店先の灯りも消えてしまえば、闇の中を灯りなしで歩き回ることはできなくなる。
――これなら、イリス達もすぐに大きな行動に出る事は出来ないだろう。
アキディスは少しほっとして、小腹が空いているのに気付いた。まだ少し明かりの残っている手近な大衆食堂の戸を開ける。
「もう、店じまいですよ」
客の絶えた卓の後片付けをしながら、若い店員が声をあげた。
「周りの店もそんな感じですね。食いっぱぐれてしまいまして。粥でも何でもいいから、残っていませんか?」
ふ、と店員の手が止まる。
何故かじろじろと観察しながら、近付いてきた。
「あんた、見た事ない顔だけど……誰から聞いてきたんだ? わかってると思うけど、今、奥は取り込み中だぜ」
突然口調が変わった彼の目に、不安が浮かんでいる。
奥に通せとは一言も言っていない筈だが、何があるのか――。
続けて食堂に入ってきたのは、火事の教会でイリスの傍に控えていて男だ。
――なるほど、ここが、イリスの拠点だったのか。
「……アキディス=タイド。ここが分かったのは流石ですね。総議長もご存じですか」
最初に少し驚くように目をあげた彼は、すぐ冷静な目をむけてきた。
「いえ、偶然ですよ。でも良かった、捜していたんです」
ここで見栄を張っても仕方ない。
あっさり笑ってみせる。
「……どうぞ、奥へ。イリス様からの依頼を遂行して頂いたのは、確認しています」
淡々とした彼が奥の扉に向かったのに、急いで続く。イリスの側近らしいこの男は、言葉少なに必要な働きをするようだ。店員の青年は納得したふうに片付けの仕事に戻っていった。
食堂の裏の中庭に建つ倉庫に、これでもかというぐらい大勢の人間が集まっていた。
外にまであふれて、少なくみても100人はいるだろう。奴隷服の姿なのに、佇まいに卑しさがない。しかもこれだけ集まっているのに、近隣に異常を気付かれる事もなく、静かに何かを待っている。導者の薫陶が行き届いている証拠だ。
彼らの足元に武器が行き渡っているのをみて、ヒヤリとする。
「イリス様。第2拠点に異常はありません。ここは人事院に嗅ぎ付けられている危険があります。分散しながら移動した方がいいでしょう。雨が降ってきましたから視界に注意が必要ですが」
奴隷の間を掻き分けて倉庫の奥に辿り着くと、姿を消した時そのままの格好のイリスが、強い目をあげた。
「あそこは、貴族地区に近い。決起する時の足掛かりだ。……このまま、征くか」
手にしていた紙を、帰った仲間の胸元にポンと押し付ける。
「アリスを殺したのは、昼間の人事院の刺客だそうだ。――死人は出さないつもりだったが、奴は、生かしてはおけない」
イリスから、押し殺していたような殺気が、滲んでくる。
アキディスは慌てて2人の間にはいった。
「ちょっと、待ってください。刺客については、総議長も人事院に揺さぶりをかけています」
突然のことに、イリスの赤い瞳が大きくひらく。
「あなたは……。噂の件、恩に着ります」
すぐに丁寧な口調に改めたイリスは、次に、さっと俯きがちに表情を曇らせた。
間近でそれを見ると、噂に違わない美人だな、と思う。
「配慮して頂いているのは、感謝しています。けれど、退く訳にはいきません」
きっぱり言い切られてしまうと、そうだろうな、というのが何となく分かる。
この女性は、多分、その為に何年もかけて準備をしてきている。横から止めろと言われた所で、簡単には止められないだろう。商売の駆け引きでは、退く事で勝ちを得ることが多くある。けれど、イリスの場合は、ここで退く事は、身内を殺され仲間の期待を放置し、逃げる、という事になる。
冷たくなった少女の傍らで、泣き疲れたのかぐったりと寝入ってしまっている薄い髪色の女の子が、イリスの側近の男に肩を叩かれ、浅い眠りから醒めた。
「セフィシス、起きろ。移動するぞ」
「……ジェスト……あれ、夢……じゃない、わよね」
蒼白な顔をあげて、次に、目を擦った。
彼の荷物からひょいと子猫が出てきたのには、こっちも目を擦りたくなる。ジェストは黙ったまま子猫を片手で摘み上げて、慌てて手を出したセフィシスの掌に載せた。小さな可愛らしい鳴き声が、静かに響く。
「第2拠点に住み着いていた。行くぞ」
大人しく手の中で毛並の手入れを始めた子猫に、いつのまにか全員の視線が集まっていた。
大人数を何回かに分けて送り出してから、広くなった倉庫を簡単に片付けたイリスは、店番をしていた若者にアリスの事を任せることにした。
片付けるものは他に無い。
それを確認してから、イリスは自分の長い赤髪を白い髪留めごとバッサリ切り取り、妹の手に抱かせた。
「セフィシスって子が、また、泣きますよ」
「聖女をやるために、伸ばしていた髪だから。もう、要らないんだ」
ぱらりと短くなった赤髪が頬を撫でる。
暗い夜道に出て、表情は見えなかった。
雨の日の夜は、暗い。
地面で跳ねる水滴が、手元に灯した明かりがどこまでも闇に吸い込まれていくのを防いで、きらきらと光る。曲がりくねった繁華街の路地をするすると抜けて、ぽっかりと穴が開いたような広い場所に出る。先行していた奴隷達の灯す明かりが、控えめにそこかしこに点在していた。
――こんな所に、空地があったのか。
確かに貴族地区に近い上に、道に迷いさえしなければ、街からも近い。軒を連ねる店のさらに裏手で、人目に触れることは殆ど無いだろう、絶好の場所だ。
イリスが仲間と合流したのを見届けて、改めて立地と集った人々の規模を確認する。自分一人ではこの活動を止めることは出来ない。国防院の兵力を借りるのも違う気がするけれど、とにかく、報告しなくては。
そっと貴族地区の方向に抜けようとして、後ろから肩を掴まれた。
「――報らされては、困ります」
冷えた目をしたジェストに、肩を竦めてみせる。
「人事院には伝わりませんよ。俺は総議長の個人的な情報源ですから。偉くなるほど、手に入る情報は自由にならないもので、苦労するんです。知らないでいるうちに足元が崩れていくんですから、無知というのは、怖いものです」
「総議長が、何をしてくれるというんです。刺客を捕まえる? 教会を修繕する? 奴隷制を改正するとはいうが、いつになったら実行して頂けるんですか。そうやって、時間ばかりが過ぎて、結果が見えないのであれば、こちらはそんなものをアテには出来ません」
淡々とした彼の見かけによらない言葉に、アキディスは少しだけ息をついた。
その気持ちは、よく分かる。
かつての自分も、そういう感性で行動して、大分取り返しのつかない事をした。それが最終的に、良かったのか悪かったのかは、今でも分からない。だけど、そうしなければ、今の自分は無かっただろう。
「……止めませんよ。どうぞ、大いに暴れて下さい。ミラノさんは安全にお預かりしています」
にっこり一礼して、アキディスは闇の中にきえる。
――止めても止まらないものは、その動きに合わせて、活用するだけだ。
◇◇◇決意を支えるのは◇◇◇
窓を叩く雨音に、ふと目が醒めた。
濃赤の長椅子にもたれかかったまま眠ってしまった自分を見つけて、慌てて顔をあげる。左右を埋め尽くしていた書類はきれいに片付き、処理済みの束をセキが全身を使って紐止めしているところだった。
「す、すみませんっ! 寝ちゃって……あの、これ全部、終わったんですか?」
「眠れたのは良かった。少しはスッキリしたか? こっちの仕事は片付いたから、問題はない」
ギリ、ときつく紐止めした書類を叩いて、当然のような顔をしている姿は、格好良い。
どのぐらい眠ってしまったのか、頭はスッキリしたけれど、身体の節々が軋んでいる。
「じきに朝だが、少し横になると良い。その状態をリッドが見たら、私が小言を言われるな」
小さく欠伸をして肩を回すと、彼女はひとつに結わえていた長い黒髪を解いて、仮眠室をあけた。
「――私、もう少し起きてます。少し、考えたい事があるので……」
「考え過ぎる前に、行動してみることだ。何かあれば、声をかけるがよい」
セキの言葉は、ひとつひとつ、胸に響いてくる。
静かに扉を閉めたのを見送って、深く息をついた。
――私なんか、まだまだ、足りない所が沢山あるんだ。
シェリース王国の女王様の隣にいるセキという人が、特別凄いっていうのは、わかってる。けれど人である事は同じなんだから、努力すれば、少しずつでもその凄さに近付ける筈だ。
セキが仕上げた書類の山を覗き込んで、目を擦った。とても女性が一人で数時間のうちにこなせるものじゃない。
……ちょっと、凄すぎるのかも。
窓の外を覗こうとして、部屋が明るすぎるのに気付く。窓に映り込む燭台の火を、そっと消した。
星明りの無い雨の夜は、ほとんど真っ暗な世界だ。人が灯す明かりだけが、視界の頼りになる。
どこか遠くに、チラチラと小さな灯りが揺れている。こんな夜でも、外で活動している人がいる。
総議長様は国防院に行った筈だし、アキディスだろうか。それとも、イリス様――。
トン、と窓の外側に小さな塊がぶつかってきた。
ばたばたと窓を叩いて、それが小鳥だというのに気付く。
「――ユリウスさんっ?」
窓を開けると、雨に濡れた白い小鳥が飛び込んできて水を払うように羽根をばたつかせた。そっと小鳥に手を差し伸べれば、小さな体重が掌にちょこんと乗ってきた。冷え切った毛並を撫でて、手の中で温める。
「……やっぱり、イリス様の役に立ちたい。6年前みたいに魔物が出た時の為に、私、教会に引き留められたんですよね。だったら、使って下さい。こんな安全な所にいるだけなんて、ずるいじゃないですか……」
小さく声を落とすと、どこか、身体の内側がひろい空洞になったような感覚にとらわれた。
色彩も、音も、形もない。ただ漠然と広い、空間。
身体の縁取りを突き抜けて、足元にも背後にも、空っぽが拡がる。
……この空洞に魔力を入れたら、どうなるんだろう――。
手の中の小鳥が、小さな鳴き声をあげる。それで、ふと捉われた感覚はスッと引いていった。
『人の背中について歩いていると、迷子になりますよ』
甘い低音が頭の中に響いて、びっくりした。手の中に納まっている小鳥が、じっと私を見ている。
「ゆ……ユリウスさん……?」
鳥を操るとは教えられていたけれど、会話できるなんて聞いてない。
『君は、君がやりたいことをすれば良いんです。イリスに捉われることなんて、ありません。今、人事院が武器を持った奴隷集団の制圧に出ます。危ないですから、外に出ちゃ駄目ですよ』
「えっ……それって……」
バタン、といきなり扉を開けた音に、心臓が飛び出すかと思うぐらいびっくりした。
「アドリス正使! ――って、ミラノさん、起きてたんですか。正使は?」
私が返事をする前に、本人が仮眠室から嫌そうな顔を出していた。
「なんだ、もう戻ったのか。もう私に出来る事は無いぞ」
「教会へ慰安訪問に出て欲しい。どうも警護官の動きがキナ臭い。貴女の警護で、牽制したい」
「おぬしが行けば良いではないか。刺客も大々的な行事には手が出せまい」
「それに捉われていると、国防院を動かせない。この時間じゃ、公務員を動かすのは厳しいんですよ」
総議長様の言葉に、緊張する。
「あ……あの、人事院が今、武器を持った奴隷の人達を制圧するって……」
小鳥が手の中から逃げて、総議長様の肩にとまる。
「教会の連絡鳥ですか? この暗い中飛んでくるなんて、優秀ですね。しかし、今、とは……」
「皆が危ないって事ですよね。お願いします、人事院を止めて下さい!」
口に出すと、余計不安になってくる。危ないから外に出るなっていう事は、ユリウスじゃ人事院の行動を止められないっていう事だ。
「尽くせる手は尽くしてあります。……どうするか――」
小さく呟いてから考え込むふうに黙ってしまった総議長様の背後で、トン、と扉が叩かれた。
「総議長様。商人から地図を預かりました」
総議長様が扉の隙間から紙を差し出した緑の制服の手首を捕まえ、その手の紙を一瞥する。
そのまま緑の警護官の耳元に何かを小さく耳打ちする。警護官の真面目な顔が、悪い笑顔になった。
「すぐに集まりますよ。今日の祭りで、集まっていますから」
「どのぐらいで国防院に来れる」
「小一時間もあれば」
よし、と総議長様が警護官の背中を叩く。速やかにどこかへ行った警護官をみて、総議長様はようやく少し笑顔をみせた。
「寡ないですが、俺の私兵を動かせます。夜勤の国防院と併せればあの場所には充分だ」
「私兵を使うのか。あとで、どう叩かれても、知らぬぞ」
厳しい顔をしたまま欠伸を噛み殺して、セキは書類の山の奥から外套を引っ張り出した。
それを、私の肩に掛ける。
「……やることが、あるのであろう? まずは動くが良い。実際の中にしか、活きた答えはない」
「――はい!」
この女性に背中を押されると、勇気が湧いてくる。
「私、この時の為に、イリス様のもとにいたんです。行かせて下さい!」
少し首を傾けていた総議長様が、目を瞬いた。
「戦場になるかも知れません。まさか、そんな所に……」
「戦場に出る魔物を消すのが、私の役割です。一人でも多くの人を、助けられるなら――怖くなんか、ないです」
◇◇◇激突と沸く魔物◇◇◇
羽根をばたつかせて水気を払う。しっとりした毛並が重い。そんな小鳥の感覚まで、ユリウスは感知していた。
今日この時間に、この暗闇の中をわざわざ出歩こうという人間は、限られている。
いい時に、雨が降ってくれた。
活動している人間の絞り込みが、こんなにも簡単になる。点々と動く小さな灯りの動きを、注意深く観察する。市街地から、人影がひとつ。貴族地区に入ってきて、まっすぐこちらに向かってくる人間がいる。
深く被った外套で顔は見えない。だけどそれは、解放活動の拠点から出てきた。
そしこのシャロン=イアの邸宅の裏口――厨房から、入ってきた。
そこまで見届けると、意識を小鳥から自分の身体に戻す。ユリウスは静かに傍らの長剣を取って、長椅子から身を起こした。
「シャロン様。鼠が一匹、入ってきました」
隣で椅子にもたれている主人――シャロンに声をかけて、スラリと剣を抜く。
直後に、バンと扉が開いて、熱風が斬り込んできた。
『炎よ 我が意に従え!』
『風よ 我が意に従え』
黒煙がゴッと散る。
突進してきた長剣をガンと受け流し、すぐにキリ、と振り上げてきた二閃目を、刀身で受け止めた。
金属音が目の前で小刻みに鳴る。
刀身の向こうで、燃えるような赤い瞳が、大きく揺れた。
「ユリウス……?! どうして、ここに」
「やだなぁ、イリス。どうしちゃったんですか? 首領が一人で暗殺に来るなんて、駄目ですよ」
いつものように、ニッコリ笑んでみせる。
キリ、と唇を噛んだ赤い短髪の美人の顔を間近でみると、なんてからかい甲斐のある奴だろうと思う。
「どけ、俺は後ろの奴に用があるんだ」
「残念ですが、やらせません。私の剣が君の綺麗な顔を傷つける前に、退いて下さい」
ギュ、と刀身を回して外し、身体の中心をドッと蹴り飛ばす。女の身体とはいえ、イリスは強い筈だ。遠慮なく繰り出した蹴りがまともに入った事に、少しだけ驚かされる。
後ろに倒れたイリスの長剣をはじき飛ばして、素手を掴み上げた。
「シャロン様は6年も私を可愛がってくれたんです。誰にも殺させません」
「――お前っ……!!」
傷ついたような、強い瞳。いつも聖女の仮面を被っていたイリスの素の顔を久々にみた。
これでこそ、イリスだ。
「……女性に、手荒な事はしたくありません。大人しく――」
「ふざけるな!!」
左の拳が飛んできたのをヒョイと避けると、イリスはその一瞬に手を振りほどいて、距離を取った。
警護官が駆けつける気配に、イリスはぱっと手近な窓から速やかに逃げ出した。
「院長――今のは」
ようやく駆けつけた警衛官は、逃走者の姿を見る事が出来なかった。
「あの女……生きていたとはな。ゲイルが殺したのは、偽物か」
「追いますか」
「放っておけ。仲間は既に袋の鼠だ。今は作戦を続ける。後でゆっくり捕らえてやろう」
イリスが残した長剣を拾って、シャロン=イア人事院院長は、それを軽く素振りしてみせた。警護官から叩き上がってきたこの人間は、そう簡単に殺されそうにはない。
「――少し早いが、進攻を開始する。行くぞ、ユリウス」
奴隷商人が遺した、取引の跡地。
朽ちるばかりだった空地に、今夜は、沢山の奴隷が詰まっていた。星ひとつない雨の夜に、大勢が動く事は危険を伴う。行動を始めるのは夜が明けてからだと聞かされていた彼らは、冷たい雨の中を、武器を抱えながら身を寄せ合って外套の下でじっと耐えている。
小さな猫の鳴き声が、静かな廃屋からこぼれた。
「こ、こら、外は雨よ」
セフィシスはしなやかな灰色の毛並を追いかけた。するりと建物の隙間に入ろうとする小動物が今にも暗闇にとけてしまいそうに見えて、急いで手を伸ばした。それを黒い影に掴まれて、思わず悲鳴をあげそうになる。
「私の猫をお世話してくれていたんですね。ありがとうございます、セフィシス」
闇に溶け込んでいたユリウスの甘い声が優しく響いて、息を飲み込んだ。
「な、なんだ。びっくりしたじゃない。この仔、ユリウスの猫だったのね。っていうか今まで何処に行ってたのよ。イリス様もフラッと出掛けちゃうし……ねえ、本当に、これで大丈夫なの?」
ユリウスの肩に登った猫の喉を撫でながら、不安が滲む。
「そうですね。雨が降ってきたのは誤算でした。皆、寒い中よく耐えてくれていますね。中で火を焚いて暖まって貰ってはどうでしょう。少し動いた方が、身体に良いですし」
「え? 夜明けまで、そんなに時間はないと思うけど……」
「濡れて冷え切った状態じゃ、士気も上がりませんよ。ジェスト君も中ですか?」
「ええ。流石に仮眠を取ってるわ。教会の件とか、全部任せちゃってたから……」
「そうですか。じゃあ、出来るだけ起こさないようにしましょうね」
ふたりで廃屋に戻って暖を取るための火をつくる。
赤い炎が、外の暗闇に慣れた奴隷達の目に、眩しく揺れた。蒼白な顔に朱が差して、入れ替わり笑顔になって戻っていくのを、ほっとしながら見守る。イリスもいないし、ジェストは寝てるし、不安だった。
寒い暗がりの中に沈んでいこうとしているかのような大人しい奴隷の集団を、どうしたらいいか分からなかったから、ユリウスが戻ってきてくれて、本当に良かった。
「――イリス様がどこに行ったか、知らない?」
外で奴隷達を誘導するユリウスに、そっと声を掛ける。皆は首領がここを離れている事を知らない。
「おや、私じゃ駄目ですか? まったく、イリスは人気者ですねぇ。もうすぐ着くとは思いますけど、どこかで足止めでも食らってるのかも知れませんね」
ユリウスは肩に乗りっぱなしの子猫を、トンと渡してきた。
「この仔を拭いてやって貰えませんか? 寒いですから、君も暖を取って下さい」
小さく鳴く子猫を残して、次の小集団に声を掛けに行ったユリウスの背中を見送る。
よく考えれば、彼が実際に働いているのを見るのは、初めてかもしれない。
「もう……いつも、好き勝手のくせに……」
ずっと前から、イリスには秘密で連絡を取り合っていた。
口先は軽くとも、ずっと私達の為に動いていてくれていたのを、知ってる。
廃屋に戻って暖を取りながら子猫を拭いてやると、膝の上で気持ち良さそうに眠られてしまって、そこから身動きが取れなくなる。
パチパチと鳴る炎の前で、小さく欠伸を噛み殺した。
どこかで、低い、叫び声がきこえた気がした。
「……今、何か……」
気のせいじゃない。続けてはっきりと外から悲鳴が上がったのか、周囲の奴隷達にも聞こえた。
さっと緊張が走る。
子猫を抱いて、急いでジェストを起こす。
「やべぇ! 何か攻めて来やがった!!」
バンと扉を開けて転がり込んできた奴隷の叫びに、凍り付いた。
「イリス様は、どうした」
「まだ戻ってないのよ。ど、どうしよう~」
ち、と小さく舌打ちしたジェストの背中を追いかける。
「皆、武器を取れ! 対抗するぞっ!」
ジェストの怒声に反応して、30人程の屋内の奴隷達の顔つきが変わった。
長剣を抜いて先陣を切って出たジェストに続いて、ドッと人が動く。セフィシスは最後に廃屋を出て、外の光景に、ぎょっとした。
ぐるりと、取り囲んでいる物々しい炬火。市街地に続く方向から悲鳴と交戦の音が入り混じってくる。
「あ……」
自分の血の気が引いていく音がした。
ドン、と壁に背中をぶつけて、それ以上はさがれない。炬火の炎が、地面から沸きだした赤黒い沢山の魔物の姿を、照らし出す。
雨を吸い込んだ地面の闇色に、血の臭いが染み込んでいく。奴隷を相手に、容赦はなされない。不意を衝かれた奴隷達は武器を持ち直したものの、警護官の組織的な進攻に、なすすべもなく斃れていく。あっというまに多くの死体を作って廃屋の方まで制圧するかに見えた戦場に、死体の数より多い魔物が沸きだした事で、警護官の進攻がとまった。
「まずは魔物を片づけろ! 奴隷どもなど、ついでで良い!」
戦場をつくれば、魔物が出る。当然だが遭遇する機会はあまりない。
「……こう、ハッキリ出てきてくれると、気持ち良い位だな」
「魔物は血の穢れの産物だといわれています。奴隷を殺すほど増えると思っていて下さいよ?」
ひら、とシャロンが陣取っている屋根の上に飛び乗ったユリウスは、その隣に立って足元の惨劇を眺めた。
「つまり我々は倍以上の労力が必要という事か。厄介だな」
「首領不在で、ろくに訓練もされていない集団です。大したことは出来ませんよ。魔物さえ対処できれば――」
突然、強い光が頭上ではじける。照明の為だけの、簡単な光魔法だ。
セフィシスの蒼白な顔が、ちら、と見えた気がした。
「……見つかっちゃいましたね」
ユリウスは廃屋に向かってにこやかに手を振った。照らされたことでワッと魔物の集団の標的になったが、ユリウスは風魔法をのせた剣を一閃させて凪ぎ払う。
「なんだ、てめぇ、寝台の中だけが芸じゃなかったのか」
屋根の下から顔を覗かせたゲイルが、軽口を叩く。ユリウスがやらなければ、彼が魔物を防いでいただろう。
「おやおや、私は結構何でも出来るんですよ。ここは私に任せて、魔物の討伐数でも稼いでみては?」
言いながら、警護官に襲い掛かる魔物に向かって風魔法を撃つ。
それをポカンと見やったゲイルは、ちら、シャロンが頷いたのを見てから、ばっと前線に乗り込んでいった。
「この調子なら、日が出る前には制圧できそうだな」
シャロンがそう楽観をした矢先に、ばらばらに沸いていた魔物の中から、ひときわ巨大な赤黒い魔物が立ち上がったのに、少しだけ息をのむ。
人の身長の三倍はあるだろう獣の姿が前脚を一振りしただけで、数十の警護官が叩き飛ばされた。
わっと逃げ出した警護官に、シャロンの怒声がとぶ。
「逃亡者は厳罰に処す! 矢を射ろ、怯んだ所を叩け! たかが魔物だ!」
組織内に走った混乱が緊張になる。
指示に従いながらも、びくともしない魔物に、じりじりと後退する。
「――院長! 国防軍が、ここに!」
足元で部下が叫んだ報せに、シャロンの眉間に皺が寄った。
「国防軍だと? 伝令は」
「そ、それが、今すぐ戦闘を停止して撤退するようにと」
「代わりに戦ってくれるとでもいうのか、あの国防院の老人が」
「国防院院長ではありません。ウインツ総議長が、率いていらっしゃるんです!」
「――あの、若造……。撤退はせん、魔物を始末してから退くとでも伝えておけ!!」
『光よ 我が意に従い 縛すべし!』
セフィシスの詠唱の声がひっくり返った。
光の線が巨大な魔物を絡め取ろうとして、身じろぎひとつで解けて散じる。
「きゃ~っ! 失敗した~!!」
近づこうとした足が竦んで、思わずその場に座り込む。獣の前脚がゴッと迫って、きつく目を閉じた。
「馬鹿か、逃げろ!」
ド、とぶつかったのは爪のある前脚じゃない。気付けばイリスと一緒に、泥だらけになって転がっていた。
「セフィシス! もう少しさがれ、死にたいのか!」
濃赤色の私服の胸の中から、怒声が響く。
それに、おもわず涙が出た。
「ど……何処に行ってたんですかぁっ……ユリウスさんが、あっちに……!」
「わかってる。あいつが、裏切ったんだ」
素早く立ち上がって苦々しく吐き捨てられた言葉が、胸に刺さる。だけどそれに浸っている余裕はない。わっと近付いてきた小さな魔物を、慌てて叩き落とす。大きい魔物は弓を放つ警護官に向かった。
「今なら警護官の包囲に弛みがある! 皆、一旦逃げろ! ここで死ぬなっ!」
イリスの声が、生き残って戦っていた奴隷達の間に響いていく。ようやく首領の姿をみつけた彼らは、逆に、武器を握り直した。
「――あなたが脱出しないと、誰も、逃げないでしょう」
いつのまにか泥だらけになったジェストが、ドンとイリスの背中に背をぶつけてきた。
「剣はどうしたんです」
「失った」
「俺のを使って下さい」
ぐい、とイリスに自分の剣を持たせて、ジェストは泥の中に沈んでいる手近な武器を足で探って拾い上げると、外套で泥を拭った。
「セフィシス、さがれ」
ジェストの小脇に抱えられると、頭の上でガンと金属音が鳴った。
「よく気付いたなぁ、褒めてやってもいいぜっ」
もう片方の短剣が閃いて、ザッと胸元を薙ぐ。
かわそうとして姿勢を崩したジェストと一緒に、泥の中に倒れ込んだ。
「お前っ……妹の仇――!」
イリスが刺客に斬りかかったのを、視界の端で、みつけた。
ぶち、とセフィシスの奥で何かが切れる。 光魔法の限界値が、口から迸る。
『光よ 降れ。道無き境を越えて来たれ……!!』
ドン、と、小さな落雷が、正確に刺客を貫いた。衝撃と轟音が、辺りに響き渡る。
間近すぎる轟音に耳鳴りがする。
それでも、セフィシスはぐっと立ち上がり、落雷の直撃で倒れた刺客を、確認した。
「――あんたさえ、アンタさえいなければっ……!!」
「セ……セフィシス……ッ」
イリスが眩んだ目を擦りながら、ぐい、と強く肩を引く。
耳鳴りで、イリスの声がよく聞こえない。
次の瞬間、泥の中に倒れた刺客を、巨大な魔物の後ろ脚がドッと踏み潰した。泥と血が、冷たく跳ねる。
イリスに肩を掴まれていなかったら――――。
セフィシスは、一気に全身から力が抜けた。血の気が引いていて吐き気もない。
とにかくこの巨大な魔物から離れないと、危険だ。
倒れたままのジェストを起こそうとして、息が、停まる。
大きく切り裂かれた胸元から溢れた血が雨に流れて、深い、ぬかるみになっていた。
「セフィシス!!」
ぐい、と腕を引かれて、ふらつく足がその場を離れる。魔物に向けて放たれた矢が、もといた場所に降り注いだ。
「っ……や、だ……やだっ……!!」
「しっかりしろ! 君は、生きるんだっ!!」
すぐ耳元で怒鳴るイリスの声に、視界が、滲んでいく。
貴族地区の方面から、頭上に盾を構えた謎の一団が奴隷達の間にドッと雪崩込んだ。
突然の闖入者。
攻撃も何もされず無視されたような状況に、死にもの狂いでいた奴隷達は、唖然として彼らが警護官と魔物のほうへ盾を降ろすのを見守った。
「国防院……?!」
ぽつ、とイリスがこぼした次の瞬間、強烈な光魔法が打ちあがる。
セフィシスのものじゃない。
「双方、戦闘を停止せよ! この場は、預かる!」
光魔法の照明の下に、リッド=ウインツ総議長の姿がうかぶ。
その隣に、貴族の外套を羽織った少女の、蒼白な顔があった。
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