◇◇◇間諜と旅楽師◇◇◇

ー/ー




「シャロン様ー! すっげぇ情報掴んで来やしたー!」
 バンと扉を開け放して私室に踏み込んだ旋風のゲイルは、次の瞬間、ぴたりと動きを止めた。
 濃赤色の重厚な長椅子の上で、主人――人事院院長シャロン=イアが、不機嫌そうな目をゆっくりと向ける。
「扉は叩いて、許可を得てから入るものだ。馬鹿が」
 ほどけた茶色の髪を掻き上げて身体を起こす。
 それを追って下からするりと腕が伸び、シャロンの服を引っ張った。
「ふふ……良い所で、邪魔されちゃいましたね」
 甘い声が、低く響く。
 長椅子の赤に、薄茶色の髪と土色の奴隷服が、不釣合いに散らばっていた。
 硬直したゲイルを尻目に、シャロンは組み敷いていた人間の腕を掴んで、ぐいと抱き起こす。
 胸に刻まれた奴隷の刻印。ついでにそれが男だというのも、はっきりした。
「――あれ?! てめぇ、教会に行った筈じゃ……」
「そう、間諜としてね。ご報告に伺って、当然でしょう?」
 唇を尖らせるユリウスに、ゲイルは、反発する言葉もない。
「――それで。情報とやらを訊こうか」
「あ、それなんですけど! 教会の聖女が奴隷解放の活動をしてやがったんですよ! 総議長殺ろうと思って行ったら、そんな話してたんす!」
「……それで? 総議長はどうした」
「え? あ、それはまた今度で……」
 眉ひとつ動かさない主人に、急速に声が小さくなる。
 シャロンの溜息に、彼は肩を竦めた。
「『降魔の聖女』が奴隷解放活動をしているのは、とっくに知っている。その為にユリウスを教会に潜り込ませているのだ。そもそもあの女は、前の反逆の時にも剣を持ってあの場にいた。私は最初から目をつけている。今更お前に報告される内容ではない」
「――それよりも、どうして名乗っちゃったんですかねぇ。旋風のゲイル君。総議長に、しっかり聞かれています。警護官に手配がかけられていますよ」
「へ!? あれ?! つーか、何でてめぇが知ってるんだ」
「それは私が有能だからです」
 涼しい笑顔で馬鹿にされたところで、ゲイルは腹が立つよりも焦燥が迫ってきた。
 主人の視線がさっきから冷たく突き刺さっている。
「で。警護官を管轄する人事院の中に、その手配犯がいる訳だが。さて、どうするか」
「い、今すぐ総議長を殺ってきやす!」
 びし、と直立したゲイルに、間髪入れず嘲笑がとぶ。
「無理ですよ。今日の今日で、警備は厚くなっている筈。せいぜい身を隠すんですね」
「っ……じ、じゃあ、聖女を殺ってきやす! そうすりゃ仲間連中も、ビビッて動けなくなりますぜ」
「――ふむ。目をつけてはいるものの、動く気配がなくて静観していたが……けしかければ、尻尾を出すかな。ユリウス、どう思う」
「『降魔の聖女』は退魔師なんですから、手強いですよ。ゲイル君が返り討ちに遭ったり捕まったりしなければいいですけど」
「よし、捕まったら、助けてやろう。やるだけやってみるがいい」
 やっと僅かに笑みをみせた主人に、ぱっと気分を改めて、了解しやした、と元気に飛び出していったゲイルも、扉を閉めていくのは忘れなかった。

「……助けてやるなんて、お優しい嘘ですね」
「ペットは餌で操るものだ。牢の中では、永遠に馬鹿な口を閉じる事になるだろうがな」
「ふふ……悪い人ですねぇ」
「ふん。この口が言うか。詐欺師が――。」


 年2回のフェリアの祭りは、賑わいを惜しむように、夜が明けるまで続く。
 日が暮れてもきらきらと輝く明るい街の活気も、教会の鐘台の上からは、どこか、遠い。
 ミラノは、聖使の外套を羽織っていつもの場所に登ってきていた。
 イリス様はまた私服でどこかに出掛けてしまったし、セフィシスもジェストも散らばっている仲間達に連絡を取る為に出てしまっていて、私には、出来る事がない。
 任されているのは、教会で保護している奴隷達を、守ること。
 大した魔法が使える訳じゃなくて、いざとなたら扉を閉ざす事ぐらいしか出来ないけど。それじゃあ『守る』って、どういうことだろう、と思ってしまう。この数年間で、平民からの奴隷への視線は、すごく柔らかくなってきた。それは聖女様が築いた社会的な信頼だし、総議長様も制度を改革する用意を進めている。
 だから、魔法で何かからの攻撃から守るとか、剣で相手を倒すとか……。
 『人を守』るっていうのが、そういう事じゃないっていう事は、少し、わかってきたような気がしている。

「――こんばんは、お姉さん」
 突然湧いて出た綺麗な低音に、びっくりした。
 声のした足元を見れば、教会の屋根の上にちょこんと立った青年が、可愛い笑顔を見せていた。
「良い景色だね。いつもここにいるの? 僕も、そっちに行っていい?」
 昼間の旅楽師。
 何か見た事あると思ったけれど、どうしてこんな所にいるんだろう。
 びっくりしているうちに、足元に風魔法を乗せて、ひらりと傍に飛んできた。
 遠くからでも可愛いな男性だなと思ったけれど、近くでみると、思わず撫でたい衝動に駆られそうになる。
 さすがに同世代の男性には、失礼な感想かもしれない。
 そう思うことで、手のひらを握りしめた。
「公園で観ててくれたよね。屋根の上にいたから、覚えちゃったよ。高い所、好き?」
 人懐っこい笑顔がすぐ傍にあって、ちょっと変な感じがする。
 それにしても、彼はどうしてこんな所に来たんだろう。
「高い所っていうか……何となく、広い所を見るのが好きです。田舎育ちだからかなぁ」
「あ、わかる! 賑やかなのも好きだけど、広くて静かな所っていいよね。ねぇ、シェリース王国の首都に行ったことある? すごく高くて、滑り台もあって、景色もいいし、いいとこだよっ」
 よく手入れしてあるサラサラの黒髪が風に揺れて、色彩豊かな衣装を隠すように羽織った外套の上を撫でる。
 貴族の人達とは違う、人を惹きつける何かが滲み出てる気がする。
「あ。それと、昨日はお兄ちゃんがお世話になりました。夜中にお邪魔しちゃったみたいで、本当にごめんね。夜、ちゃんと眠れた? ハーゼが君の所に泊まったって言ってたけど」
「えっ……弟さん?!」
 言われてみれば、確かに、うっすら似た面影があるような。
 可愛い独特の雰囲気で、全然、わからなかった。
「うん。僕、ハーディス=タイドっていいます。今、下でお兄ちゃんがミラノさんが登ってるのを見つけてね、それで、僕からも何かお礼ができないかなって。昼間の演奏はちょっと遠かったし、迷惑でなければ、ここで一曲贈らせて貰っても、いいかな」
 勿論と頷いて、[[rb:手風琴 > アコーディオン]]を構える旅楽師を、ぼうっと眺める。
 空気を吸い込んだ腕の中の楽器が、あたたかい吐息のような音を響かせた。
 いつも高らかに鳴り渡る教会の鐘の音とは、全然違う。
 大きな音には慣れているのに、間近で初めて聴く楽師の音色に晒されて、肌が震える。
 指先が滑らかに鍵盤の上で踊り、やさしくて、切ないような旋律が、空気に満ちていく。
 ――凄い。
 文化の中心地であるこのフェリアにも、勿論音楽はある。
 公園や酒場で奏でられる音は、人々の賑わいの一部として身近にあって、そんなに珍しいものじゃない。
 だけど、この旋律は。
 ふるえた肌から、身体の内側にまで、染み込むように広がっていく。
 どこか緊張していた身体の芯が暖かくなる。まるで、温泉にでも入っているみたいな感じ。
 すう、と夜の風を吸い込んで、そっと息をついた。

「――ミラノさん、聖堂の窓って、入り口になってる?」
「え?」
 ふ、と音楽が止んで、口を開いたハーディスの視線が聖堂の屋根に注がれていた。
「えっと、窓は入口じゃないと思うんですけど……」
「そうだよね。今、あやしい人が窓から入って行ったけど……大丈夫なのかな」
 聖堂はさっき通った時には誰もいなかった。
 特に盗られるような金目のものは置いていないけれど――。
 昼間の、刺客。
 咄嗟に思い当たったあの顔に、ぞっとする。
 ――怖い。でも、怖がってる場合じゃない。ぐっと自分を励まして、立つ。
「大変……! 危険な人です。聖堂、誰もいないとは思うけど……!」
「今日は退魔師の人はいないの?」
 その声に頷くと、彼は手風琴を背中に押しやり、口風琴を口元にまわして私の腕をとった。
『風よ 我が意に従え』
 速やかに魔力の風が纏わりついて、ポンと彼が屋根を蹴った。滑るような落下感に喉まで悲鳴が出そうになる。聖堂の窓枠の所でピタッと静止したところで、声を飲み込んだ。

『火よ 我が意に従えっ!!』
 高い声が、魔力の炎を立ち上げる。
 ゴッと黒煙を散らして渦巻く火炎が手あたり次第に放たれた中で、白い聖衣がひらめいていた。
「そんなもんかよっ」
 火炎をすり抜けた男が、彼女に突進する。その短剣が聖衣に届く直前に、風圧が壁を作った。
 口風琴の音が、詠唱なしに風魔法を――。
 隣の旅楽師に驚いている暇はない。体勢を立て直した男が、こっちをみる。
「な、何だてめぇ」
 やっぱり、昼間の刺客。
 すぐ隣で鳴る口風琴が、強烈な風魔法を放つ。鋭い風魔法に短剣を弾かれてた男は、ぱっと距離を取り、正門から飛び出して行った。
「あ、待て――」
 駆け出して行った旅楽師の背中に続いて走りかけたけれど、あっという間に二人とも姿が見えなくなってしまう。

 とさ、と小さな音に振り返って、さっき派手な火魔法を使っていた女の子が、前のめりに倒れ込んでいるのをみつける。
「だ、大丈夫ですか――」
 ぱっと駆け寄って、それがアリスだったことに、初めて気付いた。
 赤い髪に長い付け毛を足していたから、一瞬誰だか分からなかった。
 それにアリスは聖使じゃない。聖衣を着ている筈がなかった。それも、聖女様用の、丈の長いやつだ。
 そんな事を観察している場合じゃないのは、わかってる。
 だけど、血が。
 白い聖衣が赤くなる。塗料をひっくり返したみたいに、みるみる床にひろがっていく。
「――っ……『光よ 集い来たれ』!!」
 セフィシスの詠唱を、真似てみる。
 魔力が小さく動いて、ほんのりと紅色の光がアリスを包む。
 全然、足りない。
 何度も何度も同じ詠唱をして、やっと少しだけまともな魔力の量が動いた感触がした。
 僅かに身じろぎしたアリスの肩に、そっと触れる。
 下手に動かしちゃ駄目だ。
 小さく吐いた息が、血溜まりの中に消えていく。
「……お兄、ちゃん……」
 微かな声のあとに、紅色に包んでいた魔力が、ふっと掻き消えた。
「アリスちゃん――アリスちゃん?!」
 魔法が、効かない。
 今度は何度同じ詠唱を繰り返しても撥ね返されて、宙に散っていく。
 アリスの白い横顔が止まったまま動かないのから、目が離せない。
 触れてみれば温かくて、震える自分の手を、握りしめた。

「何してるんですかっ!? 早く、避難を……!!」
 覚えのある声に振り返ると、いつの間にか聖堂の長椅子が高々と炎を上げているのに初めて気付いた。
 その間から、黒髪の商人が駆けてくる。
「ミラノさん! 怪我してませんか?! 立てますか? すぐ出て下さいっ!」
「アリスちゃんが――」
 アキディスに腕を引かれて立ち上がる。足に力が入らない。私が何とか立った横で、彼は血溜まりの中からぐいとアリスを抱き上げた。
 「考えるのは後です。とにかく、外へ」
 強い声に、ふわふわした思考がついていく。
 彼の背中をぼうっと追い駆けて、涼しい夜風が頬を撫で、やっとまわりが見えるようになった。
 正門から黒煙が溢れて橙色に燃える炎が容赦なく窓を破り、噴き上がる。
 集まってきた野次馬の目を避けて外壁伝いに移動して、アキディスは静かな草地の中にアリスを横たえた。
 暗がりの中でも彼の服に大量についた赤に、気が遠くなりそうになる。

「駄目だった。人が多くて、うまく撒かれちゃった」
 戻ってきた旅楽師が、血塗れのアキディスとアリスを見つけて、愁眉を寄せた。
 くっつくように付いてきたハーゼも、彼の外套にしがみついて、泣きそうな目をあげる。
「この子は……?」
「聖女様の、妹です。……どうして、なんで、こんな……」
 声を出すと、それ以上の言葉が、喋れなくなる。
 イリス様に何て言えばいいんだろう。
 もう身代わりになるのは止めろって言われてた。
 いつのまに、また、聖女様の格好でいたんだろう。
 それよりも、どうして、目を開けてくれないんだろう。
 いてくれるだけで空気が明るくなる、この子が――。
 堪えても、堪えても溢れる涙が、全然、止まってくれない。

 いきなり肩を掴まれて、強く、温かい胸の中に抱き竦められた。
 顔をあげなくてもわかる。イリス様の身長と、体温。
 痛いほど強く抱き締められて、強い感情が流れ込んでくる。それでやっと、引き攣っていた嗚咽が、少しだけひいてきた。
「――ありがとう、ミラノ。君が、アリスの傍にいてくれて」
 びっくりするほど優しい声が、胸の中で響く。
「貴方達も。お世話になりました」
「……事情は、お察ししています。降魔の聖女様ですね。俺は、アキディス=タイド。商人として、リッド=ウインツ総議長に情報を提供しています。総議長から、話は聞いています」
 思いがけない言葉に、濡れた目を擦って顔をあげた。
 イリス様も、小さく息をのむ。
 こんな所に、こんな形で一国の盟主の耳目があるなんて、思ってもみなかった。
「――目的は同じです。提携できる部分があればと思って来たのですが……」
「……ミラノを、安全な場所で保護して欲しい」
 ぽつ、と呟いた声が、少し震えていて、反論ができない。
 この状態で、昼間と同じ話が通らないのは、はっきりしてる。
 でも、私だけ守られて、皆は……イリス様は、どうするつもりだろう。
「わかりました。他に出来る事は?」
 石造りの聖堂から、火柱が噴くのを見上げる。
 いつの間にか、ジェストが傍に立っていた。
 黙ったまま、イリス様と同じ火を見つめる。

 セフィシスがいなくて良かった、と思う。
 夜露がおりてきそうな草の中に沈んでいるアリスをみて、取り乱さない姿を想像できない。騒ぎに駆けつけた聖使達が、ようやく消火活動をはじめる声が聞こえてきた。
「――イリス様」
 ジェストの目が、炎に揺れる。
「……聖女は、火事で死んだ。損傷が激しく、先に埋葬した。彼らにはそう伝えてくれ。……それで、こいつのした事が、意味を、持つ――。」
 す、と屈んでアリスの赤い髪を撫でる。
 普通に眠っているような顔の頬にべったり付いた血が、痛い。
「火事は奴隷に優しい聖女をやっかんだ奴の仕業だと、噂を立てて欲しい。できますか」
 やわらかくアリスを抱き上げて、アキディスに向けられた声は淡々としている。
「造作ありません。あなたは、どうするんですか?」
「――暫く、身を潜めます。総議長様には、ご心配無くと、お伝え下さい」


◇◇◇商人の正体◇◇◇

 目が、熱い。
 人目につかないよう、どこかへ行ってしまったイリス様とジェストの背中が、瞼に焼き付いている。
 血糊の服を外套をかきあわせて隠したアキディスに手を引かれて、野次馬と祭りの人混みの中を縫うように歩いてきた。どこに向かっているのか、ふと静かな道に出て、小さなハーゼが私の背中を押してきてくれたことに気付く。
「大丈夫ですか? もう少しです」
 アキディスの声に改めて周りを見ると、いつのまにか旅楽師の姿は無いし、気のせいでなければ、貴族地区に入ってきている。
「あの、弟さんは……?」
「イリスさんの言っていた噂を作りに別行動です。貴女を守ってるのが俺ひとりで、すみません」
 それに大きく首を振って、目を擦った。
 祭りに浮かれた場所から少し外れただけで、冷たい夜風が差し込んでくる。ぼうっと熱に浮かされていた頭が醒めてきて、長く、息をつく。打ちひしがれてぼうっとしてても、何もならない。
「あの、どこに向かって――」
 あげた声を制されて、いきなり小さな横道に引っ張り込まれた。
「静かに……」
 アキディスの低い声に導かれて、そっと横道の奥に入っていく。壁と壁の間に入ってしまうと、暗くて、足元もよく見えない。そのまま壁にぴったり寄りかかって息を潜めていると、さっきまで通っていた大通りを、金属音を鳴らしながら大勢の警護官が市街地に向かって駆けていくのがみえた。
 多分、教会の火事に駆けつけるための一団だろう。
 なのにどうして隠れる必要があるんだろう?
 一団が通り過ぎて小さく息をつくと、今度は突然後ろから口を塞がれて、ぐいと引っ張られる。
 黒い手袋だけが、少しだけ視界に入った。
「誰だ?!」
 一瞬遅れたアキディスが身構える。
「――怖いなぁ。びっくりさせようと思っただけですよ」
 甘い小声が、耳元をくすぐる。
 口を塞いでいた手袋がするりと頬に流れて、そっと顎を上げた。
 「怪我はありませんでしたか? 火事だというので、心配しましたよ。ミラノちゃん」
 黒い。
 全身真っ黒の服に身を固めたユリウスの青い瞳が、夜の闇の中に薄く光る。
 咄嗟に、言葉が出ない。
「ユリウス。……ユリウスだ」
 ハーゼがつんと彼の外套を引っ張って、ようやくアキディスも見覚えのある人間だと気付いた。
「ここは貴族地区の筈ですが、奴隷の貴方が、どうしてここに? それに、その格好は……」
「格好というなら、お互い様ですよ。――凄い血ですね」
 一瞬、空気が凍り付く。
「ち、違うんです。アキディスさんはアリスちゃんを運んでくれて、それでっ……」
 息が切れて、声が続かない。大事な事なのに。
「では、旋風のゲイルを追い払った魔法使いは、貴方でしたか」
「いえ――。どうして、そのことを?」
「……聞いたからですよ。ゲイル君に。聖女に致命傷を与えたのに、すぐ強力な魔法使いに追い払われたと。すると、傷を受けたのは、アリスちゃんだったんですね」
 倒れた白い聖衣の姿が、脳裏に蘇ってくる。
 乾いた筈の涙が零れて、少しだけ、黒い手袋を濡らした。
「――ミラノちゃん。ゲイルは人事院の刺客です。イリスがどんなに頑張ってみても、必ず犠牲は付いてくるでしょう。それが必要最小限であるように……どうか、祈っていてください」
 する、と引いていく黒い影を、咄嗟に掴んだ。
 ユリウスまで、どこかへ消えてしまう。
 このまま、何の役にも立たないまま、何も知らないまま、守られているだけなんて――。
「ユリウスさん! 私も……私を、一緒に連れて行って下さい!」
 捕まえていた手をさっと取られて、トンと唇を落とされる。
「寂しくなったら、いつでも呼んで下さいね。私は、貴女の奴隷なんですから」
「いや、ちがっ……」
 ふと手が軽くなって、あっというまに黒い影が闇の中に消えていってしまった。
 どうして、さらっとそういう事が、できるんだろう。
「――――っ……馬鹿……」
 伸ばした手が、闇を掴む。
 真っ暗な足元まで、空っぽになっていく。
 誰も、いない。
 ぎゅっと手を掴んできてくれたハーゼの不安な眼差しが覗き込んで来なかったら、どうにかなってしまったんじゃないかと思うぐらい、小さな手の温かさが、強く身に染みる。
「……行きましょう。官公庁は、もうすぐです」
「官……?」
「総議長のもとで、ゆっくり、休んで下さい」

 遠くからしか眺めた事のない大きな建物。側面の小さな入口を通って、教会に負けない年季に溢れた行政機関の中に入る。勿論、普段一般の平民が入れる筈もない所だ。守衛にアキディスの外套の中の血を見咎められないかヒヤヒヤしたのに、あっさりと顔ひとつで通れた事にびっくりさせられた。
 人気の少ない長い廊下に、所々燭台の灯りがちらつく。
 通り過ぎていく部屋の中からは、時折、仕事に追われているような声が聞こえてきていた。
「今日は祝日で業務も終了している時間ですが、まだ終わり切れない部署もあるようですね」
 ぽかんとした顔を見つけられたのか、アキディスがやわらかい声をかけてくれる。
 政治の場所っていうのを、想像したことがなかった。
 何となく堅苦しくてきちっとした世界、みたいな漠然とした感じが、一気に物凄く現実的で事務的な、人間味に溢れた印象に染まる。
 いくつかの階段を登って、ようやく濃赤色の敷物に彩られた高級そうな廊下に出た。たぶん、ちゃんとした正門から入れば、こういう空間が続いているんだろう。外とは違って緑色の制服に身を固めた警備官が、ここではじめて声をかけてきた。
「おい――」
 思わず竦む。
 素早く近付いてくる低い声が怖い。アキディスは血糊を隠した商人だし、私もハーゼも平民の私服姿。とてもこんな所にいていい人間じゃないのは、一目でわかる。
「この前貰った土産、嫁さんが凄く喜んだぜ。ありがとな、商人」
 強面が真面目な顔のまま、くだけた声をかけてきたのに、一気に緊張が弛んだ。
「それは良かった。また掘り出し物があればお持ちしましょう。ところで、ウインツ総議長は、今、どちらに?」
「執務室だ。どうした、女連れで。逢引の手引きか?」
「そんなところです。ありがとうございます」
 あっさり頭を下げたアキディスに手を引かれながら、違います、という声は、しまっておく。

 またひとつ階段を登って、重厚な雰囲気の階層に出た。行政施設というより、貴族の空間だ。
 アキディスの足取りに迷いはない。
 高級そうな装飾の扉を、遠慮なく叩く。
「総議長。お花をお持ちしました」
 入れ、という小さな返答があって、扉の鍵が開く。
 緊張している暇もなくさっと手を引かれて中に入ると、扉が勝手に閉まって、鍵がかかった。
 いくつもの燭台で明るく照らされた一国の盟主の執務室は、濃赤色の長椅子や重厚な机のそこかしこに雑多に書類が積み上がり、最初に通り過ぎてきた下層の部屋に負けないくらいの事務色に溢れていた。
 特に酷いのは、総議長様の机まわり。
 机に積み上がった紙の量が、周囲の床にまではみ出して、白い壁が出来上がっている。
「手伝いに来たのか、邪魔をしに来たのか、まずはそれを申すがよい」
 長椅子の書類の壁の中から女性の声がして、ちら、と顔を覗かせる。
 黒髪の、切れ味の良さそうな目をした美人と目が合って、おもわず硬直した。
「どっちもです。人事院の刺客が動きました。聖女が襲われ、教会は火事です」
「教会が――?!」
 白い壁の奥から声がして、かきわけるように総議長が書類の中から顔を出す。私の姿をみつけて、あわてて立ち上がってきた。
「ミラノさん。ご無事で良かった。聖女が襲われた……とは、無事なのか?」
「本物の聖女、イリス=ローグは無事です。妹が取り違いで殺されました。ハーディスが追い払ったんですけど、間に合わなかった」
 外套の下の商人服にどす黒い血の染みがひろがっているのに、小さく息をのむ。
「それは……それで、本物は?」
「聖女を死んだ事にして身を潜める、と。現在ハーディスが、火事を聖女の奴隷保護活動をやっかんだ人間の仕業として、噂を拡散しています。それも、本物――イリス=ローグの依頼で。妹を亡くしたばかりなのに、機転が速い女性ですね。心配するなと姿を消しましたが、刺客が人事院の者であったことを知れば、報復として活動を始める可能性もあります。火事には警護官が出動しています」
 一気に喋ったアキディスの言葉を噛みしめるように訊いた総議長は、茶色のくせっ毛をくしゃりと掻いた。
「――人事院に、蜂の巣を突かれたな」
「あ、あの、それと人事院の刺客は、総議長様を狙ったあの旋風のゲイルっていう人です」
 大事な情報が抜けてるのに気付いて咄嗟に声をあげると、総議長の愁眉が濃くなった。
「なるほど。そうくるか」

「感心しておらんで、早急に手を打たぬか。人事院を押さえつけるか、元聖女を押さえておくかせぬと、法案を立てる土壌が崩壊しよう」
 ずばりと総議長を叱りつけた女性は、手元の作業を続けながら、黒い瞳をきっとアキディスにも向けた。
「人事院の動向と元聖女の所在についてのみではない。民意を落とさぬよう、吹聴の操作を怠るでないぞ。ここが勝負処と思うがよい」
「わかります。その前に、ちょっと着替えを頂けませんかね」
 慣れているのか、彼女の厳しい眼光をするりとかわして血糊のついた服をサッと脱いだアキディスに、おもわずどきっとした。
 総議長様が放り出してあったらしい服を掴んで、ポンと彼に投げる。
「――国防院を、すぐに動かせるようにしておく。だがどうしても、衝突は避けなければ。人事院内部に、取り入る事は出来ないか」
「シャロン=イアが院長になって、無駄がなくなりましたからね。以前から試みていましたが、現状では伝手がありません」
「じゃあ人事院は刺客の件で出来るだけ足を引っ張るか。アキディスは、イリス=ローグの所在と動向、世論のほうに力を入れてくれ。正使には、魔女探しの協会を通してフェリア中央教会の保全を依頼して欲しい。警護官が教会に詰めっ放しになれば、人事院に教会を乗っ取られるような形になりかねない」
「ふむ、私に出来るのはそのぐらいか。ではこの資料の山は片づけておく。心置きなく働いてくるが良い。刺客に殺されるでないぞ」
 喋りながら簡単な身支度を済ませた総議長がそれに頷いて、私の肩をぽんと叩いた。
「ここは安全です。隣に仮眠室もあるので、散らかっていて申し訳ないけど、今日はここにいて下さい」
「えっ……でも……」
「ミラノさん、ハーゼの事をお願いできますか? 流石にこの立ち回りに連れては行けないので」
 平服に着替えたアキディスに真顔でそう言われてしまうと、反論できなくなった。
「あ、あのっ……どうか、お気を付けて――」
 それしか、かける言葉がみつからない。
 一度に沢山の事をして貰っているのに、私に出来るのは、皆の無事を祈ることぐらいだなんて。
 小さく笑みを残して、急ぎ足に出て行ってしまった二人の無事を、改めて、祈る。


◇◇◇言葉の力◇◇◇

 慌しく出ていったアキディスと総議長様を見送ると、急に部屋が静かになる。
 つん、と服をひっぱるハーゼが、不安な目で見上げてきていた。
「……ミラノ。……だいじょうぶ?」
 先日まで鉄球に繋がれていた少女に、懸命に背中を押されてきたんだ。
 そう気づくと、急に情けなくなってきた。
「ありがとう。大丈夫よ」
 くしゃりと金髪を撫でてあげると、ようやくホッとした笑みがこぼれた。
「お主達。そこの棚に焼き菓子があるから、自由に食べて今日は早く寝るがよい。おそらく彼らの帰りは明日になる。気を揉んでおるより、ずっと良かろう」
 平然として総議長様達をそんなふうに言う黒髪の女性は、手元の仕事に没頭していた。
 邪魔をしないようにそっとお礼を言って、棚の中に纏めてあった焼き菓子をひろげる。沢山の種類に、ぱっと顔を輝かせてそれを頬張るハーゼ。その隣でそっと口に運んだ焼き菓子は、ほんのり甘い。不安と緊張とが、一気に和らいでいく気がした。たぶん、ハーゼがいなかったら、喉を通らなかったと思う。
 いきおい良くお菓子を食べたハーゼの瞼が重くなったのをみて、恐る恐る隣の部屋を開ける。仮眠室とはいえ高価そうな調度品が揃った空間に、やっぱり少しだけ、圧倒される。それでも、ハーゼをふかふかの寝台に連れて行くと、彼女はあっという間に寝息をたてはじめた。可愛いなと思ってから、服も昨日よりずっと流行の可愛いものになっているのに気付く。金髪を束ねている薄紅色のリボンはユリウスが整えてくれたものだし、服とあわせて小柄なハーゼに、よく似合ってる。
 床にぺたりと座り込んで、ふかふかの寝台に頭を預けると、それだけで、十分気持ち良い。
 ――横には、なれなかった。
 どうしても、アリスの白い顔が、頭から離れない。

 トン、と小さい音に顔を上げると、さっきの黒髪の女性が、仮眠室の入り口に立っていた。
「こら、そこで眠る気か。ハーゼを見習うのだな」
 最初から気になっていたけれど、この人の独特な喋り方は、どこの出身なんだろう。
「眠く、ないんです……えっと、お名前をお伺いしても良いですか? 私、ミラノ=アートです」
 座ったままペコリと頭を下げてみる。
 総議長様より身分の高い人はいないだろうけど、多分この人も貴族のひとりなんだろうと、ぼんやり思っていた。
「シェリース王国女王補佐官、セキ=アドリスと申す。今回こちらへは協定の正使として参じておるが、リッドとは縁あってな。ここでも補佐官をさせられておるところだ」
 ふう、と息をついた彼女の口から、なんだが凄い言葉を聞いた気がした。
「――正使様?!」
「まぁ、そんな訳で私がいる所は治外法権。安全と思って貰って良い。逆を言えば私はこの件に直接介入する事が出来ぬ立場にある。アキディスを使うか、伝書鳥を飛ばすしか手助けが出来ぬ事、容赦願いたい」
 真っ直ぐな言葉が、涼しく胸を撫でていく。
 淡々とした言葉の中に温かさが滲んでいる。
 緊張するより、どこか、ささくれていた気持ちが緩むような気がした。
「……私、結局何の役にも立てなくて。アリスちゃんも助けられなくて、イリス様の力になる事も出来なくて……イリス様を見失ったら、もう何をしたらいいかもわからなくって……本当、馬鹿ですよね……」
 勝手に言葉がこぼれていく。
 自分でも、何を言いたいのかわからない。
 初対面の偉い人にこんな弱音を呟いてみても、何もならないのに。
 いきなり正使に腕を掴まれて、ぐいと立たされる。びっくりして顔をあげると、きり、とした真顔が間近にあった。
 「悩んでおる元気があるなら、私の仕事を手伝うのだな。そうやって悶々とするのは、頭が暇なのだ。忙殺されれば、思い煩う事はない。それとも、きちんと寝台に横になるか」
 厳しくて強く優しい瞳。
 一国の王の補佐官。
 その凄みが、暗く沈みかけていた私を、ひっぱりあげてくれている。
「……お手伝いします」
 小さくそう言うと、少し元気が出てきた。

 少しだけ笑んだ正使の背中に続いて仮眠室を出る。
 改めてみる執務室の書類の量に、目を擦った。
「地方別に奴隷の状況と所属・経緯などが積み上がっておる。これを経緯の傾向で区分して、奴隷制廃止の後にどう処遇するかを法案として書面ではっきりさせねばならぬ。様々な状況を想定して明確にしておかねば、反対派の叩きどころとなるし、不正の種となる事もある。先刻までリッドがやっておったのは、傾向別に分けた内容に目を通して概要を纏める作業。これを今度は私がやるから、ミラノは地方別の山を傾向別に分配するのを任せたい。出来そうか?」
 一気に事務色に染まった現実が展開したのに、気を引き締めて頷く。
 さっきまで正使がいた場所にすっぽり入って、一枚一枚紙を色々な区分に分けていく作業に取り掛かって、思ったよりも複雑な内容に、さっそく息が詰まりそうになった。
 これを総議長様と正使が、たったふたりで全部やろうとしていたんだ。
 ちら、と正使を見れば、紙の束をバラバラと捲って目を通し、気になった所でピタリと止めてはさっと書き留めるという作業を、物凄い速度でこなしている。

「……ところでミラノ、先程自分の事を馬鹿だと言っておったが、それほど卑下するような事ではない。人間は皆必ず馬鹿な部分を持っておる。問題はその馬鹿が善い馬鹿か、悪い馬鹿かだ」
「善い馬鹿と悪い馬鹿……ですか?」
 アドリス正使の手元の速度は変わらない。
 仕事が速いうえに違う話も一緒に出来るなんて、凄い。
「王国出身の私には、王に忠実に仕えるのは臣下として当然と忠義だ。問題は、その忠義が国の為なのか、王の為なのか、自分の為なのか。そういう確たるものを自認しているかいないかは、大きい。きちんと自認している者は、誰に何を言われずともおのずと必要な働きが出来る。あやふやなまま周囲に同調し続ける者は、いざという時、信が置けぬ」
 どうしていきなりそんな話になっているのか分からないけれど、ぼうっとしかけていた頭は、醒めてきた。
「じゃあ私は、悪い馬鹿ですね」
「悪い馬鹿は容易く善い馬鹿になれる。善い馬鹿は容易く極悪人になる。難しいのは、いかにして善い馬鹿であり続ける事が出来るかだな」
「……善い馬鹿が、極悪人になるんですか?」
「例えば奴隷の解放を目的に行動をおこすのは人道的に概ね良い事であろうが、聖女は方法が悪い。争乱になれば、魔女の魔物に双方とも潰されてしまう。戦場には魔物か水難、というのは、300年の魔女の世の鉄則であろう。そこに、解決や勝機というものは期待できぬ事だ。我が国の内乱の折も、多くの魔物が出た。当人にそのつもりが無くとも、多くの犠牲をつくることは避けられぬ。しかも、善い事をしておる自覚が強ければ強いほど、引き返す道を当人が選ぶ事は、難しい」
「――戦場には、魔物……。300年前の、昔話じゃ、なかったんですか」
 イリス様の事を出されて、どきりとした。
 魔女が世界を支配しているっていう実感が、あんまり無い。
 本当に戦場に魔物が出たり洪水になったりするんだろうかっていうのは、何となくぼんやり頭の片隅にはあったけれど。
「以前の元聖女反逆の際も、この街に多くの魔物が出たと聞いておるぞ。魔女の支配と法則は、伝説ではない。現実だ。魔女探し達も協会を作って情報の共有を始めておる」
 頭の中で、ばらばらに散っていた何かが、ひとつの形になったような気がした。
 6年前、セフィシスに引き留められて『降魔の聖女』の半分として教会に残ることになったこと。
 イリス様が当時からずっと奴隷解放の活動をしていて、私には今まで何も求めていなかったのに、最近になって仲間入りさせてくれたこと。
 セフィシスが当たり前のように、イリス様が私を守らなきやいけないと言ったのに、イリス様も自然に納得してしまっていた事。
「……そっか。私には、魔物を消す力があるから――」
 6年前みたいに、魔物が出たら、すぐに消してしまえば、大きな被害にはならないだろう。
 私は、そのためにイリス様の傍で、守られていたんだ。
「――何、魔物を消す?」
 正使が手を止めてこちらを見ているのに気付いて、慌てて首を左右に振る。
「いや! あの、な、何でもないんです!」
「……『降魔の聖女』は魔物を消す力を持つと聞いたが……しかし、その聖女は実は解放活動の首領か。おぬし、もしかして、利用されておったのか」
 率直な言葉に、胸が痛い。
 でも、逆にすっきりした気がする。
「利用だなんて……。でも、そうかも知れません。私も、わかっていて、それでも私に出来る事をしたかったんです」
 ――できることをしたい。なんて、何もできなかった昔の自分の、言い訳かな――?
「ありがとうございます。私、イリス様の為に出来るのが何なのか、わかりました」
 首を傾げながらも、どこか温かい正使の視線を、うけとめる。
「利用した者の為に――? 何故、そんな事をする気になれる」
「イリス様が、私を遠ざけていたことも、今も遠ざけてしまっている事も、多分、何も知らなかった私への優しさだから――そういうあの人が、どうしても、好きだから……」



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「シャロン様ー! すっげぇ情報掴んで来やしたー!」
 バンと扉を開け放して私室に踏み込んだ旋風のゲイルは、次の瞬間、ぴたりと動きを止めた。
 濃赤色の重厚な長椅子の上で、主人――人事院院長シャロン=イアが、不機嫌そうな目をゆっくりと向ける。
「扉は叩いて、許可を得てから入るものだ。馬鹿が」
 ほどけた茶色の髪を掻き上げて身体を起こす。
 それを追って下からするりと腕が伸び、シャロンの服を引っ張った。
「ふふ……良い所で、邪魔されちゃいましたね」
 甘い声が、低く響く。
 長椅子の赤に、薄茶色の髪と土色の奴隷服が、不釣合いに散らばっていた。
 硬直したゲイルを尻目に、シャロンは組み敷いていた人間の腕を掴んで、ぐいと抱き起こす。
 胸に刻まれた奴隷の刻印。ついでにそれが男だというのも、はっきりした。
「――あれ?! てめぇ、教会に行った筈じゃ……」
「そう、間諜としてね。ご報告に伺って、当然でしょう?」
 唇を尖らせるユリウスに、ゲイルは、反発する言葉もない。
「――それで。情報とやらを訊こうか」
「あ、それなんですけど! 教会の聖女が奴隷解放の活動をしてやがったんですよ! 総議長殺ろうと思って行ったら、そんな話してたんす!」
「……それで? 総議長はどうした」
「え? あ、それはまた今度で……」
 眉ひとつ動かさない主人に、急速に声が小さくなる。
 シャロンの溜息に、彼は肩を竦めた。
「『降魔の聖女』が奴隷解放活動をしているのは、とっくに知っている。その為にユリウスを教会に潜り込ませているのだ。そもそもあの女は、前の反逆の時にも剣を持ってあの場にいた。私は最初から目をつけている。今更お前に報告される内容ではない」
「――それよりも、どうして名乗っちゃったんですかねぇ。旋風のゲイル君。総議長に、しっかり聞かれています。警護官に手配がかけられていますよ」
「へ!? あれ?! つーか、何でてめぇが知ってるんだ」
「それは私が有能だからです」
 涼しい笑顔で馬鹿にされたところで、ゲイルは腹が立つよりも焦燥が迫ってきた。
 主人の視線がさっきから冷たく突き刺さっている。
「で。警護官を管轄する人事院の中に、その手配犯がいる訳だが。さて、どうするか」
「い、今すぐ総議長を殺ってきやす!」
 びし、と直立したゲイルに、間髪入れず嘲笑がとぶ。
「無理ですよ。今日の今日で、警備は厚くなっている筈。せいぜい身を隠すんですね」
「っ……じ、じゃあ、聖女を殺ってきやす! そうすりゃ仲間連中も、ビビッて動けなくなりますぜ」
「――ふむ。目をつけてはいるものの、動く気配がなくて静観していたが……けしかければ、尻尾を出すかな。ユリウス、どう思う」
「『降魔の聖女』は退魔師なんですから、手強いですよ。ゲイル君が返り討ちに遭ったり捕まったりしなければいいですけど」
「よし、捕まったら、助けてやろう。やるだけやってみるがいい」
 やっと僅かに笑みをみせた主人に、ぱっと気分を改めて、了解しやした、と元気に飛び出していったゲイルも、扉を閉めていくのは忘れなかった。
「……助けてやるなんて、お優しい嘘ですね」
「ペットは餌で操るものだ。牢の中では、永遠に馬鹿な口を閉じる事になるだろうがな」
「ふふ……悪い人ですねぇ」
「ふん。この口が言うか。詐欺師が――。」
 年2回のフェリアの祭りは、賑わいを惜しむように、夜が明けるまで続く。
 日が暮れてもきらきらと輝く明るい街の活気も、教会の鐘台の上からは、どこか、遠い。
 ミラノは、聖使の外套を羽織っていつもの場所に登ってきていた。
 イリス様はまた私服でどこかに出掛けてしまったし、セフィシスもジェストも散らばっている仲間達に連絡を取る為に出てしまっていて、私には、出来る事がない。
 任されているのは、教会で保護している奴隷達を、守ること。
 大した魔法が使える訳じゃなくて、いざとなたら扉を閉ざす事ぐらいしか出来ないけど。それじゃあ『守る』って、どういうことだろう、と思ってしまう。この数年間で、平民からの奴隷への視線は、すごく柔らかくなってきた。それは聖女様が築いた社会的な信頼だし、総議長様も制度を改革する用意を進めている。
 だから、魔法で何かからの攻撃から守るとか、剣で相手を倒すとか……。
 『人を守』るっていうのが、そういう事じゃないっていう事は、少し、わかってきたような気がしている。
「――こんばんは、お姉さん」
 突然湧いて出た綺麗な低音に、びっくりした。
 声のした足元を見れば、教会の屋根の上にちょこんと立った青年が、可愛い笑顔を見せていた。
「良い景色だね。いつもここにいるの? 僕も、そっちに行っていい?」
 昼間の旅楽師。
 何か見た事あると思ったけれど、どうしてこんな所にいるんだろう。
 びっくりしているうちに、足元に風魔法を乗せて、ひらりと傍に飛んできた。
 遠くからでも可愛いな男性だなと思ったけれど、近くでみると、思わず撫でたい衝動に駆られそうになる。
 さすがに同世代の男性には、失礼な感想かもしれない。
 そう思うことで、手のひらを握りしめた。
「公園で観ててくれたよね。屋根の上にいたから、覚えちゃったよ。高い所、好き?」
 人懐っこい笑顔がすぐ傍にあって、ちょっと変な感じがする。
 それにしても、彼はどうしてこんな所に来たんだろう。
「高い所っていうか……何となく、広い所を見るのが好きです。田舎育ちだからかなぁ」
「あ、わかる! 賑やかなのも好きだけど、広くて静かな所っていいよね。ねぇ、シェリース王国の首都に行ったことある? すごく高くて、滑り台もあって、景色もいいし、いいとこだよっ」
 よく手入れしてあるサラサラの黒髪が風に揺れて、色彩豊かな衣装を隠すように羽織った外套の上を撫でる。
 貴族の人達とは違う、人を惹きつける何かが滲み出てる気がする。
「あ。それと、昨日はお兄ちゃんがお世話になりました。夜中にお邪魔しちゃったみたいで、本当にごめんね。夜、ちゃんと眠れた? ハーゼが君の所に泊まったって言ってたけど」
「えっ……弟さん?!」
 言われてみれば、確かに、うっすら似た面影があるような。
 可愛い独特の雰囲気で、全然、わからなかった。
「うん。僕、ハーディス=タイドっていいます。今、下でお兄ちゃんがミラノさんが登ってるのを見つけてね、それで、僕からも何かお礼ができないかなって。昼間の演奏はちょっと遠かったし、迷惑でなければ、ここで一曲贈らせて貰っても、いいかな」
 勿論と頷いて、[[rb:手風琴 > アコーディオン]]を構える旅楽師を、ぼうっと眺める。
 空気を吸い込んだ腕の中の楽器が、あたたかい吐息のような音を響かせた。
 いつも高らかに鳴り渡る教会の鐘の音とは、全然違う。
 大きな音には慣れているのに、間近で初めて聴く楽師の音色に晒されて、肌が震える。
 指先が滑らかに鍵盤の上で踊り、やさしくて、切ないような旋律が、空気に満ちていく。
 ――凄い。
 文化の中心地であるこのフェリアにも、勿論音楽はある。
 公園や酒場で奏でられる音は、人々の賑わいの一部として身近にあって、そんなに珍しいものじゃない。
 だけど、この旋律は。
 ふるえた肌から、身体の内側にまで、染み込むように広がっていく。
 どこか緊張していた身体の芯が暖かくなる。まるで、温泉にでも入っているみたいな感じ。
 すう、と夜の風を吸い込んで、そっと息をついた。
「――ミラノさん、聖堂の窓って、入り口になってる?」
「え?」
 ふ、と音楽が止んで、口を開いたハーディスの視線が聖堂の屋根に注がれていた。
「えっと、窓は入口じゃないと思うんですけど……」
「そうだよね。今、あやしい人が窓から入って行ったけど……大丈夫なのかな」
 聖堂はさっき通った時には誰もいなかった。
 特に盗られるような金目のものは置いていないけれど――。
 昼間の、刺客。
 咄嗟に思い当たったあの顔に、ぞっとする。
 ――怖い。でも、怖がってる場合じゃない。ぐっと自分を励まして、立つ。
「大変……! 危険な人です。聖堂、誰もいないとは思うけど……!」
「今日は退魔師の人はいないの?」
 その声に頷くと、彼は手風琴を背中に押しやり、口風琴を口元にまわして私の腕をとった。
『風よ 我が意に従え』
 速やかに魔力の風が纏わりついて、ポンと彼が屋根を蹴った。滑るような落下感に喉まで悲鳴が出そうになる。聖堂の窓枠の所でピタッと静止したところで、声を飲み込んだ。
『火よ 我が意に従えっ!!』
 高い声が、魔力の炎を立ち上げる。
 ゴッと黒煙を散らして渦巻く火炎が手あたり次第に放たれた中で、白い聖衣がひらめいていた。
「そんなもんかよっ」
 火炎をすり抜けた男が、彼女に突進する。その短剣が聖衣に届く直前に、風圧が壁を作った。
 口風琴の音が、詠唱なしに風魔法を――。
 隣の旅楽師に驚いている暇はない。体勢を立て直した男が、こっちをみる。
「な、何だてめぇ」
 やっぱり、昼間の刺客。
 すぐ隣で鳴る口風琴が、強烈な風魔法を放つ。鋭い風魔法に短剣を弾かれてた男は、ぱっと距離を取り、正門から飛び出して行った。
「あ、待て――」
 駆け出して行った旅楽師の背中に続いて走りかけたけれど、あっという間に二人とも姿が見えなくなってしまう。
 とさ、と小さな音に振り返って、さっき派手な火魔法を使っていた女の子が、前のめりに倒れ込んでいるのをみつける。
「だ、大丈夫ですか――」
 ぱっと駆け寄って、それがアリスだったことに、初めて気付いた。
 赤い髪に長い付け毛を足していたから、一瞬誰だか分からなかった。
 それにアリスは聖使じゃない。聖衣を着ている筈がなかった。それも、聖女様用の、丈の長いやつだ。
 そんな事を観察している場合じゃないのは、わかってる。
 だけど、血が。
 白い聖衣が赤くなる。塗料をひっくり返したみたいに、みるみる床にひろがっていく。
「――っ……『光よ 集い来たれ』!!」
 セフィシスの詠唱を、真似てみる。
 魔力が小さく動いて、ほんのりと紅色の光がアリスを包む。
 全然、足りない。
 何度も何度も同じ詠唱をして、やっと少しだけまともな魔力の量が動いた感触がした。
 僅かに身じろぎしたアリスの肩に、そっと触れる。
 下手に動かしちゃ駄目だ。
 小さく吐いた息が、血溜まりの中に消えていく。
「……お兄、ちゃん……」
 微かな声のあとに、紅色に包んでいた魔力が、ふっと掻き消えた。
「アリスちゃん――アリスちゃん?!」
 魔法が、効かない。
 今度は何度同じ詠唱を繰り返しても撥ね返されて、宙に散っていく。
 アリスの白い横顔が止まったまま動かないのから、目が離せない。
 触れてみれば温かくて、震える自分の手を、握りしめた。
「何してるんですかっ!? 早く、避難を……!!」
 覚えのある声に振り返ると、いつの間にか聖堂の長椅子が高々と炎を上げているのに初めて気付いた。
 その間から、黒髪の商人が駆けてくる。
「ミラノさん! 怪我してませんか?! 立てますか? すぐ出て下さいっ!」
「アリスちゃんが――」
 アキディスに腕を引かれて立ち上がる。足に力が入らない。私が何とか立った横で、彼は血溜まりの中からぐいとアリスを抱き上げた。
 「考えるのは後です。とにかく、外へ」
 強い声に、ふわふわした思考がついていく。
 彼の背中をぼうっと追い駆けて、涼しい夜風が頬を撫で、やっとまわりが見えるようになった。
 正門から黒煙が溢れて橙色に燃える炎が容赦なく窓を破り、噴き上がる。
 集まってきた野次馬の目を避けて外壁伝いに移動して、アキディスは静かな草地の中にアリスを横たえた。
 暗がりの中でも彼の服に大量についた赤に、気が遠くなりそうになる。
「駄目だった。人が多くて、うまく撒かれちゃった」
 戻ってきた旅楽師が、血塗れのアキディスとアリスを見つけて、愁眉を寄せた。
 くっつくように付いてきたハーゼも、彼の外套にしがみついて、泣きそうな目をあげる。
「この子は……?」
「聖女様の、妹です。……どうして、なんで、こんな……」
 声を出すと、それ以上の言葉が、喋れなくなる。
 イリス様に何て言えばいいんだろう。
 もう身代わりになるのは止めろって言われてた。
 いつのまに、また、聖女様の格好でいたんだろう。
 それよりも、どうして、目を開けてくれないんだろう。
 いてくれるだけで空気が明るくなる、この子が――。
 堪えても、堪えても溢れる涙が、全然、止まってくれない。
 いきなり肩を掴まれて、強く、温かい胸の中に抱き竦められた。
 顔をあげなくてもわかる。イリス様の身長と、体温。
 痛いほど強く抱き締められて、強い感情が流れ込んでくる。それでやっと、引き攣っていた嗚咽が、少しだけひいてきた。
「――ありがとう、ミラノ。君が、アリスの傍にいてくれて」
 びっくりするほど優しい声が、胸の中で響く。
「貴方達も。お世話になりました」
「……事情は、お察ししています。降魔の聖女様ですね。俺は、アキディス=タイド。商人として、リッド=ウインツ総議長に情報を提供しています。総議長から、話は聞いています」
 思いがけない言葉に、濡れた目を擦って顔をあげた。
 イリス様も、小さく息をのむ。
 こんな所に、こんな形で一国の盟主の耳目があるなんて、思ってもみなかった。
「――目的は同じです。提携できる部分があればと思って来たのですが……」
「……ミラノを、安全な場所で保護して欲しい」
 ぽつ、と呟いた声が、少し震えていて、反論ができない。
 この状態で、昼間と同じ話が通らないのは、はっきりしてる。
 でも、私だけ守られて、皆は……イリス様は、どうするつもりだろう。
「わかりました。他に出来る事は?」
 石造りの聖堂から、火柱が噴くのを見上げる。
 いつの間にか、ジェストが傍に立っていた。
 黙ったまま、イリス様と同じ火を見つめる。
 セフィシスがいなくて良かった、と思う。
 夜露がおりてきそうな草の中に沈んでいるアリスをみて、取り乱さない姿を想像できない。騒ぎに駆けつけた聖使達が、ようやく消火活動をはじめる声が聞こえてきた。
「――イリス様」
 ジェストの目が、炎に揺れる。
「……聖女は、火事で死んだ。損傷が激しく、先に埋葬した。彼らにはそう伝えてくれ。……それで、こいつのした事が、意味を、持つ――。」
 す、と屈んでアリスの赤い髪を撫でる。
 普通に眠っているような顔の頬にべったり付いた血が、痛い。
「火事は奴隷に優しい聖女をやっかんだ奴の仕業だと、噂を立てて欲しい。できますか」
 やわらかくアリスを抱き上げて、アキディスに向けられた声は淡々としている。
「造作ありません。あなたは、どうするんですか?」
「――暫く、身を潜めます。総議長様には、ご心配無くと、お伝え下さい」
◇◇◇商人の正体◇◇◇
 目が、熱い。
 人目につかないよう、どこかへ行ってしまったイリス様とジェストの背中が、瞼に焼き付いている。
 血糊の服を外套をかきあわせて隠したアキディスに手を引かれて、野次馬と祭りの人混みの中を縫うように歩いてきた。どこに向かっているのか、ふと静かな道に出て、小さなハーゼが私の背中を押してきてくれたことに気付く。
「大丈夫ですか? もう少しです」
 アキディスの声に改めて周りを見ると、いつのまにか旅楽師の姿は無いし、気のせいでなければ、貴族地区に入ってきている。
「あの、弟さんは……?」
「イリスさんの言っていた噂を作りに別行動です。貴女を守ってるのが俺ひとりで、すみません」
 それに大きく首を振って、目を擦った。
 祭りに浮かれた場所から少し外れただけで、冷たい夜風が差し込んでくる。ぼうっと熱に浮かされていた頭が醒めてきて、長く、息をつく。打ちひしがれてぼうっとしてても、何もならない。
「あの、どこに向かって――」
 あげた声を制されて、いきなり小さな横道に引っ張り込まれた。
「静かに……」
 アキディスの低い声に導かれて、そっと横道の奥に入っていく。壁と壁の間に入ってしまうと、暗くて、足元もよく見えない。そのまま壁にぴったり寄りかかって息を潜めていると、さっきまで通っていた大通りを、金属音を鳴らしながら大勢の警護官が市街地に向かって駆けていくのがみえた。
 多分、教会の火事に駆けつけるための一団だろう。
 なのにどうして隠れる必要があるんだろう?
 一団が通り過ぎて小さく息をつくと、今度は突然後ろから口を塞がれて、ぐいと引っ張られる。
 黒い手袋だけが、少しだけ視界に入った。
「誰だ?!」
 一瞬遅れたアキディスが身構える。
「――怖いなぁ。びっくりさせようと思っただけですよ」
 甘い小声が、耳元をくすぐる。
 口を塞いでいた手袋がするりと頬に流れて、そっと顎を上げた。
 「怪我はありませんでしたか? 火事だというので、心配しましたよ。ミラノちゃん」
 黒い。
 全身真っ黒の服に身を固めたユリウスの青い瞳が、夜の闇の中に薄く光る。
 咄嗟に、言葉が出ない。
「ユリウス。……ユリウスだ」
 ハーゼがつんと彼の外套を引っ張って、ようやくアキディスも見覚えのある人間だと気付いた。
「ここは貴族地区の筈ですが、奴隷の貴方が、どうしてここに? それに、その格好は……」
「格好というなら、お互い様ですよ。――凄い血ですね」
 一瞬、空気が凍り付く。
「ち、違うんです。アキディスさんはアリスちゃんを運んでくれて、それでっ……」
 息が切れて、声が続かない。大事な事なのに。
「では、旋風のゲイルを追い払った魔法使いは、貴方でしたか」
「いえ――。どうして、そのことを?」
「……聞いたからですよ。ゲイル君に。聖女に致命傷を与えたのに、すぐ強力な魔法使いに追い払われたと。すると、傷を受けたのは、アリスちゃんだったんですね」
 倒れた白い聖衣の姿が、脳裏に蘇ってくる。
 乾いた筈の涙が零れて、少しだけ、黒い手袋を濡らした。
「――ミラノちゃん。ゲイルは人事院の刺客です。イリスがどんなに頑張ってみても、必ず犠牲は付いてくるでしょう。それが必要最小限であるように……どうか、祈っていてください」
 する、と引いていく黒い影を、咄嗟に掴んだ。
 ユリウスまで、どこかへ消えてしまう。
 このまま、何の役にも立たないまま、何も知らないまま、守られているだけなんて――。
「ユリウスさん! 私も……私を、一緒に連れて行って下さい!」
 捕まえていた手をさっと取られて、トンと唇を落とされる。
「寂しくなったら、いつでも呼んで下さいね。私は、貴女の奴隷なんですから」
「いや、ちがっ……」
 ふと手が軽くなって、あっというまに黒い影が闇の中に消えていってしまった。
 どうして、さらっとそういう事が、できるんだろう。
「――――っ……馬鹿……」
 伸ばした手が、闇を掴む。
 真っ暗な足元まで、空っぽになっていく。
 誰も、いない。
 ぎゅっと手を掴んできてくれたハーゼの不安な眼差しが覗き込んで来なかったら、どうにかなってしまったんじゃないかと思うぐらい、小さな手の温かさが、強く身に染みる。
「……行きましょう。官公庁は、もうすぐです」
「官……?」
「総議長のもとで、ゆっくり、休んで下さい」
 遠くからしか眺めた事のない大きな建物。側面の小さな入口を通って、教会に負けない年季に溢れた行政機関の中に入る。勿論、普段一般の平民が入れる筈もない所だ。守衛にアキディスの外套の中の血を見咎められないかヒヤヒヤしたのに、あっさりと顔ひとつで通れた事にびっくりさせられた。
 人気の少ない長い廊下に、所々燭台の灯りがちらつく。
 通り過ぎていく部屋の中からは、時折、仕事に追われているような声が聞こえてきていた。
「今日は祝日で業務も終了している時間ですが、まだ終わり切れない部署もあるようですね」
 ぽかんとした顔を見つけられたのか、アキディスがやわらかい声をかけてくれる。
 政治の場所っていうのを、想像したことがなかった。
 何となく堅苦しくてきちっとした世界、みたいな漠然とした感じが、一気に物凄く現実的で事務的な、人間味に溢れた印象に染まる。
 いくつかの階段を登って、ようやく濃赤色の敷物に彩られた高級そうな廊下に出た。たぶん、ちゃんとした正門から入れば、こういう空間が続いているんだろう。外とは違って緑色の制服に身を固めた警備官が、ここではじめて声をかけてきた。
「おい――」
 思わず竦む。
 素早く近付いてくる低い声が怖い。アキディスは血糊を隠した商人だし、私もハーゼも平民の私服姿。とてもこんな所にいていい人間じゃないのは、一目でわかる。
「この前貰った土産、嫁さんが凄く喜んだぜ。ありがとな、商人」
 強面が真面目な顔のまま、くだけた声をかけてきたのに、一気に緊張が弛んだ。
「それは良かった。また掘り出し物があればお持ちしましょう。ところで、ウインツ総議長は、今、どちらに?」
「執務室だ。どうした、女連れで。逢引の手引きか?」
「そんなところです。ありがとうございます」
 あっさり頭を下げたアキディスに手を引かれながら、違います、という声は、しまっておく。
 またひとつ階段を登って、重厚な雰囲気の階層に出た。行政施設というより、貴族の空間だ。
 アキディスの足取りに迷いはない。
 高級そうな装飾の扉を、遠慮なく叩く。
「総議長。お花をお持ちしました」
 入れ、という小さな返答があって、扉の鍵が開く。
 緊張している暇もなくさっと手を引かれて中に入ると、扉が勝手に閉まって、鍵がかかった。
 いくつもの燭台で明るく照らされた一国の盟主の執務室は、濃赤色の長椅子や重厚な机のそこかしこに雑多に書類が積み上がり、最初に通り過ぎてきた下層の部屋に負けないくらいの事務色に溢れていた。
 特に酷いのは、総議長様の机まわり。
 机に積み上がった紙の量が、周囲の床にまではみ出して、白い壁が出来上がっている。
「手伝いに来たのか、邪魔をしに来たのか、まずはそれを申すがよい」
 長椅子の書類の壁の中から女性の声がして、ちら、と顔を覗かせる。
 黒髪の、切れ味の良さそうな目をした美人と目が合って、おもわず硬直した。
「どっちもです。人事院の刺客が動きました。聖女が襲われ、教会は火事です」
「教会が――?!」
 白い壁の奥から声がして、かきわけるように総議長が書類の中から顔を出す。私の姿をみつけて、あわてて立ち上がってきた。
「ミラノさん。ご無事で良かった。聖女が襲われた……とは、無事なのか?」
「本物の聖女、イリス=ローグは無事です。妹が取り違いで殺されました。ハーディスが追い払ったんですけど、間に合わなかった」
 外套の下の商人服にどす黒い血の染みがひろがっているのに、小さく息をのむ。
「それは……それで、本物は?」
「聖女を死んだ事にして身を潜める、と。現在ハーディスが、火事を聖女の奴隷保護活動をやっかんだ人間の仕業として、噂を拡散しています。それも、本物――イリス=ローグの依頼で。妹を亡くしたばかりなのに、機転が速い女性ですね。心配するなと姿を消しましたが、刺客が人事院の者であったことを知れば、報復として活動を始める可能性もあります。火事には警護官が出動しています」
 一気に喋ったアキディスの言葉を噛みしめるように訊いた総議長は、茶色のくせっ毛をくしゃりと掻いた。
「――人事院に、蜂の巣を突かれたな」
「あ、あの、それと人事院の刺客は、総議長様を狙ったあの旋風のゲイルっていう人です」
 大事な情報が抜けてるのに気付いて咄嗟に声をあげると、総議長の愁眉が濃くなった。
「なるほど。そうくるか」
「感心しておらんで、早急に手を打たぬか。人事院を押さえつけるか、元聖女を押さえておくかせぬと、法案を立てる土壌が崩壊しよう」
 ずばりと総議長を叱りつけた女性は、手元の作業を続けながら、黒い瞳をきっとアキディスにも向けた。
「人事院の動向と元聖女の所在についてのみではない。民意を落とさぬよう、吹聴の操作を怠るでないぞ。ここが勝負処と思うがよい」
「わかります。その前に、ちょっと着替えを頂けませんかね」
 慣れているのか、彼女の厳しい眼光をするりとかわして血糊のついた服をサッと脱いだアキディスに、おもわずどきっとした。
 総議長様が放り出してあったらしい服を掴んで、ポンと彼に投げる。
「――国防院を、すぐに動かせるようにしておく。だがどうしても、衝突は避けなければ。人事院内部に、取り入る事は出来ないか」
「シャロン=イアが院長になって、無駄がなくなりましたからね。以前から試みていましたが、現状では伝手がありません」
「じゃあ人事院は刺客の件で出来るだけ足を引っ張るか。アキディスは、イリス=ローグの所在と動向、世論のほうに力を入れてくれ。正使には、魔女探しの協会を通してフェリア中央教会の保全を依頼して欲しい。警護官が教会に詰めっ放しになれば、人事院に教会を乗っ取られるような形になりかねない」
「ふむ、私に出来るのはそのぐらいか。ではこの資料の山は片づけておく。心置きなく働いてくるが良い。刺客に殺されるでないぞ」
 喋りながら簡単な身支度を済ませた総議長がそれに頷いて、私の肩をぽんと叩いた。
「ここは安全です。隣に仮眠室もあるので、散らかっていて申し訳ないけど、今日はここにいて下さい」
「えっ……でも……」
「ミラノさん、ハーゼの事をお願いできますか? 流石にこの立ち回りに連れては行けないので」
 平服に着替えたアキディスに真顔でそう言われてしまうと、反論できなくなった。
「あ、あのっ……どうか、お気を付けて――」
 それしか、かける言葉がみつからない。
 一度に沢山の事をして貰っているのに、私に出来るのは、皆の無事を祈ることぐらいだなんて。
 小さく笑みを残して、急ぎ足に出て行ってしまった二人の無事を、改めて、祈る。
◇◇◇言葉の力◇◇◇
 慌しく出ていったアキディスと総議長様を見送ると、急に部屋が静かになる。
 つん、と服をひっぱるハーゼが、不安な目で見上げてきていた。
「……ミラノ。……だいじょうぶ?」
 先日まで鉄球に繋がれていた少女に、懸命に背中を押されてきたんだ。
 そう気づくと、急に情けなくなってきた。
「ありがとう。大丈夫よ」
 くしゃりと金髪を撫でてあげると、ようやくホッとした笑みがこぼれた。
「お主達。そこの棚に焼き菓子があるから、自由に食べて今日は早く寝るがよい。おそらく彼らの帰りは明日になる。気を揉んでおるより、ずっと良かろう」
 平然として総議長様達をそんなふうに言う黒髪の女性は、手元の仕事に没頭していた。
 邪魔をしないようにそっとお礼を言って、棚の中に纏めてあった焼き菓子をひろげる。沢山の種類に、ぱっと顔を輝かせてそれを頬張るハーゼ。その隣でそっと口に運んだ焼き菓子は、ほんのり甘い。不安と緊張とが、一気に和らいでいく気がした。たぶん、ハーゼがいなかったら、喉を通らなかったと思う。
 いきおい良くお菓子を食べたハーゼの瞼が重くなったのをみて、恐る恐る隣の部屋を開ける。仮眠室とはいえ高価そうな調度品が揃った空間に、やっぱり少しだけ、圧倒される。それでも、ハーゼをふかふかの寝台に連れて行くと、彼女はあっという間に寝息をたてはじめた。可愛いなと思ってから、服も昨日よりずっと流行の可愛いものになっているのに気付く。金髪を束ねている薄紅色のリボンはユリウスが整えてくれたものだし、服とあわせて小柄なハーゼに、よく似合ってる。
 床にぺたりと座り込んで、ふかふかの寝台に頭を預けると、それだけで、十分気持ち良い。
 ――横には、なれなかった。
 どうしても、アリスの白い顔が、頭から離れない。
 トン、と小さい音に顔を上げると、さっきの黒髪の女性が、仮眠室の入り口に立っていた。
「こら、そこで眠る気か。ハーゼを見習うのだな」
 最初から気になっていたけれど、この人の独特な喋り方は、どこの出身なんだろう。
「眠く、ないんです……えっと、お名前をお伺いしても良いですか? 私、ミラノ=アートです」
 座ったままペコリと頭を下げてみる。
 総議長様より身分の高い人はいないだろうけど、多分この人も貴族のひとりなんだろうと、ぼんやり思っていた。
「シェリース王国女王補佐官、セキ=アドリスと申す。今回こちらへは協定の正使として参じておるが、リッドとは縁あってな。ここでも補佐官をさせられておるところだ」
 ふう、と息をついた彼女の口から、なんだが凄い言葉を聞いた気がした。
「――正使様?!」
「まぁ、そんな訳で私がいる所は治外法権。安全と思って貰って良い。逆を言えば私はこの件に直接介入する事が出来ぬ立場にある。アキディスを使うか、伝書鳥を飛ばすしか手助けが出来ぬ事、容赦願いたい」
 真っ直ぐな言葉が、涼しく胸を撫でていく。
 淡々とした言葉の中に温かさが滲んでいる。
 緊張するより、どこか、ささくれていた気持ちが緩むような気がした。
「……私、結局何の役にも立てなくて。アリスちゃんも助けられなくて、イリス様の力になる事も出来なくて……イリス様を見失ったら、もう何をしたらいいかもわからなくって……本当、馬鹿ですよね……」
 勝手に言葉がこぼれていく。
 自分でも、何を言いたいのかわからない。
 初対面の偉い人にこんな弱音を呟いてみても、何もならないのに。
 いきなり正使に腕を掴まれて、ぐいと立たされる。びっくりして顔をあげると、きり、とした真顔が間近にあった。
 「悩んでおる元気があるなら、私の仕事を手伝うのだな。そうやって悶々とするのは、頭が暇なのだ。忙殺されれば、思い煩う事はない。それとも、きちんと寝台に横になるか」
 厳しくて強く優しい瞳。
 一国の王の補佐官。
 その凄みが、暗く沈みかけていた私を、ひっぱりあげてくれている。
「……お手伝いします」
 小さくそう言うと、少し元気が出てきた。
 少しだけ笑んだ正使の背中に続いて仮眠室を出る。
 改めてみる執務室の書類の量に、目を擦った。
「地方別に奴隷の状況と所属・経緯などが積み上がっておる。これを経緯の傾向で区分して、奴隷制廃止の後にどう処遇するかを法案として書面ではっきりさせねばならぬ。様々な状況を想定して明確にしておかねば、反対派の叩きどころとなるし、不正の種となる事もある。先刻までリッドがやっておったのは、傾向別に分けた内容に目を通して概要を纏める作業。これを今度は私がやるから、ミラノは地方別の山を傾向別に分配するのを任せたい。出来そうか?」
 一気に事務色に染まった現実が展開したのに、気を引き締めて頷く。
 さっきまで正使がいた場所にすっぽり入って、一枚一枚紙を色々な区分に分けていく作業に取り掛かって、思ったよりも複雑な内容に、さっそく息が詰まりそうになった。
 これを総議長様と正使が、たったふたりで全部やろうとしていたんだ。
 ちら、と正使を見れば、紙の束をバラバラと捲って目を通し、気になった所でピタリと止めてはさっと書き留めるという作業を、物凄い速度でこなしている。
「……ところでミラノ、先程自分の事を馬鹿だと言っておったが、それほど卑下するような事ではない。人間は皆必ず馬鹿な部分を持っておる。問題はその馬鹿が善い馬鹿か、悪い馬鹿かだ」
「善い馬鹿と悪い馬鹿……ですか?」
 アドリス正使の手元の速度は変わらない。
 仕事が速いうえに違う話も一緒に出来るなんて、凄い。
「王国出身の私には、王に忠実に仕えるのは臣下として当然と忠義だ。問題は、その忠義が国の為なのか、王の為なのか、自分の為なのか。そういう確たるものを自認しているかいないかは、大きい。きちんと自認している者は、誰に何を言われずともおのずと必要な働きが出来る。あやふやなまま周囲に同調し続ける者は、いざという時、信が置けぬ」
 どうしていきなりそんな話になっているのか分からないけれど、ぼうっとしかけていた頭は、醒めてきた。
「じゃあ私は、悪い馬鹿ですね」
「悪い馬鹿は容易く善い馬鹿になれる。善い馬鹿は容易く極悪人になる。難しいのは、いかにして善い馬鹿であり続ける事が出来るかだな」
「……善い馬鹿が、極悪人になるんですか?」
「例えば奴隷の解放を目的に行動をおこすのは人道的に概ね良い事であろうが、聖女は方法が悪い。争乱になれば、魔女の魔物に双方とも潰されてしまう。戦場には魔物か水難、というのは、300年の魔女の世の鉄則であろう。そこに、解決や勝機というものは期待できぬ事だ。我が国の内乱の折も、多くの魔物が出た。当人にそのつもりが無くとも、多くの犠牲をつくることは避けられぬ。しかも、善い事をしておる自覚が強ければ強いほど、引き返す道を当人が選ぶ事は、難しい」
「――戦場には、魔物……。300年前の、昔話じゃ、なかったんですか」
 イリス様の事を出されて、どきりとした。
 魔女が世界を支配しているっていう実感が、あんまり無い。
 本当に戦場に魔物が出たり洪水になったりするんだろうかっていうのは、何となくぼんやり頭の片隅にはあったけれど。
「以前の元聖女反逆の際も、この街に多くの魔物が出たと聞いておるぞ。魔女の支配と法則は、伝説ではない。現実だ。魔女探し達も協会を作って情報の共有を始めておる」
 頭の中で、ばらばらに散っていた何かが、ひとつの形になったような気がした。
 6年前、セフィシスに引き留められて『降魔の聖女』の半分として教会に残ることになったこと。
 イリス様が当時からずっと奴隷解放の活動をしていて、私には今まで何も求めていなかったのに、最近になって仲間入りさせてくれたこと。
 セフィシスが当たり前のように、イリス様が私を守らなきやいけないと言ったのに、イリス様も自然に納得してしまっていた事。
「……そっか。私には、魔物を消す力があるから――」
 6年前みたいに、魔物が出たら、すぐに消してしまえば、大きな被害にはならないだろう。
 私は、そのためにイリス様の傍で、守られていたんだ。
「――何、魔物を消す?」
 正使が手を止めてこちらを見ているのに気付いて、慌てて首を左右に振る。
「いや! あの、な、何でもないんです!」
「……『降魔の聖女』は魔物を消す力を持つと聞いたが……しかし、その聖女は実は解放活動の首領か。おぬし、もしかして、利用されておったのか」
 率直な言葉に、胸が痛い。
 でも、逆にすっきりした気がする。
「利用だなんて……。でも、そうかも知れません。私も、わかっていて、それでも私に出来る事をしたかったんです」
 ――できることをしたい。なんて、何もできなかった昔の自分の、言い訳かな――?
「ありがとうございます。私、イリス様の為に出来るのが何なのか、わかりました」
 首を傾げながらも、どこか温かい正使の視線を、うけとめる。
「利用した者の為に――? 何故、そんな事をする気になれる」
「イリス様が、私を遠ざけていたことも、今も遠ざけてしまっている事も、多分、何も知らなかった私への優しさだから――そういうあの人が、どうしても、好きだから……」