◇◇◇2人の道が重なる時◇◇◇
ー/ー「――シャロン、どこまで視察に行くんだ。これじゃ、見るものも見れないぞ!」
「民衆目線に立てば、得るものも多いですよ。お疲れであれば、一旦、人の流れから抜けましょうか」
繁華街の雑踏から商店の隙間に入り込んでようやく人混みから解放され、リッド=ウインツは盛大に溜息をついた。
新調した平服が、人混みにもまれてヨレヨレになってしまった気がする。
「……そんな風に歩かなくても、この国の事はよく分かってるつもりだ。昔はよく遊び回ったし、一応世論の傾向も把握できるようにしている。……これはちょっと、非効率的だ」
壁を背に座り込んで、自分を連れ出してきた人事院の若き院長――シャロン=イアを、小さく睨み付ける。
ここ数年で警護官からのし上がってきた、実力肌の貴族だ。
どんな奴だろうと思って視察の誘いに乗ってみれば、単に繁華街を遊び歩いているようにしか見えない。
「いやいや、本当に、思いがけない発見をしたりするものです。まあ、少し休みましょうか。喫茶店は大混雑ですから、何か飲み物を買ってきます。珈琲で良いですか?」
「ああ。頼む」
人事院。
治安と司法を一手に管轄するが故に、物理的に大きな力を持っている。
この一院に権力が集中しないように国防院の強化で均衡を取ってはいるけれど、いたちごっこから抜け出すことが出来ない。とりわけ、このシャロン=イアが院長になってからの人事院は、組織的な贅肉がそぎ落とされ、より強力な権力機関になりつつある。
今回自分にすり寄ってきたのも、より堅固に地位を固める為だろう。
それを分かっていて、ついてきた。有能なのは判っているが、実際の人柄を知らないからだ。
組織を成長させる能があるなら、逆に国防院に移籍させるという手もある。重要なのは信頼に足る人物かどうか。国民にとって有益な働きをしてくれる人材かどうかだ。
そこまで考えて、息を吐いた。
(――俺も、よくここまで頭が回るようになったよな)
今年で21歳。
昔は考えるより先に何でも行動して、失敗も怪我もした。
でも、それで得た人脈と運の良い状況によって、総議長――連邦国の盟主になることができている。
理論ばかり捏ね回して行動しなくなる、という自分になるのが、一番怖い。雑踏の片隅で一国の盟主が座り込んでいるというのも、妙な気がするが。
ふ、と首筋を冷たい風が撫ぜた。
反射的にサッと身体を傾けて、そのまま地面を掴んでその場を離脱する。
頭の後ろでキンと金属が不快な音を立てた。
――気配が、無かった。いや、人が多すぎて気付かなかったのか。
舌打ちと共に屋根の上から黒い影。
短剣が真っ直ぐ胸元を捉える。
速い。
体重をのせた刀身が胸元に吸い寄せられるように迫ってくる。
魔法を詠唱する暇はない。
「……く!」
左腕で刀身を受け止めて、足元を踏みしめ、押し倒される愚は避けた。
痺れるような熱さと、骨を削る嫌な感触。
刀身を振り抜かれて、ぱっと血が迸る。
「貴族の坊ちゃんにしちゃ、やるじゃねぇか」
腕の激痛に、視界が歪む。目の前で笑ってみせた男の顔もはっきりしない。
「だが、ここまでだな」
一歩。一歩、踏み込まれるだけで、刺される――
地面を滑って振り切らなければと思うのに、身体が動かない。
視界の隅で、蒼白い一閃がはしった。
目の前の男が小さく呻いて、どっと倒れる。
倒した男をまたいで、誰かが、血が噴き出す腕をきつく掴んできた。
厳しい、綺麗な貌が、間近に迫る。
「――どうして、こんな所にいる。大人しく議長席でふんぞりかえっていれば、暗殺なんてされない」
「暗殺…………」
言葉よりも、目の前の男の顔から、目がはなせない。
かつて見慣れていた端正な顔立ちに、薄茶色の髪がサラリとかかる。
後頭部でキリッと結い上げた長髪が優雅に背中まで流れて、上品さを描いていた。
「リッド。俺はお前が俺の座る筈だった所に座っているのが、許せない」
腕が、痛い。
掴まれている傷口から、彼の白い指の間を伝って、ポタポタと赤いものが零れ落ち続ける。
くすんだ土色の奴隷服が視界に入って、息を飲み込んだ。
「ユリウス……俺はっ……」
「――だが、他の奴がその座に就くのは、もっと、許せない」
射貫いてくるような青い瞳に、かける言葉を、なくす。
どのくらい、離れてしまったんだろう。
上級貴族として一緒に学び、遊んでいた頃のユリウスは、どんな時もあっさりとした態度だった。
その彼が、血の滴る腕を掴んで噛みつきそうな貌を見せたのは、きっと、奴隷服のせいだけじゃない。
「あ! いたいた。ユリウスさん、いきなり消えないで下さ……」
突然、女の子が入ってきて、流血沙汰に声を飲み込んだ。
「あ、ミラノちゃん」
ぱっと振り返ったユリウスの顔が、瞬間にいつもの優顔に変化する。
「た、大変! 血が凄い出てるじゃないですか! 離しちゃ駄目ですよ、ユリウスさん。教会はすぐそこです。セフィシスさんに、治療して貰いましょう!」
「ああ……そうだね」
助かった、と、ようやく思った。
「――すいません。宜しくお願いします」
『命の光よ 集い来たれ』
「いっつ……!!」
紅色の魔法の輝きが、ざっくりと斬られた傷口を包み込んで、濃い赤色になる。上腕をきつく縛って止血していた紐を弛めて、傷口の回復に合わせて血流を回復させていく。
怪我人の介抱はセフィシスを手伝って慣れているけれど、ここまで酷い傷口はなかなか無い。大体は転んだとか、馬車から踏み外したとか、打ち身系の怪我人が教会の魔法使いを頼ってくるし、こういう本格的な怪我は、ちゃんとした医者に診てもらうのが普通だ。
魔法の光が消えていくのと同時に、怪我人の表情も和らいだ。傷口にはうっすらと跡が残っているけれど、真っ赤に腫れ始めていた肌も、もとの白い色に落ち着きをみせている。
「ふぅ……。これで、おしまい」
深い傷を塞いで魔力を消耗したセフィシスが、くたりと椅子にもたれた。
「ありがとうございます。その、大丈夫ですか?」
「私は、疲れただけですから~。それより、傷は塞がっても、身体に血が戻るまでは、安静にしていて下さいね。ミラノ、あとは頼んでいい?」
「はい、忙しいのに、ありがとうございますっ」
ひらりと手を振って、フラフラしながら出て行ったセフィシスが、どこかの柱に頭をぶつけて歩きそうで心配になる。
だけど、連れて来た客人を放って彼女を追い駆ける訳にはいかない。
傷跡を摩りながらほっと息をついた客人は、よく見ると、ユリウスと同じ位の年齢の青年だ。
茶髪の癖っ毛を首筋に添わせるように襟元までのばした線に、どこか品がある。
「あの、本当に助かりました。今は持ち合わせが無いのですが、必ず、お礼に来ます」
申し訳なさそうな笑みを見せた彼に、大きく首を振る。
「お礼なんて要りませんよ。怪我してたら助けるのなんて、当たり前じゃないですかっ。でも、あんな街の中で斬り付けられるなんて、怖いですね。今日はお近くまでお送りしましょうか?」
今度は彼が慌てるように両手を振った。
「お、お気遣いなく! えぇと、俺は、リッドです。あの、ユリウスは、今、何をしているんですか?」
「……え?」
一瞬、変に緊張してしまう。
彼はそれを別の意味に取って、言葉を足してくれた。
「あの、俺の腕を掴んできてすぐに席を外した、奴隷服の……」
「――ユリウスさんは、今日この教会に来たばっかりなんです。今日は買い物のお店を案内してた所で……」
「その、前は?」
「えっと、あのぅ……お知り合いですか?」
そっと首を傾げてみる。
誰が何をどこまで知っているのか分からないし、言って良いのかも、わからない。
「あいつは――」
リッドが口を開きかけた時、ドカドカと足音が迫って、バンと扉が開いた。
「総議長! ご無事ですか?!」
いきなり低音が飛び込んできて、おもわず体が固まった。
「シャロン……?」
ぽかんと飛び込んできた男を見上げたリッドの顔をみて、何が起きているのか、もっとわからなくなる。
「え? えーっと、総議長って……」
ミラノの困惑を無視して、男が真っ直ぐにリッドの傍に踏み込んで膝をついた。
「本当に、心配致しました。戻ってみれば血痕が飛び散っているし、誰もいない。どこか、お怪我を?」
「もう治癒魔法で治して貰った。大丈夫だ」
きり、と折り目正しい口調に変化したリッドに、びっくりする。
男の後から続いて入ってきた聖女姿のイリス様が、リッドに一礼した。
「失礼します。うちの者のご無礼を、ご容赦下さい。まさか我が国の総議長様とは知らず……」
いきなりの展開に、ちょっと目の前が白くなる。
街で拾った血だらけの人間が、この国で一番偉い人だなんて、ふつう、思ってもみない。
「いや、助けられました。身分を伏せていたのはこちらですし、気にしないで下さい。『降魔の聖女』イリス=ローグ。こうしてお目にかかるのは、初めてですね」
す、と立ったリッドが、ふらつく。
まだ血が戻らないうちは安静って言われてたのに。
咄嗟に背中を支えると、少し冷や汗をかいているのをみつけて、おもわず声をあげた。
「安静にしてなきゃ駄目です。貧血で、倒れちゃいますよっ」
「ごめん――そうだった。ありがとう、ミラノさん」
名前を呼ばれて、どきりとする。
上級貴族に名前を覚えて貰えるなんて、そんなにあることじゃない。
「大丈夫ですか? 折角なので色々とお話したいところですけれど、今日はゆっくりお休み下さい」
心配そうな色をみせたイリス様の前に、シャロンと呼ばれていた男が立って、軽く一礼する。
「自分は、人事院院長を拝命しているシャロン=イアと申します。我々がついていながら、ご迷惑をおかけしました。今後このような事の無いよう重々注意すると共に、後日改めて礼をさせて頂きます」
とんでもない言葉を聞いた気がした。
人事院といえば、奴隷解放活動の仇敵みたいなものの筈だ。
厳格に身分制度を管轄して、治安と司法も担う、行政の重大な機関。
その筆頭人物が、こんな所にいる。
――総議長と一緒に。
イリス様も、真剣な目になっている。
「……恐れ入ります。ミラノ、正門まで総議長様を支えて差し上げて」
「あ、は、はいっ!」
ふらつく総議長を人事院院長と一緒に支えて正門に出ると、丁度迎えの馬車が着いたところだった。
警護官が巡回に使うような物々しい黒の車体に、何となく近寄り難い威圧感がある。
――本当に、偉い人なんだ。
総議長と院長が乗って出発するのを、どこかぼうっとしながら見送る。
馬車が見えなくなると、一気に力が抜けた。
「……ちょっと、別世界かも……」
寄りかかった門にコンと額をあてる。
ひんやりして気持ちいい。
フェルトリア連邦国の、総議長。
偉い人っていうのは、もっとずっと歳を取っているだろうと、勝手に思ってた。
あの院長も、まだ私の両親よりも、ずっと若い。
「あの、すみません」
掛けられた声にぼんやり顔を上げると、どこかで見たような顔の商人が、そっと私を覗き込んでいた。
「すみません、昨日の夜、ハーゼという奴隷を預けた者なんですけど――」
そこまで言われて、やっと目が醒めた。
「ああっ……アキディスさんですね。良かった。もうお仕事は終わりですか?」
「はい。もう大丈夫です。その、すいません。聖使服を着ていると皆同じように見えてしまって。昨日、お会いしましたね」
人の好さそうな笑顔でペコリと頭を下げる彼を見ていると、ホッとする。
ついさっきまで凄い人達に挟まれていたから、普通の人っていうだけで、安心感がある。
「私、ミラノ=アートっていいます。ハーゼちゃんは元気にしていますよ。ご案内しますね」
「お願いします」
聖使の宿舎がある棟とは反対側に、保護している奴隷や孤児達の為の棟がある。
昨夜は遅かったから私の部屋で眠って貰ったけれど、朝一番に本来の保護区画に移って貰った。書類とかの手続きも後回しになっているから、夜になる前にアキディスが現れてくれて良かった。
棟の外見は宿舎と同じでも、ここは大きな空間に何人もの人々が寝起きする。聖使は人数が限られているからいいけれど、変動する人数に対応した造りになっている。
その広間にハーゼの姿が見当たらなくて、ぐるっと廊下を回った。
ちょっとした緑のある中庭に、沢山の野鳥が集まって、賑やかな一郭ができている。
鳥の中に埋もれるようにしている小さな金髪を、やっとみつけた。
「ハーゼちゃん、お迎えが来ましたよー」
まわりの鳥が数羽、ぱっと飛び立って、振り返ったハーゼの髪を揺らした。
「あ……」
伸び放題だった金髪は綺麗に整えられて、可愛らしくリボン付きで結われている。
こちらを見たハーゼの目に、嬉しげな明るい色が浮かんで、別人のように可愛らしくなっていた。
「あーあ、見つかっちゃいましたね」
肩にも頭に小鳥をのせて、ユリウスがふわりと笑った。
「むかえ、きた。ユリウス、ありがと」
あいかわらず小さな声も、多分、凄くはしゃいでいる部類に入るんだと思う。
「あの……ユリウスさんが、この髪を?」
「そうですよ、可愛いでしょう。ハーゼの王子様にも、気に入って頂けると良いんですが」
うしろでポカンとしていたアキディスが、ユリウスの視線を受けてトンと庭に足をおろす。
「勿論。ありがとうございます。お世話になりました」
「……あなたは商人ですね。どういう商売をされてるんですか?」
野鳥が、ユリウスの伸ばした腕を伝ってアキディスの懐に飛び込んでいく。
咄嗟に受け止めた鳥にびっくりしながら、彼は被っている商人の帽子を摩った。
「郷土品なんかの流通を開拓したり、拓いた販路の価格調整をしています。小売りも、少しだけ。なかなか一人でやっていると、シェリース王国との往復で手一杯ですよ」
「シェリース王国か。確か、新しい女王が色々面白い政策を出しているんですよね。あちらの景気は如何ですか?」
街角で商人同士が喋るような会話が始まってしまった。
というか、帰り着くなり総議長を放って何処に姿を消したのかと思ったら、こんな所でハーゼの世話をしているなんて。
奴隷用の区画に帰ってきただけ、というなら、当然といえば当然なのかも知れないけど。
「あのー、預かりの書類に署名して欲しいんですけどー」
今日の保護区担当の聖使が、紙を持って割り込んでくる。
正式手続きを後回しにされて、このまま迎えが来ず放ったらかしにされるのを一番心配していた人だ。
身元不明の奴隷に事件性でもあったら、教会全体の信用にかかわる。
差し出された書類にサッと署名すると、アキディスはハーゼの目線に腰を下ろした。
「ハーゼ。あの酷い主人の所には、もう戻らなくていい。俺が、買い取っておいたからね」
荷物から小さな鍵を取り出して、鉄球のついた両足の枷を手際良く外していく。
ぽかんとしていたハーゼの瞳が、揺れた。
「あ……」
「ほらほら、ここは甘える所ですよ」
笑んだユリウスが、硬直したハーゼの背中をトンと押す。
小さな身体を胸で受け取ったアキディスは、ユリウスを見上げて困ったように笑った。
「ところで君は、どうしてまた、奴隷の格好を? 事業に失敗でもしましたか」
流石に彼も、奴隷らしからぬユリウスの立ち姿に気付いたらしい。
「そんな大層なものじゃありませんよ。前の主人が色々やってまして、私は傍で眺めていただけです。ところで郷土品というのは、商店街が顧客ですか? 今の時期、交渉は大変でしたでしょう。明日はフェリアの秋祭りで、商店は準備で忙しそうですし」
自分の話題をヒラリとかわして相手の話に入っていくユリウスの話術が、すごい。
アキディスも話が分かる相手に、悪い気はしていない。
「いや――、今回は大口で貴族地区に出入りさせて貰いましたから。祭りの空気に少し浮かれている貴族は、狙い目ですよ」
「なるほど、勉強になります。明日の祭りは、見て行きますか?」
「はは……すっからかんですけど。折角だから見物していきます。ハーゼの服も買わないと」
アキディスの肩を悠々と占拠していた野鳥が、彼が立ち上がるのと同時にユリウスの腕に舞い戻る。
気を付けて、と挨拶をして、足取りの軽くなったハーゼを連れた行商人を見送った。
肩の荷が降りた気がして、ほっと息をつく。
それにしても野鳥がユリウスの周りに集まっている光景は、まるで絵画みたいだ。
「ミラノちゃん、お祭り、教会では何か催しはしないんですか? 久しぶりに自由の身で日の下を歩くので、毎年何をしているのか、知らなくて」
「あ、教会はいつも通りです。静かに過ごしたい人が避難しに来るんですよ。昨日も夜遅かったでしょうし、明日はのんびりしてくださいね」
野鳥と戯れているユリウスに軽く一礼をして、いそいでもときた道を戻る。
イリス様に、総議長様を見送ったのと、ハーゼを持ち主に返したの報告に行かないと。
聖堂側に曲がる角で、セフィシスが小走りに向かって来たのに出遭った。
「あっミラノ! あの人、総議長だったんですってね。今、イリス様から聞いてびっくりしたわよ~!」
「そうなんですよ! しかも人事院の一番偉い人が迎えに来たんですよ。凄く緊張しましたっ」
「それも聞いたわよ~心臓に悪いわ~。ねぇ、ところでユリウスはこっちにいるかしら?」
「はい、ユリウスさんなら、広間の中庭にいましたよ」
「ありがと。またあとでね~」
慌ただしく走っていくセフィシスをみおくって、私も急いで聖堂を横切り、さっきの応接室を覗く。
そこに誰いないのをみて、聖女様の執務室に行くと、ようやくイリス様をみつけた。
「おつかれ、ミラノ。そんなに急がなくても良かったのに」
書類から目を上げたいつものイリス様に、少しあがった息を整えながらペコリと一礼した。
「総議長様をお見送りしました。ちょっとその後、預かってた奴隷の持ち主に捕まっちゃって。夜中に預かったハーゼちゃんは、無事に持ち主のところに返しました。手続きもばっちりです」
「あの子か。酷い主人だったようだが、大丈夫なのか?」
少し眉をひそめたイリス様に、行商人のアキディスが買い取った事、鉄球を外して教会を出た事を一気に喋る。
ユリウスが彼女の身なりを整えてくれたのも、どこか、嬉しい。
ちょっとポカンとして聞いていてイリス様も、概要を掴むと、ほっとしたように笑みをみせた。
「それは、本当に良かったな。それにしても自腹で買い取ってくるなんて、今時、人の良い奴だ」
「ユリウスさんは、ハーゼちゃんの王子様って言ってたけど、ホント、そうですよねっ」
「……ユリウスがそう言ったのか。……あいつ……」
ふと厳しい顔になったイリス様の机の上に、分厚い資料が山積みになっているのを、ちょっと覗いてみる。
人事院の、資料。
丁度イリス様が手にしているのは、院長シャロン=イアの経歴みたいだ。
「そういえば、総議長様が、ユリウスさんの事を知ってるみたいでした」
「……知っていても、おかしくはないな。あいつ、奴隷になる前は、元総議長のご子息様だったんだ。容姿端麗・文武両道。上級貴族の中でも音に聞こえた王子様だったらしい。元々上級貴族生まれの現総議長なら、どこかで交流もあっただろう」
「じょ、上級貴族様だったんですかっ」
それなら、ユリウスのあの上品な佇まいも、納得できる。
それをあいつ呼わばりしてしまうイリス様との関係も、ちょっと気になるけど。
「この報告書をみて気付いたんだが、ユリウスはずっとシャロンのもとにいたようだ。貴族奴隷として名前は載ってないが、シャロンが所有していた奴隷は6年前から一貫して一人。その一人が、昨日付けで教会に移籍になっている。あの事件の後にもまさかずっと同じ所にいたとは……」
突然、いままで未知だった貴族の世界情勢が目の前に展開して、ぼうっとする。
ずっと前に、王子様から奴隷になったユリウスは、イリス様達と一緒に奴隷解放活動に参加した。
でもそれは失敗して、6年間、敵である人事院の中に潜んでた。
――どれだけ、悔しい想いをしてきたんだろう。
ちょっと、想像もつかないし、あの甘い笑顔の下にそんな秘密があるなんて、全然わからなかった。
「……イリス様、明日のお祭り、どうされるんですか?」
いきなり話題が飛んで、イリス様は首を傾げた。
「公務は休みだけど……そういえば、アリスを祭りに連れて行くって約束したような……」
「あのっ、ユリウスさんも一緒に、皆でお祭り見て回りませんか?」
◇◇◇賑わいと演奏に舞う鳥◇◇◇
[[rb:手風琴 > アコーディオン]]と[[rb:口風琴 > ハーモニカ]]の心地良い演奏。
それが公園を彩って、旅楽師に黒々と人だかりが出来ている。
その光景には見向きもせず、人混みを掻き分けて歩く小さな後ろ姿が、いきなり停まった。
「お姉ちゃんお姉ちゃん、焼き林檎食べようよ!」
ぱっと振り返ったアリスの赤い髪に、黒い髪留めがよく似合ってる。
「さっき揚げ芋沢山食ったじゃないか。まだ食うのか?!」
「おやつは別腹なの。ね、いーでしょ?」
「どれが主食なんだ。買うのはいいけど、腹壊すなよ?」
わぁい、と屋台に走っていったアリスを見送って溜息をついた私服姿のイリス様の背中を、ユリウスがぽんと叩く。
「明るく元気に育ってくれましたね」
「――お前、半分、代わってくれ」
「アリスちゃんを甘く見てはいけませんよ。私は残念ながら、まだ信用が足りないようです」
そうかもしれない。
アリスはユリウスが教会に来て初めて会った時も、ふーんと言って終わりだった。
他の聖使なんかは、ユリウスの端正な顔立ちに黄色い悲鳴をこっそりあげていたのに。
それにしてもユリウスは教会に来てから2日目なのに、アリスの事も、よく観てる――。
「はい、焼き林檎!」
串に通された甘い匂いの林檎を目の前に差し出されて、びっくりした。
「あっ……ありがとう……?」
ぽかんとしながら受け取って、アリスが人数分の林檎串をもって皆に配っているのをみつけた。
ちょっと離れた所で見張り役に徹していたセフィシスとジェストにまで、小走りに持って行って、ぱっと帰ってくる。
ポカンとしている2人の顔が、人混みの中にちらっと見えた。
「こら、これじゃあ離れて見張りに付いて貰っている意味が無いだろ」
「あのふたりよりも、お姉ちゃんの方が強いんだから、大丈夫だもん」
上機嫌でイリス様の腕にくっついて林檎をかじるアリスに、困ったような妙な笑顔になったイリス様を、そっと観察する。
聖女様としての普段の顔、夜の奴隷解放活動の旗頭としての顔。そして、ここにあるのは、妹を見守る姉の顔だ。
「ミラノちゃん、公園の人だかり、凄腕の旅楽師がいるようですよ。ちょっと見てみませんか?」
「えっ、でも、凄い人で……」
「大丈夫。良い場所を知ってます。イリス、ちょっとミラノちゃんを借りて行きますね」
イリス様が止める間もなく手を握られて、人混みの間をぬって歩く。
いきなりの展開に戸惑いながら、必死について歩く。
はぐれたら、捜すのが大変になる。
公園の端の緑の中に入ると、失礼、と言ってユリウスの腰が下がった。
と思った次の瞬間、足元が地面からふわりと離れて、あたたかい腕の中に抱き上げられていた。
「ひゃっ……?! ちょっ……」
『風よ 我が意に従え』
ユリウスがトンと地面を蹴ると、ザッと風が彼の足元を援けて、重力を無視するように軽々と飛び上がる。
木の枝をトントンと伝って、あっというまに商店の屋根の上にストンと足をおろしていた。
いきなり過ぎて、声が出ない。
ドキドキする胸をおさえて、降ろされた足元を、恐る恐る踏みしめる。
「ほら、ここからなら、人に埋もれなくても、よく見えますよ」
言われて顔を上げると、公園の華々しい景色が一望できる、特等席だった。
「わぁ……凄い……!」
「あそこにいるのがイリス。それとあれがジェスト君かな。女の子は埋もれてしまっていますね。――で、人垣を作っているのが、あの旅楽師。一人であの人数を惹きつけるなんて、凄いですねぇ」
公園の主役は、色彩豊かな洒落た衣装を纏った、[[rb:手風琴 > アコーディオン]]の奏者――。
いや、その口許で同時に[[rb:口風琴 > ハーモニカ]]を演奏している。
若い男性。
長い黒髪がさらりと風に流れて、幼さが残る可愛い笑顔が聴者を惹きつける。
これは、人が集まるわけだ。
「足元、危ないですよ」
茶色の髪が、ふわっと私の肩に流れてくる。
そっと腰に手を回されていて、余計にドキドキさせられる。
危ないから捕まえていてくれるのは、わかるけど――。
この状況って、何か、いけないんじゃないかな、と、ドキドキし過ぎて、他人事みたいに思ってしまう。
「――騒々しくて、華やかで、活気に満ちていて。私は、この街が好きです。ミラノちゃんはエラーク出身でしたよね。私は行った事が無いんですが、どんな所ですか?」
「えっと、い、田舎ですよ。どこを見ても、緑か田畑がずっと続いてて。でも、海沿いは市場が賑やかです。ここには、全然及ばないですけど」
「帰りたいとは思いませんか? イリスも良い奴だけど、オークリス嬢も良い領主でしょう」
この人は、どこまで知っているんだろう。
別に隠してる訳じゃないから調べるのは簡単だろうけど、セルウィリア様の事も、よく知ってるみたいな感じがする。
「もう、すっかり、ここが第二の故郷みたいなものですから。……イリス様が、『降魔の聖女』様が聖女様である限り、私だけいなくなったり、しませんよ」
それは、ずっと思っている事だ。
これからいつまで続くのか分からないけれど、必要とされている限り、役に立ちたい。
故郷に帰っても、私だけに出来る事はないのだから。
「――ふふ。妬いちゃいますね。ミラノちゃん、イリスの事しか見ていないんですから」
「っ……み、見てたんですか――?」
腰に回されている手を掴んで、思わず逃げ腰になる。
逆にぐいと抱き留められて、心臓が錯乱しそうだ。
女の子よりもずっと綺麗で端正なユリウスの顔が、すぐ目の上にあった。
「イリスばっかり見てないで、私の事も、見て下さい」
目の前に、花火が散ったような気がした。
ちょっと、絵になり過ぎてて、夢かなと思ってしまう。
でも、確かに、イリス様の役に立ちたい一心で、あんまり周りの事を見てなかった部分はあるかもしれない。
ユリウスに限らず、ジェストだって、私の事をよく観ていてくれたのに、全然、気付いてなかった。
「あ……あの……その、そ、総議長様と、お知り合いだったんですかっ?」
何を口走っているのか、自分でもよくわからない。とにかく、この雰囲気を、どうにかしないと。
「そうだね。……恋人じゃないよ?」
「そっ、それは、わかってますっ」
あはは、と笑って、ようやく抱き締められていた腕が弛んだ。
「……もし、総議長がもういっかい教会を訪ねて来たら、彼だけには解放活動の事を伝えておくと良いですよ。あいつは、君を泣かせたりしないだろうから」
――あいつ。
知り合いっていうよりも、ずっと親しみのある響きがおちてきた。
イリス様がユリウスの事を言う時みたいな、信頼している、声。
でも、どうして教会に帰りつくなり、総議長を放って奴隷地区に戻ってしまったんだろう。
親しい友達なら、一緒にいれば良かったのに。
って、余計な事ばっかり考えていて、今言われた事の重大さに、数秒、反応が遅れた。
「…………えっ?! 解放活動を――。でも、総議長様は、人事院の院長と一緒に行動されてて。じ、人事院に教会の事がバレちゃうんじゃ……」
「おや。忘れたんですか? 私が人事院の間諜なんですよ。大丈夫。うまくやりますから」
何が大丈夫なのか、全然わからない。
「どうして……。ユリウスさんが、直接伝えれば……」
「――まだ、俺は、あいつと会う訳には、いかないんです」
ふ、と瞳から笑みが消えた気がして、背筋がすっと冷える。
「おいっ! だから、手を出すなって、言っただろう!」
下の方から響いたイリス様の怒声に、凍り付きかけた空気が溶ける。
ほっとして足元をみると、赤い髪の美人が腰に手を当て、眉をつり上げてこちらを見上げていた。
「おやおや。折角良い所だったんですけどねぇ」
「馬鹿、降りて来い。油断も隙も無い奴だな」
「お褒め頂きありがとうございます。でも、こんなに可愛い子、私じゃなくても攫っちゃいたくなりますよ?」
からりと笑いながら詠唱した風魔法で、私だけがふわっと地上に降ろされた。
すぐにイリス様に掴まれて、その私服に引き寄せられる。
「ミラノ、大丈夫か。何か変な事されなかったか」
きれいな真顔が、間近にあった。
「だ、大丈夫です。あの、ありがとうございます」
どうしてこう、綺麗な顔ばっかりなんだろう。
なんだか子供っぽい自分の顔が、情けなくなってくる。
「……イリス。そろそろ教会に来客があります。一度戻った方が良いですよ」
屋根の上ですっと冷静な声を落としたユリウスの肩に、また、野鳥がとまっている。
「――鳥か。……わかった。あんまり隠し事するなよ」
「え~? 秘密はあった方が、魅力的でしょう? ま、必要な事はちゃんと伝えますから、心配しないで下さい。私は裏から行きます。ミラノちゃんを宜しくお願いしますね」
そのまま屋根の向こうに姿を消したのを見送って、ポカンとしてしまった。
頬を擦る深紅色の硬い私服の生地の下で、深く、息をつくのが伝わってくる。
――イリス様、震えてる?
そっと見上げる。口許を引き締めて、一瞬、赤い瞳が揺れているように見えた。
「……さて、教会に戻ろう。アリスが小物を買いに行っていて、公園の出口で待ち合わせになっているんだが……どうするかな」
密着していた身体を外して、左右をみる.
ジェストがそれに合わせるように出てきた。
「ジェスト、アリスに言伝してくれないか。先に教会に戻っていると」
「お断りします。あの子はイリス様でなければ、納得しません」
「って、お前なぁ……そこは何とかしてくれよ」
「セフィシスが付いて行っていますし、待ち合わせもありますから、長く時間はかからないでしょう。来客なら聖使がまず対応する筈です。急ぐ必要もないのでは」
ジェストがイリス様の言う事に反発するのを、初めて見た気がする。
アリスがイリス様に置いて行かれた場合の事を考えれば、気持ちは分かるけど。
「それじゃあ私、先に戻ってます。聖女様がすぐに戻ってくる事を伝えておきますね」
「ああ、助かるよ。宜しくな」
ほっとした顔に笑顔を返して、小走りに教会へ急いだ。
◇◇◇総議長の訪問◇◇◇
もっとお祭りを見て廻るのを中断されたのは残念だけど、正直、なんだか助かった気がする。
あのままユリウスとイリス様の間にいたら、心臓がもたない。
ユリウスが一瞬見せた、あの、目。冷たくて深い、厳しい色をした、強い瞳。
皆でお祭りを見に来れば気分転換して貰えるんじゃないかと思っていたけど、その程度で気が晴れるような問題じゃない。もっと、ずっと奥が深い事を抱えている気がする。イリス様が泣きそうな顔をしたのも、頭から離れてくれない。
肩に野鳥が停まっていたぐらいしか、変わったような事はなかったのに。
――そういえば、教会に来客がある事を、ユリウスはいつ知ったんだろう。
そんな事を考えているうちに、教会の正門に馬車が停まっているのをみつけた。それも辻馬車とか昨日の黒い警護車じゃなくて、貴族の乗る優雅な品のある高級車だ。
少しだけ息を飲み込む。急いで勝手口から教会に入って、薄紅色の私服のまま聖堂へ直行した。
壇上に向かって礼拝する貴族の姿は、それだけで、目立つ。上質な濃紺色の外套を腕に掛け、上品な藍色の正装は、フェルトリア議員のものだ。
傍に控えた護衛の人間と目が合って、ペコリと頭を下げた。ふと顔を上げた貴族に、見覚えがある。
「ミラノさん。こんにちは」
貴族が来てる、と緊張していた聖堂の空気が、彼の気さくな声に、ふわりと弛んだ。
「今日はお休みなんですね。すみません、何も知らせずに突然お邪魔してしまいまして」
「いえ、いつでも来て頂いて構いません。あの、聖女様は、もう少ししたら戻りますから、どうぞ奥でお待ち下さい。ご案内します」
総議長様、と言いそうになったのを、飲み込んだ。
まわりで静かに過ごしている礼拝者や聖使に迷惑にならないように、そっと丁寧に声を落とす。
私服のままだけど、仕方ない。総議長様とその護衛を先導して、応接室をあけた。
「たまには、礼拝も良いものですね。静かで、落ち着きます」
総議長様が長椅子に背中を預けて息をついた。
護衛に勧めた椅子は断られて、かわりに扉の傍を占拠される。
「今日みたいなお祭りの日は、静かに過ごしたい人が来ますしね。聖使も今日は人が少なくて」
紅茶を淹れながら、自然に会話をしている自分が不思議な気がする。
相手は上級貴族で、この国で一番偉い人の筈なのに、あんまり緊張しないでいられるのは、彼が若いからなのか、気さくにしてくれているからだろうか。
「行政区なんて物々しいばかりです。……時々、息抜きに来ても良いですか?」
「勿論です。お体の具合は、大丈夫ですか?」
「なんとか回復中です。昨日は帰って身内に怒られて、散々でした」
そういって肩を竦めてみせた総議長は、議長の帽子を取れば、ちょっと高級品を纏っている普通の青年と変わらないように見える。フェリアに多い茶髪と、芯が通っているけれどお人好しそうな雰囲気。高級車みたいな威圧感は、まるで無い。
温かい紅茶と焼き菓子。
一番良い食器に並べて出してみると、なんとか上品な卓上の演出ができた。
「それにしても久しぶりだな……教会に来るのは、若い頃に魔女探しの誓願を立てた時以来ですよ。あの頃とは、天使像も替わりましたね。帰って来て聖女様が交替したと聞いた時は驚きました。反逆を起こした、というのには、暫く信じられませんでしたが」
――前の聖女は、議場で反逆を起こして、自らも混乱の中で命を落とした、っていう事になっている。
イリス様の話だと、とても死ぬような人には思えないけれど。
つられてしみじみとしてしまって、また、大事な事を聞き流す所だった。
「え?! 総議長様、魔女探しだったんですか?!」
世界中を300年にわたって支配する、魔女。
彼女が遣わすといわれている魔物は、人気の無い郊外に出る程に多くなるから、聖女様の退魔師の仕事に従って、私も遠出になることがある。
この数年で沢山の魔物を見てきたけれど、実際に魔女を見た事は無いし、彼女を倒そうという魔女探しがその本拠地を捜しあてたという話も聞いたことが無い。
人が生きる年数の限界を超えて存在するものを倒そうという彼らの意気込みも、世間的に、消沈している。
「魔女探しみたいなもの、ですけど。……大事な旅になりました。でも、その間に、ユリウスは苦渋をなめることになっていた。今更、俺があいつに何かしてやりたいと思うのは……遅すぎですね」
寂しそうに笑んで、そっと紅茶を口に運ぶ姿に、胸が詰まる。
ユリウスは、どうして、こんな良い人を避けるんだろう。
会う訳にはいかない。
そう言った瞳から柔らかさが消えていたのが、とても悲しい気がする。
「そんな事、無いです。きっと、ユリウスさんは総議長様を信頼しています。……あ」
もし、総議長がもういちど訪ねて来たら――。
伝えなくちゃいけない事があった。
「あ……あの」
でも、本当に言っていいのか、わからない。イリス様に確認もしていない。
私が突然言い淀んだのを見て、彼は少し首を傾け、ポリ、と焼き菓子をかじった。
本当に普通の平民みたいな雰囲気に、少し緊張が弛む。
「……聖女様とユリウスさん達は、奴隷を解放する為に活動しているんです。解放が叶ったら、ユリウスさんも、奴隷身分から抜け出せます。協力してあげて下さいっ」
言ってしまってから、鼓動の音が、大きくなる。
「それは、最近噂になっている、第二の反逆の事ですか」
「前と同じじゃないです。誰も殺さない、誰も殺させない。そう言っていました」
総議長様の雰囲気が張りつめたのが、よく分かる。
当たり前だけど、物凄い不安に駆られる。
それに、噂といってもそこまで情報が流れているのは、結構、まずいんじゃないだろうか。
「もしも近日中に事を起こす気なら、止めてください。今、人事院の抑止力は心許ない状況です。活動側が死者を出すつもりが無くとも、容赦しないでしょう。……俺も、その件には手を尽くしていますから。くれぐれも、早まらないで」
誠実な目が、まっすぐに貫いてくる。
予想もつかなかった言葉に、鼓動の音がやわらかくなって、ほっと息が出た。
「はい、どうか、よろしくお願いします」
総議長様も、奴隷の事を気に掛けてくれている。
それがわかっただけでも嬉しいし、きっとイリス様も喜んでくれる――。
窓の外で、小さく人の声がした。
「――誰だ?!」
総議長様が声をあげると同時に、扉の傍に立っていた護衛が窓に駆け寄る。
だけど、バンと開いた窓の下から強烈な拳を受けて、声もなく崩れ落ちてしまった。
「今度こそと思って来てみりゃ、面白い話をしてるじゃねぇか」
獣のような目つきの男が一人、ドンと窓枠に足を掛けて、唇を舐めた。
「お前……昨日の奴だな!」
声が、出ない。
総議長様が詠唱した水魔法を軽々と避けて、私に突進する。
一瞬で後ろ手に捕まえられて、土埃の臭いの奥に、嘲笑がきこえた気がした。
「動くなよ。総議長さん。そのまま黙って両手を挙げろ」
視界の隅に、刃物が光る。
ちょっと、信じられない。何をどうしたらいいのかわからなくて、とにかく身をよじる。
捕まった腕はびくともしない。
「やだ、放し――」
次の瞬間、窓から鳥の集団が一直線に男目がけて、飛び込んできた。
「うわっ!? くそ、また鳥か……!」
怯んだ隙に腕を振りほどいて、転がるように逃げる。
頭の上を総議長様の水魔法が通過して、バンと魔力の水が男を吹き飛ばした。
「あっぶね……意外と強ぇじゃねぇか」
まともに食らった筈なのに、壁から身を起こして、笑みすら浮かべている。
「てめぇ! 誰の差し金だ!」
「ケッ。せいぜい悩んどけ。今日は引き退がってやらぁ。いい土産話ができたんでな」
サッと窓から飛び出していく背中を見ながら、血の気が引いた。
さっきの話を、聞かれてた――――。
「止まれ、不審者」
外で一閃、長剣が空を斬る。
「うわっと! この旋風のゲイル、貴様ごときにやられはせんわ!」
ぎりぎりで剣を避けた姿勢がそのまま蹴りになって、ジェストの腕を跳ね上げた。
そこに総議長様の水魔法が飛んだのも、くるっとかわされた。
「あっぶね。――さらば!」
「待て!! ……くそっ」
あっという間に消えた男に、高貴な装いの総議長様が平民みたいな悪態をついたのにも、呆然とするしかなかった。
蹴られた腕をさすりながら、ジェストが厳しい色をして部屋の中を覗いてくる。
「何ですか。今のは」
床をうろついていた野鳥も、どこかへ飛んで行く。
冷えた空気が入ってきていた。
「申し訳ない。俺を狙って来た刺客です。……ミラノさん、大丈夫ですか?」
言われて、へたり込んでいる自分に気付いた。
「どっ……どうしよう……さっきの話、聞かれちゃいました」
「奴の名前から、誰の手下か調べます。――迂闊でした。怖い思いをさせてしまいましたね」
「……状況を、ご説明ください。何の話をしていたと?」
キンと剣を納めて堅い声を落としたジェストの目が、怖い。
扉を叩いて急いで入ってきたイリス様にほっとして、ちょっと涙が出てきた。
「お待たせして申し訳ありません。……これは、何が起こったんですか?」
「奴隷解放の活動について、首謀者を私の刺客に聞かれました。動かれない限り、人事院は手出し出来ない筈ですが……身辺に、お気を付け下さい」
さっと、イリス様に動揺が走る。
「そういう民間側の活動組織がある事は、私の方でも掴んではいましたが、まさか、また聖女様とは。……やはり、奴隷制の廃止は、するべきなのでしょうね」
凍り付いた空気が、貴族らしい丁寧な声になった総議長様の困ったような笑みに、少しだけ弛む。
「……恐れ入りました。どこまで、ご存じだったのですか」
「いえ、それ以上は何も。噂をかじっただけですから。それに、今日はこんな話をしに来た訳ではありません。昨日のお礼に、と思ったのですが……さらにご迷惑をおかけして、本当に申し訳ない。まずは、これを」
カサ、と小物入れから取り出した紙を受け取って、ようやくイリス様も、落ち着いてきた。
「寄付目録……。こんなに、頂くような事は……」
「まだ立場の弱い奴隷達の為に、使ってください。制度改正については、私の方でも進めています。もう少し、時間がかかるかもしれません。それまで、どうか待っていて下さい」
総議長様の真っ直ぐな言葉に、胸が震えた。
昏倒していた護衛を起こして、彼にも緘口を敷く。
「出来たら、今度ゆっくり時間を取ってお話しましょう。取り急ぎ、刺客の主を探りますので、今日はこれで失礼します。――ミラノさんを、叱らないであげてください」
急ぎ足で帰っていく総議長様を呆然と見送って、長椅子に腰を下ろしたイリス様が、長い溜息をついた。
「――良い風が吹いてきた、か。あの野郎……」
「ユリウスが手を回していたのは、この件だったという訳ですか」
窓の外で周囲に目を光らせたままポツリと溢したジェストの言葉に、やっと事情が少しだけ呑み込めた。
ユリウスは、総議長様が奴隷の解放活動について反対しない事を知っていて、私にイリス様の活動を伝えさせた。
総議長様が直接イリス様の活動を知るっていう事は、たぶん、大きい意味がある。
それよりも問題なのは、謎の人間に話を聞かれて、逃げられた事だ。
「あの……ごめんなさい……私、ユリウスさんに、総議長様にだけ教えて良いって言われて……」
「ユリウスが……。って、あいつ、どこに行ったんだ。裏から行くとか言っておいて、出てこないな」
ふと顔を上げたイリス様が、散らばった黒い鳥の羽根を拾い上げる。
厳しい瞳が、揺れたようにみえた。
――いつも、ユリウスのまわりには、羽音がある。
「沢山の鳥に囲まれているのを昨日も見ましたけど、ユリウスさん、鳥とお話出来るんでしょうか」
言ってしまってから、子どもじみてる、と恥ずかしくなったが、イリス様は小さく頷いた。
「……対話じゃなく、視界を乗せるんだ。鳥の行動も操れるし、ここで起きた事は分かっているだろう。それで顔を出さないとなると、次の手を打ちに行ったか、刺客を追ったか……」
「刺客を始末してくれていると、助かりますね」
ジェストの冷静な言葉が、怖い。
「ジェスト、周囲に異常がないか見てきてくれないか。聖堂にアリスを待たせているんだ」
「わかりました」
短い返事で向けた背中を、不安なまま見送る。あの刺客が依頼主の元へ戻って報告するのも、ユリウスさんが追っていて、殺してしまうのも、どっちも、怖い。
「――……やっぱり、こんな事に、巻き込むんじゃなかった。ミラノ。君まで危険に晒して……。今ならまだ間に合う。この件が落ち着くまで、エラークに帰って……」
小さな声に、咄嗟に反発する。
「私、帰りません!」
「しかし、俺の情報を掴んだ刺客に顔が割れたんだ。危険過ぎる。……もう、この為に仲間が死んでいくのは、嫌なんだ。本当は、鳥使いは、ユリウスじゃなかった。狡猾で強かな奴だった。そんな奴でも、酷い有様で、死んでいった―――。君には付けられる護衛がいない」
深い哀が、滲んでくる。
時々みせた泣きそうな顔は、それを思い出していたからなんだと思うと、胸が痛くなる。
「……私は、死にません。怖いけど、大丈夫です。それに、まだあの刺客さんがここを襲ってくるとは、限りませんよ。本当は総議長様を狙って来たんですから」
「しかし――」
「やだ、駄目!!」
いきなり高い声が飛び込んできて、ものすごくびっくりした。
いつのまにか開けられた扉からアリスが突進して、ぶつかるように私の腕をがっしり掴んでくる。
「お姉ちゃん、ミラノを追い出したら駄目なんだからね! 大事な味方なんだよ!」
深刻な空気が、一瞬で別のものに変わった。
「アリス。お前も夜中に俺の代わりになるのはお終いだ。家で普通にしていなさい」
「やだ。お姉ちゃんは、わかってない。ミラノも私も、お姉ちゃんを助ける為にここにいるんだよ。心配して貰う為じゃないし、あの鳥使いみたいに死ぬ為でもないの。大切なものの為に働けないなんて、そんなの、死んでるのと変わんないよ」
思いがけない強烈な言葉に、目が醒める。
やりたいことに背中を向けるなんて、できない――。
「あ、あの~。何の話をされているんでしょう? その、今、総議長様がお帰りになって行かれましたけど……お客様って、あの方じゃなかったんですか?」
セフィシスが、そっと覗き込むように、不安な声をあげた。
「ああ、用件は済んだんだ。……セフィシス、最初にミラノを連れてきたのは、君だったな」
「は、はい。……?」
「アリスとミラノを、二人を、守ってくれるか」
「勿論です。あ、でもミラノちゃんの事はイリスさんが守らなきゃ駄目ですよ」
当然のようなセフィシスの言葉に、一瞬、ぽかんとしてしまう。
「――そうか、わかった。ミラノ、じゃあ簡単な防御魔法ぐらいは、覚えておいてくれよ」
「えっ? は――はいっ」
何故か納得してしまったイリス様にほっとするよりも、アリスの顔がむくれていくのを、そっと横目でみる。
「ミラノ、ずるーい。いいもん、お姉ちゃんを守るのは、アリスなんだから」
むくれたまま小物入れから何かを引っ張り出して、聖女様の聖衣を引っ張る。イリス様がせがまれるままに腰を落とすと、ぱっと首飾りをかけた。
「お守り! 絶対外しちゃ駄目だからね。絶対だからねっ」
「もしかして、さっき、これを買いに行ってたのか」
胸元に光る装飾品を眺めるイリス様に、アリスはやっと機嫌よく頷いた。
「東地区で流行ってるんだって。身に着けて歩けば守ってくれるんだよ。ほら、服の中にしまって。なくしちゃ駄目だよ」
「わ、わかったわかった」
アリスがいると、どんな場面でも、和んでしまう。
さっきは思いがけない強い言葉にびっくりしたけど、そういう芯の強さがあるから、迷いのない真っ直ぐな行動が出来るんだろう。
「――ジェストが戻ってきてから対策を立てる。総議長と顔が繋がった収穫は大きい」
ぽん、と優しく頭に手を置かれて、やっと、ほっと息をついた。
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