◇◇◇フェリア教会の聖女◇◇◇

ー/ー




 低い鐘の音が、フェリアの街並みに染みていく。
 もう何度この追悼の音色を、すぐそばで聞いただろう。人の少ない村なら痛ましく目をあげる。だけど人の多い都市では、人の死は珍しくない。毎日誰かが死んで、いつでも鐘が揺れている。
 私は目を擦って、沈んでいく日差しに霞んだ景色をみつめた。
 公園の緑から鳥の集団が一斉に飛び立つ。黒い粒ほどの影が、頭上を高く駆け抜けていった。
「――ミラノ~! ミラノ=アート~!」
 足の下の方で私を捜しているのは、セフィシスだ。6年前に私がこの中央教会に来てから、何かと世話を焼いてくれる退魔師。『降魔の聖女イリス=ローグ』の助手として、いつも忙しく働いている。ぼうっと過ごしている私とは大違いだ。
 私はぱっと屋根を降りて、彼女の目の前に着地した。
「きゃ! び、びっくりしたぁ~」
 大きく開いた青い瞳が、捜し人の顔を見つけてふわりと笑み、しかしすぐに口元を引き締めた。
「もう、どこから降ってきたのよ。あんまり危ない事はしちゃダメよ」
「大丈夫ですよ。もう慣れっこです。それより、お呼びですか?」
 夕食の時間にはまだ早い。教会の聖使としての当番も、今日は私には巡ってきていない筈だ。
「そうそう。イリス様が呼んでるわ。お仕事みたいだけど、行けそう?」
「勿論です。すぐに準備してきますね!」

 ここ数か月、ずっと声がかからなかったから、すっかりボーっとしてしまっていた。頭の中に立ち込めていたモヤモヤが晴れて、目の前が明るくなった気がする。
 準備といっても必要なのは身ひとつ。私には、セフィシスのような魔導杖も、イリス様のような剣もいらない。ちゃんと声が出ればいい。だけど流石にこんな普段着で聖女様の公式の仕事についていく訳にはいかない。
 木造の廊下を駆けて、暮らし慣れた部屋にとびこむ。
 薄紅色のヒラヒラした服を脱ぎ捨てて、掛けてある聖使の服に袖を通す。風に吹かれて乱れた濃い茶色の髪を、頭の左上できゅっと結び直して、鏡の中を確認。弛んだ顔が映ってる。パンと両頬を叩いて、小物入れと外套を抱えて部屋を飛び出した。

 廊下を抜けた離れに、聖女イリス=ローグの部屋がある。トントンと扉を叩くとすぐに返事があって、そっと部屋に入った。
「失礼します。お待たせしました。イリス様」
 外套の下に長剣を納めた聖女様が振り向くと、赤い長髪がさらりと流れた。
「早かったな。急に呼び出して済まない。久々の魔物退治だが、大丈夫か?」
 凛とした美人の聖女様の柔らかい笑顔がまぶしい。長身のイリス様が間近に立つと、私はかなり身長差を感じる。
「勿論、大丈夫です。えっと、今回はどこに行くんですか?」
「北街道の外れにある農地だ。あの辺りは行政区の裏山に繋がっているところがあるから、どうやら一般の退魔師をあまり使いたくないらしい。そんなに遠くないから、すぐに行って帰って来れるよ。ジェストが先に行ってくれてる。セフィシスは留守番だ」
 外套の前をパチンと閉じて部屋を出る聖女様に、私は小走りで続いていく。足の長さが……。
 聖堂を通って聖使達と挨拶を交わしてから正門に出ると、ピタリと馬車が待っていた。居合わせた礼拝の人々が振る手ににこやかに応えて馬車に乗り込んだ聖女に、わっと場が盛り上がる。
 いそいで馬車にはいって扉を閉めると、すぐに出発した。

「ふふ、イリス様、いつも大人気ですよね」
 そう言うと、イリス様はひとつ大きな息をついた。
「うーん……派手に目立ったのは6年も前なのに、どうして目立ちっぱなしなんだ……」
 そういう困った顔をしていても美人だからですよと言うのを、我慢する。褒めているつもりでも、この人がそういう言葉を嫌がっているのを知っているからだ。
 もう随分前に、聖女になる前までは男だったと聞かされた。
 前任の聖女がイリス様に何かの魔法をかけて、聖女に仕立てていったのだと聞いた時には、冗談にしか聞こえなかった。誰がどうみても、あこがれるほど整った体格の女性だ。でも本人の様子とセフィシスの気遣い方を見ていると、少なくとも私をからかう為の冗談じゃないっていうのは、少しずつ理解してきたことだ。
「そういえば、故郷にはちゃんと手紙とか出しているのか? ずっと帰っていないだろ」
 唐突に変わった話題に、私はあわてて手をぶんぶん振った。
「あ、それは大丈夫です。領主様とのお手紙に一緒に入れさせて貰っていますから」
 私は最初、フェルトリア連邦の南方地区エラークの領主――この中央都市から見れば地方議員である、オークリス家の従者のひとりとして、この都市に来た。
 その時は、まさかこんなふうに暮らすなんて思いもよらなかった。両親はエラークで働いているし、若い領主のセルウィリア様には親しくして頂いていて、折々に手紙のやりとりを続けている。
 最初の頃こそ、ひとりポツンと中央都市に残る事になって、何度も帰りたいと思った。
 その度にセフィシスには相談相手になって貰ったし、中央でしか触れられない文化芸術、地方とは一味違う学舎の面白さに没頭して、帰郷の想いを追い出してきた。
 今ではすっかりこの環境に慣れて、居心地の良さを感じている。特に、聖使である私の上に立つ聖女様がイリス様だからこそ、頑張れるんだと思う。剣は強いし、凄い美人で優しくて、びっくりするほど料理が美味しい。決して、食欲に負けて居ついた訳じゃないけれど。


◇◇◇綺麗な奴隷◇◇◇

 馬車の車輪がゴロゴロする響きが、ガタンと止まった。イリス様ととめどないお喋りをしているうちに、いつの間にか目的地に着いてしまったみたいだ。もう少しだけ喋っていたかったけれど、私は馭者の手を借りてトンと外に出る。
 馬車を降りたところで、いつも物静かな退魔師のジェストが聖女様の到着を出迎えた。
「ご足労ありがとうございます。ここから入ってすぐの所です。場所をおさえて、一般人が近づかないよう手配しておきました」
 用件だけを淡々と口にしたジェットはイリス様が頷いたのを確認して、足早に先頭を切って歩き始めた。このジェストは、イリス様の側近みたいなものだ。いつも言葉数は少ないけれど、イリス様とは疎通の要領を得ているように見える。
 私はそういう二人のあとに続いて、林の中に入っていく。
 枯れ枝を踏みながら分け入った緑の中、焼け跡のある空地に出た。左右には小さな畑があったようだけれどすっかり荒れていて、作物は見る影もない。
 その奥の一角に、鎖を鳴らして暴れる赤黒い獣がいた。暴れる度に全身から黒い飛沫が広く飛んで、地面を焦がす。畑に備え付けられた獣獲りの罠に引っかかった状態なのだろう。確かに、これは近付いて止めを刺そうという一般人はいないはず。一応矢を射掛けてはみたようだが、致命傷をつくる事は出来なかった様子だ。
「なるほど……これは、セフィシスを連れて来た方が良かったかもな」
 そう呟いた高い背中に、私はそっと声をかける。
「折角連れてきて頂いたんですから、私もちゃんと使って下さい。誰もいないんですから」
「そうだな……任せた。ミラノ。無理はするんじゃないぞ」

 私は頷いたイリス様に笑顔をみせて、前に出る。飛沫が飛んできていなさそうな、ギリギリ近くまで、大きな犬くらいの魔物に近付く。そこまで行くと、魔物の方も私を睨み付けて低い唸り声を響かせた。
(わかるよ。その瞳のない瞳の奥に、あなたのほんとうの命があったことを――)
 右手をまっすぐに向けて掌を広げる。
 魔物がいきなり暴れれば飛沫がかかるかもしれないけれど、睨み合っているうちは、大丈夫。
(――あなたの姿は、そうじゃない。もう一度、真実の形をとる、その時まで――)
『――消えて――!!』
 言葉と共に、さあっと魔物の姿が白く染まっていく。
 睨んでいた目を細めて、石化したように硬くなった一瞬後。ぱぁん、と虹色の輝きになって、砕け散った。

 ほっと安心した途端、木々の中から拍手が響いて、心臓が飛び出すかと思った。
「いやぁ、素晴らしいものを見せて貰いました」
 軽い口調の心地良い声の主が、がさ、と林の中から出てきて、目を瞠った。見られた、っていうより……その容姿に、ちょっと、びっくりしてしまう。
 なんて綺麗な男性なんだろう。
 後頭部の高い位置でキリッと結い上げ、背中までサラリと流れる茶髪。びっくりするほど綺麗な顔立ちの青年が柔らかな瞳をこちらに向けている。だけど、身に着けているのは、くすんだ土色の奴隷服だ。
 そのあまりに格差のある姿に、どう反応していいのかわからない。そんなふうに一瞬硬直してしまった私の背後から、思いがけない大きな声があがった。
「――ユリウス! お前、お前っ……何で、ここに――」
 ひっくり返りかけたイリス様の声。バッと彼に駆け寄り、奴隷服の肩を掴んだ。
「やだなぁ。そんなに俺が恋しかったんですか? イリス。まぁ、今の君の姿なら、大歓迎しちゃいますけど――」
「ふざけんな、馬鹿がっ……今まで、6年も。……心配したんだぞ」
 そういって茶化した調子の綺麗な青年は、仕方なさそうな笑顔をみせて、涙の滲んだイリス様の頭をポンと撫でた。え、撫でた?ちょっと待って、この二人は一体どういう関係なんだろう?
「イリス様、その人は――?」
 私の疑問を代弁するかのように、ジェストが冷静な声をあげた。
 よかった、疑問に思ったのは私だけじゃないよね。奴隷服の男性にからかわれて撫でられる聖女様……というのは、常識的に考えてもなかなか無い光景だと思う。
「やぁ、君がジェスト君だね。イリスの右腕。有能は聞き及んでいますよ」
 綺麗な男性はそういって、ジェストの肩を気軽に叩いた。ジェストがぽかんと首を傾げるのも当然だ。
 それから彼はごく当然のように私に近付いて、片膝をついた。
 優しげで綺麗な顔が、じっと覗き込んでくる。……なんで?
「はじめまして。私は、ユリウス=ハーシェルといいます。歳は21。仕事は奴隷。宜しくお願いしますね。ミラノちゃん」
 そっと手を取られて片目を閉じた紳士的な姿に、一瞬、視界がまばゆく輝いた気がした。
「えぇっ? あ、あの……」
 一体、これは、どういうことなのだろう? 
 というかこんな時どうするのが正解なのか分からなくて、私はどっと焦ってしまった。イリス様がユリウスの肩を引いて割り込んできてくれたおかげで、私は一旦、この変な状況から解放された。

「ちょっと待てよ、ユリウス、さてはこの魔物退治を仕込んだのは、お前だな」
「おやおや。私は何も知らない通りすがりの貴族奴隷ですよ。 勘繰り過ぎですよ~?」
「通りすがりというには、よく調べがついてるんじゃないか。大体、なんでここにいる。奴隷の姿でこんな所をうろついて、脱走じゃないだろうな」
 ユリウスの軽い調子に忘れかけていたけれど、彼は格好も自称もはっきりと奴隷だ。
 逃亡は重罪だというのを思い出して、少しだけ、緊張する。
「ふふ……心配してくれるんですね。相変わらずだなぁ。大丈夫ですよ。今日から私の主人は、フェリア教会の真の聖女様ですからね。ちゃんと移籍の手続きも済みましたよ。教会受け取りは明日になっていますけど」
 さらりと喋った内容についていけないイリス様を尻目に、ユリウスが私をみて、ニッコリと笑う。
「つまり、今日から私は、君の奴隷という事ですよ」
 そんなふざけたような軽い言葉に反して、気品のある空気が溢れる。
 一瞬ぽかんとした隙に、またイリス様が割って入った。
「おい、ミラノに手を出すなよ。大事な協力者なんだからな」
 ――協力者。
 真剣なイリス様の言葉が、ぽつんと胸に残った。
「あの、おふたりは、どういうお知り合いなんですか? 全然、繋がらないんですけど……」
 黙ってはいるけれど、さっきから傍でずっと黙っているジェストの気持ちも代弁して、踏み込んでみる。
「ほら、降魔の聖女様って奴隷に色々優しい施しをしているじゃないですか。私、憧れなんですよねー」
「白々しい世辞はやめろ」
 身分を越えた恋人とか言われたらどうしようかと思いながら、イリス様が一呼吸おいたのを見守る。
「こいつは――俺の、共犯者だ」
「……では、何か動きがあるという事ですか」
 ジェストが、刺すような目でユリウスを見た。
 ……。”共犯者”の一言で事情を呑み込んだジェストと違って、私にはどういう事なのかさっぱりわからない。
 もうちょっとわかるように、誰か、説明して……。
「流石ジェスト君。ご明察です。……政界の裏側で、準備が整いつつあります。人事院づきの私が教会に移籍になったのは、教会を見張る為です。まぁそう仕向けたのは私ですけどね。まったく、信用を得るのは大変でしたよ」
 いきなり展開した難しそうな話に、私はひたすらぽかんとするしかない。

「待て、準備って……何が起きているんだ? 俺は結局、奴隷のために、何も出来ていない」
「いえいえ、イリスは頑張っていますよ。聖女が奴隷に施しを続ける事で、民衆も悪感情を抱かなくなってきた。これは重要な事です。6年前の虐殺事件も、前の聖女が仕組んだ、奴隷への同情を招く為の布石だったと言えるでしょう。それに、あなたが裏で作ってきた組織も、間接的ながら政界の権威の均衡に刺激をもたらしている。……勝手ながら、それを色々と利用させて頂きました。本当はもっと時間がかかりそうだったんですけど、いい風が吹いてきましたよ。……イリス。その魔法が解けるのも、そう遠くない筈です」
 ポン、とユリウスの拳がイリス様の豊かな胸元を叩いた。
 普通に考えれば失礼すぎるその行動に、イリス様は怒るでもなく、静かにその手を掴む。
「――俺は、何をすれば良い?」
「そのために、私が来たんですよ。取り敢えず……美味しいご飯を、期待していますね!」


 帰り道。すっかり暗くなってしまった窓の外を眺めながら、一言も喋らないイリス様とジェストの真剣な空気が、息苦しい。
 ゴトゴト揺れる馬車の音だけが、大きく響く。
(……イリス様には、複雑な事情があるんだ)
 6年前、大勢の奴隷が亡くなった事件は、私も覚えている。
 街中に魔物が出て、はじめてこの手で魔物を消したあの時。行政地区で橋が落ちて、そこに集まっていた大勢の奴隷が犠牲になった。
 『降魔の聖女』は、その時突然現れた女剣士だった。
 偶然私が大量の魔物を消した時、惨状の中で事態を収束させたイリス様が、それをやったのだと思われていて、そのイリス様が聖女に就任すると、私はそのまま傍にいることになった。
 『降魔の聖女』その称号の正体の半分は、私なのだ。
 だから、協力者っていうのは当たり前の呼ばれ方だ。――でも、それ以上の秘密があったなんて、知らなかった。
「……イリス様が、いつも奴隷達の為の施しをしているのは、あの事件で沢山の奴隷が亡くなったからだと思ってました。でも、もっと何かあるんですね? 教えて下さい。何をしようとしているんですか? ――私に、お手伝い出来る事は、ありませんか?」
 じりじり悩むのが、もどかしい。
 馬車はすぐにでも教会に帰り着いてしまう。聞けるのは今しかない。
 街の中に入ったのか、ゴトゴトする音が少しだけ小さくなる。
「……黙っていて、済まない」
 ぽつんと呟いたその言葉に、どきりとした。
「君には、エラーク地方……セルウィリア=オークリスとの繋がりがあるから、伏せていた。奴隷を労働力にしている南方にとっては、敵みたいなもんだ。奴隷制を廃止させようっていうんだからな」
「わ、私、領主様に密告なんてしませんっ」
 おもわず声が大きくなって、顔をあげたジェストと目が合う。
 領主様と親しくするのと、秘密を守るのとは違う、っていうのが、胸の中で迸る。
「……この6年で、貴女がそういう人だというのは、わかっています。イリス様は、貴女を危険な事に巻き込みたくなかっただけです」
 ジェストの口から淡々と長文が出てきたのに、びっくりした。
 いつも人に興味無さそうにしているのに、どこで見てたんだろう。

「ユリウスは6年前の事件の頃からの仲間だ。当時の聖女が主導して議場を制圧して、制度を変える筈だった。……だけど、俺はその直前に聖女に封じられて、目が醒めたら女になってるし、計画は失敗してるし、こんな魔法をかけた聖女はいなくなった。――時間がかかっても、必ず、奴隷制を廃止させる。きっと、俺にかけられたこの魔法は、それで解けると思っている。あの聖女のやる事だからな。それに、あの時死んでいった奴の為にも……決して、投げ出す訳にはいかない」
 そういうイリス様の真っ直ぐな強い瞳が、夜の街並みを見つめていた。


◇◇◇夜の世界◇◇◇

 フェルトリア連邦、中央都市フェリアの中央教会。つまりここは、首都の大きな教会だ。
 一般の礼拝者の拝礼時間を過ぎた教会の夜の聖堂。その夜の一刻は、聖使達の祈りの場になる。そうして一日が終わり就寝時間になると、真夜中の聖堂はひっそりと静かな場所になる。
 星の輝きを受けた中庭の緑の夜露が、うっすらと檀上の天使像を照らす。
 いつもは気にならない自分の足音が大きく響く。暗さに目が慣れて、木造の天使像の羽根ひとつひとつの影まで見えてきた。
 6年前。
 私がはじめて領主様についてこのフェリアに来た時、何日目かに沢山の魔物が出現した。
 丁度この教会に来ていた時だった。
 エラークでは随所に常設している魔除けの香木がなくて、当時の天使像を領主様が壊して香木として使ってしまった。その後領主様が寄進したこの新しい天使像は、壊してしまった物にも劣らない、立派な作品だ。これは皆の前で天使像を派手に破壊した領主様の、誠意だ。
 私は聖女様がするように、その像の前で両膝をつく。
 逆光に立つ誠意の残像を瞼に焼き付けたまま、静かに目を閉じた。
(……魔物を消す事しか出来ないけど……。もっと、イリス様の役に立ちたい)
 昼間、魔物討伐から帰ってからずっとモヤモヤしていたのだけれど、改めてそう思う事で、胸の中で解けていく。温かい想いが身体の中でまっすぐな芯になって、背筋が伸びる。
 突然、ドンドンと聖堂の扉が叩かれる音が響いて、すごくびっくりした。
 魔物が押し寄せてきた時も、魔物が扉を叩いていたのを思い出す。こんな夜中に訪ねてくる人がいるなんて、酔っ払いか、魔物か――。
 とにかく急いで扉に駆け寄って、そっと声をかけてみる。

「――どなたですか? 教会はもう閉まっていますよ」
「よかった、人がいた。こんな時間にすみません。こちらしか頼る所が無くて――。『降魔の聖女』様が奴隷に優しいと聞いて。一晩だけで良いです。奴隷を一人、預かって頂けませんか」
 誠実そうな青年の声が、扉の向こうで切実な色を滲ませた。でも、だからといって簡単に扉を開ける訳にはいかない。一応教会が奴隷を保護するのには、ちゃんと決まった時間帯に手続きが必要になる。
「あの、昼間に担当の聖使が対応しますので……」
「無理は承知です。それでも、どうしても今俺が連れて歩く訳にはいかないんです。すみません、お願いします――!!」
 扉の向こうから、真っ直ぐな声が届く。
「ち、ちょっと、頭をあげてくださいっ」
 あわてて扉を開くと、身体を直角に曲げて頭を下げた青年が、ぱっと安堵の顔をあげた。
 街の明かりに薄く照らされた短い黒髪が、商人の帽子の下でサラリと光る。
「本当に申し訳ないです。俺は商売でフェリアに来たんですが、途中でこの子を拾ってしまって……。仕事柄、この子を連れて宿を取る事ができなくて。彷徨った挙句、こちらに辿り着いた次第です。お礼は出しますので、どうか、預かって頂けませんか」
 そういって足元に座り込んでいた小さな少女を、優しく立たせる。
 その姿に、おもわず、息をのんだ。
 ボサボサした伸ばしっぱなしの金髪の下で、壊れそうなほど細い手足がひょろりと伸びている。両足に重そうな鉄球が鎖で繋がれて、服も擦り切れた布一枚といってもいいくらいだ。
「あの……この子は?」
 そう聞くので、精一杯だった。
「北街道の外れで、林の中で震えていたんです。逃亡奴隷かも知れないし、主人がわざとそうしていたのかも知れないけど、とても放っておけなくて。一応、ご飯は食べてくれましたが、まだ素性はわかりません。名前はハーゼ。仕事が終わったら引き取りに来ますので。どうか、宜しくお願いします」
 商人はそう言うと、少女と小金が入った麻袋を手渡してきた。
 そのまま立ち去ろうとした背中に、慌ててもう一度声をかける。
「あのっ! あなたのお名前を――」
 私は呼び止めて振り返った青年の顔を、必死に見つめる。
 まさか預け主がわからないなんて失敗をする訳にはいかない。
「俺は、アキディス=タイド。シェリース王国とフェルトリア連邦の間の行商人です」
 彼は再びペコリと頭を下げて、今度は本当に足早に立ち去ってしまった。

 ぽつんと取り残されたような感じで呆然としてから、手の中の少女がじっと見上げているのに気付いた。そっと扉を閉じて、外の世界を追い出す。預かったからには、丁寧に保護しなくては。
 だけど他の誰かにも相談して寝床を確保しなくちゃいけない。土の臭いがする少女の足に付けられた鉄球が、何度見ても、痛々しい。
「ハーゼちゃん。私は、ミラノっていいます。夜遅いけど、まずは簡単に身体を洗おうね。足、大丈夫?」
 少女の目が、自らの足元に落ちた。
「これ。おそいけど、歩く。ここ、床、ひきずっても……?」
 ハーゼのか細い声が落ちた。私はその落ち着いた様子に、少しだけ安心する。
「それはいいけど、痛いでしょ。アキディスさんは……もしかして抱っこして連れてきてくれたの?」
 小さく頷くバーゼに、なんだか胸があたたかくなる。
 私も――もっと、いろんなひとの役に立ちたい。
 足の鉄球がぶらさがって足首を痛めないようにするには、鉄球も一緒に持ち上げる必要がある。腕力のない私があれこれ試した結果、バーゼを背中におんぶして、後ろ手で鉄球と足を支える形になった。
「あの……あるけますから……」
「いいから、ちゃんとつかまってね」
 ちょっと怪しい足取りでゆっくり浴場に移動する。
 ひとりでお湯に入れるのを確認すると、誰かに相談するために宿舎へ走った。もう聖使達は床についている頃で、どの部屋も暗く閉ざされている。セフィシスの部屋も応答がなくて、最後に聖女様の離れに向かった。そこにようやく明かりが点いているのをみて、ほっとした。

「イリス様、こんな時間にすみません。いらっしゃいますか――」
 扉を叩くと人が動く気配がして、鍵が開いた。
 そっと開かれた隙間から目線の高さで赤毛が覗き込んで、びっくりする。
「え? あ……」
 声をあげる間もなく腕を掴まれて、サッと部屋の中に引き込まれ、素早く鍵がかけられた。
「大きな声、出さないでよね」
 まっすぐな赤い髪を肩の位置で遊ばせた少女が、きりっとした目を向けた。白いヒラヒラの寝間着は少しだけ大きいみたいで、足元でかるく引きずっている。
「――アリスちゃん。な、なんでここに?」
「アリス、妹だもん。お姉ちゃんの留守を守るのは、妹の特権なの」
 ぷう、とむくれた顔を作った少女が、両手を腰に構えてみせた。
 彼女がイリス様の妹なのは、勿論知っている。だけど、教会とは別の住居で暮らしている筈だ。わざわざイリス様の留守に、ここに泊まっている意味がよくわからない。
「ミラノ、こんな夜遅くにどうしたの? お姉ちゃんに何の用?」
 じと、と見つめられて、ちょっと緊張する。
 このお姉ちゃん大好きっ子に睨まれたら、好敵手扱いされかねない。
「えっと、大したことじゃないんだけど、さっき奴隷の子を聖堂で預かっちゃって。誰かに相談しようと思ったんだけど皆もう寝ちゃってたから、最終的にここに来たんだけど……」
 恐る恐るの説明に、やっとアリスの顔に笑顔がうかんだ。
「なーんだ。てっきりミラノが夜這いに来たのかと思った」
「そ、そんな事しませんっ」
 あはは、と笑ったアリスは、すぐに自分で自分の口を塞いで、窓の外に視線を泳がせる。
「とにかく、お姉ちゃんは留守なの。多分、セフィ姉とジェストも一緒。奴隷の子は、今夜はミラノの所にでも泊めてあげてよ」
 ――イリス様が言ってた、奴隷制を廃止させるための活動。
 咄嗟に、それが思い浮かんできた。
 ジェストが一緒なのは当然だけど、セフィシスも出掛けているとは思わなかった。寝静まってたんじゃなくて、留守だったんだ。ずっと規則通りの就寝についていたから、今まで全然気づかなかった。
 当たり前の顔でアリスがここにいるのも、珍しくない習慣なのかも知れない。
「……イリス様は、どこに出掛けてるんですか?」
 そっと、訊いてみる。
 なんとなく教えてくれないだろうと思っていたから、サッと地図が出てきて、びっくりした。
「ミラノが訊いたら教えて良いって。ミラノも、お姉ちゃんの味方なんだよね。絶対絶対、お姉ちゃんの事、助けてよね」
 ぎゅっと地図を握らされ、部屋を追い出された。

 地図の場所へ行くのは良いとして、取り敢えず浴場に置いてきたハーゼを迎えに、もときた廊下を戻る。途中で部屋にまわって、めぼしい服を調達するのも忘れない。
「ごめんね、お待たせ――」
 急いだ勢いのまま扉を開くと、小動物のようにビクッと身体を震わせたハーゼが、怯えた目をあげる。
 ボサボサの髪はしっとり落ち着いて、纏わりついていた土の臭いもきれいに落ちていた。そのかわり、日焼けた肌のそこらじゅうに、沢山の痣と傷跡があるのを見付けて、胸が痛くなる。林の中で震えていた、という事からしても、酷い扱いを受けていたのだという事実を、くっきりと現実に突き付けられた気がしてこっちが泣きそうになるのを、いそいで彼女の髪を拭いてあげて、ごまかす。
「とりあえず今日は私の所でゆっくり眠ってね。ちょっと私、出掛けなきゃいけないんだけど、大人しくしていられるかな?」
 されるがままのハーゼが、小さく頷く。新しい服に腕を通してあげれば、足に鉄球が繋がっている部分以外は、ひょろりと痩せた普通の子供みたいになった。
 また彼女を背中にのせてフラフラと宿舎の廊下を歩いて、ようやく部屋に辿り着いた頃には、どっぷり夜も更けた。
 ハーゼも、眠かったんだろう。寝台に座らせるなり、ぱたりと寝入ってしまった。

 ――よし、行かなきゃ。
 目も頭も、すっきり冴えてる。改めて地図を明りのもとで眺めてみると、いつもアリスが昼間働いている大衆食堂だった。その裏に倉庫がある。合言葉を使って食堂を通過すると、そこが拠点らしい。
 さっと目立たない私服に着替えて外套を羽織る。
 私ははじめて、夜の街へ飛び出した。



◇◇◇秘密の拠点◇◇◇

 南方地方の故郷が農耕の地なら、この中央都市フェリアは文化と芸術の地だ。
 流行の発信地で、色々な可能性を持っている、地方出身の若者の憧れの街。お洒落な建物の屋根に色とりどりの旗が縦横に張り巡らされて、その下にどんな店があるのかを教えてくれる。そこを歩けば賑やかで楽しくて、高台から眺めても街を染めるその色彩は、凄く素敵だ。日が沈めば灯りの中に浮かんだ店先に、酔客の笑い声が溢れる。
 その酒場の明りも落ちて、いつもは光に隠れた星空が、頭の上でキラキラ輝いているのをみつけた。
 だけど人気のなくなった道端で目につくのは、無造作に散らばるゴミだ。暗がりの中から時折聞こえる呻き声は、多分、酔っ払いだろう。
 ――ちょっと、怖いかも。
 どこか危うさを含んだ空気に、ちら、と不安になる。
 魔物に遭ったら消せば良いだけだけど、相手が人間だったら、そうはいかない。
 新しい一面をみせた夜の街を、速足で駆け抜ける。イリス様達だって、同じ道を帰ってくる訳だから、そんなに怖がるほど危険じゃない筈――。そう自分に言い聞かせて、まっすぐ食堂を目指す。
 道端に寝そべった酔っ払いと、建物の隙間にうずくまる鎖に繋がれた奴隷が、点々と街の片隅で重い吐息を溢している。
 そういう夜の世界を、ぎゅっと目を瞑るようにして通り過ぎた。

 やっと辿り着いた食堂からは、ほんのり薄明りが零れている。
 店が開いている雰囲気は全然無いけれど、その奥に、イリス様がいるはず。
 扉に手を掛けると、軽い音を立てて簡単に開いた。恐る恐る、そっと中を覗いてみる。
 ガランとした食堂の机に、燭台がひとつ。それがゆらゆらと寂しく広い食堂の天井を照らしている。
「――開店は、明日の朝だよ」
 人気の無い空間から声が湧いて出てきたのに、どきっとした。
 「お、おかゆを頂きに来ましたっ」
 書いてあった通りの合言葉。
 薄い暗がりの中から、ゆらりと人が出てきて、怪訝そうな視線に晒された。
 すっぽり被った外套の下から、短い金髪がのぞいている。
「……誰かと、待ち合わせか」
「は、はいっ、あの、イリス様に聞いて……」
 すっと彼の目に優しさが浮かんだのに、ほっとする。
 そうか、とだけ言って示された裏口を出ると、地図通り、こじんまりとした中庭の向こうの倉庫から、明りがこぼれていた。

「――貴族連中が、本当にそんな法案を通すもんか」
 積まれた木箱を机にして、広い倉庫の中は賑やかな酒場のようだった。
 大勢の奴隷服の人間が、炊き出しのような鍋を中心に腰を下ろして、思い思いに会話や飲食を楽しんでいる。
 その奥に、イリス様の声があった。
 いつも背中にさらりと流している赤い長髪をひとつに束ねて、白い髪留めを隠すように巻き付け、ふわりとした聖衣のかわりに深い紅色の軍服のような堅い私服に身を固めている。
 イリス様に会いに来た筈なのに、その姿に、足が停まった。
「お嬢さん、首領に御用かな」
 近くで汁物を啜っていた奴隷に声を掛けられて、小さく頷いてみる。
 彼は椀の中を飲み干すと、のそりと立って、ひとつ肩を回した。
「1日に2人も新しい顔が増えるたぁ、珍しいもんだ。おーい、客人だぜ」
 奥の卓で難しい顔をしていたイリス様が彼の声に顔を上げた。
 いつものような柔らかい空気は全然無くて、厳しさをもった赤い瞳に、思わず竦んでしまう。
「――ミラノ」
 周りの奴隷達の注目を浴びる中で、イリス様の目が暖かくなって、ほっと小さく息をついた。
「この時間に、ひとりで出て来たのか。怖かったんじゃないか」
 おいでと招かれるままに急いで奥へ入って行くと、イリス様の隣の卓にジェストとセフィシスが座っているのをみつけて、安心する。
「やだ、イリス様。ミラノちゃんをひとりで来させる事無いじゃないですか~! 来るって知ってれば、一緒に来るか、迎えに行きましたよ、私!」
 いつもと同じ、どこかおっとりした調子のセフィシスの声に、今までの緊張が一気に吹き飛んだ。
「君が迎えに行けば、逆に余計な面倒を持ち帰ってくるからな。店先のゴミをひっくり返して、酔っ払いにぶちまけて追いかけられたのは、ついこの前の話だぞ」
「あれは、たまたまです~!」
 やりそう。セフィシスがゴミに躓いて盛大にぶちまける姿が、目に浮かんでくるようだ。
「女性だけで歩かせるなんて駄目ですよ。自分で迎えに行くんですね。イリス。ああ、失礼、今は君も女性でした」
 軽やかな笑声に、イリス様の話相手がユリウスだった事に気付かされる。
 日中着ていた奴隷服ではなく、退魔師のような機動性の高い黒の衣装を纏っていて、一瞬、わからなかった。
「こんばんわ、ミラノちゃん。ここの鍋はイリスの仕込みだから、おいしいよ。一杯どうぞ」
 サッと立って椀を持ってきたユリウスの軽やかな物腰を、つい目で追いかける。
 イリス様は格好良い女性だけど、綺麗な男性っていうのはこういう事なんだ――。
 奴隷服じゃないっていうだけで、印象がこんなにも違う。
「じゃ、私はこれで失礼させて貰いますよ」
「ご、ごめんなさい。お話、お邪魔しちゃって……どうぞ、続けてください」
 そのまま出口へ向かおうとしたユリウスを慌てて呼び止めると、彼は悪戯っぽい笑みを浮かべて、口許に指を立ててみせた。
「ご主人様に、最後に挨拶しておかないといけませんからね。また明日。おやすみなさい」
「ユリウス! ……待ってるからな!」
 ヒラヒラと手を振って去っていったのを見送ると、イリス様は椅子に背中を預けて、長い息を吐いた。
「あの……話、大丈夫だったんですか?」
「――ああ。明日も顔を合わせるだろうし、一気に呑み込める内容でもないからな。それより、よく来てくれた。ここにいるのが奴隷解放の活動の仲間だ。他にも、都内に散ってるのを合わせて、大体300人程度。結構平民の協力者もいる」
「――300人!」
「この6年で、相当数膨らんだんだ。最初は、あの事件の生き残りの奴隷が集まってきた。それから伝手を頼ってきた北方奴隷やら地元の債務奴隷やら……奴隷身分からの解放を目標に掲げてはいるものの、助け合う以外に、なかなか出来る事がなくて、今まで来ている」
 グラスの氷がカランと揺れる。
 薄い茶色の水に溶けて、ゆるやかな紋を描いていく。
「謙遜し過ぎです、イリス様。準備はちゃんと進めてきてるじゃないですか。もう殆ど人数分の武器は揃ったんですよ。あとは、人事院に一泡吹かせて議会に直接訴えるだけじゃないですか」
 セフィシスがあげた高い声が倉庫内によく響いて、談笑していた奴隷達がワッと沸いた。
「――武装って……」
「前の反逆と同じ過ちは犯さない。誰も殺さないし、殺される積りもない。だけど力に対抗するには、最低でも同じくらいの力が必要なんだ。そうでなければ、対話そのものが成立しない……。って、済まないな。いきなりこんな物騒な事に巻き込んで……」
 熱を帯びた瞳がふいと上がって、視線がぶつかる。
 ほとんどポカンと聞いていた隙だらけの顔を、慌てて左右に振って、ごまかした。
「び、びっくりはしましたけど……あの、ありがとうございます。教えて頂いて……。昼間もお忙しいのに、ずっと活動されてたんですね」
 何故かふと笑んだイリス様の顔から、目が離せない。
 聖女様はいつも忙しいし、身長差があって、こんな近くでゆっくり顔を見つめた憶えはあんまり無いような気がする。

「ミラノ。君に、教会を……教会で保護した奴隷達の事を頼みたい。いざ人が集まって事を起こすとしても、全ての奴隷が武器をもって立ち上がれる訳じゃないんだ。役人が武器を持たない奴隷を捕らえに来るような事があるかも知れない。彼らを、守って欲しい」
 ついさっき、部屋に残してきたハーゼの事が一瞬胸裏に蘇る。
 足枷を付けられて、傷跡だらけの細い身体。
 ここに集っている奴隷達は少なくとも元気に見えるけれど、確かに、彼らのような奴隷ばかりじゃない。
 さっきから自分の心臓の音が全身を鳴らしている。
 ぎゅっと胸元を抑えて、湯気をたてる椀の上で、そっと息をした。
「――はい。私に出来る限り、奴隷の皆をお守りします」



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みんなのリアクション



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 低い鐘の音が、フェリアの街並みに染みていく。
 もう何度この追悼の音色を、すぐそばで聞いただろう。人の少ない村なら痛ましく目をあげる。だけど人の多い都市では、人の死は珍しくない。毎日誰かが死んで、いつでも鐘が揺れている。
 私は目を擦って、沈んでいく日差しに霞んだ景色をみつめた。
 公園の緑から鳥の集団が一斉に飛び立つ。黒い粒ほどの影が、頭上を高く駆け抜けていった。
「――ミラノ~! ミラノ=アート~!」
 足の下の方で私を捜しているのは、セフィシスだ。6年前に私がこの中央教会に来てから、何かと世話を焼いてくれる退魔師。『降魔の聖女イリス=ローグ』の助手として、いつも忙しく働いている。ぼうっと過ごしている私とは大違いだ。
 私はぱっと屋根を降りて、彼女の目の前に着地した。
「きゃ! び、びっくりしたぁ~」
 大きく開いた青い瞳が、捜し人の顔を見つけてふわりと笑み、しかしすぐに口元を引き締めた。
「もう、どこから降ってきたのよ。あんまり危ない事はしちゃダメよ」
「大丈夫ですよ。もう慣れっこです。それより、お呼びですか?」
 夕食の時間にはまだ早い。教会の聖使としての当番も、今日は私には巡ってきていない筈だ。
「そうそう。イリス様が呼んでるわ。お仕事みたいだけど、行けそう?」
「勿論です。すぐに準備してきますね!」
 ここ数か月、ずっと声がかからなかったから、すっかりボーっとしてしまっていた。頭の中に立ち込めていたモヤモヤが晴れて、目の前が明るくなった気がする。
 準備といっても必要なのは身ひとつ。私には、セフィシスのような魔導杖も、イリス様のような剣もいらない。ちゃんと声が出ればいい。だけど流石にこんな普段着で聖女様の公式の仕事についていく訳にはいかない。
 木造の廊下を駆けて、暮らし慣れた部屋にとびこむ。
 薄紅色のヒラヒラした服を脱ぎ捨てて、掛けてある聖使の服に袖を通す。風に吹かれて乱れた濃い茶色の髪を、頭の左上できゅっと結び直して、鏡の中を確認。弛んだ顔が映ってる。パンと両頬を叩いて、小物入れと外套を抱えて部屋を飛び出した。
 廊下を抜けた離れに、聖女イリス=ローグの部屋がある。トントンと扉を叩くとすぐに返事があって、そっと部屋に入った。
「失礼します。お待たせしました。イリス様」
 外套の下に長剣を納めた聖女様が振り向くと、赤い長髪がさらりと流れた。
「早かったな。急に呼び出して済まない。久々の魔物退治だが、大丈夫か?」
 凛とした美人の聖女様の柔らかい笑顔がまぶしい。長身のイリス様が間近に立つと、私はかなり身長差を感じる。
「勿論、大丈夫です。えっと、今回はどこに行くんですか?」
「北街道の外れにある農地だ。あの辺りは行政区の裏山に繋がっているところがあるから、どうやら一般の退魔師をあまり使いたくないらしい。そんなに遠くないから、すぐに行って帰って来れるよ。ジェストが先に行ってくれてる。セフィシスは留守番だ」
 外套の前をパチンと閉じて部屋を出る聖女様に、私は小走りで続いていく。足の長さが……。
 聖堂を通って聖使達と挨拶を交わしてから正門に出ると、ピタリと馬車が待っていた。居合わせた礼拝の人々が振る手ににこやかに応えて馬車に乗り込んだ聖女に、わっと場が盛り上がる。
 いそいで馬車にはいって扉を閉めると、すぐに出発した。
「ふふ、イリス様、いつも大人気ですよね」
 そう言うと、イリス様はひとつ大きな息をついた。
「うーん……派手に目立ったのは6年も前なのに、どうして目立ちっぱなしなんだ……」
 そういう困った顔をしていても美人だからですよと言うのを、我慢する。褒めているつもりでも、この人がそういう言葉を嫌がっているのを知っているからだ。
 もう随分前に、聖女になる前までは男だったと聞かされた。
 前任の聖女がイリス様に何かの魔法をかけて、聖女に仕立てていったのだと聞いた時には、冗談にしか聞こえなかった。誰がどうみても、あこがれるほど整った体格の女性だ。でも本人の様子とセフィシスの気遣い方を見ていると、少なくとも私をからかう為の冗談じゃないっていうのは、少しずつ理解してきたことだ。
「そういえば、故郷にはちゃんと手紙とか出しているのか? ずっと帰っていないだろ」
 唐突に変わった話題に、私はあわてて手をぶんぶん振った。
「あ、それは大丈夫です。領主様とのお手紙に一緒に入れさせて貰っていますから」
 私は最初、フェルトリア連邦の南方地区エラークの領主――この中央都市から見れば地方議員である、オークリス家の従者のひとりとして、この都市に来た。
 その時は、まさかこんなふうに暮らすなんて思いもよらなかった。両親はエラークで働いているし、若い領主のセルウィリア様には親しくして頂いていて、折々に手紙のやりとりを続けている。
 最初の頃こそ、ひとりポツンと中央都市に残る事になって、何度も帰りたいと思った。
 その度にセフィシスには相談相手になって貰ったし、中央でしか触れられない文化芸術、地方とは一味違う学舎の面白さに没頭して、帰郷の想いを追い出してきた。
 今ではすっかりこの環境に慣れて、居心地の良さを感じている。特に、聖使である私の上に立つ聖女様がイリス様だからこそ、頑張れるんだと思う。剣は強いし、凄い美人で優しくて、びっくりするほど料理が美味しい。決して、食欲に負けて居ついた訳じゃないけれど。
◇◇◇綺麗な奴隷◇◇◇
 馬車の車輪がゴロゴロする響きが、ガタンと止まった。イリス様ととめどないお喋りをしているうちに、いつの間にか目的地に着いてしまったみたいだ。もう少しだけ喋っていたかったけれど、私は馭者の手を借りてトンと外に出る。
 馬車を降りたところで、いつも物静かな退魔師のジェストが聖女様の到着を出迎えた。
「ご足労ありがとうございます。ここから入ってすぐの所です。場所をおさえて、一般人が近づかないよう手配しておきました」
 用件だけを淡々と口にしたジェットはイリス様が頷いたのを確認して、足早に先頭を切って歩き始めた。このジェストは、イリス様の側近みたいなものだ。いつも言葉数は少ないけれど、イリス様とは疎通の要領を得ているように見える。
 私はそういう二人のあとに続いて、林の中に入っていく。
 枯れ枝を踏みながら分け入った緑の中、焼け跡のある空地に出た。左右には小さな畑があったようだけれどすっかり荒れていて、作物は見る影もない。
 その奥の一角に、鎖を鳴らして暴れる赤黒い獣がいた。暴れる度に全身から黒い飛沫が広く飛んで、地面を焦がす。畑に備え付けられた獣獲りの罠に引っかかった状態なのだろう。確かに、これは近付いて止めを刺そうという一般人はいないはず。一応矢を射掛けてはみたようだが、致命傷をつくる事は出来なかった様子だ。
「なるほど……これは、セフィシスを連れて来た方が良かったかもな」
 そう呟いた高い背中に、私はそっと声をかける。
「折角連れてきて頂いたんですから、私もちゃんと使って下さい。誰もいないんですから」
「そうだな……任せた。ミラノ。無理はするんじゃないぞ」
 私は頷いたイリス様に笑顔をみせて、前に出る。飛沫が飛んできていなさそうな、ギリギリ近くまで、大きな犬くらいの魔物に近付く。そこまで行くと、魔物の方も私を睨み付けて低い唸り声を響かせた。
(わかるよ。その瞳のない瞳の奥に、あなたのほんとうの命があったことを――)
 右手をまっすぐに向けて掌を広げる。
 魔物がいきなり暴れれば飛沫がかかるかもしれないけれど、睨み合っているうちは、大丈夫。
(――あなたの姿は、そうじゃない。もう一度、真実の形をとる、その時まで――)
『――消えて――!!』
 言葉と共に、さあっと魔物の姿が白く染まっていく。
 睨んでいた目を細めて、石化したように硬くなった一瞬後。ぱぁん、と虹色の輝きになって、砕け散った。
 ほっと安心した途端、木々の中から拍手が響いて、心臓が飛び出すかと思った。
「いやぁ、素晴らしいものを見せて貰いました」
 軽い口調の心地良い声の主が、がさ、と林の中から出てきて、目を瞠った。見られた、っていうより……その容姿に、ちょっと、びっくりしてしまう。
 なんて綺麗な男性なんだろう。
 後頭部の高い位置でキリッと結い上げ、背中までサラリと流れる茶髪。びっくりするほど綺麗な顔立ちの青年が柔らかな瞳をこちらに向けている。だけど、身に着けているのは、くすんだ土色の奴隷服だ。
 そのあまりに格差のある姿に、どう反応していいのかわからない。そんなふうに一瞬硬直してしまった私の背後から、思いがけない大きな声があがった。
「――ユリウス! お前、お前っ……何で、ここに――」
 ひっくり返りかけたイリス様の声。バッと彼に駆け寄り、奴隷服の肩を掴んだ。
「やだなぁ。そんなに俺が恋しかったんですか? イリス。まぁ、今の君の姿なら、大歓迎しちゃいますけど――」
「ふざけんな、馬鹿がっ……今まで、6年も。……心配したんだぞ」
 そういって茶化した調子の綺麗な青年は、仕方なさそうな笑顔をみせて、涙の滲んだイリス様の頭をポンと撫でた。え、撫でた?ちょっと待って、この二人は一体どういう関係なんだろう?
「イリス様、その人は――?」
 私の疑問を代弁するかのように、ジェストが冷静な声をあげた。
 よかった、疑問に思ったのは私だけじゃないよね。奴隷服の男性にからかわれて撫でられる聖女様……というのは、常識的に考えてもなかなか無い光景だと思う。
「やぁ、君がジェスト君だね。イリスの右腕。有能は聞き及んでいますよ」
 綺麗な男性はそういって、ジェストの肩を気軽に叩いた。ジェストがぽかんと首を傾げるのも当然だ。
 それから彼はごく当然のように私に近付いて、片膝をついた。
 優しげで綺麗な顔が、じっと覗き込んでくる。……なんで?
「はじめまして。私は、ユリウス=ハーシェルといいます。歳は21。仕事は奴隷。宜しくお願いしますね。ミラノちゃん」
 そっと手を取られて片目を閉じた紳士的な姿に、一瞬、視界がまばゆく輝いた気がした。
「えぇっ? あ、あの……」
 一体、これは、どういうことなのだろう? 
 というかこんな時どうするのが正解なのか分からなくて、私はどっと焦ってしまった。イリス様がユリウスの肩を引いて割り込んできてくれたおかげで、私は一旦、この変な状況から解放された。
「ちょっと待てよ、ユリウス、さてはこの魔物退治を仕込んだのは、お前だな」
「おやおや。私は何も知らない通りすがりの貴族奴隷ですよ。 勘繰り過ぎですよ~?」
「通りすがりというには、よく調べがついてるんじゃないか。大体、なんでここにいる。奴隷の姿でこんな所をうろついて、脱走じゃないだろうな」
 ユリウスの軽い調子に忘れかけていたけれど、彼は格好も自称もはっきりと奴隷だ。
 逃亡は重罪だというのを思い出して、少しだけ、緊張する。
「ふふ……心配してくれるんですね。相変わらずだなぁ。大丈夫ですよ。今日から私の主人は、フェリア教会の真の聖女様ですからね。ちゃんと移籍の手続きも済みましたよ。教会受け取りは明日になっていますけど」
 さらりと喋った内容についていけないイリス様を尻目に、ユリウスが私をみて、ニッコリと笑う。
「つまり、今日から私は、君の奴隷という事ですよ」
 そんなふざけたような軽い言葉に反して、気品のある空気が溢れる。
 一瞬ぽかんとした隙に、またイリス様が割って入った。
「おい、ミラノに手を出すなよ。大事な協力者なんだからな」
 ――協力者。
 真剣なイリス様の言葉が、ぽつんと胸に残った。
「あの、おふたりは、どういうお知り合いなんですか? 全然、繋がらないんですけど……」
 黙ってはいるけれど、さっきから傍でずっと黙っているジェストの気持ちも代弁して、踏み込んでみる。
「ほら、降魔の聖女様って奴隷に色々優しい施しをしているじゃないですか。私、憧れなんですよねー」
「白々しい世辞はやめろ」
 身分を越えた恋人とか言われたらどうしようかと思いながら、イリス様が一呼吸おいたのを見守る。
「こいつは――俺の、共犯者だ」
「……では、何か動きがあるという事ですか」
 ジェストが、刺すような目でユリウスを見た。
 ……。”共犯者”の一言で事情を呑み込んだジェストと違って、私にはどういう事なのかさっぱりわからない。
 もうちょっとわかるように、誰か、説明して……。
「流石ジェスト君。ご明察です。……政界の裏側で、準備が整いつつあります。人事院づきの私が教会に移籍になったのは、教会を見張る為です。まぁそう仕向けたのは私ですけどね。まったく、信用を得るのは大変でしたよ」
 いきなり展開した難しそうな話に、私はひたすらぽかんとするしかない。
「待て、準備って……何が起きているんだ? 俺は結局、奴隷のために、何も出来ていない」
「いえいえ、イリスは頑張っていますよ。聖女が奴隷に施しを続ける事で、民衆も悪感情を抱かなくなってきた。これは重要な事です。6年前の虐殺事件も、前の聖女が仕組んだ、奴隷への同情を招く為の布石だったと言えるでしょう。それに、あなたが裏で作ってきた組織も、間接的ながら政界の権威の均衡に刺激をもたらしている。……勝手ながら、それを色々と利用させて頂きました。本当はもっと時間がかかりそうだったんですけど、いい風が吹いてきましたよ。……イリス。その魔法が解けるのも、そう遠くない筈です」
 ポン、とユリウスの拳がイリス様の豊かな胸元を叩いた。
 普通に考えれば失礼すぎるその行動に、イリス様は怒るでもなく、静かにその手を掴む。
「――俺は、何をすれば良い?」
「そのために、私が来たんですよ。取り敢えず……美味しいご飯を、期待していますね!」
 帰り道。すっかり暗くなってしまった窓の外を眺めながら、一言も喋らないイリス様とジェストの真剣な空気が、息苦しい。
 ゴトゴト揺れる馬車の音だけが、大きく響く。
(……イリス様には、複雑な事情があるんだ)
 6年前、大勢の奴隷が亡くなった事件は、私も覚えている。
 街中に魔物が出て、はじめてこの手で魔物を消したあの時。行政地区で橋が落ちて、そこに集まっていた大勢の奴隷が犠牲になった。
 『降魔の聖女』は、その時突然現れた女剣士だった。
 偶然私が大量の魔物を消した時、惨状の中で事態を収束させたイリス様が、それをやったのだと思われていて、そのイリス様が聖女に就任すると、私はそのまま傍にいることになった。
 『降魔の聖女』その称号の正体の半分は、私なのだ。
 だから、協力者っていうのは当たり前の呼ばれ方だ。――でも、それ以上の秘密があったなんて、知らなかった。
「……イリス様が、いつも奴隷達の為の施しをしているのは、あの事件で沢山の奴隷が亡くなったからだと思ってました。でも、もっと何かあるんですね? 教えて下さい。何をしようとしているんですか? ――私に、お手伝い出来る事は、ありませんか?」
 じりじり悩むのが、もどかしい。
 馬車はすぐにでも教会に帰り着いてしまう。聞けるのは今しかない。
 街の中に入ったのか、ゴトゴトする音が少しだけ小さくなる。
「……黙っていて、済まない」
 ぽつんと呟いたその言葉に、どきりとした。
「君には、エラーク地方……セルウィリア=オークリスとの繋がりがあるから、伏せていた。奴隷を労働力にしている南方にとっては、敵みたいなもんだ。奴隷制を廃止させようっていうんだからな」
「わ、私、領主様に密告なんてしませんっ」
 おもわず声が大きくなって、顔をあげたジェストと目が合う。
 領主様と親しくするのと、秘密を守るのとは違う、っていうのが、胸の中で迸る。
「……この6年で、貴女がそういう人だというのは、わかっています。イリス様は、貴女を危険な事に巻き込みたくなかっただけです」
 ジェストの口から淡々と長文が出てきたのに、びっくりした。
 いつも人に興味無さそうにしているのに、どこで見てたんだろう。
「ユリウスは6年前の事件の頃からの仲間だ。当時の聖女が主導して議場を制圧して、制度を変える筈だった。……だけど、俺はその直前に聖女に封じられて、目が醒めたら女になってるし、計画は失敗してるし、こんな魔法をかけた聖女はいなくなった。――時間がかかっても、必ず、奴隷制を廃止させる。きっと、俺にかけられたこの魔法は、それで解けると思っている。あの聖女のやる事だからな。それに、あの時死んでいった奴の為にも……決して、投げ出す訳にはいかない」
 そういうイリス様の真っ直ぐな強い瞳が、夜の街並みを見つめていた。
◇◇◇夜の世界◇◇◇
 フェルトリア連邦、中央都市フェリアの中央教会。つまりここは、首都の大きな教会だ。
 一般の礼拝者の拝礼時間を過ぎた教会の夜の聖堂。その夜の一刻は、聖使達の祈りの場になる。そうして一日が終わり就寝時間になると、真夜中の聖堂はひっそりと静かな場所になる。
 星の輝きを受けた中庭の緑の夜露が、うっすらと檀上の天使像を照らす。
 いつもは気にならない自分の足音が大きく響く。暗さに目が慣れて、木造の天使像の羽根ひとつひとつの影まで見えてきた。
 6年前。
 私がはじめて領主様についてこのフェリアに来た時、何日目かに沢山の魔物が出現した。
 丁度この教会に来ていた時だった。
 エラークでは随所に常設している魔除けの香木がなくて、当時の天使像を領主様が壊して香木として使ってしまった。その後領主様が寄進したこの新しい天使像は、壊してしまった物にも劣らない、立派な作品だ。これは皆の前で天使像を派手に破壊した領主様の、誠意だ。
 私は聖女様がするように、その像の前で両膝をつく。
 逆光に立つ誠意の残像を瞼に焼き付けたまま、静かに目を閉じた。
(……魔物を消す事しか出来ないけど……。もっと、イリス様の役に立ちたい)
 昼間、魔物討伐から帰ってからずっとモヤモヤしていたのだけれど、改めてそう思う事で、胸の中で解けていく。温かい想いが身体の中でまっすぐな芯になって、背筋が伸びる。
 突然、ドンドンと聖堂の扉が叩かれる音が響いて、すごくびっくりした。
 魔物が押し寄せてきた時も、魔物が扉を叩いていたのを思い出す。こんな夜中に訪ねてくる人がいるなんて、酔っ払いか、魔物か――。
 とにかく急いで扉に駆け寄って、そっと声をかけてみる。
「――どなたですか? 教会はもう閉まっていますよ」
「よかった、人がいた。こんな時間にすみません。こちらしか頼る所が無くて――。『降魔の聖女』様が奴隷に優しいと聞いて。一晩だけで良いです。奴隷を一人、預かって頂けませんか」
 誠実そうな青年の声が、扉の向こうで切実な色を滲ませた。でも、だからといって簡単に扉を開ける訳にはいかない。一応教会が奴隷を保護するのには、ちゃんと決まった時間帯に手続きが必要になる。
「あの、昼間に担当の聖使が対応しますので……」
「無理は承知です。それでも、どうしても今俺が連れて歩く訳にはいかないんです。すみません、お願いします――!!」
 扉の向こうから、真っ直ぐな声が届く。
「ち、ちょっと、頭をあげてくださいっ」
 あわてて扉を開くと、身体を直角に曲げて頭を下げた青年が、ぱっと安堵の顔をあげた。
 街の明かりに薄く照らされた短い黒髪が、商人の帽子の下でサラリと光る。
「本当に申し訳ないです。俺は商売でフェリアに来たんですが、途中でこの子を拾ってしまって……。仕事柄、この子を連れて宿を取る事ができなくて。彷徨った挙句、こちらに辿り着いた次第です。お礼は出しますので、どうか、預かって頂けませんか」
 そういって足元に座り込んでいた小さな少女を、優しく立たせる。
 その姿に、おもわず、息をのんだ。
 ボサボサした伸ばしっぱなしの金髪の下で、壊れそうなほど細い手足がひょろりと伸びている。両足に重そうな鉄球が鎖で繋がれて、服も擦り切れた布一枚といってもいいくらいだ。
「あの……この子は?」
 そう聞くので、精一杯だった。
「北街道の外れで、林の中で震えていたんです。逃亡奴隷かも知れないし、主人がわざとそうしていたのかも知れないけど、とても放っておけなくて。一応、ご飯は食べてくれましたが、まだ素性はわかりません。名前はハーゼ。仕事が終わったら引き取りに来ますので。どうか、宜しくお願いします」
 商人はそう言うと、少女と小金が入った麻袋を手渡してきた。
 そのまま立ち去ろうとした背中に、慌ててもう一度声をかける。
「あのっ! あなたのお名前を――」
 私は呼び止めて振り返った青年の顔を、必死に見つめる。
 まさか預け主がわからないなんて失敗をする訳にはいかない。
「俺は、アキディス=タイド。シェリース王国とフェルトリア連邦の間の行商人です」
 彼は再びペコリと頭を下げて、今度は本当に足早に立ち去ってしまった。
 ぽつんと取り残されたような感じで呆然としてから、手の中の少女がじっと見上げているのに気付いた。そっと扉を閉じて、外の世界を追い出す。預かったからには、丁寧に保護しなくては。
 だけど他の誰かにも相談して寝床を確保しなくちゃいけない。土の臭いがする少女の足に付けられた鉄球が、何度見ても、痛々しい。
「ハーゼちゃん。私は、ミラノっていいます。夜遅いけど、まずは簡単に身体を洗おうね。足、大丈夫?」
 少女の目が、自らの足元に落ちた。
「これ。おそいけど、歩く。ここ、床、ひきずっても……?」
 ハーゼのか細い声が落ちた。私はその落ち着いた様子に、少しだけ安心する。
「それはいいけど、痛いでしょ。アキディスさんは……もしかして抱っこして連れてきてくれたの?」
 小さく頷くバーゼに、なんだか胸があたたかくなる。
 私も――もっと、いろんなひとの役に立ちたい。
 足の鉄球がぶらさがって足首を痛めないようにするには、鉄球も一緒に持ち上げる必要がある。腕力のない私があれこれ試した結果、バーゼを背中におんぶして、後ろ手で鉄球と足を支える形になった。
「あの……あるけますから……」
「いいから、ちゃんとつかまってね」
 ちょっと怪しい足取りでゆっくり浴場に移動する。
 ひとりでお湯に入れるのを確認すると、誰かに相談するために宿舎へ走った。もう聖使達は床についている頃で、どの部屋も暗く閉ざされている。セフィシスの部屋も応答がなくて、最後に聖女様の離れに向かった。そこにようやく明かりが点いているのをみて、ほっとした。
「イリス様、こんな時間にすみません。いらっしゃいますか――」
 扉を叩くと人が動く気配がして、鍵が開いた。
 そっと開かれた隙間から目線の高さで赤毛が覗き込んで、びっくりする。
「え? あ……」
 声をあげる間もなく腕を掴まれて、サッと部屋の中に引き込まれ、素早く鍵がかけられた。
「大きな声、出さないでよね」
 まっすぐな赤い髪を肩の位置で遊ばせた少女が、きりっとした目を向けた。白いヒラヒラの寝間着は少しだけ大きいみたいで、足元でかるく引きずっている。
「――アリスちゃん。な、なんでここに?」
「アリス、妹だもん。お姉ちゃんの留守を守るのは、妹の特権なの」
 ぷう、とむくれた顔を作った少女が、両手を腰に構えてみせた。
 彼女がイリス様の妹なのは、勿論知っている。だけど、教会とは別の住居で暮らしている筈だ。わざわざイリス様の留守に、ここに泊まっている意味がよくわからない。
「ミラノ、こんな夜遅くにどうしたの? お姉ちゃんに何の用?」
 じと、と見つめられて、ちょっと緊張する。
 このお姉ちゃん大好きっ子に睨まれたら、好敵手扱いされかねない。
「えっと、大したことじゃないんだけど、さっき奴隷の子を聖堂で預かっちゃって。誰かに相談しようと思ったんだけど皆もう寝ちゃってたから、最終的にここに来たんだけど……」
 恐る恐るの説明に、やっとアリスの顔に笑顔がうかんだ。
「なーんだ。てっきりミラノが夜這いに来たのかと思った」
「そ、そんな事しませんっ」
 あはは、と笑ったアリスは、すぐに自分で自分の口を塞いで、窓の外に視線を泳がせる。
「とにかく、お姉ちゃんは留守なの。多分、セフィ姉とジェストも一緒。奴隷の子は、今夜はミラノの所にでも泊めてあげてよ」
 ――イリス様が言ってた、奴隷制を廃止させるための活動。
 咄嗟に、それが思い浮かんできた。
 ジェストが一緒なのは当然だけど、セフィシスも出掛けているとは思わなかった。寝静まってたんじゃなくて、留守だったんだ。ずっと規則通りの就寝についていたから、今まで全然気づかなかった。
 当たり前の顔でアリスがここにいるのも、珍しくない習慣なのかも知れない。
「……イリス様は、どこに出掛けてるんですか?」
 そっと、訊いてみる。
 なんとなく教えてくれないだろうと思っていたから、サッと地図が出てきて、びっくりした。
「ミラノが訊いたら教えて良いって。ミラノも、お姉ちゃんの味方なんだよね。絶対絶対、お姉ちゃんの事、助けてよね」
 ぎゅっと地図を握らされ、部屋を追い出された。
 地図の場所へ行くのは良いとして、取り敢えず浴場に置いてきたハーゼを迎えに、もときた廊下を戻る。途中で部屋にまわって、めぼしい服を調達するのも忘れない。
「ごめんね、お待たせ――」
 急いだ勢いのまま扉を開くと、小動物のようにビクッと身体を震わせたハーゼが、怯えた目をあげる。
 ボサボサの髪はしっとり落ち着いて、纏わりついていた土の臭いもきれいに落ちていた。そのかわり、日焼けた肌のそこらじゅうに、沢山の痣と傷跡があるのを見付けて、胸が痛くなる。林の中で震えていた、という事からしても、酷い扱いを受けていたのだという事実を、くっきりと現実に突き付けられた気がしてこっちが泣きそうになるのを、いそいで彼女の髪を拭いてあげて、ごまかす。
「とりあえず今日は私の所でゆっくり眠ってね。ちょっと私、出掛けなきゃいけないんだけど、大人しくしていられるかな?」
 されるがままのハーゼが、小さく頷く。新しい服に腕を通してあげれば、足に鉄球が繋がっている部分以外は、ひょろりと痩せた普通の子供みたいになった。
 また彼女を背中にのせてフラフラと宿舎の廊下を歩いて、ようやく部屋に辿り着いた頃には、どっぷり夜も更けた。
 ハーゼも、眠かったんだろう。寝台に座らせるなり、ぱたりと寝入ってしまった。
 ――よし、行かなきゃ。
 目も頭も、すっきり冴えてる。改めて地図を明りのもとで眺めてみると、いつもアリスが昼間働いている大衆食堂だった。その裏に倉庫がある。合言葉を使って食堂を通過すると、そこが拠点らしい。
 さっと目立たない私服に着替えて外套を羽織る。
 私ははじめて、夜の街へ飛び出した。
◇◇◇秘密の拠点◇◇◇
 南方地方の故郷が農耕の地なら、この中央都市フェリアは文化と芸術の地だ。
 流行の発信地で、色々な可能性を持っている、地方出身の若者の憧れの街。お洒落な建物の屋根に色とりどりの旗が縦横に張り巡らされて、その下にどんな店があるのかを教えてくれる。そこを歩けば賑やかで楽しくて、高台から眺めても街を染めるその色彩は、凄く素敵だ。日が沈めば灯りの中に浮かんだ店先に、酔客の笑い声が溢れる。
 その酒場の明りも落ちて、いつもは光に隠れた星空が、頭の上でキラキラ輝いているのをみつけた。
 だけど人気のなくなった道端で目につくのは、無造作に散らばるゴミだ。暗がりの中から時折聞こえる呻き声は、多分、酔っ払いだろう。
 ――ちょっと、怖いかも。
 どこか危うさを含んだ空気に、ちら、と不安になる。
 魔物に遭ったら消せば良いだけだけど、相手が人間だったら、そうはいかない。
 新しい一面をみせた夜の街を、速足で駆け抜ける。イリス様達だって、同じ道を帰ってくる訳だから、そんなに怖がるほど危険じゃない筈――。そう自分に言い聞かせて、まっすぐ食堂を目指す。
 道端に寝そべった酔っ払いと、建物の隙間にうずくまる鎖に繋がれた奴隷が、点々と街の片隅で重い吐息を溢している。
 そういう夜の世界を、ぎゅっと目を瞑るようにして通り過ぎた。
 やっと辿り着いた食堂からは、ほんのり薄明りが零れている。
 店が開いている雰囲気は全然無いけれど、その奥に、イリス様がいるはず。
 扉に手を掛けると、軽い音を立てて簡単に開いた。恐る恐る、そっと中を覗いてみる。
 ガランとした食堂の机に、燭台がひとつ。それがゆらゆらと寂しく広い食堂の天井を照らしている。
「――開店は、明日の朝だよ」
 人気の無い空間から声が湧いて出てきたのに、どきっとした。
 「お、おかゆを頂きに来ましたっ」
 書いてあった通りの合言葉。
 薄い暗がりの中から、ゆらりと人が出てきて、怪訝そうな視線に晒された。
 すっぽり被った外套の下から、短い金髪がのぞいている。
「……誰かと、待ち合わせか」
「は、はいっ、あの、イリス様に聞いて……」
 すっと彼の目に優しさが浮かんだのに、ほっとする。
 そうか、とだけ言って示された裏口を出ると、地図通り、こじんまりとした中庭の向こうの倉庫から、明りがこぼれていた。
「――貴族連中が、本当にそんな法案を通すもんか」
 積まれた木箱を机にして、広い倉庫の中は賑やかな酒場のようだった。
 大勢の奴隷服の人間が、炊き出しのような鍋を中心に腰を下ろして、思い思いに会話や飲食を楽しんでいる。
 その奥に、イリス様の声があった。
 いつも背中にさらりと流している赤い長髪をひとつに束ねて、白い髪留めを隠すように巻き付け、ふわりとした聖衣のかわりに深い紅色の軍服のような堅い私服に身を固めている。
 イリス様に会いに来た筈なのに、その姿に、足が停まった。
「お嬢さん、首領に御用かな」
 近くで汁物を啜っていた奴隷に声を掛けられて、小さく頷いてみる。
 彼は椀の中を飲み干すと、のそりと立って、ひとつ肩を回した。
「1日に2人も新しい顔が増えるたぁ、珍しいもんだ。おーい、客人だぜ」
 奥の卓で難しい顔をしていたイリス様が彼の声に顔を上げた。
 いつものような柔らかい空気は全然無くて、厳しさをもった赤い瞳に、思わず竦んでしまう。
「――ミラノ」
 周りの奴隷達の注目を浴びる中で、イリス様の目が暖かくなって、ほっと小さく息をついた。
「この時間に、ひとりで出て来たのか。怖かったんじゃないか」
 おいでと招かれるままに急いで奥へ入って行くと、イリス様の隣の卓にジェストとセフィシスが座っているのをみつけて、安心する。
「やだ、イリス様。ミラノちゃんをひとりで来させる事無いじゃないですか~! 来るって知ってれば、一緒に来るか、迎えに行きましたよ、私!」
 いつもと同じ、どこかおっとりした調子のセフィシスの声に、今までの緊張が一気に吹き飛んだ。
「君が迎えに行けば、逆に余計な面倒を持ち帰ってくるからな。店先のゴミをひっくり返して、酔っ払いにぶちまけて追いかけられたのは、ついこの前の話だぞ」
「あれは、たまたまです~!」
 やりそう。セフィシスがゴミに躓いて盛大にぶちまける姿が、目に浮かんでくるようだ。
「女性だけで歩かせるなんて駄目ですよ。自分で迎えに行くんですね。イリス。ああ、失礼、今は君も女性でした」
 軽やかな笑声に、イリス様の話相手がユリウスだった事に気付かされる。
 日中着ていた奴隷服ではなく、退魔師のような機動性の高い黒の衣装を纏っていて、一瞬、わからなかった。
「こんばんわ、ミラノちゃん。ここの鍋はイリスの仕込みだから、おいしいよ。一杯どうぞ」
 サッと立って椀を持ってきたユリウスの軽やかな物腰を、つい目で追いかける。
 イリス様は格好良い女性だけど、綺麗な男性っていうのはこういう事なんだ――。
 奴隷服じゃないっていうだけで、印象がこんなにも違う。
「じゃ、私はこれで失礼させて貰いますよ」
「ご、ごめんなさい。お話、お邪魔しちゃって……どうぞ、続けてください」
 そのまま出口へ向かおうとしたユリウスを慌てて呼び止めると、彼は悪戯っぽい笑みを浮かべて、口許に指を立ててみせた。
「ご主人様に、最後に挨拶しておかないといけませんからね。また明日。おやすみなさい」
「ユリウス! ……待ってるからな!」
 ヒラヒラと手を振って去っていったのを見送ると、イリス様は椅子に背中を預けて、長い息を吐いた。
「あの……話、大丈夫だったんですか?」
「――ああ。明日も顔を合わせるだろうし、一気に呑み込める内容でもないからな。それより、よく来てくれた。ここにいるのが奴隷解放の活動の仲間だ。他にも、都内に散ってるのを合わせて、大体300人程度。結構平民の協力者もいる」
「――300人!」
「この6年で、相当数膨らんだんだ。最初は、あの事件の生き残りの奴隷が集まってきた。それから伝手を頼ってきた北方奴隷やら地元の債務奴隷やら……奴隷身分からの解放を目標に掲げてはいるものの、助け合う以外に、なかなか出来る事がなくて、今まで来ている」
 グラスの氷がカランと揺れる。
 薄い茶色の水に溶けて、ゆるやかな紋を描いていく。
「謙遜し過ぎです、イリス様。準備はちゃんと進めてきてるじゃないですか。もう殆ど人数分の武器は揃ったんですよ。あとは、人事院に一泡吹かせて議会に直接訴えるだけじゃないですか」
 セフィシスがあげた高い声が倉庫内によく響いて、談笑していた奴隷達がワッと沸いた。
「――武装って……」
「前の反逆と同じ過ちは犯さない。誰も殺さないし、殺される積りもない。だけど力に対抗するには、最低でも同じくらいの力が必要なんだ。そうでなければ、対話そのものが成立しない……。って、済まないな。いきなりこんな物騒な事に巻き込んで……」
 熱を帯びた瞳がふいと上がって、視線がぶつかる。
 ほとんどポカンと聞いていた隙だらけの顔を、慌てて左右に振って、ごまかした。
「び、びっくりはしましたけど……あの、ありがとうございます。教えて頂いて……。昼間もお忙しいのに、ずっと活動されてたんですね」
 何故かふと笑んだイリス様の顔から、目が離せない。
 聖女様はいつも忙しいし、身長差があって、こんな近くでゆっくり顔を見つめた憶えはあんまり無いような気がする。
「ミラノ。君に、教会を……教会で保護した奴隷達の事を頼みたい。いざ人が集まって事を起こすとしても、全ての奴隷が武器をもって立ち上がれる訳じゃないんだ。役人が武器を持たない奴隷を捕らえに来るような事があるかも知れない。彼らを、守って欲しい」
 ついさっき、部屋に残してきたハーゼの事が一瞬胸裏に蘇る。
 足枷を付けられて、傷跡だらけの細い身体。
 ここに集っている奴隷達は少なくとも元気に見えるけれど、確かに、彼らのような奴隷ばかりじゃない。
 さっきから自分の心臓の音が全身を鳴らしている。
 ぎゅっと胸元を抑えて、湯気をたてる椀の上で、そっと息をした。
「――はい。私に出来る限り、奴隷の皆をお守りします」