◇◇◇星の無い夜の中で◇◇◇

ー/ー




「……私、行かなくちゃ」
 深い黒――星の無い夜空のような闇に、イオエルの姿がぼうっと薄く浮かぶ。
 ふたりの距離が、いつのまにか、遠くなりかけていた。
「待ってください! 俺も…………っ?!」
 ――届かない。ぐっと胴体を掴むような力強い何かに、引き戻される。
「幾億の夜を越えて、ずっとずっと、待ってた。でも結局、一番大切な流れ星に、私は、気付けなくて……ごめんね…………」
「でもこうして、出会えた……!」
 だめだ、だめだ! 絶対に行かせない!!
 全速力で魔法拘束から脱するのと同じ要領で謎の拘束力から抜け出した。
 今度こそ絶対に、離さない……!
 伸ばした自分の腕で、薄く輝く彼女の身体を、強く、強く抱き締める。
「………………っ」
 腕の中でひとまわり小さな身体が、息をのんで、ふるえた。
 『ずっと一緒にいる』、約束。
 その言葉のまま、彼女は純粋に、真っ直ぐに、待っていてくれたんだ。
「生きることを、諦めないでください。たとえ限りある命が終わっても、また新しく出会い、新しい大好きなところをみつけるんです。一緒に、何度でも。――愛しています…………イオエル」



◇◇◇炭鉱の村の占い師◇◇◇

 深い黒――星の無い夜空のような闇。 
 ずうっと、ひとり、その星の無い夜空の中に漂っているような気がする。
 野暮ったく山麓を流れる灰色の雲を窓辺から眺め、セトは小さくため息をついた。
 今夜は綺麗な夜空は見えそうにない。
 炭鉱が人々の暮らしを支えているこの山間の片田舎で《占い師》をはじめて、もう一年くらいか。誰もいない机上で今日最初の絵札を並べていく。仕事始めにどんな客がくるのかを占うのが習慣だ。毎日同じような出方をする絵札が、今日はすこし違う展開をみせた。なんだか辻褄が合わない占い結果に、少し首を傾げる。
「終わりの 旅立ちと 待ち人 ……?」

 『グラディウス大陸』
 世界地図は、この大きな大陸の中に幾つかの国境線をひく。
 北の大国。東に広がるゆるやかな土地の2つの大国。西に河川で分断された3つの国。
 そして大陸の中心には、魔女の土地。
 メルド湖沼地帯と呼ばれる、魔物が出現する湿原が広がっている。
 魔女が魔物を駆使し、恐怖で国々を抑圧することおよそ300年。
 人々は、こう認識している。『この世界は、魔女によって支配されている』 ――と。

 秋が近付く季節。
 今夜は重い雲が村に流れ込んでどんよりとした濃霧に包まれた。この老舗酒場だけが暖かい明かりの中で賑わっている。
「君は、人生の芯になるものを決めた方が良い。表面だけで取り繕ってやり過ごす日々は将来を追い詰めるよ。好きな事、大事にしている事……何かきっかけになりそうなものはあるかい?」
 セトに静かな微笑みを向けられた村の青年は、困惑の色を浮かべた。……この村の人達は、日々生活する目の前の事しか考えていない。片田舎の小さな社会。閉鎖的な環境は、そこに住む人間の思考をも閉鎖的にする。
「……特に無いっす。子供のときから炭坑で働いて、他に何かやった事もねーし。……何かしたほうがいいっすか?」
 でも何を?という顔で真面目にじっとこちらを覗き込んでくる。そんな答えだろうと思った。自分の事なんだから自分で考えてほしいところだが、その手助けをするのが占いの役目だ。
「そうだね。でも大きな事じゃなくて良いと思うよ。仲間を毎日一回は必ず笑わせるとか、彼女のために貯金するとか。身近な所から考えてみる事だね」
 目の前の青年は、真面目にじっと自分の中を見つめたようだ。うん。あとは自分でゆっくり考え込んでもらおう。対価時間の目安に使う砂時計も落ちた。では、と切り上げたその時。突然、バンと爆音がしてその場が吹き飛んだ。
 「っ……?!」
 ドッと背にしていた壁に叩きつけられ、鈍い衝撃が頭に響く。何の爆発事故だ?それともだれか魔法でも失敗したのか?そっと目を開けるが視界がぼやけて周囲の様子がわからない。慌てふためく喧騒だけがきこえる。
 こんな田舎にしてはめずらしい事件が起きたなと思ったところで、誰かが自分に触れているのに気付いた。見えないからどうなっているのか分からない。すぐ傍で震えた声が耳に入ってきた。
「セトさん! だ、大丈夫ですか……?!」
 この声は、さっき目の前に座っていた青年だ。
 硬い靴音が酒場に踏み込んできた。シャッと剣が鞘を離れる音が空気を切る。それでも傍らの青年は逃げる様子がない。盗賊が来たのなら、逃げてあたりまえなのに。
「そこの占い師を渡して貰おう。それですぐに失礼する」
 一方的に命令する固い声に、青年が震えた。圧倒的な威圧感。しかしなぜか誠意も滲んでいる気がする。……盗賊じゃないのか? そもそも自分はただの占い師なのに、どうして突然指名されてるんだろう?
「よ……余所者が、何を、偉そうに」
 傍らの青年が震えたまま声をあげた。
「……こいつ……」
「おいおい、なんだお前、迷惑だぞ!」
 状況をのみこんだ酒場の客達がぞろぞろと割って入ってきてくれる。やはり盗賊ではないのか。
「コラァ! 何処の誰だ?! アタシの店で揉め事起こしてんじゃないよ!」
 女店主の罵声が一瞬で闖入者の威圧感を上回った。
「……一旦退くわよ。無理強いして一般人を巻き込む訳にはいかないわ」
 仲間がいたのか、小さく女の声がした。男は小さく舌打ちして踵を返す。
「誰だか知らないけど出入り禁止だよ! この村からも出ていきな!」

 ……気持ち悪い。ぼんやり人影が見えてはいるけれど、目が回るような感覚もする。
「誰か、治癒魔法を使えるひとは……」
 さっきから傍についてくれている青年は、震えたまま左右に声をかけた。侵入者がいなくなって皆が安堵したところに、この言葉だ。今度は心配する声に満ちた。
「炭坑医に頼むしかないね。魔法とか使える奴がこの中にいないのは、君もよく分かるだろう。とにかく今はうちの休憩室に運びな。ちょっと、誰か呼んできて! ほら、あとは片付けだよ。片付け! あ~あの男、探し出して弁償させてやる!」
 てきぱきとした女店主の言いつけに炭鉱で鍛えられた筋肉質の男達が従う。
 
 セトは青年に支えられて店の奥の休憩室で横になった。目に冷たい布を当てられて、ほっと息をつく。呼ばれてきた医者に簡単な治癒魔法をかけられて、やっと頭と視界がすっきりした。ずっと傍にいた青年の顔がすぐ近くにあって、その目が嬉しそうにぱっと輝く。
 「見えますか? よかった……。目は怪我してないのになんで見えなくなってたんですか?」
 彼がほっとした顔を横に向けると、その先で医者が大きな欠伸をしていた。
「頭打っただろう。まったく昼も夜も怪我ばっかりしやがって。……まぁ、むさくるしい患者じゃないだけまだマシだな」
 ボサボサ頭で胡散臭さを絵にかいたような炭鉱医は、こちらをみてニタリと笑った。……嫌な笑い方だな。
「治癒して頂いてありがとうございます。医療費は幾らお支払いすれば良いでしょうか?」
 目に強い謝意を込め、控えめな声色を作って医者の顔を覗き込んだ。医者はニヤニヤしたまま、片手を振る。
「いやぁ、いい。たいした治療じゃねぇし。今度俺も占ってくれればいいさ。今日は安静にしてしっかり休みな」
 医者は満面の笑顔で手を振って帰っていった。
「すげぇ。あの医者しつこいので有名なんっすよ。こんなにあっさり帰るなんて」
 青年がさわやかな顔をこちらに向けて笑う。セトもそれに小さく笑ってみせた。
「人は逃げようとするものほど追いかけたくなる。受け流せばいいんだよ」
 気付けば店の休憩室に彼と2人で取り残された格好になっていた。
「ところで改めて、ありがとう。君が庇ってくれなかったら、誰かに連れて行かれてるところだったね。僕も、そもそもは余所者なのに。何かお礼をさせてくれるかな」
 彼には下心のような気配はない。自分でも珍しいと思う素直な感謝をむけた。誠意から出た行動には、誠意をもって応えたいと思う。
「お礼なんて――――」
 彼は首を横に振ってから、ふと動きを止めた。そして、真顔で膝を揃える。
「俺、イアン=ライトっていいます」
 なぜか自己紹介がはじまった。これは次の言葉がみえてこない。とりあえず、頷いてみる。
 イアンは少し息を吸って、こちらをまっすぐに見つめてきた。
「貴方を守らせてください」
 イアンのまっすぐな誠意が、胸元をさわやかに貫いた。
 確かに、さっきの占いでは自分の中で大切な何かを決めたほうが良いと言った。絵札の展開を直訳すると、『目的を見失った惰性が人生の発展を邪魔しているからけじめをつけないといけない』というものだったからだ。
 それがまさか、占い師を巻き込むものになるとは。彼自身も絵札と向き合った時には思いもしていなかったに違いない。
 ふ、と心地良い気分がひろがる。
「僕には、襲ってきた人が何なのかわからない。だから何から守って貰う事になるのか、わかってない。それでも、そんな事を決めて、いいのかい?」
「俺が、そうしたいと思ったんです」
 もう、さっきの占いは役目を終えた。この閉鎖的な村で、こんな面白い事になるなんて……。
 また同じような事態になった時、イアンがどう対応するのかが楽しみだ。
「わかったよ。よろしくね、イアン」
 そうポンと肩を叩いて横になると急に眠くなってきた。毎日屋内で過ごしてきたから体力が落ちていたのだろう。
 セトはそのまま、すうっと眠りの中に落ちていった。


 野営の火を囲んだ男女が、難しい顔をつき合わせていた。保存食のパンを炙って齧り、飲み込んで、男が声を溢す。
「村人があんなふうに庇うとは……。奴らにとってただの占い師の筈だろう。それとも何か魔法でもかけてあるのか? 本人に危機が迫ったら自動的に守られるような……」
「そうね……可能性は薄いけど、催眠術みたいなものの応用なら、ありうるかも知れないわ」
「それだ、村全体にかけてあるに違いない。くそ、一般人になりすましてるからといって、甘くみたな。本気でかかるか……」
「ちょっと、村人を巻き込むのは駄目よ」
 男の赤い目が野営の火に光ったのをみて、彼女は相棒を睨みつけた。
「大体催眠術もありうるってだけで、簡単に醒めちゃうものよ。普通に村の人に慕われているとみるべきだわ。例え私達が知らないような凄い催眠術だとしても……だからこそ、慎重にならなきゃ」
「じゃあ、どうすればいいんだ」
 苛立つ声が、火の中に消えていく。あのまま力ずくで占い師を連れ出してくる事も、不可能では無かった筈だ。
 なのに、なぜ自分は……自分たちは、あそこで躊躇ったのだろう?

 最北端の大国、リーオレイス帝国。それが二人の出身地だ。寒地でありながら豊かな資源を効率的に活用し、絶対帝王政のもと厳しい法律と規則によって人民を厳格に育て、治めている。閉鎖的な祖国を出て他国を渡り歩いた二人には、穏やかな気候の国々と比較すると決して良い国だという客観性は持てないが、それでも帝国民としての誇りはある。
 しかも今回の任務は帝王直々の勅命。失敗は許されない。
 任務の内容は、『魔女探し』。『魔女探し』を自称する小集団の旅人は、昔から全国各地に存在している。もとは現状に不満を抱く平民であることが多く、魔物狩りをしながら、最終的には魔物の脅威で世界を支配している『魔女』を倒すことを最終目標にしている。ただし、そんな自由行動の集団には安定した資金源が無い。世界中を歩き回りながら魔物を退治した報奨金を糧にしており、それで生計を立てて満足してしまう人間も少なくない。そういう現実が300年ほど続いている。
 300年ともなれば、魔女の存在そのものを疑うべきだ。しかし自分達も実際に調査した結果、"魔女の存在が各国を脅威支配している"のは、事実としてある。魔女という存在が継承されているものなのか、不老不死でも手に入れたのかは分からない。そして魔物の温床であるメルド湖沼地帯は人が住めるような環境では無い。それは300年の間に命を賭して探索した先人の魔女探し達の結論だ。だから、魔女を倒したいのなら、まずは探し出す必要がある。
 リーオレイス帝国は、厳格な国だ。国民性も合理性の塊のような人間が多い。そういう国が任務として2人に魔女探しをさせているのは、理論の上ではこの2人がこの任務を遂行出来ると期待しているからだ。2人の任務は、まず情報を集めて纏めるという地味な作業から始まった。近年魔女に関わったと思われる場所を歩き情報を拾い、足跡を辿っていく。
 魔女がいる、という情報は多い。だがその実態はすべて虚構でしかなかった。外見に共通点はなく年齢層も定まらない。よく話を聞いてみれば、地域の悪者にされている一般人か魔法使い。つまりそういう情報は大抵、ただの嫌われ者だ。
 人間への聞き込みが無駄だと悟った2人は、大きく見方を変えて『魔物』に聞いて廻った。リーオレイスの人間としての意地が、諦め以外の選択肢を創り出したといって良いだろう。
 人語を喋るような魔物は、強烈に手強い。実際、旅程で得た人員は途中でほとんど戦死している。
 それで魔物に喋らせることができた内容は、人為を介さない、有力な情報だった。その情報を重ねた結果の上に、この炭鉱の村の、あの占い師がいる。
 『本当に隠したいものは、普通、ありえない、と思うような所にあるものだ』
 そう呟いた吸血鬼の暗い色の目が、胸裏に浮かぶ。
 ありえない所に、ありえない在り方をして、世界の一部に確実に存在するもの。

「あの占い師で間違い無い筈だ。必ず確保する。……あいつらを無駄死ににはさせない」
 これまで様々な手強い魔物を相手に戦ってきた。だが、人間相手は苦手だ。本当は身分を明かして説得するのが一番良いだろうが、意気込んで押し入ってしまったせいで、まずはそれを取り繕う必要がある。それは帝国人として好ましいものではないし、そんな事をしている間に逃げられてしまっては仕方ない。
「それにしても、可愛い顔をしていたわね。男なのに、女の子みたいな感じもしたし」
 相棒は小さく呟いてから、もうひとつ、声をおとした。
「それはそうよね……魔女なんだもの」
 そうだ。どんな容姿でも関係ない。仲間の命と引き換えにした情報の結果。あの占い師こそが、世界を統べる魔女だ。
「奇襲する」
「……それは……」
 眉をひそめた相棒に、男は真顔をむけた。
「まさか今日の今日ではもう来ないだろうと思っているだろう。不意を衝いた方が、余計な一般人を巻き込むこともない」


 セトはふと夜中に目を醒ました。
 いつのまにか休憩室から2階の借部屋に運ばれたようだ。男ひとりを2階に抱えて運ぶとは……と思ったが、この村の人間は全員筋肉質だ。運動不足の自分を抱えるのなんて簡単だろう。
 それにしても、抱えられても起きないほど深く眠り込んでしまっていたらしい。
 天窓の外は真っ暗だ。今日は霧が濃いせいか、星のひとつも見えない。
「僕は……どうして狙われているのかな」
 呟いた独り言に、寝台の傍で誰かが目を醒まして身じろぐ気配がした。
 どうやらイアンが寝台にもたれて一緒に眠ってしまっていたようだ。それにしても、こんな所で眠らなくても良いだろうに。
「目が見えてなくて何だか分からなかったんだけど、盗賊じゃないんだよね」
 そっと話しかけて、寝ぼけ眼のイアンを起こす。イアンはぼうっと目を擦りながら頷いた。
「ええと……盗賊にしては、金回りが良さそうな感じで、真面目そうでした」
「真面目そう、か……」
 改めて自分が狙われている原因を考えてみたものの、まったく心当たりがない。以前滞在していた都市での占い客の逆恨みだろうか? しかしそんな占い内容の客はいなかった筈だ。一介の占い師が客の人生に直接関わる事はないし、占いが絶対ではない事も言い添えてある。
 そう考えると、今はとても特別な状態だ。イアンは初めてセトの「占い師」ではない所に入ってきた人間だ。
 そんなふうに思いめぐらしていると、彼が不自然にそわそわしているのに気付いた。
「どうかした?」
「いえ……なんだか昼間の奴らに狙われている感じがして……。こんな時間帯ですが、どこかに移動しませんか?」
 なるほど。さっきから外で人が動いている気配がするのは、店主や客ばかりとは限らないか。
 ゆっくり身体を起して、不安な顔のイアンに内心苦笑した。守って貰うのは良いけれど、かなり頼りない。
「じゃあ、店主を呼んで来て貰えるかい?ここに迷惑をかけた訳だし、黙って消えるのも良くないしね。宜しくね」
 背中を押して、戸惑うイアンを部屋から押し出す。静かに扉を閉めて、さて、と息を吸った。
「――――治療費の支払いに来てくれたのかな」
 しん、と空気が停止した。
「治療費の支払いなら受け付けるよ。お店の修理費もしっかり弁償してもらうからね」
 天窓から、バラリと縄がおろされた。ひやりとする。いつのまに開けられていたのだろう。イアンを部屋の外に逃がしておいて良かった。
「……こいつで縛るかわりに、大人しく俺達に同行して貰う。お前が何もしなければ、国に帰るまでは殺しはしない」
「そう……それで、君達の国に着いたら、僕はどう扱われるんだい? 楽しい旅のお誘いにしては、ちょっと酷いんじゃない?」
「お前をどうするかは、帝国が決める事だ。俺達は連れて行くだけ。それまでは身の安全は保障する」
 帝国。世界地図上でその名称を冠するのは、北方の大国、リーオレイス帝国だ。
 こんなに平凡に生きてきたのに、行ったこともない国に突然連行される意味がわからない。
「よく分からないんだけど、人違いじゃない?」
「いや、占い師セト=リンクス。お前で間違いはない」
 ふと、今日最初にひろげた絵札が脳裏に浮かんでくる。
 平凡な日々。人と関わりながら、人と交わることのない、占い師としての日々。
 精神力と時間だけを消費する、割の良い仕事だ。だけど正直、飽きてきたかもしれない。
「……治療費と修繕費、あと迷惑代。きちんと支払ってくれるなら、つきあうよ」
「帝国人の名誉にかけて、弁済する」
 窓から落ちてきた縄を掴むと、ぐん、と窓の外に一気に引き上げられた。


 床にバラバラと何かが落下する。イアンが急いで扉を開けてみつけたのは、盛大にちらばった小銭――ルデスと、中途半端に投げ出されたままの荷物。そして無人の室内だった。
「セトさん?!」
「あそこだよ、天窓!」
 ルデスを投げ込んだらしい手が丁寧に天窓を閉めて、走り去る足音が屋根に響く。
 追いかけなければ――と思いながらも、イアンは、呆然と立ち竦んでしまった。
「なんてこと……連れて行かれちゃったの」
 店主がイアンを押し退けて、部屋の中に残されたセトの荷物を手に取った。その拍子に占いの絵札がこぼれ落ちる。
「俺……」
 呆然としながら絵札を拾い始めると、隣で店主が散乱したルデスを拾い始めた。集めれば結構な金額になりそうだった。
「守らせて下さいって言ったのに……」
 呟きが自分の中に重く落ちていく。なんとなく言葉が見付からないまま、黙って絵札を拾い続ける。
 突然、店主がルデスをイアンに投げつけた。
「おい! しっかりしろ、この若造!!」
 いきなりの店主の強烈な形相に、滅茶苦茶びっくりする。
「ウジウジ言い訳する脳があるなら、取り戻す方法を考えれば?! ぼーっとしてないで動きなさい。どうすればいいのかなんて、動けば見えてくるものなのよ。脳味噌で考えるだけで、しかも解決しないでぶつぶつ言ってるだけなんて、最っ低だわ!!」
 ものすごく、その通りだ。
 ただ絵札を掴んで座り込んでいても仕方ない。熱くなった目を擦って、手にした絵札を急いでセトの荷物に詰め込んだ。
 ぎゅっと袋の口を結んで背負う。
「俺、追いかけます。どこまで出来るか、分かんねーけど……行ってきます」
 店主は満足したようにニッと笑うと、片手のルデスをイアンの外套に突っ込んだ。
「遅い。早く行く!」
 小気味良い命令に背中を押されて、大きく、踏み出した。

 勝手口から外へ飛び出す。足音は街道と逆の西側へ向かった筈だ。だけど、唐突に不安に襲われた。霧の中に包まれたこの村は、自分達の動揺とは関係無く、いつも通りの眠りの中にある。本来なら、自分もこの眠りの中にいた筈だった。
 けれど。毎日同じように働いて飯食って飲んで寝て。それはそんなに大切な事だろうか。そんな小さな事の為に、立ち竦んだ自分が、嫌になる。
 あらためて息を吸って、霧の中へ、駆け出した。




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 深い黒――星の無い夜空のような闇に、イオエルの姿がぼうっと薄く浮かぶ。
 ふたりの距離が、いつのまにか、遠くなりかけていた。
「待ってください! 俺も…………っ?!」
 ――届かない。ぐっと胴体を掴むような力強い何かに、引き戻される。
「幾億の夜を越えて、ずっとずっと、待ってた。でも結局、一番大切な流れ星に、私は、気付けなくて……ごめんね…………」
「でもこうして、出会えた……!」
 だめだ、だめだ! 絶対に行かせない!!
 全速力で魔法拘束から脱するのと同じ要領で謎の拘束力から抜け出した。
 今度こそ絶対に、離さない……!
 伸ばした自分の腕で、薄く輝く彼女の身体を、強く、強く抱き締める。
「………………っ」
 腕の中でひとまわり小さな身体が、息をのんで、ふるえた。
 『ずっと一緒にいる』、約束。
 その言葉のまま、彼女は純粋に、真っ直ぐに、待っていてくれたんだ。
「生きることを、諦めないでください。たとえ限りある命が終わっても、また新しく出会い、新しい大好きなところをみつけるんです。一緒に、何度でも。――愛しています…………イオエル」
◇◇◇炭鉱の村の占い師◇◇◇
 深い黒――星の無い夜空のような闇。 
 ずうっと、ひとり、その星の無い夜空の中に漂っているような気がする。
 野暮ったく山麓を流れる灰色の雲を窓辺から眺め、セトは小さくため息をついた。
 今夜は綺麗な夜空は見えそうにない。
 炭鉱が人々の暮らしを支えているこの山間の片田舎で《占い師》をはじめて、もう一年くらいか。誰もいない机上で今日最初の絵札を並べていく。仕事始めにどんな客がくるのかを占うのが習慣だ。毎日同じような出方をする絵札が、今日はすこし違う展開をみせた。なんだか辻褄が合わない占い結果に、少し首を傾げる。
「終わりの 旅立ちと 待ち人 ……?」
 『グラディウス大陸』
 世界地図は、この大きな大陸の中に幾つかの国境線をひく。
 北の大国。東に広がるゆるやかな土地の2つの大国。西に河川で分断された3つの国。
 そして大陸の中心には、魔女の土地。
 メルド湖沼地帯と呼ばれる、魔物が出現する湿原が広がっている。
 魔女が魔物を駆使し、恐怖で国々を抑圧することおよそ300年。
 人々は、こう認識している。『この世界は、魔女によって支配されている』 ――と。
 秋が近付く季節。
 今夜は重い雲が村に流れ込んでどんよりとした濃霧に包まれた。この老舗酒場だけが暖かい明かりの中で賑わっている。
「君は、人生の芯になるものを決めた方が良い。表面だけで取り繕ってやり過ごす日々は将来を追い詰めるよ。好きな事、大事にしている事……何かきっかけになりそうなものはあるかい?」
 セトに静かな微笑みを向けられた村の青年は、困惑の色を浮かべた。……この村の人達は、日々生活する目の前の事しか考えていない。片田舎の小さな社会。閉鎖的な環境は、そこに住む人間の思考をも閉鎖的にする。
「……特に無いっす。子供のときから炭坑で働いて、他に何かやった事もねーし。……何かしたほうがいいっすか?」
 でも何を?という顔で真面目にじっとこちらを覗き込んでくる。そんな答えだろうと思った。自分の事なんだから自分で考えてほしいところだが、その手助けをするのが占いの役目だ。
「そうだね。でも大きな事じゃなくて良いと思うよ。仲間を毎日一回は必ず笑わせるとか、彼女のために貯金するとか。身近な所から考えてみる事だね」
 目の前の青年は、真面目にじっと自分の中を見つめたようだ。うん。あとは自分でゆっくり考え込んでもらおう。対価時間の目安に使う砂時計も落ちた。では、と切り上げたその時。突然、バンと爆音がしてその場が吹き飛んだ。
 「っ……?!」
 ドッと背にしていた壁に叩きつけられ、鈍い衝撃が頭に響く。何の爆発事故だ?それともだれか魔法でも失敗したのか?そっと目を開けるが視界がぼやけて周囲の様子がわからない。慌てふためく喧騒だけがきこえる。
 こんな田舎にしてはめずらしい事件が起きたなと思ったところで、誰かが自分に触れているのに気付いた。見えないからどうなっているのか分からない。すぐ傍で震えた声が耳に入ってきた。
「セトさん! だ、大丈夫ですか……?!」
 この声は、さっき目の前に座っていた青年だ。
 硬い靴音が酒場に踏み込んできた。シャッと剣が鞘を離れる音が空気を切る。それでも傍らの青年は逃げる様子がない。盗賊が来たのなら、逃げてあたりまえなのに。
「そこの占い師を渡して貰おう。それですぐに失礼する」
 一方的に命令する固い声に、青年が震えた。圧倒的な威圧感。しかしなぜか誠意も滲んでいる気がする。……盗賊じゃないのか? そもそも自分はただの占い師なのに、どうして突然指名されてるんだろう?
「よ……余所者が、何を、偉そうに」
 傍らの青年が震えたまま声をあげた。
「……こいつ……」
「おいおい、なんだお前、迷惑だぞ!」
 状況をのみこんだ酒場の客達がぞろぞろと割って入ってきてくれる。やはり盗賊ではないのか。
「コラァ! 何処の誰だ?! アタシの店で揉め事起こしてんじゃないよ!」
 女店主の罵声が一瞬で闖入者の威圧感を上回った。
「……一旦退くわよ。無理強いして一般人を巻き込む訳にはいかないわ」
 仲間がいたのか、小さく女の声がした。男は小さく舌打ちして踵を返す。
「誰だか知らないけど出入り禁止だよ! この村からも出ていきな!」
 ……気持ち悪い。ぼんやり人影が見えてはいるけれど、目が回るような感覚もする。
「誰か、治癒魔法を使えるひとは……」
 さっきから傍についてくれている青年は、震えたまま左右に声をかけた。侵入者がいなくなって皆が安堵したところに、この言葉だ。今度は心配する声に満ちた。
「炭坑医に頼むしかないね。魔法とか使える奴がこの中にいないのは、君もよく分かるだろう。とにかく今はうちの休憩室に運びな。ちょっと、誰か呼んできて! ほら、あとは片付けだよ。片付け! あ~あの男、探し出して弁償させてやる!」
 てきぱきとした女店主の言いつけに炭鉱で鍛えられた筋肉質の男達が従う。
 セトは青年に支えられて店の奥の休憩室で横になった。目に冷たい布を当てられて、ほっと息をつく。呼ばれてきた医者に簡単な治癒魔法をかけられて、やっと頭と視界がすっきりした。ずっと傍にいた青年の顔がすぐ近くにあって、その目が嬉しそうにぱっと輝く。
 「見えますか? よかった……。目は怪我してないのになんで見えなくなってたんですか?」
 彼がほっとした顔を横に向けると、その先で医者が大きな欠伸をしていた。
「頭打っただろう。まったく昼も夜も怪我ばっかりしやがって。……まぁ、むさくるしい患者じゃないだけまだマシだな」
 ボサボサ頭で胡散臭さを絵にかいたような炭鉱医は、こちらをみてニタリと笑った。……嫌な笑い方だな。
「治癒して頂いてありがとうございます。医療費は幾らお支払いすれば良いでしょうか?」
 目に強い謝意を込め、控えめな声色を作って医者の顔を覗き込んだ。医者はニヤニヤしたまま、片手を振る。
「いやぁ、いい。たいした治療じゃねぇし。今度俺も占ってくれればいいさ。今日は安静にしてしっかり休みな」
 医者は満面の笑顔で手を振って帰っていった。
「すげぇ。あの医者しつこいので有名なんっすよ。こんなにあっさり帰るなんて」
 青年がさわやかな顔をこちらに向けて笑う。セトもそれに小さく笑ってみせた。
「人は逃げようとするものほど追いかけたくなる。受け流せばいいんだよ」
 気付けば店の休憩室に彼と2人で取り残された格好になっていた。
「ところで改めて、ありがとう。君が庇ってくれなかったら、誰かに連れて行かれてるところだったね。僕も、そもそもは余所者なのに。何かお礼をさせてくれるかな」
 彼には下心のような気配はない。自分でも珍しいと思う素直な感謝をむけた。誠意から出た行動には、誠意をもって応えたいと思う。
「お礼なんて――――」
 彼は首を横に振ってから、ふと動きを止めた。そして、真顔で膝を揃える。
「俺、イアン=ライトっていいます」
 なぜか自己紹介がはじまった。これは次の言葉がみえてこない。とりあえず、頷いてみる。
 イアンは少し息を吸って、こちらをまっすぐに見つめてきた。
「貴方を守らせてください」
 イアンのまっすぐな誠意が、胸元をさわやかに貫いた。
 確かに、さっきの占いでは自分の中で大切な何かを決めたほうが良いと言った。絵札の展開を直訳すると、『目的を見失った惰性が人生の発展を邪魔しているからけじめをつけないといけない』というものだったからだ。
 それがまさか、占い師を巻き込むものになるとは。彼自身も絵札と向き合った時には思いもしていなかったに違いない。
 ふ、と心地良い気分がひろがる。
「僕には、襲ってきた人が何なのかわからない。だから何から守って貰う事になるのか、わかってない。それでも、そんな事を決めて、いいのかい?」
「俺が、そうしたいと思ったんです」
 もう、さっきの占いは役目を終えた。この閉鎖的な村で、こんな面白い事になるなんて……。
 また同じような事態になった時、イアンがどう対応するのかが楽しみだ。
「わかったよ。よろしくね、イアン」
 そうポンと肩を叩いて横になると急に眠くなってきた。毎日屋内で過ごしてきたから体力が落ちていたのだろう。
 セトはそのまま、すうっと眠りの中に落ちていった。
 野営の火を囲んだ男女が、難しい顔をつき合わせていた。保存食のパンを炙って齧り、飲み込んで、男が声を溢す。
「村人があんなふうに庇うとは……。奴らにとってただの占い師の筈だろう。それとも何か魔法でもかけてあるのか? 本人に危機が迫ったら自動的に守られるような……」
「そうね……可能性は薄いけど、催眠術みたいなものの応用なら、ありうるかも知れないわ」
「それだ、村全体にかけてあるに違いない。くそ、一般人になりすましてるからといって、甘くみたな。本気でかかるか……」
「ちょっと、村人を巻き込むのは駄目よ」
 男の赤い目が野営の火に光ったのをみて、彼女は相棒を睨みつけた。
「大体催眠術もありうるってだけで、簡単に醒めちゃうものよ。普通に村の人に慕われているとみるべきだわ。例え私達が知らないような凄い催眠術だとしても……だからこそ、慎重にならなきゃ」
「じゃあ、どうすればいいんだ」
 苛立つ声が、火の中に消えていく。あのまま力ずくで占い師を連れ出してくる事も、不可能では無かった筈だ。
 なのに、なぜ自分は……自分たちは、あそこで躊躇ったのだろう?
 最北端の大国、リーオレイス帝国。それが二人の出身地だ。寒地でありながら豊かな資源を効率的に活用し、絶対帝王政のもと厳しい法律と規則によって人民を厳格に育て、治めている。閉鎖的な祖国を出て他国を渡り歩いた二人には、穏やかな気候の国々と比較すると決して良い国だという客観性は持てないが、それでも帝国民としての誇りはある。
 しかも今回の任務は帝王直々の勅命。失敗は許されない。
 任務の内容は、『魔女探し』。『魔女探し』を自称する小集団の旅人は、昔から全国各地に存在している。もとは現状に不満を抱く平民であることが多く、魔物狩りをしながら、最終的には魔物の脅威で世界を支配している『魔女』を倒すことを最終目標にしている。ただし、そんな自由行動の集団には安定した資金源が無い。世界中を歩き回りながら魔物を退治した報奨金を糧にしており、それで生計を立てて満足してしまう人間も少なくない。そういう現実が300年ほど続いている。
 300年ともなれば、魔女の存在そのものを疑うべきだ。しかし自分達も実際に調査した結果、"魔女の存在が各国を脅威支配している"のは、事実としてある。魔女という存在が継承されているものなのか、不老不死でも手に入れたのかは分からない。そして魔物の温床であるメルド湖沼地帯は人が住めるような環境では無い。それは300年の間に命を賭して探索した先人の魔女探し達の結論だ。だから、魔女を倒したいのなら、まずは探し出す必要がある。
 リーオレイス帝国は、厳格な国だ。国民性も合理性の塊のような人間が多い。そういう国が任務として2人に魔女探しをさせているのは、理論の上ではこの2人がこの任務を遂行出来ると期待しているからだ。2人の任務は、まず情報を集めて纏めるという地味な作業から始まった。近年魔女に関わったと思われる場所を歩き情報を拾い、足跡を辿っていく。
 魔女がいる、という情報は多い。だがその実態はすべて虚構でしかなかった。外見に共通点はなく年齢層も定まらない。よく話を聞いてみれば、地域の悪者にされている一般人か魔法使い。つまりそういう情報は大抵、ただの嫌われ者だ。
 人間への聞き込みが無駄だと悟った2人は、大きく見方を変えて『魔物』に聞いて廻った。リーオレイスの人間としての意地が、諦め以外の選択肢を創り出したといって良いだろう。
 人語を喋るような魔物は、強烈に手強い。実際、旅程で得た人員は途中でほとんど戦死している。
 それで魔物に喋らせることができた内容は、人為を介さない、有力な情報だった。その情報を重ねた結果の上に、この炭鉱の村の、あの占い師がいる。
 『本当に隠したいものは、普通、ありえない、と思うような所にあるものだ』
 そう呟いた吸血鬼の暗い色の目が、胸裏に浮かぶ。
 ありえない所に、ありえない在り方をして、世界の一部に確実に存在するもの。
「あの占い師で間違い無い筈だ。必ず確保する。……あいつらを無駄死ににはさせない」
 これまで様々な手強い魔物を相手に戦ってきた。だが、人間相手は苦手だ。本当は身分を明かして説得するのが一番良いだろうが、意気込んで押し入ってしまったせいで、まずはそれを取り繕う必要がある。それは帝国人として好ましいものではないし、そんな事をしている間に逃げられてしまっては仕方ない。
「それにしても、可愛い顔をしていたわね。男なのに、女の子みたいな感じもしたし」
 相棒は小さく呟いてから、もうひとつ、声をおとした。
「それはそうよね……魔女なんだもの」
 そうだ。どんな容姿でも関係ない。仲間の命と引き換えにした情報の結果。あの占い師こそが、世界を統べる魔女だ。
「奇襲する」
「……それは……」
 眉をひそめた相棒に、男は真顔をむけた。
「まさか今日の今日ではもう来ないだろうと思っているだろう。不意を衝いた方が、余計な一般人を巻き込むこともない」
 セトはふと夜中に目を醒ました。
 いつのまにか休憩室から2階の借部屋に運ばれたようだ。男ひとりを2階に抱えて運ぶとは……と思ったが、この村の人間は全員筋肉質だ。運動不足の自分を抱えるのなんて簡単だろう。
 それにしても、抱えられても起きないほど深く眠り込んでしまっていたらしい。
 天窓の外は真っ暗だ。今日は霧が濃いせいか、星のひとつも見えない。
「僕は……どうして狙われているのかな」
 呟いた独り言に、寝台の傍で誰かが目を醒まして身じろぐ気配がした。
 どうやらイアンが寝台にもたれて一緒に眠ってしまっていたようだ。それにしても、こんな所で眠らなくても良いだろうに。
「目が見えてなくて何だか分からなかったんだけど、盗賊じゃないんだよね」
 そっと話しかけて、寝ぼけ眼のイアンを起こす。イアンはぼうっと目を擦りながら頷いた。
「ええと……盗賊にしては、金回りが良さそうな感じで、真面目そうでした」
「真面目そう、か……」
 改めて自分が狙われている原因を考えてみたものの、まったく心当たりがない。以前滞在していた都市での占い客の逆恨みだろうか? しかしそんな占い内容の客はいなかった筈だ。一介の占い師が客の人生に直接関わる事はないし、占いが絶対ではない事も言い添えてある。
 そう考えると、今はとても特別な状態だ。イアンは初めてセトの「占い師」ではない所に入ってきた人間だ。
 そんなふうに思いめぐらしていると、彼が不自然にそわそわしているのに気付いた。
「どうかした?」
「いえ……なんだか昼間の奴らに狙われている感じがして……。こんな時間帯ですが、どこかに移動しませんか?」
 なるほど。さっきから外で人が動いている気配がするのは、店主や客ばかりとは限らないか。
 ゆっくり身体を起して、不安な顔のイアンに内心苦笑した。守って貰うのは良いけれど、かなり頼りない。
「じゃあ、店主を呼んで来て貰えるかい?ここに迷惑をかけた訳だし、黙って消えるのも良くないしね。宜しくね」
 背中を押して、戸惑うイアンを部屋から押し出す。静かに扉を閉めて、さて、と息を吸った。
「――――治療費の支払いに来てくれたのかな」
 しん、と空気が停止した。
「治療費の支払いなら受け付けるよ。お店の修理費もしっかり弁償してもらうからね」
 天窓から、バラリと縄がおろされた。ひやりとする。いつのまに開けられていたのだろう。イアンを部屋の外に逃がしておいて良かった。
「……こいつで縛るかわりに、大人しく俺達に同行して貰う。お前が何もしなければ、国に帰るまでは殺しはしない」
「そう……それで、君達の国に着いたら、僕はどう扱われるんだい? 楽しい旅のお誘いにしては、ちょっと酷いんじゃない?」
「お前をどうするかは、帝国が決める事だ。俺達は連れて行くだけ。それまでは身の安全は保障する」
 帝国。世界地図上でその名称を冠するのは、北方の大国、リーオレイス帝国だ。
 こんなに平凡に生きてきたのに、行ったこともない国に突然連行される意味がわからない。
「よく分からないんだけど、人違いじゃない?」
「いや、占い師セト=リンクス。お前で間違いはない」
 ふと、今日最初にひろげた絵札が脳裏に浮かんでくる。
 平凡な日々。人と関わりながら、人と交わることのない、占い師としての日々。
 精神力と時間だけを消費する、割の良い仕事だ。だけど正直、飽きてきたかもしれない。
「……治療費と修繕費、あと迷惑代。きちんと支払ってくれるなら、つきあうよ」
「帝国人の名誉にかけて、弁済する」
 窓から落ちてきた縄を掴むと、ぐん、と窓の外に一気に引き上げられた。
 床にバラバラと何かが落下する。イアンが急いで扉を開けてみつけたのは、盛大にちらばった小銭――ルデスと、中途半端に投げ出されたままの荷物。そして無人の室内だった。
「セトさん?!」
「あそこだよ、天窓!」
 ルデスを投げ込んだらしい手が丁寧に天窓を閉めて、走り去る足音が屋根に響く。
 追いかけなければ――と思いながらも、イアンは、呆然と立ち竦んでしまった。
「なんてこと……連れて行かれちゃったの」
 店主がイアンを押し退けて、部屋の中に残されたセトの荷物を手に取った。その拍子に占いの絵札がこぼれ落ちる。
「俺……」
 呆然としながら絵札を拾い始めると、隣で店主が散乱したルデスを拾い始めた。集めれば結構な金額になりそうだった。
「守らせて下さいって言ったのに……」
 呟きが自分の中に重く落ちていく。なんとなく言葉が見付からないまま、黙って絵札を拾い続ける。
 突然、店主がルデスをイアンに投げつけた。
「おい! しっかりしろ、この若造!!」
 いきなりの店主の強烈な形相に、滅茶苦茶びっくりする。
「ウジウジ言い訳する脳があるなら、取り戻す方法を考えれば?! ぼーっとしてないで動きなさい。どうすればいいのかなんて、動けば見えてくるものなのよ。脳味噌で考えるだけで、しかも解決しないでぶつぶつ言ってるだけなんて、最っ低だわ!!」
 ものすごく、その通りだ。
 ただ絵札を掴んで座り込んでいても仕方ない。熱くなった目を擦って、手にした絵札を急いでセトの荷物に詰め込んだ。
 ぎゅっと袋の口を結んで背負う。
「俺、追いかけます。どこまで出来るか、分かんねーけど……行ってきます」
 店主は満足したようにニッと笑うと、片手のルデスをイアンの外套に突っ込んだ。
「遅い。早く行く!」
 小気味良い命令に背中を押されて、大きく、踏み出した。
 勝手口から外へ飛び出す。足音は街道と逆の西側へ向かった筈だ。だけど、唐突に不安に襲われた。霧の中に包まれたこの村は、自分達の動揺とは関係無く、いつも通りの眠りの中にある。本来なら、自分もこの眠りの中にいた筈だった。
 けれど。毎日同じように働いて飯食って飲んで寝て。それはそんなに大切な事だろうか。そんな小さな事の為に、立ち竦んだ自分が、嫌になる。
 あらためて息を吸って、霧の中へ、駆け出した。